ソーシャルウェブの時代にあって、「個の切り売り」は重要なテーマだと思います。ちょっと考えさせられたのでまとめてみます。
ソーシャルウェブが加速する「個の切り売り」と、家入一真という存在
ソーシャルウェブによって個人の能力や知識が可視化され、お互いに繋がることができるようになり、今までは評価されていなかったスキルやノウハウを、小さくとも換金することが可能になりました。
vites、ココナラといったスキルベースのマーケットプレイスなどはその好例です。こうした空間でなら、誰もが小商いを始めることができます。
「個の切り売り」という点に着目している起業家としては、家入さんがもっとも目立ったプレーヤーです。
ロリポップから始まり、campfire、studygift、顔面広告など、家入さんの企画するソリューションは「個の可能性」への期待感から始まっていると言えるでしょう。ご本人もよく「切り売り」という言葉を使われています。
自分をさらけ出して、個人がメディアやコミュニティを小さくても作ることが出来れば、評価や共感を少しずつお金にしていくことができる。僕が良く言ってる「個人のスキルやセンスやノウハウや時間を切り売りする」ってそういうこと。自分の個人商店化。
— 家入一真(Kazuma Ieiri)さん (@hbkr) 4月 12, 2012
道徳的議論:顔面広告が「胸元広告」だったら?
「個の切り売り」は有望である一方、しばしば道徳的な議論を巻き起こします。
例えば先日リリースされた「顔面広告」は、自分の顔面というスペースを広告として販売する、文字通り「個の切り売り」ですが、人によっては「広告という市場主義の権化が、本来、不可侵であるべき個人の尊厳を浸食している」なんて批判的な感想を抱く可能性もあるでしょう。
さらに、もしこれが「胸元広告」だったら、より道徳的な議論を巻き起こすことになるはずです。「性を売り物にしている」「社会を堕落させる」といった批判が間違いなく起こるでしょう。
では「太もも広告」だったらどうでしょう。なんとなく、秋葉原あたりなら許される可能性もあると思います。もしそうならば、「胸元」との本質的な違いはどこにあるのでしょう。
「局部」を調理するイベント
関連して、先日「芸術家の男性が手術で切り取った自分の性器を調理し、客に食べさせる」というなんともグロテスクなイベントが行われていました。
今日のニュースによると、この芸術家の方は「わいせつ物公然陳列などの容疑で告発」されることになったそうです。
この件に対して、佐々木俊尚さんは「法的に断罪する必要があるとはまったく思えない。放っておけばいいのに。」とコメントされています。
杉並区が公然猥褻容疑で警視庁に告発へ、と。気味悪いイベントだと思ったけど、法的に断罪する必要があるとはまったく思えない。放っておけばいいのに。/「局部を調理」イベント、芸術家を告発へ 朝日新聞 bit.ly/Lb8X0O
— 佐々木俊尚さん (@sasakitoshinao) 6月 25, 2012
これもまた、個人の切り売りが道徳的な議論をもたしている良い例でしょう。
このイベントに参加していた人は、常識的に考えれば、皆さん「合意の上」で「局部の調理」に参加していたわけです。切り取った本人も、自分の意思で調理しています。
だとするならば、なぜ「外野」の僕たちが、合意している人たちのやり取りに「口を出す必要」があるのでしょうか?
まさに道徳的問題であるため、その答えは人によって変わってきます。僕は佐々木さんと同様「ほっとけばいいのに」と思うタイプですが、人によっては「こうした所業を容認していては、社会は腐敗する」「親から貰った体を切り売りするなんて許せない」といった意見を持つでしょう。
見えないところでやれば良いのか?
実のところ、これまでの議論は別段新しいものではないのですが、ソーシャルウェブにより、こうした道徳的議論に「見えないところでやればいいのか?」という論点が加わったと僕は感じています。
例えば「胸元広告」も、自分をパブリックに売り出すのではなく、オフラインの関係性の中で、信頼できる広告主にのみ販売する(公開入札ではなく、クローズド販売)という形であれば、少し批判の度合いは変わるように思います。
局部調理イベントも、一般公開することなく、秘密厳守の中で行われていれば、そもそも批判を浴びることはなかったでしょう。
studygiftも同様で、オンライン空間という公の場で集めるのではなく、例えば「livertyが主催するクローズドイベントの参加費の一部を、困っている学生の奨学金にする」という形であれば、賞賛に値したかもしれません。
僕は海外のことは詳しくないですが、日本人は気質的に「公衆の面前で」というポイントを特に気にするように感じます。
同じ行為(例えば局部の調理)でも、公衆の面前でそれを行うか、こっそり行うかどうかで、道徳的な判断が変わってくるのです。
個の確立の度合いで道徳的判断が変わる
判断が変わる理由の一つは「世間」というものの認識にあるのでしょう。強い個を確立し、「世間」と「自分」を明確に切り分けている人からすれば、それが公衆の面前で行われようが、クローズドで行われようが、本質的には大きな差は生まれません
この指摘はやや乱暴ですが、自分が確立しておらず、「世間のことを気にしてしまう」人たちは、その行為が公衆の面前で行われるかどうかに、影響されやすいのではないでしょうか。
(「乱暴」と書いたのは、個が確立しているがために、世間をケアするという逆の働きもあるからです。また、公衆の面前で行うか否かが本質的な差異を生み出す問題もあるでしょう)
歴戦のジャーナリストという「強い個」である佐々木俊尚さんが「ほっとけばいいのに」と語っているのは象徴的です。しかしながら、多くの人は「ほっとけない」のです。ほっとけない理由は様々ですが、僕は「個の確立が不十分であること」が理由の一つではないか、と考えます。
という感じでつらつらと書いてしまいましたが、この議論はなかなか先が開けません。
・個の切り売りは、しばしば道徳的議論を呼び起こす
・ソーシャルウェブは「見えなければ良いのか?」という議論のレイヤーを加えた
・個の確立の度合いが「ほっとけるか」どうかを分けるのではないか
本記事では、上記の3つのポイントの指摘に止めたいと思います。続きはまた別の記事にて。
道徳的議論についてマイケル・サンデルは、議論や熟考の重要性を説いています。この記事に関心がある方は「これからの正義の話をしよう」は必読です。最近文庫版も出たので未読の方はぜひ。
・正義にかなう社会は、ただ効用を最大化したり、選択の自由を保障したりするだけでは達成できない。正義にかなう社会を達成するためには。善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはならない。