ソードアート・オンライン 外伝4 『絶剣』
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明日奈は手の中の紙片に目を落とすと、そこに手書きで記された名前と、眼前に横たわる巨大な建築物の壁面に立体的に浮き出た名前が同一であることを確かめた。 横浜市都筑区。緑の多い丘の間に抱かれるように、その建物はあった。背が低いかわりに両翼がたっぷりと広がった設計や、周囲の丘陵ののどかな佇まいを見ていると、とてもここが首都圏とは思えないが、明日奈の家がある世田谷からは東急線を使って30分もかからなかった。 建物はまだ新しく、冬の低い日差しを浴びて茶色いタイルの壁面をきらきらと光らせている。自分が長いあいだ眠っていたあの場所によく似ているな、と思いながら、明日奈はメモをポケットに仕舞った。 「ここにいるの、ユウキ……?」 小さな声で呟く。会いたい、と思う反面、ここにあの少女が居なければいい、とも考えてしまう。 わずかに逡巡したあと、明日奈は制服の上に着たコートの襟をかき合わせて、正面エントランス目指して足早に歩きはじめた。
"絶剣"ユウキがアインクラッドから消えてから、すでに三日が経過していた。最後の瞬間、剣士の碑のまえで彼女が見せた涙は、まだ明日奈のまぶたに焼き付いている。このまま忘れてしまうことなど、到底できそうになかった。どうしてももう一度会って、話をしたかった。しかし、送ったメッセージは、すべて送信相手がログインしていません、というリプライを返してきたし、開封された様子もなかった。 スリーピングナイツの仲間たちなら、ユウキの居場所を知っているはず、とも思ったのだが、二日前、溜まり場になっていたロンバールの酒場でひとりアスナを迎えたシーエンは、睫毛を伏せて首を振った。 「私たちも、ユウキと連絡が取れないのです。ALOだけでなく、他のVR世界にもログインしている様子はありませんし、現実世界の彼女について知っていることもほとんどありません。それに……」 シーエンはそこで言葉を切り、どこか気遣わしそうな視線でアスナを見た。 「アスナさん。たぶん、ユウキは再会を望んでいないと思います。誰でもない、あなたのために」 アスナは愕然として言葉を失った。数秒たってから、どうにか声を絞り出した。 「な……なんで? ううん……何となく、ユウキやシーエンたちが、わたしと必要以上に関わらないように線を引いてるのはわかってた。わたしのことが迷惑だっていうなら、もう追いかけないよ。でも……わたしのため、って言われても納得できない」 「迷惑なんて……」 いつも静謐な態度を崩さないシーエンが、珍しく表情を歪め、激しく首を左右に振った。 「私たちは、あなたと出会えたことを本当に嬉しく思っています。この世界で、最後にとても素敵な思い出が作れたのはアスナさんのお陰です。どんなに感謝してもし足りません。でも……どうか、お願いですから、これで私達のことは忘れてほしいのです」 そこで言葉を切り、左手を振ってウインドウを操作した。アスナの前に、小さなトレードウインドウが現われた。 「予定には少し早いのですが、スリーピング・ナイツは解散することになると思います。アスナさんへのお礼は、ここにまとめてあります。この間のボスからドロップしたものと、私達の全ての所持アイテムを……」 「い……いらない。受け取れないよ」 アスナは指先を叩きつけるようにウインドウをキャンセルし、一歩シーエンに歩み寄った。 「本当に、これでお別れなの? わたし……ユウキや、シーエンや、みんなのことが好き。ギルドは解散しても、友達としてずっと仲良くしていけると思ってた。でも、そう思ってたのはわたしだけなの……?」 これまでのアスナなら、絶対に口にしないような言葉だった。しかし、ユウキたちと行動を共にしたたった数日のうちに、アスナは少しずつ自分が変わりつつあるのを感じていた。だからこそ、みんなと別れるのは嫌だった。 しかし、シーエンは顔を伏せ、頭を振るだけだった。 「ごめんなさい……ごめんなさい。でも、こうしたほうがいいんです。ここで、別れたほうが……」 そして彼女もウインドウのボタンを押し、ログアウトした。シーエンや、ジュンやノリたち他のメンバーも、それきりALOにログインしてくることは無かった。 たった三日間の付き合いだ。それで友達になったつもりだったアスナが間違っているのかもしれなかった。しかし、スリーピングナイツの面々は、アスナの心の奥深くに拭いきれない印象を残していった。このまま忘れることなど、絶対にできそうになかった。 シーエンと会った翌日には、三学期が始まったのだが、久々にリアル世界でキリト――和人やリズベット達と会っても、明日奈の心はどこか沈んだままだった。気がつくと、瞼の裏、鼓膜の奥に、ユウキの笑顔を甦らせているのだった。姉ちゃん、とユウキは明日奈のことを呼んだ。それに気付いて、彼女は涙を流した。その理由をどうしても知りたかった。 そして昨日。昼休みに、明日奈は『屋上で待ってる』という和人からのメールを受け取った。 冷たい風が吹き渡っていくコンクリート剥き出しの屋上で、空気循環用の太いパイプに寄りかかって、和人は明日奈を待っていた。近づくアスナを、じっと――シーエンと同じような――気遣わしげな視線で見つめたあと、和人は唐突に言った。 「どうしても、絶剣に会いたいのか」 「……うん」 こくりと、深く明日奈は頷いた。 「会わないほうがいい、と言われたんだろう? それでも?」 「うん、それでも。わたし、どうしてももういちど会って話したい。話さないとだめなの」 「そうか」 短く答えて、和人は明日奈に小さな紙片を差し出した。 「え……?」 「あくまで可能性だ。それも、50%くらいの……でも、俺は、絶剣はそこにいると思う」 「ど……どうして、キリト君にわかったの……?」 メモを受け取りながら、明日奈は呆気に取られて訊ねた。和人はすっと視線を空に向け、呟いた。 「そこが、日本で唯一、『メディキュボイド』の臨床試験をしている場所だからだ」 「メディ……キュボイド?」 聞きなれない、不思議な単語を繰り返しながら、明日奈は紙片を開いた。 そこには、横浜港北総合病院、という名前と地番が小さな文字で書かれていた。
綺麗に磨かれたガラスの二重自動ドアをくぐり、たっぷりと採光されたエントランスに踏み込むと、どこか懐かしい消毒薬の匂いがかすかに漂った。 小さな子供を抱いた母親や、車椅子の老人がゆっくりと行き交う静かな空間を横切って、明日奈は面会受付カウンターへ向かった。 窓口横に備えられた用紙に住所氏名を書き込み、面会を希望する相手の名前を書く欄で、手が止まる。明日奈が知っているのはユウキという名前だけだし、それすらも本名かどうかはわからない。和人からは、たとえそこに彼女がいてもそれを確認できるかどうか、面会できるかどうかはわからない、と言われていたが、ここまで来て諦めるわけにはいかなかった。意を決して、用紙を持って窓口へと向かう。 カウンターの向こうで端末を操作していた白いユニフォームの女性看護師は、明日奈が近づく気配に顔を上げた。 「面会ですね?」 笑顔とともに発せられた質問に、ぎこちなく頷く。一部空欄の申請用紙を差し出しながら、明日奈は言った。 「ええと……面会したいんですが、相手の名前がわからないんです」 「はい?」 訝しそうに眉を寄せる看護師に向かって、懸命に言葉を探す。 「たぶん十五歳前後の女の子で、もしかしたら名前は『ユウキ』かもしれないんですが、違うかもしれません」 「ここには沢山の入院患者さんがいらっしゃいますから、それだけではわかりませんよ」 「ええと……ここで試験中の『メディキュボイド』を使ってる方だと思うんですが」 「ですから、患者さんのプライバシーに関しては……」 その時、カウンターの奥にいたもうひとりの看護師がすっと顔を上げると、じっと明日奈の顔を見た。次いで、明日奈の相手をしていた看護師に向かって、何事か耳打ちをする。 最初の看護師は、ぱちぱちと瞬きし、あらためて明日奈を見上げてから先ほどとは微妙に異なる口調で言った。 「失礼ですがあなた、お名前は?」 「あ、ええと、結城、明日奈と言います」 答えながら、申請用紙を滑らせるように差し出す。看護師は用紙を受け取ると目を落とし、それから奥の同僚に渡した。 「何か身分証を拝見できますか?」 「は、はい」 慌ててコートの内ポケットから財布を取り出し、学生証を抜いて提示する。看護師はカード上の写真と明日奈の顔を仔細に見比べたあと、軽く頷き、しばらくお待ちくださいと言って傍らの受話器を取り上げた。 内線でどこかに掛けたらしく、二、三小声でやり取りしてから、明日奈に向き直る。 「第二内科の倉橋先生がお会いになります。正面のエレベータで4階に上がってから、右手に進んで、受付にこれを出してください」 差し出されたトレイから、学生証ともう一枚銀色のカードを取り上げ、明日奈はぺこりと頭を下げた。 四階受付前のベンチで更に15分近く待たされてから、明日奈は足早に近寄ってくる白衣の姿に気付いた。 「やあ、ごめんなさい、申し訳ない。すみません、お待たせして」 妙な詫び方をしながら会釈したのは、小柄ですこし肉付きのいい男性医師だった。おそらく三十代前半だろうか、つやつやと広い額の上で髪をきっちり七三に分け、縁の太い眼鏡を掛けている。 明日奈は慌てて立ち上がると、深く頭を下げた。 「と、とんでもない。こちらこそ急にお邪魔してしまって。あの、わたしならいくらでも待てますけれど」 「いえいえ、今日の午後は当番じゃないですから、ちょうどよかった。ええと、結城明日奈さん、ですね?」 やや垂れぎみの目をにこにこと細めながら、男性医師は軽く首をかたむけた。 「はい。結城です」 「僕は倉橋といいます。紺野くんの主治医をしております。よく訪ねてきてくれました」 「こんの……さん?」 「ああ、そうでした。紺野ユウキくんです。ユウキは、草木の木に綿、季節の季と書くんですがね。木綿季くんは、ここのところ毎日、明日奈さんの話ばかりしていますよ。あ、すみませんつい、木綿季くんがそう呼ぶもので」 「いえ、明日奈でいいです」 微笑みながら答えると、倉橋医師も照れたように笑い、右手でエレベータのほうを指し示した。 「立ち話もなんですので、二階のラウンジに行きましょう」 案内された、広々とした待合スペースの奥まった席に、明日奈と医師は向かい合って座った。大きなガラス窓からは、病院の広大な敷地と、周囲の緑を遠く望むことができる。周囲に人影は少なく、遠くから伝わってくるホワイトノイズだけが空気をかすかに揺らしている。 明日奈は、心の中で溢れかえるような疑問の数々を、どこから口にしたものか迷っていた。が、先に倉橋医師が沈黙を破った。 「明日奈さんは、木綿季くんとVRワールドで知り合ったんですよね? 彼女が、この病院のことを話したんですか?」 「あ、いいえ……そういう訳ではないんですが……」 「ほう、それでよくここが分かりましたね。いやね、木綿季くんが、もしかしたら結城明日奈さんという人が面会にくるかもしれないから、受付にその旨伝えておいてくれと言うものだから、病院のことを教えたのかと驚いたらそうじゃないと言う。じゃあこの場所がわかるわけないよ、と僕は答えたんですが、さっき受付から連絡がきたときは、いや驚きましたよ」 「あの……木綿季さんは、わたしのことを話したんですか……?」 なら嫌われたわけじゃないのかな、という安堵で胸のおくがほっと温かくなるのを感じながら明日奈は訊いた。 「それはもう。ここ四、五日は、僕との面談では明日奈さんの話ばかりですよ。ただね、木綿季くん、あなたの話をしたあとは決まって大泣きしてね。自分のことでは決して弱音を吐かない子なんだが」 「えっ……な、なんで……」 「もっと仲良くなりたい、でもなれない、会いたい、けどもう会えないと言うんです。その気持ちは……わからなくもないんだが……」 そこで初めて、倉橋医師はわずかに沈痛な顔を見せた。明日奈は深く一呼吸してから、急き込むように尋ねた。 「木綿季さんも、彼女の仲間たちも、中……VRワールドで私にそう言いました。何故なんです!? 何故もう会えないんですか!?」 メモに病院の名前を見たときから、じわじわと膨らみつつある危惧のかたまりを飲み込みながら明日奈が身を乗り出すと、倉橋医師はしばらく無言のまま、テーブルの上で組み合わせた両手に視線を落としていたが、やがて静かに答えた。 「それでは、まず、メディキュボイドの話からはじめましょうか。明日奈さんは、勿論アミュスフィアのユーザーなんですよね?」 「え……ええ、そうです」 青年医師は、ひとつ頷くと顔を上げ、言った。 「僕はね、NERDLES技術がそもそもアミューズメント用途に開発されたことが残念でならないのです」 「え……?」 「あのテクノロジーは、最初から医療目的に研究されるべきでした。そうすれば、現状はあと一年、いや二年分は進んでいたはずです」 思わぬ話の成り行きに戸惑う明日奈に向かって、医師は指を立ててみせた。 「考えてください。アミュスフィアのもたらす環境が、どれほど医療の現場で有効に機能するか。例えば、視覚や聴覚に障碍をもつ人たちにとっては、あの機械はまさに福音なんですよ。先天的に脳に機能障害がある場合は残念ながら除外されますが、眼球から視神経に異常があっても、アミュスフィアなら直接脳に映像を送り込めるわけです。聴覚の場合も同様です。光や音をまったく知らずに育った人たちでも、今やあの機械を使うことで、ほんとうの風景というものに触れられるようになったのです」 熱っぽく語る倉橋医師のことばに、明日奈はこくりと頷いた。アミュスフィアがそのような分野で広く活用されるようになったのは、そう最近のことではない。いずれヘッドギアが更に小型化され、専用のレンズと組み合わせれば、視覚障碍者も晴眼者とまったく同じように生活を送れるようになると言われている。 「また、有用なのは信号伝達機能だけではありません。アミュスフィアには、体感覚キャンセル機能もありますよね」 医師は指先で自分のうなじの部分を叩いた。 「ここに電磁パルスを送ることで、一時的に神経を麻痺させるわけです。つまり、全身麻酔と同じ効果がある。例えば手術時にアミュスフィアを用いることで、ある程度の危険がある麻酔薬の使用を回避できると考えられています」 いつの間にか医師の話に引き込まれていた明日奈は、頷いてからふと気付き、首を横に振った。 「ええ……いえ、それは無理じゃないですか? アミュスフィアでインタラプトできる感覚レベルはごく低いものに限られています。体にメスを入れるような激痛を消去することは、アミュスフィアには、いえ、初代機――ナーヴギアにも出来ないと思いますし……たとえ延髄でキャンセルしても、体の神経は生きているわけですから、脊髄反射は残るのでは……?」 「そう、そうです」 倉橋医師は、意を得たりというように何度も首を動かした。 「まったくその通りです。それにアミュスフィアは電磁パルスの出力も弱いし、処理速度も遅いので、応答性に多少の問題があります。VR世界に長時間ダイブするならそれでもいいのですが、レンズと組み合わせてリアルタイムに現実環境と同期させることは難しい。そこで現在、国レベルで開発が急がれているのが、世界初の医療用NERDLES機器――メディキュボイドなのです」 「メディキュ……ボイド」 「まだ仮称ですがね。要は、アミュスフィアの出力を強化し、パルス発生素子を数倍に増やし、処理速度を引き上げ、また脳から脊髄全体をカバーできるようベッドと一体化したものです。見た目はただの白い箱なのでキュボイド……直方体と呼ばれています。これが実用化され、多くの病院に配備されれば、医療は劇的に変わりますよ。麻酔はほとんどの手術で不要となりますし、また現在ロックトイン状態と診断されている患者さんともコミュニケートできるようになるかもしれません」 「ロックトイン……?」 「ああ――閉じ込め症候群、と呼ばれる状態ですね。脳の、思考する部分は正常なのだが、体を制御する部分に障害があり、意思を表すことができない状態です。メディキュボイドなら脳の深部までリンクすることができますからね、たとえ体が動かなくても、VRワールドを利用して社会復帰できる可能性すらあるのです」 「なるほど……つまり、ただVRゲームを遊ぶためのアミュスフィアよりも、ずっと本当の意味での、夢の機械、なんですね」 頷きながら何気なく明日奈はそう口にした。しかし、それを聞いた途端、まさに夢について語っていた風の倉橋医師は、急に現実に引き戻されたかのように口を閉じ、わずかに表情を暗くした。眼鏡を外し、目蓋を閉じて、深く長く嘆息する。 やがて、小さく首を左右に振りながら、医師はどこか悲しそうに微笑んだ。 「ええ、まさに夢の機械です。しかし……機械には、当然限界がある。メディキュボイドが、最も期待されている分野のひとつ……それは、ターミナル・ケアなのです」 「ターミナル・ケア……」 聞きなれない英単語を鸚鵡返しに口にする。 「漢字では、終末期医療、と書きます」 その言葉の響きに、明日奈は冷水を浴びせられたような思いを味わった。絶句し、目を見開く明日奈に向かって、眼鏡を掛けなおした倉橋医師はどこかいたわるような眼差しを向け、言った。 「あなたは、後で、ここで話を止めておけばよかったと思うかもしれません。その選択をしても、誰もあなたを責めません。木綿季くんも、彼女の仲間たちも、本当にあなたのことを思いやっているのですよ」 だが、明日奈は迷わなかった。どんな現実を告げられても、それを正面から受け止めようと思ったし、またそうしなければいけないという思いもあった。明日奈は顔を上げると、はっきりした声で言った。 「いえ……続けてください。お願いいします。わたしはそのためにここに来たんですから」 「そうですか」 倉橋医師は再び微笑むと、大きく頷いた。 「木綿季くんからは、明日奈さんが望めば、彼女に関する全てを伝えてほしいと言われています。木綿季くんの病室は中央棟の六階にあります。少し遠いので、歩きながら話しましょう」 ラウンジを出て、エレベーターを目指す医師の後について歩きながら、明日奈は頭のなかで何度も同じ言葉を繰り返していた。 終末期。終末。その言葉がなにを指すのかは、単純なまでに明白なような気もしたし、まさかそんなはずはない、「そのこと」を示すのにそんな直裁な単語を用いるわけがないと打ち消す気持ちもあった。 ただひとつはっきりしているのは、自分が、これから明らかにされる真実を、正面からすべて受け止めなくてはならないということだった。ユウキは明日奈にそれができると信じたからこそ、彼女の現実へと踏み込むことを許してくれたのだ。 中央棟2階のロビーに三機並んだエレベーターの、ドアのあいだに設置されたパネルの上部に医師が手をかざすと、直接触れていないのに上向きの三角印が青く灯った。すぐにポーンと穏やかなチャイムが鳴り、右端の扉がスライドした。 白い光が溢れる箱に乗り込み、再び医師が内部のパネルに指を近づけるとドアが閉まった。作動音も、Gの変化もほとんど感じさせないままに、エレベーターが上昇を始める。 「ウインドウ・ピリオド、という言葉を聞いたことはありますか?」 不意に倉橋医師に尋ねられ、明日奈は瞬きして記憶のインデックスを探った。 「たしか……保健の授業で教わったと思います。ウイルスの……感染に関することですか?」 「そのとおりです。たとえば人間が何らかのウイルスに感染したと疑われる場合、主に血液を検査するわけですよね。検査の方法としては、血液中のウイルスに対する抗体を調べる抗原抗体検査、そしてより感度の高い、ウイルス自体のDNA・RNAを増幅して調べるNAT検査があるわけですが、そのNAT検査を用いても、感染直後から十日前後はウイルスを検出できないのです。その期間を、ウインドウ・ピリオドと呼びます」 医師はそこで言葉を切った。直後、かすかな減速感が訪れ、チャイムとともにドアが開いた。 最上階となる六階は、部外者の立ち入りは制限されているらしく、降りてすぐ正面にものものしいゲートが設置されていた。医師が胸からネームプレートを外してゲート脇のセンサーに近づけると、小さな電子音がして金属の遮断バーが降りた。手振りで促され、明日奈は足早にゲートをくぐった。 下層と違って、このフロアには窓は無いようだった。つるつるした白いパネルに覆われた通路がまっすぐに延び、前方でT字に分岐している。 再び明日奈の前に立って歩き始めた倉橋医師は、通路を左に曲がった。柔らかな白光に満たされた無機質な道がどこまでも続いている。白衣の看護師が数名行き交っているだけで、外界の騒音はまったく届いてこない。 「――そのウインドウ・ピリオドの存在ゆえに、必然的に起こってしまうことがあります」 医師はふたたび静かな声で話しはじめた。 「それは、献血によって集められる、輸血用血液製剤の汚染です。無論、確率は低い。一度の輸血によって何らかのウイルスに感染してしまう確率は、何十万分の一でしかありません。しかし、その数字をゼロにすることは、現代の科学では不可能なのです」 かすかな嘆息。そこに含まれる、ごくごくわずかな憤りと無力感を、明日奈は感じる。 「木綿季くんは、2001年の5月生まれです。難産で、帝王切開が行われました。その時――カルテを確認できなかったのですが――何らかのアクシデントにより大量の出血があり、緊急輸血が施されたのです。用いられた血液は、ウイルスに汚染されていました」 「…………」 「今となっては、確たることはわからないのですが、おそらく木綿季くんが感染したのは出産時かその直後。お父さんはその一ヶ月以内でしょう。ウイルス感染が判明したのは9月、お母さんが受けた輸血後の確認血液検査によってです。その時点では……もう、家族全員が……」 再び深く息をついて、医師は足を止めた。通路の右側の壁にスライドドアがあり、かたわらの壁に金属パネルが設置されている。そこに嵌めこまれているプレートには、「第一特殊計測機器室」、といかめしい文字が並んでいた。 医師はもう一度ネームカードを外すと、パネル下部のスリットに通した。電子音が響き、ぷしゅっという音とともにドアが開く。 胸の奥をぎゅうぎゅうと絞るような痛みを感じながら、明日奈は倉橋医師に続いてドアをくぐった。内部は、奥行きのある妙に細長い部屋だった。 正面の壁に、今通ったのと同じようなドアがあり、右側にはいくつかのモニタを備えたコンソールが設置されている。左の壁は一面横長の大きな窓だが、ガラスは黒く染まって、内部を見ることはできない。 「この先はエア・コントロールされた無菌室なので入ることはできません。了承してください」 そう言うと、医師は黒い窓に近寄り、下部のパネルを操作した。かすかな震動音とともに、窓の色が急速に薄れ、たちまち透明なガラスに変化して、その向こうをさらけ出した。 小さな部屋だった。いや、面積自体はかなり広い。一見して小さいと思ってしまったのは、部屋中を様々な機械が埋めつくしているからだ。背の高いもの、低いもの、シンプルな四角形、複雑な形のものが混在して、だから、部屋の中央にあるジェルベッドに気付くのには少し時間がかかった。 明日奈は限界までガラスに顔をちかづけて、じっとベッドを凝視した。 青いジェルに半ば沈むように、小柄な姿が横たわっていた。胸元まで白いシーツが掛けられており、そこから覗く裸の肩は痛々しいほどに痩せている。喉元や両腕には様々なチューブが繋がり、周囲の機械類へと続いている。 ベッドの主の顔を、直接見ることはできなかった。頭部のほとんどを飲み込むように、ベッドと一体化した白い直方体が覆いかぶさっているからだ。見えるのはほとんど色のない薄い唇と、尖った顎だけだった。直方体の、こちら側の側面にはモニタパネルが埋め込まれ、さまざまな色の表示が躍っていた。モニタ上部に、簡素なロゴで「Medicuboid」と書かれているのが見えた。 「ユウキ……」 明日奈は掠れた声で囁いた。ついにここまで、現実のユウキの元まで来た。しかし、最後の2メートルを、絶対に超えられない分厚いガラスの壁が隔てている。 医師に背を向けたまま、明日奈は言葉をしぼり出すように尋ねた。 「先生……ユウキの病気は、なんなんですか……?」 答えは短く、しかし途方も無い重さを持っていた。 「後天性免疫不全症候群……AIDSです」
あるいはそうなのかもしれないと、この大きな病院を見たときから考えていた。ユウキは何れかの、重い病に冒されているのかもしれない、と。しかしやはり医師の口から具体的な病名を聞くと、息が詰まるのを抑えることはできなかった。ガラス越しに、明日奈は横たわるユウキを見つめ、全身をかたく凍りつかせた。 これは本当に現実なのか、と思った。あの、誰よりも強く、どんなときも元気なユウキが、いくつもの機械の谷間に埋もれるように横たわっている光景を、事実として認識することを理性も感情も拒否していた。 なにも知らなかった。わたしは何も知らず、また知ろうともしなかった大馬鹿だ、と叫ぶ声がした。あのとき、アスナの眼前から消える直前にユウキが見せた涙の意味――それは――それは…… 「しかし、現在ではエイズという病気は、世間で思われているほど恐ろしいものではないのですよ」 立ち尽くすアスナの背に、あくまでも穏やかな倉橋医師の声が投げかけられた。 「たとえHIVに感染しても、早期に治療を始めることができれば、十年、二十年という長いスパンでエイズの発症を抑えることも可能です。薬をきちんと飲み、健康管理を徹底することで、感染以前とほとんど変わらない生活を送ることだって出来るのです」 きい、という小さな音が、医師がコンソール前の椅子に腰掛けたことを告げた。言葉は続く。 「しかし、新生児がHIVに感染した場合の五年生存率が、成人と較べて大きく低下することも事実です。木綿季くんのお母様は、家族全員の感染が判明したあと、皆で死を選ぶことも考えたそうです。しかし、お母様は幼少のころからのカソリック信徒でいらした。信仰の力と、もちろんお父様の力もあって最初の危機を乗り越え、病気と闘いつづける道を選んだのです」 「闘い……つづける……」 「ええ。木綿季くんは、産まれたその瞬間から生きるためにウイルスと闘ってきた。もっとも危険な時期を脱してからは、体は小さくても元気に育って、小学校にも入学したのです。――沢山の薬を定期的に飲みつづけるというのは、子供には辛いものです。逆転写酵素阻害剤は、副作用も強いですしね。それでも、木綿季くんは、いつかは病気が治ると信じてがんばりつづけた。学校もほとんど休まず、成績もずっと学年のトップクラスだったそうです。友達も沢山いて、私もビデオを何本も見せてもらいましたが、いつでも輝くような笑顔でしたよ……」 わずかな間。医師が小さくため息を漏らすのを、明日奈は聞く。 「――木綿季くんがHIVキャリアであることは、学校には伏せられていました。それが普通なのです。学校や企業の健康診断では、血液のHIV検査を行うことは禁じられています。しかし……彼女が四年生に上がってすぐの頃です。経路は不明なのですが、木綿季くんがキャリアであるということが、同学年の保護者の一部にリークされたのです。噂はすぐに広まりました。……HIV感染を理由とするいかなる差別も、法によって禁じられていますが、残念ながらこの社会は、善なる理念によってのみ動いているわけではない……。彼女の通学に反対する申し立てや、あるいは電話や手紙による有形無形の嫌がらせが始まりました。ご両親もずいぶん頑張られたようです。しかし、結果として一家は転居することを余儀なくされ、木綿季くんも転校することになってしまったのです」 「…………」 明日奈は声を挟むこともできない。ただひたすら、背筋を固くして、告げられる言葉に耳を傾けることしかできない。 「木綿季くんは、涙ひとつ見せずに、新しい学校にも毎日通いつづけたそうです。ですが……残酷なものですね。ちょうどその頃から、免疫力低下の指標となるCD4というリンパ球の数値が急激な減少を始めました。それはつまり……エイズの発症、ということです。私は、そのきっかけになったのは、彼女の心を痛めつけた前の学校の保護者や教師たちの言葉だと今も信じています」 若い医師の声は、あくまで穏やかに抑制されたものだった。ただ、ほんのわずか響いた鋭い呼吸音だけが、彼の心情を表していた。 「――免疫力が低下することによって、通常では容易に撃退できるはずのウイルスや細菌に冒されてしまう。それを日和見感染と言います。木綿季くんも、ニューモシスティス肺炎という感染症を発してこの病院に入院することになりました。それが三年と半年前のことです。病院でも、木綿季くんはいつも元気でしたよ。にこにこと笑顔を絶やさないで、絶対に病気なんかには負けないといつも言っていました。辛い検査にも、泣き言ひとつ漏らさなかった。ですがね……」 言葉を切った医師が、体を動かす気配。 「細菌やウイルスは、病院の中、そして何より患者自身の体内、いたるところに存在します。一度エイズを発症したら、あとはもう日和見感染への場当たり的な対処療法を続けていくしかないのです。カリニ肺炎に続いて、木綿季くんは食道カンジタ症に感染しました。――ちょうどその頃、世間はあのナーヴギアによる事件で揺れに揺れていました。NERDLES技術の封印論まで浮上するなかで、国と一部のメーカーによって研究開発が続けられていた医療用ナーヴギア……メディキュボイドの試験機が開発され、臨床試験のためにこの病院に搬入されました。しかし、試験と言っても、元になったのがあのナーヴギアですし、また数倍の密度に引き上げられた電子パルスが、長期的に脳にどのような影響を与えるのか誰にもわからなかった。それを承知した上で実験台になろうという被試験者はなかなか見つかりませんでした。それを知った私は……木綿季くんとご家族にある提案をしました……」 続く言葉を待ちながら、明日奈はベッドの上のユウキと、その頭部をほとんど飲み込んでいる白い直方体をじっと見つめた。 頭の芯が、痺れたように冷たかった。混乱した意識の片隅で、突きつけられた現実から目をそむけるように、漠然と考える。 メディキュボイドは、開発された時期的に、アミュスフィアではなくナーヴギアの発展形なのだろう。明日奈はもうすっかりアミュスフィアという機械に慣れているが、それでも時々、もう手許には無いナーヴギアが作り出した仮想世界のクリアさを懐かしく思い出すことがある。SAO事件の反省を活かし、三重四重のセーフティ機能が設けられているアミュスフィアではあるが、それゆえに生成する世界のリアリティという点では初代機に一歩劣るのは否めない。 ナーヴギアの数倍というパルス発生素子を装備し、全身の体感覚を完璧にキャンセルすることが可能で、さらにアミュスフィアを遥かに上回る処理速度のCPUを持つというメディキュボイド――。とするなら、アルヴヘイムでユウキが見せた圧倒的なまでの強さは、マシンの性能に由来するものなのだろうか? 一瞬そう考えてから、明日奈はすぐ内心でかぶりを振った。ユウキの剣技の冴えは、機械のスペックなどという段階を遥か上回るレベルに達している。戦闘センスだけ見ても、おそらくキリトと同等かそれ以上なのは間違いない。 明日奈が理解しているところでは、キリトの強さというのは、丸二年に及んだSAO内での虜囚生活において、誰よりも長時間最前線で闘いつづけた経験に由来するものだ。ならば、ユウキは、メディキュボイドの作り出す世界の中でどれほどの時間を過ごしたのだろうか――。 「ご覧のとおり、メディキュボイド試験機は非常に精密でデリケートな機械です」 しばし沈黙していた倉橋医師が、ふたたび話しはじめた。 「長期間安定したテストを行うために、クリーンルームに設置されることになりました。つまり、空気中の塵や埃のほかに、細菌やウイルスなども排除された環境下、ということです。ということは、もし被試験者としてクリーンルームに入れば、日和見感染のリスクを大幅に低下させることができる。私は、木綿季くんとご家族に、そう提案したのです」 「…………」 「今でも、それが木綿季くんにとって良いことだったのかどうか、迷うこともあります。エイズの治療においては、QoL、クオリティ・オブ・ライフというものが重視されます。生活の質、という意味ですね。治療中の生活の質をいかに高め、充実したものにするか、という考えです。その観点に立てば、被試験者としてのQoLは決して満たされたものとは言えない。クリーンルームから出ることも、誰かと直接触れ合うことも出来ないのですからね。――提案に、ご両親も木綿季くんもとても悩まれたようでした。しかし、バーチャル・ワールドという未知の世界への憧れが、木綿季くんの背を押したのでしょうね……。彼女は被試験者となることを承諾し、この部屋に入りました。以来ずっと、木綿季くんはメディキュボイドの中で暮らしています」 「ずっと……というのは……?」 「文字どおりです。木綿季くんが現実世界に帰ってくることはほとんどありません。というより、今はもう帰ってこられないのです。ターミナル・ケアでは苦痛の緩和のためにモルヒネなどを用いますが、彼女の場合はそれをメディキュボイドの感覚キャンセル機能に置き換えていますから……。一日に数時間行われるデータ採取実験のほかは、ずっと色々なバーチャル・ワールドを旅しているのですよ。私との面談も、もちろん向こうで行っています」 「つまり……二十四時間ダイブしたまま、ということですか……? それを……」 「三年間です」 医師の簡潔な答えに、明日奈は言葉を失った。 いままで、世界中のアミュスフィアユーザーのなかで、最も長時間のダイブ経験を持つのは自分を含む旧SAOプレイヤーだと思っていた。だが、それは間違いだった。目の前のベッドに横たわる痩せた少女こそが、世界でもっとも純粋な仮想世界の旅人なのだ。そしてそれこそが、ユウキの強さの根源なのだ。 ――君は、完全にこの世界の住人なんだな。と、キリトはユウキに問うたそうだ。彼はきっと、短い戦闘の中で、自分と近しいものをユウキに感じたのだろう。 明日奈は、心の内に、敬虔さにも似た感情が広がるのを意識した。自分よりも遥かな高みに立つ剣士の前で、こうべを垂れ、剣を捧げるような気持ちで、目を閉じ、わずかに頭を下げた。 しばし沈黙したあと、明日奈は振り返り、倉橋医師を見た。 「ありがとうございます、ユウキに会わせてくれて。――ユウキは、ここにいれば大丈夫なんですね? ずっと、向こう側で旅を続けられるんですね……?」 だが、明日奈の問いに、医師は即答しなかった。コンソールの前の椅子に腰掛け、両手を膝の上で組み合わせて、穏やかな眼差しでじっと明日奈を見た。 「――たとえ無菌室に入っていても、もとより身体に内在する細菌やウイルスを排除することはできません。免疫系の機能低下に伴って、それらは確実に勢力を増していきます。木綿季くんは現在、サイトメガロウイルス症と非定型抗酸菌症を発症しており、視力のほとんどを喪失しています。さらに、HIVそのものを原因とする脳症が進行しています。おそらくもう、自力で体を動かすことはほぼできないでしょう」 「…………」 「HIV感染から十四年……エイズ発症から三年半。木綿季くんの病状は末期です。彼女も、清明な意識でそれを認識している。木綿季くんが、あなたの前から姿を消そうとした理由はもうお判りのことと思います。」 「そんな……そんな」 明日奈は眼を見開き、小さく首を振った。だが、告げられた事実を押し退けることは出来なかった。 ユウキは、明日奈と近づくことをいつも躊躇っていた。それは真実、明日奈を思いやってのことだった。やがて確実に訪れる別れに明日奈が苦しまないようにと、ユウキはそれだけを考えていたのだ。 しかし明日奈は何も知らず、気付かず、ユウキを苦しめていた。黒鉄宮でログアウトする前にユウキが見せた涙を、明日奈は鋭い痛みとともに思い出してた。 その時、明日奈はあることに気付き、はっと顔を上げて医師を見た。 「あの……先生、もしかして、ユウキにはお姉さんがいるのでは……?」 尋ねると、医師は一瞬驚いたように眉を上げ、しばし迷ったようだったが、ゆっくりと頷いた。 「――木綿季くん本人のことではないので話さなかったのですが……。ええ、そうです。木綿季くんは双子だったのです。すべての端緒となった帝切が行われたのも、それが原因です」 記憶をたどるように、視線をすっと上向け、微笑む。 「お姉さんは、藍子さんという名前でした。やはりこの病院に入院していました。あまり似ている双子ではなかったですね……。元気で活発な木綿季くんを、いつもにこにこと静かに見守っていましたよ。そう言えば……顔も、雰囲気も、どことなくあなたに似ていたかもしれない……」 なぜ過去形で話すのですか、と胸のうちで呟きながら、明日奈は医師を見詰めた。心の声を聴いたように、医師はもういちど、そっと頷いた。 「木綿季くんのご両親は二年前……お姉さんは一年前に、亡くなりました」
失うこと、の意味は知っているはずだった。 あの世界で、明日奈は人の命が消える瞬間を繰り返し目の当たりにしてきた。自らぎりぎりの距離でその淵を覗き込んだことも幾度もある。結果、理解した――つもりでいた。時がくれば人は死ぬのだということを。どんなに足掻いても、どうにもならない現実があるのだということを。 しかし今、たった数日間交流したにすぎないユウキという少女の過去と現在を知り、明日奈はその重みに耐えかねて、目の前の厚いガラスに体を預けた。現実、という言葉の意味が、曖昧に溶けて流れていってしまうようだった。俯き、額を冷たい平面に押し付ける。 自分はもうじゅうぶんに戦った。だから、今のささやかな幸せに固執して何が悪いのか、と心のどこかで思っていた。変化を恐れ、軋轢に怯え、後すさって口をつぐむことにあれこれ言い訳をしてきた。 でも、ユウキは生まれてからずっと戦ってきたのだ。全てを奪い去ろうとするあまりにも過酷な現実とただひたすら戦いつづけ、そして近づきつつある終わりの時を知ってなお、あれほどに輝く笑顔を浮かべてみせたのだ。 明日奈はかたく瞼を閉じた。心の奥で、どこか遥かな異世界を旅しているのだろうユウキに向かって呼びかける。 ――もう一度、もう一度だけ会いたい。会って、今度こそ本当の話をしたい。ぶつからなければ、伝わらないことだってある、とユウキは言った。弱い自分を覆うように身にまとったものをすべて剥ぎ取り、ユウキともう一度言葉を交わすことが叶わないなら、何のためにわたしたちは出会ったのか。 ついに、瞼のふちに熱くにじむものを感じた。明日奈は右手をガラスに押し当て、極限まで平滑なその表面に何かの感触を探すように、指先に力を込めた。 その時だった。どこからともなく、柔らかな声が降り注いだ。 『泣かないで、アスナ』 明日奈は弾かれたように勢い良く顔を上げた。睫毛の水滴を飛ばしながら眼を見開き、ベッドの上のユウキを凝視する。小さなシルエットは、先ほどと何も変わることなく横たわっていた。顔を隠す白いマシンにも変化はない。しかし、こちらに向いたその側面に設けられたインジケータのひとつが、不規則に青く点滅しているのに明日奈は気付いた。モニタパネルの表示も数秒前とは異なり、小さな文字で『patient talking』という一文が浮かんでいるのが見えた。 「ユウキ……?」 明日奈は口のなかで囁いてから、もう一度、今度は震えながらもはっきりとした声で言った。 「ユウキ? そこに、いるの?」 すぐにいらえがあった。どうやら、隔壁上部に設けられたスピーカから声は聞こえてくるようだった。 『うん。レンズ越しだけど、見えてるよ、明日奈。すごい……向こう側と、ほんとにそっくりなんだね。ありがと……来てくれて』 「……ユウキ……わたし……わたし」 言わなくちゃ、と思うほどに言葉は出てこない。例えようもないもどかしさに、胸元をぎゅっと押さえる。 だが、唇を開くまえに、再度頭上から声がした。 『先生、アスナに隣の部屋を使わせてあげてください』 「え……」 戸惑いつつ振り向くと、倉橋医師はやや厳しい顔で何事か考えていたようだったが、すぐに穏やかな笑みを取り戻し、深く頷いた。 「いいでしょう。――あのドアの奥に、私がいつも面談に使っているシートがあります。カギは中から掛けられますが、時間は20分ほどにしておいてください。色々手続きを省略しているもので」 「は……はい」 慌てて頷き返し、明日奈はもう一度メディキュボイド側面のインジケータ部を見やった。 『アプリ起動ランチャーにALOが入ってるから、ログインしたら、ボクたちが初めて会った場所に来て』 「うん……わかった。待ってて、すぐいくから」 しっかりした声で答え、明日奈は身を翻した。モニタルームの奥の壁に備えられたドアまで数歩で達し、センサーに手をかざす。しゅっとスライドして開くや否や体を滑り込ませる。 その向こうは、モニタルームの半分ほどの狭い部屋だった。高級そうなレザーのリクライニングシートが二脚並んで据えられ、双方のヘッドレスト部分に、見慣れたリング型ヘッドギアが掛けられていた。 振り向いてドアをロックするのももどかしく、バッグを床に放り投げると、明日奈は近いほうのシートに体を横たえた。肘掛け前部のボタンで背もたれを適当な角度に調節し、アミュスフィアを取り上げると頭に装着する。大きく一回息を吸い、電源を入れると、眼前に白光が広がって、明日奈の意識を現実世界から切り離していった。
森の家のベッドルームで眼を開けたアスナは、感覚が馴致するのも待たずに、文字通り飛び起きた。 翅を鳴らして宙を滑り、床に一度も足を着かずに窓から外へと飛び出す。アルヴヘイムは早朝の時刻だったようで、深い森は一面白い霧に包まれていた。くるりとターンして急上昇し、霧のカーテンを突き破って木々の上へ。両手をぴたりと体側に揃え、フロア中央目指して猛然とダッシュする。 三分足らずで主街区上空に達すると、アスナは広場の真ん中に青く光る転移門目掛けて一直線に降下した。周囲に数人いたプレイヤー達が目を丸くして見上げるなか、反転、急制動、速度が相殺された瞬間にすぽんとゲートに飛び込む。 「転移! セルムブルグ!」 叫ぶと同時に青白い光は滝のように流れ、アスナを高く押し上げ始めた。 転移は数秒間で完了し、すぽんと放り出されたそこはもう城砦都市セルムブルグの中央広場だった。激しく石畳を蹴って離陸すると、今度は都市の北にある小島を目指す。朝靄が流れる湖水に影を落としながら、全速で飛行する。 すぐに、向かう先に一際大きな樹のシルエットが姿を現した。あの根元で"絶剣"ことユウキが連日の辻デュエルを催していたことなど、もう遥か昔のことのようだ。当時は大勢のギャラリーで賑わった小島は、今はもうひっそりと静まり返っていた。 アスナは徐々にスピードを落としながら、大樹の幹を回り込むように着陸体勢に入った。白い霧が濃密に立ち込めているせいで、地表の様子はよく見えない。 露を含んだ草をかすかに鳴らし、地面に降り立つと、アスナは周囲を見渡した。日の出前で光量が少ないせいもあり、ほんの数メートル先すらも見通せない。焦燥感に駆られながら、早足に樹の周囲を回る。 ちょうど半分周り、幹の東側に出た、その時だった。ようやく外周部から差し込んだ曙光が、一瞬朝靄を吹き払った。白いカーテンの切れ目に、アスナは捜し求めた姿を見出した。 ユウキはアスナに背を向けて、長い濃紺の髪と、矢車草の色のロングスカートを風に揺らしていた。息を詰めて見守るなか、闇妖精族の少女はふわっと振り向き、アメジスト色の瞳でまっすぐにアスナを見た。色の薄い唇に、溶け去る寸前の雪つぶのような、儚げな笑みが浮かんだ。 「――なんでかな、アスナがボクを見つけてくれるような、そんな予感がしてたんだよ。何も教えられなかったんだから、そんなわけないのにね」 囁くように言い、ユウキはもう一度微笑んだ。 「でも、アスナは来てくれた。ボクの予感が当たるの、けっこう珍しいんだ。嬉しかったよ……すごく」 たった数日会わなかっただけで、ユウキの佇まいにある種の透明感が増しているような気がして、アスナは胸をぎゅっと締め付けるような痛みを感じた。眼前の少女が幻であるのを恐れるかのように、一歩、また一歩、ゆっくりと歩み寄る。 伸ばした指先が、ユウキの左肩に触れた。瞬間、そこに感じた温もりを確かめたいという衝動を抑えられず、アスナは両腕の中に、小柄なその体をそっと包みこんだ。 ユウキは驚いた様子も見せず、若草が風にたなびくように、アスナの肩口に頭を預けた。アーマー越しに触れ合う体から、電子パルスに媒介されるデジタルデータ以上の、心を震わせるような暖かさが伝わって、アスナはゆっくりと息を吐きながら眼を閉じた。 「……姉ちゃんに抱っこしてもらったときとおんなじ匂いがする。お日様の匂い……」 全身をアスナにもたれさせながら、ユウキが囁いた。 「藍子……さん? お姉さんも、VRMMOを……?」 「うん。あの病院は、一般病室でもアミュスフィアが使えたから。姉ちゃんは、スリーピングナイツの初代リーダーだったんだよ。結成してしばらくは、『アスカエンパイア』ってゲームに居たんだけどね……。ボクなんかより、ずーっと強かったんだ……」 ユウキの額がぎゅっと肩に押し当てられるのを感じて、アスナは右手を上げ、艶やかな髪をそっと撫でた。一瞬の体の強張りをすぐに解き、ユウキは言葉を続ける。 「スリーピングナイツのメンバーは、最初は9人いたんだよ。でも、もう、姉ちゃんを入れて3人いなくなっちゃった……。だからね、シーエンたちと話し合って、決めたんだ。次のひとりの時には、ギルドを解散しよう、って。その前に、みんなで素敵な思い出を作ろう……姉ちゃんたちに、胸を張ってお土産に出来るような、すごい冒険をしよう、って」 「…………」 「ボクたちが出会ったのは、『セリーンガーデン』っていう、医療系ネットワークの中にあるヴァーチャル・ホスピスなんだ。病気はそれぞれでも、大きな意味では同じ境遇の人たち同士、VR世界で話し合ったり、遊んだりして、最期の時を豊かに過ごそう、っていう目的で作られた場所……」 病院を訪れ、倉橋医師の話を聞いたときから、アスナは心のどこかであるいは、と思っていた。ユウキを含むスリーピングナイツのメンバーに共通する、強さ、朗らかさ、そして静けさ。その理由は、皆が同じ場所に立っているからではないのかと。 しかし、予期していたつもりでも、ユウキの言葉は途方もない重みをともなってアスナの胸の底に降り積もった。シーエンや、ジュン、テッチたちの明るい笑顔が、次々と脳裏を過ぎった。 「アスナ、ごめんね。本当のことを言えなくて。春にスリーピングナイツが解散する、っていうのは、みんなが忙しくなってゲームを引退するからじゃないんだ。良くてあと三ヶ月、って告知されてるメンバーが二人いるからなんだよ。だから……だから、ボクたちは、どうしてもこのすてきな世界で、最後の思い出を作りたかった。あの大きなモニュメントに、ボクたちがここにいたよ、っていう証を残したかった」 再びユウキの声が震えた。アスナはただ、両腕に一層力を込めることしかできなかった。 「でも、どうしてもうまくいかなくて……一人だけ、手伝ってくれる人を探そう、って相談したんだ。反対意見もあったよ。もしボクたちのことを知られたら、その人に迷惑をかけちゃう、嫌な思いをさせちゃうから、って。……その通りになっちゃったね。ごめんね……ごめんね、アスナ。もし出来るなら……今からでも、ボクたちのことは忘れて……」 「出来ないよ」 短く答え、アスナはユウキの頭に頬を摺り寄せた。 「だって、迷惑なんてこと、これっぽっちもないもん。嫌な思いなんてしてない。わたし、ユウキたちと出会えて、ユウキたちの手伝いが出来て、凄く嬉しいよ。今でもまだ……スリーピングナイツに入れてほしいって、そう思ってる」 「……ああ……」 ユウキの吐息も、華奢な体も、一瞬、深く震えた。 「ボク……この世界に来られて、アスナと出会えて、本当に嬉しい……。今の言葉だけで、じゅうぶん、じゅうぶんだよ。これでもう……何もかも、満足だよ……」 「…………」 アスナはユウキの両肩に手をかけると、そっと体を離した。濡れたように輝く紫色の瞳を、間近からじっと覗き込む。 「まだ……まだ、してないこと、一杯あるでしょう? アルヴヘイムにだって、行ってない場所沢山あるだろうし……他のVRワールドも含めたら、この世界は無限に広がってる。だから、満足なんて、言わないでよ……」 言葉を探しながら懸命に語りかけるが、ユウキはどこか遠くを見るように眼差しを煙らせ、微笑むだけだった。 「この三年間で……ボクたち、色んな世界で、色んな冒険をしたよ。その最後の1ページは、アスナと一緒に作った思い出にしたいんだ」 「でも……あるでしょう、まだ……したいこと、行きたい場所……」 ユウキの言葉に頷いたら、その瞬間に眼の前の少女が朝靄の向こうに消えていってしまいそうで、アスナは必死に口を動かした。すると、ユウキはふっと視線の焦点を、遥か彼方からアスナの顔に合わせ、ボス攻略中に何度か見せたようないたずらっぽい笑みを浮かべた。 「そうだね……ボクね、学校に行ってみたいな」 「が……学校?」 「仮想世界の学校にはたまに行くんだけどね、なんだか、静かで、綺麗で、お行儀良すぎてさ。ずーっと前に通ってたみたいな、本物の学校にもう一度行ってみたいな」 もう一度くるっと瞳を瞬かせて笑ってから、済まなそうに首を縮める。 「ごめんね、無理言って。アスナの気持ちはすっごく嬉しい。でもね、ほんとに満足なんだよ、ボク……」 「――行けるかも」 「……え?」 ユウキはぱちくりと目をしばたかせ、アスナの顔をまじまじと見た。記憶のフタを懸命にこじ開けようとしながら、アスナはもう一度言った。 「行けるかもしれないよ……学校」
翌1月12日、午後12時50分、校舎三階北端。 昼休みの喧騒がかすかに届く電算機室で、明日奈は背筋を伸ばして椅子に腰掛けていた。 ブレザータイプの制服の右肩には、細いハーネスで固定された、直径7センチほどの半球ドーム状の機械が載っている。 基部は黒いメタル素材だが、ドーム部分は透明なアクリル製で、その内部に収められたレンズ機構が見て取れる。基部からは二本のケーブルが伸び、一本は明日奈の上着のポケットに収められた携帯端末に繋がり、もう一本は目の前の机に鎮座した小型のパソコンへと接続されている。 パソコンの前では、桐ヶ谷和人と、彼と同じくハードウェア制御コースを受講している二人の生徒が頭を寄せ合い、先刻からあれこれと呪文めいた言葉で意見を交換していた。 「だからさ、これじゃジャイロが敏感すぎるんだって。視線追随性を優先しようと思ったら、ここんとこのパラメータにもうすこし遊びがないと……」 「でもそれじゃあ、急な挙動があったときにラグるだろ」 「そのへんは最適化プログラムの学習効果に期待するしかねえよ」 「ねえキリトくん、まだー? 昼休み終わっちゃうよー」 三十分以上に渡って姿勢固定を強制されている明日奈が、焦れながら声を出すと、和人もう〜んと唸りながら顔を上げた。 「とりあえず初期設定はOKとしとこう。えーと、ユウキさん、聞こえてます?」 明日奈ではなくドーム装置に向かって和人が呼びかける。すると、すぐに機械に備えられたスピーカーから、まごうことなき"絶剣"ユウキの元気な声が応えた。 『はーい、よく聞こえてるよー』 「よし、じゃあ、これからレンズのキャリブレーションを取りますんで、視界がクリアになったところで声を出してください」 『はい、了解』 明日奈の肩に乗っている半球形のメカは、通称『視聴覚双方向通信プローブ』と言うもので、和人たちの班が今年度の頭からずっと試行錯誤しているテーマだった。 簡単に言えば、アミュスフィアとネットワークを通して、現実世界の遠隔地と視覚、聴覚のやり取りをしようという機械だ。プローブ内部のレンズとマイクに収集されたデータは、明日奈の携帯を介してネットに流され、横浜港北総合病院のメディキュボイドを経由して仮想空間内のユウキに届くという仕組みである。レンズは半球内を自由に回転し、ユウキの視線の動きと同期して映像を得ることができる。ユウキは今、自分の体が10分の1ほどに小さくなり、アスナの肩に座っていると感じているはずだ。 以前からこの研究テーマに対する愚痴を散々聞かされていた明日奈は、ユウキが学校に行きたいと言ったとき、咄嗟に思い出したのだった。 ういいん、とごく微かな音を立ててレンズが焦点を動かしていき、ユウキの「そこ」という声と同時に止まった。 「よし、これで終わりだ。一応スタビライザーは組み込んであるけど、急激な動きは避けてくれよ。あんまり大きな声も出さないこと。ささやくくらいで充分伝わるからな」 「りょーかい」 あれこれ注意事項をまくしたてる和人に背筋を大きく伸ばしながら返事をし、アスナはそっと立ち上がった。さっそく、肩のプローブに向かって小声で話かける。 「ごめんねーユウキ、先に学校の中案内しようと思ったけど、昼休みがもう終わっちゃうのよ」 すぐに、小型スピーカーからユウキの声が返ってきた。 『いいよ、授業見学するのもとっても楽しみ!』 「オッケー、じゃあまず、次の授業の先生に挨拶にいこう」 突貫でプローブの設定をやらされて、やや疲れた表情の和人たち三人にひらっと手を振り、明日奈は電算機室を出た。 廊下を歩き、階段を降り、連絡橋を渡るあいだも、ユウキは何かを見つけるたびにわあっと歓声を上げていたが、『職員室』というプレートのついたドアの前に来ると、急に静かになった。 「……どうしたの?」 『えーと……ボク、昔から苦手だったんだよね、職員室……』 「ふふふ、大丈夫。この学校は先生っぽくない先生ばっかりだから」 笑いを交えながら囁いて、明日奈は勢いよくドアを開けた。 「失礼しまーす!」 『し、失礼しまぁす』 大小ふたつの挨拶と同時に中に入ると、すたすたと机の列を横切っていく。 五時限目の現代国語を受け持つ教師は、一度都立中学の教頭を定年まで勤め上げ、この実験的教育施設に乞われて再就職したという人物だ。すでに六十台後半ながら、学校の各所に取り入れられているネットワークデバイスを器用に操り、理知的な物腰もあって明日奈は好感を持っている。 そういう人物なので、恐らく拒否反応はあるまいと思いつつも、多少緊張しながら明日奈は事情を説明した。見事な白髪白髭の教師は、大きな湯呑みを片手に耳を傾けていたが、話が終わるとひとつ頷いて言った。 「うん、構わんよ。ええと、君、名前は何と言ったかね?」 『あ、はい……ユウキ――紺野木綿季です』 実際にプローブから即座に返答があると、さすがに教師は少々驚いたようだったが、すぐに口もとを綻ばせた。 「コンノくん、よかったらこれからも授業を受けに来たまえ。今日から芥川の『トロッコ』をやるんでね、あれは最後まで行かんとつまらんから」 『は……はい、ありがとうございます!』 ユウキに続いて明日奈も礼を言ったところで予鈴が鳴った。慌ててもういちどぺこりと頭を下げ、職員室から出た直後、二人同時にふうーっと息をつく。 ちらりと視線を交わして笑いあうと、明日奈は足早に教室へと向かった。 自分の席に座ったとたん、肩の上の謎の機械について周囲の同級生たちから質問攻めにあったりもしたが、ユウキが入院中であることを説明し、実際にユウキが喋ると皆すぐに仕組みを理解して、次々と自己紹介を始めた。それが一段落したところで本鈴が鳴り、教師が前のドアから姿を現した。 日直の号令で礼を終え――プローブの中でもレンズがういん、ういんと上下した――教壇の脇に進み出た老教師は、髭を一撫でするといつもと何ら変わらぬ様子で授業を始めた。 「えー、それでは、今日から教科書九八ページ、芥川龍之介の『トロッコ』をやります。これは芥川が三十歳の時の作品で――」 教師の概説が続くあいだ、明日奈は薄いタブレット型端末を持ち上げてテキストの該当個所を表示させ、ユウキにも見えるように体の前に持ち上げていた。が、直後の教師の台詞に、思わずそれを取り落としそうになった。 「――では、最初から読んでもらいましょう。紺野木綿季くん、お願いできるかな?」 「は!?」 『は、はいっ』 明日奈とユウキは同時に素っ頓狂な声を上げた。教室中が一瞬ざわつく。 「無理かね?」 尋ねる教師に、明日奈が何かを答える前に、ユウキが大きな声で叫んだ。 『よ、読めます!』 プローブのスピーカーには充分な出力のアンプが内臓されているようで、その声は教室の隅まで楽に届く大きさだった。明日奈は慌てて立ち上がると、両手でタブレット端末をレンズの前にかざした。首を右に傾け、囁く。 「ユウキ……よ、読める?」 『もちろん。これでもボク、読書家なんだよ!』 即答すると、ひとつ間を取ってから、ユウキは元気よくテキストを朗読しはじめた。 『……小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは……』 テキストを保持したまま、明日奈はそっと目を閉じ、抑揚豊かに文章を読み上げるユウキの声に意識を集中した。 心のなかのスクリーンには、明日奈の隣の席に立つ、制服に身を包んだユウキの姿がはっきりと見えた。いつか必ずこの光景は現実になると、明日奈はその瞬間確信した。医学は年々、長足の進歩を遂げている。きっとごくごく近い未来には、HIVという悪魔を根絶する薬品が開発され、ユウキが現実世界へと帰還する日がくるに違いない。その時には、今度こそ本当に手と手をつないで、学校や街を案内しよう。帰り道にファーストフード店で買い食いして、公園に寄り道して、他愛ないお喋りをしよう。 明日奈は、ユウキに気付かれないように、そっと左手で目尻を拭った。ユウキは情感たっぷりに、いつまでも前世紀の名文を読みつづけ、教師もなかなかそれを止めようとしなかった。昼下がりの校内はしんと静まり返り、まるで全校の生徒が朗読に耳を傾けているかのようだった。
そのまま六時間目の授業も一緒に受けたあと、明日奈は約束どおり学校中を案内して回った。クラスの生徒たちが十人あまりも一緒についてきて、我先にとユウキに話し掛け続けたのが予定外ではあったが。 ようやく二人だけに戻って、中庭のベンチに腰掛けたときには、すでに空はオレンジ色に染まりつつあった。 『アスナ……今日はほんとにありがとう。すごく楽しかった……ボク、今日のこと、ぜったい忘れない』 不意にユウキが真剣な調子で言い、明日奈は反射的に明るい声で答えた。 「何言ってるの。先生も、毎日来てもいいって言ったじゃない。明日の現国は三時間目だからね、遅刻しちゃだめだよ! それよりさ……もっと、他に見たいものとか、ない? 校長室以外ならどこでもいいよ」 ユウキはふふ、と笑ったあと、しばし沈黙した。やがて、おずおずという様子で声を発する。 『あのね……一箇所、行ってほしいところがあるんだ』 「どこ?」 『その、学校の外でも、大丈夫?』 「え……』 明日奈は思わず口をつぐんだ。一瞬考え込むが、プローブのバッテリーはまだ充分に保つし、携帯端末がネットに接続できる場所なら、移動の制限は無いはずだ。 「うん、大丈夫だよ。携帯のアンテナがある場所ならどこでも!」 『ほんと!? あのね……ちょっと遠いんだけど……横浜の、保土ヶ谷区、月見台ってところ……』
学校のある調布から、京王線、東横線、相鉄線と乗りついで、横浜市保土ヶ谷区へと向かった。 さすがに電車の中では時折ひそひそと囁くだけに留めたが、それ以外の路上では、明日奈は周囲の目を気にすることなく肩の双方向通信プローブと話しつづけた。ユウキが入院している三年のあいだに、街の風情もそれなりに変わっているようで、彼女が興味を持ったものにはみな近くまで寄っては解説を加えた。 そんなことをしていたものだから、星川駅で電車を降りたときにはもう、ロータリー中央に立つ大時計の針は五時半を回っていた。 濃い朱から紫に変わりつつある空を振り仰ぎ、明日奈は大きく息を吸った。すぐ近くに、木々の多く残る丘陵が広がっているせいか、冷たい空気の味も東京とはずいぶん違うような気がする。 「綺麗な街だね、ユウキ。空がすごく広いよ」 明るい調子で語りかけたが、ユウキは済まなそうな声で返事をしてきた。 『うん……。ごめんね、アスナ。ボクのわがままのせいで、こんな遅くまで……。お家のほうは、大丈夫?』 「へーきへーき! 遅くなるのなんていつものことだもん」 反射的にそう答えるが、実際のところ、明日奈が夕食の刻限に遅れたことはほとんどなく、またその場合、母親の機嫌は大いに損なわれる。しかし今は、帰ってからいくら叱られようとも一向にかまわない気分だった。ユウキが望めば、プローブのバッテリーが続くかぎり、どこまでも遠くまでいくつもりだった。 「ちょっと、メールだけさせてね」 何気ない声でそう言うと、明日奈は携帯端末を取り出した。プローブとの接続は保持したまま、メーラーを立ち上げて、自宅のホームコンピュータ宛に帰りが遅れる旨のメッセージを飛ばす。恐らく母親からは、刻限無視を難詰するメール、次いで直接通話がかかってくるに違いないが、端末をネットに繋ぎっぱなしにしておけば留守番サービスに転送されるはずだ。 「これでOK、っと。さ、ユウキ、行きたいところって、どこ?」 『えっとね……駅前を左に曲がって、二つ目の信号を右に……』 「ん、わかった」 ひとつ頷いて、明日奈は歩き出した。駅前の小さな商店街を、ユウキのナビゲーションに従って通り抜けていく。 ユウキは、パン屋や魚屋、郵便局や神社の前を通るたびに、懐かしそうに一言、二言呟いた。やがて住宅地に入っても、大きな犬のいる家や、立派な枝ぶりの楠などに目を留めては、嘆声を上げる。 だから明日奈は、ユウキが何も言わなくても、この街がかつて彼女の暮らしたところなのだと察することができた。そして、二人の向かう先に待つものも、また――。 『……その先を曲がったところの、白い家の前で止まって……』 そう告げるユウキの声が、微かに震えているのに明日奈は気付いた。葉を落としたポプラの並ぶ公園に沿って右に曲がると、左側に、白いタイル張りの壁を持つ家がひっそりと建っていた。 さらに数歩すすみ、青銅製の門扉の前で明日奈は立ち止まった。 『…………』 肩で、ユウキが長い吐息を漏らした。明日奈はおもわず指を伸ばしてプローブのアクリルドームに添えながら、囁きかけた。 「ここが……ユウキの、お家なんだね」 『うん。……もういちど、見られるとは思ってなかったよ……』 白い壁と緑色の屋根の家は、周囲の住宅と較べると少し小さめだったが、その分たっぷりと広い庭を持っていた。芝生には、白木のベンチつきのテーブルが置かれ、その奥には赤レンガで囲まれた大きな花壇が設けられている。 しかしテーブルは風雨に晒されて色をくすませ、花壇もただ黒土に枯れた雑草がちらほら生えているだけだ。両隣の家の窓ガラスからは、団欒の暖かなオレンジ色がこぼれているのに、白い家の窓はすべて雨戸が閉められて生活の気配はまったく無い。 しかしそれも当然と言えた。かつてこの家に暮らした、父、母と娘二人の家族は、今はもう一人を残すのみなのだ。そしてその一人も、エアシールされた扉の向こうで、機械群に囲まれたベッドに横たわり、そこから出ることはかなわないのだ。 最後の残照の下ですみれ色に染まる家を、明日奈とユウキはしばし無言で見つめ続けた。やがて、ユウキがぽつりと呟いた。 『ありがとう、アスナ。ボクをここまで連れてきてくれて……』 「……中に、入ってみる?」 誰かに見咎められれば困ったことになりかねなかったが、それでも明日奈はそう尋ねた。しかし、ユウキはういんとレンズを左右に振りながら、言った。 『ううん、もうこれで充分。さ……早く帰らないと、遅くなっちゃうよ、アスナ』 「まだ……もうしばらくなら、大丈夫だよ」 反射的にそう答えて、アスナは後ろを振り向いた。細い道を挟んだ向かいには公園があって、その外周を石積みの基部を持つ生垣が取り巻いている。 アスナは道を渡ると、膝の高さの石積みに腰掛けた。プローブのまっすぐ正面に、長い眠りの中にある小さな家を捉える。ここからなら、ユウキの視界にも敷地の全景が入るはずだ。 更にしばらく沈黙を続けたあと、ユウキが言葉を発した。 『この家で暮らしたのは、一年足らずだったんだけどね……。でも、あの頃の一日一日は、すごく良く覚えてる。前はマンションだったから、庭があるのがとっても嬉しくてね。ママは感染症を心配していい顔しなかったけど、いつも姉ちゃんと走り回って遊んでた……。あのベンチでバーベキューしたり、パパと本棚作ったりもしたよ。楽しかった……』 「いいなー。わたし、そんなことした事ないよ」 明日奈の家にも、広大と言っていいほどの庭園がある。しかし、父母や兄と、そこで遊んだ記憶は明日奈にはなかった。いつも一人でままごとをしたり、絵を描いたりしていた。だから、ユウキの語る家族の思い出は、深い憧憬を伴って明日奈の胸にも響いた。 『じゃあ、今度22層のアスナの家でバーベキューやろうよ?』 「うん! ……ぜったい、約束だよ。わたしの友達も、シーエンたちもみんな呼んで……」 『うひゃ、なら、お肉すごい用意しといたほうがいいよー。ジュンとタルケンが、むっちゃくちゃ食べるから』 「ええ? そんなイメージじゃないけどなー」 あはは、と笑いあってから、再び家に視線を戻す。 『今ね……、この家のせいで、親戚中大もめらしいんだ』 呟いたユウキの声は、再びわずかに寂しさの色を滲ませていた。 「大もめって……?」 『取り壊してコンビニにするとか、更地にして売るとか、このまま賃貸しするとか……みんな色んなこと言ってるみたい。こないだなんか、パパのお姉さんって人が、VRワールドまでボクに会いに来たんだよ。病気のことわかってから、リアルじゃすごい避けてたくせにさ……。ボクに……――書けって……』 遺書を――ということなのだろう。明日奈は思わず息を詰め、歯を噛み締めた。 『あ、ごめんね、変な愚痴言っちゃって』 「う……ううん、いいよ。――すっきりするまで、もっと言っちゃいなよ」 どうにか、ちゃんとした声を出せた。 『じゃ、言っちゃう。でね……言ってやったんだ。現実世界じゃボク、ペン持てないしハンコも押せないけど、どうやって書くんですか? って。叔母さん、口ぱくぱくしてたよ』 ふふふ、とユウキは笑みを漏らす。つられて、明日奈も少し微笑む。 『でね、そのときに、この家はこのまま残してほしい、ってお願いしたんだけどね。管理費なら、パパの遺産で十年分くらいは出せるはずだからさ。でもね……やっぱ、ダメみたい。多分、取り壊されちゃうことになると思う。だから、その前に、もう一度見たいと思ってたんだ……』 家の各所をズームしているのだろう、サーボ機構の立てる微音が、明日奈の右耳に伝わった。ユウキの思いが詰まったようなその音を聞いているうちに、胸がいっぱいになってしまった明日奈はつい、思いついたことをそのまま口にしていた。 「じゃあ……こうすればいいよ」 『え……?』 「ユウキ、今十五だよね。十六になったら、好きな人と結婚するの。そうすれば、その人がずっとこの家を守ってくれるよ……」 言ってしまってから、あっと思った。ユウキに好きな相手がいるとすれば、それはまず間違いなくスリーピングナイツ男性陣の誰かだろうが、そのメンバーは全員が難治性疾患と闘う身なのだ。すでに余命を宣告されている人もいると言う。つまりたとえ結婚しても、状況は大きく変わらないか余計複雑になるのであり、そもそも結婚というのは相手の事情や感情だってあるではないか……。 しかし、ユウキは一瞬沈黙したあと、あははははと大声で笑った。 『あははは、ア、アスナ、凄いこと考えるねえ! なるほど、それは思いつかなかったよー。うーんそっか、いい考えかも。婚姻届なら、がんばって書こうって気になるしね! ――でも、残念だけど、相手がいないかなー』 まだあははと笑い続けるユウキに、明日奈は首を縮めながらも言葉を返す。 「そ、そう……? ジュンとか、いい雰囲気だったじゃない」 『あーだめだめ、あんなお子様じゃ! そうだねえ……えーと……』 急に声にいたずらっぽい響きを混ぜて、ユウキは言った。 『ね、アスナ……ボクと結婚しない?』 「えっ……」 思わず絶句する。アメリカに倣って同性間結婚を法的に認めようという議論は、毎年何度かマスコミの話題に上るが、なかなか衆議院の本会議にまではたどり着けないでいる。というようなことを瞬間的に考えながら、明日奈が動転していると、先にユウキがもう一度愉快そうに笑った。 『ごめんごめん、冗談。アスナにはもう、大事な人いるもんね。あの人でしょ……このカメラの調整してくれた……』 「え……その……うん、まあ……」 『気をつけたほうがいいよー』 「へ……?」 『あの人も、ボクたちとは違う意味で、現実じゃないとこで生きてる感じがするから』 「…………」 ユウキの言葉の意味を考えようとしたが、頭のなかがぐるぐるして中々収まらなかった。熱くなった頬をさする明日奈の横顔にちらりとレンズを向けてから、ユウキは穏やかな声で言った。 『ほんとに、ありがとう、アスナ。この家をもう一度見られただけで、ボクは凄く満足してるんだ。たとえ、家がなくなっても、思い出はここにある。ママやパパ、姉ちゃんと過ごした、楽しかった頃の記憶は、ずっとここにあるんだから……』 ここ、というのが、家のある土地ではなく、ユウキの心の中を指す言葉であることが明日奈には判った。 この家の姿は、自分の中にももう刻まれている、という気持ちを込めて明日奈は大きく頷いた。ユウキの言葉は続いた。 『……ボクや姉ちゃんが、薬を飲むのが辛くて泣いたりすると、ママはいつもイエス様の話をしてくれたんだ。イエス様は、私達に、耐えることのできない苦しみはお与えにならない、って。それで、姉ちゃんと、ママと一緒にお祈りしながら、でも、ボクは少しだけ不満だった。ほんとは、聖書じゃなくて、ママ自身の言葉で話してほしいって、ずっと思ってた……』 わずかな間。すっかり濃紺に変わった空に、大きな赤い星がひとつ瞬き始めている。 『でもね、今この家をもう一度見て、わかったんだ。ママは、ずっとボクに話しかけてくれてた。言葉じゃないんだ……気持ちで、包んでくれてた、って。ボクが、最後まで、まっすぐに前を向いて歩いていけるように、ずっと祈ってくれてた……ようやく、それがわかったよ』 明日奈の眼にも、白い家の窓際にひざまずいて、星空に向かって祈りを捧げる母と二人の娘の姿が見えるような気がした。ユウキの静かな声に導かれるように、明日奈はいつしか、ずっと、ずっと以前から胸のおくにわだかまっていた気持ちを言葉に乗せていた。 「わたしもね……、わたしも……、もうずっと、母さんの声が聞こえないの。向かい合って話しても、心が聞こえない。わたしの言葉も伝わらない。ユウキ、前に言ったよね。ぶつからなけりゃ、伝わらないことがある、って。どうしたら、ユウキみたいにできるかな……? どうしたら、ユウキみたいに強くなれるの……?」 すでに両親を亡くしているユウキに対して、配慮のない言葉かもしれなかった。すくなくとも、普段の明日奈ならそう考え、口にすることはなかったろう。しかし今だけは、肩のプローブを通して伝わるユウキの精神的波動が、明日奈の心を覆う壁を溶かしていた。まるで幼かったころに戻ったかのように、無心な気持ちで、明日奈は尋ねた。 ユウキは、どこか困ったような声で答えた。 『ボク……強くなんかないよ、ぜんぜん』 「そんなことない。わたしみたいに、人の顔色うかがって、怯えたり、尻込みしたり、ユウキはぜんぜんしないじゃない。すごく……すごく、自然に見えるよ」 『うーん……でもね、ボクも昔、まだ現実世界にいた頃は、いつも違う自分を演じてた気がする。パパもママも、ボクと姉ちゃんを産んだことを、心のどこかでずっと謝ってたの分かってたし……。パパとママのために、ボクはいつも元気でいなきゃ、病気のことなんかぜんぜんへっちゃらでいなきゃ、って思ってた。だから、メディキュボイドに入ってからも、そんなふうにしか振舞えなくなっちゃったのかも。本当のボクは、周りのぜんぶを恨んで、憎んで、毎日泣き喚いてるような子なのかもしれないよ』 「……ユウキ……」 『でもね、ボクは思うんだ。演技でもいいや……って。強いふりをしてるだけでも、それで笑顔でいられる時間が増えるなら、ぜんぜんかまわないじゃない、ってさ。ほら、ボク、もうあんまり時間がないからさ……。誰かと触れ合うときに、遠慮して、遠くから気持ちの端っこを突っつきあったりする時間が勿体無いって、どうしても思っちゃうんだよね。それなら最初からどかーんとぶつかってさ。もし相手に嫌われちゃっても、それはそれでいいんだ。その人の心のすぐ近くまで行けたことには変わりないもんね』 「……そうだね……。ユウキがそうやってくれたから、わたしたち、たった何日かでこんなに仲良くなれたんだよね……」 『ううん、それはボクじゃないよ。ボクが逃げても、アスナがいっしょうけんめい追いかけてくれたからだよ。――昨日、モニタルームにいるアスナを見て、声を聞いてたら、アスナの気持ちがすごく伝わってきた。この人は、ボクの病気のことを知っても、まだボクにもう一度会いたいって思ってくれてるんだ、って分かって、本当に……本当に、泣いちゃうくらい嬉しかったんだ』 一瞬声を詰まらせてから、ユウキは続けた。 『……だから、お母さんとも、あの時みたいに話してみたらどうかな。気持ちって、伝えようとすればちゃんと伝わるものだって思うよ。だいじょうぶ、アスナはボクよりずっと強いもん。ほんとだよ。ぶつからなきゃ、伝わらない……アスナがどーんってぶつかってきてくれたから、ボクは、この人にならボクの全部を預けられるって、そう思えたんだ』 「……ありがと。ありがとう、ユウキ」 どうにかそれだけ言って、明日奈は目尻に滲む涙がこぼれないように、上を向いた。首都圏の、完全には暗くなることのない夜空にも、人工の光に負けずに煌めく星たちをいくつも数えることができた。
駅に戻ったところで、プローブのバッテリ残量アラームが鳴った。明日奈はユウキと翌日また一緒に授業を受けることを約束し、携帯端末の接続を切った。 ふたたび電車を乗りついで、世田谷の自宅に帰りついたときには、九時を大きく回っていた。 しんと冷たい空気に沈む玄関ホールに、ドアロックのかかる音がやけに大きく響くのを聞きながら、明日奈は大きく一回息をした。右肩には、まだユウキが腰掛けていた重みがわずかに残っている。その暖かさをそっと左手で押さえてから、靴を脱ぐと、足早に自室に向かった。 室内着に着替え、すぐに廊下に出る。向かったのは、同じ二階の奥にある兄・裕明の書斎だ。父親と同じく殆ど家に居着こうとしない裕明は、当然まだ帰っていないだろうと思いながらノックをしたが、やはり返事は無かった。構わず、勝手にドアを開ける。 書斎とは名ばかりの、本物の書物はほとんど存在しない部屋の中央に、大きなビジネスデスクがでんと横たわっている。その左サイドに、目当てのものがあった。裕明が仮想空間内の会議などに使用しているアミュスフィアだ。 明日奈のものより数段新しいヘッドギアとドライブを掴み上げると、自室に取って返した。早速本体の電源を入れると、予備のアルヴヘイム・オンラインのディスクをドライブに挿入する。ベッドに横になり、裕明のアミュスフィアのアジャスタを自分の頭のサイズにセットして、すぽんと被る。 パワースイッチを入れると、たちまち接続シークエンスが開始され、次いでALOのログイン空間へと転送された。だが明日奈は、いつも使っているメインのアカウントではなく、「他人」になりたい時にたまに使用しているサブアカウントでALOにダイブした。 出現したのは、22層、森の家のリビングルームだった。しかし体はいつもの「アスナ」ではなく、「エリカ」という名の別キャラクターだ。服装をチェックし、腰に帯びていた二本のダガーを外してチェストに仕舞う。即座にメニューを開き、一時ログアウトコマンドを実行する。 ほんの数十秒のダイブから、明日奈はたちまち現実の自分の部屋へと復帰した。頭からアミュスフィアを外すが、青いインジケータはゆっくりと点滅を続けている。これはVRワールドとの接続がサスペンド状態になっているという表示であり、再度頭に装着してパワースイッチを入れれば、ログイン過程をスキップしてゲームに戻ることができる。 兄のアミュスフィアを手にしたまま、明日奈は立ち上がった。ナーヴギアと違って、アミュスフィアはドライブ本体とは無線で接続されており、家の中であればほとんど端から端まで回線を維持できるはずだ。 ドアを開け、再び廊下に出ると、今度は少々重い足取りで階段を降りた。 一階のリビング、ダイニングを覗いたが、やはりもうテーブルは綺麗に片付けられ、母親の姿は無かった。さらに屋敷の奥へと向かい、廊下を一度曲がると、その先の、母親の仕事部屋のドアの下部からうっすらと光が漏れているのに気付いた。 ドアの前で立ち止まり、ノックしようと右手を上げてから、何度か躊躇う。 いつから、母親の部屋を訪ねるのが、こんなにも気詰まりになってしまったのだろう、と明日奈は苦い笑みとともに考えた。しかしそれは多分、半ば以上明日奈に原因があることなのだろう。気持ちが伝わらないのは――伝えようとしていなかったせいだ。それを、ユウキが気付かせてくれた。 明日奈はぐっと息を吸うと、音高くドアをノックした。 すぐに、どうぞという声が微かに聞こえた。ノブを回し、開いた隙間に体を滑り込ませると、後ろ手にドアを閉める。 京子は、重厚なチーク材の机に向かい、昔ながらのパソコンのキーボードに指を走らせていた。しばらくそのままキーを高い音とともに叩きつづけてから、一際強くリターンキーを鳴らし、ようやく体を椅子の背に預ける。眼鏡を押し上げつつ明日奈のほうに向けられた視線は、常にない苛立ちに満ちているように見えた。 「……遅かったわね」 それだけを口にした京子に、明日奈は俯きながら謝罪した。 「ごめんなさい」 「夕食はもう始末しましたからね。何か食べたいなら、冷蔵庫の中のものを勝手にしなさい。この間話した編入申請書の期限は明日ですからね。朝までに書き上げておくのよ」 話は終わった、とばかりにキーボードに手を戻そうとする京子に向かって、明日奈は用意していた言葉を口にした。 「そのことなんだけど……話があるの、母さん」 「言ってみなさい」 「ここじゃ説明し難いの」 「じゃあどこなら言えるのよ」 すぐには答えず、明日奈は京子のかたわらまで進み出ると、左手で体の後ろに下げていたものを差し出した。サスペンド中の、アミュスフィアを。 「VRワールド……。少しだけでいいから、これで、来てほしい場所があるの」 銀色の円環をちらりと一瞥しただけで、京子はおぞましい物を見るように眉間に谷を刻んだ。議論の余地もない、というように右手を振る。 「嫌よ、そんなもの。ちゃんと顔と顔を向かい合わせて出来ない話なんて、聞く気はありませんよ」 「お願い、母さん。どうしても見せたいものがあるの。五分だけでいいから……」 いつもなら、ごめんなさい、と一言だけ言って引き下がる場面だった。しかし明日奈はもう一歩前に出て、間近からじっと京子の瞳を見詰め、言い募った。 「お願いします。わたしが今、何を感じて、何を考えているのか、それを話すのには、ここじゃだめなのよ。一度だけでいい……わたしの世界を、母さんに見せたいの」 「…………」 京子はますます眉間をきつく寄せ、唇を引き結んでじっと明日奈を見ていたが、数秒後、ふうっと長いため息をついた。 「――五分だけよ。それに、何を言われようと、お母さんはあなたを来年度もあの学校に通わせる気はありませんからね。話が終わったら、申請書をちゃんと書くのよ」 「……はい」 明日奈は頷き、左手のアミュスフィアを差し出した。京子は触るのも嫌そうに顔をしかめながらそれを受け取り、ぎこちない手つきで頭に載せた。 「どうすればいいの、これ?」 明日奈は手早くアジャスタを調節してから、言った。 「電源を入れたら、そのまま自動で接続するから。中に入ったら、私が行くまで待ってて」 京子が軽く頷き、椅子の背もたれに体を預けたのを確認して、明日奈はアミュスフィアの右側面にあるパワースイッチを入れた。主インジケータが点灯状態になり、接続インジケータが不規則な点滅を始める。すぐに、京子の体からふっと力が抜けた。 明日奈は急いで仕事部屋から飛び出ると、廊下と階段を全力で駆け抜けて、自分の部屋へ戻った。どすんとベッドに飛び込むと、使い込んだアミュスフィアを頭に載せる。 パワースイッチに触れると、目の前に放射状の光が伸びて、明日奈の意識を現実から切り離した。
見慣れた白木作りのリビングルームに降り立ったアスナは、くるりと部屋中を見渡して『エリカ』の姿を探した。すぐに、食器棚の脇に掛けてある鏡の前に、若草色のショートヘアを持つシルフの少女が立ち、自分の姿を覗き込んでいるのを見つけた。 アスナが近づいていくと、エリカ/京子は肩越しにちらりと振り向き、現実世界の彼女とまったく同じ仕草で眉をしかめた。 「なんだか、妙なものね。知らない顔が自分の思い通りに動くなんて。それに……」 つま先で、何度か体を上下させる。 「ヘンに体が軽いわ」 「そりゃあそうよ。その体の体感重量は40キロそこそこだもの。現実とはずいぶん違うはずよ」 微笑を交えながらアスナが言うと、京子は再び不愉快そうに眉根を寄せた。 「失礼ね、私はそんなに重くありませんよ。――そう言えば……あなたは向こうと同じ顔なのね」 「うん……まあね」 「でも、少し本物のほうが輪郭がふっくらしてるわね」 「お母さんこそ失礼だわ。現実とまったく一緒です」 言葉を交わしながら、アスナは、前に京子とこんな何気ない会話をしたのは一体いつのことだろう、とふと考えた。もう少しこのままお喋りをしたい、と思ったが、京子は両腕を胸の前で組むと、軽口を打ち切る意思を示した。 「さ、もう時間がないわよ。見せたい物って、何なの」 「……こっちに来て」 アスナはため息を押し殺しながらリビングを横切り、ふだんは物置に使っている小部屋のドアを開けた。京子が覚束ない足取りで付いてくるのを待って、小部屋の奥にある小さな窓へと導く。 南向きのリビングからは、大きな芝生の庭と小道、なだらかな丘とその向こうの湖を美しい絵のように一望することができるが、北向きの物置部屋の窓からは、草深い裏庭と小さな川、間近に迫る針葉樹の森が見えるだけだ。この季節ではそのほとんどが雪に覆われて、寒々しいという以外に表現できない風景である。 しかし、それこそが、アスナが京子に見せたかったものだった。 アスナは窓を開け放つと、深い森を眺めながら言った。 「どう、似てると思わない?」 京子は再び眉をしかめ、小さく首を振った。 「何に似てるって言うのよ? ただのつまらない杉林じゃ――」 言葉は、途中で吸い込まれるように消えた。口を半ば開けたまま、茫然とした視線で窓の外を眺めている。その横顔に向かって、アスナはそっと囁いた。 「ね、思い出すでしょう……お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんの家を」 明日奈の母方の祖父母、つまり京子の両親は、宮城県の山間部で農業を営んでいた。家があったのは、急峻な谷間をどうにか切り拓いたような小さな村で、田んぼはすべて棚のように山肌に貼り付き、機械化などしようもなかった。主に作っていたのは米だったが、収穫できるのは一家が一年食べれば無くなってしまうほどの量でしかなかった。 それでもどうにか京子を大学まで進学させることができたのは、ささやかながら先祖伝来の杉山があったからだ。旧い木造の家は、その山裾にうずくまるように建っており、縁側に座ると、見えるものは小さな庭と小川、そしてその奥の杉林だけだった。 しかし明日奈は、幼い頃から京都の結城本家よりも「宮城のじいちゃんばあちゃん」の家に行くことを好んだ。毎年夏休みと冬休みは駄々をこねてまで連れて行ってもらい、祖父母と一緒の布団で、色々な昔話を聞かせてもらったものだ。夏に縁側で食べたかき氷、秋に祖母と一緒に干した柿、色々な思い出があるが、特に良く覚えているのは、真冬、しんしんと冷えるなか掘り炬燵に入って、みかんを食べながら、窓の外の杉林に見入っているという情景だった。 祖父母は、林なんか見て何が面白いのかと訝ったが、白い雪のなかに黒い杉の幹がどこまでも連なるさまを見ていると、心が吸い込まれそうになるのだった。自分が、雪の下の穴で春を待つ子ネズミになったような気がして、心細いような、暖かいような、不思議な感慨に包まれて、いつまでも杉林を見つめ続けた。 祖父と祖母は、明日奈が中学二年の時に相次いで他界した。棚田や山はすべて売却され、住む者のなくなった家は取り壊された。 だから、宮城の山村からは物理的にも観念的にも遥かに隔たった場所であるアインクラッド22層にこの家を買い、北の窓から雪深い針葉樹林を見たとき、明日奈の胸には泣きたくなるほどの郷愁が過ぎったのだった。 京子が、生家が貧しい農家だったことを恥ずかしいと思っていることは知っていた。だがそれでも、明日奈はどうしてもこの窓からの眺めを京子に見せたかった。彼女がかつて毎日のように眺め、そして無理矢理忘れ去ってしまったのであろう風景を。 京子は、無言で杉林に見入っていた。その横に進み出て、アスナはゆっくりと話しはじめた。 「わたしが中一の時の、お盆のこと覚えてる? 父さんと母さん、それに兄さんは京都に行ったけど、わたしはどうしても宮城に行きたいって言い張って、ほんとにひとりで勝手に行っちゃったときのこと」 「…………覚えてるわ」 「あの時ね、わたし、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに謝ったの。お母さんが、お墓参りに来れなくてごめんなさい、って」 「あの時は……結城の本家でどうしても出なきゃいけない法事があったから……」 「ううん、責めてるんじゃないのよ。だってね……お祖父ちゃんたち、私が謝ったら、茶箪笥から分厚いアルバム持ってきてね。中見て、すっごい驚いたよ。――母さんの、最初の論文から始まって、色んな雑誌に書いた記事や、インタビューが、全部ファイルしてあった。ネットに載ったやつまで、プリントして貼ってあったよ。二人とも、パソコンなんてぜんぜん分からなかっただろうにね……」 「…………」 「それで、わたしにそのアルバムを見せてくれながら、お祖父ちゃん言ったわ。母さんは、自分たちのたった一つの誇りなんだ、って。村から大学に進んで、学者になって、雑誌にたくさん寄稿して、どんどん立派になるのが、凄く嬉しいんだ、って。論文や学会で忙しいんだから、お盆に帰れなくても当たり前だし、それを不満に思ったことは一度もない……って……」 京子は、ただじっと森を見詰めながら、無言でアスナの言葉を聞いていた。その横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。だが、アスナは懸命に口を動かしつづけた。 「そのあと、お祖父ちゃん、こう続けたの。――でも、母さんも、いつかは疲れて、立ち止まりたくなる時がくるかもしれない。いつか後ろを振り返って、自分の来た道を確かめたくなるかもしれない。その時のために、自分たちはずっと、この家を守っていく……もし、母さんが、支えを欲しくなったときに、帰ってこられる場所があるんだよ、って言ってやるために、ずっと家と山を守り続けていくんだ……。――わたし、その時は、お祖父ちゃんの言葉の意味が全部はわからなかった。でも、最近になって、ようやくわかってきた気がするんだ。自分のために走り続けるのだけが人生じゃない……誰かの幸せを、自分の幸せだと思えるような、そういう生き方だってあるんだ、って」 アスナの脳裏に、キリト、ユウキ、リズベットたち、シーエンたちの顔が一瞬、浮かんだ。 「……わたし、周りの人たちみんなを笑顔に出来るような、そんな生き方をしたい。疲れた人をいつでも支えていけるような、そんな生き方をしてみたいの。そのために――今は、あの学校に行きたい」 言葉を探し探し、アスナはどうにかそこまでを言い終えた。 しかし京子は、口元を引き結んだまま、森を眺めつづけていた。その濃緑色の瞳には、茫漠とした色が浮かんでいるだけで、内心を伺うことはできなかった。 そのまま、およそ五分以上も沈黙が続いた。巨木のあいだの雪原を、ウサギに似た小さな動物が二匹、じゃれあいながら跳ねていった。アスナは一瞬そちらに視線を取られてから、京子の横顔を見直して、ハッと息を飲んだ。 京子の、今は白磁のように透き通った頬に、ひと筋の涙が流れ、ぽたぽたと滴っていた。唇がかすかに動いたようだったが、言葉は聞き取れなかった。 しばらくして京子は、自分が泣いていることにようやく気付き、慌てたように両手で顔を何度もぬぐった。 「ちょっと……何よこれ、私は、別に泣いてなんか……」 「……母さん、この世界では、涙は隠せないのよ。泣きたくなったときは、誰も我慢できないの」 「不便なところね」 吐き捨てるように言い、京子は何度も目を擦っていたが、ついに諦めたように、両の手の平で顔を覆った。やがて、その奥からかすかな嗚咽が漏れ出した。アスナは何度か躊躇ったあと、小刻みに震える京子の肩に、そっと手を乗せた。
翌朝。 朝食のテーブルについた京子は、すっかりいつもどおりの様子で、新聞を捲っていた。おはようの挨拶のあとは静寂のうちに食事が終わり、明日奈は編入申請書を提出しろと言われることを覚悟した。が、京子はいつもに較べるとわずかに険の取れた目つきで明日奈を見て、唐突に言った。 「あなたは、誰かを一生支えていくだけの覚悟があるのね?」 明日奈は慌てて頷いた。 「う……うん」 「――でも、人を支えるには、まず自分が強くなけりゃダメなのよ。大学にはきちんと行きなさい。そのためにも、三学期と、来年度はこれまで以上の成績を取ることね」 「……母さん……じゃあ、転校は……」 「言ったでしょう? 成績次第よ。頑張るのね」 それだけ言うと、京子は足早にダイニングを出て行った。音高く閉まったドアをしばらく凝視してから、明日奈はそっと頭を下げ、ありがとう母さん、と呟いた。 着替え、鞄を持って家を出るまでは、そのまま神妙な態度を保ったが、表門を出たとたん、明日奈は霜の光る路面を思い切り駆け出していた。自然に、唇から笑みが溢れた。 和人に言いたかった。今年も、ずっと同じ学校に通えることを。ユウキに言いたかった。母親と、ちゃんと話が出来たことを。 駅に向かう人波を縫って走りながら、明日奈は駅につくまでずっと、浮かんでくる微笑みを抑えることができなかった。
その三日後、約束どおり、森の家で盛大なバーベキュー大会が催された。 集まったメンバーは、キリト、リズベット、リーファ、シリカらいつもの仲間たちと、ユウキ、シーエンたちスリーピングナイツのメンバー。サクヤ、アリシャ、ユージーンら一部種族の領主たちとその側近。計数十人という大集団の胃を満たすために、わざわざ食材狩りのパーティーが結成されたほどだ。 乾杯の音頭に先駆けて、アスナはスリーピングナイツの面々をあらためて皆に紹介した。病気のことだけは伏せたが、彼らが色々なVRMMOを股にかけた凄腕集団であること、解散前にALOで思い出づくりをしていることなどは、ユウキたちの了承を得てすべて話した。 67層ボスをたった七人で攻略した謎のギルドの噂、そして何より辻デュエルで百人以上を斬ってのけた"絶剣"の噂はすでにアルヴヘイム中を駆けめぐっていたようで、サクヤやユージーンなどはさっそく自陣への勧誘を始めたものだ。ユウキは笑って辞退したが、もしスリーピングナイツがいずれかの種族に傭兵として雇われたら、ALOのパワーバランスは大いに変化し、現在進行中のグランドクエスト第二弾の行方に多大な影響を与えたことだろう。 賑やかな乾杯のあと、嵐のような暴飲暴食の宴が始まり、アスナもユウキと一緒に大いに食べ、飲んだ。その席上で、こうなったら68層以降のボス攻略も狙っちゃおうということになり、勢いで二次会が68層迷宮区踏破ツアーになって、なんとそのまま大人数でボス部屋になだれ込んで巨大な甲殻類型のボスを屠ってしまったのは笑い話に類するものだろう。 剣士の碑に刻まれた名前は、残念ながらユウキと、パーティーリーダーを努めたキリト達数名のものになってしまったが、69層はあらためてスリーピングナイツだけでチャレンジすることを約して、その日は解散となった。 アルヴヘイムで冒険を重ねるあいだも、現実世界では、ユウキは双方向通信プローブを使って毎日授業に参加した。和人や直葉の家も一緒に訪ねたし、エギルの店にも遊びに行った。 出会った当初は、妙にカンの良すぎる和人のことを警戒していたユウキだが、互いに片手直剣の使い手とあって話してみるとすぐに打ち解け、ALO内では剣技の研鑚について、現実世界ではプローブの発展形についてなど、盛んに議論を戦わせて時折アスナをやきもきさせたものだ。スリーピングナイツのほかのメンバーたちも、リズベットやリーファたちとそれぞれ仲良くなって、色々なイベントを企画しては大いに楽しんだ。 二月。 アスナとスリーピングナイツは、69層、そして70層のボスをもワンパーティーで撃破して、アルヴヘイム中にその勇名を轟かせた。中旬に開催された統一デュエル・トーナメントでは、東ブロックではキリトが、西ブロックではユウキがそれぞれ破竹の勢いで勝ち進み、決勝はVRMMO情報番組「MMOフラッシュ」で生中継されるとあって、最高潮の盛り上がりを見せた。 無数のプレイヤーたちが固唾を飲んで見守るなか、ユウキとキリトはそれぞれの大技OSSを連発するド派手な激戦を展開し、30分以上に及んだ試合の最後に、ユウキが神技とも言える11連撃でキリトを破ったときには、世界中が震えるほどの大歓声が湧き起こった。 四代目統一チャンピオンの座についたユウキの名は、ALOの枠を超えて広く鳴り響いた。 三月。 期末試験を終えた明日奈は、通信プローブを肩に乗せ、里香、珪子、直葉と一緒に、三泊四日の京都旅行に出かけた。その時には、プローブの情報を複数のクライアントに並列して送れるようになっていたため、ユウキだけでなくシーエンやジュンたちにも京都を案内できるとあって、色々な名所を解説する言葉にも力が入った。 宿は結城家の広大な屋敷を有効に利用させてもらい、毎夜色々な京料理に舌鼓を打つことができたが、味ばかりはプローブで送ることができず、散々ユウキたちにずるーいと連発されてしまった。お陰で、帰ってからVR世界で味を再現することを約束させられ、明日奈は料理シミュレーションソフトの中で大変な苦労をすることとなった。 すべてが、夢のように過ぎていった。アスナとユウキは、仮想世界と現実世界で、長い、長い旅をした。行きたい場所は山ほどあるし、時間もまだまだ沢山ある、とアスナは信じていた。 四月まであと数日、となったある日。オホーツク海から張り出してきた寒気団が、関東一円に季節はずれの大雪を降らせた。 春の気配を覆い隠すように積もった厚いぼたん雪が、弱々しい日差しの下でようやくすべて解けかけた頃。 明日奈の携帯に、倉橋医師から、ユウキの容態が急変したという知らせが届いた。
端末の小さなモニタに表示された短いメッセージを凝視しながら、明日奈は胸の奥でただひとつの言葉だけを何度も繰り返していた。 そんなはずはない。 そんなはずがないではないか。このところユウキはとても精力的にあれこれ活動しているし、脳のリンパ腫も進行が止まっていると倉橋医師も言っていた。近年では、HIV感染後、20年以上ウイルスを押さえ込むことに成功している例も多数あるそうだ。ユウキはまだたった15歳……なにもかも、これからではないか。急変、というのは、今まで何度かあったという日和見感染の重症化であって、今回だってユウキは乗り越えるはずだ。 しかし、明日奈は心のもう一方で理解してもいた。医師が直接明日奈にメッセージを送ってきたのは、初めてのことだった。つまりこれは、その時が来た――という知らせなのだろう。明日奈が夜毎ベッドの中で、怯えとともに想像しては打ち消してきた、その時が。 せめぎあう二つの声に翻弄されながら、明日奈は数秒間立ち尽くしていたが、やがてぎゅっと一度まばたきしてから、新しくメーラーを起動した。キリトやリズベットたちと、シーエンたちに、短い同一文面のメールを送信する。それが済むと、部屋着を脱ぎ捨てて、服装に迷う時間も惜しかったので機械的に学校の制服を身につけた。靴を履くのももどかしく、表門から半ば駆け出すと、柔らかく降り注ぐ日差しが、先日降った雪の名残に白く跳ね返って明日奈の眼を射た。 三月末の日曜日、午後二時。道ゆく人は皆、待ちわびた春の訪れに浮き立つように、ゆっくりと歩いている。その傍らをすり抜けながら、明日奈は懸命に駅まで走った。 どのように電車の行き先を確かめ、乗り継いだのか、まるで覚えていなかった。ふと我に返ると、港北総合病院の最寄駅の改札を走りぬけたところだった。まるで頭の奥が白くハレーションを起こしたように痺れて、ばらばらの思考の断片がいくつも浮かんでは消えていく。 明日奈はぎゅっと歯を噛み締めると、ユウキ、待ってて、と一言呟いて、ちょうどロータリーに走りこんできたタクシーに駆け寄った。
病院の面会受付窓口には、すでに話が通っていたようだった。明日奈が強張った口で来意を告げると、看護師はすぐにプレートを寄越して、中央棟六階へ急ぐように言った。 エレベーターの階数表示がひとつひとつ増えていくのをじりじりしながら待ち、ドアが開いた途端飛び出す。セキュリティゲートのセンサーに、プレートをぶつけるようにして通過すると、マナー違反と知りつつ再び走る。白く無機質な通路を記憶にある通りに辿り、最後の角を曲がると、ついにユウキが眠る無菌室のドアが視界に入った。 ――その途端、明日奈は息を飲んで立ち尽くした。 二つ並んだドアのうち、手前がモニタルームの入り口だ。そしてその奥、いかにも厳重そうな注意書きが大書してあるのが、エアシールされた無菌室のドア。以前明日奈がこの場所を訪れたときは、当然のように固く閉じられていたそれが、今は大きく開け放たれていた。茫然と見つめるうちに、そこから何の変哲もないナースウェアを身につけた看護師が一人、足早に姿を現した。 看護師は明日奈を見ると短く頷き、横を通り抜けながら、「早く中へ」と囁いた。その声に促され、よろよろと数歩進み、ドアの前に立つ。 白一色の部屋の内部が、否応なく眼に飛び込んできた。 あれほど沢山あった機械類の殆どは、左の壁際へと押しやられていた。中央のジェルベッドの周囲には、二人の看護師と一人の医師が付き添い、横たわる小さな姿を見守っていた。三人とも、通常の白衣姿だった。 その光景を見た瞬間、明日奈は悟った。全ては、もう、取り返しのつかない段階へと入ってしまっているのだということを。はるか以前に既定された「その時」が訪れるのを、ただ見守ることしかできないのだということを。 倉橋医師が顔を上げ、明日奈の姿を認めた。左手を上げ、短く差し招く。半ば自動的に、ふらつく足を交互に動かして、明日奈は部屋の中へと入った。 ジェルベッドまではほんの数メートルなのに、とてつもなく長く感じた。冷徹な現実までの残り距離を一歩一歩削り取るように歩き、明日奈はベッドの傍らに立った。 白いシーツを胸まで掛けられた、痩せ細った少女が横たわり、薄い胸をごくゆっくり上下させていた。右上の心電図が、緑色の波形を弱々しく刻んでいる。 以前に見たときは、少女の頭をほぼ覆い隠していたメディキュボイドが、その長方形の筐体を二つに分離させていた。ちょうど耳の線から上の部分が、90度後ろに倒されている。内部はちょうど人の頭の形にくぼんでおり、そこに眼を閉じた少女の顔が包まれていた。 初めて目にする、現実世界のユウキの顔は、痛々しいほど肉が落ち、透けるように色素が薄かった。しかしその容姿は、明日奈にどこか神秘的な美しさを感じさせた。本物の妖精がもしいるなら、こういう姿を持っているかもしれないと思わせるものがあった。 無言のままユウキを見つめていると、いつの間にか横に立っていた倉橋医師が、低い声で言った。 「よかった……間に合って」 間に合う、という言葉に受けいれがたいものを感じた明日奈は、きっと顔を上げ、医師を見た。だが、眼鏡の奥の細い、理知的な眼は、あくまでいたわるように明日奈を見ていた。再び、医師が言った。 「四十分前、一度心臓が停止しました。投薬と除細動によって脈拍が戻りましたが、恐らく、次は……もう……」 明日奈はぐっと息を詰めてから、食い縛った歯のあいだから掠れた声を絞り出した。しかし、意味のある言葉を組み立てることはできなかった。 「なんで……なんでですか……。だって……だって、ユウキは、まだ……」 医師は一度頷いてから、かすかに首を左右に振った。 「――本当は、一月にあなたがここを訪れた頃から、いつこの日が来てもおかしくなかったのです。HIV消耗性症候群による発熱と、脳原発性リンパ腫の進行で、木綿季くんの命はずっと、薄い氷の上を歩くような状況にあった。しかし木綿季くんは、この三ヶ月、我々も驚愕するような頑張りを見せた。絶望的な闘いを、日々勝ち続けてきたのです。彼女は、充分すぎるほどに頑張った……いや――それを言うなら……」 ここで初めて、医師の声がわずかに震えた。 「木綿季くんにとっては、この十五年の生そのものが長い、長い闘いだったのです。HIVとだけじゃない……冷酷な現実そのものに、彼女はずっと抗いつづけてきた。メディキュボイドの臨床試験も、彼女には計り知れない苦痛を与えたはずです。しかし……木綿季くんは頑張りぬいた。彼女がいなければ、メディキュボイドの実用化は確実に一年は遅れたでしょう。だからもう――ゆっくり、休ませてあげましょう……」 医師の言葉を聞きながら、明日奈は胸のうちでそっとユウキに語りかけていた。 ユウキが――「負ける」わけないよね。だって、あなたは"絶剣"……何だって斬れないものはない、絶対最強の剣士だもん。ユウキは勝ったよ。病気にも……運命にも――。 その時だった。 ユウキがかすかに頭を動かした。薄いまぶたが震え、ほんの少しだけ持ち上がった。その奥、すでに光を失っているはずの灰色がかった瞳が、澄んだ光を湛えて、まっすぐに明日奈を見た。 ほとんど肌と同じ色の唇が小さく動いた。同時に、シーツのしたで細い右手がぴくりと震えて、ゆっくり、ゆっくりと明日奈のほうへ差し伸べられた。 医師が、感極まったような声で囁いた。 「明日奈さん……手を、握ってあげてください」 その言葉が終わらないうちに、明日奈は両手を伸ばし、ユウキの骨ばった右手を包み込んでいた。ひんやりとした手が、何かを求めるように明日奈の指をきゅっと握った。 瞬間、明日奈は天啓のように理解した。ユウキが、本当は何を欲しているのかを。 ユウキの手を握ったまま、さっと顔を上げた明日奈は、医師に向かって早口に言った。 「先生……今、メディキュボイドは使えますか?」 「え――それは、電源を入れれば……。しかし……木綿季くんも、最後は機械の外で……」 「いえ、ユウキはもういちどあの世界に行きたがってます。わたしにはわかるんです。お願いします……もう一度、メディキュボイドを使わせてあげてください」 医師は数秒間じっと明日奈を見ていたが、やがてぐっと頷いた。傍らの看護師たちにいくつか指示をしてから、メディキュボイドの上半分をそっと半回転させ、ユウキの頭に被せる。 「起動に一分ほどかかりますが……あなたは?」 「隣のアミュスフィアを使わせてもらいます!」 言いながら、明日奈は最後にユウキの手をぎゅっと握り、体の横へと戻した。待ってて、すぐ行くからね――と囁き、身を翻す。 無菌室を飛び出し、隣のモニタルームに駆け込むと、奥のドアを開けた。二つ並んだシートの片方に飛び乗ると、ヘッドレストの横からアミュスフィアを取り上げ、頭に乗せる。パワースイッチを入れ、起動シークエンスを待つ間も、明日奈の心はすでにあの場所へと飛んでいた。
森の家で覚醒したアスナは、前に病院からログインしたときと同じように、寝室の窓から飛び出すと全速で主街区を目指した。飛行するあいだに、ウインドウを開くと、念のために待機してもらっていたリズベットやシーエンたちにメッセージを飛ばす。 転移門に飛び込むと、迷うことなくセルムブルグを指定する。湖上都市に出現するや否や、今度は湖の彼方にあるあの島を目指す。二人がはじめて出会った、あの大樹の下を。 アインクラッドは夕暮れだった。外周部から差し込む夕陽が、湖を金色に染めていた。その光の帯に導かれるように、アスナはまっすぐ小島の上空に達すると、急降下して柔らかい草地の上に降り立った。 樹の周囲を捜す必要はなかった。ユウキは、もはやはるかな昔のように思えるあの日、二人が剣を交えたまさにその場所に立っていた。やや冷たい風に濃紺のロングヘアを揺らしながら、ユウキはゆっくりと振り向いた。 近づくアスナの姿を見ると、ユウキはにこりと笑った。アスナもくしゃっと微笑みを返す。 「――ありがとう、アスナ。ボク、大事なことをひとつ忘れてたよ。アスナに、渡すものがあったんだ。だから、どうしてももう一度ここで会いたかった」 その声はいつものように朗らかだったが、ほんの、ほんの少しだけ揺らいでいた。そうやって立ち、話しているだけで、ユウキが全身のエネルギーを振り絞っているのだということがアスナには分かった。 だが、アスナはユウキの前まで歩くと、首を傾け、同じように明るく尋ねた。 「なに? わたしに渡すものって」 「えーとね……いま作るから、ちょっと待って」 にっと笑うと、ユウキはウインドウを出し、何か短い操作を加えた。それを消すと、右手で腰の剣を、しゃらんと音高く抜き放つ。 赤い夕陽を受けて、ユウキの黒曜石の剣は燃えるような輝きを放っていた。それを体の正面で、大樹の幹に向かってまっすぐに構える。そのまま、ユウキはしばらく動かなかった。――まるで、残された最後の力を、すべて剣尖の一点に集めようとしているかのように、アスナには思えた。 ユウキの横顔が、苦痛を感じたようにわずかに歪んだ。ふらっと上体が揺れたが、ぐっと開いた足を踏ん張ってこらえる。 もういいよ、無理しなくていいよ、と言いたかった。しかしアスナはきつく唇を噛み、待った。さわっと草原を風が渡り、止んだ、その瞬間ユウキは動いた。 「やあっ!!」 裂ぱくの気合とともに、右手が閃いた。樹の幹に向かって、右上から左下に、神速の突きを五発。ぎゅん、と剣を引き戻し、今度は左上から右下に五発。突き技が一発命中するたび、凄まじい炸裂音が鳴り響き、天を突く大樹全体がびりびりと震えた。樹が破壊不能オブジェクトでなければ、間違いなく半ばからへし折れているだろうと思えた。 十字に十発の突きを放ったユウキは、もう一度ぎゅうっと全身を引き絞ると、最後の一撃を交差点に向かって突き込んだ。青紫色の眩い光が四方に迸り、足元の草が放射状にばあっと倒れた。 吹き荒れた突風が収まっても、ユウキは剣を幹に突きたてたままぴたりと動きを止めていた。 と、その剣尖を中心にして、小さな紋章が回転しながら展開した。同時に、じわじわと四角い羊皮紙が樹の表面から湧き出すように出現し、青く光る紋章を写し取ると、端からくるくると巻き上がっていく。 ユウキが剣を戻すと、完成したスクロールはそのまま宙に漂った。ゆっくりと左手を伸ばし、ユウキはそれを掴んだ。 かしゃん、と小さな音を立てて、右手の剣が草むらに落ちた。直後、ユウキの体がぐらりと揺れ、崩れ落ちようとした。アスナは素早く駆け寄ると、その体を支えた。そのままそっと腰を落とし、小さな体を両腕で包むように抱え上げる。 ユウキが眼を閉じていたので、一瞬どきんとしたが、すぐにその目蓋はすっと持ち上がった。ユウキはかすかに微笑むと、囁くように言った。 「へんだな……。痛くも、苦しくもないのに、なんか力が入らないや……」 アスナも微笑みかえすと、言った。 「だいじょぶ、ちょっと疲れただけだよ。休めば、すぐによくなるよ」 「うん……。アスナ……これ、受け取って……。ボクの……OSS……」 その声は、先ほどとは打って変わって途切れ途切れに震えていた。ユウキに残された最後の器官、意識の拠り所たる脳までもがすでに力尽きようとしていることを悟って、アスナの心に狂おしいほどの激情が吹き荒れたが、それを押し殺してもう一度微笑んだ。 「わたしに、くれるの……?」 「アスナに……受け取って……ほしいんだ……。さ……ウインドウを……」 「う……うん」 アスナは左手を振ると、ウインドウを出し、OSS設定画面を開いた。ユウキはぶるぶると震える左手を持ち上げると、そこに握られた小さなスクロールを、そっとウインドウに落とした。スクロールは光とともにたちまち消滅し、それを見たユウキは、満足そうなため息とともにぱたりと左手を落とした。ふわりと笑ってから、消え入るようにかすかな声で言った。 「技の……名前は……『マザーズ・ロザリオ』……。きっと……アスナを……守って、くれる……」 それを聞いた瞬間、ついに堪えきれなかった涙がいくつか、ユウキの胸元に落ちた。だが微笑みは消さないまま、アスナははっきりとした声で言った。 「ありがとう、ユウキ。――約束するよ。もしわたしがいつか、この世界から立ち去るときが来ても、そのときもかならずこの技は誰かに伝える。あなたの剣は……永遠に絶えることはない」 「うん……ありがと……」 ユウキはこくりと頷いた。その眼にも、光るものが滲んだ。 その時だった。いくつかの震動音――飛翔音が、重なって響いてきた。それはたちまち大きくなり、アスナとユウキを取り巻くように、立て続けにブーツが草を踏む音がした。顔を上げると、ジュン、テッチ、タルケン、ノリ、シーエンの五人が、我先にと駆け寄ってくるところだった。 五人は、ユウキを半円形に囲んで膝を落とした。ぐるりと皆の顔を見回し、ユウキは困ったように笑った。 「なんだよ……みんな、お別れ会は……こないだ、したじゃん。最後の見送りは……しないって、約束……なのに……」 「見送りじゃねえ、カツ入れに来たんだよ。次の世界で、リーダーが俺たち抜きでしょぼくれてちゃ困るからな」 にやっと笑いながら、ジュンが言った。赤銅のガントレットに包まれた手で、ユウキの右手をぐっと掴み、続ける。 「次に行ってもあんまウロウロしねえで待ってろよ。俺たちもすぐに行くからよ」 「何……言ってんの……。あんますぐ……来たら、怒る……からね」 ちっちっと舌を鳴らし、今度はノリが威勢のいい声で言った。 「だめだめ、リーダーはあたしらが居なきゃなんも出来ないんだから。ちゃんと、おとなしく待っ……待って……」 突然、ノリの顔がくしゃっと歪み、大きな黒い瞳から涙がぼたぼたと落ちた。喉のおくから、堪えきれないように嗚咽を二度、三度と漏らす。 「だめですよ、ノリさん……泣かないって、約束ですよ……」 笑顔で言葉を挟んだシーエンの頬も、二筋の涙できらきらと光っていた。最早溢れる涙を隠そうともせず、タルケンとテッチもユウキの手をぎゅっと掴む。 ユウキは五人の顔をぐるりと見回すと、泣き笑いの顔で言った。 「しょうがないなあ……みんな……。ちゃんと、待ってる……から、なるべくゆっくり……来るんだ、よ……」 スリーピングナイツの六人は、手を重ね合わせると、再会を誓うようにぐっと力強く頷きあった。シーエンたちが立ち上がるのと前後するように、新たな翅音がいくつか近づいてきた。 現われたのは、キリト、リズベット、リーファ、シリカの四人だった。皆、着地すると同時に駆け寄ってくると、ユウキを囲む輪に加わり、それぞれ一度ずつユウキの手を握る。 ユウキを腕の中に横たえ、涙に揺れる視界でその情景を見ながら、アスナはふとあることに気付いた。キリトたちが降り立っても、どこからかかすかな飛翔音が聞こえてくる。それもひとつではない。様々な種族の翅音が、いくつも、いくつも重なって、荘厳なオルガンのような反響音を作り出している。 アスナも、ユウキも、シーエンやリズベットたちも、ふっと空を振り仰いだ。 見えたのは、セルムブルグの方向からこちらに向かって伸びる、ひと筋の太いリボンだった。 何十人ものプレイヤーが、列を作って飛んでくる。その先頭にあるのは、長衣の裾をはためかせて飛ぶ、シルフ領主サクヤの姿だ。後ろに続くのは、様々な階調のグリーンを身にまとうシルフたちである。あの人数では、今ログインしているシルフのほぼ全員が集まっているに違いない。 いや――セルムブルグからだけではない。外周部のいろいろな方向から、いくつもの帯が小島目指して伸びてきていた。赤いリボンはサラマンダー。黄色いのはケットシーだろうか。インプ、ノーム、ウンディーネ……それぞれのリーダーに率いられたプレイヤーの大集団が、一直線に大樹へと向かって集まってくる。その数五百……いや、千を超えるだろうか。 アスナの腕のなかで、眼を見開いたユウキが、感嘆の声を漏らした。 「うわあ……すごい……。妖精たちが……あんなに、たくさん……」 アスナはユウキに微笑みかけながら言った。 「ごめんね、ユウキは嫌がるかもって思ったんだけど……わたしが、リズたちにお願いして呼んでもらったの」 「嫌なんて……そんなこと、ないよ……。でも、なんで……なんでこんなに、たくさん……夢……見てるのかな……」 ユウキが吐息混じりに囁くあいだにも、小島の上空にまで達した剣士たちは、次々と滝のような音を立てて降下してきた。サクヤやアリシャたち領主を先頭とした大集団は、すこし距離を置いてアスナたちを取り囲むと、次々に草地に片膝を着き、こうべを垂れる。さして大きくもない島は、みるみるうちに無数のプレイヤーで一杯になった。 アスナはユウキの瞳をじっと見つめ、一杯になった胸のうちをどうにか言葉にしようと、唇を動かした。 「だって……だって……」 再び、ぽたぽたと涙が滴る。 「ユウキ……あなたは、かつてこの世界に降り立った、最強の剣士……。あなたほどの剣士は、もう二度と現われない。そんな人を、さびしく見送るなんて……できないよ。みんな、みんなが、祈ってるんだよ……ユウキの、新しい旅が、ここと同じくらい素敵なものに、なりますように、って」 「…………嬉しい……ボク、嬉しいよ……」 ユウキは首を持ち上げ、周囲を取り囲む剣士たちをぐるりと見渡すと、ふたたびがくりとアスナの腕に頭を預けた。 目蓋を閉じ、小さな胸で何度か深く息をついてから、ユウキは再び紫色の瞳でじっとアスナを見た。すうっと大きく息を吸い、まるで最後の力をすべて振り絞るかのように、切れぎれだがはっきりとした声で話しはじめた。 「ずっと……ずっと、考えてた。死ぬために生まれてきたボクが……この世界に存在する意味は、なんだろう……って。 「何を……生み出すことも……与えることもせず……たくさんの薬や、機械を……無駄づかいして……周りの人たちを困らせて……自分も悩み、苦しんで……その果てに、ただ消えるだけなら……今この瞬間にいなくなったほうがいい……何度も、何度もそう思った……。なんで……ボクは……生きてるんだろう……って……ずっと……」 ユウキの、残された命の最後の一滴までが、今まさに燃え尽きようとしていた。腕の中の小さな体が、少しずつ軽くなり、透き通っていくようだった。ユウキの声はか細く、切れぎれだったが、しかしそれはかつて聞いたどんな言葉よりも純粋に、アスナの魂の深奥まで届いた。 「でも……でもね……ようやく、答えが……見つかった、気がするよ……。意味……なんて……なくても……生きてて、いいんだ……って……。だって……最後の、瞬間が、こんなにも……満たされて……いるんだから……。こんなに……たくさんの人に……囲まれて……大好きな人の、腕のなかで……旅を、終えられるんだから…………」 ユウキは短い吐息とともに言葉を止めた。その紫色の瞳は、アスナを透過して、どこか遥かに遠い場所を望んでいるかのようだった。もしかしたら、ほんとうの異世界――英雄たちの魂が集うという、真なる妖精の島を。 アスナはもう、流れ落ちる涙を止めることはできなかった。零れた滴たちは、次々にユウキの胸元で光の粒を散らした。しかし、口元には、いつしか自然と微笑みが浮かんでいた。大きく一度頷いてから、アスナはユウキに最後の言葉を告げた。 「わたし……わたしは、かならず、もう一度あなたと出会う。どこか違う場所、違う世界で、絶対にまた巡り合うから……そのときに、教えてね……ユウキが、見つけたものを……」 瞬間、ユウキの紫の瞳が、ぴたりとアスナの瞳をとらえた。その奥に、かつて出会ったときと同じ、無限の活力と勇気に満ちた輝きが、刹那のあいだきらめいた。それはすぐに、二つの水滴へと形を変え、溢れ、ユウキの白い頬を伝って滴り、光となって消えた。 唇がごく、ごくかすかに動いて、微笑みの形を作った。アスナの意識に直接、声が響いた。 「ボク、がんばって、生きた」 「生きて……よかった」 降り積もった無垢な雪原に最後の結晶がひとつ落ちるように、ユウキは、そのまぶたをそっと閉じた。
(ソードアート・オンライン外伝4 『絶剣』 終)
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