京都要法寺
[大石寺は日目上人の寺であること]
「石要関係」を云えば、相変わらず創賊の〝痴論〟が未だに跋扈していることに驚きを禁じ得ないのである。この問題は已に解決済みであり、創賊の痴難は破綻しておるのである。
つまり「要法寺→造仏→一経読誦=謗法」であり、従って要山僧が石山の貫主に晋山したのは「謗法から法主を迎えた=石山謗法」と云う図式を短絡的に結論づけているに過ぎない。
では、下山御消息の対告衆である稲葉房日永のような念仏系の僧侶が正宗僧となったら謗法が正宗僧となった、と云うものはおるまい、では要法寺の出家・所化が大石寺の法門に入ることがどうして〝石山の謗法〟となるのか。正気の沙汰ではあるまい。(苦笑)、
さて、石山の信徒であれば、大石寺が〝日目上人の寺〟であることは誰でも知っていることである。猊座の意義は、総じて云えば〝目師座〟ともいい、広布の暁に於ける法主上人は目師の再来であると伝えられているのはまったく「日興跡条々事」による。
[要法寺の基である上行院・住本寺は目師の弟子〝日尊〟の開基であること]
目師天奏の途上遷化にまつわり、日目上人の弟子であった日尊師は目師の命のまま天奏を遂げ、日郷師は目師の遺骨を奉じて大石寺に戻った、日郷師も日目上人の弟子である。
天奏に半分成功した尊師は天朝より一地を給わり「上行院」を開き、後に弟子の日大が上行院を継承した。日尊師は更に京の四条に地を求めて「住本寺」を開き、こちらは会津日成寺から登った日印が継ぐ。
日大師はよく富士の古風を守っていたが、会津から来た日尹師のほうはどうも天台系の思考が強かったものか後に造仏・読誦の方向へ流れていった。著名な日辰上人はまさにこの住本寺の住持である。
「天文法華の乱(天文法乱・天文法難)」は豊臣秀吉の時代に起きた事件で、戦国時代の策士として知られる六角氏が、一向宗はじめ念仏系の武力集団に手を焼き、当時京都市民の半数を占めるに至っていた〝日蓮宗〟を使って念仏軍に対応させた。
当時の京都における〝日蓮連合軍〟は念仏軍を蹴散らし京都を制覇する、やりすぎて今度は同じ六角の策謀により近隣諸国の軍勢と戦闘となり、京都を引いて堺まで退去することとなり、日蓮軍は和睦を申し入れて京都還住を申し入れ、最後は許されて京に戻った。
このとき上行院と住本寺を合併して一寺と為したのが「要法寺」である。当時の住本寺の住持は日辰上人であるが、まさか日辰が弓矢や刀剣、槍を振り回したとは思えないが、上行院を取り込むにあたって相当苦労をしたようで、歴代の法系譜には上行院と住本寺の住持を交互に勧請しているのである。
此の後も富士の古風を慕う上行院系の流れと造仏・読誦にに親しむ住本寺系の流れが混在したのであり、上行院系の思考が強い勢力が要法寺の主流となったとき惹起したのが「寛政法厄(寛政法難)」である。(後述)
[新興の幕都に進出した要法寺僧侶のこと]
さて、時代は下り徳川政権となると、各宗派が新興都市の江戸に布教・開教を目指して進出するが、要山が拠点としたのは芝の上行院であり、これは西山本門寺の末寺である。
要法寺の日辰上人が北山本門寺で宗祖の真書を拝して写本とした二箇相承を、西山本門寺の房主が「末法の宝是に過ぎん」と感激をあらたにすると、これを見た日辰が西山本門寺に進呈して現在に至って由比貫主が肌身離さない重宝となっている。
要山は西山とは良好な関係にあったので以後芝の上行院が要山僧も拠点としていることは家中抄にしばしば(芝芝・・なんちゃって)出てくる。
寛永年間に入ると要山出身の出家や所化は大石寺の常在寺や常泉寺などにも学遊していることは日俊上人が常在寺の住持に進んでいることからも判る史実である。とくに要山の上行院系の思考を持つ学侶たちには大石寺の仏法は本法に触れる思いが強かったのであろう。
[大石寺の化義抄に所化の修学は他門・他派の勤行をすることは構わないこと]
面倒なのでいちいち文証は引かないが、有師の化義抄の五十五条には修学の仁は他門・他派の勤行を致し他門・他派の袈裟を着することはかまわない旨が指南されている。
要山出身で石山に晋山した九名の出家のうち正式な僧侶は二人であとは所化のうちに檀林などで学んでいるうちに石山に帰依した方々である。これが石山の山法に照らしてなんら違法なものではないことは理の当然である。
また正式な三衣の免許を受けた要山の出家が石山に帰依して石山僧となることが何故に謗法にあたるのか、創賊の痴難はこのように狂乱論理であることが理解出来るはずである。(笑)、
[簡略であるがまとめてみると]
以上、要法寺の前身(上行院・住本寺)は日目上人の弟子である日尊師が開基した寺院であり、日目上人の寺である大石寺を本寺と仰ぐ傾向が強く、日尊師は大石寺に晋山した日道上人のもとへ登られている。
黒川さんが引用した家中抄の日就上人の段に「師弟合して本末相承を継ぐ」は、まさに就師が本寺の大石寺を相承し、就師の師範である日チョウ(貝+周)が要法寺を継いだことによるものである。まさに上行院系の思考では大石寺は本寺で要山は末寺という意識であったのである。
本寺と末寺の関係は徳川幕政下に於ける宗教政策により「本末制度」が確定してから意味は大きく変わってしまった。つまり、いずこの寺院でも本山と末寺の関係が幕府に登録され、〝触れ頭制度〟とともに制度化してからは大石寺も一本寺で要法寺も一本寺であるから〝同格の本山〟ということになる。
つまり、幕政の制度上では大石寺と要法寺は本末の関係ではなく、法脈のうえからは本末ではあるということである。
黒川さんはこの点を明確にすべきであり一筆足りなかったというべきであるかもしれないが、黒川さんは明確に家中抄を引用しているので間違いではない。
要法寺では後に上行院系が主流となり寛政法厄(寛政法難)を引き起こしている。
名古屋の要山末寺が造仏を撤廃したため日蓮宗から「新義異流」として訴えられ、要法寺側では新義ではなく富士の立義であると主張して大石寺を証人申請したが、大石寺では「富士の立義法式は要法寺とは無関係」と答申したため要法寺では京都の十五本山連盟の旧約に従って仏像を安置するはめとなってしまった。
要法寺の日誠師は富士の古風を訴えて屈せずついには富士の仏法に殉じ牢死する。また誠師のあとをついだ二人の要山僧が江戸に出て訴訟を引き継ぎ大石寺に応援を求めたが時の日厳上人はどこまで頑張れるか様子を見たが、要法寺側では積極的に大石寺の末寺とすすむ意思がみられなかったため時の日厳上人は京都日蓮宗十五本山の争いに巻き込まれることを忌避したものであろう。
なおこの事件の顛末については、松本和道居士の「富士門徒の沿革と教義」に詳細されている。
この事件は長く要法寺が大石寺を恨む結果を招いてしまったが、要法寺は住本寺系の造仏・読誦の傾向に対し富士の古風を仰ぐ上行院系の思考も強く残っていたことを示しているのである。
創賊がこの事件を持ち出して要山には造仏があったと主張するバカモノがおるが、この事件は要法寺の造仏撤廃の事件なのである。
いじょう。創賊の短絡的な思考停止で考えたものなど、史実の前にはまったく無智・無能をひけらかしておると云って差し支えはない。従ってこのたびの創賊との論議は黒川氏の完璧な勝利であると断定しておくのである。
昭和五十五年十二月十七日
本日は当仏眼寺が、本堂を改修し、御宝前を荘厳せられ、また庫裡を新築せられまして
仏恩報謝の説を表わされたことは、まことにお喜びにたえない次第でございます。
皆さんも御承知のように、当寺は一説には康永二年(一三四三)の建立ともいわれてお
りますが、日興上人のお弟子である日尊上人の開基であります。その開創の年につきまし
ては、康永二年には日尊上人は京都におられ、その二年後にはお亡くなりになっておりま
すから、それよりもかなり以前に建てられていたのではないかということも考えられるの
でありますが、いずれにいたしましても非常に古い歴史をもつ、宗門の名刹でございます。
ところが、その古刹である当寺におきましても、その長い歴史の中においてはいろいろ
な大難があったのであります。近いところでは、当寺の開基であられる日尊上人の終焉の
地である京都の要法寺の末寺とされるという、法難がありました。
この要法寺というのは〝興門八箇本山〟(富士大石寺・北山本門寺・京都要法寺・伊豆実成寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺)の内の一つでありますが、本来、その根本の意味から考えますならば、総本山である大石寺の末寺であるわけでございます。即ち、大聖人様の出世の御本懐であらせられる本門戒壇の大御本尊様は、大聖人より日興上人へ伝えられ、日興上人は日目上人へ、以来日道上人・日行上人へと伝えられまして末法万年にわたる広宣流布の基盤とされたのでありますが、その根本道場が大石寺でございますから、あくまで大石寺が総本山であり、他の七箇寺はすべて末寺となるわけであります。
そのような筋道は、宗門の根本の時代にあってはきちんと解っておったのでありますが、
時の流れに従っていろいろと社会の変動があり、あるいは魔縁の興盛等によりまして、い
つしか根本の筋道を忘れてしまい、大石寺が総本寺であることを忘れて八箇本山のそれぞ
れが〝自分の寺が本寺である〟との我見をもつようになってきたのであります。その辺の
経緯は今ここで簡単に申し述べられるものではありませんが、明治の時代を迎え、大石寺
を中心とする正法の僧俗は〝いかに興門のなかではあっても、我見をもって正しいものを
認めない者達と一緒になっていては到底、正しい広宣流布はできない〟というふうに考え
まして、大石寺が独一の本寺として独立すべく官に請願を繰り返したのでありますが、当
時の法律によって、それは認められなかったのであります。しかし、それでも何回となく
請願を繰り返し、明治三十三年「一九〇〇)、ついに〝日蓮宗富士派〟として、独立したの
でございます。
そのときに、大石寺が独立したことを嫉んだ京都の要法寺が、いろいろな難題をふっか
けてまいりました。その内の一つとして、この仏眼寺――あるいは近くにある日浄寺もそ
うでありますが――について〝当寺は元々、日尊師が建てたものであるから要法寺の末寺
である。したがって即刻、寺を引き渡せ〟と言ってきたのであります。そして、いろいろ
な紆余曲折がありまして控訴審まで争いましたが、〝日尊師の開基である〟ということもあって、遺憾ながら二回とも大石寺が敗れてしまったのであります。よって当仏眼寺は、大石寺の元を離れて要法寺の末寺となることで、法律的に決着が付いてしまったのでございます。
しかしながら、当時の住職であられた佐藤日照御能化――当寺の先々代の住職であり、
また現在の日浄寺住職・佐藤暢道師の御親父であられますが――は、法律的には完全に敗
れたにもかかわらず、強い信力をもって、門の所に陣取って対抗されたのであります。そ
の時の因難は筆舌に尽くせぬ情況であったと承っておりますが、昭和十八年に――当時の
時局の進展に伴って制定された〝宗教団体法〟の助けもあったようでありますが、要法寺
との紛争に一切の解決をつけて、大石寺の末寺として認められたのでございます。
これもひとえに、当時の檀信徒の皆様が――本日ここにおいでになっておられる方も多
多あろうかと思いますが――一致結束をして〝我々は大石寺が根本の本寺である。仏眼寺
が要法寺の末寺になるようなことは、絶対に承知できない〟という大石寺に対する信仰と
団結の力、及び住職の強い信念によって勝つことができたのでありまして、その一致結束
しての力により、不当な判決をくつがえし、既に入っていた要法寺の僧侶を排除して、こ
の仏眼寺を真の大石寺の末寺として、今日に在らしめたのでございます。
今日、仏法上の問題について官に提訴し、国法に解決を求めるというような者が宗門の
中にも出てきておりますが、この仏眼寺の例を引くまでもなく、仏法に逆らった、また仏
法を全く忘れたところの、謗法の見解でございます。
この、ただ今申し上げた事件は、たとえ法律(世法)がいかなる無法な形によってでも
勝つことがあっても、正しい信心があるならば必ずそれをくつがえし、本当の正しい勝利
がそこに表われるということの実証であると存ずる次第でございます。
本日御参詣の方の中には、昨今入信の方もありましょうからそういうことを御存知では
ない方もあるかもしれませんが、この仏眼寺は長い歴史があるとともに、住職並びに檀信
徒の命懸けの信心によって正しく護られたのでありますから、その深い意義を忘れること
なく、総本山大石寺を根本とし、戒壇の大御本尊様を根本とする信心を、どこまでも貫い
ていっていただきたいと念願する次第でございます。
明年にはいよいよ七百御遠忌を迎えるのでありますから、いよいよ自行化他の信心修行
に邁進せられることを念願いたしまして、一言、本日のお祝いの言葉に代える次第でござ
います。
おめでとうございました。
(文責在速記者)
この創価員は相当な莫迦者である。当方の主張を勝手に捏造しているではないか・・!。当方は一貫して少しもぶれることなく、仏像撤廃は日賙(周)師に始まっている、と言っておる。それは過去の書き込みを見れば明らかだ。これが昨今の創価員の現実の姿であろう。すなわちものを正しく見ることができないということである。
検証⑦http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53961351.html
閲覧者諸氏におかれてはよく目を開けて読み直して頂きたく存じます。
参考過去ログ
①http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53957453.html
②http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53957735.html
③http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53958308.html
④http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53960389.html
さて今回創価君はこのような文章を提出してきた。氏の投稿箇所をアップして検証しよう。
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「一、造仏堕獄と申す事は無実の申し懸け終に此方より堕獄と申さず候、仍て京都要法
寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代の住持要法寺よ
り罷り越し候、今に通用絶え申さず候事。」(要集9巻p33)
(要約)日俊上人曰く、「仏像を造立することを堕地獄と申したことは無い。その証拠に(末寺の)要法寺は造仏読誦をしているが、本山よりそれが堕地獄と申したことはありません。また要法寺より9代に渡り僧侶を本山に迎えております。」
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さて、当方は創価君の明示した、その一つ前の要集を引用しその全部を閲覧者に紹介したいと思う。
【要集第9巻 第三章 石北の関係より転載】
六、元禄出入 北山本門寺等諸山近代の写本に依る。
三月六日七日八日大石寺談義の次第。
一、六日には日俊談義仕り候、其披露には此の間どやくや御座候て日俊は面に泥を塗り候間、其泥濯ぎに今日の談義致し候、又今度出入の義に久遠寺四度迄参り様々訴訟仕り候間、其分にて指置き申し候。
一、日興門流にて法華経壱部を堅く読み申さず候、壱部読誦仕り候は謗法堕獄に相成り候と申し、六人立義抄を証文に出し申し候。
一、鬼子母神は祖師日蓮の内証に自ら納まり候間、外に尊形を作顕し候はば謬りの至極に御座候、其上鬼子母神へは他門他宗も参詣いたし散銭供養御座候、其散銭を受け候儀謗法堕獄の根源に相成り候と申し候事。
一、袈裟衣は薄墨の素絹、袈裟は白色の五条是末法折伏の袈裟衣にして真の袈裟衣に御座候、其外紫衣香衣黒衣等、七条九条等の袈裟衣は愛着の袈裟衣と名けて真の袈裟にあらず、子供の風流をいたし候と同前に御座候、斯樣の袈裟衣を着し申し候は謗法堕獄にて御座候と申す事。
一、漫荼羅書き様の儀は日蓮在判と書き申さず候へば閻魔大王より帰され中有の衆生に罷り成り浪々致し夫より地獄に堕ち申し候此儀を知らずして題目の下に自身の判を居へ日蓮聖人を天台伝教に座を並べて脇書に勧請いたし候は、世間の謀判と同じく其罪同前に御座候事。
一、大石寺は本堂にて戒壇建立の地に紛れ之無く候、則其申し弘めの談義にて御座候と申し候事。
一、日啓は七日八日に談義仕り候、七日は石塔開眼に寄せ四箇条を申し候、八日には庫裡客殿葺替の事に寄せ四箇条を申し候、其趣き日俊申し分と相替らず候。
上件の儀日興直筆の証文大石寺に御座候へども尤大切の書物にて諸人に拝ませ候は軽々しく御座候間其儀無く候、是非拝みたく存じ候はば内証へ壱両人宛参るべく候大勢は相成らず候由申し候事。
右三日の談義承り及び候所斯の如くに候、此度御威光を以って日興自筆の証文召し出し下され候はば有り難く存じ奉るべく候。
一、大石寺に金口の相承と申し候に唯授一人の秘法御座候と日俊申しふらし拙僧檀那に誓言いたさせ、右の金口を相伝いたし色々たぶらかし申し候、斯樣成る勧めは吉利支丹伴天連は存ぜず仏者の作法には終に御座無く候、斯様成る奇怪の勧をも御威光を以って申し静め候樣に願ひ奉り候、以上。
元禄二年已十一月十六日 北山 本門寺。
御奉行所、御役所中。
※要するに教勢が拡大する大石寺を嫉妬・憎悪する北山本門寺は、なんとか大石寺を抹殺・崩壊させようと日々企んでいたのである。しかし法義では負けてしまうので、国家権力(寺社奉行)を利用し、根も葉もないことをでっち上げ奉行所に訴え出たのである。21世紀に宗門から破門された、某インチキ教団とやっていることは昔も今も同じなことに驚くではないか!
要旨は「大石寺の日俊上人は幕府で禁止されている布教活動をし、法華経の一部読誦を謗法といい、鬼子母神を拝むと地獄に堕ちると脅かし、曼荼羅書写に於いては日蓮在判と書くべきといい、書かなければ閻魔王に追い返され成仏できない。また金口相承とか唯受一人とか申している。これは法律違反であるので、寺社奉行所に於かれましてはその御威光をもって止めるようにして頂きたく思う。」とまぁ、こんな感じの訴状を作成し訴え出たのだ。
要するに創価君はこの文章を挙げることにより、「ホラ、要法寺は仏像を造立していたではないか! そして本山はそれを容認しており、9代に渡り僧侶を迎えている。即ち大石寺は謗法の寺である」、このように話を以て行きたい魂胆ということだ。
【時代背景を検証する】
1)寺社奉行
http://livedoor.blogcms.jp/blog/sokadakkai/article/edit?id=53965856
2)寺請制度
寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれるが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なる(詳しくは檀家制度を参照)。
その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%AB%8B%E5%88%B6%E5%BA%A6
3)寺院法度
宗教論争や自讃毀他を禁止するなど、強力に宗教を統制しました。
http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/nyumon/rekisi/edo/edo.htm
宗教論争とは法論のことであり、自讃毀他とは自分の宗派が正しく、他の宗派を諌めるということだ。即ち折伏のことである。
以上でお分かりのように、江戸時代の宗教活動というものは、極端に制限されていたということだ。寺院の布教範囲は制限されており、檀家制度により他宗への宗旨変えも許されない、布教活動(折伏)などは以ての外ということである。まぁ、今の北朝鮮のような状況であったということだ。そしてこの法度に違反するものは「流罪、斬首、廃寺」となり「一宗が幕府により抹殺される」ということだ。
創価君よ、君は一度北朝鮮を訪問し、「金正日体制反対! 共産主義反対!公明党マンセ~! 池田先生マンセ~、」と叫ぶことをお勧めする。どうなるであろうか? 直ちに逮捕され、恐らく二度と日本の土を踏むことは出来ないであろう・・。そういう時代が江戸時代だったということだ。
さてその中でも法華宗の僧侶の中には勇敢に折伏弘教に励む方々がおられた。これらの僧侶はこのような状況下、幕府からどういう待遇を受けたのであろうか、それを検証したい。
〇邪教の烙印を押された不受不施派
慶長四(一五九九)年十一月十三日、日重らは家康に日奥を訴え、日奥また応戦し、これにより家康は両者を大坂城に召し、対論せしめた。翌年、日奥は対馬に流刑となり、十三年に及ぶ流人生活を送った。これを慶長度の不受不施事件という。
日奥は妙覚寺で六十六歳の生涯を閉じたが、再び対馬に死後流罪となった。
慶長十三(一六〇八)年、尾張熱田で常楽日経と浄土宗正覚寺・綽道とが宗論を起こした。家康は江戸城に双方を呼び対論させたか、意図的に日経を敗けとし、弟子と共に惨刑に処した。これを慶長法難という。
池上日樹らを流刑。これを身池.対論、または寛永年度の不受不施事件という。
日述・日堯・日了・日完らは流罪となり、翌年、日講・日浣が流刑となった。これを寛文度の不受不施という。
不受不施派は寛文九(一六六九)年に寺請(てらうけ)が禁止され、禁制宗門として信仰を奪われ、明治九年まで邪宗門の烙印(らくいん)を押され続けた。
【結論】
もし大石寺が不受不施を唱え、仁恩と返答したら仏閣は即座に破却され、命脈の存在すらあやぶまれたことであろう。
http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yowa/62/6206.htm
もう分かったであろう。創価君の挙げた北山に対する日俊上人の返状は、「富士大石寺を護るための方便であり、その真意は本門戒壇の大御本尊を寺社奉行の取り上げから護るためのカモフラージュだった」ということである。
そう言えば戦時中にも不受不施派と似たような「勇気ある莫迦会長」が創価にいたではないか! そうだ牧口常三郎氏、その人である。 この人物は宗門の再三の助言にも拘らず「皇大神宮の神札」を拒否し続けたのである。してどうなったのか? 結局は「国家諌暁」どころか一人も折伏することが出来ず、獄中でこの世を去ったのである。つまり軍部により殺されてしまったということだ。まさに勇気だけあった「莫迦会長」ということだ。本年「牧口常三郎 生誕141周年」ということらしいが、まさに創価史上に残すべき「永遠の莫迦会長」ということだ。
このように大石寺の歴史を検証して行けば、上代の猊下及び御僧侶諸氏が「如何にご苦労され戒壇様をお守りするために苦労されたか」ということがわかるのである。この莫迦な創価君はこのような歴史背景を無視し、江戸時代がまるで信教の自由が認められた現在と同一視し、莫迦な投稿を続け、何としても大石寺に仏像造立が存在していたと話を持ってゆきたいわけである。
日精上人もこの時代を乗り越えるべく、このような書状を残しておられる。これも表向きの方便であった、ということだ。
「当家に風誦を読まざる事(中略)祖師称嘆の言を加ふ敢えて制止せざる故に当家に於て風誦を読むべきなり」
「頓写の事、凡そ四箇の法事は仏家の通用なり誓って修行せらるべきなり」「過去帳位牌等の事、(中略)速に位牌を立て過去帳を立てらるべきなり」「日待ち月待ちの事、(中略)富士諸寺に諸天堂を建立すること、本尊の如きは諸天を寺内に勧請する為、況や日待ち月待ちを制する事は全くなきなり」 (富要五・二六五)
(通解)「大石寺に於いても、一部頓写千部読誦・色袈裟着用は、寺法で認められている、これを謗法呼ばわりすると言うのは、幕府を軽しめ、先師代々をなおざりにすることに相当する行為である」
創価君は、このような幕府の弾圧から宗門を護るべき「方便」で使用した文献を用い、大石寺に仏像の造立があったと云いたいのである。アハハ、そのような仏像は無い。あるとすれば、
①大石寺のどの堂宇に仏像が存在したのか証明しなさい。
②その文証を明示しなさい。
③仏像を焼却し、証拠を隠滅したと強弁するなら、その証拠を明示しなさい。
※貴殿は上の①~③の質問に未だ回答出来ず、当方の質問から遁走しているのである。よってここに、当方の勝利を宣言する。
所詮大石寺信仰からはずれた創価学会の人間の疑難など、この程度ということだ。更に言うなれば「富士宗学要集」は両刃の剣ということであり、信の無い人間がいくら読んでも、その中身を理解することが出来ないのである。
「本門戒壇の大御本尊」「血脈付法の歴代猊下」、これらに対する「無疑曰信」が無ければ、創価君のように「習い損ないのスカタン読み」と堕すのだ。
尚、理解できぬ人物を相手にこれ以上、話を進めても時間の無駄である。従ってここで一端絶筆とする。創価君におかれましては、まだ言いたいことはあるでしょう。それはまた別のスレッドとして挙げて頂ければ宜しい。
以上、
2012年6月17日
日蓮正宗大阪南布教区妙輪寺支部法華講
黒川和雄
186-090-9626-7585
■■■■■■■■■■創価員の反論■■■■■■■ 【六代と云うのは日奠より以降、日全、日慈、日良、日住、日立と続く不造像家の事で、日奠以降、内々に改めたと云うことなのだよ!(苦笑) 日立までは、不造像であったことは明確なことなのだ。 文章が前後してるので、省略された古文解釈は難しいよな!(笑)】 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ※さて、この創価員はやっと「六代以降日奠より内々」の意味が分かったようである。鬼の首を取ったように喜んでいる姿が想像される。・・・が、当方は既に分かっておったのである。覚えているだろう創価君、君は自慢気に『「富士門流の歴史 重須編」を持っているのか? 勉強しろよ。通信販売でも買える・・」』と偉そうにこの本を勧めていたではなかったか?して、当方は君に持っていることを伝へ、このように言ったことを覚えているか?「貴殿は随分不利な本を紹介したものだな!」と・・・。 そして貴殿が最初に通解した時も、「六代」をスルーしておったではないか。そしてやっと上の通解が、ほぼ一週間も経ち出てきたのである。 君がやっと分かったことは『「富士門流の歴史 重須編」 この本の399Pに載っていたのだよ! しかし当方はあえてそれを言わなかっただけである。何故なら貴殿の疑難は第14代日賙(周)師にあるからである。貴殿は今でも造立撤廃は日奠(にってん)師からと主張しているのである。ところが造立撤廃は14代日賙(周)師に始まっているのであり、これは既に証明済みである。頭がお硬い貴殿が理解できないだけだ。 ※頭がお堅い創価閲覧者の皆様は、下の過去ログを参照してください。 貴殿は「何とか反抗してやろう。屁理屈を言ってやろう。仏法は勝負だ!」って感じであろう・・・。まさに「創価仏法ここにあり!」だね。笑 富士門流において「御本尊が何物にもかえがたい宝物」という認識が無きが故の沙汰であろう。そういえば、創価の会長さん池田太作殿が正本堂が完成した時のことを思い出した。時の日達猊下は太作殿に賞与本尊を授与した。その時に太作殿は「何百億も寄進してやったのに、たったこれだけか!」と怒り狂い、ご本尊をポ~ンと机に放り投げたそうだ。 創価員諸君は、池田太作殿から血脈を相承しているからして、ご本尊が授与されることのお金に代えられない喜びはないのであろう・・・。・・・ただの幸福製造機、唱題の的、ということか?? さて、ここで日賙(周)師が大石寺第十六世日俊上人を要法寺から大石寺に送り出すに当たり、日昌上人へこのような一筆を送っているので紹介する。 「師弟和合して本末相承を継ぐ。冥慮に相叶う者か」(家中抄 日俊伝)(画像1) この意味、お分かりか? これは日賙(周)師の弟子である日俊上人と日賙(周)師が師弟和合し、師は末寺要法寺の十四代を相承し、日俊上人は本山大石寺の十六代と、二人が揃って共に相承した。大聖人様もお喜びであろう。大聖人様のお心に叶うものである、ということだ。 ちゃんと日賙(周)師は「師弟相対、血脈相承、本山大石寺、末寺要法寺」と述べているではないか! 更に、 日賙(周)師は本山日主上人から頂いた日目上人の御本尊の返礼とし、「拝領した」と書状を送っている。 「前代未聞の真宝日目上人御筆拝領の儀・・」(画像2) 「拝領」とは辞書を引くと、このようにある。 ○目上の人から物をいただくこと 例 主君から名刀を拝領する。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/174449/m0u/%E6%8B%9D%E9%A0%98/ 「要法寺に頭を下げて・・・」だと? 莫迦者よ! 以上、 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 【今までの話の流れが分からない方は、下の過去ログをお読みください】 参考過去ログ ①http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53957453.html ②http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53957735.html ③http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53958308.html ④http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53960389.html さて、時系列を次ように更新しました。 ■■■■■■■■■■ 第四代日尊(にっそん) 造仏提唱 (1345) 第十三代(旧十九代)日辰(にっしん) 造仏提唱 (1576) 十四代(旧二十代)日賙(にっしゅう) 造仏を撤廃。大石寺の末寺となる。 (1608) ※要法寺出身の大石寺猊下 第十五世日昌(にっしょう)上人 1622~ 第二十三世日啓(にっけい)上人 1707まで 第二四代(旧三十代)日饒(にちよう) 造仏論者 (1687) 第二五代(旧31代)日舒(にちじょ) 造仏論者 (1712) 第二六代(旧三二代)日眷(にっけん) 造仏提唱(7箇条からなる式条を令達=日眷法令) (1727) 第二七代(旧三三代)日奠(にってん) 造仏撤廃 (1750) 第二八代(旧三四代)日全 造仏撤廃論者 (1762) 第二九代(旧三五代)日慈 造仏撤廃論者 (1774) 第三〇代(旧三六代)日良 造仏撤廃論者 (1791) 第三一代(旧三七代)日住 造仏撤廃論者 (1802) 第三二代(旧三八代)日立 造仏撤廃論者 (1811) (注)西暦は寂滅した年代を示す。 ■■■■■■■■■■ 要法寺御出身の大石寺猊下 第十五世日昌(にっしょう)上人 1622~ 第二十三世日啓(にっけい)上人 1707まで この時系列を見れば明らかに、要法寺出身の大石寺歴代猊下は日賙師が仏像造立を撤廃した後、大石寺に登られたことが見えてくる。そして日眷師(にっけん)の時にまた謗法路線へと方向転換され、また日奠師(にってん)により造仏造立が撤廃された。 このように要法寺の歴史を見ると、日辰師より傾き始め、また元に戻り、また傾き・・・元に戻る、というフラフラした歴史が京都要法寺ということだ。そして現在も「フラフラ中・・笑」ということである。「日蓮本宗」を改め「日蓮フラフラ宗」と改名することを勧めるものである。 最後に、このフラフラした歴史の要法寺もいずれ過去の歴史が物語るよう、必ず大石寺一門となる時が来ることを確信するものである。・・・京都住本寺(要法寺系=近代正信会不法占拠=2010年5月21日復帰)が日蓮正宗に復帰したように・・! 以上、 |
ごらんのよう、極めて下品な書き込みである。崩れゆく昨今の創価学会員の心境を見事に再現している非常に貴重な投稿文面だ。
これは当方が「要法寺第14代日賙師が大石寺の日主上人と通用を結び、日賙師が仏像を撤廃し、大石寺の末寺とし、時の要法寺を立て直した」と古文書を提示し証明した時の反論である。その証拠に日賙師が日興上人のご本尊を贈り、一方、日主上人が日目上人のご本尊を授与した、という史実に対しての反論である。
参考
http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53957735.html
■■■■■■■■■■
「通用」って意味を分かってるのか?(爆笑)
「通用」の意味は、お互いが心を通わせ、相互間の交流をはかる事だよ。
中世文学にも出てくる言葉だ。(苦笑)
つまり、平等条約と云うことなんだよ!
なにが不足で、京都の裕福な寺が、法主のなりてがいない、富士上野村の田舎寺に、末寺にして下さいと頭を下げるのだ?(爆)
■■■■■■■■■■
この創価学会員は世間の通用の意味を、辞書を片手に反抗しているのであるが、上代は大聖人の時代から、現在の日蓮正宗における本尊下附も、その化儀に於いては全く変わりなく統一されているのである。
それは、日蓮大聖人が信徒に「授与」するのである。つまり「主師親の三徳」としての仏が信徒に下附するものである。
大聖人滅後はどうか? 「御本尊七箇相承」にはこのようにある。
「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」
つまり歴代上人を「悉く日蓮」とし、その血脈・相伝を信じ奉り、日興上人を初めとし、歴代猊下を僧宝とするのである。その歴代猊下より授与されるのが日蓮正宗の化儀である。では本尊下附の条件とは何か?
仏 日蓮大聖人
法 本門戒壇の大御本尊(南無妙法蓮華経)
僧 日興上人、及び代々の猊下
上の三宝に帰依することが大石寺信仰の最大条件である。
話は変わるが参考までに、日道上人は日郷師に対しその労をねぎらい、日興上人直筆の御本尊を授与されている。この御本尊は元々、元亨4年(1324)12月29日書写、日興上人が日目上人に与えられた御本尊であるが、日道上人はさらに御自分が加筆を加えられた上で、日郷師に授与され、現在まで保田妙本寺に所蔵されている。
その脇書には、
「最前上奏の仁卿阿闍梨日目(以下加筆)日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す」
ここにもチャント「授与」とある。
この御本尊は日目上人から、【保田妙本寺開創日郷師に血脈が伝わったという誤伝を否定する重要な御本尊】であります。当時の日郷師はチャント日道上人に血脈があることを認めており、日道上人を僧宝・師であると深く三宝を拝していたという証明である。
さて、創価学会員が拝している日寛上人の御本尊はどうか? その授与書にはこうある。
「下野国小薬邑本如山淨圓寺 大行阿闍梨本證坊日證 授与之」
ここにもチャンと「授与」と書かれているではないか!
もっとも、御本尊は「唱題するときの的みたいなもので、幸福製造機、本尊は自分の心の中にある。本尊迹 自分本。」と信じてやまない莫迦者に御本尊の授与書のことを説いても始まらないと思うのである。何せ平気で授与書が削除されたニセ本尊を拝む創価学会員であるからして・・鼻笑
さて創価諸君、お分かりか? 日蓮正宗における「通用」とは、お前らのいう「仲良しクラブ(笑)」ではないのだ。
日蓮正宗における通用とは、日蓮正宗の三宝を信じることであり、それが信心なのだ。お前らはかつてそれを御本尊の前で誓ったではないか、忘れたか?
「今身より仏身に至るまで爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や」
「今身より仏身に至るまで爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」
以上、
上の時系列で検証したが、要するに日賙師以後の要法寺は仏像が撤廃され、清浄な宗風になったということである。従って、時の大石寺御法主・日主上人が日賙師に日目上人のご本尊を授与され、また要法寺の信徒にもご本尊を下附されたということであり、これは古文書が証明しているのである。
従って創価員の疑難、「十代100年間にも渡り謗法の要法寺から猊下を招いたではないか!大石寺にも仏像が祀れていた、大聖人の教えに反していたのだ」と声を大にして叫んでみても、そのような事実はなかったのである。
また言うであろう、「末寺では造立していたではないか!」と・・・。
これに対し破折を試みる。
上代においては大石寺を中心とする本山は概ね次の通りであり、「富士門流」として括られていた。そしてそれぞれが「本山」と称する寺院を本寺とし末寺が全国に散在していた。
ここで忘れてはならないことは、上代においては現在の「宗教法人法」なるものは存在していなかったことである。従って、創価員が「日蓮正宗の末寺に仏像が祀られていた文証があるゾ!」と叫んでみても、「一体富士門流のどこの寺に祀られていたのか?」ということを明らかにしなければならない。現在のように宗教法人法に基づく明確なる宗派分けがない時代だったのだ。
「要法寺に仏像があったのは事実だ!」と言っても「その要法寺の歴代の誰の時代のことを言っているのか?」ということを明示し検証しなければならないのである。
要するに一派一括りにして「ホラ見ろ、ここに仏像造立と書いてあるではないか!」と強弁しても始まらないのだ。
日蓮正宗は「本門戒壇の大御本尊」が全てである。
そして歴代猊下は「血脈相承」により正しく大聖人の教えが現在まで伝えられている宗派である。
いくら創価員が「上代には・・・」と疑難をしようと、さらに詳細を調べてゆけば、「謗法時代の要法寺の末寺」「謗法時代の保田妙本寺」だったりするのである。保田妙本寺が良い例である。戦後日蓮正宗に帰一したが、また大石寺から離れ、現在は大聖人の御影像を「人本尊」とし、曼荼羅本尊を「法本尊」と称した「お人形信仰」と堕ちたではないか!
結論を言えば、「富士門流」=「大石寺」=「仏像」=「謗法」と簡単に結論付をすることは出来ないということだ。
いくら富士門流といえども、総本山大石寺の化法・化儀に違背している全ての寺は日蓮正宗ではない、ということである。
以上、
さて、下に示したよう、既に破折をしたわけであるが、再アップして更にこの創価員の疑難を破折しよう。
■■■■■■■■既寄稿文■■■■■■■■
検証
【石山日主が要山日周に頭を下げ、通用を申し入れた。】
これは明らかに、捏造である!
要集第9巻にはこうある。
http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53957376.html
日賙師は日興上人のご本尊を「納めた」とあり、日主上人は「授与した」とある。ここに本末の証明があるではないか!!
我々の形木本尊の一番左には、「授与」とある。大聖人が信徒にご本尊を納めるのか!
以上、
■■■■■■■■■■
当方はさらに次の文証を紹介する。
これを見れば明らかに日賙師時代の要法寺は大石寺の末寺としての、自覚が存在していたことを証明できるではないか。
画像の三本尊、要法寺末寺からの願いでにより「授与」されたものである。
この文、何をかいわんやと言っておく。
「仏躰にて当寺14代日賙の時造立仕り候加様の悪しき先規之有り候」
(松本佐一郎著 富士門徒の沿革と教義 420P)
歴史認識とは常に見直されるのである。それが学問というものだ。
富士門流の歴史 重須編 396P
以上、
では、お尋ねいたします。
大石寺は15世日昌から、23世日啓に至るまで、9代も京都要法寺より貫首を迎えて
いますね。
当時の要法寺は、日辰の造読の邪義で、本尊を総体の本尊と別体の本尊とに分け、
漫荼羅と釈迦仏を本尊としていたことは御存知だと思います。
■■■■■日寛上人「観心本尊抄文段下」■■■■■
問う、辰抄に云く「本尊に総体・別体あり。総体の本尊とは一幅の大曼荼羅なり。即ち当文是れなり。別体の本尊に亦二義あり。一には人本尊。謂く、報恩抄、三大秘法抄、佐渡抄、当抄の下の文の『事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊』等の文是なり。二には法の本尊。即ち本尊問答抄の『末代悪世の凡夫は法華経の題目を本尊とすべし』等の文是なり」と云云。この義如何。
答う、これはこれ文底の大事を知らず、人法体一の深旨に迷い、但在世脱益・教相の本尊に執して以て末法下種の観心の本尊と為す。故に諸抄の意に通ずる能わず。恣に総体、別体の名目を立て、曲げて諸文を会し、宗祖の意を失うなり。
当に知るべし、日辰所引の諸抄の意は、並びにこれ人法体一の本尊なり。人法体一なりと雖も、而も人法宛然なり。故に或は人即法の本尊に約し、或は法即人の本尊に約するなり。人即法の本尊とは即ちこれ自受用身即一念三千の大曼荼羅なり。
※要するに、日辰が言うがごとき、「バラバラ本尊論」は邪義であるということであります。
全ては本門戒壇の大御本尊に帰するということです。
■■■■■■創価員の疑難■■■■■■
当時の要法寺は、大石寺の血脈が通っていたのですか?
【破折】
回答:血脈は通っていません。
京都の要法寺は日興上人により破門された日尊師が開いた寺院ですが、多くの折伏を成し遂げ、破門が解かれたのですが、一方、元々天台宗の出身であり、その匂いは生涯消すことが出来なかったようです。従って富士門流とは言え、神社詣を信徒に勧めたり、釈迦仏像を建立したりという謗法行為をしていたのです。
創価員のいう要法寺第十九代目「日辰師」ですが、「造読の邪義で、本尊を総体の本尊と別体の本尊とに分け、漫荼羅と釈迦仏を本尊としていた」ことは事実であります。これは前述したように日寛上人により完璧に破折されている通りです。
しかしながらもともと大石寺と交流のある要法寺からは、正法を学ぶ優秀な僧侶がいたことも事実であり、「15世日昌上人から、23世日啓上人に至るまで」の百年間、要法寺から猊下が出ておられることも事実であります。
ようするにこの学会員は「異流義である要法寺から大石寺の猊下が出ているということは、大石寺も偽物じゃないか・・」と言いたいわけです。
しかしながら、大聖人様の仏法は「唯受一人」であり、『唯受一「寺」』ではないのです。このような疑難を正当化するのであれば、そもそも日蓮大聖人は、邪宗の清澄寺で出家し、邪宗天台宗本山の比叡山で勉学に励み、邪宗の四天王寺を始め、邪宗の高野山に行っておられるではありませんか!
また国家諫暁の書である立正安国論執筆のため、一切経を閲覧された寺院は邪宗の「岩本の実相寺」であります。
クルクルパ~~( ゚,_ゝ゚)バカジャネーノと言ってあげましょう。
※法華講諸君!歴代猊下の中で「本門戒壇の大御本尊」を否定した猊下はいたのか?? 返事せい!と問い詰めてあげましょう。
「要法寺周師は本堂に色法像を造った人であると共に、その端世の翌年たる
天正15年、大石寺日主と同盟を結んだ人でもある。」
■■■■■■■■■■
お前さんのあげた上の文の少し手前にはこうある。
「仏躰にて当寺14代目日賙の時~~要法寺は廃佛をなし~~~一山残らず免捕に相成候」
(富士門徒の沿革と教義 420Pより抜粋)
とな。
すなわち日賙師は要法寺の仏像を全て破棄したという名文だ。
それを認められたからこそ、
日賙師曰く、
「師弟和合して本末相承を継ぐ。冥慮(めいりょ)に相叶う者か」(家中抄)
ちゃんと総本山は大石寺である、要法寺は末寺であると続くのである。
また天正15年に日主上人が日賙師に日目上人の本尊を授与、また翌年には日賙師が日興上人の本尊を日主上人へ贈っておる。
つまり日賙師の時代から大石寺との交流(通用)が始まったということだ。
大体において、本門戒壇の大御本尊が全てである大石寺が「要法寺=大石寺の末寺」と称した日賙師の時代に、要法寺に仏像があったとすれば、末寺とする訳がないであろうが!
また大石寺の重宝である日目上人書写のご本尊を日賙師に贈るわけがないであろう。また要法寺の重宝である日興上人のご本尊を贈るわけがなかろう。
お前さんは創価宜しく、都合の良い文章を挙げているだけだ。チトは反省しなさい。^m^
以上、
で、お前さんの質問である、
「師弟和合して本末相承を継ぐ。冥慮(めいりょ)に相叶う者か」(家中抄)
は見つかったのかい? 人に質問をしておいて、後は放ったらかしかい・・?
追記
それから、松本佐一郎氏は日賙師を要法寺の14代目(新富士年表)としているが、
20代目(旧富士年表)でも間違いではない。
以上、
> なり、但約此法性の下は是れ再往なり、例せば興師の御草案に但し四悉の廃立・二門の取捨宜しく
> 時機を守り敢て偏執すること勿れと云うが如し』
>
> 黒川君の言うように、日周が反省し冨士の立義に戻ったのなら、
> 何故、寛師が日周を破折されたのだ?(笑)
>
> しっかり、答えてごらん。(~o~)
この文は日興上人の五人所破抄に関する四悉檀の解釈が謝りであると破折されておられる箇所であり、仏像造立とは何の関係もないではないか。
わけの分からん文証を挙げるではない。
日賙師曰く、
「師弟和合して本末相承を継ぐ。冥慮(めいりょ)に相叶う者か」(家中抄)
ちゃんと総本山は大石寺である、要法寺は末寺であると言っておる。
また天正15年に日主上人が日賙師に日目上人の本尊を授与、また翌年には日賙師が日興上人の本尊を日主上人へ贈っておる。
つまり日賙師の時代から大石寺との交流(通用)が始まったということだ。
以上、
しかし異流義門においては「日賙師しが仏像を造立した」という記述はある。今の「創価学会の怪文書フェイク」と同じことだ。お分かりか?
②要法寺の濁流の源は19代日辰師の邪義に始まっているが、日賙師が邪義を一掃する。しかしその後、31代ぐらいからまたもや邪義が横行、32代日脊師になり決定づけられ、現在に至っている。
歴史というものは数百年のスパンで眺めみるのだ。いつぞやまた要法寺の誰かがその邪義に気がつき大石寺門下となる時が必ず来るであろう。
創価など「創立80周年」とかで騒いでおるが、まともな時代は戸田氏の数十年だけだ。牧口常三郎は摧尊入卑して失敗し、「国家諫暁」を叫んだが、進軍ラッパを吹いただけで終わり。国家諫暁どころか一人も折伏できず牢獄死。
勲章マニアの池田タサクの末路は脳梗塞、痴呆症という誠にお粗末な現実だ。ちょうど先月5月で、姿をクラまして満2年にもなるではないか。長い! 超大作を執筆中か?
これが異流義の現証というものだ。
以上、
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