2012年06月25日

日本人脳と湯川秀樹博士の卓見

(株)オリエンタルランド勤務時代の1997年に「日米ビジネス・コミュニケーション・セミナー」という研修を受けました。
主催会社は(株)インテック・ジャパンというコンサルタント会社です。
http://www.intecjapan.com/

この研修資料には1981年に発刊された角田忠信著「右脳と左脳」その機能と文化の異質性 小学館創造選書の一ページが紹介されています。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B3%E8%84%B3%E3%81%A8%E5%B7%A6%E8%84%B3%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%95%B0%E8%B3%AA%E6%80%A7-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%89%B5%E9%80%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-44-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E5%BF%A0%E4%BF%A1/dp/4098200449/ref=sr_1_6?ie=UTF8&qid=1340507605&sr=8-6

この研修で日本人と米国人の自然音、言語音、楽器音の認識機能の差を学びました。当時はアメリカ人のカウンターパート(同位格者)と議論するためには役だったとは思いますが、最近のアメリカ人の傍若無人ぶりを見るにつけ、日本国民はアメリカ人を相手にしない方が幸せになると確信しるようになりました。

この会社が、今でもこの本を使っているのか分かりません。ホームページには外国人の姿が多く見受けら得ますが、「自然は征服するもの」「虫の音は雑音にしか聞こえない」「古池や 蛙飛び込む 水の音 はカエルの集団がボチャボチャと飛び込む音としか認識できない」、つまりこの本の内容を理解できない外国人から研修を受けても異文化間コミュニケーション(アメリカ人が日本人を絶対に理解できないのですから、コミュニケーションなど成り立つはずがないのです)のトレーニングにはならない、単にアメリカ方式を押し付けられるだけだと考えるに至りました。

キリスト教を理解しないで英語を話しても相手の心には届きません。私は、日本人にはまずしっかりとした日本語と日本文化で「ファーストフォーマット」としてアメリカ人にだまされない知力づくりを行うべきと考えます。英語は教えない方が良いと思っています。世界で一番幸福度の高いデンマークでは、期末テストなどの子どもを苦しめる制度はなく、個性を伸ばす教育が施されます。この本を読むと日本人は秀でて優秀な民族であることが理解できます。教育により個性をのばし、日本人が得意の「進化力」を磨きあげる教育を行えば、日本は世界一幸福な国になるに違いありません。

もちろん日本人の脳が優秀である理由は、白人社会を築いたアメリカと違い、オリジナルの「日本人」と古くからの中国や朝鮮からの渡来人が交配を重ね、より良い遺伝子を持つ「優秀な脳」に品質改良してきたためと私はこの本を読みそう確信しました。

引用文を掲載しますが、難解であるために結論から記します。それは、12歳くらいまで日本で日本の教育を受けないと、絶対に「小川のせせらぎ」や「虫の声」などの情緒音は脳に認識されないというものです。ドナルド・キーン氏がいくら古文を読んでも、日本人のように背景にある情緒はまったく理解できないのです。

この本は、湯川秀樹博士も交えたシンポジウムの内容を記した本です。
≪学習する脳の姿≫
「近来こんなおもしろい話をきいたことがない。思いあたることが多い」と湯川秀樹博士がいっておられる。ほんとうにそういう本である。脳の研究もここまで来たか、という印象がつよい。わたしは読みながら何度か興奮してページを閉じて考え込んだ。大脳半球が、言語脳と音声脳に分かれていることは、最近方々でとり上げられて、この本を読む前から知っていた。しかし、この本はその二つの半球が、それぞれ、どんな音や声を「学習」するか。という問題をかいけつしてくれるのである。
波多野完冶

<引用開始>
12歳から始められる外国語の学習は、すでに日本人型の脳の働きに定着した後ですから、欧米人と違って著しく左脳に偏った学習を要求され、たとえ、この時期に理想的な聴覚中心の言語教育を受けても、決して西欧型の脳の分業型にはなりません。
左脳に強く依存する外国語の学習は、論理的描像能力を鍛えるには極めて有効な手段として考えられますが、同時に本来の脳の働き方を犠牲にしているという負の側面があることが注目されます。

<中略>

西欧人の場合には、子音が言語脳にあることは当然ですが、子音を含むような音節単位で言語脳に入っている。もう一つ計算も言語脳で扱う。計算は日本人も西洋人も同じですが、ただし西欧人はこれだけにかぎられて、そのほかの音は言語脳に入ることはありません。ないといいましても、子音に似たような意味のない合成音をつくれば言語脳処理になります。(CV、CVCのこと?)しかし、だいたい社会音として存在する音はほとんどすべてが音楽脳優位の音になります。ひじょうにはっきりと二分している。この劣位半球、音楽脳では、西洋楽器、それから母音もそうですし、人間の声としての鳴き声とか、ハミングだとか、いびきだとか、人間のすべての声、それから物の鳴き声、昆虫の鳴き声、それから機械音、こういう分担をしています。日本人の場合にはこうなりません。知的な計算は西欧人と同じですが、言語音のなかの子音と母音とはウエイトが同じです。子音のほうが優位性が大きくて母音は少ないということはけっしてない。しかも、人間の声がみんな入ってしまって、動物の鳴き声や昆虫の鳴き声も入る。こんなふうに、自然界にある音がほとんど言語脳に入ってしまうわけです。音楽脳にある音といいますと、西洋楽器の音だとか機械音、雑音だけですから、左半球にひじょうに偏った脳の使い方をしているわけです。
 こういうパターンからいいますと、やはり西欧人の場合には、非常に論理的な知的なものが言語脳に偏っている。これはロゴスで表わされる。
 非言語脳のほうはパトス的なものを分担する。しかも自然界にあるほとんどの音がことらに入っている。すなわち感情だとか自然の音がみなこちらに入っている。そういう意味で音の分担としては、知的なロゴスとパトスを含めた自然全体とに分かれてしまう。そういうパターンになる。ところが日本の場合には、こちらの知的な物の中に感情的なパトスが入りますし、それから自然の音も入ってしまう。
 ですから、これは私のかってな考えなんですけれども、日本人の心というのは、こうした左脳のはたらきであらわされるのではないか、音楽脳のほうはむしろマテリアルというか、無意識なものであらわされるのではないか、現代人のなかにはこういう音の認知の仕方がまだ生き続けているわけです。文化と称するのは、こういう脳のはたらきのパターンから生まれたものと考えているのです。そして、昔から日本文化の特色とされているような情緒性とか自然性、むしろ非論理的といわれているようなことというのは、こういう感覚を通しての自然界の認知の仕方が原点になっているのではないか。西欧人や西欧文化は論理性ということで表現されますが、自然と対決してものごとを知的優位に処理していくという生き方は、どうも脳の自然界の認知の仕方自身に違いがあるのではないか。こういう音の処理の仕方が違うということは、われわれの自然とのかかわり方の違いを意味する。われわれは生まれてからずっと音につつまれているわけです。われわれは五感をもっていますが、この場合自然を認知するのは、なんといっても視覚と聴覚が非常にだいじである。聴覚というのは、とくにことばを覚えるのに不可欠な感覚である。先ほど申しましたように、十歳までポルトガルで育った人は母音の優位性が西欧型に変わってしまうように、脳の生理機能もじつはことばの影響をひじょうに受けるわけです。ことばの差が原点になって、母音が言語脳のほうで処理されるという日本語の特徴が生まれた。母音のそういう特徴的な音形に似た多くの自然界の音も、日本語を母国語とするかぎり言語脳のなかで処理されている。これが日本人の自然観や心情をつくっているのではないか。そういう原点は日本語の母音の特徴に求められるのではないかと、じつはそういう仮説を私は立てております。
<引用終了>

日本語がつくる脳
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h14/jog240.html

この記事には湯川秀樹博士の卓見が紹介されています。

つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であるというていた。(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。

 そうするとそこで私が考えますことは、その違うということを生かすという方向です。違うということは上とか下とかいうことではなくて、その違いということを生かす。
(中略)違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。 西洋に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です。
<終了>

韓国人も中国人も西洋脳ではありますが、アメリカ人より数段情緒的な脳を有していますから、付き合うのでしたら東洋人です。

哲学+宗教観=思想になりますが、西洋人脳では、主にギリシャ哲学とキリスト教の宗教観に分けて思考を生み出します。翻って東洋人脳は儒教や陽明学などの哲学と神仏崇拝などの宗教観を混ぜ合わせにして思考を生み出しているようです。まるで、西洋人が「食材が分かれている」コース料理を好むのと、東洋人の「食材が一緒になった」どんぶり物やなべ料理を好むのとの違いのようです。

強調しますが、アメリカ人は虫の音は雑音です。私も何回もアメリカに渡っていますが、セミや虫など見たことがありません。人間以外の生物の存在を確認できるのは、道路上に転がる無数のぺちゃんこになったアライグマの死体だけです。

アメリカ人は、アメリカという国からどれだけの生物を排除してきたのでしょうか。上記ホームページでは「文明生活の敵だとして、とことん退治してしまったのだろうか?」と記されているが、戦時中の東京大空襲のように、生きる権利のある人々を皆殺しにしたように、上空からの薬剤の空中散布で、虫たちを皆殺しにしたに違いないのである。(映画「インディペンス・デイ」にそのようなシーンがあったことを思い出した)

「結婚は世界で一番気持ちも心も感情も合わない人と一緒にくらすことだ。これは神さまが合わせたものだ。」「お互いがぶつかることがなければ、どちらかが早く死んでしまう」斎藤一人
「天声妻語」中野雄一郎著 いのちとことば社

結婚と違い、お互いに自国益を求める外交や経済において、気持ちも感情も合わない「野蛮人」たちと付き合うことは、私たち国民にとって「不幸への道」の選択以外何ものでもない、私はそう断言します。


posted by M.NAKAMURA at 10:38| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>キリスト教を理解しないで英語を話しても相手の心には届きません

英語圏の宗教は全てキリスト教だとおっしゃる?

>アメリカ人より数段情緒的な脳を有していますから、付き合うのでしたら東洋人です。

随分な選民思想ですね

>戦時中の東京大空襲のように、生きる権利のある人々を皆殺しにしたように、上空からの薬剤の空中散布で、虫たちを皆殺しにしたに違いないのである。

仮定や映画の一場面で話を進めちゃダメですよ。原爆2発で日本人は赦されたと言う人が東京大空襲を非難するって矛盾してますよ。

Posted by sin at 2012年06月25日 12:34
原爆2発の件をまさかお忘れだとは思いませんが
念のため貼っときますね。

読売記者とビン・ラディンは「同じ敵」
http://megalodon.jp/2009-1106-1549-18/gpscompany.blogdehp.ne.jp/article/13568392.html
2ちゃんねらーの皆さまへ
http://megalodon.jp/2009-1106-1923-22/plaza.rakuten.co.jp/siminnokai/diary/200911060000/
Posted by sin at 2012年06月25日 13:56
読売記者とビン・ラディンは「同じ敵」
http://megalodon.jp/2009-1106-1549-18/gpscompany.blogdehp.ne.jp/article/13568392.html
2ちゃんねらーの皆さまへ
http://megalodon.jp/2009-1106-1923-22/plaza.rakuten.co.jp/siminnokai/diary/200911060000/

Posted by sin at 2012年06月25日 13:56

コピペは著作物の転用違反です。著作権者の私は転用を認めていません。

法的な手続き(おそらく来年)を進めさせていただきます。
Posted by 中村本人 at 2012年06月25日 21:19
中村様にメールを差し上げたいのですが
どうすればいいですか?
メールアドレスを教えていただけますでしょうか。 マジメな話をしたいと思っています。
よろしくお願いします。

Posted by 中沢 at 2012年06月25日 22:19
民事刑事問わず、訴訟をちらつかせて相手を畏怖させるのは「脅迫罪」に該当します。
また、引用については著作権法第32条により本人の許可は必要ありません。

まずどの法律に抵触しているのか明示してください。
Posted by 中村木人 at 2012年06月25日 22:37
>中村さん
「中村本人」さんが、あなたであると仮定して書きますが
(御当人のブログで「本人」というのもおかしいので)
sinさんの魚拓のURL提示は明らかな「引用」です。
第一、現行のこのブログの方が、著作権違反に当たる転用の仕方を多数されていますね。

最パレ問題及び過去(進行形ですが)のあなたの人権侵害に当たる発言の数々を清算したいのであれば、行うべきは理論破綻した自己弁護や、失態を闇に葬ろうと恫喝することではなく、素直に自己を省み謝罪する事です。
数年経って未だ客観的な視点がもてていないのは残念でなりません。

率直に言うと、「最パレ盗作」と「原爆2発の発言」は、あなたが想像しているこの先のステージがどの様なものであれ、致命的な問題になります。
今でも政治家やコンサル、作家を夢見ているならばなおさら、表に出れば一発アウトです。
最近でも、議員が失職したケースがありましたね。

盗作も、ネットでの発言も、もはやどうあがこうと「なかったこと」にはなりません。
他者の権勢を借りて自己弁護に終始する事が本当にご自信の為になるか、よくご再考ください。
Posted by 被爆者3世 at 2012年06月25日 23:10
あれ?都合が悪いから法的な手続きですか?

コメント欄で発言の意図を明らかにするならともかく、法的云々で私に警告を発したいのであれば、ブログ内に一エントリとして挙げられてはいかがですか?私にはコメント欄の中村本人氏がブログ作成者の中村克氏本人だと確認できる手段がありませんので。

まぁ、今回のは警告飛び越えて威迫になってますが。
Posted by sin at 2012年06月26日 08:21
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