アイス缶珈琲
平日の昼下がり、とあるオフィス。俺、鈴川 秀は、必死になりながら今日の分の仕事を消化している。しかし、朝八時に出社してすぐに取りかかったにも関わらず、まだ全行程の半分も終わっていない。今日も残業か……。そう思うと溜息がこぼれそうになるが、敢えて出さないことにする。だって失礼じゃないか。俺と同じ立場に置かれている人達に溜息なんてついて、場の空気を乱したくない。まあ、俺なんて職場じゃあまり目立たないから、皆の目になんてつかないけどさ。
気晴らしに立ち上がって、新入社員の仕事の進み具合を見てみるが、どうだ。全くと言っていいほど進んでいない。俺が新入社員だった頃よりもずっとだ。それでよくもまあ定時になったら、「お先に失礼しまぁす」なんてふざけたこと言えるよな。これだから『ゆとり世代』とやらは扱いに困る。少し怒っただけでやさぐれ、泣いて、反抗的な態度をとる、残業はやりたがらない。挙げ句の果てに、すぐに会社を辞める。入社から半年経つが、もう二人も辞めた。これじゃ、新入社員教育係の俺の立場が無い。俺の身にもなってくれ!! ……なんて、口に出してとても言えないのは分かっている。
出したい溜息を堪えながら自分のデスクに戻る。もうこれ以上俺のやる気を削がないでくれ。ふらつきながら歩いていると、俺の隣のデスクにいる先輩が、大きな欠伸をして伸びをした。彼は俺より遅く出社して、マイペースに仕事をこなしている。そのため、仕事は手付かずに等しかった。俺が先輩に嫌そうな視線を投げかけても、あの人は全く気付いていないご様子で、こんな事を口にした。
「ああ、仕事だるいな。誰か代わってほしいな」
あーあ、言っちゃったよ。間違っても言ってはいけないことを。俺だって口にしていないだけで、心の中ではこんなこと常日頃から思ってるよ。てもさ、普通ここで言うか? 俺は自分のデスクに戻らず、部長のデスクまで歩いていく。俺の中の何かがぷっつりと切れた瞬間だった。もう我慢出来ない。俺は感情を抑えて部長と向き合う。
「部長」
「鈴川くん、どうした」
「その……。ちょっと朝から風邪気味で。病院行っても良いですか?」
「ああ。分かった。行ってきなさい」
「すいません……」
俺は部長に一礼してオフィスから出る。俺は一気に都会の喧騒に引きずられていった。あ、因みに俺は風邪なんてひいていない。ただ、こんなだらけきった会社から抜け出すための口実を作ったまでさ。それに俺は、普段から真面目に働いてきたから、誰も咎めやしなかった。これがさっきの新入社員どもだったり、あの先輩だったら、話は別だったのかもしれないけど。しかし、オフィスを出て行った直後、あることが俺の脳裏を掠めた。
ロッカーの缶珈琲だ。
俺はうっかりしていた。俺はあの缶珈琲を、外回りの時には常備していたのに、こんな時に限って忘れるとは……。そう思うと、途端に喉が渇いてきた。でも、俺の仮面は正直じゃない。
「でもまあ、どうでもいいや」
こんなこと言って、気休めにもならない。自分に正直になれなかった俺は、静かに歩き出す。昼下がりなだけあってか、空は雲一つ無い青。普通だったら、それだけでテンションが上がる人もいるようだが、今日の俺は違った。何だろう、この気持ち。何か晴れないんだよなぁ。その気持ちの原因が、仕事を抜け出したことに対する罪悪感だってことは俺は絶対に信じたくない。俺は抜け出したくて抜け出してきたんだ。罪悪感なんかあってたまるか! 俺は気を紛らすために上を向いた。あの空でも見て、心を落ち着かせるか。
「……しかし、本当に青い空だ」
空は俺を誘うように青く、やたらと広かった。こんなに長く空なんて眺めたの、何年ぶりだろう……。俺は暫く棒立ちになりながら、時を忘れそうになるまで空を見ていた。しかし、それは無情にも一人の通行人によって遮られた。
「あんた、そこ邪魔だよ。何突っ立ってんだ!!」
中年男性が苛立ちながら俺を怒鳴りつける。我に返った俺は人混みができていることに気付き、慌てて通路の脇へと自らを追いやった。見ると全員、何かに追いかけ回されるように急いでいる。何をそんなに急ぐことがあるんだ? 俺は不思議で仕方がなかった。
俺は人間観察が好きだ。趣味が悪いと言われればそれまでだが、人間は、当たり前だが一人一人違う動きを見せ、同じように違う表情を見せる。でも、今日の人混みは何か違う。皆同じような表情で、何かに取り憑かれているかのように急いでいる。ひょっとしたら、今迄の俺もそうだったのかもしれないが、落ち着いて見ると、この光景は異常だ。…………おっと、俺もそろそろ行かなきゃ。でも、どこに?
「はぁ……」
ここにきてやっと出た溜息。仕方無く俺は、ポケットの中に両手を閉まって、人の波を避けるようにしながら歩いていく。ところで、なんでさっき溜息がでてしまったのだろう。分からない。何か理由がある筈なのだが。
「こんな事になるなら、雨でも降れば良いのに……」
そんなことを言っても、青い空には雲が一つ。とても雨など降りそうにない。俺はゆっくりと歩き出した。本当にゆっくりと。俺の後ろにある雲が、俺を追い越そうとする。雲が速いのではない。俺が遅いんだ。慌てて小走りになった俺は、同時に肝心なことに気付いた。行くあてが、どこにも無かったことだ。
しかし、後悔先に立たず。時間はどんどん流れていく。何やってんだろ、俺……。今更会社に帰ったって、待っているのはゆとり世代の新入社員と愚痴をこぼす先輩だけ。何も良いことは無い。どうしようか……。俺は歩きながら思索を始めた…………。
結局時間だけが過ぎ、自由を持て余した俺は途方に暮れながら町を歩いていた。これからどうしようか。思い切って、知らない町にでも飛び出してぶらぶらしてみるか、それともここら辺に留まって、静かに過ごそうか。そんなことを考えていた俺は、あることに気付いた。俺は今迄仕事一筋の人間だったから、こんな時に突然自由な時間を与えられても、どう使えばいいのか分からないのではないかと。そう思うと、無性にやりきれない気持ちになる。今の俺は、まさに放浪者だった。
「……仕方ない」
俺は誰かに操られるように、とある場所へと足を運んでいく。
「ここで時間を潰すか」
向かった先は、いつものコンビニ。俺が中に入ると、舌足らずな女性店員が営業スマイルでマニュアル通りの挨拶。少し苛々する。ポケットに手を突っ込んだ時点で分かっているが、がさつな性格な俺は釣銭をそのままスーツのポケットの中に突っ込む悪い癖がある。気付いたら千円位貯まっていた時もあったほどだ。あいにく財布はロッカーに置き忘れてきた。まあ、鍵はかけてあるから心配は無いけど。
「ひぃふぅみぃ……」
ポケットの中の小銭を数える。百四円。まあまあ入っている方ではある。俺が銭を数え終えると、店内BGMが切り替わった。
その曲はオリコンの順位はそれ程でも無いが、ダウンロードでは出す曲出す曲トップになる女性アーティストの曲だった。新曲らしいが、俺は耳が腐るほど聞いた。テレビやラジオで、何回も、何十回も流れている。あの女の曲はいつもそうだ。世のバカ女共を虜にし、同じような歌詞しか歌ってこない。それでよく売れるな。そう思いながら俺はいつもの缶珈琲を手に取り、レジに持って行く。いつもは百十円だが、今日は九十八円に値下げされていた。ラッキーと思いながら俺はレジへと急ぐ。
レジではあの女が、店内BGMに耳を傾けている。しかも目を瞑り、口ずさみながら。俺が少し大きめな音をたてて珈琲をレジに置く。女は我に返って精算を始めた。
「六円のお返しです。ありがとうございました」
マニュアル通りの対応。しかもあの曲を聞きながらの対応だったのか、薄ら笑いを浮かべている。俺は気分を悪くしてコンビニから出ようとした時、曲のサビの部分が耳に入ってきた。
『そのままの君でいいよ。そのままで。だから、私を抱き締めて、そのままキスして……』
『そのままでいいよ』……。その言葉は、俺に語りかけてくるようだった。俺は逃げるようにコンビニから出て、珈琲を一気に飲み干す。いつもは味が体全体に行き渡るのに、今は違う。何も味がしなかった。まるで水道水でも飲んでいるかのような……。まさか、あんな曲が俺をこうさせたのか? いや、そうであるとしか考えられない。あの曲のサビが、俺の頭の中でループしている。
無性に焦りだしてきた。何でだ? 何でなんだ!? しかし、焦ったってしょうがない。とりあえず、この状況から逃げよう! そうすることしか思いつかなかった俺は、再びポケットに手を突っ込んで歩き出した。手のひらは固く握り拳を作っている。こんな日になるとは、想像もしてなかったから…………。
逃げ道を求めているうちに、急に向かい風が吹いた。しかも、かなり強い。春一番はとうの昔に吹いた筈だぞ。その上、この風はやけにせわしなく感じた。まるで、今の俺みたいに。
「うわっ……」
あまりに風が強くて、俺は下を向いた。ロッカーで履き替えたスニーカーの紐が、ほどけそうになっている。俺はこの時、このままではダメだってことに気付いた。自分でも分からない。ただ、今までの自分を振り返っただけのことだ。
俺は歯を食いしばって前を向いて進もうとする。でも、無理だった。別の方向を向いてしまう。自分の足元、昼下がりの空、そして、頭の中を流れるのは、あの曲のサビ。『そのままでいいよ』。この歌詞が、俺の脳内で何十、何百と再生されていく。でも、それだけでは心がもどかしくなるばかりだ。ついに俺は立ち止まり、上を向いた。何だか無性に泣きたくなってくる。
俺は本当にこのままでいいのか? こんなことをして、恥ずかしくないのか? 後ろ向きな気持ち、あの曲のサビとが、交互に脳内にこだまする。何故こんな気持ちが今更こみ上げてくる? ポケットの中の拳が、更に強く握られる。でも俺は突然、そしてようやく、ある事に気が付いた。
……仕事に戻れば良いんだ!
そうだ。俺は何でそんな簡単な事に気付かなかったんだ? 今まで下らない理由で仕事を抜け出してきた。それに、少なからず罪悪感を感じていた。でも、自分に素直になれなかったもう一人の俺が、それを押し殺していたんだ。自分に素直になっていれば、こんな後ろ向きな思いをしなくて済んだんだ。それに気付いた俺の口元が、ふっと緩む。こんな日の自分も、まだまだ変えられる。そう思った瞬間だった。同時に俺は、今まで溜め込んでいた後ろ向きな溜息を吐き出し、ポケットから両手を出す。
両手は、開いていた。
さて、もう一人の自分に嘘でもついて、とりあえず仕事に戻るか。もう一人の俺、ちょっと用事が出来ちまった。多分、夜中までかかるから、よろしく。正直な俺は仮面を被った俺に嘘をついて、会社へと戻っていく。会社の受付に着いた時、俺は何か自分の中で前進したんじゃないか。そう思った。
俺が仕事に戻って暫くして、五時になった。普通であれば、帰っても構わない時間だ。新入社員はいつものように残業もせずに帰って行く。あの先輩はネットでエロ画像ばかり見ている。普段の俺ならば胸くそが悪くなるが、不思議なことに俺は苛立ちすら覚えなかった。あの時全てのことに吹っ切れて以来、俺はちょっとやそっとのことでは怒らなくなっていた。
午後九時。結局仕事は終わらず、俺はロッカールームへと向かった。そういえば、缶珈琲があったな。俺はロッカーを開ける。あった。しかもまだ冷えている。俺はこいつを一口飲んだ。そして、思わず目をつぶる。これからの残業には、有り難い位冷たい。それに、昼には感じられなかったいつもの感じが全身に行き渡る。俺にとっては苦みも丁度良く、自分のこれまでの愚行を洗い流してくれるような感覚さえした。俺は、珈琲で今までの自分をリセットした後、ふっ、と溜息を吐き、部屋から出る。
今日は日付が変わるまで頑張ってみるか!! 俺は志も新たに、仕事に復帰した。
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