プロローグ  入学試験なんてものほど愉快なものはない。  もし、合格すると分かっていればの話だが……  今、高校受験という人生の山場に直面している田伏ハジメは、多くの者がそうであるように、半分運任せで事に臨んでいた。  そして、試験時間はまだ半分以上残っているのに、全く問題に手を付けていない。というより、手を付けられる問題が一つもないという有様で、試験会場の外に降り積もっている雪をぶちまけたかのような純白さを維持している自分の解答用紙を見ながら、 (ここまで白紙だと、エコに協力したってことで合格にしてくれんじゃないかな?) などとアホなことを考え始めていた。  しまいには、自分の名前だけやたら丁寧な明朝体で書き直したりしていたが、それも終わるといよいよできることがなくなり、手持無沙汰になった。  白紙の答案を見続けるのも、それを連想させる窓の外の雪景色を眺めるのもいよいよ苦痛になると、目立たないように周りの人間を観察し始めた。しかし、それもすぐに飽きて、欠伸を噛みしめながら、 (やっぱり、どんな学校かくらいは調べておくんだったな……) と、今更すぎる反省をしていたが、ハジメは決して勉強ができないというわけではない。むしろ、テストの成績は中学では常に上位だったし、地元の公立高校には余裕で合格していた。ただ、普通の私立の高校受けるのも面白くないという理由で、担任に「意外とおまえに向いてるかもしれない」と勧められた県外の学校を受験してみたのだ。  そしたら、思いの外ヘンテコな学校だったようで、試験に出された問題は日本語で書かれているものの未知との遭遇としかいえないばかり。もっとも、はなから記念受験のつもりだったハジメは、問題が解けなくても悔しいだけで、悲壮感などはなかった。 (どーしよっかな……もう、いっそのこと達磨でも書いて、さっさと帰っちまおうか)  何故、達磨かというと、ただ白紙ではあまりに芸が無いので、 「手も足も出ませんでした。こんな問題作りやがって、バカヤロー!」  と、批難してやろうという意図だった。  そんな風にいかに美しく散ろうか考えていると、そもそも皆どれくらいできているのか確かめたくなってきた。  それまでカンニングを疑われぬよう見ないようにしていた隣の席に視線を送ってみる。  どうせ誰も解けていないだろう、とタカをくくっていたハジメは面食らってしまった。  隣の席の答案は、ハジメの穢れを知らない無垢なそれとは対照的に、すでに真っ黒に蹂躙されていたのだ。  それを目の当たりにしたハジメは、 (ははーん、こんな酷いことした奴は、生まれてから今日まで、勉強部屋に軟禁されたガリ勉の性悪の高慢ちきに違いない。どんな奴か顔ぐらい拝んでから土産話にでもしよう)  そう思って、目線を上げるとその残虐犯と目が合ってしまった。  そいつも、もう暇だったのだろう。  ハジメとは逆の理由で。  ビン底眼鏡をつけて、体の半分は脳味噌で構成されている真っ白い宇宙人野郎を想像していたハジメの予想は空振りに終わった。いや、真っ白というのだけは正解だった。  そかし、そこにいたのは普通の女の子。  真っ黒の髪を肩まで伸ばした色白の少女は、高級な日本人形のような上品さがある。  不意に目があって驚いたのか、少女は少し顔を赤くして俯いてしまった。  さっきから白ばかり見ていたハジメには久しぶりに見た赤。何故だかそれがうれしく感じて、もっと顔を赤くしてやりたくなる。というより、やることが他になかった。  ハジメは真っ白な答案の端に困り顔の達磨を描くと、彼女の方にずらして見せた。  少女は一瞥すると、一瞬で意味を理解したらしく、笑いをごまかすための大きな咳払いをした。  その音で視線が集まった気がして、ハジメは慌てて答案を引っ込めながら、 (よしっ、試験を満点で合格する人間がいても、試験中に人を笑わせた人間はそうはいないだろう)  と、変な満足感に浸っているところ、落ち着きを取り戻した少女が仕返しなのだろうか、ハジメの方に答案をずらしてきた。  どれどれ、とハジメは無駄に上から目線でそれに目をやる。  そこにあるのは何の面白みのないただの完璧な答案用紙。 (なんだ、全くユーモアの欠片もない……勉強はできても、頭の固い奴だな)  パッと見た時そんな感想を抱くだけのハジメだが、少し時間をおいてハジメはようやくその意味を理解した。  カンニングさせてくれるのだ。  予想外の少女の大胆な行動に、ハジメは度肝を抜かれた。それと同時に、「しまった」とくやしがる。 (試験を満点で合格した上に、カンニングさせるなんて……俺の完敗じゃないか!)  そう思ったハジメは、感謝と自分のプライドを守るために、さらさらと達磨の隣に別の 絵を描く。  それに気が付いた少女がまた視線だけ送ると、再び咳払いをした。  達磨の隣にはお礼をしているドーモ君がいた。  その少女の反応を見て、ハジメは胸の中で「これで引き分けだな」と勝手に満足すると、試験監督が呑気に読書をしているのを確認してから、少女の答案を丸写しする。  最初は落っこちても構わなかったハジメだが、いつのまにか、この子と一緒の学校に行きたいと考えを変えていた。  それほどまで――ハジメの進路を変えさせるほど、隣の少女の笑顔が可愛かった。  こうして、試験は残り時間丁度で答えを写し終え、カンニングもばれずに無事終了した。  ハジメはすぐにお礼を言おうとしたが、少女は恥ずかしそうにさっさと帰ってしまった。  なんともヘンテコな入学式だった。  そして、当然と言うべきだろうか。  ハジメは合格していた。  しかし、その時になってようやくある失敗に気が付く。  答えを写すのに精一杯で、少女の名前を見るのを忘れていた。 「ま、学校で聞けばいいか」  ハジメは地元の公立校を蹴って、鷹城学園へ進学することにした。  やはり普通の学校に行っても面白くない。   なにより、あの少女の名前を知りたい。  そんな適当な理由だった。 第一章:入寮  鷹城学園は全国でも珍しい男女共学の全寮制の高校だった。全寮制といっても学校指定の区域にさえ住んでいれば、それでいいという何とも適当なものらしい。それを知ったのが、合格後だったハジメもかなり適当な人間だった。  ハジメは指定の区域で学校から近く、一番安い学生専用アパートを選ぶと、さっさと届けと荷物を送ってしまった。  これには日頃からおおらかというか、やっぱり適当と評するのが一番しっくりくる両親に怒られた。両親を憤怒たらしめたのは、勝手に手続きを済ましてしまったことではなく、そのアパートの家賃が月100円だということだ。あまりに安すぎて、何かあるのでは? と流石に親として心配になったのだ。  しかし、ハジメが「学校が紹介しているんだから、そんな無法地帯ってこともないだろ」と言っただけで、「さもありなん」と納得してしまう。結局、家族全員適当だった。  そんな適当人間のハジメも、慣れ親しんだ地元や友人から離れるのはやはり寂しかったので、出発はズルズルと遅れてしまい、入寮したのは始業式の前日になってしまった。  ***  ハジメが鷹城学園に来るのは入学式以来だった。  ローカル線をいくつも乗り継いだ末に到着したそこは、陸の孤島というのにふさわしい。  駅を出て、最初に視界に飛び込んでくるのは、四月になっても雪を深々と被る山々と都会ではありえないほどの突き抜けた青空。そこから吹き降ろされる春の陽気を含んだ新鮮な空気が頬を撫で、聞いたこともない鳥の鳴き声がハジメの耳を楽しませる。携帯電話の電波が届いているのが不思議なくらいの山奥にあるこの町は、ちょっとした旅行に来るには持って来いといったロケーション。裏を返せば、かけがえのない青春の学生生活を謳歌するには、いささか田舎過ぎるように思えた。  しかし、駅から少し歩くと案外栄えているようで、わりかし大型のデパート、本屋、服屋、コンビニなど生活用品店があるのはもちろん、カラオケ、ボーリング、ゲームセンターなどアミューズメント施設も充実していた。学生が多く住むこの町では、駅前より学校周辺の方が経済効果が高いらしい。企業が学生目当てで進出したからなのか、娯楽が乏しいあまりに学生がバーバリズムな快楽行使に走らぬよう学校側が誘致したからなのか、新参のハジメには判断がつかない。もっとも、普通に生活する分には不自由しないで済むとわかれば、そんなことはどうでもいいことだった。  ハジメはお洒落だったり、ほとんど浮浪者みたいな身なりの学生が闊歩する珍妙な街を観察しながら、地図を頼りに自分の下宿先を探すと、少しばかり迷子になったが、駅から歩いて二〇分ぐらいの所にそれはあった。 「こ、これで、月一〇〇円なのか?」  ハジメは門の前で立ち尽くして、想像していたのよりも綺麗な外観に舌を巻いた。  もっとピサの斜塔並みに傾いているとか、座敷童でも住み着いていそうな苔やカビでデコレーションされたオンボロな建物を想像していたのだが、少し古いくらいでそこらにあるアパートと大きな違いを見いだせない。ハジメの新居は、ただの二階建てのアパート。すると、今更になってハジメは言いようのない不安に襲われた。  死人でも出たのだろうか?  はたまた、不良たちの憩いの場として提供されているのだろうか?  少なくとも学生向けで済ますにはいささか不自然であったが、兎にも角にも中の様子を見なくては始まらない。危険だと判断すればさっさと部屋を引き払ってトンズラすればいい。  そう勇んで踏み出したハジメの高校生活の第一歩。  パキィッ!  さっそく得体のしれないものを踏んだ感触に、ハジメは硬直した。  不良先輩のお気に入りのサングラスでも踏んだのだろうか?  確認するのが恐ろしくなり、足元周辺の事実を自分の中で無かったことにしようとした瞬間、 「おっ、新入生かい? それ、私のだから踏まないでくれよ」  背後から気さくな声とともに、肩に手を置かれた。不意を突かれて、ドキッと心臓が跳ね上がり、ハジメは深呼吸をしながら、おそるおそる振り返った。目が合うのが怖くて、背後からの刺客の足元に目をやると、ハジメの視界に入ったのは、高そうな革靴とズタズタになったダメージジーンズ。腰のあたりにはジャラジャラと威嚇するような音をたてる鎖のアクセサリー。いよいよ顔を上げるのが恐ろしくなる。 (もう、逃げようがない。やっぱり、訳あり物件だったんだ)  ハジメは覚悟を決め、目線を上げずに、 「へい、あっし姓は田伏、名はハジメというものでぇございます。縁あってこのたび鷹城学園の末席を汚させていただきます。入学早々に、先輩の物を踏みつけるという粗相をいたしたこと、ひらにひらに謝罪を申し上げます」  自分でもよくわからいキャラを作って、ヤケクソな自己紹介と謝罪をぶちかました。 「おいおい、そんな緊張するなよ。私はここに住んでる三年の滝川陽子。よろしくね」 (陽子……女?)  その声があまりにもハスキーだったので、甲高い声のヤンキーだと勘違いしてしまったが、確かに男にしては腰が細い。徐々に、視線を上げていくと、へそをさらけ出している健康的に引き締まった腹に目を奪われる。そのくびれは間違いなく女の物だった。  さらに胸の辺りまで目をやると、ハジメの本能が女だと認識した。そこにあるのは、情熱的な赤いYシャツをはちきらんばかりの釣鐘型の見事なバスト。あまりに窮屈そうなので自分の手で、シャツを引き裂いて救出してあげたくなる衝動に駆られる。そんなことをすれば無論犯罪であるが、裁判になっても男の陪審員はハジメに同情を禁じ得なくなるであろうと思えるほどに、魅力的だった。  そして、こんなけしからんボディーの持ち主の顔を拝むと、 「かっこいい」  それがハジメの第一印象だった。  切れ長の目と、鼻筋の通った精惇な顔立ち。ノーメイクであるようだがハジメの今まで出会った人間のなかでもトップクラスの美人の部類に入る。そして、あまり手入れをせず伸ばし放題であろうラフな長髪は鮮やかな金色に輝き、強烈なインパクトをハジメに与えた。  ハジメは一歩下がって改めて全体を見ると、スラリとした長身のモデルみたいな女性であることを確認し、先ほどとは別の意味で緊張していると、 「そんなにビクビクするなよ。そんなもん踏まれて怒るやつはいないと思うよ?」 「えっ」  そんなものの正体を確認するために、ハジメは足元に目をやると、何か布切れのようなものが氷漬けになっていた。 「これ何ですか?」  チラッと見ただけでは理解できない。少なくとも、ハジメが一五年生きてきて一度も見たことのない得体の知れないものだった。 「見たまんまだよ。私のパンツ」 「えっ? ぱんつ?」 「うん、パンツ」  そう言われて、もう一度熟視する。氷が光を屈折させていたため分かりづらかったが、無数のハートマークがプリントされたパンツが、簸くちゃになりながら冷凍されているようだった。  何でこんなものがここに?  そもそもどうすればパンツがこんな姿になるんだ?  ハジメは、このパンツにいったい何が起こったのか妙に気になり、 「えーと、パンツを冷凍保存するのが、この学校のブームなんですか?」 とシュールな質問をしていた。 「んー、なんというか風物詩みたいなものかな? 下着とかは手洗いでやりたいでしょ? だからベランダで盥に入れて洗うんだけど、冬にそのままにしておくと次の日には凍っちゃうんだよね。でも、パンツにお湯かけたり鍋やレンジで解凍するのもなんだか間抜けだから、春になって、自然に解けるのを待ってたんだ。だから、日当たりの良いところに置いとくんだよ。春先ではよくある光景で、鷹校生の常識だから覚えておくといいよ」 「はぁ……さいですか」  ハジメは高校生になって最初に学んだのが、ピンポイントすぎる風物詩だということに虚しさを覚えると、さっきまでの不安はどこかへ吹き飛んでいた。  そして、いまのやり取りの間にすっかり目の前の人物に対する警戒が和らいでいた。見た目に反して物腰が柔らかい。なによりパンツを凍らせて春が来るのをのほほんと待っているような人間を警戒しろという方が無茶である。むしろ美人のお姉さんのパンツを見れてラッキー、と気持ちをきり変えた。 「えっと、今日からこの寮の二〇三号室にお世話になります」 「二〇三か、私は二〇四だから案内するよ」 「そうなんですか、お願いします」  そういって、ハジメはお隣さんにエスコートされる途中、空き部屋が多い様子を見て、やはり安すぎて不安を感じて誰も寄り付かないのだろう、と推測した。そうすると、なんでこんなに安いのかいよいよ気になってくる。しかし、陽子の美貌に見とれて、そんなことは後で考えることにした。 「いやー、お隣さんは君だったんだ。荷物はとっくに届いてたのに、本人が来ないからてっきり、やめちゃったのかと思ったよ」 「やっぱり、地元を離れるのが寂しくて、来るのが遅くなっちゃつたんですよ」  そんな他愛もない話をしていると、二〇三号室に着く。やはり古いからなのか大きな傷がいくつか見受けられるが、1Kの部屋で一〇〇円は安すぎる。しかし、新しい生活への期待の高まりが、ハジメのそんな疑問をかき消してしまった。 「いい部屋でしょ。最近まで私の先輩がいた部屋だから大事に使ってくれよ。それで……話があるんだけど……」  陽子はずっと言い出すタイミングを窺っていたのだろう、 「ハジメ君だったね。いい名前で気に入ったよ。うちの部活に入らない?」  ハジメは唐突な勧誘を受けた。  勧誘の理由がかなり意味不明だったが、それよりも、はっきりさせなければならない事がある。 「先輩は何部なんですか?」 「ああ、言い忘れてたね、ごめんごめん。ただの応援部だよ」 「ああー、応援部ですかー。野球の応援とかでエールやったり、太鼓叩いたりする。なんか青春って感じですね」  ハジメは応援部に微塵も興味はなかったが、パンツの氷漬けなんかでなく、ようやく高校生らしい会話ができて嬉しかった。 「えーー、あーー、うん、色々とボランティアじみたこと、するけどまぁそんな感じかな」  急に歯切れが悪くなった気がしたが、ハジメはあまり気にとめなかった。 「とにかく、今、部員が私だけでね、お願い!」  陽子はそう言って、ハジメの両手を握って、覗き込むように顔を近づけてくる。  ハジメの視界は陽子の美しい顔と魅力的な胸の谷間にジャックされた。美人にこんな頼まれ方をされて断れるわけもなく、ハジメは舞い上がってしまい、 「任せてください。実は、来る前から応援部に入ろうと思ってたんですよ。味方の応援はもちろん、勢い余って相手の応援もやっちゃうほど僕は応援ってのが大好きでして……周りに『お前は応援するために生まれてきたような人間だな』なーんて言われるくらいなんですから」  適当にでたらめなことを言っていた。 「そうなんだ。まぁ、相手の応援されても困るけど。とにかく入ってくれてありがとう」  ご褒美とばかりに、陽子が眩しい笑顔でハジメを歓迎すると、彼女の携帯が鳴る。  三三七拍子の着メロ。  それを聞いたハジメは「ああ、この人は本当に応援部を愛してるんだな」と心を打たれた。  陽子はそんなハジメをよそに、 「うん……ああ……わかった、すぐ行くよ。」 と手短に電話をきると、 「ちょうど、応援の依頼が来たから、ちょっと行ってくるね。たぶん、すぐ終わるから」  陽子はおもむろに腰の鎖に括り付けていた学帽を取り出して、深々と被ると、今来た道を風の様に駆けだした。  ハジメはそんな陽子の背中――ではなく彼女の形のいい、魅力的なお尻を見送った。 (応援の依頼……すぐ終わる……)  なんだかよくわからなかったが、ハジメは深く考えないようにした。  新しい生活が始まれば、よくわからないこともたくさんあるに決ってる。  そう自分に、言い聞かせながら荷解きを始めた。といっても、そんなに荷物は多くない。前の居住者の家電や家具の多くがそのままだったし、足りないものは現地で買えばいい、と母に言われて、お金を多めに渡されていた。何より、たくさんあるとすぐに散らかると自覚していたので、必要最低限のものしか持ってきていなかった。しかし、いかんせん初めての一人暮らし。色々と家具の配置などを試行錯誤していると、存外時間がかかった。四苦八苦しながらも、すっかり荷物を整理し一段落すると、ハジメはベットに腰を下ろした。なんだか落ち着かず、ベットのスプリングの弾力性を確かめるように跳ねながら、これからの高校生活に胸を躍らせる。  クラスメートはどんな奴かな?  先生は?  授業は?  そして、かわいい彼女ができるかな?  その前にあの女の子を探さなきゃ。  いや、その前に隣の美人の先輩と……ウフフフフ。  そんな妄想を楽しんでいると、あっという間に時が過ぎた。  陽子が『応援』に行ってから、一時間ぐらいした頃だろうか。ノックとともに陽子の声が聞こえた。 「ハジメ君、歓迎会がてら一緒に飯でも食わない?」  自分の部屋に初めての来客。  それだけで、ハジメは何となく興奮した。 「はい、今行きます」  先ほど段ボールから出したばかりの鏡で髪型をチェックすると、扉を開ける。  そこには栄えある来客第一号にふさわしい満面の笑みを浮かべた陽子がいた。  さっきとは様子が違う。  もしかして自分の為におめかしをしたのか、とハジメはうかれた。そう思わせるほど陽子の顔の血色がよかった。  しかし、それは当たり前のことだった。  だって、実際に顔に返り血がついていたのだから。  その血を見た瞬間、ハジメは恐怖と不思議なデジャブに襲われた。  ***  返り血を浴びた年上美人のお誘いを丁重に断る上等な文句。  そんなもの、高校生になったばかりのハジメが持ち合わせているはずもなかった。  おとなしい羊……というより、すっかり観念した殺される直前の家畜みたいな気分で、お隣の陽子の部屋へ連れられていく。  陽子の部屋は、多少散らかったりしている程度で、血なまぐさいものなど不審な物は無かった。しいて言えば、少々季節外れの炬燵と、その上の鍋が目につくぐらいだ。 「ちょっと散らかっているけど、炬燵にでも入って待っててね。もうすぐ食材がとどくから、そしたら鍋を食おう」  ハジメはこの中に化け物でも飼っているのでは、などというくだらない妄想にさいなまれながら、季節おくれの炬燵に下半身を恐る恐る潜り込ませる。  ハジメに向かい合うように陽子も腰を下ろした。  嫌でも、血塗れた顔がハジメの視界に入る。 (そうか。この人の仕掛けたドッキリか……)  ドッキリに引っかかってあげた方が、ユーモアがあっていいだろう、と思ったハジメはオブラートに包んだ質問をした。 「先輩、あの……顔にケチャップに付いてますよ」 「ああ、これ? これ、血」  ハジメの用意したオブラートはあっという間に破られた。  なによりドッキリを仕掛けている気配がなく、日常の当たり前のことのような物言いだった。 「えっと……応援に行ったんじゃ……」 「うん、将棋のね」 (なんだ将棋か……)  返り血を浴びるような将棋。  ハジメは将棋ボクシングなるへンテコなスポーツだか何だかよくわからないゲームがあると、聞いたことがあった。しかし、目の前の人間の様子は、戦国時代にタイムスリップして合戦に参加してきたと言うほうが納得のできるものだった。  この件に関してこれ以上知ってもいいことはないだろうから、別の話題を振ろうとしたが、気が動転していたため簡単に話題が思いつかない。  陽子はそんなハジメを気にせず話を続けた。 「いやー、私はボードゲームってのが苦手でさ。だから、『王将』役を引き受けて、一人で敵陣に突っ込んでったから結構時間かかっちゃったよ。特に相手の『飛車』役の奴がしつこくって拳が痛いのなんの‥‥‥」  丁寧な解説をしながら、陽子は血の染みついた右拳をさする。  ハジメには意味が解らなかったが、やっぱり合戦に行ってひと暴れしてきたのは確かなようだった。 (一刻も早く普通の話題に変えなければ……そうだ、もっと普通の応援の話なら)  そう思ってハジメは、いかにも当たり障りのない質問をすることにした。 「それよりも野球の応援の話を聞かせてくださいよ。球場で繰り広げられる汗と涙の青春ドラマ。そんな爽やかな話を」  しかし、帰ってきた反応は、 「野球の応援……ごめん、したことない」 「えっ?」  ハジメの常識は通用しなかった。 「野球部はとっくの昔に壊滅したらしくてね。その代りに野球拳の応援ならしたことあるよ」  廃部じゃなくて壊滅ってなんだよ。  野球拳の応援って脱がす手伝いでもしたのだろうか?  そんなツッコミはハジメの喉の辺りで渋滞していた。 「裸でのステゴロが好きな先生がいてさ。その先生が提案したゲームで雪の中で野球拳をしながら決闘をやる羽目になってね。最後はもうパンツ一枚になるほどの死闘だったよ。そうそう、これがその時のパンツ」  そういって陽子のジーパンのポケットから取り出されたのは、見覚えのあるパンツ。  さっきまで氷に封印されたハート柄のラブリーな可愛いパンツ。  しかし、そのハートに見えたのも血であることに気付くと、先ほどのデジャブの正体がわかって、ハジメの中のモヤモヤが少し解消した。もっとも、その返り血は相手の性的な意味での鼻血か、暴力による物なのかは分からない。  そして今、そんな事よりも重大な一つの疑問がハジメの喉の渋滞から抜け出した。 「なんで教師まで加担してるんですか?」 「……さっきから、微妙に話がかみ合わない気がしてたんだけど……もしかしてうちの学校の案内をあんまり読んでない?」 「えっ、あ、まぁ」  確かに、学校から読む気力を無くす為にこしらえたかのような、やたらとぶ厚いパンフレットが送られてきた。しかし、読まなくても案外問題ない携帯電話の取り扱い説明書みたいなものだと思って、ハジメはもちろん両親もろくに目を通していなかった。 「生徒諸君、いかなる時も天高く舞う鷹の如く孤高たれ!」  突然、陽子が声高らかに宣誓する。 「はい?」 「ってのが我が校の校訓でね」 「そうですか。なかなかいいスローガンですね」  ハジメとしてはもっと肩肘張らない、この牧歌的な土地にあった緩い校訓の方が嬉しかった。 「いや、スローガンで終わらないのが我が校最大の特徴なんだよ」 「といいますと?」 「ようは、『自分のわがままを押し通せ。文句を言う奴がいたら戦って黙らせろ』っていうことでね。生徒間の争い、教師や学校に文句があったら、勝負で決めるんだよ」  そんな話は聞いていない、と文句を付けたかったが過失はハジメの方にあった。 「え……勝負ってさっきの将棋や野球拳のことですか」 「そうそう、勝負の内容はそれに立ち会う教師が決めるから、やり方は様々なんだけど」 「……でも、そんなことしないで勝手にやっちゃえばいいのに」 「それはだめなんだよ。そうすると秩序が保てなくなるから絶対的なタブーとされてるんだ」  返り血を浴びるほどの殴り合いをしておいて、いまさらタブーなんて言葉が出てくるなんて、ハジメは思ってもみなかつた。 「学校、並びに生徒の居住区域内に設置された無数の監視カメラで見張られてるから、そんなことをした日には……」  陽子なりの気遣いなのだろう。言葉の最後の沈黙は、そのタブーの代償がいかに危険なものなのかを雄弁に語っていた。 「その代わり学校はどんな勝負でも受け付けてくれるんだよ。部活の予算や練習場所、クラスの席順、はたまた女を賭けた決闘まで。その勝負の応援をするのが我ら応援部なのさ。まぁ、女を賭けた決闘の代打なんてお断りするけどね」  ハジメは「そんな事で喧嘩するなんて馬鹿じゃねーの」と心の中で毒を吐く。しかし、なんだかやたらと血気盛んな連中がいるらしいが、そういう人たちの傍に寄らないで波風を立てぬよう平和主義を貫けばいいのだろう、と考えるとハジメは少し安心した。しかし、そんな安心はある一言が、絶望で塗りつぶしているのに気が付く。色々な情報の中で、ハジメは重要な言葉を聞き逃していなかった。 「我らって、今は滝川先輩一人なんでしょ?」 「さっき、二人になったじゃん」 「あっ」  ハジメはノリで入部の約束したことをすっかり忘れていた。 「私とハジメ君。さっき『入って』ってお願いしたら、『わかりました』って快く返事してくれたじゃない」 「あ、あれは、えーっと、ものの弾みというか、若気の至りというしか説明不能のことでして……」  ハジメは何か面白そうな事を探しにこの学校に入学したが、求めていたのはこんなヴァイオレンスな匂いのするものではない。 (俺が求めていたのはハレンチ学園的な物なのに……もういい、とにかく逃げよう)  ハジメは適当にお茶を濁しながら、逃走経路を頭の中で巡らせる。  今日初めて来た人間が土地勘のある人間から逃げ切れるだろうか?  まずはあの扉をあけて……  そう思って、玄関の扉に目をやるとドアノブが回った。別の誰かが入ってくる。  出口もふさがれたことを悟ると、ハジメは絶望した。  ああ‥‥‥なんで俺がこんな目に。  そもそもなんでこんなへンテコな学校に入ったんだ。  あぁそうだ……俺がこの学校に来たきっかけ……  名前もしらない女の子。 「姉さんただいま」  そう、こんな感じの柔らかい声を出すような、大人しそうな女の子。 「あっ……」  先に気が付いた少女は驚いた様子で口を押えていた。 「えっ……」  ハジメも自分の目を疑った。  出口を塞ぐ番人――それは、紛れもなくあの時の少女だった。 「ああ、紹介するよ。滝川御影、私の妹ね」  ハジメのこの学校に入学した目的は、予想外の形で、あっさりと達成されてしまった。 二章:答え合わせ 「ん? もしかして、もう知り合いだったの?」  陽子は二人の様子で察したらしい。 「え、ええ。試験中に仲良くなって」  ハジメからすれば、カンニングさせてもらいましたなんて言えるはずもなかった。 「テスト中に親睦を深めるって、ずいぶんレベルの高いことしたねー」  この人にだけはそんなことを言われたくない。  そう思っても、ハジメは口に出すことはできなかった。  そんなことをよそに御影は流し台で、慣れた手つきで包丁を使いこなして、具材を切っていた。 「で、さっきの続き。まぁ、応援部に入部してもらってほんとに助かるよ」 「……でも、応援も何も僕は取り柄があるわけじゃありませんよ。だから先輩みたいに合戦で無双したり、パンツ一丁で殴りあうなんて……」 「まぁ、最初のうちはそんなに気にしなくていいよ。一年からそんなに依頼が来るわけじゃないし、自分のできることからやってけばいいから」  丁寧な説明を受けたハジメだったが、正直いまいちピンとこなかった。しかし、冷静に考えれば自分みたいな平凡な人間に助けを請う物好きもいないだろうから、入るだけ入って幽霊部員を決め込めばいいかな、なんて適当なことを考え始めていた。  そんな事を企んでいると、御影が切り終えた具材を炬燵に持ってきた。  滝川姉妹が並ぶ。  ハジメは二人の顔を見比べた。 (姉妹でこうも似ないのは珍しいなぁ)  それがハジメの率直な感想だった。  顔のパーツは姉妹だけあってそっくりなのだが、一目でこの二人が姉妹だと分かる人間はいないように思えた。  姉の陽子は、男前というか女子から告白されそうなタイプ。  一方、妹の御影は対照的にThe美少女というべきかだろうか。とどのつまり、ハジメのストライクゾーンど真ん中。見るからに、清楚で、可憐で、おしとやかで、家庭的で優しい女の子――今や絶滅したと思われる大和撫子の姿がそこにあった。  一本一本丁寧に紡いだ絹の様にサラサラの黒髪。触れれば心地よい琴の音色を奏でそうなその髪から僅かに覗く耳は、この世で最も美しい貝ではないかと錯覚するほどの造形美。そして、姉と同じ切れ長の目の中の瞳は黒曜石のように輝き、見た者の網膜から焼付いて、決して離れない魔力を宿しているようだった。魔力というなら、桜の花びらのもっとも色鮮やかな物だけを選んで抽出したようなピンクの薄い唇も負けてはいなかった。  ハジメが美人姉妹に見とれている間に鍋の中に具材は投入され、あとは煮るだけとなった。  そんな時に、再び陽子の着信が鳴る。 「ああ、わかったよ。2分で行く」  近場でまた戦争が始まるらしい。 「悪い、また依頼が来ちゃった。今度はたぶん長引くから二人で食べてて。あ、妹は食べるなよ」  陽子なりのユーモアなのだろうが、気まずい空気を残して部屋を飛び出していった。  残された二人は当然、会話が弾まない。  空気があまりにも重く、話すきっかけを見出せず、長い沈黙が部屋を支配する。  そんな俯いて黙りこくっている二人を、鍋の中の具材がグツグツと囃し立てる。  ハジメは、御影に――というより、その具材に話しかける感覚で、 「……あ、そろそろ」 「あ、はい。そうですね」  鍋が食べ頃を迎えると、御影は取り皿によそって、ハジメに手渡した。ハジメは皿の中身よりも、その女の子らしい所作と白魚のようなすべすべの手に目を奪われた。 「どうぞ」 「あ、どうも」  ハジメがその指に見とれながら、皿を受け取ると、 「ドーモ君……さん」 「え?」 「あ、すいません。まだ……お名前を……」  恥ずかしそうに口元を手で押えながら、上目遣いで尋ねる御影は、本当に食べちゃいたいくらい可愛かった。  そんな彼女に少しでもいいところを見せようとしたハジメは、お見合いの挨拶みたいな調子で、 「申し遅れました。田伏ハジメです」 「えーと……漢数字の一でハジメさん?」 「本当はそうなるはずだったけどカタカナでハジメです」 「本当は?」  御影がなんだか触れてはいけない家庭の事情に踏み込んでしまった時の申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「親父が役所の届けを酔っぱらってカタカナで書いたまま出しちゃって。『これでいいや』ってそのままにしてたら、受理されちゃったんです」 「ふふっ、そんな事あるんだ」  コロコロと笑う御影。  何と可愛いんだろう、とハジメは心の底から思った。その笑顔は百点満点で表すのは難しいくらい。控え目な仕草が相まって、彼女の周りの空間全てが神聖なものに見えた。 「でも、ハジメさんなんて答案用紙、真っ白だったじゃないですか」  女の子に「さん」付で呼ばれたことなど殆んど無いハジメは浮かれてしまい、さっきまでの反動で饒舌になった。 「いやー、お恥ずかしいかぎりで。でも、僕が悪いんじゃないんですよ。隣に御影さんみたいな美人がいたもんで、あんな面白みのない問題なんかどうだってよくなっちゃったんです。どうすれば、隣の御嬢さんにお近づきできるか……そんなことばっか考えちゃいましてー」 「うふふ、ハジメさんってお馬鹿さんなんですね」  ハジメは『お馬鹿さん』なんて言葉がこんなに心地のいい響きだとは思ってもみなかった。これはフラグを建ったのでは、といよいよ調子に乗ってしまう。 「まあ、この学校の事を何にも知らないで受験した人間ですからね、えへへ」 「ほんとお馬鹿さんなんですね」 「あはは。まぁ人並みに。でも馬鹿なおかげでこうして御影さんに出会えてラッキーって感じです。もうあのカンニングをさせてもらった時は運命ってものを信じちゃいましたよ」  そんな風に、ハジメが馬鹿丸出しでのろけていると、 「チッ」 と、謎の音が鳴る。  舌打ち?  しかし、この空間でそんな下品なことをする人間がいるわけがない。もしかすると、鍋の中の豚肉の幽霊が幸せいっぱいの自分に嫉妬したのでは? なんてアホな事を考えたハジメは鍋を覗いてみるも、豚さんはコトコトと哀れに煮込まれているだけだった。  気のせいだろう、とハジメが顔を上げるとそこには御影はいなかった。いや、正確には御影の姿をした人間がいるのだが、「どちら様ですか?」 と聞きたくなるほど別人にしか見えない。  特に目つきなんかは、別のパーツを移植したような違和感があった。やたらと眼光が、鋭くて冷たい。そんな視線に突き刺されているハジメは、炬燵のスイッチを入れたくなった。  そんな風にハジメが困惑していると、突如現れた謎の美少女が口を開く。 「こんな馬鹿相手に猫被る必要ないわね。ストレスがやばいし」  声色まで違っていた。ハジメはいよいよ別人であることを願いながら、 「は、はい。ごもっともで……」  と情けなく、いらない返事をしていた。 「どうして私がカンニングさせてあげたか分からないの?」 「達磨を見て笑ったお返しじゃ……」 「弱みを握って、利用するために決まってんでしょ。それ以外に何かあるっての?」 「そんな……」  そもそも、そんな選択肢を思いつくほどハジメの性格は悪くなかった。 「あんた、あのセンスのない達磨見て私がどう思ったかわかる?」 「えーっと、『キャッ、なんてユーモアに溢れた人なんでしょ』ってな感じで」 「正解は『プッ、このバカ何しに来てんの? っていうかなんでそんな自信満々で、達磨の絵なんて見せつけてんのよ。脳味噌、家に忘れてきたんじゃない?』でした」  ハジメは入学試験を一問も解けなかった時より悔しくなり、 「じゃあ、カンニングさせてくれた時の心境は?」 「『ゲッ、マジでカンニングしてやがる。脳味噌も無ければプライドもないのね。こんな下等生物が隣とか……私ったらなんでこんなに可哀そうなのかしら?』だけど、あんたはなんだと思ったの?」 「『うふふ、面白い人。こんな人と一緒に楽しい学園生活送りたいわ。きゃっ、私ったら、試験中になんてこと考えてるのかしら、はしたない……でもこのドキドキはもしかして恋なの……』っていう、しおらしいお嬢様的な……」  ハジメは女形のようなジェスチャーを交えて言ってみるも、それを見る御影の視線は冷たかった。 「……あんた、自分で言ってて恥ずかしくない?」 「はい。死ぬほど恥ずかしいです」  ハジメからすれば、恥ずかしいというより、詐欺にあった気分だった。 「外から聞いてたけど学校案内も読まないで来たんですって?」 「は、はい」  外から筒抜けだったことを考えると、あのタイミングで入ってきたのも計算だったのだろう。  ハジメは何を信じていいか分からなくなっていた。 「予想以上のバカね。もう自慢してもいいレベルよ」 「それほどでも……」 「この私の予想を上回ったんだから自慢していいのよ」  一方的にけなされているハジメだが、ここまで唯我独尊だと、なんだかおもしろく感じてはじめていた。 「あんた誰のおかげで合格したと思ってるの?」 「御影さんのおかげです」 「わかってるじゃない。流石にそれくらいは分かる知能があって安心したわ」 「いえいえ、そんなー」 「褒めてないわよ。このボンクラ」 「はい……」 「今、こうして私と楽しく会話ができるのも全て私のおかげ。だから私の言うことを聞きなさい。いいわね」 「ど、どんな……」 「まずは応援部に入ること。誰かが入らないと姉さんが私に入部しろってうるさいのよ。私には、やらなければいけない大業があるからそんな暇なんてないのに」  もう入部する流れだったのでハジメとしては今更、痛くも痺くもなかった。それより、なんだか悪いことを企てているようだったが、その内容には触れないことにした。 「あと、もう一つ」 「なんでしょ」 「その前に……私って、かわいいわよね?」  そういうと可憐な笑みを浮かべ、さっきまでの可愛い女の子が戻ってきた。  しかし、ハジメの反応は、 「はあーー?」  確かについさっきまで淡い恋心を抱きかけていたのは紛れもない事実だった。しかし、自分をかわいいなんて言う人間だとわかれば、その瞬間からすさまじいマイナス補正がかかる。さっきと同じ顔のはずなのに、ハジメは直視するのも嫌になっていた。 「まあ、返事はいいわ。さっきから私のことエロい目でじろじろ見てたから、聞くまでもないものね」  女ってのは自意識過剰だな、と思ったがあながち間違ってないのでハジメは反論のしようもなかった。 「可愛いだけの女ならそこらへんにいるけど、私がすごいのは他も完壁ってことよ。勉強、スポーツ、武道っていうかもう全部。ほとんど全部よ。でも、一つだけ苦手なことがあるのよ。わかる?」 「さあ……お馬鹿な僕には皆目見当もつきません」  ハジメはこの問題には自信があった。 (その性格なんだろ!)  しかし、その回答は心の中で留めることにした。さすがに、面向かって言えない。性格の悪い人間ほど指摘してもらえず、悪循環でどんどん嫌な奴になっていく。その最高傑作みたいなのが目の前にいるのだから仕方のないことだつた。 「分かんないの? ほんと馬鹿ね。ま、仕方ないか。私の欠点なんて、一つしかないんだから」 「で何なんです? 実は男だとかそういうディープなことなら、そのまま秘密にしてもらいたいんですが」 「はあ? ぶっ殺されたいの? まぁ、いいわ。その……私に釣り合う人間ってなかなかいないのよね……だから……友達っていうか、フレンドっていうか、ダチ公っていうか……そういうのができないのよ」 「ヘー、そんな欠点があったなんて僕はびっくりだー」  ハジメはわざと棒読みで言ってやった。 「だから……」  御影は「女の子にそんな事言わせるな」と言わんばかりにハジメを睨みつける。  ハジメはそれに応え、 「僕とお友達になりましょうってことですか。仕方ありませんねー」 「違うわよ、このボウフラ野郎。調子に乗んな」 「え、今の流れは……」 「あんたみたいなアンボンタンが私の栄誉ある友達第一号なんてごめんよ。あんたは私の奴隷。わかる?」  美少女の奴隷――生憎、ハジメにはそっちの趣味はなかった。 「僕はそんなプレイやったことないんで、務め上げることができるか不安です」 「何、下品なこと想像してんのよ、この童貞。つまり……」 「つまり?」 「私に友達ができるよう、これからサポートしなさい」  ハジメの頭では、何をどうお膳立てすればいいのか皆目見当がつかなかった。 「サポートって何を」 「ほんと馬鹿ね。それがわからないからあんたみたいなウスノロにお願いしてんのよ。あんたみたいにバカっていうか、隙が多い方が友達できやすいんでしょ。だからあんたが考えなさい」 「うえーい、まさかの丸投げですか……でも、クラスが違ったら流石に……」  違ったらというより違え、とハジメは心の中で神様にお願いしていた。日本には八百万の神がいるってんだから、そのうちの一人くらいその辺で立ションしながら聞いていてもいいだろう。 「安心しなさい。私達は同じクラスよ。だからさっきあんたの名前を確認したじゃない」  そういえば、とっくの昔に「神は死んだ」なんて言われてたことを思い出すと、ハジメは勝手に神を殺したニーチェを恨んだ。 「まずは明日から私と一緒に通学するのよ。ボッチよりはそっちのほうがまだ見栄えがいいでしょ?」  さっそくアクセサリーみたいな扱いに不満を覚えたハジメは、 「全くわかってませんね。もしバカップルだと思われたら……」 と、やんわり断ろうと試みた。 「それはないから大丈夫よ」 「ですよねー」  やっと意見が一致したハジメだが、全く嬉しくない。 「私もこの寮の二〇五号室に住んでるから、これから毎日起こしに行ってあげるわ」 「わーい。ありがとー」  幼馴染に起されて学校に行くのが夢だったハジメだが、いざこんな状況になってみると、玄関に塩をあらん限り撒きたくなった。 「とにかくあんたは、私にマブダチができるまで、奴隷でいてもらうわ。もし約束を破ったらカンニングで合格したってばらすわよ。いいわね」  これを言われたら、もう何も反論できない。 「はい……」  しぶしぶ返事をして、晴れて御影の忠実なしもべになったハジメは、 (ああ、知るのは名前だけでよかったのに‥‥‥) と失意に暮れ、もはや鍋の味なんかどうでもよくなり、ポン酢をドバドバかけて腹の中に流し込むと、さっさと自分の部屋に帰って行った。  ハジメはこうして最悪の高校デビューを飾り、人を見た目で判断してはいけない事を学んだ。 三章:クラスメート                 記念すべき初登校。  桜舞い散る通学路を女の子と二人で。  男ならテンションが限界突破して、自然と会話も弾むシチュエーション。  もっとも、そのお相手が御影では、ハジメの心が晴れることは無い。しかし、全くの沈黙というのも精神衛生上よろしくないので、無理やり話を振った。 「そういえば、うちの学校って入学式とかありませんでしたね」 「ええ、校長がそういう非生産的なこと嫌いって話よ。だから今日も体育館に全校生徒が集まることなく、自分のクラスの教室に集合して午前中で終わり」 「ヘー、ずいぶん適当ですね」  ハジメは、そんなところは自分好みの素晴らしい校風に感じられた。 「学校の案内を全然見てなかったあんたがそれ言うの? 適当同士、校長先生と気が合うんじゃない?」 「こんなイカレタ学校の親玉と馬が合うわけないじゃないですか」 「まぁ、確かに校長先生が入試でカンニングするわけないもんね」 「むー……でも、その共犯者は誰だっけかな?」  ハジメなりのささやかな反抗。 「あん? あんたが勝手に見ただけでしょ」  御影の一睨みであっさり鎮圧された。 「御影さん。そろそろ学校の敷地内なんで言葉づかいを……」 「あ、そうですね。ハジメ君」  御影は口調だけでなく顔つきまで変える。 「とりあえず今日はクラスメートがどんな奴らかチェックしましょうね。なんたって私の友達第一号なんですからしっかり吟味してからじゃないと」  そんな会話をしながら歩を進める。寮から学校まではゆっくり歩いても5分で着く距離だった。 (寮から学校までが近くて助かった。いや、あんなとこに下宿しなければ、そもそも御影と一緒に登校しないですんだのに……)  ハジメがそんなことを考えていると、あっという間に校舎に到着した。  二人のクラスは一年一組。ハジメは自分の名前も一だから、なんだか少しくどいなぁと思いながら、これから一年間世話になる教室に入ると、自分の席に着く。  出席番号の席順で『滝川』と『田伏』の間に割り込んでくれる救世主的な者はいなかった。  しかし、御影の後ろの席に座って、彼女の背中を見るとハジメは何となくホッとした。もし御影の前の席だったら、背後から視線を感じてとても気が休まらない。それに加えて、前にも別のへンな奴がいたら、サンドイッチにされて身がもちそうにない。 (もう、変人に絡まれるのはごめんだ)  そう思いながら、なんとなく隣の席を見ると、ハジメは後悔した。  また変なのがいる。  教室の中で学帽なんて被っているそいつはずいぶん小柄だった。おまけに学ランまで着ているが、顔や体格を見る限り女の子に違いない。  しかし、もし男だったら申し訳ないと思ったハジメは、横目でチラチラ観察していた。  すると学ラン少女? がギョロリ眼球を動かし、ハジメと目が合う。 「自分、何わしにガン付けしとんねん」  汚い言葉遣いの関西弁。その声は紛れもなく女の子のものだった。 「君、女の子……だよね?」 「あたりまえやろ。目ぇついとんのか?」 「いや、だって学ラン着てるし」 「女が学ラン着ちゃあかんのか」 「そんな女の子は初めて見たから」  後ろの異変に気付いた御影も会話に参戦した。 「ハジメ君、失礼だよ」 「おっ、こっちの方は分かっとるみたいじゃな」 「こんな可愛い男の子いるわけないじゃない」 「なんやそれ、わしを舐めとんのか」  どう扱えばいいんだよ。  そう、心の中で愚痴ったハジメは、論理的な思考が苦手そうな少女に呆れていた。  そもそも、こんなに頭の悪そうなのがあのテストを解けたとは信じられなかった。 「おまえ、ほんとにテスト受けたのか?」 「当たり前やろ」 「お、お前に……あれ解けたのか?」 「あんなん解けるわけないやん。あんなん全問正解できる人間おったら尊敬するわ」  その言葉にホッと胸を撫で下ろしたハジメだったが、いよいよ謎が深まってきた。 「え、じゃあどうやったんだ? 学校にカチコミでもかけたのか?」 「わしはそんなアホちゃうわ。ただ誠意を見せただけや」  ハジメは改めてその少女を観察してみる。御影が言った通り、たしかにかわいい。小柄で童顔。くせ毛のショートカットがボーイッシュで、学ランの上からでは女性にあるはずの胸の膨らみが確認できないから、中学一年生くらいの超絶美少年が学校を間違えて来てしまったでは? というのがハジメの第一印象だった。しかし、こうしてみると、一部マニアックな性癖の持ち主には唯一無二の存在なのかもしれない。  そう思うとハジメの頭に下品な考えが浮かんで、 「……まさか、色仕掛けか?」 「わしはそんな軽い女ちゃうわ。これや」  そう言うと学ラン少女は懐から小刀を取り出し、ハジメの眼前に突き出した。 「おい、なに物騒な物出してんだよ」 「何勘違いしとるん? これは鉛筆を削る小刀や」 「ずいぶん古風だけど、それでどうやって誠意を伝えたんだ?」 「これで指を切って、血で『入れてください』書いたら合格や。ほんま話の分かる学校で助かったわ」  そんなホラーテイストの答案用紙には達磨じゃかなわないなぁ、とハジメは少し悔しかったが、勝ってしまったら変人の仲間入りしてしまう気がして、負けてよかったとも思える。それに、この学校が変なのはもう知っていたので、いまさら合格基準が何なのかなんてハジメには、もうどうでもよくなっていた。ただ目の前の少女をもの珍しそうに見る事にした。  それが気に入らないのか、今度は少女の方が、 「そういう、お前はどうなんや。裏口ちゃうんか?」 と、ハジメに食って掛かってきた。 「違います。っていうより尊敬してもらわなくちゃな。俺と前の席の御影さんは全問正解で何もやましいことなく合格したんだ」 「……ほんまか?」 「あ、ああ……」  ハジメは自分でも歯切れが悪いのを自覚していたが、目の前の少女は信じ込んでいる様子なので安心した。 「わし……勉強は管轄外なんや」 「勉強が管轄外の学生なんていねーよ」 「……ちょっと、アレルギーがあるというか……苦手なんや」  勉強の話になった途端、先ほどまでの威勢は鳴りを潜め、塩をかけられたナメクジみたいにしおらしくなってしまった。  それが何だかおかしくてハジメは、 「ふーん、で?」 と意地悪な言い方をした。 「その……これから一緒のクラスメートとして……仲良くノート写したり、カンニングさせてほしいねん」 「馬鹿か、お前。なに初対面の人間にカンニングをお願いしてるんだよ」 「うう……」  少女は反論できずに、黙りこくってしまった。  そんな彼女は、変な奴には違いなかったが、御影のような裏のある危険さは全く感じないし、馬鹿だけど、明るくて話しやすいやつだということは、この短時間の会話でハジメは理解していた。だから、つい男友達と話す感覚でからかいたくなってしまったのだ。  そんなハジメを、先ほどから会話に参加したい様子の御影が諌める。 「いいじゃないハジメ君。こんな一生懸命頼んでるんだから」  穏やかな口調だが、目は『てめーが言えた義理じゃねーだろ』とハジメを罵倒している。  その通りだった。 「こっちはやっぱり話がわかるみたいやな、名前は?」 「えーと、私は滝川御影。これからよろしくね」  御影はおそらく何回も練習したであろう笑顔を作る。 「ミーちゃんやな。わしは黒川イイコや。よろしくな」 「み、ミーちゃん?」  いきなりあだ名で呼ばれて、御影は戸惑っていた。 「あれ、嫌やった?」 「ううん。いい、すごくいい」  御影はまんざらでもなさそうだった。  そんな様子を眺めているハジメに、黒川が、 「あ、ついでにお前も」 「ついでかよ。俺は田伏ハジメ」 「ふーん。面白くない名前やが、まあええ。よろしくなハジメ」  そんな風に三人が自己紹介を済ませた頃には、すっかり生徒がそろい始業式の時間が迫っていた。  自然と教室のドアに生徒たちの視線が集まる。 (俺達の担任ってどんな人なんだろ?)  皆が同じような事を考えていると、担任が入室してきた。すると、男子生徒は大人の色香に当てられ、息を飲む。  担任は真っ白いパンツスーツで身を固めた女性だった。  腰まで伸びた黒い髪と純白のスーツとのコントラストが印象的だった。年は二十代半ばくらいだろうか。制服を着れば生徒に混じっても違和感がなさそうなくらい若々しい顔立の美人。しかし、そのボディーラインは、成熟した大人のものだった。スーツから僅かに覗くワイシャツの嫉から、どれくらい巨乳であるかがうかがえる。中学時代に『一番エロい土偶品評会』などという珍妙な催しを女子の冷たい目線にもめげないで主催した程の巨乳フェチのハジメは、その極上のボディーラインをなぞるように眺めた。 (ああ、生徒は変な分、教師はまともそうでよかった。しかも綺麗だし)  そんなハジメの心に訪れた束の間の安息を破壊するものが一人。 「先生か、わ、い、いー」  金髪のいかにもチャラチャラした男子生徒が教壇へ向かう彼女の行く手を阻むと、いきなりナンパをはじめた。  また変なのが……あいつはきっと答案に彼女を一〇〇人作るとでも書いたのだろう、とハジメは呑気にチャラ夫を分析していた。いつのまにか生徒が変なことに関してはすっかり耐性ができてしまった。  そんなハジメをよそに、担任は冷静に対応して、 「そうですか? ありがとうございます。これから始業式を始めますので席についてください」 「えー、この学校ってさー、文句があったら言っていいんだよねー?」  見た目はチャラチャラしていても、昨日までそんな事を知らなかった自分よりずいぶんしっかりしているな、とハジメは感心してしまった。 「そうですよ。何か不満な事がありましたら、担任である私に言ってください」 「それじゃー早速いいですかー?」 「……どうぞ」  担任は困ったような顔をして、首をかしげた。 「先生がこんなに美人だと、学業に専念できそうにありませーん」  それを聞いた男子生徒は「確かに」と納得する。そうすると、チャラ夫はまるで自分たちの代弁者に見えてきた。 「私はどうすればいいのでしょうか?」  担任はオロオロした様子でなんだか頼りない。  チャラ夫はそれに付け込むかのように、 「先生じゃなくなればいいんですよ。だから、俺の彼女になってもらって手取り足取り教えてもらいたいなぁーなんて」 「わかりました」  担任はあっさり了解した。  それにはチャラ夫もその様子を見守る生徒も言葉を失う。 「ただし、勝負に勝てば」 「あ、まあ、そうだよね? よっしゃ、なんでも受けるぞ」 「では、相手に『ごめんなさい』 って言わせた方が勝ち。それでいいですね?」 「ああ。勝てば、何でも言うこと聞いてくれるんだよな?」  彼のいう『何でも』のうちそのほとんどがエロスである事を男子は察知し、また共感していた。こんな美人に何でもしていいなら、男だったら誰だってそうする。しない奴は男ではない。  そんな男たちのロマンスという名の妄想が醸し出す空気にあてられた女子生徒たちは、不快な表情を浮かべていた。  そんな事をよそに話は進む。 「ええ、なんでも言うことを聞きますよ」  担任はにっこりほほ笑む。  その笑顔がチャラ夫のハートを貫いたらしい。なんだか急に初々しい顔になっている。  それを見たクラスメートは、不思議とチャラ夫のサクセスストーリーを応援したい気分になっていた。  こうして客席もある程度温まってきたところで、 「じゃあ、始め」  なんだか知らないが勝負が始まった。  しかし、チャラ夫もそれを見守る生徒も、何をすればいいのか皆目見当がつかなかった。  対照的に担任は淀みのない動きでチャラ夫に歩み寄る。 「もう始まってますよ?」 「はいっ! ぐうぇっ!」  返事をした瞬間、チャラ夫の喉を担任の貫手が貫いた。 「えっ!」  突然の惨状にハジメは声を漏らす。  ハジメは生まれて初めて体罰の現場に居合わせてしまった。もっとも、担任の繰り出した攻撃は教育的要素は無く、もう純粋な暴力にしか見えなかった。  しかし、その攻撃する動きには洗練された美しさがあった。  もっとも、そんなことは攻撃を食らったチャラ夫には関係ない。喉にダメージを受けた時特有の嘔吐感が彼を襲っていた。彼はうずくまって喉を抑えて何かを吐き出そうとしたが、出てくるのは声にならない悲鳴と溢れ出る激痛、それと申し訳程度の唾液だけ。しかし、何もしないよりは幾分かマシなようでしばらくすると、なんとか正常な呼吸ができるまで回復した。  それまで、静かに見守っていた担任は、苦しんでいる彼の肩にやさしく手を置いた。  彼は許しを請う眼差しで顔を上げる。  そこには、この世の全てを許してくれる聖母のような笑顔があった。  その笑顔がチャラ夫のハートを再び貫いた。  ついでに担任の爪先も彼の喉を再び貫いた。  喉を蹴りあげられては、もう前のめりになっていられない。チャラ夫は哀れにも、後頭部から地面に激突して、仰向けに倒れていた。  担任はそんな彼に馬乗りになる。 『女教師が男子生徒に馬乗りになる』  なんとも危険な響きだが、この状況で指す危険は社会一般のそれではない。  チャラ夫のサクセスストーリーを期待した者は、いきなりの修羅場にただただ呆然としていた。  そんな生徒をよそに、担任は笑顔を崩さずにチャラ夫の顔面をなぐり続ける。  チャラ夫も必死に両手で顔をガードしようと試みる。しかし、滑稽なほどに、その防御はザルで、あっという間にチャラ夫の顔が腫れあがっていく。  担任は次第に口元を手で覆い、片手でパウンドを打ち込むようになる。  目の前の哀れな生徒の姿を見るのがつらくなったのかと思われたが、その目尻は下がり、不気味な笑顔を隠して、楽しんでいるようだった。  そんな彼女もようやく飽きたのか、満足したのか、攻撃を止めると、 「そろそろいいかな? 例の言葉は?」 「つふっぎょつぐなんぐあい」  チャラ夫の謝罪は未知の言語になっていた。 「ごめんね。うまく聞き取れないの。もう一回」  恋人の耳元に囁きかけるような甘い言い方だった。もちろんそんなシチュエーションではない。  チャラ夫は呼吸を整えると、 「ご、ごめんな……」  まで言うことができた。 (あと『さい』をいえば救われる。頑張れ)と見ている者は心の中で声援を送った。  しかし、そんなクラスメートの願いを惨く散った。 「さぶうえっ」 (何やってんだよ、あとちょっとなのに)とも思えたが、チャラ夫に過失は無かった。  最後の『い』を言う直前、担任の貫手が彼の喉に突き刺さったのだ。 「あらあら、すいません。手が滑っちゃった。てへっ」  生徒達は正確無比に手が滑るという怪奇現象を目の当たりにした。もちろんそんなものはねつ造である。しかし、真実を主張しようなどという聖人は現れなかった。それほどに、担任に恐怖していたのだ。この時になって、ハジメはようやく男女共学の全寮制が成り立つ理由と陽子が口をつぐんだタブーの代償を理解できた。  生徒たちが恐怖の眼差しをむけていると、まともに声を出せないチャラ夫に馬乗りになっていた担任はようやく腰を上げ、 「じゃあ仕方ありませんね。黒板に『ごめん』と『なさい』をセットで書いてね。ついでに『これから一年間、教室の掃除は自分一人でやります』 って書いたら、この勝負おわりにしましょ」  チャラ夫はよろよろと立ち上がり、震える手でその言葉通りの宣誓文を必死になって書く。 無事にやり遂げると、 「よくできましたねー。えらいえらい」  担任が彼の頭を撫でた。  チャラ夫……正確には元チャラ夫は担任に頭をふれられた瞬間、怯えた子大の様にビクッとちぢみ上がった後、自分の席に戻る。  そんな彼に送られるクラスメートの視線は軽蔑などではなく感謝――人類で最初にフグを食した偉大な勇者にささげられる眼差しだった。彼の犠牲で危険を発見できたのだ。  そんな怯えている生徒たちに、担任が号令を出す。 「それでは起立」  全員、スックと背筋を伸ばして直立する。 「礼」  正確な45度。 「なおれ」  シンクロ顔負けの連携。 「着席」  余分な物音のない、流麗なsit down。  全てが一糸乱れぬ動きだった。今日そろったばかりとは思えぬ素晴らしい練度に、生徒自身が驚いていた。  担任はそんな生徒を見渡すと挨拶を始めた。 「これから一年間、このクラスの担任を務める鬼瓦珠代です。早速、しゅくせ、じゃなくて指導を行ってしまいましたが、私は皆さんがこれから伸び伸びと学生生活を満喫できるよう努力していきますので、よろしくお願いします」 『粛清』と言いかけた担任のマニュフェストを信じる者はいなかった。  鬼瓦は、そんな生徒の心理を見透かしていた。 「皆さん、不思議そうな顔をしてますが、先ほどのは指導ですよ。もし本気なら、最初の貫手で頸動脈を掻き切ってますし、蹴りで頚椎を破壊することもできました。それにマウントなんてしなくても、踏みつければ顔面陥没くらい簡単にできますし、あんなやさしく殴ったりしません。だってそうでしょ? マウントをとれば、目を挟り、鼻を潰し、耳を削ぐことだってできますが、三浦君は私の可愛い可愛い生徒ですのであれくらいで済んだんですよ?」  チャラ夫の名前は三浦君らしい。  三浦君は担任に可愛いと思われていたことに感謝していた。そうでなければ彼はこの世にいなかったんだから、仕方のないことだった。 「それで、皆さんの自己紹介はめんどくさいので割愛します。今日はさっさと始業式を終らせますので、その後、各自でゆっくり行ってください」  思いの外ズボラな性格らしく「意外と気が合うかもしれないなぁ」と一瞬頭によぎった考えをハジメは白紙にした。血まみれの彼女と自分みたいな人畜無害な人間と馬が合うわけがない、と信じたかったのだ。 「で、本日決めなくてはいけないのはこのクラスの学級委員長です。ほかの役職の任命に関しては学級委員長に全て一任します。この学校の学級委員長は皆さんの想像しているのよりも大きな権限を有しており、文字通りクラスのリーダーになっていただきます」  文字通りのリーダーを決めるらしいが、ハジメにはもっとも縁の遠いものだし、御影も興味なさそうにしていたので、ハジメはようやく緊張の糸を緩めた。 「では、学級委員長をやってくれる方は手を挙げてください」 と、鬼瓦が笑顔で言うも、 (こんな担任の元で学級委員長をやる物好きはいないだろう)  生徒の多くはそう思っていたが、 「はい、わしがやります」  黒川が発射されたロケットみたいな勢いで挙手をした。  それを見たハジメは、 (こんな変なのがやるくらいなら俺が……)  そんな考えが芽生えたが、すぐに思いとどまった。学級委員長なんてやったら、あの担任と接する機会が増えるのは明白だった。  でも、こいつが学級委員長ってのもなぁ……と頭を抱えていると、 「はい」  別の生徒が立候補した。  こっちの物好きも女の子だったが、隣のへンチクリとは偉い違いで普通の見た目だったので、ハジメはホッとした。  髪を後ろで束ねて、制服をピシッと着こなしていて、いかにも委員長といったオーラを纏っている。ただ、気が強そうで、ハジメとしては少し距離を置きたいタイプだった。  そして、これ以降、誰も名乗りをあげるものはいなかった。 「他にいませんね」  鬼瓦は、なんだか少し残念そうな口ぶりで、 「それでは、手っ取り早く決闘で決めますので、皆さん机を後ろに動かしてスペースを作ってください」  その言葉に、クラスに再び緊張が走る。  勝負で決めるというのを知っていたが、こんなにシンプルなやり方だとは誰も予想していなかったし、教師が決闘なんて口にするとは思いもしなかった。そもそも、決闘は犯罪である。  鬼瓦は、ドン引きしている生徒たちに申し訳程度の解説をした。 「あ、言い忘れましたけどこのクラスでの問題の解決法は基本的に決闘です。この世で一番の力は金でも権力でも無く暴力ですからねー。だからアメリカがあんなに偉そうにしてるんですよ。それに初対面の人に投票するのも気が引けるでしょうから……私なりに考えてのことなんです」  その発言に生徒のほとんどは委縮してしまった。特にこれから実際に戦う黒川は石になったように固まっていた。  なんだか可哀そうなのでハジメは彼女に声をかけることにした。 「おい、お前喧嘩なんてやったことあんのか? やめといたほうが……」 「ア、アホか。わし位の大物になるとビビッて誰も喧嘩なんて売るやつは居らんかったわい」 「……つまり、やった事ないんだな」 「うるさい。いいか、目ん玉かっぽじって、よーく見とれ」  そんな馬鹿なセリフを言い放つと、黒川は机を踏み台代わりにして、 「てやっ」  という掛け声とともに宙を舞い、見事な前方宙返りをして見せた。鞍馬天狗顔負けの滞空時間も見事であったが、着地も鮮やかであった。 「えへへ、どや」  小柄な体格に見合わぬ身体能力を披露すると、黒川はクラス中に笑顔を振りまいた。  それにクラスは湧き上がる。調子のいい生徒は口笛を吹いて、彼女の身体能力を讃えた。  そんなクラス始まって以来の明るい空気だったが、 「学校の備品を踏みつけるとは何事ですか!」 という一喝に団欒ムードは吹き飛ばされた。  担任の逆鱗に触れたと皆が思い、肝を冷やしたが、怒鳴ったのは鬼瓦ではなく、もう一人の学級委員長候補だった。  それに気付いた黒川は、 「ちょっとぐらいええやないか」 「いけません。学校の備品はあなただけのものではありません」 「けーち、けーち」  早速口げんかを始めた二人を暖かい目で見ている鬼瓦が、 「まあまあ、喧嘩はいけませんよ。それでは前に出て、軽く自己紹介をして、決闘を始めましょう」 と、なんだか矛盾したことを言うと、二人を教室の前にできた開けたスペースに移動させた。  二人の立候補者は教卓の前に並ぶと、クラスメートに向かって自己紹介を始めた。 「わしは黒川イイコじゃ、ここをしめるんで、これからよろしくな」  いきなり変な宣言をしたが、見た目のほうがへンテコなので誰も突っ込まなかった。  一方、まともな方は、 「河原崎葵です。よろしくおねがいします」  礼儀正しく挨拶を済ませた。学校のパンフレットに起用してもいいくらい身なりがきちんとして、美人ではあった。スラッと長い手足と、スレンダーな体格で、隣にいる黒川よりも頭一つ分くらい、背が高かった。というより、それくらい黒川がチビだった。  一応、自己紹介が終わったところで、鬼瓦は、 「これより、決闘を行います。ルールは目つぶし以外は何でもありです。私が『やめ』というまで行います。用意はいいですか? 少しくらいなら時間をあげますけど」 「では、着替えと準備運動をさせていただきます」  そう言うと河原崎は何の躊躇なくブレザーとスカートを脱ぎだした。すると下には予め用意していたであろうスパッツが現れた。  一瞬、期待を裏切られたような、顔をした男子生徒だったが、柔軟体操を始めた河原崎の体にくぎ付けになった。小振りな胸の膨らみとは正反対に、肉付きのいい下半身に自然と目が行く。さらに、目を凝らすと、余分の肉の無い引き締まっていることがスパッツ越しにもわかる。その臀部から大腿部にかけてのラインが年頃の男子には何とも刺激的だった。河原崎が柔軟運動をすればするほど、男子生徒の体の一部は固くなる。  ハジメもその一人だったが、くぎ付けにされたのは思春期だからという理由とは別に、彼女の体の柔らかさに感嘆していたのだ。バレリーナというよりヨガの達人みたいな柔軟性。それを見せつけられると、なるほど、喧嘩も強いのでは……少なくとも黒川の宙返りより、ずっと実用性があるように思われた。  そんな感じで、クラスの視線を集めている河原崎は、 「あなたも、動きやすい格好になったほうがいいんじやない?」 と屈伸運動をしながら、目の前の腕組みをしてふんぞり返っている相手にアドバイスを送った。 「お、おうよ」  黒川は促されるように、学ランを豪快に脱ぎ捨てた。学ランの下には男子同様、Yシャツをきていたが、やっぱり胸はぺったんこだった。そのまな板っぶりは一部の男子を魅了したが、ほとんどの生徒はその小柄な体躯を見て、保護欲を掻きたてられていた。  二人が準備したのを確認した鬼瓦は早く始めたい様子だった。 「では、そろそろいいですか?」 「おう」 「はい」 「では構えて」  二人は向かい合って構える。そして、この時点で両者の実力差が如実に表れていた。  喧嘩をしたことがないらしい黒川は、格闘技など全くやったことのないハジメから見ても素人丸出しの構えだった。両手はボクシングのように構えてはいたが顎は上がり、体は真正面に向いて棒立ち。さらに体中に力が入っていて、俊敏な動きはできそうにない。  一方、河原崎の方は何かの武道をやっているのだろう。肩幅くらいの足幅、相手に対してはすに構え、その両手は自然に置かれ、視線は黒川をまっすぐ捉えていた。  なんだかやる前から、勝負が決まっているようだったので、できる事なら、さっさと終わってもらいたいとハジメは思った。女の子が痛めつけられる姿など見たくない。  しかし、そんな願いは通じず無情にも開始のゴングが鳴らされる。 「はじめっ」  鬼瓦が開始の合図を出した瞬間、河原崎の右拳が飛燕の如き素早さで黒川の顔面に襲いかかった。 (ジャブってやつなのか?)  そんなハジメの思考が終わる前に、黒川の顔面のあった場所に到達していたその拳は空を切っていた。  黒川が仰け反るように、避ける。大口をたたくだけの事はあって、反射神経はいいようだった。  これは意外と長引くのかもしれない、と皆が思った矢先、虚しく空を切っただけで終わったかに思われた河原崎の右手は、もとの位置に戻らず黒川のYシャツの襟を掴んでいた。 「っ!?」  捕まれた当の本人だけでなく、クラス中が声を漏らす。黒川の襟を捕まえた河原崎は左拳で殴る体制に入っていたのだ。 「やられる」  そう思ったのだろう。黒川は咄嗟に両手で顔面のガードを固めた。  それを見て、ハジメはホッと安心した瞬間だった。 「ぐえっ!」  縊り殺された鶏のような声。黒川の声だった。  ほとんどの生徒が何が起きているのか把握できなかった。ハジメもその一人だった。 (まさか、自分の目ではとらえられないほどの速さの攻撃がされたのか?)  一瞬、そう思ったがそんな様子は無い。それにひとつ気になっていることがあった。あの黒川の叫び。妙に聞いたことがある気がした。 「まさかっ」  ハジメの予想は、黒川がガードを下ろして河原崎の右手を掴み返したとき、的中していたことが判明する。  河原崎の右手。黒川の襟を掴んでいるだけに思われた右手。その親指は掴むという行為を他の四指に任せ、代わりに黒川の喉を深々とめり込ませていた。黒川は、先ほどのチャラ夫同様、喉を攻撃されていたのだ。  その喉への攻撃を和らげようと、黒川は爪先立ちで逃れようとする。  そこからは一瞬だった。  バタンッ  重心が浮いた黒川は、河原崎に投げられていた。どんな、投げ方だったのかはハジメにはわからい。技の名前を知らないというよりも、あまりにも突然であり、電光石火の出来事だった。  そんなスピードで床に叩きつけられた黒川は気絶していた。  その黒川の顔面にとどめの一撃が加えられる、まさにその時。 「やめっ」  鋭く短い鬼瓦の声が、追撃しようとしていた河原崎を制した。 「そこまで。完全に気を失ってますから。残心も大事ですけどそれ以上はだめです」 「すいません」 「いえいえ、きっちり手加減してましたから感心してしまいました。黒川さんもすぐに目を覚ますでしょう」  あれで手加減?  ハジメは、いよいよこの学校にはついていけないなぁ、と痛感した。 「それでは、このクラスの学級委員長は河原崎さんです。クラスの決め事は基本的に全て委任します。これから他の委員もきめますか?」 「いえ、結構です。全て私がやります」 「えっ?」  クラス全員が口を開けていた。  呆気にとられているクラスメートに構わず河原崎は話を続ける。 「私が、このクラスの業務すべてを行います。その代り、校則違反をした生徒に制裁を加える権限をいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」 「私は構いませんよ。ただ、皆さんがどう思うか…‥誰か河原崎さんの提案に反対の人はいますか?」  鬼瓦がアナウンスしたが、不服を申し立てるものはいなかった。ハジメは仕事が無くなって喜んでいたし、多くの者はすでに河原崎に飲み込まれており、文句を言いそうなのはすでに気を失っていた。 「誰もいないようですね。それでは区切りもいいですし、始業式はこれで終わります。明日からは普通に授業があるのでしっかり準備してくださいね。それでは机をもとの位置に戻してから解散してください」  嵐のような始業式だった。 「あっ、そうそう。だれか黒川さんを介抱していただけますか」  思い出したように、鬼瓦が言うと、 「はい」  ほとんど間髪入れずに御影が名乗り出た。ハジメも隣のよしみとして、それに付き合うことにした。ハジメ達がのびている黒川のところに駆け寄ると、鬼瓦の言った通り、皆が帰り始めた頃には意識を取り戻した。 「うーーん。あっ、あれっ、なんじゃ? 勝負は?」 「お前の負けだよ。覚えてねーのか」 「あっ……ああ、そっか。ギリギリで負けたんやったな」  記憶障害なのか、ただ馬鹿なのか判断に迷ったが、すぐに病院に連れて行く必要は無さそうだ。思ったよりも体へのダメージは無いらしいが、勝負に負けて落ち込んだ様子で、なんだか不憫に感じられた。  ハジメとしては、傷心の女の子を一人にするのも忍びなかったので、 「おい、お前の下宿先どこだ? そこまで送ってやるよ」 「……あらへん」  頭を地面に叩きつけられて本当に記憶が飛んだのか、黒川は宿無し宣言をした。 「はあ?」 「わし今日学校に着いたばっかや。だから、これから宿を探すんよ」 「どんだけ無計画なんだよ。じゃあ荷物とかは?」  黒川はまだ誰も使っていないはずの教室の後ろのロッカーを指差した。その先にはマカロニウエスタンの荒くれが使っていそうなズタ袋がぶち込んであった。 「仕方ないよ。えーとイイコちやん、よかったら私達の寮に来る?」  その御影の言葉に、黒川は嬉しそうに、 「ほんまに? 行く行く」  子犬の様に無邪気にはしゃぐ。  そんな黒川に、 「やめておけ」  ハジメはそう言いかけた。しかし、御影の鋭い眼光がそれを許さなかった。  栄えある御影の友達第一号候補、もとい生贅第一号に黒川は知らないうちに名乗りをあげていた。  ***  結局、黒川の荷物一式をハジメが背負って、下宿に連れて行くことになった。さっき歩いたばかりの通学路を、黒川という戦利品を獲て引き返すことができた御影は満足げだった。しかし、黒川は違う。 「くそー、次はわしが勝っちゃるぞ」  まだ諦めていない黒川にハジメは呆れていた 「なんで、そんなに学級委員長になりたいんだよ?」 「わしはこの学校をしめる番長になる存在なんやぞ。学級委員長くらいやってないとかっこ付かんやろ」  番長と学級委員なんて対極に位置するものだろとハジメは思ったが、表と裏を両方掌握するのも、一応理にかなっている気もした。もっとも、黒川はそんな戦略は考えないで、ただ目立ちたいだけのようだった。 「そのコスプレは番長のつもりだったのか。でも、なんでだ? ビーバップハイスクールでも見て影響されたのか?」 「コスプレちゃうわ、それにそんな軽い理由やない。兄ちゃんの仇討ちや」  黒川はなんだか悲しい宿命を背負っているらしいが、ハジメはこんな真昼聞からそんな重い話を聞きたくない。  しかし、御影にとっては黒川の事を知るチャンスだった。 「イイコちゃんのお兄さん……殺されちゃったの?」 「兄ちゃんを勝手に殺すな……いや、確かに殺されたようなもんや」  実際に命を落としてはいないらしく、ハジメは一安心した。 「わしの兄ちやんは地元じゃ敵なしの番長で、最高にかっこよかったんや。いつもリーゼントでバッチリきめてて、調子に乗った奴を上級生だろうと教師だろうと見つけては血祭りにあげて……でも、弱いもんには絶対に手え出さんから皆に頼りにされる、わしの自慢の兄ちゃんやったんや」 「かっこいいお兄さんなんだね」 「せやろ。でな、そんなでっかい兄ちやんを受け入れてくれる高校は地元には無かったんや。そんな時にこの鷹城学園から声がかかって、仕方なく入学してやったんや。でもな……兄ちゃんは勝負に負けて、自慢のリーゼントも切られて……いまじゃ、地元の村役場の受付をやるほど丸くなってもうたんや」  いい事っていうか、この学校に感謝しろよ、と言わせないほどに黒川は悲しそうな表情を浮かべていた。 「そんな……イイコちゃんのお兄さん可哀そう……」 「別に今の兄ちゃんもわしは大好きなんや。でも……わしはやっばり、七又かけたタコみたいなスケコマシを裸にひん剥いて市中引き回しにしたり、威張るしか能のない先公を屋上から吊るして懲らしめてた頃の兄ちゃんが一番すきなんや。だから、この学校で兄ちゃんの代わりに立派に番長つとめて、兄ちゃんが間違ってないって証明したいねん。なのに……しょっぱなから負けてもうた」 「大丈夫だよイイコちゃん。ここに応援部がいるもの」  御影はハジメを指差した。  いきなりふられて、ハジメは顔をしかめた。もっとも、それは黒川も同じで、そんな得体のしれない部活を不審に感じていた。 「応援部? ふん、頼りになりそーもないわ」 「大丈夫、私も協力するから。それに結構実績のある部活なんだよ」  そういったところで、ちょうど寮に到着した。  そこで、ちょうど帰ってきたばかりの陽子と鉢合わせ、明るく寄ってきて、 「おー、おかえり。ん、なにそのオチビちゃん。もしかして、幼女誘拐?」  彼女が興味津々に大股で近づこうとすると、黒川は「ひっ」情けない声を上げて、御影の後ろに隠れてしまった。学生服を着ていても凛々しすぎる金髪の上級生が怖いらしい。  そんな黒川に御影が、優しく語りかける。 「大丈夫だよ。この人は私のお姉ちゃんで、応援部の団長さん」 「ミーちゃんのお姉さん? 嘘や、全然似てへん。どう見たってバリバリの不良や」 「失礼な子だなー。まぁ、よく言われるからいいけどー。ハジメ君も何か言ってあげてよ」  自分も黒川の立場だったら似たような反応をする気がして、何を言えばいいのかわからなかったハジメは、黒川をからかう方向でいくことにした。 「そんなんで番長になれんのかよ。俺なんて、一目見て『ああ、この人のいる部活に入りたい』って惚れ込んで、出会って五分で入部したのに、お前さんは……」 「ハジメ君たら口がうまいんだから、お姉さんうれしー」  そういって、陽子はハジメを抱きよせた。彼女の胸の感触にハジメは顔がニヤつくのを押えられなかった。  そんな光景を見た黒川は、御影の後ろに隠れるのをやめた。 「ふん、ハジメが怖がらん人間に、わしがビビるわけないやろ。えっと、わしは、黒川イイコです。これからよろしくお願いします」 と、陽子に礼儀正しく挨拶をした。番長見習いは、強そうなものには案外従順だった。 「で、この子何しに来たの?」 「えっと、イイコちゃんは私たちのクラスメートで下宿先を探してるの、あと応援の依頼も……」 「あっ、そうなの? じゃあ、立ち話もなんだからひとまず中に入ろう」  陽子は、三人を自室に誘った。  ***  ひとまず陽子の部屋にはいると、四人は炬健を囲んでいた。 「そういえばクラスの担任は誰だった? 結構重要だぞ」  陽子は興味津々にハジメに尋ねる。 「わかります。今日、一人のハリキリボーイがその身を犠牲にして俺たちに教えてくれましたから」 「で、名前は?」 「鬼瓦珠代先生です」  その名前を聞いた瞬間、陽子の顔が曇る。 「……カラスか」 「カラス?」  真っ白のスーツを着ていた彼女から、かけ離れたイメージの単語にハジメは違和感を覚えた。 「鬼瓦先生の鷹校生時代の通り名だよ」 「えっ? 鬼瓦先生はこの学校の出身なんですか。」 「ああ、鬼瓦先生はうちの部のOBでね。七年前は団長をやってたんだよ。その頃はいつも学ランの代わりに、特注の裾の長い真っ黒のスーツを着て応援してたって話」 「それだけでカラスなんて言われてたんですか? なんとも安直というか、ユーモアがないですね」 「いや、笑うんだよ……」 「笑う? 別に笑ってたっていいじゃないですか。あれでも一応人の子でしょうし」 「問題はその笑い方なんだよね。対戦相手が敗北を悟って絶望する姿を見ると聞いたこともないような声で笑うんだって。その笑っている顔を誰にも見せないように、顔を手で覆い、体を丸めながら震わせて……。その時、被っている学帽がまるで囁のように見えて、その姿からカラスつて呼ばれるようになったらしい」  ハジメの脳内では禍々しい光景が再生されたが、黒川はそれに憧れているようだった。 「かっちょえー。わしもそういう通り名欲しい。ミーちゃんなんかないかな?」 「えーと……小っちやくてかわいいからペンギンじゃだめかな? ちょうど学帽も被って、嘴みたいだし」 「いやや、もっと悪の親玉みたいな感じがええ」 「でも皇帝ペンギンっているからかっこいいよ」 「皇帝か……えへへ」  黒川は皇帝というワードで満足した様子だった。もっとも、こんな単純な奴がペンギンなんて通り名だという情報が鳥たちのネットワークに流れたら、南極から抗議文が殺到しそうだな、とハジメは冷めた目で黒川を見つめた。  そんな、お子ちゃまな黒川を陽子は暖かい目で見ながら、話を戻した。 「鷹の様に孤高であれって謳っている学校のトップがカラスなんて言われてたんだから、面白い話なんだけど、担任にはなってもらいたくないなぁ」 「そんな人がなんで教師に?」 「さあ? 校長から頼まれたってのは確かだけど、おっかなくて誰も聞いたことがない。担任なんだから聞いてみたら?」 「いや、やめときます」  ハジメは危険に近づかないことの大切さを、ここに来てから嫌というほど学んでいた。  そして危険の警告を伝える三三七拍子――陽子の着メロが鳴った。 「おお。うん、うん……OK、行くよ」  陽子は、応援の依頼をあっという間に承諾していた。 「また応援ですか行ってらっしゃい」 「ハジメ君、今から暇だよね。『鬼ごっこ』をやるんだけど、どうだい?」 『鬼』という言葉だけで、ハジメはもうお腹がいっぱいだった。 「えっ……いえ全然、これから黒川を番長にするための会議を開かなくちゃいけないんすから」 「おおー、応援部としての自覚が出てきたみたいだね。じゃ、ちょっくら行ってくる」  そう言うと、学帽を被って、陽子は駆けていった。  ハジメは応援に出陣する陽子の後ろ姿――正確には尻を見るのが病みつきになりそうであった。  そんな風に、陽子に見惚れていたハジメに黒川が話しかけてきた。 「ハジメ、わしに協力してくれるんか」  嬉しそうに目を輝かせている。  何だか邪けんに扱うのも心苦しいので、ハジメは適当な助言を彼女に授けることにした。 「ああ、バッチリサポートするぜ。いまからアドバイスしてやるから、よーく聞けよ」 「うん」 「まずは服装だ。いまどきそんな時代遅れな番長じゃ舐められるだけだ」 「ふむふむ」  いまどきの番長のトレンドなどハジメが知るわけがないので、自分の趣味全開の番長像を語りだす。 「まずはしっかり女子の制服を着ろ。せっかくこの学園の制服はかわいいのにそれを着ないなんて馬鹿丸出しだ。それからニーソックスは常に装備しろ。たいていの敵はそれを見れば戦意を喪失する。あと絶対領域は必ず学校に行く前に確認しろ」 「ふむふむ」  黒川は絶対領域など知らなかったが、見栄を張って知ったふりをしていた。 「そして次は口癖だ。その格好になれば絶対に男どもがお前を狙って寄ってくる。でも番長だから当然舐められちやいけないわけだ。そういうシチュエーションになったらなんて言えばいいか分かるか?」 「んーー、『わしに何か文句あるんか。かかってこい』やな」 「馬鹿か。0点だ」 「マジで?」 「いいか模範解答は何の脈絡もなく『べ、別にあんたの為にやったんじゃないからね』だ。ちょっと顔を赤らめてそっぽを向きながらいうのがポイントだ。腕組みしながらなら高得点のチャンスだ。やってみろ」 「べ、別にあんたの為にしたんやないんやからな」  少し恥ずかしそうに、言われた通りに従う黒川は可愛かった。  これでさっきの格好でいえば、雄であれば、絶対イチコロだ。むしろ可愛すぎて他の野郎に見せたくないという欲がハジメの中で湧いてきた。それと同時に、小さい女の子にいけないことを教えているようで、少し罪悪感を覚えた。 「よし、合格点をくれてやろう」 「で、次は?」 「次ってなんだよ。今のを実践すればほとんどの男子の心を侵略して、いつの間にか番長的な何かになってるはずだ」 「でも、それじゃあ、河原崎を倒して学級委員長になれないやないか」 「無理無理。それは諦めろよ」 「え?」  黒川にとって一番アドバイスが欲しいことだったが、ハジメにとっては一番どうでもいい事だった。 「おまえ秒殺だったじゃないかよ」 「ちょっと油断しただけや。次やれば勝てるわい。な、ミーちゃん」  いきなり話題を振られて、流石の御影も困惑していた。ハジメはそんな彼女を見れて、黒川に少しばかり感謝していた。 「……ちょっと難しいかな」 「ミーちゃんまで」 「じゃあ、ちょっとテストするよ。いい?」  黒川はテストという言葉だけで露骨に嫌そうな顔をした。 「勉強じゃないん?」 「うん、私の掌を見て」  御影は黒川の前に手を出すと、黒川は間髪入れずに覗き込む。                                                               「ん? なんもあらへんよ」  御影は視線を上げた黒川の頭を撫でながら、 「はい、不合格」 「え、なんで? まだなんもしてへんよ」  ハジメも何がいけなかったのか見当もつかなかった。むしろ、子犬的な可愛さがあって、彼の中では高得点だった。 「だから不合格なの。なんで私の掌見たの?」 「だってミーちゃんが見ろって言ったから」 「じゃあ、なんでさっきの河原崎さんと戦った時、学ラン脱いだの?」 「だってあいつが動きやすい格好になれって言ったから」 「敵に有利な事いう人がいるわけないよ。あれはイイコちゃんの学ランを脱がせて、仏骨投をするため。イイコちやんはまず、喧嘩とスポーツの違いをしっかり確認しなくちゃだめ。主導権握られたらそれだけでも不利になるんだから。常に相手の意図を読む癖をつけようね。いまのだったら、少しでも私が何を考えてるのか探ろうとしないと」 「ヘー」 「そうやったのか」  ハジメと黒川は同時に額いていた。すると、互いに目があった。そして、互いが同じレベルなのかとこれまた一緒のタイミングで溜息を吐く。  黒川は気を取り直して、 「んで、その仏骨投ってなんや?」 「少林寺拳法の技の一つ。首の急所を攻めて、相手を投げる技」  ハジメもなんだか気になって、 「少林寺って中国のアチョーとか言ってるやつですか?」 「ちがうわよバッ、ジメ君。ルーツはそうだけど少林寺拳法は日本発祥の武道だよ。麻薬取締官なんかが採用してたりするの」  馬鹿と言いかけたが、何とか軌道修正した御影の涙ぐましい努力にハジメはむかついて、少林寺拳法が結局なんなのか頭に入らなかった。 「そうなんや。ミーちゃんなんでそんな詳しいの?」 「えっ……お父さんの友達の釣り仲間の妹さんのはす向かいの旦那さんから聞いたの」  なんとも下手な嘘だったが黒川にはそれで十分だった。御影は完壁美少女だということを隠して、黒川に接近するつもりらしい。 「んじゃ、どうすれば勝てんの?」 「うーん、普通にやったら100%負けるし、今から武道習っても、間合いの取り方とか、目付ができるようになるまで、少なくとも半年くらい頑張らないと……」 「そないに待てへん。なんか必殺技習得してガーンやってドワォって勝ちたい」 「そんなの無理だよ」 「無理なんか‥…」  二人立て続けにダメだしされると、今までの威勢がどこか行って、黒川はすっかり落ち込んでしまった。  そんな姿を見て、御影は必死に知恵を振り絞っているようだった。 「……じゃあ、せめて顔面攻撃禁止ってルールなら」 「それならなんとかなるん?」 「五分五分くらいにはなんとか。ねっ、応援部さん」  そういってハジメの方を向くとロパクでなにか言っていた。たぶんこの無能とかそんなかんじだろう。 「うん。そうそう。僕もずっとそれを言おうとしてたんだよ。うん、いいね顔面攻撃禁止。なんてったって女の子だもの」  ハジメには理由は分からないがなんだかそれでいける気がした。  黒川も同じ調子で希望を見出した様子だつた。 「よっしゃ、そうと分かればもう勝ったも同然や」  前向き過ぎたが、ハジメはそんな性格が少し羨ましかった。  そんな黒川を微笑みながら見つめていた御影は、 「勝負はひとまず置いとくとして、下宿先はどうするの?」 「うーん、ミーちやんもハジメもいるから、ここにする」 「じゃあ、早く学校に報告した方がいいよ。鍵も学校が管理してるから」 「わかった、じゃあ学校に報告してくる」  黒川は即決すると、部屋を飛び出していった。  早速、相手の言動の裏を読もうとしない黒川だったが、ハジメは彼女を責める気にはなれなかった。なにしろ、自分もその詐欺の片棒を担いでいるから。  そんなハジメの隣で、黒川の姿が見えなくなつた瞬間、御影は仮面を脱いでいた。 「クックツク、どうかしら、友達っぼかったでしょ」  さっきまでの優しい少女は、どこかへ消えてしまった。 「ええ、っていうかあんな変な奴が栄えある友達第一号でいいんですか?」  ハジメは『さんざん釣り合う人間がいない』とか『あんたが考えろ』なんて言った割にはずいぶん無計画に感じていた。 「あんたより全然マシよ。それに……」 「それに?」 「なんか放っておけないっていうか、人懐っこいっていうか……かわいいわよね」 「まぁ、それは確かに」 「てなわけでイイコの番長への道は私も協力するから、あんたもちっとは働きなさいよ」 「ヘーヘー。御影さんってけっこう優しいんですね」 「優しくなんてないわよ。私がいないと何もできないくらいに依存させるのよ。そうすれば、私の本性を知っても逃げ出さない友達になってるはずよ」  それは友達ではない気がしたが、ハジメはめんどくさいのでいちいち言及しなかった。  結局、黒川は二〇二号室に住みつくことになり、ハジメのご近所にまた変なのが増えてしまった。 第四草:日常 「ハジメー朝だぞ。学校だぞ。行くぞー」  ハジメの部屋の玄関先で黒川が怒鳴っていた。  隣人の近所迷惑なモーニングコールでハジメは起床した。  寝坊か?  そう思って枕元の目覚ましを見るとまだ七時を少し過ぎたくらい。今から学校に行ったら、ゆっくり行っても七時半くらいには着いてしまう。ギリギリに教室に入るのをポリシーとしているハジメにとって、早すぎた。  ゾンビみたいな緩慢な動きでベットから這い出たハジメが、欠伸を噛み殺しながら玄関のドアを少し開けると、朝日に負けないくらいまぶしい笑顔の黒川が覗いてきた。 「はえーよ、こんな時間に学校行って何すんだよ」 「何って、一番乗りして掃除して教室をピッカピカにした後に、みんなに挨拶して、わしが学級委員にふさわしいってアピールするんじゃ。だから手伝って」 「はいはい。一人で頑張れよー」  無駄にエネルギッシュな黒川の顔を見ると、不思議と疲れた。それに、こんな朝っぱらから変人と二人で学校に行きたくない。  何より、ハジメには先約があるのだ。そちらが来るまで、惰眠を食ろうとした時だった。 「ミーちゃん、ハジメがやる気ないー」 (えっ? 御影もいる?)  寝ぼけて気付かなかったが、黒川の背後に御影もいた。 「そんなことないよ。ちょっと寝ぼけちゃってるだけだから、もう一回お願いしてみよ」 「わかった。ハジメ、一緒に行こー」  そんな黒川の後ろで御影が口を「か」「ん」「に」「ん」「ぐ」と分かりやすくロパクしていた。 「うん。行こー」  ハジメは顔を洗って、制服を着ると朝飯も食べずに部屋を飛び出した。  雀たちがチュンチュンと縄張り争いに明け暮れる早朝の通学路。  春眠暁を覚えずって気分のハジメの隣で、乙女たちは会話を楽しんでいた。 「ねえねえ、ミーちゃん。昨日寝る前に腹筋三〇〇回やったんよ。あとね、朝五時に起きて、五キロくらい走ったんよ。これで勝てるかなー?」 「イイコちゃん、すごいねー。じゃあ、今夜はスクワットもやってみて」 「うん。それで勝てるん?」 「たぶんいけるよ。イイコちゃんはもともと身体能力も反射神経もすごいから」 「えへへー。番長になるために体を鍛えておいてよかったわ」  昨日出会ったばかりにしてはやけに仲がいい。どうやら、御影は、ほとんど風来坊の黒川のために、家具の調達やら、町の案内など、身の回りの世話をして信頼を掴んだらしい。  そんな二人を見て、ハジメとしては「友達ができたね。おめでとう御影ちゃん。これでもう君は一人じゃないよ」と祝辞を送って、奴隷の身分からおさらばしたかった。しかし、契約期間は、本性を見せても逃げられなくするまでなので、その日は果てしなく遠く感じられた。  そうこうしてる内に、教室に着く。 「おはよー」  一番乗りで扉を開けた黒川が、誰も来ていないはずの無人の空間に挨拶したと思ったが、 「おはようございます」  爽やかな挨拶が帰ってくる。 (えっ、誰?)  と、ハジメは一瞬困惑したが、まるで憑き物が落ちたような変身を遂げていた頭を丸めた三浦君がいた。律儀に掃除をしているようだった。  しかし、黒川はそれが気に入らないらしく、 「何勝手に掃除しとんねん。わしがやるんやぞ」 「いえ、鬼瓦先生に任せていただいた仕事なので……」 「そんなのええ。わしが先生に頼んどいたる」 「でも……」  黒板には昨日の誓約が残っているので、三浦君は引き下がれないのもハジメは領けた。  黒川も、それを察したのか、めんどくさくなったのか、 「まぁ、ええ。わしも一緒にやっちやる」 「あ、ありがとうございます」 「ええんや、なんかあったらわしに言えよ」 と、大見得切って掃除を始めた。と言っても、無駄にパワフルな箒の使い方をするので、かえってゴミが散らかり、ハジメと御影がフォローする羽目になった。  そして、あらかた床掃除も終わった頃。 「おはようございます。ずいぶんと早いんですね」  河原崎も登校してきた。 「あらあら、お掃除ですか。よかったら、私も手伝いますよ」 と、昨日のことなどなかったかのように、黒川に接した。  黒川はそれに憤慨し、 「そんなことよりわしともう一度勝負じゃ」 「それは学級委員長の座を賭けろって事?」 「当たり前や、それ以外なんかあるんか?」 「いいけど、あなたは何を賭けるの?」 「ふぇ?」  そんな事を微塵も考えていなかった黒川は豆鉄砲をくらった鳩みたいな、間抜け面をした。 「だって私だけ賭けるんじゃ損でしょ。あなたは何か賭けられるほどのものを持ってるの?」 「んむぅぅ。じやあこれ」  黒川のかわいらしい人差し指はハジメを差した。 「「えっ?」」  ハジメと河原崎はまったく同じ反応をしたが、御影は領いていた。 「わしの大事な子分じゃだめか?」 「おい、俺はいつ、お前の子分になったんだよ」 「だって協力してくれるゆうたやん。だから、人質になってくれ。安心せえ、絶対守って見せる」  男なのに囚われのヒロインみたいな扱いを受けたハジメは、当然黒川に抗議する。 「協力なら昨日したじゃねーかよ」 「わしにスケベな格好させようとして、変なこと言わせて、ニヤついてただけやん」  河原崎の鋭いまなざしがハジメを突き刺した。 「ば、ばか、誤解を招くような事言うな。俺はただ、おまえに清く正しい学生生活のあり方ってのを……」 「何が清く正しいや。あの後ミーちゃんから、ああいうのは危ない趣味の奴が楽しむもんやって聞いたぞ」 「はぁ? それじゃあ、男のほとんどが危ない趣味ってことになるじやねーか。謝れ、この世のツンデレ好き皆に謝れ」  味方同士で不毛な口げんかが始まってしまった。  ハジメと黒川はくだらないコントをしているのに呆れた河原崎が口を開く。 「そんな事より、黒川さん」 「何や」 「あなたお菓子を校内に持ち込んでいませんか?」 「えっ、これのことか?」  黒川は学ランのポケットの中から板チョコの残りを取り出した。河原崎は透視ができるのか、鼻が利くのか知らないが、見事にチョコを発見した。  そして、子分だと思うなら朝飯を食ってない俺にくれてもいいじゃねーか、とハジメは思いながら、チョコを見つめると、 「やっぱり。没収です」  昨日の攻撃同様、河原崎の右手が目にも止まらない速さで、板チョコをかっさらっていった。 「何すんねん。それはわしの非常食、エネルギーの源や」 「ダメです。チョコレートを持ち込んでいいのは、バレンタインデーとホワイトデーの時だけです」 「その日はいいんだ」  意外と融通がきく人なのだとハジメは思って、口から自然に言葉が出ていたが、 「実際に没収したら、大量のチョコが溶けてひどい目にあつたので」  そんなことが無いらしく、ハジメは落胆した。 「いやや。甘いもんないと集中でけへん。おちこぼれてまう」 「じやあ、代わりにこれを」  幼稚園児みたい駄々をこねる黒川に、河原崎はカバンの中から、飴を三つほど取り出して、手渡した。  しかし、余計に黒川は納得がいかなかった。 「お前も菓子持ち込んでるやないか。しかも一袋」 「飴は、喉の炎症を抑えたり鼻の通りをよくしたりと、大変有用だからいいんです。それより他の生徒の持ち物も調べるのでこれで」  河原崎は立ち去ると、他の生徒の持ち物検査を始めた。かなり情け容赦なく摘発していく。  河原崎が、そんなふうに、学級委員ぶりを披露する一方で、黒川は、 「ふん、ガキじゃあるまいし。ほらハジメ、くれてやるわ」  そう言って、ハジメに飴を放り投げた。  飴をもらったハジメは、少しでも腹の足しになればと思い、一つだけ舐めてみた。甘くて、わりかし匂いの強い飴で、なんだか余計に空腹を感じてしまった。これ以上舐めても、かえってひもじい気がしたので、残りはとっておくことにした。もっとも、ポケットに一旦しまえば、クリーニングや衣替えまでその存在を忘れているだろうと思ったが、「ま、いっか」と学ランの胸ポケットの奥に押し込んだ。  こうして、顔面攻撃禁止どころか、勝負にさえ持ち込むことができないまま、黒川のキャンペーン活動は終わった。  一時限目の直前。  授業が始まれば、何も起きないだろうとハジメが思っているところへ、隣の席の黒川が話しかけてくる。 「なぁ、ハジメ。教科書見して」 「初日から忘れんなよ」 「忘れたんじゃなくて……」  黒川はもじもじして、手を弄る。 「……まさか」 「まだ……買っておらん」 「馬鹿じゃねぇの? 教科書持ってないくせに学級委員長なんてやろうとしてたのかよ」 「最初の授業なんて、ドッヂボールとかハンカチ落としでもやると思ってたから……」  言い返す言葉が思いつかない黒川は僻いて黙ってしまった。  その姿を見たハジメは、なんだか自分が悪いみたいでなんだか嫌だったし、自身も教科書を購入したのは昨日だったのであまり強くは言えなかった。 「しゃあねぇな。その代り、帰りに買ってけよ」 「うん、ありがと」  百点満点の笑顔で黒川はお礼をする。  ハジメは机をくっつけて、しぶしぶ教科書を見せることにした。しかし、正直乗り気では無かった。というのも一時間目の授業は国語――担当教員は鬼瓦だったので、なるべく目立ちたくはなかったのだ。教師の怒るタイミングほど、理不尽で予測不能なものはないから、何がきっかけで指導という名の粛清が行われるか分かったことではない。  ハジメは、鬼瓦はズボラそうだからさぼってくれないかなぁ、と期待したが、鬼瓦は時間通りに教室に到着した。  そしてハジメ達の最初の授業。 「授業を始めますそれではまっ」 と、鬼瓦が授業始めようとした時だった。  ゴンッ  謎の落下音が、授業の出鼻を挫いた。  その音にクラス中が戦懐する。生徒たちは、いきなり鬼瓦の機嫌を損ねるような馬鹿を頭を動かさないようにして、血眼になって探す。  そんな中、微動だにしない者が二人だけいた。  一人は脂汗を流して知らんぷりを決め込もうとしているハジメ。  もう一人はそれとは対照的にとても落ち着いていた。というよりも授業開始早々、催眠術にかかったように眠りに落ちた隣の席の黒川だった。  クラス中が犯人に気が付くとハジメに「早く起こせ」と視線を送る。  日向で丸まって惰眠を貪る猫のような黒川の隣で、ハジメはヒシヒシとクラスメートの視線に晒されると、いよいよ無視できなくなってきた。  仕方なく、肘で黒川の体を揺すってみるも、 「むにゃむにゃ……チユイエーンジイグエッチヤアア……」  黒川の誕を垂らした口から意味不明の寝言を唱えさせただけで、清々しいほど効果は無かった。  黒川は夢の中で人類の脅威と戦っているようだが、現実世界ではハジメはもっと恐ろしい脅威に立ち向かっていた。  ハジメは刺激をワンランクアップして穏やかな寝顔の頬を指でつついた。女の子特有のプニプニした柔らかい頬。なんだか雪見大福みたいなそれは、触ると何ともいえない快感であった。暇な時なら、いい玩具になるだろうが、今のハジメは「遊びでやってんじゃないんだよー」と言わんばかりの真剣さだった。  しかし、それでも全く動じない黒川の頬を、思いっきりつついてやろうとした時。 「いってー!」  寝ぼけた黒川がハジメの指を噛みついていた。ハジメが絶叫しながら、誕まみれの指をおもいきり引き抜いた瞬間、 「田伏君」  初めて担任に名前を呼ばれる。その声は隠し味の怒気がピリッと効いていた。 「はいっ」 「授業中は私語厳禁ですよ」  なんとも優しい笑顔だったが、その仮面の下で何を考えているのか全く読めないので余計に恐怖した。  結局、黒川は起きる気配がなかったが、その後は何事もないかのように授業が進んだ。鬼瓦としては、騒がない分には問題無いらしい。教師が認めるならと、河原崎も黙認していた。  もっとも、クラス全員いつ雷が落ちるのかそわそわした。特にハジメは自分の隣に避雷針を建てられた気分で授業の内容がちっとも頭に入らなかつた。  だから、授業が終わった瞬間に目覚めた黒川に愚痴った。 「おまえ、なに夢ん中で三つの心を一つにしてんだよ」 「なに言っとるん? わしがこのクラスを恐怖のどん底に叩き落とす愉快な夢をみとったんだよ」 「それは夢じゃないけどな」 「えっ、何のことや?」  本人の知らないうちに彼女の度胸は知れ渡り、一目置かれる存在になっていた。  うららかな陽気の昼休み。  結局、午前中の授業を全て寝ていた黒川は生き生きしていたが、隣でびくびくしていたハジメはすっかり疲弊していた。 「よっしゃ、ご飯や。作戦会議や。購買部に行くか? 学食か? なぁ、何にする?」  無性に生気みなぎる黒川は昼飯抜きでもいいだろうと思えたが、午後の授業はしっかり受けてもらわないとハジメがもたない。 「なんでもいいけど作戦会議ってやっぱり……」 「そうや、学級委員長になるための作戦会議や。教室でやったらあかんやろ。極秘事項なんやから誰にも知られちゃあかん」  極秘事項をクラスの中心で叫んでいる間抜けを目の前にして、ハジメは小さな溜息を一つ付いた。  そんな二人のやり取りを見ながら、なんとも憂いげに御影が何か言いたそうにしていた。 「あの……」 「どないしたのミーちゃん?」 「私、イイコちゃんとハジメ君のお弁当作ってきたの。一緒に食べない?」 「ほんまに? ありがとうミーちゃん」  その返事に、御影は嬉しそうな表情を浮かべた。 (健気でかわいいなぁ、裏がないんなら)  ハジメは御影の持っている弁当を、怪訝な顔つきで睨んでいた。  *** 「むっちゃ、おいしー」  黒川は御影の弁当を口いっぱいに頬張った。  馬鹿と煙はなんとやらとはよく言ったもので黒川の提案により、校舎の屋上で昼食兼作戦会議を行うことになった。もっとも、都会のちんけなビアガーデンなんかより空気も景色もいい。これだけでもこの学校に来た甲斐あったと思えたので、ハジメも文句は無かった。  そんな極上スポットで、議長の黒川は会議の進行などせず、御影の弁当を堪能していた。  一方、御影はCMみたいにおいしそうに食べる黒川の姿を満足そうに眺めている。 「口に合ったみたいで、よかった。ハジメ君もどう? おいしい?」 「はい、こんなにおいしい弁当は初めてです」  ハジメはべた褒めしたが、別に強要されたわけでは無い。本当においしかったのだ。見た目もブログなんかに載せてもいいくらいで、栄養バランスも計算されていた。  よほど美味しいのか、黒川はあっという間に平らげて、 「ごちそうさまでした」 と、礼儀正しく箸を置く。 「よし、ぼちぼち作戦会議に入るけど、まずはどうやって勝負に持ち込むかや」  ハジメはもぐもぐしながら黙って頷いた。というより、発言する気は毛頭なかった。 「んでな、やっぱハジメを人質にするくらいじゃダメやと思うんや。どないすればいいかな?」 「うーん、私が河原崎さんだったら、『今後一年間勝負を挑んでこない』くらいの条件はほしいかな。それに『顔面攻撃禁止』ってルールも欲しいし、先生に相談してみた方がいいと思うけど……」 「よっしや、それで決まりや。先生に聞いてくる」  会議は開始、一〇秒ほどで終わり、黒川は早速、鬼瓦に相談しに行った。  そもそも会議と言えるものか分からなかったが、グダグダ小田原評定をするよりこちらの方がハジメの性に合っていた。また、ハジメは黒川のそんなさっばりした性格が割と好きだった。だから、御影と二人きりになった途端、早く戻ってきてもらいたかった。  そう願っているハジメに、変身した御影が、 「ほら、もっと美味しそうに食べなさいよ。お天道様と大地の恵み、なにより私に感謝しながら」 「言われなくとも、美味しいですね」 「嘘じゃない?」  ブスッとした言い方だった。ハジメには黒川みたいな美味しそうなリアクションが足りないらしい。 「嘘じゃないですって。毎日作ってもらいたいくらいです」 「言われなくても、これから毎日作ってあげるから、全部食べなさいよ」 「ほんとですか? でも、なんだか悪い気が……」  どちらかというと、これ以上借りを作りたくないというのがハジメの本音だった。 「そんなことないわ。あんた、新陳代謝くらい知ってるでしょ?」 「今日の自分は昨日の自分とは一味違うぜ的な?」 「まぁ、あんたの理解はそんなもんで十分でしょ。人間ってだいたい五年くらいで物質的にはすっかり変わるって話よ。私たちみたいに成長期の若者ならもっと早いのかもね」 「ヘー、それと弁当の関連って何なんです?」  ハジメは、ミートボールを頬張りながら質問してみた。 「もし……仮に、これから三年間すべての食事を私が作ったとしたら……ね?」 「ね? って?」 「もし、そうしたら卒業するころには、あんたの体の大半は私の手料理で構成されてるってことよ」 「????」  意味が、意図が、目的が、思考が、とにかく理解不能だった。  文字通り箸を止めてフリーズしているハジメを、御影が忌々しげにねめつけた。 「何よ。文句があるんなら何かいいなさいよ」 「その……御影さんは僕の全て自分のものにしたいんですか?」  ハジメは自分でなんて馬鹿な事を言ってるんだろう、と後悔したが、 「悪い? どうせ心なんて私の物にならないんだから体くらい、いいじゃない」  傍から聞いたら、とんでもない発言。屋上に人はいないのが幸いだった。 「そんな……いっそ心だけ盗んでくださいよ」 「あんたから盗める心なんてどうせスケベ心くらいでしょ? 私はそんなのより熱い友情が欲しいのよ」  熱い友情を求める人間が体内にマーキングするとは思えなかったが、ハジメはつっこまなかった。 「そんなことないですよー」 「そんなことあるわよ。男なんてどうせ私をエロい目でしか見ないんだから。男女間の友情なんてどうせ性欲で上書きされるのが関の山」 「じゃあ、同性間でしか友情は成立しないってことですか?」 「女も駄目よ」 「えー」 「なにが『えー』よ。あんた知らないの? 女なんて嫉妬と自尊心と淫乱の混合物みたいな生き物なのよ。そんなのも知らないから童貞なのよ」  まるで自分は女ではないような物言いにハジメは呆れた。  ハジメも実際に、一見仲がよさそうに見えて友達の陰口を叩く女子の姿を目撃したことはあったが、そこまで結論付けられるとは考えてもみなかった。しかし、そういう基準なら黒川はかなりイイ線いってる気がした。良くも悪くも女らしくない。 「それじゃ、御影さんは誰なら友達になり得るんですか。今の理屈だと人類全員が友達失格じゃないですか」 「だから困ってるのよ。あんた何とかしなさい」  かぐや姫並みにむちゃな要求。質が悪いのは、なんの報酬もなければ、ヒントもない。 「……そもそも御影さんの友達の定義って何なんです?」 「私に何されても素直に喜んで、私に尽くしてくれる気の置けない存在かしら」 「さすがにそれは……」  友達じゃないのでは? と口ごもっているハジメに御影が、 「そういう、あんたはどうなのよ」 「いや、普通に……まぁ、自然に会話できれば大体皆友達じゃないですかね」 「ふーん」  なんだか納得のいかない様子だった。 「じゃあ、あんたの中では、私やイイコも友達なの?」 「まぁ、そんな感じですね。もっとも、御影さんは僕の事、奴隷だと思ってるし、黒川には勝手に子分にされてましたけど」 「そ、そうなの。あんたも相当変わりもんね。私の性格知っておいて、そんなこと言えるなんて。なかなか優秀な奴隷で、私は嬉しいわ」  ハジメが自分の性格の悪さを自覚している御影に幾分かおどろいている一方で、ハジメのご主人様はご満悦らしく、ほんのり顔を紅潮させた。 「そういえば、あんたイイコに指噛みつかれてたわね」  ご主人様は奴隷を気にかけているのだと、ハジメは早合点して、 「ええ、でも心配しないでください。甘噛み程度で怪我なんてしてませんから」 「そんなんじゃないわよ。私、同級生に指を噛まれたことなんてない」 「いや、僕だって初体験ですよ」 「あんたが私のしたことないことをするなんて、なんか許せないわ」 「……羨ましいんですか?」 「……」  沈黙しながらも、御影のジャイアニズムは全開だった。 「……イイコに『私の指を噛んで』ってお願いしたらやっぱり嫌われるかしら?」 「まぁ、荷物をまとめて寮から逃げ出すくらいわ」 「んむぅーー」  御影も頭では理解しているようだが、腹の虫がおさまらないらしい。 「じゃあ、仕方ないわね。ほら」  そう言って、御影はハジメの眼前に指を突き出した。 「ETごっこですか?」 「あんた、今の話聞いてたでしょ。さっさと私の指を噛みなさい。でも、あんま歯立てるんじゃないわよ」 「えっ?」 「さっさとしないと無理やりぶち込むわよ」 「は、はい」  ハジメは折角食べたものを吐き出すのも嫌なので、従うことにした。  女王に忠誠を誓う騎士みたいな気分で、白くてガラスのような透明感のある人差し指をそっと口に含む。  なんとなく気が引けて、舌や唾液が付かないようにしていると、 「もっと美味しそうに舐めなさいよ」 と、変な発破をかけられた。しかし、いくら本人の了承があっても、そんな気にはなれない。  そんな風にハジメが渋っていると、御影の指がハジメの口内で暴れだす。 「ふぐっ? んむぅーー」  ハジメは、ヤプな歯医者をつかまされた気分だったが、御影のつやつやの爪が舌に触れたとき、「おいしい」と思った自分が情けなかった。  しばらくすると、御影は飽きて、指を口から抜くと、丁寧にハンカチで拭く。 「なかなか悪くないわね。嬉しかったでしょ?」 「それはもう、こんなおいしい指は初めてです」 と、適当に合わせた。そもそも、他人の指を舐める事自体が初めてだったが、これでひと段落したとハジメが安心した。  しかし、まだ終わりではなかった。 「あんたも指出しなさい」 「……まさか」 「あんた、私に噛みついておいて、私に噛まれるのが嫌なんて言うんじゃないわよね」  噛みつかせておいて、どの口が言ってるんだかと思ったが、めんどくさいので、ハジメも指を出す。 「こうですか、あっ」  御影は腹ペコの釣り堀の魚みたいな勢いで食いついてきた。  黒川の噛み方は、子犬や子猫めいた可愛さはあったが、御影のはなんだかひどく人間的というか生々しかった。どこでそんな舌づかいを習ったんだと問い詰めたくなるような舐め方。御影の舌は、未知の生物のようにハジメの指に絡みつく。独特の粘液音と、御影の口内の体温がなんとも、エロティックだった。  ただでさえ意味不明の状況だったが、指に走る快感がハジメの頭の回路をメチャクチャにしたところで、御影がようやくハジメの指を吐き出す。 「ふうっ」 「満足しました?」 「まずい」 『もう一杯』とか『おいしいから、これから三食欠かさないわ』と絶賛されても困ったが、ハジメはちょっぴり悔しかった。 「まさか、コンソメ味でも期待してたんですか?」 「そうじやないけど……あんたもイイコもおいしそうにしてたから、なんか私だけ損した気分」  そんなシュールな肉体交流を終えたところで、黒川が帰ってきた。 「おーーい」  ハジメは、手を振って無邪気な笑顔で駆け寄ってくる黒川が救いの女神に思えた。  そんな彼女が、上機嫌で、 「ただいまー。ばっちりやったわ」 「おかえり、イイコちゃん。鬼瓦先生はなんて言ってたの?」 「先生に聞いてきたら、やっぱり、もう一回やるんならその条件ならOKやって。でも『顔面攻撃禁止』は相手が同意しないなら、弱みでも握って交渉しろって」 「やっぱり」 「んでな、ここに来る前に河原崎に『顔面攻撃禁止でいい』って聞いたらあいつ『やだ』って言いよった。わしにビビってる証拠じゃ。だから、『お前の弱み握ってやる』って宣言してきてやったわ」  黒川はどや顔で結果報告をした。  その言葉を聞いた瞬間、ハジメと御影は軽い眩牽を覚えた。  たまらずハジメが、 「お前、予告状を送る怪盗じゃないんだから……それ言っちゃったら、弱みなんて見せてくれなくなるだろ」 「あっ」  黒川はようやく自分の馬鹿さ加減を理解した。さらに、御影が眉の辺りをピクつかせているのに気が付くと、 「ミーちゃん怒っとる?」  目を潤ませながら黒川が言うと、御影はいつもの優しい女の子に早着替えした。 「そんなことないよ。これから一緒にとことん弱みに付け込んであげよう」 と、少々メッキを剥がしながら答えた。 「うん」  黒川も、嬉しそうに返事をした。  もっとも、そんな笑顔の二人を見てもハジメは気分が晴れない。  やっぱり、どちらと一緒に居ても疲れるのだと、再認識した。 「ふぅ」  慌ただしい一目もすっかり終わり、ハジメは自分の部屋で、ようやく一人になると、まったりとくつろいでいた。くつろぐといっても、ベットで寝っころがるのではなく、パソコンの前である。  パソコンに電源を入れると、生命の息吹を吹き込まれたように、ランプが点灯する。ハジメのこだわりの自作パソコン――といっても、その有り余るスペックのほとんどはネット検索能力、ようはエロ画像の為に行使されていた。  そして、いざネットという大海原へ出航しようとした時。  ピンポーン  無粋なべルが鳴ると少女の声がする。 「お邪魔しまーす」  深夜の来客。しかも美少女。しかし御影。  ハジメはがっかりしながら、部屋に通した。 「なんの用ですか? ルームサービスは頼んでませんけど」 「あんたのパソコン貸しなさい」 「えっ」  異性にパソコンの中身を見られるのと、パンツの中の粗末なナニを見られるのどちらがいいと聞かれれば、小一時間悩むのが現代の高校男児のあり方ではなかろうか。それほどまでにハジメのパソコンの中には、男の夢と煩悩とエロスがしこたま搭載されていた。  そんな、ハジメの心境を察した御影は、 「安心しなさい、あんたのエロ画像フォルダを漁る気はさらさらないから」 と、無神経に言い放つ。  余りにストレートな言い方なので、ハジメは少し傷ついて、 「失敬な、僕のパソコンにはそんなものありませんよ。おかずなら隣にきれいなお姉さんがいるから妄想にはことかきません」 と、強がった。  しかし、これは失敗だった。 「あんた、姉さんをおかずにするつもり?」 「あっ」  あまりにも似ていないので、つい姉妹だということを忘れてしまったために、口からこぼれた失言。ハジメは、また弱みを握られることを危惧したが、御影の反応は意外なものだった。 「……確かに姉さんはきれいで、かっこいいし、明るいから惚れちゃうのも分かるけど……奴隷なんだから私だけ見てなさいよ……」 「それはつまり……」  口に出そうとしたものがあまりにも下品なので、ハジメは言葉が詰まる。 「いや、そうじやないけど……なんかむかつくから……」  御影も自分の気持ちを整理できていないらしい。互いに何を言えばいいのか分からなく硬直状態がしばらく続いた。  たまらず、ハジメの方が、 「あのー……御影さんは結局何しに来たんです?」 「あっ、そうそう。ちょっと調べもの」  御影は思い出したかのようにパソコンに向かうと、とんでもない速さでキーボードを叩く。あっという間に、それまでのハジメのタイプ数を超えて、カタカタとキーボードは小気味のいい音を奏でていた。その様子は、ちょっとグーグル先生に聞いてみるってレベルでは無い。 「えーっと、何してるんですか?」 「ん、ハッキング」  無機質かつ簡潔な返答。 「どこに? いや、どことかじゃなくて純粋に犯罪じゃないですか?」 「知ってるわよ。だからあんたのパソコン使ってんでしょ」  他人のふんどしで相撲を取るなんてのは時代遅れな表現だなぁと、ハジメはしみじみ感じた。しかし、今はそんな国語のことより、自分がお尋ね者になるかもしれない事に恐怖した。 「CIAにハッキングとかは勘弁してくださいよ。僕はカーチェイスとか炎の中を無傷で走り抜けたりするタフガイじゃないんですから……」 「うるさいわ、黙りなさい。この学校のデータベースだから、たぶん大丈夫よ」 「なんで学校?」 「馬鹿は黙ってて。河原崎の弱みを探してんのよ」  それを聞いてハジメはようやく合点がいった。午後に「弱みを握ってやる」と息巻いた黒川は、河原崎のスカートめくりに失敗して、取り押さえられて、結局何も収穫は無かったのだ。だから、代わりに御影が自分のパソコンで暗躍しているのだ。一応、理屈は理解したハジメだが、目の前の光景に納得はできなかった。 「でも河原崎さんの弱みなんて学校が握ってるんですか?」 「ただの堅物がこんな学園にくるわけないでしょ。なんかしら黒歴史の一つや二つはあるわよ。そういうのはしっかり学校が調査してるはず」  ハジメは一応納得した。変人の御影が言うと妙な説得力があった。 「でも御影さんにハッキングなんて本当にできるんですか?」 「できるわよ。ちょうど、あんたのデータが先に見つかったから、試しに見てみなさい」  御影は椅子をずらして、わざわざ見やすいようにしてくれたが、正直ハジメはそんなもの見たくは無かった。ワンクリック詐欺にかかりそうになったとか、プールの授業で脱げた海パンが排水溝を詰まらせた等の目を覆いたくなるような黒歴史が白日の下に晒されるのが恐ろしかった。しかし、それを確認するため、恐る恐る目を開けた。モニターに映し出されていたのは、  田伏ハジメ  年齢‥15歳  身長‥170C m  体重‥61k g  特徴‥特になし。少々、オタク気味であるが取り柄は無い。あと、基本的に女にもてないらしい。ただ、試験中に初対面の人間を笑わせて、カンニングするという前代未聞の ことをしたので、今後の成長を期待して合格とする。                                                                                                                散々な評価だが、ハジメが驚愕したのはただ一点。それ以外はどうでもいい事だった。 「? か、カンニングがばれてる……」  そんなハジメの反応に御影は呆れて、溜息を吐いた。 「……やっぱり、まだ気付いてなかったのね」 「御影さんがばらしたんじやないんですか?」 「この学校には無数の監視カメラがあるって聞いてないの?」 「あっ」  ハジメは、あの時の試験監督がどうして職務放棄していたのか、ようやく理解できた。 「最初から学校は知ってたのよ。むしろ、カンニングしたから合格したらしいけど」 「この学校の合格基準って……」 「校長の趣味らしいわ。一芸に秀でたり、変なこだわりのあるような、個性のある人間を集めて、戦う姿を見たいって噂。ただ勉強のできるつまらない人間はとらないらしいのよ」  ハジメもいつのまにか変人認定されていたが、それに憤慨するより、 「じゃあ、なーんも心配する事なかったんだ。ヒャッハー」 と、御影の呪縛から解放されたことに歓喜した。 「でも、御影さんもおっちょこちょいですねー。これで僕は自由の身ですよ」  ハジメはようやく対等な立場だとアピールすると、御影は肩を落としていた。しかし、それはハジメが求めていた反応とは少し違った。 「遅かれ早かれ気付くと思ってたから、わざと見せたのよ。やっぱり……もう、私には協力してくれないの?」  そんな寂しそうに言われると、ハジメの調子が狂う。  それに、なんだかんだで今のところは無慈悲な奴隷的使役も、不当な暴力も受けていない。むしろ、弁当を作ってもらったり、今も黒川の為に尽力している彼女の事を、ハジメはむげにできなかった。  しかし、そのまま言ったら付け上がりそうなので、 「ま、まぁ乗りかかった船ですから。協力しますよ」 「そ、そう? しょうがないから奴隷のままにしてあげるわ」  互いにぎこちなく主従関係の継続を確認すると、御影は再び調子よくキーボードを叩く。  その音と、御影の背中がどことなく嬉しそうで、性格が悪いのは間違いないが、少し可愛く思える気がした。  そんな風にハジメが御影の後姿を眺めていると、彼女のミッションは成功していた。 「でたわ」 「どれどれ、って、え? これ……」  河原崎のスリーサイズとか水着写真を期待していたハジメは絶句した。 「ね、私の言ったとおりでしょ」  御影の言う通り、やっぱりこの学校は変人の溜まり場だとハジメは再認識した。 五章:自分 「なぁ、ハジメ……やっぱりわしはこんなの…‥」 「今更、何言ってんだよ。ここまで来て」  放課後の人気のない体育館裏。夕日がハジメと黒川をライトアップしていた。傍から見れば、甘酸っぱい青春のワンシーンに見えなくもないが、そんなベタな展開は、この学校には無縁だった。 「せっかく、河原崎さんの弱みを見つけて来てやったんだから活用しろよ。もうすぐ、御影さんが先生と河原崎さんを連れてくるんだから」  他人の弱みに付け込むなんてことは、黒川の番長哲学に反していたため躊躇っていた。そんな彼女をハジメと御影がサポートしていた。 「でも、こないなもんどこで見つけたんや?」  昨日の夜に御影がハッキングして見つけたことは内緒にして、ハジメが見つけてきたことにしたので、返答に窮する。 「……拾ったんだよ」 「えー、そないなアホな」  黒川にも通用しない嘘を吐いたのが、ハジメには悔しかった。 「ネットで」 「ああー、ネットなら確かに……」  それで納得するのもどうかとハジメは思ったが、 「とにかくもうすぐ河原崎さんがここに来る。台本はしっかり覚えてるな?」 「おう、任せとき。いろいろお膳立てしてくれてありがと」  そういって、笑顔で感謝されると、ハジメは少し心苦しかった。御影がやっただけで、自分はなにもやっていないのだから。さらに言えば、御影の友達作りにも何も貢献していない自分に気付くと、ダブルパンチだった。  ハジメが少し、アンニュイな気分に浸っていると、御影が鬼瓦と河原崎を連れて来た。 「こんな所に呼び出して何ですか? 学級委員の仕事が忙しいのですが」  河原崎は不満そうにしていたが、この場所を選んだのは黒川なりの気遣いだった。 「お前の弱みを約束通り握ってやったわい。今から読み上げるで。河原崎葵。一五才。AB型。両親は麻薬取締官で、英才教育をうけてて……だから、少林寺が強かったり、鼻がいいんやな。で、いままで、八人の男を振っとるらしいな。そんでもって」  黒川は河原崎はプロフィールを上から順番に読み上げてしまっている。他人の弱みに付け込むなんてことは彼女のポリシーに反していたため、少なからず動揺していた。  ハジメはそんな彼女にそっと耳打ちをする。それが今のハジメの任務だった。 「おい、そこじやない」 「えっと……あ、ここや。中学三年の時、クラスメートに全治四か月の重傷を負わせる」  ここまで、聞くと河原崎の形相が豹変した。犬歯を覗かせ、眼光が鋭くして、黒川と彼女の持っているプリントを睨みつける。それを目撃したハジメはゾッと寒気を感じながら、このファイルが真実なのだと悟った。  しかし、隣の黒川はその変化にひるまなかった。 「さらに、止めに入った教師を含め、合計8人に大けがを負わせて、自宅謹慎。それを叱った両親にも手を挙げて、この学校にきた。これで間違いないな」 「このっ、駄犬が……どこで嗅ぎつけたんだ」  今はまさに逢魔が時。  だから、怪物に出くわしても不思議でない。むしろこの時間帯が河原崎をそうさせたのだ。  ハジメが、そう自己暗示を掛けなければいられないほど、彼女の声は禍々しかった。  その声と、夕映えを集めてまるで異形の様に歪む河原崎の顔に、流石の黒川も気後れしてしまった。 「え、ああっと、ハジメが見つけてくれたんや」 「お、おいー」  自分まで河原崎に睨まれて、ハジメは情けない声を上げると、 「でも、なんでそんな酷い事したんですか?」  この中で一番常識人であろうハジメが、至極当然の疑問をぶつけた。 「何でって? だって我慢できる? 校則を生徒と一緒に平気で破ったり、教室でタバコ吹かすようなクソ教師が偉そうに私に説教垂れてんのよ? 黙ってられるわけないでしょ? さらに、法を守るように言ってた両親にも怒られて、ついね」  そんな理由では、ハジメにはわからない。 「そ、それはそうかもしれませんが、限度ってもんが……」 「……ピラミッドつて知ってるわよね」 「え、ええ」  ハジメはますます、河原崎のことが分からなくなった。いっそのこと、『今、私はエジプトのファラオの怨霊にとりつかれてるの』といってくれたほうが、幽霊のせいにできて、まだ踏ん切りがつく。  しかし、当然そんなわけがなかった。 「なら、ピラミッド凄さはなんだかわかる?」  そんなことを言われても、ハジメにはよくわからない。黒川に至っては、ピラミッドではなく黄金のツタンカーメンを想像していた。 「ええっと、ナポレオンを感動させたことですか?」 「あんな奴はどうでもいいのよ。本当にすごいのは現在に残るまで、残るほど完壁さ。それをさせたのは、英知ではなく、民を完全に統率した秩序。長い年月をかけて行われた大事業、大業。その全ての根底にあるのは秩序」 「秩序?」 「そう、秩序。子供のころから、徹底的にその大切さを刷り込まれたから、何事もきちっと整理整頓されてないと気持ち悪くてたまんないのよ。徒に和を乱す奴も許せないけど、とくに何の力もない奴が偉そうに統率してたりすると耐えられない。そんな奴が正しい秩序を築けるわけないもの。だから、この学校に来たんだけど」  ここまで来ると、ハジメは本当に相いれない存在に感じた。まだ、御影や黒川の方が共感できる。  そして、黒川も腹を決めて、 「わしはそんな秩序なんか糞くらえじゃ。だから、もう一回勝負せい」 「いいわよ。そのファイルも賭けるってんなら、顔面攻撃禁止でもなんでもいいわ」  その言質をとると、黒川は、 「よし今から勝負や」 「えっ!」  これに驚きの声を上げたのは御影だった。打ち合わせでは、三日後に勝負という台本だったが、勢いに任せて黒川を口走ってしまった。たしかに、あまり時間を置くと、河原崎に対策されると思って、仕方なく三日後にしたのだが、今から戦ったら絶対に負けてしまう。  慌てて御影が訂正しようとする。 「あ、違います。今からじゃなくて」  しかし、鬼瓦は、 「いえ、本人が今からと言ったのですから、部外者が口出しするのはいけません」 と冷たく言い放った。いよいよ万事休すかと思われたが、 「ただ……二回連続で決闘では面白みがありませんからね。ちょっと手の込んだ勝負を用意しますので、勝負は明日の帰りのHRにしようと思いますがよろしいでしょうか?」 「「はい」」  対戦する二人は同時に返事をした。御影も少しばかりホッとしていた。しかし、ハジメは『手の込んだ勝負』が気になる。  ハジメは半分怖いもの見たさで、聞いてみた。 「手の込んだ勝負って何をやるんです?」 「選挙です」 「じゃあ、決闘はしないんですか?」 「いえ、最後は当然、顔面攻撃禁止の決闘を行いますが……ここから先は明日のお楽しみです」                                                                                               夕日をバックに常に笑顔を崩さない鬼瓦が、ハジメにはとてつもなく不気味だった。  こうして、再選挙が行われることとなった。                                                                                               夕日がほとんど沈みかけた、寮への帰り道。  黒川の反省会になっていた。特にハジメが黒川を糾弾した。 「せっかくセッティングしたのに、なに調子に乗ってんだよ」 「だからすまんって言ってるやろ」 「幸い、一日猶予ができたけど……勝てるんですか?」  ハジメは思いつめている様子の御影に恐る恐る尋ねた。 「……イイコちやん、今日は私が付きっきりで特訓するわ」 「う、うん」  御影のプレッシャーに押されるように、黒川は返事をした。もっとも、御影は怒っているというより、頭を捻って、猫を被る余裕がないだけだった。  そうこうするうちに、寮に帰ると、特訓が行われる御影の部屋に歩を進めた。  しかし、御影の部屋に、ハジメが入ろうとすると、 「ハジメ君は入っちゃダメ」 「何でですか?」  ハジメも、異性に見られたくないなんて可愛らしい理由を期待してはいなかった。 「だって狭くなっちゃうじゃない」 「まぁ確かに」  これだけなら、ハジメは素直に納得したのだが、 「それに万が一、特訓の内容が漏れたら」 「僕は喋ったりしませんよ」 と言い張ってみたものの、口は災いの元をここ数日体現している自分に気付くと、語尾が少し弱くなっていた。  そんなハジメに黒川が、 「安心せいハジメ。世界大会の練習は非公開でやるやろ、あれと一緒や。それに敵をだますにはまず味方からや」  黒川も足りない頭を使って、なんだか気を使っているようで惨めに思えた。女の子の部屋を覗きたいというより、戦力外通告されたみたいでハジメは少し悔しかった。 「わかりました。まぁ、どうせ僕は取り柄のない男ですから、せいぜい部屋に戻って、世界中の神様に明日の勝利を願っておきますよ」  なんだかのけ者にされて面白くなかったが、その場にいても自分にできることがないのも自覚していたハジメは、自室に戻った。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  帰るや否や、布団に包まったが、むしゃくしゃして眠れそうにない。  暇つぶしがてら、コンビニで立ち読みしてから弁当を買って、適当にインターネットをしながらモリモリ食べたが、なんだか味気ない。  そうこうしてるうちに、特訓が始まってから二時間が過ぎた。隣の部屋に黒川が帰ってきた気配がない。やっぱり、気になる。 (そりゃあ、俺がいても何の役にも立たないっては分かるけど。今更仲間外れにされるのもむかつくな。そうだ……外から盗み聞きするくらいしたって、罰は当たんないだろ。神様はもうお亡くなりになつてるし)  ハジメは思い立つと、ベットから跳ね起きて、そろりそろりと忍び足で御影の部屋の前に行った。  二〇五号室のドアにそっと聞き耳を立てると、少しこもるが中の音は聞こえる。 「あっ……んっ……くんっ……あぁっ」    黒川の押し殺した声。壁越しに聞くと余計に隠微な響きだった。  盗聴という状況と相まって、ハジメは少し興奮してしまった。 「イイコちゃん、大丈夫?」 「ミーちゃん……もっとや」 「でも……」 「わしは大丈夫や。じゃから、もっと……激しく」 「うん……わかった。でも、イイコちゃん……きつかったら言ってね」  ハジメは、いよいよ中の様子を想像できなくなってきた。 「場所はおぼえた?」 「うん。完壁や」 「じゃあ、次……さっき私が見せたとおりに」 「おう、攻守交替や」  攻守交替?  何のことやらハジメにはさっばりだった。  すると、部屋の中から、一定のリズムで、パンッ……パンッ……、と肉と肉のぶつかりあう音。それに混じってかすかに荒い息遣い。 「どうや、ミーちゃん」 「もっと腰を入れて」 「こうか?」  パンッ 「あっ」                                                                                           より一層大きな破裂音と御影の艶めかしい声。                                                                                              思わずハジメは壁から耳を離してしまった。 「ミーちゃん、大丈夫?」 「う、うん。イイコちゃん、すごい……私、もう無理みたい」 「今のでいいんだよね」 「うん、そう、その場所と角度をしっかり覚えてね」 「オッケー」 「じゃあ、最後の仕上げは外でやろ。ここじゃ、床が抜けちゃう」  外で?  床が抜ける?  何する気なんだよ。  もはや、ハジメのエロ知識では及ばない未知のエリアに突入していた。 「合点じゃ。……ミーちゃん、ほんまにありがとな」 「いまさら、どうしたの?」 「勝負にこぎつけたのもミーちゃんとハジメのおかげじゃ。そして今もこうして特訓に付き合ってもらっとる。ほんま、頭があがらんわ。なんでわしなんかの為にこんなにしてくれるん?」 「そんな……イイコちゃんは私のとっ、とととと、友達だもん。……私って変かな?」  御影は明らかに動揺していたが、黒川はそれくらいで、気付くほど鋭くなかった。 「ミーちゃんは全然変やない。べっぴんさんで、やさしくて、料理も上手で、物知りで。わしが男やったら猛アタックかけとるわ」 「ありがと。でもイイコちゃんも男の子に人気あるみたいだよ?」 「ふん、男なんぞどうでもええわ。わしにはミーちゃんがついておるんやから、にゃっ?」 (にゃっ?)  黒川が魔法で猫に変身したみたいな声をあげ、余計にハジメの脳内映像は不安定になった。 「ミーちゃん、苦しー」  どうやら、御影に固く抱きしめられているらしい。 「明日は気を付けてね」  御影はやさしい声音で囁く。外からでは、演技なのか、本心なのか分からなかった。 「えへへ、なんかお姉ちゃんができたみたいや」  ハジメはなんだか微笑ましいような百合百合しい光景を思い浮かべていた。 「ほな、そろそろ行こか」 「うん。誰にも見つからない場所で、最後の仕上げ。がんばろっ」  御影がそう言うと、二人の足音が玄関に近づいてくる。 「げっ、やばい」  聞き入っていたハジメは、逃げるタイミングを逸していた。                                                                                               今から自分の部屋に行くには少しだけ時間が足りない。  一か八かで、隣の二〇四号室のドアノブに手をかける。捻ってみると回った。  ハジメは慌てて、陽子の部屋へノックも無しに駆け込んだ。  ひとまず、ホッと胸を撫で下ろしたが、映りこんだ光景で心拍数が跳ね上がる。  ちょうど風呂上がりの陽子が下着姿で、ドライヤーで髪を乾かしていた。黒の下着が、彼女の白い肌を強調して、大理石の石像のような美しさだった。さらに、その肉体美は、機能美、官能美、造形美など、あらゆる美を内包しており、劣情などを忘れて、ハジメは見惚れてしまった。 「ん、夜這いかい? ハジメ君ったら意外とだいたーん。お姉さん恥ずかしーわ」  おどけた口ぶりではそんな事を言っているが、裸を見られているのも構わず髪を乾かしていた。 「ち、違います」 「なんだ残念。隣の部屋で二人がハッスルしてるのに触発されて、内なる熱いパトスを私にぶつけに来たのかと思ったよ」 「先輩も聞いてたんですか? なんで止めないんです?」 「えっ? 喧嘩の特訓を止めるなんて無粋な事しないよ。もしかしてハジメ君、エロエロな事でも考えてた? 仕方ない、その火照りを私が……」  ドライヤーを置くと、悪戯っぼい表情を浮かべながら、ブラのホックを外すそぶりをする。  ここでどうするかで男の価値が決まるのだろうが、悲しいことにハジメには一線を越える度胸はなかった。 「も、もう、からかわないで下さいよ」  その反応に満足した陽子は、ベットで胡坐をかいた。女らしさなど微塵も感じさせないポーズだが、白い太ももが眩しくて、ハジメは目のやり場に困る。 「いやぁ、ごめんごめん。なんか元気ないみたいだから、つい」 「元気……ないですか?」 「うん。なんというか自信がない感じかな? お姉さんが何でも聞いてあげちゃうぞ」 「い、いいですよ」 「そう遠慮しない。ほら、ここに座って」  陽子はベットをパンパン叩いて、自分の隣に座るよう促した。  しかし、下着姿の女性と一つのベットに腰を下ろすのは、彼女も出来たことのないハジメには抵抗があった。  そんな、もじもじしているハジメに、陽子が、 「あー、それじゃあ『きゃー、痴漢よー』 って叫んじゃおっかなー」 「そ、それは困ります」  ハジメはカチコチと、ブリキの玩具みたいに筋肉を強張らせながら歩いて、陽子と微妙に距離を置くようにベットに腰を下ろした。  すると、陽子がハジメの心臓に響かせるように話しかける。 「さ、お姉さんになんでも言いなさい」  その魅惑のハスキーボイスが、風呂上がり特有のシャンプーの匂いが、異性のベットの柔らかさが、その全てがハジメの脳を刺激した。これらに加え、視界まで陽子に侵略されれば、ハジメは自分でも何をしでかすか分からない。ハジメは、理性という頼りない糸で、目線を己の手元に縛り付けて、自分の中の野生を封印した。  そして煩悩を紛らわすように、口を開いた。 「いえ自信なんて最初っから僕にはありませんよ。ただ……分かってたことなんですけど、自分にはホントに取り柄がないなぁって」  うわ言のようにハジメは話した。頭を使わない分、その言葉はハジメの本心でもあった。 「先輩みたいないろんな人からの信頼も、御影さんみたいな能力も、黒川みたいな情熱も自分には……そう思うと他人の応援どころじゃなくて‥‥‥」 「よかったじゃない」 「何がです」  一瞬、馬鹿にされたのかと思い、語気を荒くして陽子の顔を見返したが、そんな様子はなく、爽やかな笑顔を浮かべていた。 「自分の欠点に気付けて。入学してすぐにそれに気付けたってことは、ある意味すごいことなんだよ」  この学校に入学して初めて褒められた気がして、ハジメは嬉しかった。美人に言われればなおさらだ。 「私なんてそれに気づくのに結構時間かかっちゃったもの」 「先輩が? 冗談でしょ」 「冗談なんかじゃないよ」  その声で、ハジメは冗談でないと証明された気がした。 「私の場合はハジメ君とはちょっと違うけどね。ぶっちゃけ私って天才だし」 「自分で言っちゃうんですか」  こんな所は御影と似ているんだなぁ、と思ったが不思議と嫌みがなかった。 「だって本当だもん。中学時代なんて勉強だろうがスポーツだろうが喧嘩だろうが同い年の人間に負けたことなんて一回も無かったもの。それなのに『私は凡人です』なんて言ったらそっちの方がむかつくでしょ」 「んーー、確かに」 「で、なんでもできちゃって面白くなかったわたしは、自分を試したくてこの学校に来たの。ここなら、知力、武力、精神力、運、自分の持っている全ての力を発揮することができると思ってね。そしたらどうなったと思う?」 「天才美少女の最強伝説の始まりでしょ」 「ぶっちゃけ私もそうなると思ったのよ。私に立ち向かってくる奴らを全員倒して、屍の山を築いて語り草になるような存在に、なんて……でもね、実際は誰も私の相手なんてしてくれなかったの」  少し物憂げな色っぽい言い方にハジメは思わずクラッとした。 「嘘だー。先輩みたいな美人を放っておくわけないじゃないですか」 「ああ、確かに『付き合ってくれ』ってのはあったけど……そういうのじゃなくて、私が望んでたプライドとプライドのぶつかり合う血沸き肉躍るようなバトルみたいなの……でも、冷静に考えてみれば当たり前なのよね。私はなんだってできたけど、自分だけのやりたいこと、誰にも譲りたくないことなんて無かったから、他人とぶつかる理由なんてないもの。それに気が付いたとき、今のハジメ君みたいに自分がたまらなくつまらない人間に思えた」  そう言われると、親近感を感じたが、目の前の女性は自分とは違う生物のように美しかった。 「でも、先輩が天才美少女であることに変わりないじゃないですか。僕みたいな平凡人間とはやっばり違いますよ」 「そうだけど……この学校的に言ってみれば、立派な羽をこしらえただけでどこに飛べばいいのか分からず、他の鳥を羨ましそうに見る事しかできない見た目だけはいい鳥……そんな間抜けな鳥聞いたことないでしょ」  それでもハジメは羨ましく思えた。そもそも、自分のことなんてわからないのだから。 「そんなくすぶっていた私を去年卒業した、素敵な先輩が応援部に誘ってくれたの」 「素敵って、その人も天才美少女なんですか?」 「ううん、男の人だよ。ただ、素敵すぎて……このアパートの家賃が暴落したり、後輩が全然入らなかったんだけどね」  ハジメにはとんとその人物のイメージが湧かなかったが、自分の思う素敵と違うことだけは理解できた。 「もっとも、そんな先輩に誘われても最初は乗り気じゃなかったの。正直、いつも主役だったから、他人の応援なんて全然興味なんか無かったし……でもね、はまっちゃったのよ」 「なんでです?」 「だって、自分の力を思う存分発揮できて、しかも感謝してもらえるなんて最高じゃない。まあ、これはあくまで私の場合。それこそ鬼瓦先生なんて応援部にいればたくさん勝負と苦しむ対戦相手の姿を見れるからって噂だし」 「うえー。そう考えると先輩は天使みたいですね」 「もう、おだてても何も出ないわよ」  ハジメとしては、別におだてたつもりなど微塵もなかった。 「とにかく、一年のうちから焦る必要は無いからね」 「別に焦ってなんか……ただ、自分がなんなのか見つめなおしたいなーってアンニュイな気持ちになっただけです」 「悩むくらいなら、なんでもいいから勝負してみたら?」  ハジメには、とてつもない論理の飛躍に感じられた。 「なんでそうなるんです?」 「分かんないのに自分を見つめなおしたってしょうがないじゃない。それよりも自分を試してみたほうがいいよ。特に闘争の中では、知らない自分が浮き彫りになるから。まぁ、マンガみたいに、超能力が目覚めるってことはないけどさ」 「僕は取り柄はないんで……」 「まぁ、確かに自分の為に戦う理由がないんなら戦えって言われても困るよね。なら、代わりに応援でもいいと思うよ。自分にできることを見つけて、全力でそれをやる。それだけで、何か見つかるとおもうから」 「人の為に……僕が人の役にたつたことなんて……」 「そんなに自分を卑下しない。私が知る限りでは、御影がこんなに甘えてる人初めて見たよ」 「あれが甘え?」  ハジメは露骨に怪訝な表情をうかべた。  陽子も、それには少し困ったようで、 「何されたか知らないけど、許してあげて。あれでも、いろいろ焦ってるから」 「焦ってるんですか?」 「もう年がら年中。まぁ、私のせいなんだけど……」 「先輩のせい……」 「ほら、兄弟の持ってるものつて自分も欲しくなるでしょ?」 「んーー、僕は一人っ子なんでよくわかりません」 「そう? 私の男友達に、姉が魔法少女もの玩具を持ってると羨ましくて、男なのに、魔法少女もののグッズをもってたりしたけど……他人がもってると羨ましく思わない」 「ああ、それはわかります」  一人っ子なのに魔法少女のフィギュアを飾ってあるとは言えなかった。 「御影は負けず嫌いだから、それが特にひどくてね。二つ年上の私の持ってるもの、すべてが欲しかったみたいでね。能力なんかは努力でなんとかできるんだけど、友達ばっかりは……なんというか、距離感ってのがねぇ」  陽子は言葉が詰まらせる。どう表現すればいいのか、わからないらしい。  ハジメはそれに助け船を出すように、 「それはなんとなくわかります」 「そう? あの子は融通が利かないっていうか、思い込んだら周りが見えなくなるタイプだから誤解も多いけど、人一倍、頑張り屋さんなの。だからハジメ君に見守っててもらいたいんだけど」 「僕じゃ、相手にされませんよ」 「そんなことないよ。あの子、ハジメ君のこと気に入ってるみたいだよ。あの日、ハジメ君が帰った後、入学試験の時の事を、妙にうれしそうに話してたし……たぶん自分でも何すればいいのか分からないから許してあげて」 「そんなに、気にしてませんから、謝らないでください」 「ありがと」  応援部だけあって、妹の事も気にかけているようで、ハジメは感心していると、 「あっ、そうそう忘れるところだった」  陽子は思い出したかのように、タンスを漁り始めると、 「はい、学帽」  うやうやしく、年季の入った学帽をハジメに手渡した。  ハジメも両手で受け取ると、 「ああ、応援部のトレードマークですか?」 「うん。我が部、唯一の規則かな。応援をする時はそれを被る。誰が始めたんだか知らないけど伝統だと思って。明日のオチビちゃんの応援してあげて」 「はい。といっても、ただの喧嘩で僕の出る幕なんて無いと思いますけど……」 「いや、鬼瓦先生が立ち会うんだからただの勝負とは限らないから、気を引き締めておいたほうがいいよ」 「そんなこと言われると、なんだか怖くて眠れませんよ」 「じゃあ、私と一緒に寝ちゃう?」  いきなり艶めかしく耳に息を吹きかけてくると、さっきは天使といったが、小悪魔に見えた。  そして、ハジメは結局目の前の宝に手を出せない、ただのチキンだった。 「お、おやすみなさい」  ハジメは少し後ろ髪をひかれる思いで、陽子の部屋を飛び出す。そのまま、自分の部屋へ戻ると、さっさと寝ようかと思った。しかし、陽子の誘惑で興奮した体が火照っていたし、さっきの話を頭が整理しきれていなくて、とても寝付けそうにないので、夜風に吹かれることにした。  ハジメはベランダに出ると、することもないので星空を見上げた。この学校に入って以来、ハチャメチャなことが続いたので、ちょっとはベタな事をしてみたかったのだ。それに、澄んだ空気の田舎だから、タダなのが嘘みたいな締麗な星空なので、吸い込まれるように見入った。  しかし、それを見てもハジメの心は晴れない。むしろ不快だった。たぶん普通の精神ではないが、自分でも何故そう感じるかわからない。 (男一人で星なんか見てもなぁ……隣に女の子でもいれば……)  そんな考えが過り、隣に御影や黒川がいるのを想像した瞬間に、自分のなかのモヤモヤの正体が分かった。  天高く、輝く星々が妬ましいのだ。決して大きくはないが、それぞれが競うように輝いているようで、なんだかそれがむかついた。  もし、隣に御影や黒川がいれば、自分がちっぽけに感じる。友達作りなんて、誰でもできそうなことに全力で取り組む御影。たかが学級委員長の席で熱くなる黒川と河原崎。最初は、いや今でも彼女たちが馬鹿に思えたが、それほどの情熱、信念をもてる三人が心のどこかで、羨ましく感じ、妬ましかった。  そこまで、自分の気持ちがわかったハジメは、いっそ魔法でも唱えて、まるで自分あざ笑うかの様に天空から見下げる星々を落っことしてやりたくなった。  しかし、ハジメはそんなことできるわけがない。それに、もし星の方が気をきかせて落っこちてきたら、自分がただではすまないので、やっぱりお高く留まっててもらうことにした。しかし、やっぱり気が落ち着かないハジメは、手に持っていた陽子から貰ったばかりの学帽をなんとなく被ってみる。当然、視界の上半分は見えなくなる。その瞬間、ハジメの心はやっと落ち着いた。  ああ、これはいい  それまで目についた星を見なくて済む。  別に上なんて見なくてもいいんじゃないか。  そういう人は勝手に頑張ればいい。  自分はそんな奴らに関わる力も志もないから、下に落っこちているものだけ見ていけばいい。  自分はそういう人間なんだ。  なんとも若者らしくない考えだった。そんな事を考えている自分に気が付くと、ハジメは、後ろ向きな理由で学帽を気に入った自分に自己嫌悪を感じて再びむしゃくしゃした。 (いっそ、周りのことなんて気にしないで、大声でも出してみようか)  ハジメがそんな事を考えた瞬間、 「ぎにゃっ!」  ハジメの代わりに、黒川が間抜けな叫び声をあげた。秘密の特訓は、寮の裏のスペースでやっているらしい。 「イイコちゃん、大丈夫?」 「お、おう。まだまだ」  ハジメはセンチな気分だったが、黒川が水を差して、なんだか馬鹿らしくなってしまった。  ハジメは黒川に感謝しながら、ベットにダイブして、そのまま眠った。  *** 「さくやはおたのしみでしたね」  あまり熟睡できかったハジメは、朝のHRの前に、隣の席でぐったりしている黒川に八つ当たりしていた。 「何ゆうとるん。血と汗の惨むきっつい特訓やったんよ」 「どんな風に?」 「それは乙女の秘密や」 「ふーん」                 秘密にされて、ハジメとしては面白くはないが、妙に自身に溢れる黒川の姿は見ていて気持ちがよかった。 「まあ、心配無用や。今日の勝負は楽勝、楽勝。何たって、ミーちゃんからロシア流のBBQを叩き込まれたんや。お前なんか秒殺やぞ」 (ロシアのバーベキュー?)  滝川姉妹がツンドラの吹雪の中でマンモスの肉を焼いているシュールな映像がハジメの脳裏をよぎった。 「まぁ、なんだか分からないが頑張れよ」 「おうっ、任しとき」  胸を張って笑顔で答える彼女の姿がハジメには眩しすぎた。  妬ましさと愛おしさが同居する不思議な少女の笑顔。  よく見ると、黒川のあどけない顔にかすり傷などがある。それに気付くと、ハジメはなんだか応援してあげたくなる。  この子に自分ができる事なんてあるのだろうか?  そんな事を自信に問いかけても答えなど出るわけもない。  あとはもう勝負の時を待つだけだった。 六章:選挙ゲーム  帰りのHR。  それが、鬼瓦の指定した再試合の時間。 「それでは、これより学級委員長の再投票を行います」  この言葉にクラス全員が「再投票?」と首をかしげた。そもそも投票も何も、立候補者の決闘というシンプルというよりかは野蛮な方法で決めて、投票など一度も行われていない。だから、このクラスが始まって以来初めて民主的なことが行われることに生徒は皆、違和感を覚えた。 「立候補者は現職の河原崎さんと黒川さん。当然、賭けるものはこのクラスの学級委員長の称号+その今後一年の任期+αです」  +αについて知っているのはこの勝負に関わった限られた人間だけなので、クラスの大多数は委員長バッジなどオプションパーツみたいなものだと勘違いするか、そもそも気にも留めていなかつた。 「では皆さんのクラスのリーダーを決める大事な選挙ですが、いまから配るプリントの手順で行われます。」  そう言って、配られたプリントの内容が以下のとおりである。 一年一組 学級委員長選挙  選出は以下の流れに沿って執り行う。 ○演説タイム  各々に五分間のスピーチの時間を与える。やり方は自由。 ○投票タイム  投票箱に投票剣をいれる。なお、投票剣の譲渡は認めない。  投票時間は、立会人が頃合いを見計らって終了を告げるまで。 ○開票タイム  決闘を行い、その勝者を学級委員長とする。ただし、武器の使用並び頭部への攻撃を禁ずる。  また、特別ルールとして、投票剣の多い方に「マジョリティータイム」を与える。 「マジョリティータイム」 とは、相手より多い投票剣の数×五秒間、相手を一方的に攻撃する権利である。その間、投票の少ない方は反撃を禁ずる。 ※開票の際、「マジョリティータイム」が六〇秒以上になった場合、決闘を行わないでその権利者の勝利とする。 ※ルール違反をした生徒は即刻指導する。  かなり突っ込みどころが満載の内容だった。  スピーチの時間を設けたり、実際に投票できるところに、少し民主化への第一歩を踏み出した気配はあったが、最後は結局喧嘩で決めるなら意味がないのでは? と多くのものが思った。  もっとも、最後の決着方法自体は対戦する当の本人達の了承済みだが、全員一致で気になる個所がある。  たまらず、一人の生徒が、 「先生……投票券の『券』が『剣』になっちゃってるんですけど……」 とプリントの誤植を言及した。  ミスを指摘された鬼瓦は、不機嫌になるかと思われたが、聞いてもらえたのがよほど嬉しかったようで、 「それは誤植ではありません。もうすぐ実物が届きますから、それから説明します」 と言って、例の教師スマイルをうかべた。 「じ、じつぶつ?」  黒川が狼狽していた。  黒川だけでない。その言葉に、教室の空気がガラリと変わった。剣なんて、テレビやゲームの中でしか馴染みのないものと、投票するという行為に接点を見出すことができなかった。  皆がうんうん唸りながら、頭を捻っていると不吉な音が廊下から聞こえてきた。  ゴロゴロ……  重いものを荷車で運ぶ音。  それが教室に入ってきた瞬間、生徒たちは自分の認識の甘さを嘆いた。  運ばれてきたのは、二つの小さな棺桶くらいの円柱の箱。その中には、立候補者を除いた三八人分の剣が入れられていた。  その非日常的な代物を目の当たりにした生徒は、凍りつく。 「今から投票剣を配りますが、まだ抜かないでください」  そんな様子を尻目に、鬼瓦はクリスマスプレゼントを手渡すサンタクロースのような気前の良さで、立候補者以外に剣を配り始めた。  流石にこの事態は考えていなかったハジメ達は顔を見合わせた。 「なんじゃこりゃ……ほんまもんの剣なんかい? まっ、わしは実家にたくさんあるけどな」  黒川は下手な強がりを言ってはみたものの、その声は少し震えていた。 「うん……光沢とか触った感じはおもちゃじゃないみたい」  御影がまじまじと観察しながら答えた。たしかに、剣というより少し大きめの脇差といった、玩具にはぴったりの大きさだった。しかし、そういった安っぽさはなく、そのギャップがかえって不気味だった。 「でも、それにしちゃ、えらく軽いな。案外、中身は入ってないんじゃないか?」  そうは言ったものの、ハジメには中身を確認する度胸はなかった。  しかし、鬼瓦の、 「全員、行きわたりましたね。それでは剣を抜いてください」 という号令に、乗り気では無かったが恐る恐る剣を抜いた。 「ん?」  あちこちでどよめきが起こる。  鞘の中に刃など入っていなかったのだ。  代わりに、針が……サーベルというよりは針治療で使うようなハリガネムシみたいな細長い針が入っていた。  これには、それまで黙って様子を見守っていた河原崎がいよいよしびれを切らした。 「先生、もったいぶらないで早く説明してください」  いや……薄々使い方に気が付き始めていた。しかし聞きたくない。  そんな空気を河原崎の苛立った声が切り裂いた。 「それでは、説明に入ります。プリントに書いたとおり、その剣で投票していただきます。方法は至ってシンプル、それをあの投票箱に刺すだけです。」  黒川と河原崎は鬼瓦の指さす方を見て、一瞬で青ざめた。鬼瓦の指さすその先には、剣を入れてきた黒い円柱の箱があつた。 「あと、プリントには書き忘れたけど、立候補者には投票箱に入っていただきます。そして、投票箱の穴、全部で50個の穴のいずれかに剣を刺すのです」  これを聞いたハジメはたまらず声を荒げた。 「そんなことしたら死んじゃうじゃないですか」  鬼瓦からすればこんな意見がでるのは想定内なので、笑顔を崩さずに答えた。 「それなら心配ありません。投票箱は二人のサイズにあった物を用意しましたし、この針はある一定の圧力がかかると柄の中に引っ込む仕組みになっているので、内臓などに刺さることは決してありません。刺されてもほとんど血が出ないようになってます」  鬼瓦はイカレてはいたが、教師として生徒の安全性はしっかり確保していた。 「また、ゲームの『黒ひげ危機一髪』をイメージするとわかりやすいでしょうが、刺してもアタリなら中の人はだいじょうぶです」  ハジメは『黒ひげ危機一髪』なんて、やったことなかったので、ハズレの穴に剣を指すと、可愛げのないひげ面のおっさんが樽から飛び出す趣味の悪いゲームというイメージしかなかった。しかし、このゲームでも立候補者が飛び出るなんて、間抜けなことはわけではないだろう。 「ハズレだったら?」  そんな質問が、自然とハジメの口から洩れていた。 「ハズレだった場合は、多少個人差はありますが、少しだけ、ほんのちょっとだけ痛みと痺れが襲うだけです。アタリとハズレはそれぞれ半分。特に法則性などはないので運任せです。どうぞ、自分で確かめてみてください。ただし、針を刺してどれくらい痛いか確認しないでください。実際の時のハラハラ感が減ってしまうので…‥」  その言葉を聞くと、河原崎は周りの人間の剣をいくつも入念に調べはじめた。実際に針が引っ込むのかどうか確認したり、針の先端に顔を近づけて食い入るように観察している。その姿をみたハジメは、自分に刺さるかもしれないものだから、あれくらい調べるのも無理はないと思った。  一方、黒川は御影と教卓の隣に設置された自分の入る投票箱を調べていた。例の穴はカバーを掛けられて、外側からも内側からもアタリかハズレかを調べられないようになっていた。  ただ、穴にはそれぞれアルファベットと数字が表記されているのを確認した。  上から、肩位の位置の段にA,胸位の位置の段にB、腹位の位置の段にC、膝上位の段にD、脛位の位置にE。また、正中線上を1として、そこから時計回りに10までの番号が振られて いた。  その箱に黒川が実際に入ってみると首から下はすっぼり箱に覆われて、なんだかさらし首にされているようだった。たしかに絵的には『黒ひげ危機一髪』というのがしっくりきたが、その箱の開閉のしかたはアイアンメイデンを連想させるものだった。  投票箱に入って怯えた様子の黒川は、御影が心配そうに見つめているのに気が付くと、 「そんな顔せんで大丈夫や。中は案外広いから、手品師張りに全部よけちゃるわい」 と、うそぶいた。『投票箱』中の様子は入った本人しかわからない以上、虚勢を張っているようにしか見えなかった。  それぞれが一通り調べて席に戻ると、鬼瓦が、 「以上で説明を終わりますが何か質問がある人はいますか? いませんね?」  一刻も早く始めたがっている様子だが、一応形式的に質問を受け付けた。  もっとも、河原崎は落ち着いて何か考えている様子で、黒川はルールを確認するので精いっぱいで誰も質問などしないかに思われた。  しかし、意外な人物が手を挙げた。  鬼瓦もこれには意外そうな反応をして、 「はい、滝川さん」 と、質問者の名前を呼んだ。 「ゲームのルールについての質問ではないのですが」  その前置きを聞くと、鬼瓦はいつもの笑顔を浮かべた。 「どうして、こんなものを使うんですか? 別に普通の紙でもできると思うのですが……」 「いい、質問ですね。みなさんは選挙というものをどうお考えでしょうか? 選挙権は人類が長い歴史の中で多くの血を流してようやく手に入れた尊いものです。しかし、最近はそれが当たり前という風潮があります。皆さんに、この選挙を通じて、自分の投票するということに対する、責任とその重みを知っていただくためにこのような方法をとらせていただきます。まぁ、道徳の勉強だと思って楽しんでください」  一応もっともらしい説明だったが、クラスメートに針を刺す道徳の時間なんてあるわけがない。  クラスに不気味な沈黙が横たわった。 「質問は以上ですね。それでは、選挙を始めます」  こうして、選挙ゲームが――ハジメの初応援が始まった。 「それでは『演説タイム』にはいります。どちらから演説をしますか?」  それまで、投票タイムの事で頭がパニックになっていた黒川は気を取り直して、 「はいっ! はい! わしから。わしから」  なんでもいいから先手を取りたいと思って考えなしに叫んだ。 「まぁ、私はどっちでもいいから、どうぞお先に。ではその間に御手洗いに行かせていただきます」  そう言うと河原崎はさっさと、教室から立ち去って行った。 「それでは五分間。黒川さんの『演説タイム』を開始します」  鬼瓦は腕時計でカウントを始めた。  黒川は慌てて教壇に走って、演説を始めたが、話す内容をあらかじめ考えていなかったので、 「えーっと、あー、このたび学級委員長に立候補させていただきました黒川イイコです。えーと……好きな食べ物はたこ焼きで、嫌いな食べ物は納豆です。えっと、そうじゃなくて……わたちが学級委員長になったら、皆と楽しい学校生活を送りながら、この学校を制覇っていうか……とにかくがんばります。えーと‥…それで……」  グダグダな演説を始めてしまった。  スタートに蹟いて、焦って余計しどろもどろになり、舌を噛んだ。しだいに顔を真っ赤にしながらの、手振り身振りを交えた片言みたいな喋りになってしまった。  しかし、その姿からは頼りなさよりも、一生懸命さが伝わってきて男女間わず好印象を与えていた。まだ出会って日は浅いが、いつも声の大きな黒川がどんな思いを抱いているかや、その人柄、頭の回転がそんなによろしくないのもクラス全員知っていたので、できの悪い妹を見守るような暖かい空気が教室に広がっていた。しだいに、黒川が委員長になれば、悪魔みたいな担任の恐怖に怯える殺伐とした空気を幾分か和らげてくれるのではないかという期待感が生まれていた。  そんな雰囲気のなか、途中で話すことが無くなって、俯いてしまう黒川に、 「がんばれー」 「応援するぞー」 と声援がおくられた。  それに励まされながら、黒川はなんとか五分間の演説を終えた。  珍しく頭をフル回転させて疲れたのか、フラフラと覚束ない足取りで自分の席に戻る。 「どうやったかな? 柄にもなく緊張してもうた」 と、肩を落としながらハジメと御影に声をかけた。 「けっこう評判よかったぞ。まぁ、番長的な威厳はゼロだったけど」 「そうだよ、みんなイイコちゃんのこと、『かわいい』とか『和む』とか『持って帰りたい』って言ってたよ」 「なんやそれ? それじゃ全然ダメやん」  黒川はそう言って、頬を膨らませた。  番長を目指す黒川からすれば心外かもしれないが、知らないうちにクラスの中でマスコット的な地位を築きつつあった。しかし、今の黒川が気にかけているのはそんな事ではなく、対戦相手のことだった。 「あいつはどんな演説をするか見ものじゃな」  黒川はいつの間にか戻っていた河原崎の方を見た。彼女の視線の先の河原崎は、準備はできているのか妙に落ち着いていた雰囲気だった。  そんな河原崎に鬼瓦が促すために、 「それでは次に河原崎さん」 「はい。ですが、その前に一つ確認してもいいですか?」 「なんでしょう?」 「演説のやり方は自由とのことでしたが、一人一人回っていくのは可能ですか?」  それを聞いて黒川は、それなら五分も喋らなくすんだのに、と悔やんだが、もう手遅れだった。 「はい、結構です。それでは河原崎さんの『演説タイム』を開始します」  その合図と同時に、河原崎は黒川とは対照的におちついた足取りで出席番号順に回っていった。  硬派な委員長のイメージだったが、男女間わず、机越しに身を乗り出して一人一人に声をかけ、最後には握手をしていった。  これには、多くの男子生徒は、 「河原崎さんの匂いが……いい匂い……」 「ああ……まだ、手の感触が残ってる……今日は左手は洗わないぜ」 「いいなあ、おまえら。俺と握手した後、ハンカチで手拭いてた……そりや、ちょっと汗ばんでたけどさ……」 「安心しろ。おれもだから、そんなに気を落とすなよ」 「ああ……黒川さんもかわいいけど、やっぱり学級委員長は河原崎さんかな……」  そんな感じで美少女との肉体的接触に落とされる男子生徒が続出した。同性の女子生徒も思わずドキッとするものがいたくらいなので仕方のないことだった。  しかし、これを見ていた黒川は当然面白くない。 「なんやアレ? 色仕掛けかいな。おさわりバーちゃうんやぞ。この淫乱委員長」 など野次を飛ばしたが、 「イイコちゃん、そんな下品なこと言っちゃダメだよ」 と御影にたしなめられた。  普段の河原崎のイメージとはかなりギャップのある選挙活動に度肝を抜かされていたハジメのところにも順番が回ってきた。  やはり、体を預けるように密着させてきた。  ハジメは思わず、 「そんなことしても俺は黒川に入れるぞ」 と口走っていた。  そんなことを気にしない様子でさらに体を近づけて、ハジメの投票剣を二人の顔の間に持ち上げて、 「たとえ黒川さんの味方でも私にダメージを与えるために、この投票剣を刺すかもしれないでしょ? まぁ、お互いがんばりましょう」  そう言って、半ば強引に右手で握手をしてきた。  その言葉を聞いて、(なるほど、そんな作戦が……いやいや、そういって自分の票を増やす作戦か……)などと考えていたハジメをよそに、河原崎は次の席でまた、同じようにキャンペーン活動を行っていた  この『演説タイム』を一番楽しんでいたのは傍から見ていた鬼瓦だった。しかし、その笑顔の下で何を考えているか分かる生徒はいなかった。  そして、河原崎は五分ちょうどで、全員分回り終えた。 「それでは、これより『投票タイム』に移ります。つきましては、立候補者は『投票箱』の前へ、残りの方は机を後ろに運んで投票スペースを作ってください」  そう言って、クラス全員が動き、『投票タイム』の準備を始めた。 「では、公正な選挙を執り行うため、立候補者のお二人は上着を脱いで、投票箱の中にお入りください。」  河原崎はおなじみの格好になった。相変わらずの均整のとれたスレンダーな体を強調する勝負服。  河原崎に、男子の視線が集まる一方で、 「ミーちゃん。これ預かっといて」 と、トレードマークの学ランを御影に渡した黒川は、何を思ったかYシャツまで脱ぎだした。 「い、イイコちゃん!」 と御影が制止するのもお構いなしに脱ぎ捨てると、上半身サラシ一枚のあられもない姿になっていた。 「どうや、色仕掛けならこっちも負けんわ」  負けず嫌いの黒川は『演説タイム』の遅れを取り戻そうと思ったのだろう。  しかし、これは完全に裏目にでていた。  小柄な体とぺったんこの胸、そして可愛らしいおへそが、彼女の容姿を余計に幼く見せた。この姿を見たものは、こんな少女に自分の剣を突き立てるという行為を想像するだけで、激しい背徳感に襲われた。  そんな風に二人が軽装になったのを確認した鬼瓦は、 「それでは投票箱の中にお入りください」 と、促す。 「よし。ほな、ちょっくら行ってくるわ」  楓爽と歩みだそうとした黒川に、御影が、 「イイコちゃん。あのね、もしかしたら、この」 「ミーちゃん、待った」  御影が何かを伝えようとしたが黒川はそれを遮った。 「これはわしの勝負や。だから、アドバイスは禁止や」 「でも……」 「わし、ミーちゃんに頼りっばなしや。でも、それじゃあやっぱあかん。絶対、わしの力で学級委員長になってみせるわ」 「イイコちゃん……がんばってね」  御影は黒川を抱きしめた。 「なんや、死ぬみたいで縁起わるいよ、ミーちやん」  冗談めいた口調だったが、本心ではやはり怖いのだろう。怯える顔を隠すように御影の胸に埋めた。  そんな、らしくない彼女を励ますためハジメも声をかけた。 「頑張ってこいよ。俺も応援してるぞ」 「ハジメも応援部なら、もうチョイなんかしいや。せめてエールを送るとか」 「はは、まだエールなんて知らんからな。いつかやってやるよ」  そんなやり取りにクラスの視線が集まっている間に、河原崎はもう投票箱の中に入っていた。 「怖かったら辞退したらどう? 私はこんなゲームは全く怖くないけど」  そんな河原崎の見え透いた挑発に黒川は乗ってしまった。 「わしに怖いもんなんてあらへん」  そう言い放って投票箱に飛び込む。  二人が入ったのを確認すると、鬼瓦はそれぞれの箱に鍵をかけた。  こうして、投票の準備はすべて整う。 「このゲーム、もとい選挙に幾度か立ち会いましたが、いまだかつて投票率100%になったことはありません。というのも、立候補者が……まぁ、痛がりだすと誰も投票しなくなるんですよね。だから、皆さんの投票の意思が無くなったと私が判断したら終了の合図を出します。皆さん、自分でよく考え自信を持って投票に臨むようにしてください。なお、剣の鍔の部分は磁石になっていますので『投票箱』にくっ付くまで刺してください。それではこれより、『投票タイム』に入ります」  こうして『投票タイム』 の開始が宣言された。  しかし、ほとんどの生徒はその場から動こうとしない。  その理由の多くは、候補者選びに迷っているというよりは、剣を突き指したら立候補者はどうなってしまうのかが気がかりだからだ。  自分の票が人を苦しめるかもしれない。  その考えが足柳になって動けない生徒たちの中、ハジメと御影が黒川の投票箱に迷いなく近づいていく。きっかけがあれば、一気に動く。それが分かっての行動――と言うよりもこれがハジメが黒川の為にできる唯一の事だと思ったからだった。  しかし、投票箱の前でハジメの決意が鈍る。  もし、いきなりハズレを刺してしまったら、中の黒川はどうなるのか?  また、苦しむ彼女を見た投票者に与える影響はどれほどなのか?  河原崎に『マジョリティータイム』を与えれば、特訓の成果を出す前に黒川が負けるだろう。  そこまで、考えると一番目の責任の重大さにハジメは押しつぶされそうになっていた。  そんなハジメに黒川が発破をかけた。 「なにをびびっとるんじゃ。男ならバシッとわしの心臓にさしてみい」 「く、黒川、本気か」 「おうよ。このゲームはよう出来とるわ。こうして立候補者の器のでかさを計るっちゅうことやろ。なら、わしの度胸みせたるわい。ハジメ! 正面ど真ん中や」 「ほんとにいいんだな?」 「おう。だから早くやりい」  黒川は声を張った。  それは自分自身に発破をかけるものだとわかると、ハジメも迷ってられない。 「いくぞ」  ハジメも黒川も共に目をつぶった。  ハジメはB1の穴に根元まで剣を刺す。  少し間をおいて、脂ぎった汗が噴き出す手を剣から離した。  もし、針の仕掛けが作動しなければ間違いなく黒川の心臓を貫いている。  ハジメが恐る恐る瞼を開けると、眼前には目を閉じて動かない黒川の蒼白になった顔があった。 「黒川!」  ハジメは思わず叫んでいた。 「ん……」  黒川は一度死んだ人間が、息を吹き返す様にゆっくりと眼を開ける。呆けたような顔をして、しばらく目をパチクリさせていた。  「大丈夫か? 痛くないか?」  そう言うとハジメは、まるで黒川を我が子の様に心配する自分に驚いていた。  黒川もそれが恥ずかしかったのだろう。みるみる顔が赤くなっていく。 「そないに心配するな。何にも起こらなくて拍子抜けしてもうたわ。やっぱ、度胸を試すために心臓はアタリやったんや。よーし、じゃんじゃん来い」  その威勢のいい姿に黒川の投票箱に人が集まる。その多くは河原崎の持ち物検査の被害者だった。また、河原崎の方にも人が動き出していた。 「はよ、来い。足なんてちんけな所を狙うんじゃないぞ」  そんな黒川の肝っ玉の太さに魅かれた生徒たちはテンポよく投票していく。  御影の二票目を左腕に。 「よっしや! サンキュー、ミーちゃん。次」  三票目を右腕に。 「よっしゃ! 次」  四裏目を背中に。 「ほい!どんどんこい」  五票目を左肩に。 「よーし、まだまだ! 次」  六票目を脇腹に。 「よっしゃー。景気よく一気にまとめて!」  票が増すほどに声が大きくなると、半分お祭り騒ぎになり、黒川の投票箱の周りを六人の人間が取り囲んでいた。 「同時に来い。お前らの票、受け止めたるわ!」  それを合図に六本の剣が同時に刺された。                                                                                               その時だった。 「にぎゃっ!」  黒川が車に轢かれた猫の断末魔のような悲鳴をあげた。威勢のいい掛け声はそこで止む。 「おい黒川、大丈夫か?」  ハジメは心配して声をかけたが、黒川は返事ができなかった。 「ぐううう」  それまでの威勢が嘘のように眉間に皺を寄せ、歯を食いしばって痛みを堪えていた。  そんな黒川にたまらずハジメが、 「おい、ハズレに刺さったのか」 「んな、もんあらへん……わしは、針なんて……刺さってへん」  途切れ途切れそう答える  あまりに見え見えの嘘だったので、ハジメは考えなしに思ったことを口に出してしまう。 「もしかして、もうだいぶ前から刺さってたんじゃないか?」  ハジメは言った後に後悔した。黒川が大きな声を出していた理由は少し考えればわかることだった。  一斉に六本刺される前にすでに六本刺されていたのである。それらが一度もハズレの穴に刺さらない確率は限りなく低い。  黒川は痛みを紛らわすために声を大きくして誤魔化さざる得なかったのだ。それを悟られまいと我慢していたが、ハジメの発言がその努力を無にしてしまった。ついに耐えられなくなると、黒川はポロポロ涙を流し始める。  河原崎はそんな様子を涼しげ目で眺めていた。 「あらあら、そんな一気にやるんですもの」  河原崎はまだ三本しか剣が刺さっていなかったが、今のところハズレの穴に刺された様子はない。 「こんなの、どこがハズレかアタリかなんて冷静になれば分かるのに」  河原崎は黒川とは逆に、投票者を一列に並ばせて投票させていた。一人が刺し終わると、後ろに下がらせて、また一人自分の前に立たせて、慎重に指す穴を指定する。  投票箱の中にあり文字通り手も足も出せない状態の河原崎だが、彼女の言うとおりにすれば全てがうまくいく。そんな錯覚を覚えるほど、指示を与える彼女からカリスマを感じられた。  黒川とは対照的な安定感が彼女へ票を集めていた。  また、黒川を支持するつもりだった者も、泣いている女の子に針などさしたくないという考えから、河原崎の投票の列に並び始めた。裏切りというより、一刻も早く投票を終らせてあげたい。あるいは、河原崎が二四票を集めれば、決闘なんか見ないで済むという同情めいた理由だった。  結果的に「マジョリティータイム」の存在が余計、黒川に不利に働いた。                                                                                                                                                                                            そんな光景を目の当たりにして、勝負の流れを変えるきっかけを作ってしまったハジメは、「黒川、ごめん」と、謝りたい衝動に駆られる。実際、口に出せば幾らか罪悪感は和らぐかもしれない。しかし、そんな謝罪は自己満足以外の何物でもなく、黒川のためにはならないことをハジメは理解していた。 (今、自分にできる事……せめて、アタリとハズレの法則性を解読できれば)  ハジメは黒川と河原崎の両方が視界に入る場所に移動し、二人の剣の配置を必死になって比較することで、アタリとハズレの法則性を見出そうとした。  黒川はAl、A2、A5、A7、A9、Bl、B4、B8、BlO、C3、C5、C8。  河原崎はA5,C3、D5。そして今、E7に四票目を刺した。やはり、痛がるそぶりは無 かった。  しかし、そもそも二人の『投票箱』のアタリとハズレが同じ場所だという保証はない。そうすると、河原崎がどうやってハズレを見極めているのか全くわからず、頭を抱えるしかなかった。  そんなハジメに御影は唐突に喋り掛けてきた。 「あんたって本当に使えないのね。女の子泣かせるなんてサイテー」  今のハジメには言い返す言葉も余裕もなかった。  それを承知の上なのか御影は続けた。 「大体あんたは何見てんのよ。外ばっか見てないで少しは頭使いなさい」  言われなくとも使っている真っ最中であるので、ハジメは耳を貸さない。 「あんたの頭の中かち割って見てみたいわ。中身はどうなってるんだか? 私の予想だと何もないと思うけど」  そんな事考えてる暇があるんなら自分で何とかしろよ、とハジメは思い、だんだん腹が立ってきた。 「自分にしかできない事もわからないとか、奴隷失格ね。イイコの代わりにあんたの脳みそにぶっ刺してやりたいわ。あんたのゴミみたいな脳みそなら刺さっても痛くないでしょ」 「うるさ」  い。そう言いかけて御影を睨みつけようとした時、ハジメは言葉を詰らせた。  いつもの高飛車な彼女が、唇を噛み締めて、目で必死に何かを訴えかけていた。クラスの目線があるなかで、本当の姿をさらけ出すほど冷静さを失って…… (もしかして、黒川に言われた『アドバイス禁止』を律儀に守っているのか? しかし、こいつは俺に何を伝えたいんだ?)  分からない。  こうしている間も河原崎は一人一人、A〜E万遍なく丁寧に指定して六票を獲得していた。 (一人一人……河原崎がして黒川のしていないこと……)  ハジメはゲームの説明暗からの河原崎の行動を思い返す。  そもそもなんでこんなゲームを。  そう思って、最初から整理するためにプリントをもう一度見る。  適当に生きてきたハジメは、人生最大級に頭を回転させて考える。目を閉じ、右手で口元を塞ぎ、五感を遮断して、集中しようとした時だった。 (まさか……)  浮かび上がる一つの仮説。  全ては憶測。物証など一つもない。  しかし、それが正しかったらまだ間に合うかもしれない。  それを確認するために、ハジメは黒川の元へ駆け寄る。 「黒川、おまえ何本刺さってる?」 「さ、さっとらん」 「一本もか?」 「わしは刺さっとらん。絶対に一本も」  黒川は明らかに嘘をついていた。しかし、今のハジメにとって重要なのは、黒川が何故嘘をつくのか? その真意を読み取るための質問だった。  そして、ハジメの中の仮説は現実味を帯びてきた。  もうハジメにできることは一つしかない。  ハジメは準備をしながら、陽子に言われた言葉を思い出していた。 (自分にできることだけを全力で……今、できること……それは……)  河原崎が9票目を獲得した時、準備と、何より決意を固めたハジメは手を挙げた。 「先生」 「どうしました? 田伏君」 「このプリントを見る限り、『投票タイム』中に投票者が立候補者の協力をすることはルール違反ではありませんよね?」 「はい。他人の票を無理やり自分の物にするなどは譲渡に該当しますし、未投票者を脅迫して投票剣を放棄させるなどは、公平な選挙に支障をきたすので禁止としますが、それ以外なら特に禁止してません。ですが、一応私の許可をとってください」 「それでは、私はさきほど応援部としてエールを送るよう依頼されてましたので、黒川さんを応援させていただきます」  そう宣言すると陽子に渡されていた応援部の証である学帽を深々と被った。 「エールといっても、応援歌を歌うわけでは無いでしょ? 内容は?」 「未投票者に、黒川さんへ投票するようお願いするだけです」 「それだけ?」 「それだけです」  静寂の中でハジメと鬼瓦は見つめあい、互いの意図を探り合う。 「わかりました。許可しましょう。ただし今から三分だけという条件をつけさせてもらいます」  その言葉を聞いたハジメは、 (残り一七人で三分か……十分だな) 「はい、それで構いません」  担任の許可を取ると、ハジメは河原崎がしたように、未投票者一人一人にお願いして回った。一人に割ける時間はそう多くない。 「どうか、黒川に一票入れてあげてください」 と一言、いうと深く頭を下げて、握手をする。  たったそれだけのことだった。  こんなことにどれほどの意味があるのだろうか……。  その姿を見たものは皆そう思った。頭を下げられても苦しむ女の子に針を突き刺したくはなかった。  そんな光景に黒川は心を痛めた。 「ハジメ……すまん」  自分の不甲斐なさに落ち込む黒川を見た河原崎は、 「ふふっ、いいお友達を持って幸せですね」 と皮肉を言う。そう言った後、未投票者全員に握手をして回るハジメの姿を見て、河原崎は他人には聞こえないぐらいの小さな舌打ちをした。  そうこうしてると、三分はあっという間に過ぎた。 「そこまで」  ハジメの応援は終わった。 「いやー、こんなに熱心な投票者は初めてです。このような熱心な支持者がいることから、黒川さんの人望がうかがえますね。それでは投票を再開いたします」  しかし、投票が再開されても、黒川に投票するものはいなかった。  その光景をみた黒川は再び涙をポツポツ流す。  針の痛みは時間とともに幾分か和らいでいたが、ハジメに対する申し訳なさで胸が苦しくなっていた。  そんな黒川のもとに一人の生徒が歩み寄る。  ハジメだった。 「なんやねん。大見得切ったくせに、全然だめやん。こっちが恥ずかしかったわい」  面と向かうと気恥ずかしくて、黒川は素直になれなかった。  しかしそんな自分が情けなく、少し僻いて反省すると、 「でも、ありがとなハジメ。わしのために頭までさげてくれて。わしにとっては最高のエールやったよ」  照れながら、激痛を堪えて、今できる精一杯の笑顔をつくって心からのお礼を言った。  しかし、そんな彼女へのハジメの反応はひどく落ち着いていた。 「いや、最初から票を入れるためにやったわけじゃない。だから、これでいいんだ」 「えっ……」  思いがけない言葉に、急に心細い顔になった。 「ハジメはわしの味方ちゃうの?」  掠れるような、か弱い乙女の声。  ハジメはそんな彼女が無性に愛しく思えて、頬をつたう涙を拭くと頭をなでて、落ち着かせた。 「安心しろ。おれは黒川の応援団なんだぞ」  応援部の学帽を指さして、微笑む。 「う、うん……」 「それに最高のエールってのは、まだお預けだ」 「えっ?」 「楽しみに待ってろ」  黒川にはハジメの言っている事が理解できなかった。しかし、ハジメが傍にいるだけで不思議と落ち着いた気持ちになっていた。        一方、河原崎は隣のそんなやり取りには全く気にせず着実に票を重ね、もう二票獲得していた。  そして、今、彼女の目の前には黒川に並ぶ一二票目の投票者がいる。  しかし、彼女の考えていたことは、どの穴を選ぶかではなくこれからの計画のことだった。 (『マジョリティータイム』は一五秒もあれば十分。一五票目でハズレたふりをして、そのまま『開票タイム』に突入すればいい)  自分の計画が順調に進んでいることに快感を覚えながら、目の前の生徒に背中のB6の穴を指定した。 (あんな奴らに、このわたしが負けるわけがない。先見の明、危険を察知する喚覚、他の全てにおいても秀でた私が勝つのが道理なのよ。そう、あいつらは群れることで傷を舐めあうことしかできない駄犬。駄犬、駄犬、だぁっ!?) 「けええええええあああああああああああ!」  背中に突き立てられた一二本目の剣。それがもたらした激痛が河原崎の思考を中断させた。  そんな河原崎の悲鳴に紛れて怪鳥が鳴く。  カッ、カカカカカッ  鬼瓦の口からついに笑い声が漏れていた。  彼女は、それが生徒に気付かれていないか確認する中で、自分と同じ表情を浮かべている者を見つけた。 「ほら、これが俺から黒川へ贈る最高のエールだ」  その生徒はそう呟いていた。            七章:決着 「ぎやあああああぁぁぁぐうううう」  完全に不意を突かれた河原崎は箱の中で体を反るようにして絶叫した。  先ほどまですました表情をしていた少女の突然の変貌に、教室中が騒然となる。そんな中、事の全てを知っている鬼瓦は自分の命令を無視する表情筋と戦っていた。  そして、真実を知るもう一人の人間が口を開く。 「やっと、ハズレを引いてくれたみたいだな」 「ハジメ。あいつ……どないしたねん?」  黒川も対戦相手の突然の変貌に驚きを隠せなかった。 「どうって……これで黒川と河原崎さんの条件が一緒になっただけだよ。まぁ、これが今、俺にできることの限界なんだけどな」  黒川はまだ、事態を把握できていなかった。しかし、ハジメのおかげで有利にことが進んでいるということだけ理解し始めた。  そして、今一番混乱していたのは河原崎だった。 「なんでぇ、なんでハズレが混じってんのよおお」  完璧な計画。  完壁な演技。  完壁な自分。  それらを否定するように背中を走る激痛が、彼女から冷静さを奪った。 「てめええ、何しやがったぁぁ!」  今までとは、別人のように取り乱しながら、ハジメを問い詰めた。  今にも噛みつきそうな勢いだったが、ハジメはそれをいなすように、 「自分でわかるだろ? 君がやったのと同じ……マーキング。君のを上書きさせてもらっただけだよ」 とつれなく返事をすると、クルリと踵を返して、このイカレタゲームの主催者の方へ向き直る。  ハジメは黒川の『投票箱』の穴を指してゲームの核心に迫った。 「先生、この穴には何も仕掛けはないんですよね?」  その言葉にクラス中の視線が鬼瓦に集まった。  しかし、鬼瓦は手で口を覆って、答えようとはしなかった。  別に今更、ネタを晴らすのが嫌だというわけではない。  ただ、口をあけてしまったら、堰を切ったように教師として不適切な笑いが止められなくなる。それだけの理由だった。 「仕掛けはないって? じゃあ、どの穴に刺しても中の人間に刺さってたってこと?」  河原崎に刺したばかりの罪悪感に苛まれていた生徒が、すがるようにハジメに尋ねた。 「ああ。この二人の姿と『黒ひげ危機一髪』という言葉をきけば誰だって、アタリとハズレの穴があると思ってしまう。でも、アタリかハズレかを本当に決定していたのはこの針……正確にはこの針に塗られた薬品の違い」  その言葉を聞いた瞬間、河原崎は自分のイカサマが完全にばれていることに対して驚愕し、痛みで歪んだ顔を凍りつかせた。  正確にはイカサマではない。彼女はルールの範囲は守っていた。だから気付いていた鬼瓦は何も指摘しなかった。  しかし、ハジメが彼女の行いを暴いていく。 「痛みを感じさせない麻酔用の薬品……いや、ただの消毒用のアルコールかな? それとは別に痛みと痺れを与える薬品。おそらく鞘の中にそれらを浸した脱脂綿でも入ってるんだろ。河原崎さんは二種類の薬品が塗られた針を匂いで区別していた。そうでしょ?」  図星をつかれた河原崎は何も言い返せない。  河原崎がそれに気付いたのは、ゲーム説明時に、投票剣を実際に調べたときだった。注射を打つ時によく嗅ぐ匂いと、それとは違う刺激的な危険な匂い。それは、人並み外れた喚覚を持つ河原崎にしか気付けないくらいわずかな違い。持ち前の喚覚でゲームの全貌を誰よりも早く推理することができた彼女にとって、このアドバンテージを利用しない手は無かった。  しかし、このゲームでは誰よりも優位に立った彼女も、この状況では唇を噛み締めて痛みを堪えながら、憎らしげにハジメを睨みつけることしかできなかった。  その姿が肯定を意味するものだと、その場の全員が理解した。  しかし、要領を得ない黒川は、 「でも、どうやって?」 と、冷めた目で河原崎を見つめているハジメにありのままの疑問をぶつける。 「『演説タイム』で河原崎さんは一人一人回ってただろ。あれは、一人一人の投票剣の匂いを判別するため」  河原崎に密着されて、ときめきを覚えていた男子生徒は、あの行為の真相を理解し、自分の惨い妄想が掻き消えていくのを感じた。 「そして、もう一つはマーキングするため。さっきの様子だと、アタリの人に砕いた飴の粉末を気付かれない程度につけたんだろ」  それも当たっていた。  河原崎が二つの薬品の違いを匂いで確認するにはある程度近づかなければいけなかったし、回っただけで、アタリとハズレ全員を覚えるには時間が少なすぎた。また、投票時に嗅ぎ分けるのは不自然だし、得票数が増えるほど投票箱の中の針からの匂いが強くなり判別が難しくなる可能性があった。だから、いつも慣れ親しんだ判別しやすい飴をトイレに行ったときに砕いて、マーキングに使うためにハンカチに包んでいた。飴を選んだのは、多少汗などで濡れても匂いが消えにくいというのが最大の理由だった。  そして彼女はアタリの人間には粉末をなじませた右手で、ハズレの人間には何もついていない左手で握手をして、マーキングしている事がばれないように匂いで判別できるようにしておいた。 「でも、ハズレがわかつてても刺されるんでしょ? それじゃ意味ないじゃん」  すでに投票を済ませた女子生徒がせめて自分はハズレを刺していないことを確認したいがために、尋ねた。 「たぶん、ハズレの人は、全員DとEの段に刺したはずだよ。あの箱の中で、取っ手に捕まって頑張って足を上げてるか、体をよじってハズレだけは刺さらないようにしてるんでしょ」  これもほとんど当たっていた。  実際に『投票箱』の中に入らなければわからないし、個人差もあるが、河原崎の場合は、そのスレンダーな体型と柔軟性を活かして狭い箱の中で片足立ちをして、スペースを確保しやすい下段にハズレを集めて刺さらないようにしていた。 「だから、河原崎さんから貰った飴を使って俺も同じことをしただけ」  ハジメはそう言って、二日前の朝に黒川から渡された飴の包み紙を河原崎に見せつけた。  彼女はそれを忌々しげに、睨みつけると、いよいよ怒りを抑えられなくなる。 (さっきの、黒川の代わりに握手をして回っていた茶番の狙いは黒川の票を増やす為ではなく、マーキングを上書きして、アタリとハズレの区別させないため……)  今の自分の屈辱的な状況を生み出した人間が目の前にいるが手も足も出せない。  その事実が彼女のプライドを激しく傷つけた。 「くうっ、この……駄犬が、野良の分際でこの私にぃぃ」  もう、そこにはクールな学級委員長の姿はなかった。  中学時代に自分と校則に従わない教師や生徒を血祭りに上げた時の彼女がそこにいた。 「あーあ、せっかくファイルのこと秘密にしてたのに……台無しじゃん。まぁ、俺が駄犬ならあんたはところ構わずマーキングする下品な雌犬ってところかな」  そう、切り捨てると、学帽を脱いで御影のいるもとの場所にハジメは戻った。  ハジメにできることはすべてやった。あとは、黒川の健闘を祈ることしかできない。  そんなハジメを御影が仏頂面で腕を組んで待ち構えていた。 「こ、これでいいんですよね?」  さっきまでの芝居がかった態度とは一転して、ハジメは恐々と答え合わせを始めた。 「まぁ、一〇〇点満点中三〇点ってところね」 「なっ、なんで?」 「なんかカツコつけてて、むかつくからマイナス一〇〇点。でも、イイコの笑顔が見れたか三〇点くらいあげるわ」  辛口な採点だったが最低限の仕事は果たせたようでハジメは満足した。 「御影さんはいつ気が付いていたんですか? もしかして最初から?」 「別に最初からわかってたわけじやないわ。何か違和感を感じてたけど……。針のことを確信したのはイイコが泣いたとき」 「あそこで?」 「だって、入学試験で指を切って血文字を書く人間が、ちょっと針で刺されたくらいであんなに痛がるわけないでしょ。そこから推測しただけよ」 「なーる」  自分とは違うアプローチで――友人のことをよく把握していた御影に素直に感服した。 「ま、あんたも私のおかげとはいえ、気付けたから誉めてあげるわ」 「ははあ、ありがたき幸せ」  そう言ってハジメが緊張の糸が切れた。その隙を突くように 「イイコを助けてくれて……ありがと……」  御影は誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。  この、ゲームの正体が明らかになると生徒達に動揺が走った。 「アタリかハズレは針で決まる……確かに、先生は穴について全然説明してなかったけど、いきなりあんなの見せつけられたら、ビックリしてそこまで考えられるわけないじゃん」 「でも、箱の中の二人は気付いてたのか。じやあ、なんで言わなかったんだ?」 「馬鹿かお前。票が欲しいのにそんなこと言えるわけないだろ。今みたいに二の足を踏むのが目に見えてるんだから。投票箱の中で気付いたんじゃ、もう手遅れなんだろ」 「じゃあ、黒川さんが一気に刺すように言ったのも、痛みを我慢できるうちに票を獲得するための作戦だったのか……度胸があるというか無謀というか……」  ただ言われたままに投票していた生徒たちはようやく、自分なりの分析を始めた。  すると、どの穴に刺しても、必ず中の人間に刺さると知ってしまうと自分の針がたとえアタリだったとしても、とてもその気にはなれなかつた。  そして、何より河原崎の豹変した姿が生徒達の投票する意思を奪った。 「舐めやがって! こんなの、しっかり喚げばわかるんだ。早く、私に次の票をよこせぇ」  牙をむいて、そう抱えて息を荒くする少女に投票するのも、その相手に投票するのもはばかられた。  そんな生徒たちの心理を読み取り、ようやく満足した鬼瓦は、 「じゃあ、そこまでー。未投票の人は投票権を放棄したものとみなして、投票タイムを終ります」 『投票タイム』の終了を宣言をした。  あとは『開票タイム』……一騎打ちのみ。得票数は二人とも同数の一二票。  結果だけ見ればただの一騎打ちとなつたが、ハジメの工作が無ければ、河原崎の『マジョリティータイム』によって、黒川がノックアウトされていたのは明白だった。  しかし、投票箱から出てきた二人の姿を見たクラスメート達は、それでも河原崎の勝利を確信した。  ハズレを一発だけ背中に打たれた河原崎。  それに対して、上半身を中心に投票した黒川の両手はハズレの毒によってまともに動かすこともままならない状態だった。そんな黒川に、御影が駆け寄って学ランを着せようとしても、彼女の助けがなければまともにボタンもつけられないほどだ。 「イイコちゃん……昨日の三つの練習通りに」 「うん、分かっとる。あとはわしの根性とあいつの根性、どっちが上かの問題じゃ」  また強がりを言っているのかと思えたが、黒川の瞳には揺るぎ無い自信がうかがえた。  これから戦う二人は、自分のダメージを確認するように軽く体を動かしながら、向き合った。 「それでは開票をはじめますが、まずルールを再確認します。武器の使用、頭部への攻撃は一切禁止。それ以外はなんでもありの公平な一騎打ちです。この勝者が晴れて、我がクラスの学級委員長となります」  二人とも、いまさらルールなど聞いていない。目の前の敵にもっとも効果的な攻撃を与えることと、自分のダメージの回復しか考えていなかった。  鬼瓦も二人とも自分の話が全く耳に入っていないことを十分理解していた。しかし、無視されていることに対して不快感など一切抱かなかった。彼女は若者が己のために死力を尽くして戦おうとしている現場に立ち会えることに何物にも代えがたい喜びを見出していた。この特等席にいられる権利のために、彼女はこの学園の教師をやっているのだ。  彼女は、その快感の波に打ちひしがれながら、独り善がりのMCを続ける。  スッと河原崎のいる方の手を挙げ、 「己のプライドのため、智謀と暴力を磨き、努力を惜しまない河原崎さん」  反対の手を挙げ、 「己の理想に邁進し、この短期間で頼りがいのある仲間をつくった黒川さん」 とそれぞれの評価を伝える。 「どちらがこのクラスのリーダーにふさわしいと言えるでしょう。それでは……」  かつて、カラスと忌み嫌われた女は今、教師として白い翼を広げて、一呼吸置く。 「はじめっ」  両手をクロスするようにして開始の合図がなされた。  二人はそれと同時に躍動する。最初の攻撃は二人ともすでに決めていた。  黒川は相手の左足へローキック。  河原崎はボディーブロー。  結果は見事なまでの相討ち。いや、ボディーブローをくらい、「グウッ」と低く坤いて体勢を崩し、後方へ吹き飛ばされた黒川の方が分が悪い。傍からはそう見えた。  しかし、実際は全く違った。  背筋がしびれて狙いを正確につけられなかった河原崎のパンチは、黒川の腹部の急所をとらえることはできず、見た目ほどのダメージを黒川へ与えてはいなかった。  逆に、黒川のローキックは的確に膝上の急所を捉えていた。このローキックを全力で蹴るために上半身を犠牲にする作戦が功を奏していた。その証拠に、河原崎は黒川に追撃できず、震える左足を押えている。  その様子を見たハジメは、御影に、 「これが昨日の特訓の成果何ですか?」 「ええ、中段の急所の位置の確認とローキック、あとは……」  ハジメはようやく昨日の秘密特訓の内容を理解できた。  おそらく実際に腹を殴って中段の急所の位置を確認し、あのスパンキングみたいな音は、ローキックを蹴らせた音なのだと推測できた。しかし、床が抜けちゃう仕上げの正体だけがわからなかったが、誰よりも真剣に黒川を見守っている御影に、話しかけづらかった。  もう見守るしかないのだからそうしよう、とハジメも腹を据えた。  そして、ハジメ達が吹き飛ばされた黒川へ視線を送る一方、河原崎は蹴られた箇所を押えながら、膝の震えを止めようとしていた。彼女は言うことを聞かない大腿筋に腹を立てながらも、そのダメージを確認する。 (あと耐えられるのは、三発……いや、二発が限界か?)  彼女が自分の足の耐久力を計りかねているのは、無理のないことだった。というのも、河原崎はローキックをくらった経験がなく、見た目以上のえげつないダメージに困惑していたのだ。黒川に追撃しようにも、足が前に動かず、嫌な汗を全身から吹き出しながら、何とか立っているのがやっとの状態だった。  少林寺拳法には一般的なローキックに該当する技はない。当然、それを防御する技術も発達していない。おおよそ、古い武術の打撃技、特に蹴り技というのは、あまりバリエーションが豊かとはいえなかった。それは武術の目的が殺し合いであり、一対一を想定したものでないのが原因だった。  蹴っている間は当然片足立ちとなり、バランスも悪いし、すぐには動けない、上段を蹴れば金的ががら空きになると、殺し合いという一撃で勝敗が決する状況下では致命的な欠点があまりにも多すぎた。実際、琉球空手の一派では蹴りは中段直蹴しかなかったという。ポピュラーなイメージのある回し蹴りなどは、空手が日本本土に伝わっていく過程で発展した、わりかし最近の技なのだ。  戦後すぐに創始されたやや古い武道である少林寺拳法においても、蹴りの比重は新しくできた武道よりも少なく、下段に対する蹴りは金的蹴くらいしかない。もっとも、顔面攻撃ありなら、ローキックよりも顔面への攻撃のほうが有効という前提なので仕方がないが、今の試合のルールは顔面攻撃禁止という変則ルール。  河原崎のもっとも有効な攻撃は中断への打撃だが、学ランのボタンが正中線上の急所を覆い、他の急所は黒川の動かない両手がガードしていた。さらに、相手のメインウエポンがローキックだと分かると、片足立ちになる蹴りを使って、万が一相討ちになればダメージがより多くなるので怖くて、蹴りはとてもじゃないが使えなかつた。  結果、完全に少林寺拳法の打撃技の利点を殺されていた。  しかし、河原崎は冷静に戦略を組み立てなおし、やはり勝つのは自分だと確信すると、左足のダメージをごまかすように口端を釣り上げた。  その頃には吹き飛ばされた黒川も立ち上がっていた。  ある程度、互いのダメージが回復すると再び向き合い、呼吸を整えながらタイミングを見計らう。 「シッ!」  どちらの声か、どちらが先に仕掛けたか分からないほど、二人の動きは同期し、重なった。  再び、黒川は河原崎の左足にローキック。  そして河原崎もボディーブローを放つ。  さっきと全く同じ光景。違う点は、黒川が吹き飛ばされなかったということだけ。  これを見た者は、足のダメージで河原崎の力が入らなかったものだと思ったが、それは見当違いだった。  河原崎はわざと吹き飛ばない程度に力を抑えていた。このボディーブローはダメージを与えることが目的ではなかった。  河原崎は腹の苦痛に一瞬ひるんだ黒川の右手を掴むと、手首の関節を極めて投げ技に入る。  これが、河原崎が顔面攻撃禁止のルールを受け入れた理由。  少林寺拳法のもっとも優れている点――それは打撃技と関節技が一つの体系として構成されているため、立ち技においてあらゆる局面に対処できることであり、麻薬取締官に導入されている理由でもあった。  そして河原崎の選んだ技は逆小手――相手の手首の関節を極めることで相手を投げる少林寺拳法の初めに習う技であり、幼少から何千回も練習してきた河原崎のもっとも得意とする技。  自分より小さい相手を投げるなど、河原崎にすればあまりに簡単な事である。重心を崩し、投げられる黒川を見ながら                                                                          (勝った! あとはこのチビの腹を思いっきり踏んづけてやれば私の勝ち、勝ち!)   河原崎はフィニッシュまでの映像を脳内で再生すると、たまらず笑顔で口元が引きつらせた。  しかし、投げ技を使ってくるというのも御影の想定内であった。御影はこのタイミングを待っていた。 「イイコちゃん、飛んで!」 「おう!」  黒川は短く答える。  投げられたかに見えた黒川は――いや本当に投げられているのだが、地面を蹴って自分から飛ぶことで背中から激突することなく前方宙返りの要領で足から着地してダメージをうけなかった。そして、投げ技の後の無防備な体勢の河原崎のインローへ一閃。 「ぐぎいいいい」  三発目のローキックに河原崎はたまらず膝を着いた。  あとは、黒川がとどめの一撃を――と思われたが、彼女は蹴った後、ふらついて尻餅をついていた。急所を外しているといっても、完全に防御していないので黒川にもダメージが無いわけではない。もともと食らう瞬間に腹筋を固めての相討ちという無謀な作戦だった。だから、二人のダメージは実質大きな差はない。  しかし、少なからず油断していてメタを張られた河原崎に対して、全て作戦通りに事が進んでいる黒川の方が心理的には圧倒的に勝っていた。  先に立ち上がったのは黒川。  これで勝負あったかに見えたが、脆いている人間に攻撃するのは、黒川のポリシーに反していた。勝つことも目的だが、漢らしくあろうという思いから、彼女の口から、 「立つまで、待っちゃる。早よ来い」  黒川は別に、憐憫の情をかけてるわけでは無かったが、河原崎のプライドを傷つけるには十分すぎた。 「私を、私を馬鹿にしてんのかぁ?」  怒りに任せて、勢いよく河原崎は立ち上がる。しかし、左足に体重を乗せられず、ぐらつく。  しかし、足が覚束ないというのは黒川も同じだった。  二人とも、余力はもうほとんどない。  生徒全員が固唾を飲む中、二人は最後の攻撃が繰り出す。  黒川は当然ローキック。  そして、河原崎の選んだ攻撃。  それは――上段直突。  まさかの反則攻撃に「えっ」と、見たもの全てが声を漏らした。  ローキックより間合いの長いその攻撃は、黒川のこめかみ――一般的にテンプルといわれる急所を捉え、黒川の意識を寸断した。  予想外の攻撃を受け、意識を失いかけて糸の切れたマリオネットの様に崩れる黒川に、河原崎のとどめの一撃が黒川の顔面に繰り出される。  しかし、それは届かなかった。  二人の間に飛び込んだ御影がその拳を片手で受け止め、もう片方の手で意識を失った黒川の肩を抱き寄せた。  邪魔が入ったことに河原崎は激高する。 「くうつ、この。邪魔すんっぶうつ」  言い終わる前に、御影のサイドキックが河原崎の顔面を蹴りぬいた。  蹴り飛ばされた河原崎は、軽い脳震盗を起こしてうずくまる。  御影はそんな彼女を睨みつけながら、 「ハジメェ!」 「はっ、はいっ」  初めて聞く、御影の大声に委縮したハジメは裏声で返事をしてしまっていた。 「イイコをお願い」  御影はそう言って、ハジメに気を失った黒川を託すと、鬼瓦の方に改まった態度で向き直る。 「先生、この選挙は河原崎さんのルール違反により黒川さんの勝ち。そうですよね」 「ええ、その通りです。あとは」 「粛清。ルール違反をした河原崎さんに対する粛清ですね」 「その通りです。まぁ、粛清でなく指導ですけど」 「その役目、私にやらせていただけませんか?」  ハジメ以外のクラスメイトはざわつく。いや、ハジメも少なからず驚きを隠せなかった。 「滝川さんが? どうしてですか?」 「黒川さんは私の……と、友達、です。その友達が不当な暴力を受けたのです。それが理由ではいけませんか?」  理由は単純明快だった。 「わかりました。しかし、生徒が生徒を指導することはあつてはなりません。つまり……わかりますね?」 「あくまで対等な勝負……ゲームならばいいということですか?」 「そうです」 「では、普通の決闘。ルールは目つぶし以外何でもアリ。先生が『やめ』というまで。それでいいですか?」 「ルールはそれでいいでしょう。しかし、すでに負傷している河原崎さんと無傷のあなたではあまりにも……」 「ハンデ……先ほどの河原崎さんの得票数は一二ですよね?」 「はい」 「それでは、一二×五秒の一分のマジョリティータイムを河原崎さんに与える。それでいいですか?」  確かにハンデとしては妥当かもしれないが、そこまでして戦う理由が、クラスメートもハジメにも……御影自身にもわからなかった。しかし、彼女はそうせざる得ない衝動に突き動かされていた。 「よろしいでしょう。では河原崎さんが立ち上がったら試合スタートということで」 「はい」 「あと注意を一つ」 「……」 「殺すなよ」  鬼瓦は、いつもの教師としての優しい声音ではなく、どすの利いた声で一言そういった。  そんなやり取りが終わると、ようやく蘇生した河原崎が立ち上がろうとしていた。 「何よ……何、私のいないところで盛り上がってるのよ。どいつもこいつも馬鹿にしてぇ」  黒川のローキックで足はボロボロだったが、目にはまだ十分な闘志が宿り、手負いの獣が放つ危険な殺気を纏っていた。 「だいたいハンデに『マジョリティータイム』六〇秒って私を舐めてんの? なんで六〇秒で決闘無しがわかんないほど馬鹿のかてめー」  河原崎の言い分は最もだった。いくら実力差があっても、六〇秒間も一方的に攻撃を受ければ、もはや勝負になる訳がない。  しかし、御影はそんなことは理解しているようで、 「ごちゃごちゃ、うるさいわね。そんなこと言ってるうちにもう五秒くらいすぎちまったわ。さっさと来たら? 私が怖くないんなら」  挑発的に喫呵を切った。 「くそおお、駄犬の腰巾着風情が私に、反抗しやがって。なんでもありなら私がまけるはずないんだああああぁぁぁ」  叫びながら御影に襲いかかる。  その動きには、少林寺拳法で培った洗練さなどなかった。  ただの野生。  剥き出しの本能。  その姿を見た生徒たちは、猛獣と同じ檻に入れられたかのような恐怖に怯え、教室の隅に避難していた。  そして、河原崎の拳が御影の顔面を捉える。 「ぐうう」   しかし、ダメージを負ったのは河原崎の方だった。彼女は拳を押えてうずくまってしまった。  御影の額が河原崎の拳を捉え迎撃していたのだ。 「先生、これは反撃に入りませんよね」 「ええ、一応、問題ありません」  鬼瓦は笑いを堪えるように答えた。 「てめぇ、なめやがってぇ」 「ごめんなさーい。もう意地悪しないから、許してね。あとマジョリティータイムの四五秒くらいだけど好きにしていいから」  そういうと、御影はポケットに手を突っ込み、仁王立ちになって、うずくまる河原崎を見下ろした。  河原崎は御影が強敵であることを認識すると冷静さを取り戻すのに努める。構えなおし、深呼吸を二、三吸うと攻撃を開始した。  頬、頭、首、胸、腹、あらゆる部位に打撃を叩き込む。これまでのダメージの影響で一つ一つの攻撃には威力はたいしたことは無かったが、途切れることのない打撃に、多くの生徒が目を背けた。 「あと五秒」  鬼瓦のアナウンスに河原崎は焦る。何発の打撃を打ち込んだかわからないが、御影は多少血を流しながらも、笑顔を浮かべる余裕を残していたのだ。  河原崎は再び、切り札である投げ技を使う。黒川にやった仏骨投……少林寺の技の中でもっとも危険な部類に入る技。御影の襟を掴み、親指を首の急所仏骨を攻める。これにはどんな人間も逃げようとして体勢を崩す。その瞬間を逃さず電光石火の投げ技で相手を地面に叩きつけると、とどめの一撃を御影の腹に叩き込んだ。 「ウグッ!」  これには流石の御影も腹を押えて丸くなった。 「い……いた……い、ゲホッ、ゲホッ」  御影は喉のダメージで上手くしゃべれない。  その姿を見た河原崎は、 「たまらなく痛いでしょ、くるしいでしょ、惨めでしょ。ほら、さっさと私に泣いて謝りなさいよ。そうすればこれで終わりにするよう、先生にお願いしてあげてもいいわよ」 と、散々自分をコケにした人間を見下ろしながら悦に浸っていた。  しかし、御影の返答は、 「い、痛いけど……痛いだけって、感じ? 全然効かないわ」 「ああ?」  ボロボロにした相手に、馬鹿にされた河原崎は青筋を立てた。  御影は逆に落ち着き払って、丁寧に鼻血を拭いながら、 「まぁ、私が微妙に急所とタイミングを外すように攻撃を受けてるってのもあるんだけど、あんたの攻撃はなんていうか幼稚なのよね」 「私が幼稚だぁ?」 「技は一級品よ。それは認めてあげる。でもねぇ、あんたの攻撃は殺意が足りないのよ。ただ、自分の力を他人に見せつけるためにやってる感じで……子供が駄々こねてるようなもんなのよ。そんなんじや、私には効かないわねぇ。本当の殺意のない攻撃なんて痛くても全然怖くないもの」  もはや怒りの感情がそうさせるのか、本人にもわからないが河原崎の顔がみるみる赤くなっていく。  それを楽しんでいるかのような口調で、御影はまくしたてる。 「だから、あんな反則負けするのよ。私からすれば、負けるよりもよっぽど恥ずかしいけど、あんたみたいな歪んだプライドをもった勘違い女はああしないと自分の自尊心をまもれないんでしょ。かわいそー」  そう言うと、服についた挨を払いながら御影は立ち上がった。その姿は本当にダメージを受けた様子はなかった。  「この、この、このっ」  言葉に詰まりながら、河原崎は再び獣のように、襲いかかる。もはや、我を失っていた。  御影は、その敵を迎撃する。文字通り飛び掛かってきた河原崎に御影はまるで興味が失せたかのようにクルリと背を向けた。これには、河原崎は虚を突かれた。  その次の瞬間だった。  カウンター気味に、御影の後蹴りが河原崎の腹を貫いていた。  ジャストミートした打球のように河原崎は飛ばされ、教室の壁に衝突。それに跳ね返るようにして、地面に倒れこむ。  このまま倒れて地面に激突するかに思われたが、御影の追撃がそれを許さなかった。地面に落下途中の河原崎の顔面を掴むと、そのまま後頭部を壁に叩きつけた。  それでも終わらない。  そのまま、片手で河原崎を持ち上げると、その腹にボディーブローを食らわせた。 一定のリズムで。  細かく。  正確に。  まるでそうプログラムされたかのような攻撃。  機械的な動きとは裏腹に、その指示を送っている脳にもっとも近い位置に存在する人間の器官――顔には見る物をたじろがせるほどの憤怒で染め上げられていた。  ほとんど意識を失っている河原崎はもはやサンドバックの様にように揺れることしかできなかった。 「もう勝負は着いている。だからもうやめろ」  鬼瓦と攻撃をいっこうにやめる気配のない御影の背中を見る生徒たちの目線はそう訴えかけていた。しかし、どちらも止める様子がない。  この粛清と化した試合を中断させたのは「ひっ」という小さな悲鳴だった。  その声にフリーズしたかのように、御影の動きが止まる。  御影を止めたのは、座り込んだハジメの腕の中で意識を取り戻しかけた黒川。彼女の悲鳴だった。  彼女が朦朧とした意識の中で見た友人の顔。いや、怒りで染め上げられた御影の顔を、彼女は友人のものだと認識できなかった。それほどまでに、いつもの御影からはかけ離れた憤怒の形相。そんな人間を初めて見たゆえに、自然に出た悲鳴だった。  しかし、今度は恐怖に怯える黒川の顔を見た御影に変化が訪れた。  鬼の顔は突然子供の顔に。  見られたくないものを目撃された時の悲しい顔に。  すると、河原崎を持ち上げていた怪力も鳴りを潜め、河原崎は地面に崩れ落ちた。  それと同時に、御影は教室から飛び出していた。 「み、ミーちゃん?」  やっと、御影だと気付き、追いかけようとした黒川だったが、勢いよく立ち上がろうとした瞬間、激しい眩畢に襲われ再び意識を失った。  この結末に、ハジメを含めたクラス全員が困惑する中、 「あらあら、どうしたんでしょう。ま、これで終わりにしますか」  鬼瓦はなんとも呑気な言い方で、終わりを告げる。 「それでは、これにて選挙を終了します。皆さん、机をもとに戻してから下校してください」  何事もなかったかのように鬼瓦はそう言うと、気を失っている河原崎を担いで保健室に連れて行こうとした。しかし、その前に、再び意識を失った黒川を抱きとめ、唖然としているハジメの元に歩み寄る。 「田伏君。素晴らしい応援でした。応援部OBとして、有望な新入部員が入って、とてもうれしいです」  ハジメはそんな褒め言葉に喜んでいなかった。御影の事を考えて、返事をする余裕が無かった。  そして、鬼瓦もハジメのそんな気持ちを理解していた。 「あと、OBとして言わせていただきます」 「えっ?」 「もう一人応援しなくちゃいけない人がいるのではありませんか?」 「……はい」  鬼瓦は決して善人ではなかった。  しかし、応援部の先輩、教師としての言葉をハジメに与えた。  ハジメは黒川を鬼瓦に託すと、御影を追って教室を飛び出した。 終章:追試  考えなしに教室を飛び出したハジメだったが、御影がどこに行ったのか全く見当がつかなかった。当然、携帯にもでない。  そもそも、校舎内にいるのか?  それを確認するために下駄箱に行ってみると、御影の靴があるのを確認した。  そうすると、いよいよ何処にいるのかわからない。女子トイレでメソメソ泣くような人間ではないと思ったが、ハジメには心当たりがない。  しかし、止まっていても仕方ないので、何となく屋上に行く。それがベタだと思ったから。  しかし、やっぱりいない。  無人の屋上で、夕日と睨めっこしても、なんの解決にもならないが、御影の事を考えても、やはりハジメにはわからない。 (あんな変人の考えていることなんて自分が分かるわけないじゃないか。入学試験でカンニングさせる奴の事なんか……そういえば、まだ行ってないな)  最初に、出会った場所。試験を受けた教室。なんで、そんなところを……と自分でも分からないが、御影と自分の接点。それに他が思いつかない。  ハジメは記憶をたどる。  あの教室。  あの窓。  もう雪は無いが忘れてはいなかった。ハジメの入学するきっかけだから。  そこは三年生の教室だった。下校時刻はとっくに過ぎており誰もいない。  そう思ったが、オレンジの夕日に溶け込むように御影が、窓から外を眺めていた。  ようやく、見つけたはいいが、ハジメはどう声を掛ければいいか分からない。しかし、ここで考えても仕方ないので、考えなしに教室の扉を開けると、その昔に御影が振り返る。  乙女らしく泣いているわけもなく、御影はいつも通りの顔で、 「ノックぐらいして入りなさいよ」  思ったより元気そうだった。  そもそも、泣くような人間ではない。というより、泣いている女の子にかける言葉などハジメは知らないので、泣かれては困る。  ハジメは一安心して、 「もう帰りますよ」 「……いや」 「はあ?」 「だって、イイコに見られたじゃない……ううん、イイコだけじやなくてクラスの全員に見れた」 「そう思うんなら、あんな勝負しなければよかったのに。あのまま、放っておけば全部丸く収まってハッピーエンドだったじゃないですか」  これには御影も論理的反論はできなかった。 「だって……なんかむかついたから……私の、私のもの……私のイイコに……でも、こんな考えだからイイコに怖がられちゃったのかな」 一応、自分なりに反省しているようだった。  ハジメはそんな御影に、 「たしかに御影さんの性格は最低の部類に入ると僕も思いますよ」 「いちいち言わなくてもいいわよ。私だってわかつてる」 「でも、嫌いじゃない」 「はぁ?」 「動機はどうあれ、黒川の為に頑張って、あいつの為にあれだけ怒れる人間だってわかったんだから、僕は、きっと黒川も」 「嘘!」  その言葉に、ハジメは眉をピクつかせて、 「でも、一つだけ気に入らない、むかつくことがあるんですよ」  ハジメの口から出た『むかつく』という言葉に御影は悲しそうな顔をした。 「なに勝手に人の気持ちを決めつけてるんですか。あんたにそんな権利はありませんよ。黒川が嫌いになったって、聞いてもないくせに決めつけるのはあまりにも倣慢じゃないですか?少なくとも、僕は嫌いになんてなってないし、黒川も」 「どうせ嘘」  御影は聞く耳を持たない。もはや、取りつく島もないようだった。 「みんな最初はそういうのよ。でも私がちょっと本音出すだけで皆私から離れてくのよ。あんたもそう。今は私を憐れんでるだけでしょ」 「憐れんでもないし、嫌いでもない」 「ふん、カンニングした人間の言うことなんて誰が信じると思うの」 「それは今関係ないでしょ」  ハジメは父親の『女には口げんかでは勝てないから、とりあえず謝っておけ』という、リアリティー満載の教訓を思い出したが、今、謝る――認めるわけにはいかなかった。しかし、どうやって打開しようか、途方に暮れていると、 「あらあら、青春してますね」  二人を保健室に連れて行った鬼瓦が、乱入してきた。  「先生、いつから?」 「ほとんど最初から。いえ、盗み聞きするつもりは無かったんですよ。それより、田伏君、そんなのいくら言ったって乙女心は変わりませんよ」 「そんなこと言われても……」 「滝川さんはあなたに甘えたいだけですから、そんな言葉を繰り返したって、日が暮れるどころか、日付が変わっちゃいます」  この言葉に、御影が憤慨した。 「私はそんな、こいつに甘えてなんか……」 「そうですか? 嫌いだとって決めつけて、それを否定してもらいたいだけだと思ってました。だから、この教室で、田伏君に気付いてもらいたかったじやないですか? それに、さっきの勝負も黒川さんのためじゃなくて、自分が黒川さんのために何かしたいっていうただの自己満足でしょ? 気持ちいいですもんね。誰かの為に何かするって」 「そんなつもりじゃ……違います。決めつけないでください」  鬼瓦の言ったことは真実であったが、あまりにも核心を挟ってしまったため、御影は余計に意固地になってしまった。  もっとも、鬼瓦はそんなことは計算通りらしく、 「じゃあ、勝負してみます?」  ここで勝負なんて言葉が出るとは、御影も想定外だった。ハジメも鬼瓦がとんでもないバトルマニアに思えた。 「私が……先生と?」 「いえ、田伏君とです」 「僕ですか?」  これには、ハジメより御影の方が驚いていた。 「だって、田伏君も勝手に決めつける滝川さんがむかつくんでしょ。ならば、もう勝負するには十分だとおもいますけど」 「そ、そんな。ただの痴話げんかみたいなもんでして、そんなに話を大きくすることではないと思うんですが」  ハジメは、至極正論を言ったつもりだが、それはこの学校では通じない。 「本当に譲れない事なら、それがたとえ他人から見れば些細なことだとしても、自分が大事なものは、どんな手を使ってでも、認めさせればいい。それが我が校のモットーです。それとも、自信がないんですか?」  ここまで言われると、御影も黙っていられなかった。彼女は自分のプライドを守るため、そして、自分の気持ちをはっきりさせたかったので、 「わかりました。受けます」  ハジメもここまで来ると腹をくくった。 「僕もいいですよ。でも、勝負と言っても……」 「だから相手に認めさせるためなら何でもアリです。相手の生爪を剥ぐとか、関節をバラバラにするとか、性別を変えちゃうとか、後遺症が残るようなこと以外なら、暴力的なことをしてもいいですよ。まあ、やばかったらその時点で私が注意しますので」  要は立会人付きの痴話喧嘩。  もっとも、暴力を認めるといっても、ハジメにそんな事できるわけもない。女の子を殴れないというより、御影の方が圧倒的に戦闘力が上で、タダの喧嘩ならもう勝負になるわけがなかった。しかし、これは喧嘩が強いほうが勝ちではないのだから、勝ち目がないわけでは無い。  ここに来て、ハジメは自分の能力の無さを悔やむが、それでも譲りたくなかった。自分の思っている事を、勝手に捻じ曲げられたくなかった。自分のためにも、そして御影のためにも。  しかし、どうやって認めさせるか?  それを思案していたが、鬼瓦はそんなことお構いなしに、 「ふふ、では私は見守るだけで、どちらかが負けを認めるまでです。それでははじめ」  緊迫感もなく始まった。  しかし、ハジメは動かない。 「あんたは、私が嫌いじゃないってどうやって証明するつもりよ」 「『好き』『愛してる』『結婚してくれ』っていえば認めてくれますか? 余計怒るでしょ? だから、御影さんの甘えにとことん付き合ってあげますよ。要は何されても、嫌いだって認めなければいいんですから」  ハジメはこう言うしかなかった。というより、実際、他に思いつかなかった。  しかし、当然御影は腹を立てた。  パンッ  御影の張り手がハジメの顔面をはたく。 「ほら、嫌いでしょ。こんな理不尽な暴力ふるう女。さっさと嫌いだって認めないともっかいひっぱたくわよ」  ハジメはヒリヒリと熱を持った頬をさすりながら、なんて陳腐な光景なんだろうと笑いが込み上げてきた。 「クックック、案外可愛いじゃないですか。御影さんもけっこう幼稚ですね」  ハジメは素直な感想を御影に浴びせた。  それに対して、彼女の夕日に照らされた顔は、恥ずかしさなのか馬鹿にされた怒りによるものかはわからないが、みるみる赤くなっていく。すると、彼女は半分無意識でハジメの鳩尾を蹴りあげていた。 「かはっ、ぐうう」  大口叩いたハジメだったが、さすがにこれをくらっては笑えなかつた。うずくまって、押し上げられた横隔膜に圧迫された肺で呼吸を整えるのに必死だった。  そんなハジメの後頭部を御影の足がなじるように踏みつける。 「ほら、まだ軽口叩けるんなら、なんか言ってみなさいよ」  ハジメは睨みつけるように、御影を見上げた。 「し……ま……」 「何?」  御影は「すいませんでした」と言おうとしてるのだと思ったが、ハジメの口から出た言葉は、 「し……ま、縞パン」  御影は思わずスカートを押えるために、足をどけた。 「あんたサイテー。こんな時も、エロいこと考えてるの。これだから男なんて」 「だって、御影さん、見た目が可愛いんだから仕方ないじやないですか」 「うるさい、うるさい。どうせ見た目だけでしょ」 「その見た目だって、御影さんですから……なんだか、こうして踏みつけられると、ようやく奴隷って気分ですよ」  そんな減らず口を叩くハジメに、御影は脇腹にもう一つ蹴りを加えた。 「ぐつ、ううう……御影さんの、言う、とおりですね」 「やっと負けを……嫌いって認めるの?」  どこか寂しげな声で呟くので、ハジメはツンデレなんてものに、うんざりしながら、 「違いますよ。さっき自分で言ってたじゃないですか『ほんとの殺意のない暴力なんて痛いだけで、怖くない』 って。ぼくは喧嘩なんてしたことありませんけど、思ったよりも怖くないもんなんですね。だって御影さん、手加減してるんでしょ? 河原崎さんを秒殺したのに、僕はまだぴんぴんしてますよ」 「私が手加減……ちがうわよ。あんたみたいな根性なしじゃ、すぐ気を失って勝負にならないから。ただ、それだけ」  御影は実際手加減をしていた。もし彼女が本気にならば、今の蹴りも肋骨の急所を上履きの先で貫き、簡単に骨を折っていた。しかし、そんな事をすれば、ハジメは激痛のあまりにもう何も喋れなくなるし、それでも嫌いと言わなかったら、もう御影には何をすればいいのかわからない。だからこそ、手加減しているはずなのだが、彼女が思っている以上に力をセーブしているらしい。どうして手加減しているのか、自分でも分からなくなり始めていた。  ハジメはそんな御影をからかうように、 「また、またー。恥ずかしがっちやつて。そろそろ、僕の気持ちが本物だって認めてもらえません? もうすぐ新しい境地を開拓しそうなんですけど……」  今のところ耐えているハジメだがこれ以上は厳しい。だから、切実な願いだったが、それを悟られまいと必死だった。 「そうね」  そう言うと、うずくまっているハジメを無理やり起こして、御影は後ろから抱きつく。  御影の乳房の感触がハジメの背中に、透き通るように白い腕が首に、少女の吐息が耳に。  激痛に耐えているハジメには甘美な刺激だったが、これが罠であることは分かっていた。  しかし、この体勢では手も足も出ない。  「御影さんったら、だいたーん。先生の見てる前でえっ!」  相変わらず強がりを言った。というよりも、今のハジメが自由に動かせるの口しか残っていなかった。  しかし、それも首を絞められてはかなわない。 「ぐうううう、うぐう」  ハジメは坤きながら、思わずタップした。別に、タップすれば解放されるなんてルールはこの勝負には無い。それは分かっている。しかし、首を絞められた時の人間の本能なのだろう。  ハジメは鬼瓦の方に情けない視線を送ったが、笑っているだけで介入する気配はない。彼女の中では首を絞めるくらいはアリらしい。  御影は、ハジメが失神しない程度に、もっとも苦しいように調節しながら、頸動脈を締め上げる。そして臨界に達した時、解放した。 「か、かかっ、か。ゲホツ、あっ、う」 「ほら、怖くないんでしょ? 顔を真っ赤にしながら、目の前は真っ暗になっていくのも……」  そういうと、再びハジメの首を絞めつける。  文字通り、頭に血が上ったハジメは、ブツ切れの思考の中で、 (こう、なつたら、もう、やけだ。だいた、い、なんで、こんな目、に合うんだよ。もう御、影のことなん、かかまう、か‥‥‥)  再び、情けなくタップをして、解放するように訴える。  それから少し間をおいて、御影が解放すると、 「あ…んた……き、あ……あ……」  息を整えながら、ブツ切れに言葉を吐き出すハジメの拘束を緩める。  もう、これで終わりだ。  御影はそう油断しながら、ハジメの耳元に口を近づけ、 「何よもっと大きく言いなさい。私のこっ」  御影の言葉はそこで途切れた。  彼女の口を塞いだのは、ハジメの残された唯一にして最後の武器――口だつた。  こういう時は、互いに目を閉じるの基本なのかもしれないが、互いに目を見開いていた。  御影は驚きのあまり、ただでさえパッチリした目を開き、ハジメはそれを楽しむかのように見つめた。                                      酸欠気味のハジメのファーストキスは、ほんの束の間の物だった。  息継ぎをするように、口を離すと、 「はっ、はっ……嫌いだよ」 「え、あ、え?」  御影は目をパチクリさせるばかりで、ハジメの言葉を聞き取れていなかった。  そんな彼女をよそにハジメは、無理やり薄ら笑いを浮かべながら、鬼瓦の方に顔をを向けた。 「先生、これで僕の負けなんですかね」 「うふふ、私では判断しかねます。滝川さんに聞いてみては?」 「ふ、ふざけないでよ! 私のファーストキス奪っといて、きら、嫌いなんて許せるわけないでしょ」 「あれー、でも嫌いって認めろってどっかの御嬢さんが言ってませんでしたっけ」 「その……あ、う……」  御影は自分の中の矛盾と戦いつつも、顔を真っ赤にしていた。  好かれたいけど、嫌われるのが怖いなんて、誰でも多かれ少なかれ持っている気持ち。御影の場合は、その能力とプライドの高さゆえに、それが他の人よりも激しかった。それを見透かしたハジメの最終手段。  ハジメは自分から仕掛けておいて、なんてくだらない茶番なんだろうと思ったが、それでいいと割り切った。たかが好きか嫌いかを、決めるのに暴力沙汰なんて馬鹿げてる。  それに首を絞めてきた女の唇を奪うなんて、普通の高校に行っていたらまずありえないだろう、と言いようのない満足感に満たされた。  そして、もうやれることは無いと思った瞬間。  御影の腕に再び力が注がれ、ハジメの首を締め上げた。 (や、やば……調子にの……りすぎたあ、あ、あ)  頸動脈が締め上げられた時の特有の苦しみはある一線を超えると、脳内麻薬のせいなのか、味わったことの快感に変わった。その快楽に飲み込まれ、目の前が真っ暗になっていく。  そんな、意識が薄れゆくハジメの認知で来たものは二つ。  一つは、二人の様子を見ている鬼瓦の歪んだ笑顔。唇を奪っておいてその相手に絞めおとされている情けない自分に向けられているものなのか判断する余力は残っていなかった。その笑顔と分類できるのかさえ危うい不気味な顔は薄れゆく意識の中でも、強烈に網膜にこびり付いた。  あと、もう一つはそれに比べれば何とも惨く、幻かもしれない。しかし、ハジメは確かに聞こえた。  何とも愛しみのこもった響きの、 「ばかっ」  その御影のか細い声を認識したのを最後に、ハジメの周りの世界は消え去った。 「んん……」  瞼越しに、夕日がハジメの網膜を刺激して目覚めさせた。  意識を取り戻したハジメは幽体離脱でもしたのか、オレンジに染まった床をはるか上から見下ろしている。しかし、重力の方向がわかると、床だと思ったのは天井であることをようやく認識できた。そして唯一命令を聞く眼球を動かすと、御影の顔がこちらを覗き込んでいるのを確認した。 (やばい、追撃がっ、でも動けない) と、思ったがその様子はない。それに、後頭部の柔らかい感触に、気付くと、御影が膝枕をしていることがわかる。この時点でハジメはようやく、正常な判断ができる状態になった。 「あ……あれ、勝負は?」 「もう、勝負は終わりよ」 「えっ?」 「鬼瓦先生があまりにも不毛で面白くないし、次の試合の立会もあるからって帰っちゃったのよ。だから、勝負はまたお預け」  こんだけグダグダになったのだからそれも仕方ないと思ったし、正直勝敗なんてどうでもよかった。 「僕はそんなに気絶してたんですか?」 「いいえ、二,三分ぐらいよ。きれいに落としたから、そんなにダメージもないはず」  ハジメの意識は少し混濁していたが、御影の言う通りそんなに不調というわけでは無かった。  しかし、動くのはまだ億劫だし、頭が回転しなかったから、虚ろな目で御影を見上げていた。  そんなボケッとしているハジメに御影の方から話しかけた。 「私に反抗したんだから、もう奴隷失格ね。最後だから、こうして膝枕してあげてんのよ。だから感謝しなさい」 「そういえば、そんな設定でしたね」  頭がボーッとして、そんな話がずっと昔に感じられていた。 「ねぇ」 「はい?」 「……イイコ、ほんとに私の事嫌いになってないかな」 「大丈夫ですよ」 「もしダメだったら、あんた責任とりなさいよ」 「どうやっ」 て。そう言いかけたところに、 「あれ、ミーちやんもハジメもこんなとこにおったんか。探したわ」  すっかり、全快の黒川が教室に入ってきた。 「なにイチャついてんねん。もう日も暮れるし早く帰ろ。そんでもって、わしのおごりで祝勝会や」  そう言いながら、御影に向かい合うように座り込んだ。  さきほどの、怯えていた彼女が嘘のような振る舞いに御影は困惑した。 「えっと……イイコちゃん」 「何?」 「その……私のこと嫌いになってない?」 「なんで?」  黒川は素直に驚いた顔をする。 「だってさっき……」 「あ、怖がってごめんな。だって、ミーちやんえらく男前になってたんやもん」  あの姿を『男前』で片づけるあたりに、黒川のセンス――大物の片鱗をハジメは見た気がした。  しかし、御影は信じられない様子だつた。 「ほんとに?」 「うん」 「ほんとに?」 「うん」  無限ループする勢いだった。御影もそれを感じると、 「マジの本気の本当に私のこと嫌いになってない?」 「あたりまえやん」  黒川が、いいかげんうんざりしたしたように言っても、それでも足りないらしい。 「もし、もしだよ……」  プロポーズをするように、ガチガチに緊張した御影は、大きく息を吸うと、 「毎日、起こしに行って、誰よりも最初に 「おはよー」 って挨拶して、朝ご飯作って、一緒に登校して、ちょっと手をつないだりして、楽しくおしゃべりしながら、休み時間もず一つと一緒にいて、洗濯も私が全部やって、休みの日は一緒に買い物行って、映画行ったり、パフェつついたり、交換日記したり、それだけじやなくて……」  御影は堰を切ったように、自分の友達像を語りだした。それは、黒川のスピーチなんかより、遥かに饒舌だが、果てしなく取り留めも無く、数分に及んだ。  それを下から見上げているハジメは、 (あぁー) と掛ける言葉が見つからなかった。  御影の友達ができない理由。  それは、性格の悪さというより、友達に求めるハードルがやたら高すぎて、みんな引いてしまったのだろう。だから、奴隷のハジメにも、自分のやりたいことをして、受けてももらう、愛情のサンドバックみたいに扱った。  距離感が恋人並みかそれ以上に近すぎて、受け止められる人間なんているのだろうか  ハジメは危惧していたが、黒川は話の途中から、耳を素通りしたため、 「なんかよくわからんが友達ってことやろ?」 と簡潔に要約した。 「もうわしとミーちゃんは友達やん。……それともわしの事嫌いになったん?」  その黒川の切り返しに御影は、膝枕しているハジメを取っ払って、黒川の両手を力いっぱい握りしめ、 「何言ってるの? そんなことあるわけないじゃない。ありえない、ありえない。私はイイコちゃんのこと好き、好き。なんでそんなこと言うの」  御影は狂ったように全力で否定した。 「なら、やっぱりわしら友達。いや、もう兄弟分じゃん」 「うん。うん」  念願叶い感無量といった様子の御影と、いつもの眩しい笑顔の黒川。  そんな二人の様子を目の当たりにしたハジメは、自分がこんなにボロボロになって認めさせようとしたことを黒川があっさりと成し遂げたので、感心すればいいのか、悔しがればいいのか反応に困った。しかし、なんだか知らないけど二つの依頼を無事に成し遂げられたことに、満足すると、ようやく立ち上がつて、 「まぁ、なんだかよくわかりませんけど帰りますか」  ボロボロになった三人は、スーパーに寄って食材を調達してから、寮に帰って行った。 エピローグ  寮に戻っても、祝勝会は開かれなかった。  言いだしっぺの黒川が寮に着くなり眠ってしまったのだ。ハジメは起こそうと思ったが、その寝顔があまりにも穏やかなのでそのまま寝かしてあげることにした。すると、御影も黒川に寄り添うように眠ってしまった。そんな二人を見たハジメは、黒川の貞操が危ない気がしたが、たぶん大丈夫だろうと無責任に放っておくことにした。  それよりも、買った食材がもったいないのでハジメは陽子と二人で、応援の結果報告を兼ね、流れてしまった歓迎会ということで、鍋を囲むことにした。 「鬼瓦先生から聞いたよ。ハジメ君大活躍だったみたいじゃん」  鬼瓦の立ち会う次の勝負は陽子のものだったらしく、すでに筒抜けだった。 「いえ、黒川が頑張っただけですよ。それに御影さんがいなかったら何もできませんでした」 「私もその器具使ったゲームやったことあるよ。まぁ、針が刺さる前にひん曲げるか、手が届かないのは痛いのを我慢したけどね。それにしても、よく相手のイカサマに気付いたね」  そんな原始的な手段でいいのかよ、とハジメは抗議したかったが、それを飲み込んで、 「御影さんの助言のおかげなんですけど、それだけでは気付けませんでした」 「じゃあ、どうやって?」 「きっかけはプリントです」 「プリント?」 「ええ、選挙のルールを書いたプリント。プリントにはゲームの一番の肝である投票剣のアタリハズレについて全く書いてなかったんです。実物を見せたほうが手っ取り早くてわかりやすいからだと思ったんですが、もし意図的に省いていたらと考えると色々見えてきて……なぜ先生が質問の時間をあんなに急いだのか、もし針でアタリハズレが決定しているのならどうやって……そこでようやく河原崎さんの行動から推測できただけです。証拠の匂いも、手の匂いを嗅いでも俺ではちょっと甘いかな? くらいでほとんどわかりませんでしたから、自信はありませんでした」 「ふーん、鬼瓦先生の言った通りだな」 「え?」 「いやね、ハジメ君がプリントを食い入るように見てたからそれでばれたのかなって言ってたんだよ」 「あの絵面を見て楽しんでるだけかと思ったらしっかり観察してたんですね」 「まあ、あれでも教師だから」  今更そんな月並みな理由では、ハジメは納得できなかった。 「あと、こんなこと言ってたよ」  陽子はそう前置きを言うと、 「昔の私に似てるってさ」 「私って先輩に?」 「ううん、鬼瓦先生に」  ハジメは思わず吹き出しそうになった。あんなヴァイオレンスな人種とは対極の人間だと自負していたハジメからすれば、甚だ心外であつた。 「うえー、あんま嬉しくないです」 「しかも、笑い方が」  ますます嬉しくない。ハジメはそれを素直に顔で表現した後、 「俺は爽やかな笑い方しかできませんよ」  ハジメはわざとらしく、笑顔を作って見せる。が、陽子も負けないくらいニコニコして、 「その河原崎って子をハメたときも?」 「へっ?」  ハジメは、あの瞬間を思い出す。確かに笑っていた気がする。  しかし、それは黒川の役に立てたことに、喜びを見出したから。むしろ陽子と同じ側の人間に思えた。 「ハジメ君も鬼瓦先生も、自信に満ち溢れ、負けるなど微塵も思っていない人間が堕ちるとき、その落差が大きければ大きいほどいい笑顔になる人種らしいよ」 「そんな……」 「そんな笑いができるのは、物事をただ眺めるのではなく深く洞察し、時には相手の心まで見透かしコントロールできる者だけ。カラスってのは、そういう人間を指すらしいよ」  ハジメにはそんな自覚はなかった。それに、褒められているというより、性格の悪い奴だと言われている気がしてならない。 「やけに機嫌がよかったからさ。先生に聞いたんだよ。なんでカラスつて呼ばれてたのか」 「笑う姿じゃなかったんですか?」 「常に目を光らせ、人が物を落とすのを待つ、あるいは落とすように仕向ける。我が校の校訓からある意味もっとも対極に位置するものってことで校長がつけたらしい」 「褒めてるんですかね?」 「鷹を育てようとして、カラスが混じったから、嫌味もあるんだろ」  カラスの由来を知ったハジメだが、全く身に覚えのない事なので聞き流すことにした。それよりも先ほどの『物を落とす』という言葉と、陽子の見慣れた笑顔から、ある推理を働かせていた。 「そういえば先輩に一つ聞きたいことがあるんですけど?」 「なんだい? そういえばまだスリーサイズを言ってなかったね。これは失敬。まず上からいくね。B91W55H86。まだまだ成長中ですっ」  素晴らしいプロポーションに、思わず誕を垂らしそうになったハジメだが気を取り直して、 「いえ、パンツのことです」 「ハジメ君は下着にこだわるタイプなの? それじゃあ特別に、お姉さんの勝負下着を見せちゃおっかな?」  昨日の姿より刺激的なものを妄想したが、ハジメの聞きたいものはそれではなかった。 「先輩はそう言って相手のペース乱すの好きですよね。あの氷漬けのパンツもそうなんでしょ?」 「んーー、何のことやら?」  陽子は顎を掻きながらそっぽを向いた。 「最初は余りにも意味不明だったからわかりませんでしたけど、あそこに置いておいたの、僕と喋るきっかけづくりのために置いたんじやないですか? だって、日当たりの良い場所ならそのままベランダに置いとけばいいんですから」 「ばれちゃったか。いや、そんな話題作りってほどじゃないんだけどね。この寮の門にも監視カメラがあるんだけど、それをちょっと改造して、人が門を通過したら、私の携帯に映像が届くようにしてあるんだよ。基本、防犯目的なんだけど、新入生が来るってんで、ちょっと足止めして、声を掛けようかなぁっていう軽いつもりと、やっぱあそこが一番日当たりがいいからって置いといたんだよ。まぁ、踏まれるとは思ってなかったけどね」 「あの時は緊張して足元に目をやる余裕がありませんでしたから」 「そう考えるとあっという間に成長したじゃない」 「男子三日合わざればなんとやらっていいますからね」 「うふふ、やっぱ男の子はいいわね」  陽子は、そういうと魅惑の笑顔をハジメに向けた。彼女は純粋に後輩の成長を喜んでいるのだが、見る者を虜にし、幸せにさせる魔力がある。  やっぱり、きれいだなぁなんてハジメは見惚れていた。しかし、その妹のファーストキスを奪った事を思い出すと、途端に居心地が悪くなった。 (でも、鬼瓦先生も流石にそれは言ってないよな)  ハジメがそう思った矢先、 「それより、ハジメ君。御影の唇、奪ったんだって?」 「‥‥‥それも話してたんだ」 「私が迫っても逃げ出したのに……」 「いや、もうなんというか勢いで」 「まぁ、その勢いのおかげで勝てたんだからよかったじゃない」 その言葉にハジメは耳を疑った。 「えっ、僕が勝った?」 「君が気絶してる間に、御影が降参したって聞いたけど?」 「あっ」  御影の言っていた『奴隷失格』の意味――御影なりの精一杯の伝え方。  落とされた直後で頭が回らず、理解してあげられなかったが――友達昇格。あんな事の後では、恥ずかしくて言えなかったのだろう。  そう思うと御影が愛おしく思えた。  そして無意識のうちにハジメの口元が緩む。  それに気が付いた陽子は、無邪気な笑みを浮かべながら、ハジメを指差し、 「たぶん鬼瓦先生の言ってたのはその笑い方だよー」  そう言われてハジメは、恥ずかしくなり鬼瓦がしたように口元を隠す。  自分の笑顔を直接見る事ができる人間なんてこの世にいるわけがない。  しかし、ハジメには目の前の天使のような笑顔とは異なる笑顔をしているのだと確信した。 (冗談じゃない。俺は、あんな人とは絶対に違う……)  そう自負したハジメだが、口元を覆った手をどけることはできなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          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