今こそ考えよう 高齢者の終末期医療
2012年6月20日
欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか
ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、いわゆる寝たきり老人はいないと、どの福祉関係の本にも書かれています。他の国ではどうなのかと思い、学会の招請講演で来日したイギリス、アメリカ、オーストラリアの医師をつかまえて聞くと、「自分の国でも寝たきり老人はほとんどいない」とのことでした。一方、我が国のいわゆる老人病院には、一言も話せない、胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます。
不思議でした。日本の医療水準は決して低くありません。むしろ優れているといっても良いくらいです。
「なぜ、外国には寝たきり老人はいないのか?」
答えはスウェーデンで見つかりました。今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。
その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。
ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
欧米が良いのか、日本か
さて、欧米が良いのか、日本が良いのかは、わかりません。しかし、全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると、人間の尊厳について考えざるを得ません。
家内と私は「将来、原因がなんであれ、終末期になり、口から食べられなくなったとき、胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は一切希望しない」を書面にして、かつ、子供達にも、その旨しっかり伝えています。(宮本顕二)
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- プロフィール
- 宮本顕二(みやもと けんじ)
- 1976年、北海道大学医学部医学科卒業
- 北海道大学大学院保健科学研究院機能回復学分野教授
- 宮本礼子(みやもと れいこ)
- 1979年旭川医科大学卒業
- 桜台江仁会病院(札幌市)認知症総合支援センター長
- ブログは2人が交代しながら書いていきます。
- 2人の詳しいプロフィールはこちら
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コメント
いろいろな意見があって難しい問題なのだな、と感じました。
幸い、私の両親は80代でまだ健在です。お互いに相手を「そろそろボケてきてるみたいだゾ」と言い合って、喧嘩も増えているようですが、まあ、年の割には元気な証拠です。
私個人的には両親にはできるだけ長生きしてほしいし、私自身も長生きしたい。その際に終末医療がどうかかわってくるのか、正直言ってまだ実感できていません。まもなく、いやでも体験する事になるのでしょう。
寝たきりの医療を行う時、「治る見込みのない患者に治療を行うのは無意味」という考え方があるように書かれている方がありました。
両親が寝たきりになったら… 私だったら出来るだけ延命したいと思うだろうな。
「寝たきり」「植物状態」の方を「延命治療」してる人(家族)はその状態が続くことを望んでそうしているわけではなく、「いつか(奇跡的にでも)回復してくれるのではないか」「画期的な治療法ができるのではないか」と期待してそうされているかたも多いのではないでしょうか?
高齢の方の場合と、若い方で事故や病気で寝たきりになった方と、考え方は違うのかもしれませんね。
宮本医師のご意見に大賛成です。私はこの記事をプリントアウトし、余白に以下、記入しました。
「私は宮本医師に賛同し、すべての延命治療を拒否します」
そして、名前を書き、日付を入れ、実印をおして妻に渡しました。娘にも、姉にも渡す予定です。
私たちは「その時(死ぬ時)」を知りません。しかし、イザという時のために準備しておけば、毎日を「生きていることに感謝して」過ごせるのではないかと思います。
昔の人たちは、自宅で、ものが食べられなくなり、痩せて亡くなりましたが、苦痛ではなく、楽だったと思います。「大往生したければ医療にかかわるな」の中村仁一先生が看取られた多くの人もそうでした。私もそういう大往生を目指します。(60歳)
何が何でも延命を望めばそうすればいい
本人 家族が決めればいい
ただし 健康保険は使わせない
ウチのおばあちゃんは82歳で心臓弁置換手術をした
元通り元気に暮らしている
400万円以上かかった
だけど 支払いは 数万円
これっておかしいでしょ
他人事なら自分で払えよと言いたくなる
元気になる見込みのない胃ろうなら なおさらだ
この記事に批判もあろうかとは思います。
ただただ生かされている状態でもいいではないかという日本の考えは改めるべきでしょう。
それを望むならそれでもよいです。考え方ですから。
しかしあるところから先の医療費はすべて自費でまかなうのなら文句は有りません。
このような世の中になり未来に生かす資金も重要です。
同じお金がもっと有益に社会に使えるようにするべきです。
夫婦で、胃瘻をした場合(+ペースメーカー)としない場合の2人の母たちを看取りました。しない方が本人の苦しみが少なく良かったと思っています。しかしほとんどの病院では、本人や家族の意向は無視されいやおうなしに胃瘻にされてしまいます。胃瘻をしないのは見殺しにするようなものだと言外に匂わせて。まるで踏み絵です。
多くの人が胃ろうを造ってまでは人生を生きたくはないと思う。
自分もそうだ。
愛する家族がそうなった時、その先に死が待っているなかで
「胃ろうは造らないでください。」
と、堂々とは言えない。
自分の一言で他界するわけだからね。
はっきりと医者が「意味がありません。しません。」と言えばいいのよね。
誰だって人の死の重みを自分の手の中には残したくないからね。
皆さんのコメントを読んで、もう答えは出ていると思いました。
日本の延命治療は規制が必要です。日本人は決まり事がないとダメなんです。
本人が「死ぬのも嫌、でも苦しいのも嫌。どっちがいいか決められない」
という状態で、そうしたら家族が延命治療を選択する、ってケースも結構多いんじゃないかと思います。
でも胃ろう等で何も話せなくなった患者さんて、大多数が無表情になったり、早く死にたいって表情になりますね。
なので、家族はその選択が正解だったのか、と悩むことになる。
結局、今日本では、死ぬということがただ嫌なことであるだけで、「そういうときは死んでいい。延命治療はいや」なのか、「とことん延命治療をしてでも生きてやる」なのか、自分も家族もきちんと考えきれていない、話し合えていない人が多いんじゃないでしょうか。
死があまり身近でない、「不謹慎な」話題であるので、なかなか普段から話し合えない話題ってこともあるんでしょうけど。
欧米の考え方はips細胞を利用した技術の開発にブレーキをかけかねない考え方ですね。
延命を望まないというのは「死を選択する」意味しかなく。
その逆、最後まで死に対してあがなう権利を放棄していますね。
「死に対してあがなう」事を望む人も居るだろうに、口がきけなければそのことも伝えられないだろうに。
今後、ips細胞技術の発達が進めば「老化」自体にも踏み込む可能性も大いにあると思うのですが。
人間は自然のサイクルから大きく外れてこの地球に存在し続ける以上俗物である事を受け入れて生き続けるべきだと思います。
北米は寝たきり老人いますよ。
普通の施設ではなくて寝たきり老人やボケ老人専用の施設にいます。
日本みたいに自分で介護する人は皆無に近いと思いますが。
こんな問題を提起してくれるお医者さんがいるんですね。死生観等を横に置いて、老人の周辺を見渡すと、結局「儲けているのは、医者だけ」と思っていました。
だいぶ前のコメントにもあるように
リビングウィルが通用しないんです
おかしいですよね、、、、
人間の尊厳=自身の意志、意思、遺志?
と捉えると医療の世界は
いったいなんなんだろう、、、と
感じてしまいます
生命として存在させることが
医療の生きている?
自身の意思はどこにもなくとも
命があるのか?
よくわからないのですが、、、、
多くの胃ろうなどの終末期にあたる方を
看てきましたが
個人的には
いいことは無い と感じてしまいます
ご家族の思いはそれぞれですが
自己満足にしか見えない私は
いけない人なのかもしれません、、、、。
スウェーデン式を断然 支持します
どちらの方が良い、と決めるのは難しいですね。
10年前に亡くなった祖父が胃ろうで寝たきりでした。手術で声帯も失っていたので一言も話せない状態でした。
私が3歳の時に入院生活を始めて、亡くなるまでの10年間ずっと寝たきりだったので、私の中では「おじいちゃんは寝たきり、声も出ない」という記憶がほとんどで、一緒に遊んでもらったり、声を使ってお話したりという思い出も本当に少ししかありません。
でも、祖母が作った、あ行からわ行まで書いてあるひらがなボードを使って、祖父がウィンクした数でどの文字を指しているのかを数え、声はなくとも会話をしていました。寝たきりだったけど、一緒にどこへ出かけたわけでも、声すら知らない/覚えていないけど、毎週祖父に会いに行く度に心がほんわり温かくなったことを覚えています。
そして、昼夜を問わず、泊まり込みで年中祖父の側でお世話する祖母の姿を見て(とてもラブラブの2人でした)、「こんな夫婦になりたいな。」と幼いながらに思っていました。そんな祖母も実は末期のガンだったのに、「おじいちゃんの側を離れるくらいなら・・・」と言って、祖父が亡くなるまでずっと側に居て、本当にいつも仲の良い夫婦でした。
祖父がなくなった半年後に、胃ろうも、どんな延命治療も拒否した祖母は後を追うように亡くなりました。でも祖母は「早くおじいちゃんに会いたい。」と言い続けていたので、家族は治療を押し付けることもなかったし、それを後悔したこともありません。
個人的な意見になりますが、私は寝たきりでも、本人が生きたくて、周りも生きて欲しいと思うのであれば良いのでは?と思います。私は寝たきりの祖父と過ごした週末は今でも大切な思い出で、10年間見続けた祖父と祖母の愛は私の見本・憧れでもあります。
でも、本人の望んでない延命、というのは確かに考えてしまいますね。
記事本文とコメントを読んで、尊厳死肯定派の方がいたり
胃ろうがあることで助かったと思っている方、そのご家族がいたりで
本当にいろんな考え方があるんだと感じます。
欧米の考え方に近づこう、という方がいてもいいし
日本の宗教観みたいなものを大事にしていたり、
家族には少しでも長く生きていてほしいと思う方がいてもいいよね。
自分にもし胃ろうが必要になったら、どうしたいか自分で決められるといいな。
記事を書いていらっしゃる先生のご専門が機能回復学分野なのを見て
こういう、人間の自然な死を大事にしたいと思うに至ったのはどうしてか
知りたいなと思いました。
大学でがんの関連研究をしていたときに、もしがんが完全に治療できるようになったら
人は何で死ぬんだろうと、良く思ったのです。
急性期、回復期、療養期の病院では、それぞれ「延命治療」の定義が違うように思います。
同じ医療行為でも、それによって回復するなら治療。それによって生きやすいのなら単なる医療行為。やり続けないと死ぬのなら延命治療。
でも、具体的に何がそれに相当するのかは、患者さんの数だけパターンがあるのではないですか?
そして、それをどう判断するかは、家族の数だけ答えがあるのだと思います。
判断を他人に委ねてしまった、自分に判断の権限がない、そんな場合には違和感を覚えるのでしょうけれど。
様々なケース全てに対応する線引きはできるんでしょうか。仕事や家族の犠牲になってきた人を、こんな簡単に死なせていいのか。そんな考えが浮かぶのは日本くらいなのかもしれません。そこに正否はあるのでしょうか。
自由で気儘な父は73で癌で逝きました。医師と相談し自分で全部決め、ホスピスで望んだ通りに亡くなりました。
が、母は、60代である朝突然倒れました。何度か脳梗塞で倒れて復活、透析もしていましたが、今回は脳出血。体のほとんどが麻痺しました。
急性期の病院では、生きるための治療をしてくれます。回復期の病院ではリハビリを。しかし期間が決まっている。実家にいた末の弟は当時、そんな医療システムや高齢者医療の抱える問題を少しも知りませんでした。姉弟で話し合い、延命治療はしないという方針でしたが、急性期の病院で気道切開と胃瘻をしたほうがよさそうだったので頼んだ、と弟から電話で報告されました。毎日のように一人で病院に通い、物言わぬ母のことを彼なりに考えた結果だと思うと反対できませんでした。もし、転院できず自宅で介護や看取りとなったら、弟は一人で生活の全てを介護に費やすことになります。姉として弟も守らなければなりませんでした。
3年の間、数回咽び泣いただけで一言も話せないまま、母は70代になり、内臓全般が弱ってきました。主治医との連絡役だけ、家が遠い長女の私に代わりました。顔のパックをすれば自分から目を閉じ、幼い孫の声に微笑む母には、何度も、弟がもう少し成長するまで辛いだろうけど生きていてくれるよう話しました。
そろそろ、母の体が止まろうとしています。胃瘻による栄養も受け付けなくなりました。餓死か心臓の停止を待っている状態です。しかし透析は怖くてやめらません。弟も私たちも、やっと母の死を受け入れられるようになってきたようです。
介護から関係のない職場から転職の40歳。
介護職2年目(1年半ぐらい)ですが、
介護の世界は一般常識の通用しない世界ですし、
ホントに日本の介護は世界的に見ても異常だと思いますよ。
寝たきりの本人の意志より、周りの押しつけで生かされているだけ。
ポイントはやはり、
日本の医療体系・利権が大きなウエートを占めている感が否めません。
また、
一般の人々の認識の低さもあり、死が生活から隔離され、引き離されていることが大きな問題です。
これは国民の生活をどこへ向かいたいのか政治の問題でもあると思います。
寝たきりでなくとも認知症で自ら食事摂取が不可能な人に
200ccの400カロリー程度の栄養剤をプリン状にしたり、
水分にトロミをつけて提供するわけですが、
毎日、誤嚥とのたたかいです。
いやいや、わめいている認知症の利用者の口に無理やり押し込め
喉に詰まら咳き込み、苦しむ…
誤嚥性肺炎で発熱し死ぬか生きるか生死の分かれ目
介護施設の大抵の死因はこれ。
必至に吸引したりして、懸命に命が繋がれるても、毎日これの繰り返し。
ちなみに食事が取れなくなくと機械的に
看護師さん食事形態として決められる。
生かしたいのか?死ぬ責任を押し付けられているのか?
市民の税金の医療利権で懐をあたためるやからを尻目に
異常な低賃金で、人権無視レベルの労働条件を突きつけられ
社会の大きな歪みのなかで介護?してますよ。
外国人なら逃げ出して当たり前ですよね。
昔は人は家で生まれ、家で死んでいきました。それが今はすべて病院です。
出産は病気ではありません。そして老齢で衰弱して死んでいくのも当たり前のことです。
人の死はもっと身近なことなのに、死と直面することがなくなってきました。
死は自分たちではなく、医者が考えるものになった。
この問題はこういう世の中になったことが原因だと思います。
また、終末期医療は国が決めたりするものではなく、ケースバイケースであるべきでしょう。
パンダさん、丁度昨日、山井和則さんの「世界の高齢者福祉」を読み終えたところです。
まさにこのテーマが登場するのですが、、、
作者は20代でデンマークやスウェーデンを始めとして様々な国の介護を実習しながら2年くらい回った方で、最後には「日本の介護は政治でなんとか変えなければなければならない」と考え、今は国会議員となった方です。
【骨折】の件ですが、デンマークでは3〜4週間の間にリハビリを施し、ちゃんとそれなりに歩けるようにして退院させるようです。
つまり、骨折からの寝たきりは絶対に作らないですし、おそらくそれが常識になっているのだと思います。
日本では逆ですね。
わたしの祖父は、転倒骨折で寝たきりになり、そのままベッドで亡くなりました。
最初にリハビリをうまくやれば、余生8年くらい、あるいは10年あったでしょうか全然別の人生を満喫できたんだと思います。
本によると、寝させて一週間もすれば老人は歩けなくなるとのことでした。リハビリはキツイですが、転倒骨折した人のケースであれば誰しも「歩けなくていい」なんて思わないハズ。
そう考えると日本のシステムはよろしくないなぁと思っています。
不自然な延命治療に違和感を感じるのは、今現在元気な人には当然の感情です。ただ、「延命治療は希望しません」と言っていても、自分の死について本当に真剣に考えている人はどれくらいいるのだろう……と感じるのも確かです。
なにしろ2009年の臓器移植法の改正すら(死の定義がかなり変更されたと個人的には認識しています)、まともな国民的議論が行なわれなかったのが、日本の現実です。
20代の馬鹿な若者が「俺は40歳まで生きる気は無いぜ」などと言っているのと50歩100歩のレベルで(それは言い過ぎか。なら、5歩100歩?)、「延命治療は希望しません」と言っている人が実は多いのではないかという疑念を拭うことは正直できません。
また、欧米の例は、社会・個人の負担を減らすために、あえてそうしている部分を忘れてはいけないです。特にスウェーデンは、社会全体の利益のためには個人の自由や意思は一定範囲内で制約されることが受け入れられており、日本とは明らかに異なる部分がある国です。
最後にもう1つ感じた違和感を。元気なうちに決めた死との向き合い方を、死の直前にも貫けるかのように皆さん自信満々に語られますが、本当にそれは可能なのでしょうか? 少なくとも自分にはその自信は無いです。
母は元気な人で黄ダンが見つかり直ぐ入院させましたがその日のうち下血2日病院にいましたが
医師いわくここは治療するところで入院するところではないので自宅へひきとってくれということで3日めにたん院させて最後の親孝行と思っていたところ5日の昼ごろ私はもう死ぬのかしらと涙を流しいったので自分も涙がでてきました。自分が隣にいながら気が付かなかったことに悔いがのこります。後半少しはぼけてきて食べ物を買いすぎては腐らせ。夜ゆくえ不明
になったのを探したりいろいろでした。
週に一度は自宅でごちそうしたりしても食欲十分なのと買い物も平気で毎日の様に山ほど買い物をしていました。
毎週通っていた病院でなぜ母の病状を説明して
くれなかったのかがくやまれます。
末期肝臓ガンでした。94歳でした。
年齢には関係なく94歳までいきました。
薬を山のようにだしていた病院には2回いきましたが何の説明もなく薬ずけなので薬がゴミの
様になるので減らしてほしいと交渉にいったことがありました。5年以上前より便秘の薬を出しつずけていました。ので床に便がときどき落ちていたり下着がよごれてれていたり、ころんで骨を折ったりいろいろありましたが肝臓ガンがここまで進行していて普通ならかなり疲れしんどかったのだとおもいました。
家族に何も説明しなかった医師に腹をたてても
しょうがない。彼は商売のために薬をだしていただけの非力な医師でした。
この病院は歩いて3分の近さでした。自分の非力を誤りにこなかったです。
医師を頼りに自分の体調を相談にいっているのですから自分の判断できないことは他の設備の
あるところを紹介すべきだったのではないかと
思います。
寝たきりと申しましても、例えば足を骨折して療養している間に筋肉が萎えてそのまま歩けずに寝たきりになるケースは結構あるのですが
北欧ではそういうケースはどうなっているのでしょうか。
骨折した老人の介護と復帰についての取材をお願いします。
骨折しても寝たきりにならない方法があるのならば日本も学ぶべきですし。
人が生命ある有機体として生まれてくる。
また、死んでいく。自然の摂理です。
私も、家族のため、やら、国で認められていないから、という理由で、そんな最後を終えたくはないです。
可哀想、というならば、自分の意志で思うように動けない状態なのに関わらず、ただ、生を存続させている事こそが、哀れを感じます。
本人が、そうなっても、どうしても生きたい場合は別ですが。。。。
自分が老齢もしくは重大な病気でその立場に立たされた時に、あるいはその前に…
自分で決められる制度が欲しい。
意識があり、コミュニケーションをかわせるウチはまだ良い。
なにも出来なくなり、できるようになる希望が絶たれても、なお長々と強制的に生かされるのはあまりにみじめです。
現行制度では、本人の希望は尊重されないらしい…
尊厳死を認めてほしい。
他人に自分を殺す決断をさせるのではなく、「あらかじめ決めた事」として送り出してほしい。
そんなこともできない国が福祉大国になれるはずがない。
父親が胸痛で倒れて救急搬送、一命は取り止めてもらいました。意識もはっきりしていて、ただわからないのが一度もかかったことのない病院の5Fに入院したためか段々見当識が不安定になって咀嚼できても飲み込めず、医師から点滴治療を勧められました。
その時胃ろうの話は出ませんでした。寝たきり生活が長くなるからとい理由です。
でも 私と過ごした昔話はちゃんと噛み合ってたし、仕事の話も、部下のお見舞いも親戚もちゃんと認識してました。嚥下障害=死んだ方がましという医師の判断にとても苦しんでいます。
もう3年以上たちますが、お話ができる人に長くなるから胃ろうはしないと言う考え方は受け入れられません。
もちろん私だって目が天井を見詰めたまま、無反応で脳死のような植物状態なら胃ろう手術は却って本人の意思に反すると思っています。
この記事の筆者さんも、賛同している方たちもきっと身近にはそういう方がいないのでしょう。
延命は拒否、というのは分かります。私もそうです。けれど、例えば 長い間ガンを患っていて、いよいよ呼吸もままならない、人工呼吸器に繋ぎますか?または、胃瘻を作りましょうと言われた時などは拒否と言いやすいかと思いますが、例えば脳卒中で倒れ、回復の見込みがあるが、栄養状態が悪いという時などに、胃瘻や点滴を拒否し、餓死させることを選べるのでしょうか? 分かりやすいケースばかりではないのです。
こういう問題は、一言では片付きません。このように、寝たきりの老人がたくさんいることが問題だという視点は、ひいては、医療費を無駄に使っている老人や障害者などは排除すべきと言う考えに至ってしまうのではないかと危惧します。
まさに 今後大きな問題ですね。
病院で死ぬ事が出来るのか? 入院する事も介護を受ける事も難しくなってきますね。
平均寿命と健康寿命。
歳相応の体(病気を含め)受け入れる事が出来ず、いつまでも若いときと同じような数値を目指して薬をあれこれ飲む。
その事も医療費の負担を増やしているように思います。
70歳・80歳に見合う程度の健康管理で良い気もしますが、実際にその歳になったら欲が出てより一層若く健康で居たいって思っちゃうのかなぁ
一部の方のコメントを読んでいるとやたら一方的な価値観を押しつけて、
尊厳死が正しい、即ち日本は医療は大衆は間違っているとばかりに主張なさる方が多いですね
死に様に正しいも間違いも無いと思いますよ
死とは誰の物でも無い自分の物です
自分で考えた哲学が自分で考えた哲学以上になることは無く
そこに価値観の優劣など有りません
北欧的だろうと日本的だろうと優劣を付けたがるのは他人の価値観にすがろうとしている表れだと思います
大事なのは選択の自由
日本では尊厳死が難しい一方
それで北欧ではその体制で延命治療が十分に叶えられるのでしょうか?
個人がどちらでも選べる医療体制、許容出来る社会体制、それが大事なのでしょう
「それでも生き続けたい」、と言う人を自動的に排除する医療ならば
北欧の方も間違いだと断言したいです
日本でも選択の自由が不十分ならばその体制は非難されて是正されるべきですが
それは決して「尊厳死が正しい」という話では無いということを忘れてはなりません
「選ぶことの難しい社会の罪」と「死の哲学の優劣」はハッキリと分けて考えなければなりません
否定的な意見を述べておられる方が
非常にヒステリックな感じがするのが気になります。
個人的には、死んでいないのと生きていることは違うと
思いますし、自分がそのような立場に立てば
無理な延命は望みません。
例えは悪いですが、おいしく食べられなくなるほど
食べたら、食べるのをやめたらいいんです。
本人の立場に立てば無理強いされるのは辛い。
否定的な方は、もうお腹いっぱいと言っている人に
食べられるならもっと食べろと言っている人のように
感じてしまいます。
次元が違う話ではありますが、ふとそう思いました。
生きるための医療ではなく
死なせないための医療だと思います。
色々ケースのコメントを見て
全てに当てはまるとは思いませんが...
母親も延命治療を望んでいないし
私も同じ考えです。
不治の病に罹患した時は
リビング・ウィルを用意しようと思っていましたが
いつ何があるかわからないのが生命ですから
何もない今こそ、用意すべきだと思いました。
先月17年介護の末母を看取りました。
誤嚥性肺炎の為食べ物も食べれなくなり
医者に行ったらすぐさまいろうして治療と
言われましたが、17年の間に母の最期は
家で逝かせてあがたかったので、はっきり
お断りしました。
私も今の高齢の医療問題にはつねに考えさせられます。
自然に逝かせるのは無理なのか?
人間の尊厳って何?
今回特に考えさせられました。
難しい問題かもしれないが、生かされて本人は
幸せなのか?
家族は辛い選択かもしれないが食べれなくなった
=死ぬときだと考えるのは無謀なのか?
でも私は後者を選びました。
それが母の幸せだと思ったので
17年一緒に暮らせて事だけでも母が感謝して眠るように逝きました。
今日は49日です。
入院したとき、延命治療を受けている患者を見る機会がありました。
管だけ付けて個室に放りこんで、後はひたすら放置。
家族が来るのなんて一ヶ月に一回あるかないか、それも1~2時間程度。
それ以外は本当に放置。
誰も見ない、その部屋から漏れるうめき声も誰も聞かない。
看護師さんも、そういう患者の部屋を通るときは顔を背けて足早に、見ない振り。
病院は、忙しい場所です。
スタッフも、これから確実に死ぬ患者に構うよりは、頑張れば助かるかも知れない、若い患者に力を注ぎたいのでしょう。
そういう場所で、「早く死なないかしら」という心の声に晒され、身動きすら出来ず、まだ生きているのに存在しない者のように扱われて最後の時を過ごす。
私には、医療の自己満足にしか見えませんでした。
自然界の中で人間の命だけに特別な価値や尊厳があると考えるのは、そもそも人間自身が作り出した幻想に過ぎない。
もっと自然に身を任せて、流れるように生き、そして終わりを迎えればよい。
もしその中で何か道筋を選び、何かを決めるべき時があるのであれば、その意思表示をするのは自分自身以外の何物でもないだろう。
他の方のコメントと言い、すごく考えさせられます。
自分の祖母も胃ろうが作られ、生きてる限りモノを飲み食いすることはない。
そして今となっては何も見ない、動かない、話さない。
私には「生き地獄」とも思える環境で彼女は一体何を思って、何を望んでいるんだろう。
その答えは永遠に知ることはない。
それでもその無表情だが、確かに生きてる顔が見たくて
施設に通ってしまいます。
楽にしてあげたい。
でもやっぱり触れたいです。
介護自殺もなくなる
本人が決めることができればいいよね。そのためには死生観をしっかりと持って家族と共有することが大事。
脳卒中の場合、「延命処置」として始める訳ではありません。
急性期の治療のひとつとして行われます。
まず、意識を失い、救急車で運ばれ緊急手術。
集中治療室で意識が戻るまでの間、補助的に呼吸器を使い、点滴や経管栄養が始まります。
意識が戻らないまま、回復期の病院に転院、さらに療養型の病院へと転院。経管栄養で生き続ける植物状態となります。
経管栄養を始めてしまうと、やめられないのが現状。リハビリに期限(150日?)があるように、経管栄養などにも期限を設ければよいのです。
この記事に賛同されている皆さんは「高齢者の終末期」のみを議論されている、という理解でよろしいですね?
胃ろうや人工呼吸器を使って、青春を謳歌している障がい児者のことは「別」ということでよろしいですね?
さらには「自然死」推奨ですから、もちろん不自然な「臓器移植医療」については同様に否定されるということでよろしいですね?
誰かが死ぬことを待つ医療にも「尊厳はない」ということでよろしいですね?
以前より寝たきりの延命には疑問を持っています。
記事の通りであるのならば自分にとっては理想のような気がします。
ただ、寝たきりで延命するか否かは当人の選択であろうと思います。
ただ、医者は必ず寝たきりを選択するでしょうからその時点から患者や家族の治療に関する意見を反映していただきたいと希望します。
延命のみを是とせず人の尊厳とは何か医師以外にも全ての人が考えていただきたい。
まずは、自分の親の世代の意思を家族で確認するところから始めるべきかと思います。
2ヶ月前私の祖母(96)が脳梗塞で倒れ、本人は延命治療は望んでいない。子供たちに介護や迷惑をかけたくないので何かあったら楽に死なせて。
と常日頃言っていました。ですが地元では有名な脳神経外科に運ばれその旨を伝えましたが、目が開いてないし呼びかけにも反応しない。けれど点滴・胃ろう・リハビリをさせられリハビリ中、うっすら目が開き涙を流し始めました。
その後も何度か肺炎になっては抗生物質だのなんだので繰り返し。目を開けるたびに涙流しています。
あまりにも可哀想になりせめて座らせるリハビリをなくせないのかと聞いたら、先生が最善の処置をしているのに不満とは。
それやったらここから出て行ってもらって他の病院へ行ってくれて結構。
と怒鳴られました。
その後も祖母が苦しそうに唸っているので母が泣いていたら
その涙は何ですか!
と怒鳴れました。
歳が歳だしそこまでして頑張って生きないといけないのでしょうか。
結局、肺に水が溜まる一方で体が信じられないくらいはれ他の病院へ移ることになりましたが、その移動でも救急車に物がいっぱいで付添人が入れるかな、と看護師さんが言うのでタクシーで行ってもいいです、と話をしていたら師長さんが移行中に何かあったらどうするんですか。責任取れませんよ。とまた怒鳴り。
結局、病院はどれだけ死なせないかが大切で患者にとって何が一番か関係く病院のために生かされているんだなって思いました。
長々と失礼しました。
今現在そういう風に生きてる方に死ねって言ってるようなものですね。
結構酷いこと書いてるしコメントでも賛成とか多くて驚いてます。
寝たきりが悪いわけですか?
動けなくなったら食べれなくなったらバイバイって考え信じらません。
今まで自分達や国を支えてくれた方をそんな簡単に切れる考えが理解できない。
本人の意思みんながみんな死なせてくれではないでしょう。
自分達が結局楽したいだけで言ってるようで非常に不愉快です。
私は両親の最後を私一人で世話しましたが、どちらも病院側に延命処置はいらないといってあり、そのようにしてもらいました。
日本でも、意思表示すれば十分に可能です。
平均寿命が、世界一長くなっても幸せとは限らないと思います。
私の場合、50歳を過ぎた頃から明らかに身体の状態の変化起きました。以前とは比べものにならないくらい様々な記憶力をはじめ身体の機能が大幅に落ちました。生物的には、50歳あたりがひとつの限度なのかもしれません。
年金制度はじめ他の社会保障制度もこれだけ平均寿命が延びることは想定していなかったはずです。長生きして子どもに迷惑をかけてしまうことを怖れます。できれば、尊厳が保てるうちに亡くなりたいものです。
そのためには、自己責任で尊厳死できるように準備が必要なようです。
おっしゃることはわかります。
自分がそうなったときには、延命措置をしてほしくはありません。
しかし、私の祖母は、家族の笑顔を心から望む、そんな人です。
今は、だいぶ認知も入ってきていますが、私や母の問いかけ、
最近生まれた兄の子、つまりひ孫の写真を見るたびに
笑顔になったり、涙を流したりします。
その笑顔を見て、家族は幸せを感じ、笑顔を浮かべられます。
祖母は寝たきりが改善することも、認知が回復することもないでしょう。
しかし、だからといってやはり祖母が死を望んでいるとは考えられないんです。
このようなケースもあります。
みなさんには、このことも認識していただければと思います。
ふらりとツイッターからお邪魔しましたが、ここでは胃ろうの問題点がクローズアップされているようなので、一応プラス面の経験を報告しますね。
私の母はパーキンソン病が進み3年前くらいから寝たきりになっています。で、いっとき口からの食事がかなり困難になったので、胃ろうを施してもらいました。
ただ体調の良いとき、少しでも口からの食事がリハビリになると考え食べさせたりしていました。以前は身体の自由がほとんどきかず、言うこともあまりまともとはいえなかったのですが、最近では、人間らしい?話もでき時には冗談もいうようになっています。
胃ろうと尿道カテーテルがずっとついたままですが、単なる延命ではなかったと喜んでいます。
また、胃ろうがついていると、家族が忙しくて食べさせてあげる時間的余裕がないときにも助かります。
私は、最近では、老人の治療に対しては、一般の人の意識(常識的な思い込み)の落とし穴、たとえばこうなったらもうよくならない、とか、医者の言うとおりにしないとよくならないとか・・の方が悪い作用を及ぼすことが多いのではないかと思っています。人の生命力を活かす治療や看護、介護を大切にしたいと思います。
尊厳死ということには私も同意ですが、これはある意味、ある程度助かる確率があっても思い切りよく死を選ぶ、ということでもあると思っています。
私は現在72歳で健康ですが、そろそろ人生の終末を考えなければいけないのでしょう。
私も胃ろうまでして生き延びたいとは考えていませんが、私が終末医療を拒否した場合、家内が心配です。
現在私たちは一応厚生年金で暮らしています。しかし、私が亡くなったら年金も打ち切りになってしまい、家内の僅かな国民年金だけでは、彼女は暮らしていけません。
どのような事態になっても生きてさえいれば年金は受け取れますので、終末医療を拒否するのをためらう気持ちがあります。
同じような環境の人たちは、それでも終末医療を拒否するのでしょうか?
悩ましいところです。
自ら積極的に死を選ぶことは『自殺』と呼ばれます。
生活が十分に可能な人がこれを行うことは、多くの人が否定します。
私も、一時の勢いで死を選ぶことは反対です。
しかし、それでも自殺する人が多いのが日本です。
そして一方で、老人の死を恐れている。
なんだか滑稽な話ですよね。
『死』というものについて、
考えることを避けているように思います。
過剰に恐れてしまったり、
周囲の人が根拠もなく自責感を覚えたり。
悲しいことではありますが、
やっぱりいつか、人は死ぬんですよ・・・。
いくら死なないように頑張ったって、
死ぬまでの時間が長くなるだけです。
みんな死にます。
好きに死なせてあげましょうよ。
自分たちが責められないために生かすのか、
(責められると思っているのがそもそも幼稚なのですが)
それとも、死ぬことを当然と受け入れるか。
自分たちは人の死を止められる?
止められない自分たちに無力感を感じる?
どれだけ思い上がってんの?って話ですよね。
死ぬんですよ。人は。
悔しいけど、受け入れましょ。
そして、せめて静かに送ってあげましょうよ。
> その点を述べない北欧福祉論は良いとこ取りのまやかしです。
制度を維持できる金もないのに、借金まみれで高度な医療・福祉が受けられますとか言ってる日本福祉論のほうが、まやかしとごまかしに満ちている。
実母から20年前に、延命治療拒否の書面を預かっています。今回、ケアマネさんとのお話で
書面を預かっているという話を母も交えてしましたら、たった一言、
『効力はありませんよ。』
自分の意思を表しているのに、それが通用しない世界です。まわりの看護師さんや介護職の方々も完全にマヒしています。人間は死なないと思っている人ばかりです。
もしそうなったら・・・で考えるのと、実際その時がきたのではやっぱり人間思ってた事と行動が違うというのもあると思います。現に私達家族がそうでした。
元気いっぱいだった母が今年1月に脳梗塞で倒れ、術後の症状が重く、最悪の場合は人工呼吸器を勧められました。
母が倒れる前は人工呼吸器は延命措置にしかならないので呼吸器付けてまで生きていたくないよね。というのが私達家族の認識でしたが、その日の朝まで元気に喋ってたのに目の前には意識が朦朧となっている母を見て、どうしてもまだ生きていてほしくて、医者にすがる事しかできなかったというのが現実でした。
幸い、症状が落ち着き人工呼吸器は付けなくてよく今は少しずつ回復してます。でも、もしその当時、人工呼吸器をつけないと命の保障がないと言われてたらお願いしたでしょう。
家族のエゴかもしれないですが、いきなりの病には1%でも希望があれば延命措置をお願いしてしまう事も少なくないかと思います。
スエーデンでは寝たきりの高齢者を見かけないのは事実です。そうした北欧の国の背景をみると、バンクーミケルセンの社会活動が頭に浮かぶ。彼は知的障がい者の施設の生活が管理優先の支援であり、施設ではなく地域で生活することがノーマルであると指摘した。その後、ノーマライゼイションの理念は世界的な影響を与えていくのである。その理念とは「高齢者も障がい者も健常者も共に地域で生活することがノーマルな社会である」とするものである。
我が国でも、ノーマライゼイションの影響等により、戦後60年を経過した段階で福祉サービスは「施設」から「地域」へ、「措置」から「契約」の流れが生まれてきた。つまり、ノーマルな生活とは、寝たきりになるプロセスの中で本人の意思を尊重する。及び、意思行為能力の低い方であっても可能な限り本人の意思を代弁する必要がある。
これらを実現するためには、高齢者本人の自己決定を可能にする社会システムが必要である。延命処置を希望する高齢者はそうすべきであり、延命処置を希望しない高齢者にはそうすべきである。一人ひとりの高齢者の尊厳を大切にするには、自己決定を可能な限り実現するべきである。それを可能にするには、地域の社会資源の状況を熟知したソーシャルワーカー(地域包括支援センターの社会福祉士等)が重要な役割を担うことになろう。
ソーシャルワークの自己決定を促す実践の蓄積により、寝たきりの高齢者の生活の質に関する我が国の価値観が形成できるのであろう。契約は民主主義の根幹である。
胃瘻を造設するかどうかを決めるのは本人ということにするべきではなかと思います。
医師や家族の都合で勝手に胃瘻増設できる現状が問題ではないでしょうか。
本人に判断力があるかどうかが決め手になります。
同様に人工肛門や、尿カテーテル、人工透析なども本人の意思の確認を前提にすべきではないでしょうか。
問題点が2つ。
1.日本では、入院患者に胃ろうや経鼻栄養・点滴などをせず、患者が死にいたった場合、たとえ家族が望んでいたとしても、医師が罪に問われる可能性があります。医師は、訴訟や警察沙汰になることを一番恐れているのです。
治療を止めれば死ぬことがわかっている状態で、治療を中止することは、「未失の殺意を持っていた」とされ、下手をすると逮捕されることを覚悟しなければなりません。
在宅での衰弱死なら、医師の責任は問われず、家族の問題とされます。ただ、食事が摂れなくなると、みんな病院に行くんですよね。「食事がとれないので入院させてください」と。
2.手足は少し動いて、家族と話すことができて、それでも「嚥下だけはできない」人もたくさんいます。そういう人に、栄養剤の投与を中止して「餓死」させることに、実際には家族が動揺することが多いのです。皆さんは、「のどが渇いた」と言いながら弱っていく肉親を、そのまま見守る覚悟がおありですか?
個人的には延命治療には否定的な立場ですが、「医者が悪い。営利的だ」という単純な話ではないのです。
延命治療を止めることが、法的にも、世間的にも認められれば良いのですが・・・
欧米では治らない病気の人に治療を続けても無駄という社会常識が確立しているので、胃ろうや呼吸器を選択する人も、その治療をしている人も、なかなか理解されません。胃ろうや呼吸器を付けても生きていきたいと望む難病患者は、家族に迷惑をかけて「わがまま」と言う風に言われてしまいます。また、そのような治療を実施する医師や家族は白い目で看られてしまいます。
一部のお金持ちだけが自腹で治療を続けています。そんなケースは稀ですが、自己責任が取れるのであれば認められます。
これらの国では、在宅人工呼吸療法等の技術がないに等しいので、自宅での高度な看取りができないので、患者は低いQOLのまま放置されています。だから治療をしない。介護できないから、かわいそうだからです。それで、ほとんどの神経系呼吸疾患の患者に呼吸器の説明がなされません。日本でも地域医療の遅れた地域では同様です。高度なケアの継続を必要とする治療はしてもらえません。
北欧の福祉国家は、乳幼児や高齢者や障害者の中で選別をして、その中で弱い人を切り捨てているので成り立っています。
日本もだんだんそういう方向に進んでいますね。皆さんのコメントを読むとわかります。
弱い人を切り捨てる世知辛い世の中になっていきますね。
ALSやSMA、障害をもって生まれてきた子供たち、体力の弱った高齢者の命は風前のともしびです。
私の母親は心臓手術後・せん妄状態で4ヶ月ほど気管切開・胃ろうで過ごした後
意識回復し、今ではまぁ足がやや不自由(杖付き歩行)にはなり、
健康とは行きませんけど、数種類の薬を飲みながら百病息災ぐらいの状態で
5年目も生きてます。近くのスーパーへの買い物や日常の食事洗濯などの家事も
こなせるようになりました。
というわけでケースバイケースで何が良くて何が悪いかは区別できないと
思います。ただ、命が1つなだけに多くの人は奇跡を信じますよ。
確率で判断して宝くじを買わない人も多いですが、宝くじを買う人も
これもまた多いということも無視できないと思います。
当たらないから買わないよというのは1つの理性的な見解だと思いますが
当たらないからお前も買うなという話になるのは反対です。
幸い意見の方は前者の方が多いのですが、医療費の削減の話になると
後者の意見が多くなるような気がします(スウェーデンの話は後者では?)。
難しい話です。
結局、延命はいらないと言ってるのは治療を受ける本人ではないんですよね。
「かわいそう」とか「尊厳」とか言ってるが、それも別の思い込みではないかと思う。
コメント欄では日本医療に否定的な意見が多いですが、そのように「医者のせい」「国民の意識のせい」と自分ではない誰かに責任を押し付けている限り、何も変わらないのでは?と思います。
「自分はこう考えているのに、社会がダメだから」みたいな論調が多くてびっくりしました。
私は延命治療を希望すると思います。
一分一秒でも長く、この世界でいきていたいから。
それが私にとっての最善だからです。
現場で働く脳外科医です。職業柄、他臓器は比較的問題ないが意識状態が悪い患者を本当に沢山拝見しています。
小生のように、「不要な」胃瘻に反対医師は多いです。
しかし、御家族は死を避けたがります。最近は減少しましたが、かつては病状説明の場で胃瘻を造設しない選択肢を挙げる事自体を、御家族から「見捨てるのか」と随分怒られました。
また元気だった頃に患者本人がいくら強い意志を示していても、脳卒中などの突然別人になってしまう病気に遭遇すると、家族が患者の意思を曲げます。パニックになって命だけはまず助けてくれ、と主張します。
日本の医療体制にも問題あります。脳卒中急性期を過ぎた患者を、最初に入院した急性期病院に長く入院させる事ができません。医療費が破綻しそうな事に原因があります。
では、その原因は何でしょう。全てとは言いませんが、いくら指摘してもたばこや酒や甘いものをやめないで透析になったり脳卒中になったりする患者もいます。税制の不具合もあります。少子化が叫ばれて久しいです。前述の宗教や文化の違いもあるでしょう。
不要な胃瘻は避けるべきと考えますが、単に良い事ばかりが表面化して、内実の不可欠なものに差障りが出てしまう事を恐れます。
胃瘻を作る側の人間です。
こちらのお話を読んで、とても感銘を受けました。同じような風潮になれば・・・とは思うのですが、現時点で実行しようとするのはなかなか難しいとも感じました。
まずは点滴信者の多いこと。
食べられなくなった状況で、点滴もしてもらえないのか、と考える人は、本人でもご家族でもとても多いように思います。
食事が入らないといわれ来院され、点滴が連日のようになってくると、入院を希望されます。入院となると、病院も慈善事業ではないのでコストを考えなければならなくなる。長期の末梢点滴でも数か月で枯れてはしまいますが、その間病院は赤字になることが多いです。
ベッドの回転をよくし、赤字を避けるためには次の行先をみつけなければならない。行先を見つけるには胃瘻が・・・
という流れになってしまうう。
胃瘻拒否の風潮とともに、点滴信者も減らないと、あるいはそういった患者でも赤字にならないようにしないと、小規模病院ではきついなと感じました。
急性期病院に勤務する医師です。神経疾患が専門で、病気のために食事を食べられなくなる患者さんも多いです。ほとんどが食べる機能が回復不能で、患者さんご自身の意思が確認できない場合は、ご家族と方針を話し合います。
私自身が幼かったころ、祖父が認知症の末期で食べられなくなり、自宅で臨終を迎えました。その経験を踏まえて、口から食べられない状態を病気の自然の経過と受け入れて経管栄養はしない、という選択肢を必ず提示します。
しかし、ほとんどのご家族が経管栄養をご希望されます。経管栄養をしなければ患者さんを死なせてしまう、という気持ちが先行してしまい、思考停止に陥ってしまっている印象です。
幾つかコメントにあるような医師や医療機関の問題などという話ではなく、日本人の死生観が問われているのです。多くの人に、このような事実ときちんと向き合って考えて欲しいです。
手を振って 小春日和を 父は逝く
・・・父の旅立ちにふさわしい朝だった。
楽しかった、楽しかったと振り返り、しあわせな人生だったと繰り返し語って逝った父。
残された人生が、あと1日か1週間か1ヶ月かそれは神様にしか分かりませんと主治医に告げられてから6日目のことだった。延命治療を選ぶか否かを問われ、私は即座に父がそれを望んでいないことを告げた。
これはきっと最後の親孝行だと信じたからだ。
父は最後の6日間で、人間はどの様に人生を終わらせるのかを私にしっかり教えてくれた。
体格のいい堂々とした父の体が少しずつ小さくなり始めたのは、数ヶ月前からだった。
2ヶ月まえからは輪郭がぼやけるような感じさえし、空気に溶けていくような透明感が伝わってきた。
77歳の誕生日に桜を見に奈良へ出かけ、喜寿のお祝いに家族で夕食を囲んだ際、きれいな桜だったと嬉しそうだった父。
大げさな父は元気な頃から毎年のように、あと何回桜を見れるだろう?と言って、家族を驚かせていたものだったが、
その春は一度もそれを口にしなかった。そのときは不思議だったが、今となってみると分かっていたのか?と思い出す。
そして、少しずつ眠る時間が増え、食事をしなくなった。
人生を終わらせる人間にとって必要なことと不必要なことが何かをじっと見せてくれた。
だからこそ、不必要なことが見えたし、父が不必要なことはするなと言った意味も理解できた。
この理解する瞬間を、今あまりにも多くの日本人は逃しているような気がする。
人は誰でも、人の死を通してしか死を意義あるものにできないと思う。
こんふうに人生は終わるんだよ・・・と、潔くごく当たり前のことのように笑って手を振って逝った父。
だからこそ、私は今父に感謝して日々を過ごしている。
宗教観の問題ではなく、なるべく個人が責任を負いたくないという国民性、ひいては日本と言う社会の在り様の問題ではないでしょうか?
生死を分ける決断に対し、延命措置を選ばなかった場合に、世間や親族から何かしらの非難を受けることは想像に難くありません。医療従事者も同じです。誰も責任を取りたくないのです。
そうなると、むしろ孤独死もいいのではないかという極論になびきそうで怖いです。
多様な選択を認め合う社会への意識変革が行われない限り変わらない気がします。
私も宗教の違いと思い、タクマン先生にそのことをお聞きしましたところ、「スウェーデンでも今から10数年前までは経管栄養の患者がたくさんいた。しかし、今はもういない。だから、宗教の問題ではない。日本でも(胃ろうをなくすことが)出来るはず」と言われました。
たしかに宗教の違いはありますが、それがおおきな要因ではないと思います。
父が肝がんに亀裂が入り出血で入院したとき、ドクターが「C.Tとかの検査も病人にとってはきついからやめましょうね?」 この言葉が今でも感謝の気持ちでいっぱいです。少し落ち着いて自宅に戻り、在宅介護をすることができました。
それから2年「俺のような病気はいい、痛くもかゆくもなく、食べるものは何でも美味しい」と言っての日々でした。88歳で安らかな最後の時も自宅でみんなと握手もでき、孫たちにかこまれてのおわかれでした。気持ちがいいと喜んでたテルミーと家族の愛情が延命処置につながったと思います。
合点のいくお話でした。ありがとうございます。
「お上」という上方の概念はあっても「神」や「天」といった絶対的な真上の概念を持たない日本人においては、絶対的なものの代用として「死」を考えるという説があります。これに基くと「死」さえ避けられれば本人の苦しみや尊厳さえも気にしないという考えが生まれるのかもしれません。このような日本においては、自分の尊厳を自分で守るということも必要なのでしょう。
こんにちは。
すばらしいサイトを発信していただき、ありがとうございます! 感謝します!!
わたしも、常に、このことを考えてきました。
医療側は、患者のことを、自分の立場にたって考えれば、現在のようなヒトの尊厳を破壊する医療行為は決して、できないはずです。
意思疎通能力を失った人を、物体として扱い、延命治療をすることは、医療側にとって利益をもたらすものかもしれませんが、患者の家族の心を深く傷つけ、家族に生きる意欲を失わせ、また、本人は、天国(または地獄)で、非常に、恥ずかしい思いをしていることを考えて、医療側は、家族とよく話し合って、対応をしていただきたいものです。
スウェーデンへ留学しておりました。
やはり寝たきり老人は存在せず、驚いておりました。
世界中からの留学生がいてディスカッションしたことを覚えています。
1、宗教観が違い、死に対する考えが違う。
キリスト教では脳死であり、意識がないことはたとえ息をしていても死である。当然、胃ろう、IVH等の行為は再生を妨げるため、悪であるとの認識があるようです。
2、最終決定権が医師にある。
治療決定をするときには頻回にディスカッションしますが、家族が延命治療を望んでも最終決定権が医師にあり、断ることができます。
いまの日本では延命治療はなくならないのではないでしょうか?
私の祖母は十年の闘病生活の末になくなりましたが、後半は発熱との戦いだったそうです。一時帰宅の許可が出ると熱が出て許可が撤回になってがっかりする、その繰り返しだったそうです。
そんな祖母は、胃ろうの手術後1ヶ月ほどで他界しました。その頃には認知症も進行していて、貯金も尽きて、胃ろうをする事で次の預け先が決まったから、という経緯があったと聞きます。
祖母に貯金がなければ、家族はもう少し早く胃ろうを選択していたんだそうです。
しかし、「胃ろうを選択しない」人が増えてくれば、そういう人のための施設やサービスが増えてくれるかな、と思います。問題提起ありがとうございます。
現在、胃ろうを選択されているかたの気持ちは敢えて考えずに、率直に言えば、胃ろうは「死亡」の診断を恐れる医療関係者、家族のためのものであって、胃ろうを施される人のためのものではないように感じます。
もっというならば、医者は自分の患者の「死」が負けであるかのように感じていて、患者の家族に「死なせない」方法を提示し、家族は目の前にある「死なせない」方法を放棄することが家族を見捨てる行為であるかのように感じてそれを選択してしまうのではないでしょうか。
もっとうがった見方をすれば、病院側にとっては胃ろうをすればずっと患者ですから、儲かるのかもしれません。
医者がその選択肢を患者の家族に提示することは、家族に生死を選択させるようなことで、酷な気がします。
食べられなくなり衰弱して死を迎えることは生命の自然な流れであることを理解させて、その心構えをさせてあげることが医者にしてほしいことだと思います。
私自身も胃ろうはしたくないし、親がその場面に直面しても断りたいと考えています。
心臓が動いてさえいればいい、とは思えないからです。
数年前に猛暑のパリで8000人近い老人が熱中症で亡くなりました。ニュースでは報道されましたが、日本なら政府がひっくり返るくらいの問題になったでしょうが、フランスでは社会問題にはなりませんでした。宮本先生のレポートを読み、なるほど、こういう基礎的な考えがあったのか―、と納得しました。
老人の養護施設へは何度もいったことがありますが、胃ろうを受け、殆ど意識もないような老人をみるのは耐えられない思いでした。聞けば、一端人工的な栄養補給を始めると、止めることが出来ないと言うことでした。また、人工的な呼吸、栄養補給などを行わないと「生かす努力をしない」など、患者の家族があとになって訴訟をちらつかせることもあるようです。
医療法などの問題もあるようですが、我が家では「口からものが食べられなくなったら、延命措置をとらないようキチンと書いておこう」と話し合っています。
先日、楢山節考を読み返しましたが、決して残酷なだけとは思いませんでした。遠野のデンデラ野も見方によれば悪くはないと思います。日本では誤った人道主義とかを振りかざす勢力が、却って自然の人間の営みや倫理観をゆがめているようにも思います。
父母の最期を看とった体験からいっても、「口から食べられなくなった」ら、もう解放してあげましょうよ、私にもそうして下さいませ」と、私も言いたいところです。
それこそ、まさに自然死でしょう? それでいいではありませんか?
父母の最期については、素人はその場では何が何だか分からないので、お医者さまの仰る通りにお任せしてしまいましたが、後になって、医療関係者が自分たちの責任逃れのために「最善を尽くしていた」のではないか、と考えずにはいられません。
老人の延命治療の医療費は、若い人たちのために使ってほしい!
宮本顕二氏の仰るとおりです。日本の医療は異常です。たぶん厚労省と日本医師会でそういう国民のコンセンサスに長い年月を掛けて誘導したのでしょう? そして今では莫大な医療費が社会保険から支払われている。赤字を補う為に消費税を上げようとしている。厚労省官僚と医業界と製薬業界を焼け太りさせる仕組みです。
私も、同じように考えております。夫にはそう話し、子どもがもう少し大きくなったら、その気持ちを話そうと思います。
日本の医学の力は有難いですが、家族の負担、そして、多くの若い世代の方々の負担を増す訳にはゆかないと思います。
人間、いつ、どうなるかわかりませんから、健康を気遣いながら、家族を思いやり、最善を尽くして「今」を精一杯生きたいと思います。
Facebookで上記のサイトを知り拝読させていただきました。日々、現場、特に在宅で診療にあたっている医師です。
ここまでがんばって人生を切り盛りしてきた80歳代、90歳代の方たちが、最後の最後に来て、それでも「がんばって」生き長らえさせられる状況に大きな違和感を感じます。そうして「生き長らえさせられた時間」は一体誰のためのものなのでしょうか。これまでの人生を振り返り、終末期に向けた準備を、本人も、家族も少しずつ行なっておくことが鍵のような気がします。命はいつまでもあるのではなく限られたものであること、生きている間にしかできないことを、生きている時間を大切に向きあうこと...往診や外来で関わりを持つ患者さんや、家族たちに「準備」をしていただくようお願いしていますが、なかなかピンとこないことも...30数年の間にあまりにも「非日常」と変わってしまった「死」は、本来、日常の中の一部であるはず。もう一度、日本人にとっての「生きること」「死ぬこと」に対する価値観、文化の醸成が求められているのだと思います。
私の父も一回目の脳梗塞で右半身が麻痺、失語症になり、リハビリで歩行できるようになりましたが、失語症は回復できませんでした。10年後に2度目の発作がで、寝たきり、意識がなく、胃ろう、点滴で延命してました。病院での治療は、薬だけで、特に治療はありませんでした。
3か月目に他の病院に移るよう催促され、2度、病院を移転しました。父が亡くなった最後の病院は、地獄ですね。もし父が意識があったら気が狂うのではと思う病院でした。意志表示が出来ないで胃ろう、点滴での延命治療なら、拒否したい。
身内には言っておきたいですね。安楽死の選択ができればいいかな?
私の母は現在91歳になり、介護施設に約7年間お世話になっています。痴呆症も患っており、何も分かりません。ただ、食べて、排出しているだけです。そんな母をみていると「命」ってなんだろうと、いつも考えさせられます。
私は自分で動けなくなったら、食べられなくなったら、笑顔が消えたら死んだ方がしあわせと確信しています。自分のため、そして家族のためでもあると考えます。
呼吸をしていれば「生きている」と言えるのでしょうか。できることなら、自分の最後くらいは自分で決めるような死に方をしたと思っております。
希望がなくなったとき、笑顔が亡くなったとき、医療の世話にならなければ生きていけなくなったとき、それは「新しい死のあり方」だと思います。
日本は先進国だと言われていますが、本当にそうでしょうか・・?
生きることへの願望は人以上に強いが自己の反省と責任は人任せなところが有り、これが先進国と言えるのでしょうか・・?
生きることとは、自力で生きる事なのに周りの色んな事で助けられていることを忘れてしまっている様で、それが当たり前と思っている。
違った発言すると非国民的な考え方と非難される。
人の命は尊いが余りにも過保護的に拘束をしてしまっているしか見えない。
父は多発性脳梗塞を起こし、鼻に管を通して栄養を入れる人工栄養で1年半の闘病生活を送りました。
胃潰瘍で胃の半分がなかった為、胃ろうが出来ませんでした。
誤嚥しないように、口からは1滴の水さえ含ませる事が出来ず、鼻から通したチューブのみ。人口呼吸も同時にしていました。
どんなにか苦しかったことでしょう。でも、家族にとっては、息をして生きていてくれさえすればいい・・その思いだけで父を繋ぎとめていました。鼻か繋がれたチューブだけで生きていた父。
父が亡くなって6年経ちます。
今も、あの苦しそうな顔をして、必死に私達家族の思いに堪えていてくれた父の顔が浮かんできます。
現役時代に毅然と仕事をしていた父。
父の尊厳を奪ったのは、父と離れたくない・・
そう思った私達家族の我がままだったのかもしれません。
父が亡くなった後、ベットサイドから腰紐が2本出てきました。主に24時間在宅看護をしていた母が、何時でも使えるようにと隠していた物でした。
寝たきり老人がいないということと、少ないということは同じではありません。90年代後半、ナーシングホームにおける寝たきり老人はおよそ4%であるという政府報告書があります。
通常、民族的な倫理間、道徳間は風習、宗教に根ざしている。基本的にインドから東と西では倫理観が大きく違うのだが、日本の場合、宗教的な心のよりどころが非常に薄いので個人の人権やら尊厳はほぼ存在しない。宗教の変わりに「世間体」が絶対であり個人の主観は二の次となっている。欧米のキリスト教に根ざした倫理観とは線を画する。
高齢者の末期患者延命治療はどれほど税金の負担が大きいのだろう。
日本が長寿国である理由がこの延命措置にあるとしたらなんとも複雑な心境になりますね。
胃ろうも両手拘束も初めて知りました。
結構衝撃です。
わたしも、もしその状況になったら希望しないですね。
植物状態の若年者について教えてください。
兄が10代前半の時、交通事故で、当時、植物人間(現在もこの表現は使われているか不明ですが)と言われる状態になり20年近く家族で面倒を見て看取りました。
結局、最後まで意識は戻らず口から食事もできませんでした。
私自身、家族もそれが正しかった事か納得ができる答えは出せていません。
兄がなくなってから父の認知症が発病しました。
父のを含めて延命処置の話をするのですが、結論が出ません、本人は延命処置はどちらかというと否定的だと感じますが、兄が生きているだけで家族の支えになっていたのは事実です。(私たちの場合経済的問題はなかったからかもしれませんが)母は父が兄のようになっても最後まで、面倒を見たいといいます。
最近、延命治療は家族のエゴなのかそれとも病人が最後にできる家族への恩返しなのかとも考えてしまいます。
10年ぐらい前、確か、アメリカで植物状態の人に栄養供給を止めて安楽死するニュースを目にしました。
兄の事を納得して前に進むためにも海外の例など教えてもらえれば幸いです。
全て欧米をまねる(学ぶ)必要はありませんが、寝たきり老人の問題については、はっきりしているのではないでしょうか。
安楽死とは違った範疇の問題ですが、人間の尊厳は人権のもっとも基本的な概念です。
医が算術になって久しい。寝たきり老人の問題は色んな原因と経緯があって現在に至っている。患者の親族にも大いに問題はあるが、責めは大方医者の側に帰する。
それなりの立場の人達(医者&僧侶)がもっと声高にこの寝たきり老人の問題について意見を述べないといけません。
死は忌むだけのものではありません。ある程度生きる事が出来た後は、死は解脱、解放なのです。
病院、医者に近寄らない方が良い、と思っているものです。還暦を過ぎたわが身にとって、早期発見は無用の長物です。手遅れとなって悩む事なく解脱、解放されたい。安楽死とは言わないが、痛み止めの薬を出してもらえればそれでよし、と閑雅ている次第です。
父はアルツハイマー型認知症です。グループホームで昨年11月より生活をしています。今年に入り誤嚥性肺炎により2度入院治療を行いました。経管栄養をしていましたが、手を使って抜くので、胃ろうの造設をいたしました。
内容はともかく、よくおしゃべりをし、動こうとする父に、延命措置を絶つ選択はとれません。症状がすすみ寝たきりであれば事態は変わるかもしれませんが・・・ その上、本人の兄弟6人すべてが存命です。やかましい外野を相手にするのはほとほと疲れます。こういう現状もあることを考えていただきたいと思います。工場に寝かされてるだけではないのです。
私も病院に勤めていますが、以前の急性期の病院では、何の疑問もなく胃ろうの患者さんを看てきました。しかし、今の病院にきて、寝たきり、胃ろうの患者さんの多さに驚きました。なぜこんなにしてまで生きなければならないのかと疑問に思うようになりました。
日本人は親にどんな形でも生きていて欲しいと考える子供が多いです。医師もこのまま死なせるわけにはいかないと、胃ろうを進めます。確かに、治療がなければ、入院していることが出来ない医療制度になっているので、そう進めるのは仕方のない事ですが、そのまま食べれなくなり、老衰のように死んでいくのは駄目でしょうか。麻痺が残り、ご飯が食べれなくなれば、それまで。それでは駄目でしょうか。私の親はそれを望んでいますし、私もそうしてあげたいと思っています。日本の医療がもっと良い方向に向かって欲しいと思います。 また、一般人ももう少し先の事を家族で話し合う機会を作って欲しいと願います。
私は寝たきり老人を作る事を医師法・健康保険法で制限すべきだと思います。
現在を考えると日本の老人病院が寝たきり老人製造機となっていると思います。
医師が医療を考えれば自然に世界基準と進んでいくと思います。
企業家と化した医師が寝たきり老人を作り、人間の尊厳を踏みにじっていると考えます。
私の父も後1週間の余命と言われてから病院で鼻へ管を入れられました。入院時、除痛はお願いしましたが延命治療はしないように申し出をしました。幸い? 鼻出血がひどく鼻に管はできませんでしたが病院とはそんなものかと思いました。
「もう死ぬのだから」医師の判断でなんでも行う。いやな思いをしました。
静かに最後のときを迎えることを本人も家族も望んでいても、なかなか難しい問題です。
私は、家族に囲まれできれば自宅でそのときを迎えたいと思いますが医師の協力がなければ無理だと思います。
日本医師会は医師の生活レベルは一般人は数段高いレベルにあることを肝に銘じていただきたいと思います。いい意味の選民思想を持っていただき国民全体の生活を守っていただきたい。
胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は双方が不幸でしょう。
大往生したけりゃ医療とかかわるな。「自然死のすすめ」中村仁一著幻冬舎新書新刊247は、医師としても、一般人としても一応は読むべき書物かと考えます。私個人、長らく脳神経外科医師としてつくづく、そのように思うことがありました。
但し、これもケースバイケースでありまして、医師のみが考えることではなく、国民全体がある程度のディスカッションの末にコンセンサスを得てからの方が良いと思います。今の現状では、医師が訴えられたり、訴えられぬにしても色々な非難の対象にされたりしかねません。
脳死の患者の臓器移植、認知症患者をターミナルケアを別枠の因子にて考える、望みのない悪性腫瘍患者のターミナルケアも、皆が一応は考えてみることでしょう。ターミナルケアを、医師は何度もみてきたもの、患者の家族は身内の死を直前にするのも始めての経験かも知れません。気管内挿管、気管切開、人工呼吸器装着、心臓マッサージ、胃ろう造設の決定を家族にさせることの意味が果たして重要なことか否か、中におかしな医師も混じっているのがこの決定をすんなりと決められない要素なのでしょうが。
意見の半分はその通りです。
しかし、残りの半分の大切な部分が欠けています。
いわゆる北欧で延命治療が行われていないのは、その費用が賄えない、はっきり言えば無駄だと考えているからです。所得税が50%以上あろうと、現在の北欧の度外れた社会保障を維持するのは限界があります。その為には、老人には早く世を去ってもらいたいのです。
その点を述べない北欧福祉論は良いとこ取りのまやかしです。
先生のおっしゃる通りだと思います。
生物は生まれたときから死ぬことが定められている。死ぬときは食べ物を自らの力で摂取できなくなったときである。自らの手で食べ物をつかみ、自らの口に運び、自らの咀嚼で飲み込む。この一連の動作ができなくなったときに私は死ぬ。それは明日かも知れないし、明後日かもしれない。しかし、それが私にとって一番望む死に方である。
しっかりと事実を提示し、わかり易く、端的な説明で重厚な問題を明らかにしながらしっかりと提言されているすばらしい文章です。結論には100%賛同申し上げます。
自分の親族も意識障害で寝たきり状態で、まさに尊厳、と言うことを考えるとこれでいいものかと疑問に思います。
さらに医療費と言うことからすると、本人の年金で100%賄われている状態なのですが、そういったお金は社会のために他にもっと良い使われ方があるのでは、とも考えてしまいます。
大変に参考になりました。ありがとうございました。
中村仁一氏がテレビや雑誌で書いていることの大切さを再認識します。
医療制度といつかは必ず訪れる死に対する考えを考える時期に来ているのだと思います。
終末期医療という言葉そのものが良くないのではと思います。
欧米に寝たきり老人が居ないということは当然で、人間の尊厳がしっかりと認識されているからだと思います。
我が家でも大人8名の意見が一致しています。
人口呼吸器の延命は拒否+口から食べモノが食べられなくなればそれ以上の延命治療は行わないということで、親子間の意思統一が出来ています。
医療機関の金儲け、或いは臆病な医者による延命処置は、マスコミ等の誤った人間愛による報道が大きな影響を及ぼしているものと思われます。
助かる可能性がゼロの場合は尊厳死を認めるべきで有るとも考えていますが如何でしょうか。
殺人であると訴訟を起こす医者も医者ですが、裁判所もきちんと意思統一をするべきですし、政治もしっかりとバックアップするべきだと思います。
ある本によると、仏では自分の手で食事が食べられなくなると、牧師の出番になる。書いてあった。
欧米に寝たきり老人がいないという記事を読み賛同するとともに拍手を送ります。もちろん一人ひとりの人生観が異なるのは当然ですが自分がもし、そうなったとしたら自然な終焉に向かいたいと思いますし、そう考えている高齢者は多いと認識しています。
人の死は一括りにできることではありません。
ですからこそ、一人ひとりがきちんと自分の最後をどう迎えたいかを考えておくことが必要です。
私は60代半ばシングルですが、延命処置はしないでほしい旨、明確にしています。
誤解を恐れずに言うなら意識もなく医療の力のみで生命を維持していることが生きているとは私には思えないのです。