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私とハルヒ「涼宮ハルヒの驚愕」感想


涼宮ハルヒの驚愕 初回限定版(64ページオールカラー特製小冊子付き) (角川スニーカー文庫)涼宮ハルヒの驚愕 初回限定版(64ページオールカラー特製小冊子付き) (角川スニーカー文庫)
(2011/05/25)
谷川 流

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「涼宮ハルヒの驚愕」を読了しました。
サイとです。
以下、語感、いや、感情を優先してありのままに書きますことをお許しください。


上下巻+小冊子を読み終えたのは夜を迎えてからのことで、私は今作についてどのような感想を残そうか考えながら風呂に浸かっていたのだが、これまで私が綴ってきた感想というものは作品にケチを付ける狭量で、感情的な吐露でしたかなかったと思う。


今回もまた、同じように感情的な吐露でしかないのだが。
ただし、ケチを付けるということはするはずもないのだ。
私はこの作品を確実に面白いと感じているのだから。


ネタバレは避けられないので、以下の文は収納させていただく。
○はじめに
FC2ブログで私は個人的に思うことのありったけをぶちまける感想をつらつらと書いていて、この行為を今になって振り返ってみると果たして私は感想を書いていたのか疑問に思うことがある。


いや、私のこの思いは別の誰かの意思によるものなのではないか、というようなアクロバッティックで哲学的な発想をしているというわけではなくて、単純に辞書的な意味での「感想」であり、それとは程遠い、印象批評や解説と言ったものをどうやら量産していたようなのだ。


ネットの浮遊する情報をこれでもかと掻き集めたカオスを、巧い具合に繋ぎ合わせてキメラを作り出す行為に私は明け暮れており、もしもそこに批評家としての分別と言うものが存在していたのならば、そのような他人の意見を借りてでっち上げた文章を感想と触れ散らすことはなかったはずだ。


繰り返すが、私は感想というものを書いていなかったのだ。
そこで、どのようにしたら純然たる「感想」を書けるのだろうかと考え、今作「涼宮ハルヒの驚愕」という「涼宮ハルヒ」シリーズの最新作を通して、自分というものを見返してみようと思うに至り、筆を執っている。


この後の文章も上記のように冗長で語られていくが、私という人物がいかに無駄の多くて煩雑な脳みその持ち主であることが分かると思われる。
少しはウィットも織り交ぜつつ文を連ねるので、お時間に余裕があればぜひ読んでいただきたい。


○「涼宮ハルヒの驚愕」読了−捕捉された感情はハルヒ世界へ
ありがとうございます、谷川流先生。
下巻、読了したと気付くにはいささか余韻の少ない一文で終わる。
その一文はまた波乱溢れる非日常的な日々の始まりを告げるセリフであった。


涼宮ハルヒの驚愕(後)281p

「そのための事前作戦会議を、ここに始めます!」




我らがセカイの中心・涼宮ハルヒの宣言とともに〆られた。
私の予想ではキョンの独白とともに適当に慮るほどのとりとめもない一文で終わるものだと思っていたが、裏腹に明朗少女の青春の一ページを開拓する言葉で終わるというのはなかなか意表を突かれた。


どうしようもない日常に引き戻されるような感覚から、いきなり現実へと引き戻されたような感覚にすり替わっていたのは新鮮だった。
その後に上巻では掲載していなかったあとがきの谷川流先生の言葉に胸を踊らせつつ、急に書けなくなることはあるよねーだとか、いえいえどんなに遅れてもいいから続編を出していただければ感謝カンゲキ雨あられでありますだとか、別に会話を交わしたこともない作者に妙な親近感を抱いていたのは興奮していたからに他ならない。


私は基本的にあとがきを読んで、言い訳を聞かされているような気持ちに高確率でなるので、その度に作者を侮蔑しているのだが、間違えても興奮しながらあとがきにツッコミを入れることはほとんどないと言っていい。


冷めやらぬ興奮のままあとがきに不時着したのも余韻を残さぬ最後の一文に原因がある。
「涼宮ハルヒの憂鬱」と言えばメタフィクション、メタSFなどといったメタという言葉が飛び交うが、このメタの範囲に私自身が捕らえられたような感覚に陥ったのだ。


この私の生きている世界はハルヒたちの生きているセカイのメタにあるんだな、というような感じで、メタの対義語があればハルヒたちの世界は私たちの世界の【メタの対義語】であると明確に言える。


国木田の講説である陽子と陽子の関係から、ハルヒとキョンを互いに陽子と捉え、しかし相互にくっつき合う理由に素粒子としてのSOS団を挙げるところ辺りからハルヒ世界のメタに捕捉された私たちの世界という考えに行き着く経緯があったかもしれない。


しかし、これは理由ではなく一因だろう。
端的に心が思うがままに要約すれば、私は途方も無いくらいに感情移入から抜け出せていないだけなのだ。
余韻が未だに胸に残っているだけなのだ。


余韻が少ないと始めに書いたのは読み終わってすぐの、あとがきを読んでいる間の感情だ。
思い返せば思い返すほど、余韻が溢れてくる。
今や、私はハルヒ世界に捕捉されていると言っても過言じゃないくらいにだ。


普段ならとんちんかんな考察を並べ立てるだけの代物で、似非感想ブログに駄文を重ねるだけなのだが、今回は感情の発露を丁寧につまんでここに記しているのだから、それだけでも今作品の私への影響力は相当なものだったと物語っている。


○憂鬱溜息退屈消失暴走動揺陰謀憤慨分裂驚愕−私とハルヒの歴史
シリーズを一から振り返ってみる試みも面白いが、時間の都合と私の気まぐれで割愛する。
殊更振り返るべきは第一巻「涼宮ハルヒの憂鬱」との邂逅、第四巻「涼宮ハルヒの消失」における変化、第九巻「涼宮ハルヒの分裂」から第十巻第十一巻「涼宮ハルヒの驚愕」までの道程についてお話しよう。


まずはハルヒとの出会いだが、これまた面白くない一般的な出会い方だ。
いや、出会いは必然であったかもしれない。
なぜなら、私は初めて読んだ作品が「灼眼のシャナ」で、読むに至った経緯は表紙買いだからだ。


前の記事で表紙買いはよくないようなことを書いたが、結局私という奴は目先の萌えにまっしぐらに突撃する本能を有しているのだ。
しかも、絵師目当てで。


そう、私とハルヒの一般的な出会いは絵師・いとうのいぢ氏あってのことだった。
当時は文庫本とマンガの違いも分からぬガキンチョで、表紙にマンガ調のイラストが描かれているものはすべてマンガであると思い込んでおり、そのような思考回路が私をハルヒに引き合わせたのだろう。


読んでみると、なんとまあSFチックな物語で心踊らせたものだ。
この作品は面白いと少ないボキャブラリーで満足を示し、それっきり二巻は読んでいなかった。
これについては今もなのだが、私はシリーズで作品を読むことが苦手で、小説の楽しみ方を物語を追う劇場ではなく、多様な発想を提供してくれる図書館のように思っている節があるからだと解釈している。


シャナによって現実では役に立たない不要なボキャブラリーを蓄積しつつ、3年ほど経過するとあの時に面白いと思った「涼宮ハルヒの憂鬱」がアニメになるというではないか。
ここでもシャナによって深夜アニメ界隈に堕ちた私は話題に流されて未読であった二巻以降を読むことを決心する。


こうして私は「涼宮ハルヒの消失」に出会うのである。
表紙が朝倉だったのも衝撃的だったが、ポーズが第一巻表紙のハルヒと対照的だったことに示唆的というか、何か思惑があるのではないかと深読みをさせられたものだ。


中を開いてみれば、長門が可愛かった。
私はエヴァではアスカ派であったし、シャナでツンデレ信仰者となっており、どう考えてもハルヒが一番に可愛いと考えていたのだが、ハルヒがほとんど出てこない話に面を喰らって、ハルヒ消失世界における長門の可愛さに豆鉄砲を食らわせてもらった。


こういうのカウンターアタックとか言うんだと思うけど、この場合はギャップという言葉が相応しかろう。
また、このギャップ、食い違いこそが本作最大の鍵であったことも忘れてはいけない。
なんとなく萌えという固形燃料の導火線に火がついたのはこの辺だ。


ネットが普及し始め、我が家にも導入されたディスプレイが薄型のパーソナルコンピュータは長門の可愛さを全面に押し出す風潮であり、片っぱしから壁紙やらアイコンやらを集めた気がする。


アニメが放送され、挙句の果てには社会現象にまで発展しており、秋葉原とか言う聖地でダンスパーティがやってることもお茶の間に流れていた。
私はハルヒには驚かされるばかりだと感慨深くなり始めていた。


私が「らき☆すた」にハマっていると、いつの間にか「涼宮ハルヒの分裂」が発売されていた。
これまで随分、執着してたしていたハルヒも多大な作品群の一つに過ぎず、ゾンザイな扱いを受けながらも私は「分裂」を読んだのであった。


そして、四年もの月日が流れた。


次の巻は出るのか、作者は生きているのか、新情報は新刊じゃなくてアニメかゲームで、たまに谷川流先生の名前を見かけてもハルヒ関連ではないことは一目瞭然で、いったいいつになるのやらと思っていた矢先、かつてご執心の「涼宮ハルヒの消失」が晴れて映画化した。


続けざまに「涼宮ハルヒの驚愕」の発表がされ、私の血流は滝のごとく早まったのは記憶に新しい。
こうして、2011年5月25日へ至るのである。


そして、私にとって最大の驚愕と言えば、「消失」で愛し抜いた長門の出番がほとんどない内容だったことは言うまでもない。


○おわりに
この段階で「おわりに」を出してしまうのはかなり分量としては足りない記事だということが窺えるだろう。
しかも記事の半分が驚愕に至るまでの過去を語るだけの記事であった。


もちろん驚愕の内容そのものになんとでも書くことはできる。
それぞれ見所のシーンと、分裂を示唆するような文章など語りたいことはいくつもあるのだ。
しかし、この記事を純然たる感想として成り立たせるためにはこれ以上の言及は私の今の実力では難しい。


同時に私はこの感想を書くにあたって、他人の感想、ネットに漂遊しているコメントにも一切目を通さず、頑なに独りを貫いていた。
「驚愕」について次に記事を書く予定は大有りなのだが、もうそれは感想ではなく考察であったり、印象批評の領域に足を踏み入れた記事となるだろう。


一応、これでここで書ける分だけは書かせていただいた。
本来なら余韻は胸に閉まっておいて、そのまま眠りに就きたいのだ。
私は情動的に感想を書くなどという天才ではない。だからこそ、だ。


感想らしい感想を私は書けたと満足している。
もしかすると私は言い知れぬ余韻を眠りによってあやふやにするのではなく、言語化することでモヤモヤを解決しようとしたのかもしれない。


うん。
もうこれだけ語らせてもらったら、言うことは一つしかないよ。


この記事を最後まで読んでくれた人――、
「涼宮ハルヒの驚愕」を作ることに携わった人――、
いとうのいぢ先生と、そして、谷川流先生へ。


ありがとうございます!


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


キモオタみたいな記事ですよね。
私の周りにはこういう記事を書く人ばかりですが、誰とは言いません。
キモオタってある意味一途な人間だからどこか世慣れした大人の汚さがないんですよね。
まあ、そこが見た目とのギャップのせいできもがられる原因だと思うんですけど。
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[ 2012/03/23 00:00 ] ラノベ感想 さ行のラノベ | TB(0) | CM(0)

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