大鷹の住まう流山おおたかの森と多くの古墳・新撰組・小林一茶など歴史的なロマンも溢れる町-流山市。そんな流山市のプチガイドホームページです。

流山市〜流山おおたかの森〜で遊ぼう!

大鷹の住まう流山おおたかの森と多くの古墳・新撰組・小林一茶など歴史的なロマンも溢れる町-流山市。そんな流山市のプチガイドホームページです。

都心から一番近い森のまち〜流山市はつくばエクスプレスで快速で都心から25分という都心近郊でありながら、大鷹の住む森「流山おおたかの森」をはじめ、閑静な住宅街を中心とした非常に住み良い町です。…が、一歩外へ踏み出せば古墳はあるわ、何かしら歴史的な事件のあった史跡はあるわで、意外とアツいスポットが多数あります。
当ホームページでは、そんな流山市の面白い歴史とスポットをご紹介いたします。

太古のロマン溢れる流山市

古墳の多い流山市は多数の発掘調査が行われています。その中でも、とりわけ代表的な出来事をご紹介。

4世紀/三輪野山向原古墳から鉄剣や土師器が出土
6世紀/東深井古墳群・鰭ヶ崎三本松古墳が造営される
7世紀/大宝律令制定、流山は下総国葛飾郡に含まれる
8世紀/中ノ坪第U遺跡に製鉄炉跡、流山廃寺の古瓦が出土、神功開宝・隆平永宝が市内の遺跡で出土
1197/矢木(八木)の地名が文献にはじめて見られる
1315/安蒜家の板碑建立される
1394〜1428/本土寺過去帳に桐ヶ谷の地名が見られる
1437/高城氏の名が本土寺過去帳で見られる
1590/小金城落城(支城の前ヶ崎城・花輪城なども開城)
1595〜1615/下総の牧が小金牧と佐倉牧に整備される
1621/利根川が銚子口に流され、ほぼ現在の流路となる
1641/江戸川の開削が完了する
1725/徳川吉宗が小金原で御鹿狩を行う
1781/流山村ほか11か村が逆川の堀継願を提出する
1836/逆川の開削完成、坂川に改称

流山の渡し跡

商都流山は江戸川の渡し船と共に発展してきました。陸路の発達によってその渡し船も消えてしまいましたが、彼らの地域発展への努力を讃えようという事で今では標柱を残す形でその痕跡を残しています。
江戸川を散歩する際に標柱を発見したら、その近辺が渡し船の利用者で賑わっていたであろう当時を偲ぶのも悪くないかもしれませんね。

深井新田の渡し跡
深井新田は江戸時代の江戸川開鑿で分断された地域で、対岸に耕作地を持つ人も多く認可は明治10年6月だが、江戸時代からの古い渡しである。
尼谷の渡し跡
平方村新田と平方新田(埼玉側)が共同で運営していた渡しで、30人程度が乗れる時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。
六兵衛の渡し跡
別名「上新宿の渡し」と言うが、六兵衛なる人が運営し「六兵衛の渡し」が一般的。大型の舟を使用し、作業場(対岸の耕作地や流作場)への渡しとして昭和20年頃まで存続。
半割(南)の渡し跡
3〜4人が共同で運営、昭和20年代後半まで存続した。埼玉側では農閑期に牛や馬を千葉側に預けることが多く、「馬船」と呼ばれる大型の船を使用した。
羽口の渡し跡
流山に屯集した新選組を制圧するため、新政府軍が来流し、砲列を敷いた。田中藩が統治した加村の公営の渡し場だが、近くに賭博場があったとも言われる。
矢河原の渡し跡
「加村の渡し」とも言い昭和35年頃まで存続した。幕末に再起を図るため流山で屯集した新選組の局長・近藤勇は新政府軍の包囲に単身出頭、この渡しで流山を後にした。
丹後の渡し跡
「羽口の渡し」と並ぶ公営の渡しで小金道の一部として、3艘の舟が用いられていた。新選組が来流時に利用したとも言われる。昭和10年の流山架橋橋で廃止された。
幸房の渡し跡
「岩野木の渡し」「七右衛門新田の渡し」「幸房の渡し」と様々な名称がある。江戸川の渡しは千葉側と埼玉側の地名を交互につけたが、自分側で呼ぶことが多い。ちなみにこの標柱は八つの跡のうち唯一の流山市外となる。