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BASE HEADSのお話 その4

2012.06.14 - 16:45

今はこれから始まる武道館でのLIVEリハーサル終わって休憩中さ!!

う〜ん、毎日快調に長文更新してたら

タッちゃんやみやっちから「ブログなげぇよっ!!」

っと苦情が(笑)

俺は愛だと受け取ってる(笑)!!

だから今日も快調に更新だ!!

なんかBASE HEADSの事書いてるのに俺自身の事書いてるみたいだ

でも、俺に起こった全ての出来事はBASE HEADSに起こった事だし

俺とBASE HEADSは殆ど同じ様なもんだしな

少なくとも俺はそう思ってる

たぶん他のメンバーもそれぞれ自分自身とチームをだぶらせていると思う

だからこれはあくまで俺の視点からのBASE HEADSになるね

いつか他のメンバーの別の視点から見たBASE HEADSって言うのも見てみたいね!

MISIAのツアーが終わりを向かえた頃、いよいよ無視出来ない事があった

それはLAのムーブメント

今まではNY全てだったけど、アメリカのPVとかこっちに入ってくる多くのダンスの情報がNYからLAに切り替わっていた

それを決定づけたのはJUSTIN TIMBERLAKEの「LIKE I LOVE YOU」のPV

スゲースタイリッシュだったし、アイドルあがりのJUSTINがファレルとCLIPSEと共演してるってのもミソだった

JAZZとかストリートダンス以外ののテイストに対して心からヤラれた衝撃的な作品だった

とにかくNYではそれは手に入らない物だった

っとは言い過ぎかも

NYではRAHPSODYが凄い勢いだったし、当時まだ生徒で俺等と同じスタジオでレッスン受けてたLUAMとかJONTE’とかも勢いあったからね

まぁ、でも大多数がLAに集まっていたのは否定出来ない事実だった

だからLAに行ってみようって思ったんだ

HISって旅行代理店でチケット発券して1週間後に出発って時になってまた連絡があった

BoAのツアーオーディションを告げる電話だった

迷わず受ける事にした

チケット代キャンセル料発生するから全額戻ってこなくなってしまったけどね(笑)

そして、一緒に行く筈だったPRIME TIMEのYOSHI-ZOを1人で行かせた(ゴメン 笑)

クローズドオーディションだったから選ばれた20人位のダンサーがスタジオに居て

そこには俺等BASE HEADSも全員居た

んで結果は

また俺だけ合格だった

スゲー嬉しかったけど、複雑な気持ちもあった

その時のツアーメンバーは今思ってもスペシャルなメンバーだった

男は後々ずっと一緒にやる事になるSHIGE、そしてまだうちのメンバーではなくREAL SHITからSTOに移ったRYO、あとCHEWくんと俺の4人

女はその後、至る所で快進撃するNAZUKI、YUKA、LINAと後にグエンステファニーと共に活躍する原宿ガールズの一員のMAYAの4人

そのメンバーと共にアヤさんって凄腕のコレオグラファーのLAの最先端の振付けでツアーを回った

JAZZ FUNKの様なスタイルだったり、何より女の子達を含めた大人数での作品は自分の持っているテクニックでは全然追いつかず凄い苦労したのを覚えてる

MISIAの時とは全然違ったステージを経験した

その直後

ホントに直後

ツアーの打ち上げが渋谷のモンスーンCAFEって所であったんだ

ツアーが無事終わった事

そしてこの先また頑張っていきましょうって事

レコード会社とか関係者とか良く知らなかったけど、見るからに偉そうな人とかオンパレード

そんな打ち上げの隅っこで飯喰ってお酒飲んでる時だった

俺の携帯が鳴った

GENからだった

前にも書いたけど元々ワープループって人気チームで活躍してたし同世代だったし、イベントも一緒になる事多かったから知り合いだった

とにかく荒っぽい奴でうるさいし、モヒカンだったし、目つき悪かったし

まぁ、ジャンルが違ったからバチバチにはならなかったけど、一緒に遊ぼうとかそう言う仲ではなかった

だからそれまで沢山話した事はなかったし、GENがどんなやつなのかも良く知らなかった

その時、GENが何を考えてどういう状況だったのかも全く知らなかった

電話越しのGENは俺の知ってるあいつとは全然違っていた

なんだか今にも崩れ落ちそうな位弱っていた

声も聞き取れない位震えていた

何となく耳にはしていたけどワープループがバラバラになったっと

特殊な家庭環境で躍りたいのに躍る事が出来なくなっているって

そんな中、同世代の俺等はどんどん活躍し始めてるって

それをTVとかでしかみる事が出来ない状況に

凄く絶望してた

そして細い糸を手繰る様に

そんなに仲良くもない俺に電話して来たんだと思う

「俺はどうしたらいい…」「躍りたいよ…」

って言ってた

俺はGENからのSOSだと思った

だからしばらく、俺等のショーケースに一緒に連れて行ったり

ユニットに引き入れてみたりしてた

GENの事ずっと連れ回してたな

RYOはRYOでSTOってチームでバリバリ活動してたし

STOはSTEZOさん、HIROさん、タッちゃん、セバ&パト君とかのMISIAのバックアップクルーがそのままチームになったよううなスゲーメンバーでさ

俺等もMISIAをきっかけにSTOとかとしょっちゅう一緒にユニットで躍らせてもらったりしてた

それからしばらくして

きっかけは何だったかなぁ

その頃GENとRYOとは遊びも踊りもずっと一緒にいたからさ

自然な流れだったと思う

A-VEちゃんとKENKENと何となく話してさ

BASE HEADSを5人にしようよって話をね

RYOは当時から天才ダンサーっぷりを超発揮してたからみんな即決でOKだったし

あの態度悪いGENも、意外とみんな即決でOKだった(笑)

こうして俺等は中期を過ごしたメンバーになる

3人だったのが一度に5人になったのはマジ夢の様に楽しかった

俺は一度に2人も弟の様な子分の様な…(笑)

そんなメンバーが出来て凄い嬉しかった

まだまだ手探りの状態は続いていたけどメジャーとストリートを行ったり来たりするスタイルがここで確立された

人数的にもパワーアップした俺等はダンスも音楽もファッションも全てにおいて勢いを加速させた

やっと俺等にも時代の追い風が吹いて来た

そんな印象だった

もしかしたらみんながイメージするBASE HEADSって言うのはこの時からの俺等の姿かもしれないね

その後、巻き起こす大騒動の夜明けの様な瞬間

2003年の春を過ぎて初夏の頃の出来事

BASE HEADSのお話 その3

2012.06.13 - 14:15

RYOは当時REAL SHITというチームに所属していた

完全に同世代のチームだけど俺等とは正反対のチーム

「AOYAMA NIGHT」っていう大きなダンスイベントがあったんだけどそこの常連チームで人気も実力も俺等の世代ではトップクラスだった

だからハッキリ言って大嫌いだった

余談だけど、後々俺等の最後のメンバーとして加わるINO-Dもそこのチームだったんだ!!

んでこれも余談だけどワープループってチームも同世代で大人気のチームが居た

そこには今は広島に拠点を移したけどSHI-GEがいたし、何よりうちに入る事になるGENがいた

けどそれはずっと後になるからまたにする!

話を戻すけど、REAL SHITから見たらハッキリ言って俺等なんて気にならない様な小さな存在だっただろうけど俺等はバリバリ意識してた

だから目も合わせないし、喋ったりなんて絶対しない

敵対心MAXだからね!!

そんな俺とRYOが何で言葉を交わしたかというと

今でもあるけど渋谷にASIAってクラブがある

そこの階段でバッタリ遭遇してしまった訳

俺も1人、RYOも1人

もうシカトする事すら出来ない状況だったんだけど、何か自然に話し始めたんだよね

その時は何話したのか覚えてないけど大した事喋ってないと思う

連絡先とか交換して「またなっ」みたいな感じでその時は普通に終わったと思う

まぁ、そんな悪い奴じゃないなって印象だったね(笑)

んでそれからすぐだったと思う

RYOから電話があって

信じられない様な内容を告げられた

「STEZOさんからなんだけど…」

それで始まった会話は俺等の多くを変化させる事になる

その内容は

MISIAの新曲の振付けに関わらないかって事

!?

えっ!?

マジですか!?

そんなん考えた事もなかった

プロになろうとか全然思ってなかったし

っていうかプロって何だよって思ってたし

アーティストのバックアップとか振付けとか

そんなの選択肢というかアイデアにもなかった

そんでSTEZOさんが俺等の事知ってるなんて思っても見なかった

しかもアーティストはMISIA

当時のメジャーシーンにはまだまだストリートの影響は出てなくて、主流だったのはJAZZだったりバレエだったり…etc

俺等の出る幕は全然なかった

だけどドリカムとMISIAだけは違っていた

ドリカムは相当早い時期からZOOをバックアップに従えたりしてたし

MISIAは完全ストリートダンサー仕様だった

しかもクラブでリアルに躍ってる最強の布陣がバックアップについていた

そのMISIAの振付けを!?

俺が考えるの!?

マジっすか!?

驚きと戸惑いはあったけど、そんなん100%やるよね

例によってスタジオなんかないから溝ノ口の駅の改札口の外で振付けを考えて

リハーサルって呼ばれる得体の知れない物に向かった訳さ

今はWORKS松濤スタジオって名前に変わってるけどその頃は18(ワンエイト)って名前だった

凄く綺麗で照明も音も抜群に整っている場所だった

そこに集まって来たダンサーは俺が雑誌とかビデオで隠し撮りしていた面々ばかり!!

ショーで見る事しかなかった、客席から見上げていたステージの上のスターダンサー達

もちろん話した事なんて一度もない

きっと俺の事なんて知りもしない

そんな状況で振付けはスタートした

俺はその時22歳から23歳になった頃

あの時程緊張してアタフタしたのは今までにもないと思う(笑)

やっとの思いで自分のパートの振付けを完成させ

撮影の日

参加ダンサーは生粋のストリートダンサー15人くらい

俺等BASE HEADSはフルメンバーで参加させてもらった

2日間に及ぶ撮影は夢の様な時間だった

初めて色んなダンサーや先輩達と話をしたり、飯一緒に食べたり、トランプとかでゲームしたり

そんな時間が少しずつ俺等もダンスシーンの一員なんだって思わせてくれるようで

先輩ダンサーも少しだけ俺等の事認めてくれた様な気がして

素敵な時間だった

MISIAのBACK BLOCKSって曲

俺の生まれて初めての参加作品

それを経て俺等にも初めて人脈ってのが出来た

今まで呼ばれなかった様なイベントにも呼んでもらえる様になっていった

それから1ヶ月くらいしてまた予想だにしない電話が

俺のこの先半年くらいのスケジュールを聞かれた

ハッキリ言って俺にあるスケジュールってのは極端な話一週間くらいの物だったから

「特にこれといってありません」っと答えた

そしたら

MISIAの全国ツアーに一出演しないかっと!!

「KISS IN THE SKY TOUR」みたいなタイトルだったと思う

ビックリしたし、嬉しかったし、興奮して声が上手く出せなかった

参加メンバーはこの前から大分絞られて1/3位になってた

BASE HEADSからは俺1人の参加だった

初めてだらけで不安だらけだったけど、その恵まれた状況に凄く感謝した

他の2人のメンバーの分までやりきろうってそう思った

約半年に渡るツアーで今まで行った事のなかった多くの土地に行き沢山の人と出会い色んなシーンを見てとても勉強になった

ツアーの先々で先輩達に毎晩クラブに連れて行ってもらって、ダンサーがこんなに沢山居るんだってのも知ったし

それにアリーナやドームっといった規模のステージに立つ事は俺に取って凄まじい刺激やショックを与えた

それぞれの体のサイズにあった専用の衣装を用意してもらって

体には入れ墨の様なシールを貼付けて

ゴーグルを装着して日本刀をもって

ステージの下からリフターという機械でステージ上に上がっていく

少しずつ客席が見えるんだけど今までに見た事ない何万人って規模の人の数

無数のライトと縦横無尽に走るレーザー

現実感がまるでなかった

そんな溢れる位多くのギフトを俺は貰った

声をかけてくれたSTEZOさん、そして仲を持ってくれたRYOにはとてもとても感謝している

また、俺がBASE HEADSの他の2人だったら凄く羨ましかったと思う

BASE HEADSの中で一番年下だったし、そんな俺だけがそのメンバーの中に選ばれて何とも言えない感情だったと思う

一緒に何でもかんでもやって来て、全然恵まれてない状況が続いて来たのにホントに急激に物事が動き過ぎてた

なんでKEITAだけなんだよって

そんな風に絶対思うと思う

でもそれを1つも出さず応援して送り出してくれたA-VEとKENKENにも凄く感謝している

そんなんも感じてたし、ツアー終わってBASE HEADSに沢山還元しようってスゲー思ってた!!

これでホントに初期の終了だ!!

やっと次は中期に入っていけるぜ!!

BASE HEADSのお話 その2

2012.06.12 - 17:27

BASE HEADSの中期を書こうと思ってたけど、今回もまだまだ初期の頃だわ

俺の話は長ぇ~んだわ(笑)

そこから俺等がどうやって流れに乗っていったのか

前にも書いたけどダンサーシーンには俺等の居場所はなかった

そんな俺等にダイレクトに反応してくれたのはDJ、ラッパー、そしてファッションシーンだった

最新の音でPARTYをロックしていくDJ達の回すクラブで、曲の知識もそれにまつわるダンスもファッションも完璧に仕上げてる俺等は王様だった

っとは言い過ぎだけど(笑)

向かう所敵なしだった

ワザと態度デカくしてでも、俺等のやって来た事が間違っていなかったんだってそんな感じだった!!

クラブにはホント毎日遊びにいって色々挑発的な行動してたから色んな人から嫌われてたかも知んないし

でも、そうする事位しか自分達のアピールの仕方が分からなかったし、また場所もなかったんだ

だからクラブの1回1回が真剣勝負だった!!

ステージの上ではないけど俺等に取ってはまさにそれはショーそのものだったのかもしれない

ショーに出る為にオーガナイザーに手紙を書いたり、電話をしたり

ショーに出れるとなっても当然出番は人もまだまばらな一部のスタートの方

んで一回のイベントにつき2500円位のチケットノルマが20枚くらいあるというタフな条件

それでも自腹でなんとかしたりとか…

そうやって繰り返していくうちに同世代のDJとかラッパーとかが小さいながらもイベントやる様になった

少しずつ躍れる場所も増えて来て

んで憧れてたイベントがあった

当時俺等が主戦場としてた池袋BEDのモンスターイベント「STREET PASS」

そして憧れのステージ渋谷HARLEM「RED ZONE」

ダンサーとして最高峰のイベント「MAIN STREET」

この3つ!!

いつかは俺等もっ

ってホント毎日思い続けた

アタックし続けてようやく「STREET PASS」に出れる日がやって来た

その為にありとあらゆる物を仕込んだ

今考えたら相当チープな物だったかもしれないけどその当時考えうる全ての武器

BEDはBARとフロアーの中間にトイレがあるんだけどショーをやるのは当然フロアー

だからトイレを背にしてBARの前に人だかりが出来る

俺等は明かりを真っ暗にしてトイレから入場してやった(笑)

んで3人別々のベースボールシャツとキャップ

使った曲はMemphis Bleek「IS THAT YOUR CHICK」

カマしたねっ!!

んでその時始めてもらった物がある

それはギャラってやつだ!!

俺等そんなん貰えるなんて思ってもみなかったし

封筒空けると紙が切れそうな位ピンピンした千円札が一枚入ってた!!

自分のダンスが産み出した初めてのお金

たった千円だけどそれはスゲー重みがあった!!

使うとか絶対出来ない宝物

だから当時付き合ってた彼女にあげたよ!

ちょっとずつ何か変化して来た日常

そんな俺等が初めて大きな場所に立ったのはB-BOY PARK

KENSHINというラッパーのクルーと俺等と女の子達と

イケてるラップ、イケてるダンス、イケてるファッション

そんなコンセプトで大騒ぎしたガキの集団だっ(笑)

ステージ上で暴れまくった

そうやって人の目に触れる機会が徐々に増えるにしたがって、少しずつだけど出演のオファーも来る様になった

その頃も相変わらずNY行きまくってた

今はもうないけどブルックリンのフルトンストリートにBEAT STREETってレコード屋さんがあった

ある時そこにアーティストが来店してた

NYのラジオでかかりまくって人気絶頂だった曲

「EVERYONE FALLS IN LOVE」

誰でも知ってる曲だよ!!

それ歌ってるアーティストTanto Metro & Devonteがいたのさ!!

もうそれからDANCEHALLの虜になったね!!

少ししてSEAN PAUL「GIMMIE THE LIGHTS」とかにも火がついてさ!!

帰って真っ先に自分達のショーに取り入れたね!!

女の子は居たけど、その当時男がレゲエ躍るとかなかったから内心ドキドキだったけどね

そんなんしてたら、FLY GIRLSっていうレゲエのダンスクルーから一緒にショーやらないかって言われた!

超有名クルーだったし面白そうだしそっこうでOKだしたね!

んで一緒に作ったショーで初めて東京以外の土地でもショーをした

今でもガッチリ繋がってる札幌街おこしのミヤッチともそこで出会った

余談だけど札幌にN.C.B.B.ってデッカいクルーが居る!

リアルHIP HOPPER達が集まったラッパーのクルーさ

そこのDAI-HARDとも当時の札幌で出会った

まだN.C.B.B.が出来上がる前だけど意味分からず俺もラップで自己紹介してた気がするぜっ(笑)

そうやって活動出来る場所は広がっていったけど

FLY GIRLSの名前がデカかったし、ハッキリ言って俺等の手柄じゃないしちょっと複雑な部分もあったけど…

それでもスゲー刺激的な時間だった!

HIP HOPダンスシーンもアメリカのPVの影響強くて少し理解される様になって来た

俺等の次の目標は「RED ZONE」

HARLEMっていうでっかい壁だった

RED ZONEとLEM-HARって2つの巨大なイベントがあった

ダンスイベントは「ダックスフンドCAFE」ってのがHARLEMでやっててそれには出演した事あったんだけど

あくまで沢山居る出演チームのうちの1つに過ぎない訳

RED ZONEとLEM-HARは毎回1~2チームの超厳選されたトップチームだけが出れるイベントなのさ

言わば主役さ!

しかも、選曲も超ハイクオリティーでお客さんもジャンル問わずカッコいい人が集まる空間な訳!

その「RED ZONE」に出演が決まった!!

今思い出しても震えるね!!

色んな人達が俺等の事を見てくれる

選んだ戦闘服は「ICE BRGE」

知ってる奴は知ってると思うけど超高いんだわっ(笑)

んでスタートはREDMANの「LET’S GET DIRTY」

ロックしたぜぇ~!!

まぁ、誰よりも俺等自身が興奮してたのを思い出すわ!

その後、前よりは少しは評価してもらえてたと思うけど、それでも路線の違いすぎる俺等とダンスシーンには大きな隔たりがあった様な気がする

一般の人だったりダンサー以外のジャンルのプレイヤー達は俺等の事こぞってプッシュしてくれてたけど肝心のダンス界からは支持されてなかった

それはやっぱり寂しい事だったよ

だって俺等ダンサーだもん

見た目とかスタイルは違えど、レジェンド達はバリバリダンス上手いし、その人達と渡り合いたいって思うの当然じゃん

そしてついにダンスシーンが俺等の方を向いてくれる時が来る!!

それは今のチームメイトでもあるRYOの手によって

そして、その上にはSTEZOさんというビックネームの存在がいた

はぁ…

疲れたから続きはまた次回(笑)!!

BASE HEADSのお話 その1

2012.06.11 - 17:35

BASE HEADSを結成してもう12年になる

それが長いのか短いのかは何とも言えないけど…

俺にとってこの12年の生活の全てはBASE HEADSの為にあった

ホント何から何まで全て…

俺等は8月21日に解散する

渋谷の中心で活動し続けた俺等は

最後の場所も渋谷の中心を選んだ

RED ZONE

HARLEM

そこが俺等の最終地点

何で解散するのか?

そんなん一口では説明出来ない

俺等が解散する理由を説明するには俺等のやって来た事をまず知って欲しい

スゲー長い長い話になるけど

付き合ってくれよな

俺等の結成は2000年の春

最初のメンバーはA-VE、KENKEN、TETSU、OSANOと俺の5人

チームの名前をBASE HEADSに決めた時、何だかしっくりこなかったのを覚えてるよ

何だか呼びにくいし、パッとしねぇ〜なってのが第一印象だったけど

まぁ、慣れたらそんな事ないんだろうなってそう思ってたよ

第一回目のショーケースは池袋のBEDってクラブ

イエローのシャツにブラックのカーゴパンツにNIKE

その頃すでにもうブラック×イエローとかでキメてたぜっ!!

まぁ、その頃はまだ知り合いなんて殆ど居ないしどアウェイだったな

出演出来るイベントなんて凄い限られてたから殆どショーに出れなかったよ

当時はHIP HOPが大きな進化を遂げてる最中でさ

プレミアとかピートロックとか…etc

もっと沢山居るけどそういった偉大なプロデューサー達が作り出す音は基本サンプリングしてループするミュージック

そこに出て来たのがティンバランドとファレルといった新進気鋭のプロデューサー

今までの音楽とは全く違ったアプローチでHIP HOPの世界は大きな変革期を迎えた

それに伴って新しいRAPやDANCEやファッションのスタイルが生まれ始めてた

日本のシーンにもすぐにそれはやって来た

もうその前と後では全てが違って見える程その勢いは凄かったんだ!!

ビックサイズの洋服を身にまとい、ゴールドのアクセサリーとベースボールキャップ

ドレッドが主流だった髪型も一気に坊主になった

バンダナを巻いてタフにキメる

マジ基本だった!!

そんなUSシーンに俺等は自然に惹かれていったけど、ほぼ全てと言っていい程多くのダンサー達はビックビートをメインのUKのスタイルに流れていった

だから俺等はホントに異質な存在だった

ダンスシーンの仲間に入れてもらえなかった

当然、人気なんかないし、先輩達とは全く違ったし、目の前には何のレールもなかった

だってお手本がないんだもん!!

スゲー毎日不安だった

全然受け入れてもらえないし、自分達がやってる事が間違ってるのかもしれないって

そんな状況でチームメイトも抜けて俺等はA-VE、KENと俺の3人で活動する事になる

結成からわずか1ヶ月足らずでそんな状況に追い込まれたと思う

そんな俺等とは対照的にUSシーンは破竹の勢いで盛り上がっていく

ラフライダース、ロッカフェラ、バッドボーイ…etc

マジ凄かった

日本じゃ全然物足りないから俺等は足しげくNYに行った

その頃はサウスも今みたいに盛り上がってなかったし、LAはあったけど、断然NYが最強だった

ダンスだったらMISSYのPVとか

ファッションだったらアイスバーグ、クージーとかハンパなかった

当時マンハッタンにもまだ沢山あったブラックなCLUBの1つに「SPEED」って所があった

マジで100%ブラック!!

あっ、俺等が居たから99%かな!

ブラックばっかり大量に集まるから警察がストリートを1ブロック完全に封鎖とかする様な時代さ!

クラブに入るにはエントランスの長い列に並ばないと行けないんだけど俺等日本人は肌の色も身長も全然違うから目立つ目立つ(笑)

クラブに遊びにいくだけなのに凄い緊張感に包まれてたの思い出す

白人なんて一人も居なかったし、4ツ打ちの音楽なんて一切かからない

今考えるとスゲー時代だったな

そこで肩を滅茶苦茶早く震わせる奇妙な動きしてる集団が居た

ダンスなのか良く分からなかったけど今まで見た事ない動きするそいつ等に目を奪われてた

EVEの「WHO THAT GIRL」って曲が出る全然前

そいつらはシェイクってダンスを生み出したハーレムシェイカーズのオリジナルクルーだったんだと思う

そうやって新しい音楽とダンスとファッションが凄い勢いで毎日産み出されていく

しかも、カルチャーと一緒に

そんな風景を目の当たりにしながら日本に帰る

そんでそれを自分達のショーケースに反映させる

そんな毎日

バイトしてたけど、追いつける筈もなくスゲー借金とかしながら

生活はホント苦しかったけど新しい時代の幕開けの場に自分達もいるようで

凄い楽しかった!!

少しずつ理解し合える仲間も増えていった

DJだったらSACHIHO、INOUE、ALAMAKI、KENSUKE…etc

ラッパーだったらKENSHIN…etc

ダンサーだったらBALDWIN、PRIME TIME、MIHO BROWN…etc

まだまだ少なかったけど新しい風をシーンに吹かせてやるってそんなパワーが産み出された

まぁ、全然ダンサー界は俺等に見向きもしてくれなかったけど

俺等悔しくて自分達のビデオを沢山の人に渡しにいった

ラジオ局にゲリラで渡しに行ったり

雑誌社とかレコード会社の住所調べ挙げて送りつけてみたり

イケてるDJとかラッパーに渡しに行ったり

海外のダンサーが来日してるって聞きつけてワークショップ乗り込んでその場でショーのネタ躍ったり

色んな事やった

殆ど反応なかったけど(笑)

それでも楽しくてしょうがなかった!!

この世の中で俺等が一番イケてるって思ってたし

日々、シーンの風は俺等の方に傾いているって思ってたし

そんな調子で3年弱活動してた

「溝ノ口」って駅が神奈川県の川崎にある

そこで夜中永遠に躍ってた

そこで初期の全てを作ってた

スタジオも今みたいに沢山あった訳じゃないし

ってかその頃簡単に教えられる様な時代でもなかった

ホントにスターダンサーになって初めて教えるのが許されるみたいな

だから俺等は永遠にその場所にいたよ

「ONE WAY」ってレコード屋さんが中目黒にあった

HOT97はもちろんだけどアメリカのラジオプレイをブートで録音したテープを売ってた

毎週リリースされるから新しくドロップされたやつは全部買ってチェックしてた

宇田川町はレコードバブルみたいに凄い時代だった

今みたいにダウンロードとかないし、CDとかマジでイケてないラインしかリリースしてなかったから100%アナログチェック!

プロモ盤ってやつがあってそれとか20枚とかしかお店に入ってこないから、レコード屋さんに何のつてもない俺等は夕方並んで買う訳さ

一枚2000円近くするのとかもある

そんなんを毎月何十枚もかって音源を作る

スゲー金かかったなぁ

衣装も揃えてたし

そりゃ借金もする筈さ(笑)

1つでも多くのステージに立って、1人でも多くの人にダンスを見せたかった

少しでもイケてる自分になる為に…

先の事なんて何にも考えてなかったし、まぁ、20歳そこそこだったしね

他に何も見えてなかったし考えてもなかった

メンバー3人でとても心細かったけど、とてもとても濃厚な時代

それがBASE HEADSの初期

最初の3年間さ!!

ちなみにその当時の写真載せようと思ったけどまだデジカメとかの時代でもなく普通に写真だったから載せらんない!!

どんだけ昔なんだよ(笑)

でも時代の流れと進化には驚かされるね!!

次は中期の話でも書くよ!!

こっちでも!!

2012.06.04 - 08:13

映像アップだ!!

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