ソードアート・オンライン 外伝4 『絶剣』



「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」
 リズベットの声に、アスナはホロキーボードを打つ指を止めると、顔を上げた。
「ゼッケン? 運動会でもするの?」
「ちがうちがう」
 リズベットは笑いながら首を振り、テーブルの上から湯気を立てるマグカップを取り上げて一口含むと、話を続けた。
「カタカナじゃなくて漢字。絶対のゼツに剣と書いて、絶剣」
「絶……剣。新実装のレアアイテムかなんか?」
「のんのん。人の名前よ。あだ名……というか、通り名かな。誰も本名は知らないんだけどね。あんまり強すぎるんで、誰が呼び始めたのか、ついた名前が絶剣。絶対無敵の剣、空前絶後の剣……そんな意味だと思うけど」
 強い、と聞いて、アスナの好奇心は大いに刺激された。もとより剣の腕には大いに覚えのあるところだ。アルヴヘイム・オンラインのプレイヤーである今でこそ、後衛で回復魔法の詠唱が主任務となる水妖精――ウンディーネを種族として選択しているが、それでも時々昔の血がうずいて、腰のレイピアを抜いては敵陣に斬り込んでおお暴れしてしまうので、「バーサクヒーラー」などという優雅さとは縁遠い二つ名を頂戴してしまっている。
 毎月開かれるデュエル大会にも積極的に参加して、ALOの三次元戦闘に慣れた今では火妖精族のユージーン将軍や風妖精族のサクヤ領主といった剛の者たちと肩を並べるにまでなっているので、新たなつわもの出現と聞いては無関心ではいられない。
 書きかけの生物学のレポートをセーブし、ホロキーボードを消去すると、アスナはかたわらのマグカップを取り上げ、指先でワンクリックして熱いお茶を満たした。床から直接伸びる生木の椅子に深く座りなおし、本格的に話を聞く体勢に入る。
「それで……? その絶剣さんは、どんな人なの?」
「えっとね……」





 新生アインクラッド第22層の深い森は、すっぽりと白い雪に覆われていた。
 外の世界も一月初旬の冬真っ只中だが、近年とみに温暖化が進行していることもあり、東京では気温が零度を下回ることはほとんどない。現在建設が計画されている「都心第二階層」が数十年後に完成の暁にはほんものの雪が降ることすら無くなると聞く。
 しかし、運営体のサービス精神の発露なのか、妖精の国アルヴヘイムではまさに厳冬と言うに相応しい気候が続いている。大陸の中央にある世界樹以北は、フィールドでの体感温度が零下10度、20度に下がることなどザラで、きちんとした防寒装備か、あるいは耐寒呪文の援護なしにはとても空を飛ぶ気にはなれない。
 もっとも、小川の底まで凍りつくようなその寒気も、分厚い木壁に守られた部屋のなかまでは届かない。
 2015年5月の、アルヴヘイム・オンラインの大規模アップデート――『浮遊城アインクラッド』実装以降、アスナをゲームプレイに駆り立てたモチベーションはただひとつだった。
 必要な額のコル、いやユルド硬貨を遮二無二貯めて、誰よりも早く第22層の転移門をアクティベートし、針葉樹林の奥にぽつりとたつログ造りのプレイヤーハウスを購入すること。無論、はるかな昔に存在したもうひとつの浮遊城で、たった二週間だけだが楽しく、甘く、切ない日々を送った、まさにその場所に建つ家である。
 22層は森しかない過疎フロアだし、主街区の村にもプレイヤーハウスはいくつも用意されているし、よもや同じ家を狙うライバルはいないだろうと思っていた。それでも、キリトはもちろんリズベットやシリカ、リーファたちの手も借り、どうにか膨大な額の資金を用意して、自らの手で倒した第21層ボスモンスターのしかばねを蹴り飛ばすようにログハウスの前にたどり着き、購入ウインドウのOKボタンをクリックし終えたときには、思わずしゃがみこんで泣いてしまった。(その夜、パーティーが終わって客たちが皆帰ったあと、キリトと、元の少女態に戻ったユイと三人で祝杯のグラスを合わせたときも、もう一度大泣きした)
 なぜこの場所にこれほどまで拘ったのか、その理由はアスナにもなかなか言葉にすることはできない。はじめて本気の恋した男の子と、仮想世界のなかでとは言え艱難辛苦ののちにようやく結ばれ、短かったが幸せな日々を過ごした場所だから、と言ってしまうのは簡単だが、それだけではない気がアスナはしている。
 おそらく、この家は、現実世界において常に居場所を探していたアスナが、ついに見出した真の意味での『ホーム』だったのだ。つがいの鳥が翼を休め、身を寄せ合って眠るような、小さく暖かい場所。心の還る場所。
 もっとも、苦労のすえ手に入れて以来、ログハウスはすっかり仲間たちの溜まり場になってしまって、来客の途切れる日はほとんど無い。アスナが精魂こめて内装した小さな家の居心地よさは、一度訪れた者を例外なく虜にしてしまうようで、SAO時代の仲間はもちろん、ALOで新しくできた友人たちも頻繁にやってきてはアスナの手料理に舌鼓を打っていく。――いちど、どうしたタイミングか、サクヤとユージーンが同席してしまったときはなかなかに緊張感あふれる食卓が出現したものだが。
 今日――2016年1月6日も、森の家のリビングルームに「生えた」樹のテーブルは、おなじみの面々で埋まっていた。
 アスナの右隣にはシリカが座り、ホロウインドウ上に表示させた数式――冬休みの宿題に頭を捻りながらうなり声を上げている。左隣ではリーファが、同じく英文を睨んで顔をしかめている。
 向かい側にはリズベットが座り、こちらは木苺のリキュール片手に椅子にふんぞりかえって脚を組み、ゲーム内で売っている小説に没頭しているようだった。
 現実世界では午後4時ごろだが、窓の外はすでにとっぷりと日が暮れ、しんしんと降り積もる雪がランプの光を照り返していた。かすかな風鳴りの音を聞くまでもなく凍えるほどに寒そうだが、部屋の奥のペチカでは赤々と薪が燃え、その上の深鍋ではきのこのシチューがふつふつと湯気を上げて、暖かさとともにいい匂いを届けてくる。
 アスナもホロキーボードに両手を置き、ブラウザ窓をいくつも宙に浮かべて(ALOのプレイヤーホームでは、オプション設定によってはゲーム外のネットにも接続できる)、そこに呼び出した資料に目を走らせながら、課題のレポートを順調に仕上げていた。
 母親(もちろん現実の)は、アスナが現実世界でできることをVRワールドで済ませることにいい顔をしないが、長時間に及ぶ文章の入力などは、こちら側でやったほうが明らかに効率がいい。眼も手首も疲れないし、自室のモニタのUXGA解像度では不可能な数の資料窓をいくつも見やすい位置に浮かべておけるのだ。
 いちど、母親にもそう言って、文章入力専用のアミュスフィア用アプリケーションを試させてみたことがあるのだが、ほんの数分で「眩暈がする」と言ってログアウトし、以来見向きもしなかった。
 たしかに仮想世界酔いというものは存在するが、いまやダイレクトVRワールドネイティブであるとさえ言ってもいいアスナにとっては、こちら側の現実感はある意味では現実以上である。両手の指は一度のミスタイプもなく飛ぶように動き、エディタ上の文章は着々と結論へと近づいて――
 と、そのとき、右肩にこつんと乗っかるものがあった。
 見ると、シリカが、黒いショートヘアの頭をアスナの肩にもたれさせ、突き出た三角形の耳をぴくぴくさせながら、幸せそうな顔で寝息を立てている。
 アスナは思わず微笑みながら、そっと左手の人差し指でシリカの猫耳をくすぐった。
「ほら、シリカちゃん。今寝ちゃうとまた夜眠れなくって困るよー」
「うにゅ……むにゃ……」
「冬休みもあと三日しかないんだよ。宿題がんばらないと」
 耳をつんと引っ張ると、シリカはぴくんと体を震わせてから頭を起こした。ぼーっとした顔で何度か瞬きを繰り返し、頭をぷるぷる振ってアスナの顔を見る。
「う……うう……ねむいです」
 呟きながら、小さな白い牙のある口を大きく開けて大きな欠伸をひとつ。アスナの知っている猫妖精族、ケットシーのプレイヤーたちはこの家にくると皆よく眠るので、ひょっとしてそういう種族的特性でもあるのかと疑いたくなる。
 シリカの前のホロパネルを覗き込んで、アスナは言った。
「もうすぐそのページも終わりじゃない。がんばって、やっつけちゃおう?」
「ふ……ふぁい……」
「ちょっとこの部屋あったかすぎる? 温度下げようか?」
 聞くと、今度は左隣で、リーファが笑いを含んだ声で言った。
「いえ、そーじゃなくて、アレのせいだと思いますよー」
「?」
 振り向くと、リーファは黄緑色の長い髪を揺らして、部屋の奥、ペチカの向こうに視線を向けた。
「……ああ、ナルホド……」
 その方向を見て、アスナは深く納得しながら頷いた。
 赤々と燃える暖炉の前には、磨かれた木で出来た大きな揺り椅子がひとつ。
 椅子に深く沈みこみ、白河夜船の体で眠りこけるのは、浅黒い肌に漆黒のつんつん髪を持つ影妖精族、スプリガンの少年だった。言うまでもなくキリトである。
 彼の胸の上では、水色の羽毛を持つ小さなドラゴンが、これまた体を丸め、頭をふわふわのシッポに突っ込んで、心地よさそうに眠っている。ビーストテイマーであるシリカの、SAO時代からの相棒である小竜のピナだ。
 そして、ピナの柔毛に包まれた体をベッドがわりに、さらに一回り小さな妖精があどけない寝顔を見せている。艶やかな濃紺のストレートヘア、白いワンピース姿の彼女は、キリト専用の「ナビゲート・ピクシー」でありまたアスナとキリトの「娘」でもある、その実体は旧SAOサーバーから突然変異的に生み出された人工知能のユイである。
 キリトとピナとユイが三段の鏡餅のように積み重なり、揺り椅子の上で幸せそうに眠りこける有様は、一種魔力的と言ってもよい催眠効果を放射していて、数秒見つめるだけでアスナの目蓋もとろりと重くなってくる。
 キリトというのが、実にまたよく眠る男なのだ。まるで、SAO時代寝る間も惜しんで迷宮区の攻略に明け暮れた貸しを今取り立てているとでも言うかのように、この家にいるときは、ちょっとでもアスナが目を離すとお気に入りの揺り椅子に倒れこんでぐうぐう眠ってしまう。
 そして、揺り椅子の上のキリトの寝姿ほど、眠気を催させるものをアスナは知らない。
 かつてSAOのなかに居たころは、森の家で、またエギルの店の二階で、キリトが椅子を揺らしていると、必ずといっていいほどアスナはその上に乗っかって、暖かいまどろみを共有したものだ。つまりアスナにとっても大いに身に覚えがあるところなので、シリカやリーファが眠気を誘われるのは理解できる。
 しかし不思議なのは、至極単純なアルゴリズムで動いているはずのピナまでが、キリトが寝ているところに居合わせると、ご主人様であるシリカの肩からぱたぱた飛び立って、キリトの上でくるりと丸くなって眠ってしまうことだ。これはもう、寝ているキリトからはなんらかの「眠気パラメータ」が発生しているのではないかと疑いたくなる。実際、さっきまで頭をフル回転させてレポートを書いていたはずなのに、いつのまにか体がふんわりと……
「ちょっとアスナさん、自分が寝てますよ! あっ、リズさんまで!」
 シリカに肩をゆさゆさと揺すられ、アスナははっと顔を上げた。
 同時に、テーブルの正面ではリズベットがびくんと体を起こし、ぱちぱち目をしばたかせてから照れくさそうに笑った。銀妖精族レプラホーンの特徴である、金属光沢のあるペールピンクの髪をかきあげ、言い訳のようにぶつぶつつぶやく。
「アレ見てるとなんでこう眠くなるのかねぇ……。ひょっとしてスプリガンの幻影魔法じゃないだろうなぁー」
「ふふ、まさか。眠気覚ましに、お茶淹れるね。と言っても手抜きだけど」
 アスナは立ち上がると、背後の棚から、カップを四つ取り出した。最近のクエストで手に入れた、「クリックするだけで99種類の味のお茶がランダムに湧き出す」魔法のマグカップだ。
 テーブルにカップと、お茶うけのフルーツタルトが並ぶと、ゲンキンに眠気を払拭したシリカも含めて、四人はさっそくそれぞれ異なる香りのする熱い液体を口元に運んだ。
「そういえば、さ」
 リズベットが思い出したように言ったのは、その時だった。
「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」

 * * *

「うわさをよく聞くようになったのは、ちょうど年末年始のあたりだから……一週間前くらいからかなあー」
 そう言うと、リズベットは何かを合点したかのようにちいさく頷きながらアスナを見た。
「そっか、じゃあアスナが知らないのも当然か。あんた年末からずっと京都だったもんね」
「もう、こっちにいる時に嫌なこと思い出させないでよリズ」
 アスナが渋面をつくると、リズは大きな口をあけてあっはっはと笑った。
「いやー、イイトコのお嬢さんも大変だね」
「ほんと大変だったわよ。一日中着物で正座して挨拶ばっかりしてたし、夜に『潜ろう』にも母屋にはいまどき無線LANも入ってないんだよ。アミュスフィアもってったのに無駄になっちゃった」
 ふう、とため息をついて、お茶をごくりと飲み干す。
 アスナは、昨年末から両親、兄とともに、京都にある結城本家、つまり父親の実家になかば強制的に赴かされていた。アスナの、二年にわたる「入院」の間に親類筋には大いに心配をかけ、また世話になったからそのお礼を、と言われれば嫌とも言えない。
 幼い頃は、年始を本家で過ごすのは当たり前のことと思っていたし、同年代のいとこたちに会うのも楽しみだった。
 しかし、中学に上がった頃からだったろうか。アスナはだんだん、その恒例行事が気詰まりに思えるようになってしまった。
 結城の本家というのは、誇張でなく二百年以上も前から京都で両替商を営んできた家で、維新や戦争の動乱にもしぶとく生き残り、現在では関西一円に支店を持つ地方銀行を経営している。父親の結城彰三が、一代でレクトという大電器メーカーを興せたのも本家の潤沢な資金援助があったればこそであり、親戚筋を見渡せば、社長だの官僚だのはごろごろ転がっているのだ。
 当然のように、いとこたちは皆アスナや兄と同じような「いい学校」の「優等生」で、宴席で子供たちが行儀良く並んで座るとなりでは、親たちがうちの子は何の大会で表彰されただの、全国模試で何番を取っただのという話を、表面上は穏やかに、だが延々と応酬し続けるのである。自分を包み込む世界の「硬さ」に恐怖を覚えはじめていたアスナにとっては、毎年のその行事が、子供たち全員に序列を付け直す作業のように思えたのだった。
 2012年11月、中学三年の冬にアスナはSAOに捕われ、2015年の1月にキリトの手によって解放されたので、今年の年始の挨拶は実に四年ぶりということになる。本家の、京風数寄屋造りの広大な屋敷で、アスナはきつい振袖を着せられ、祖父、祖母をはじめ膨大な数の親類縁者に、しまいには自分が接客NPCに思えてくるほどに繰り返し挨拶をさせられた。
 それでも、ひさしぶりにいとこたちと会えるのは嬉しいことだったのだが、アスナの無事なる帰還を我が事のように喜んでくれる彼ら彼女らの瞳のなかに、アスナは嫌なものを見つけてしまったのだった。
 いとこたちは一様に、アスナを憐れんでいた。生まれたときから始まり、そしてまだ何年も続くレースから、早くも脱落してしまったアスナに同情し、可哀想だと思っていたのだ。考えすぎではない。子供のころからずっと人の顔色を窺い続けていたアスナには判る。
 もちろん、今のアスナは、その頃の人格とは全く異なる存在だ。あの世界が、そして一人の少年が否応なくアスナを生まれ変わらせた。だから、いとこたちや、おじ、おばたちの憐憫も、アスナの心の表面を微風のように通過していったにすぎない。自分はまず第一に剣士であり、戦う人間である、それはあの世界が消えたいまでも変らないという信念がアスナの心を支えている。
 しかし、その価値観は、VRMMOなどというものは害悪としか考えていないいとこたちにはまったく理解してもらえないだろう。そして、本家にいるあいだじゅう、ずっとどこか不機嫌だった母親にも。
 いい大学に入り、いい就職をしなければという強迫観念はもう欠片もない。今の学校は好きだし、あと一年かけて、本当にやりたいことをじっくり探すつもりだ。もちろん、いっこ年下の男の子と現実世界でも家庭を持つのが最終目標であるのだが。
 ――などと考えながら、アスナはにこやかに親戚たちのあれやこれやの詮索をやり過ごし続けたのだが、どうにも参ったのは、明日にはようやく東京に戻れるという晩に、はとこにあたるという二つ年上の大学生と屋敷の奥まった部屋で二人きりにされたことだった。
 本家の銀行の専務だかの息子だというその男は、自分が何を専攻しており、もう就職が決定しているという銀行ではどのようなポストにつきどのように出世していくかということをひたすら喋りつづけ、アスナとしてははあそうですかと思いつつ笑顔で感心してみせるしかなかったのだが、引っかかるのはまるで周囲が示し合わせてアスナとその男を二人きりで残したように思えてならないことで、ことによるとそこには何か大人たちの胡散臭い意図が……
「ちょっとアスナ、聞いてる?」
 テーブルの下でリズベットにつま先をつつかれ、アスナはハッと物思いから復帰した。
「あ、ご、ごめん。ちょっとヤなこと思い出しちゃって」
「なあにそれ? 京都でお見合いでもさせられた?」
「…………」
「……なにひきつってるのよアンタ。……まさか……」
「ないない、なんにも無いわよ!」
 アスナはぶんぶん首を振ると、空になったマグカップを再びクリックし、湧き出した怪しい紫色のお茶をごくごくと喉に流し込んだ。
「それで……強いって、その人はPKerなの?」
「んーん、デュエリストよ。セルムブルグのちょっと北にさ、でっかい樹が生えた観光スポットの小島があるじゃない。あそこの樹の根元に、毎日午後3時になると現われて、立ち合い希望プレイヤーと一人ずつ対戦すんの」
「へええー。大会とか出てた人?」
「や、まったくの新顔らしいよ。でもレベルは相当高そうだから、どっかからのコンバートじゃないかな。最初は、MMOトゥデイの掲示板に対戦者募集って書き込みがあってさ。ALO初心者のくせにナマイキだ、いっちょへこましたろう、って奴らが30人くらい押しかけたらしいんだけど……」
「返り討ち?」
「全員、きれいにね。HPを三割以上削れた人はひとりもいなかった、ってゆーんだから相当だよね」
「ちょっと信じられませんよねー」
 フルーツタルトをもぐもぐしながら、シリカが割って入った。
「あたしなんか、まともにエアレイドできるようになるまで半年くらいかかったんですよ。なのに、コンバートしたてであの飛びっぷりですからね!」
「シリカちゃんも対戦したの?」
 アスナが訊くと、シリカは目を丸くして首をぶんぶん振った。
「まさか! デュエルを観戦しただけで勝てないのは確信しましたもん。ま、リズさんとリーファはそれでも立ち合ったんですけどね。ほんと、ちゃれんじゃーですよね」
「うっさいなあ」
「何事も経験だもん」
 リズベットとリーファが口を尖らせて言うのを笑顔で聞きながら、アスナは内心で少々驚いていた。
 もとより種族的に戦闘は不向きで、その上鍛冶スキルを優先的に上げているリズベットはまだしも、シルフ随一と言っていいエアレイドの達人であるリーファを空中戦で上回るとは只者ではない。しかもコンバートしたてで、などという話はもはや前代未聞と言っていい。
「それは本物っぽいねえ。うーん、ちょっとワクワクしてきたなあ」
「ふっふ、アスナはそう言うと思った。もう、月例大会の上位常連どころで残ってるのは、サクヤとかユージーンとかの領主やら将軍組だけなんだけど、あのへんは立場的に辻試合は難しいしねえ」
「でも、そんだけ強さを見せ付けちゃうと、もう対戦希望者なんていなくなっちゃったんじゃないの? 辻デュエルの負け経験値ペナルティって相当なもんでしょ?」
「それがそうでもないんです。賭けネタが奮ってるんですよ」
 と、再びシリカ。
「へえ? なにかすごいレアアイテムでも賭けてるの?」
「アイテムじゃないんです。なんと、オリジナル・ソードスキルを賭けてるんですよ。すっごい強い、必殺技級のやつ」
 アスナは思わず、キリトの癖を真似て、肩をすくめながらピュウと口笛を吹きたくなる衝動に駆られたが、どうにか我慢した。
「OSSかぁー。何系? 何連撃?」
「えーと、見たトコ片手剣系汎用ですね。なんとびっくり十一連撃ですよ」
「じゅーいち!」
 今度こそ、反射的に唇を細めて高い音を鳴らしてしまう。
 今は無き旧ソードアート・オンラインをSAOたらしめてした代表的なゲームシステム、それが「ソードスキル」である。
 無数の系統の武器ごとに設定された「技」のことで、内容は一撃必殺の単発攻撃から疾風怒濤の連続攻撃まで様々だ。武器による通常攻撃と異なるのは、一度初動を開始すれば、脳神経直結環境技術の本来的な制約である通信ラグを無視して、技の出終わりまでシステムが最大速度で体を自動操縦してくれるという点である。副次的効果として攻撃中は派手なライトエフェクトとサウンドエフェクトを伴い、技の使用者は自分が超戦士となったかのような快感を味わうことができる。
 アルヴヘイム・オンラインにおける、一連の大規模アップデートの一環として、新運営体はソードスキル・システムもほとんどオリジナルのままの形で実装するという大胆な決断をした。
 つまり新生ALOは、戦闘システムに根幹からの大変革を加えられたことになる。これはさすがにプレイヤー達の間に大論議を巻き起こしたが、反対論者たちもいちどソードスキルを体験するとほとんどの者がその快感に魅せられてしまった。アップデートから半年以上が経過した現在でも、「空中機動」+「剣技」という新しい戦闘体系は、多くのユーザーコミュニティで日々活発な報告と議論の対象となっている。
 さて、そのソードスキルだが、冒険心溢れる運営者たちは、先人の遺産をただそのまま拝借することを良しとしなかった。
 そこで彼らが新要素として開発・導入したもの、それが「オリジナル・ソードスキル」システムだ。
 その名のとおり、「独自の剣技」である。動きすべてがあらかじめ設定されている既存の剣技ではなく、プレイヤー自らが編み出し、登録することのできるソードスキル。
 これが発表されたとき、多くのプレイヤー達は、「ド派手」で「かっこいい」自分だけの必殺技を手に入れようと、我先にとそれぞれの武器を振り回した。
 そして一様に深い挫折を味わった。
 オリジナルソードスキル略してOSSの登録手順は非常に単純だ。
 まずウインドウを開き、OSSタブに移動し、剣技記録モードに入って記録開始ボタンを押す。その後、おもむろに武器を振り回し、技が終わった時点で記録終了ボタンを押す。それだけだ。
  しかし、「ぼくのかんがえた必殺技」がソードスキルとしてシステムに認められるためには、非常に厳しい条件をクリアする必要があった。
 斬り(スラッシュ)と突き(スラスト)の単発技は、ほぼ全てのバリエーションが既存の剣技として登録済みである。よって、OSSを編み出そうと思ったら、それは必然的に連続技とならざるを得ない。しかし、一連の動きにおいて、重心移動や攻撃軌道その他もろもろに無理がわずかにもあってはならず、また全体のスピードは、完成版ソードスキルに迫るものでなくてはならない。
 つまり、本来システムアシストなしには実現不可能な速度の連続技を、アシストなしに実行しなくてはならないという、矛盾とさえ言っていいほどの厳しい条件が課せられているのだ。
 そのハードルをクリアする方法は只ひとつ、気が遠くなる回数の反復練習あるのみである。一連の動きを、脳のシナプスが完全に覚えこむまで。
 本来そういう地味な鍛錬が苦手な傾向のあるVRMMOプレイヤー達は、そのほとんどがあっけなく「俺必殺技」の夢を放棄してしまった。それでも、一部の努力家たちがOSSの開発・登録に成功し、中世の剣術流派開祖にも似た栄誉を手にすることになった。
 実際、一部のプレイヤーは「○○流」という名のギルドを興し、街に道場を開くに至っている者すらいる。
 それを可能にしたのが、OSSシステムに付随する「剣技伝承」システムだ。
 つまり、OSSを編み出すことに成功したものは、一代コピーに限って、技の「秘伝書」を他のプレイヤーに伝授することができるわけだ。
 OSSは、対プレイヤーはもちろん、対モンスターにも絶大な効果を発揮する。それゆえ皆が欲する。いきおい技の伝承は非常に高額な代償を必要とするようになり、五連撃を超えるような「必殺技」の秘伝書はALO世界で最も高価なモノとなりつつある。現在一般に知られているなかで、最も強力なOSSは、サラマンダー将軍のユージーンが編み出した『ヴォルカニック・ブレイザー』八連撃であるが、金には困らない立場のユージーンはこれを誰にも伝承させていない。一応アスナ自身も数ヶ月の苦労の果てに六連撃技の開発に成功しているが、それですっかり気力を使い果たし、新しい技に取り掛かる気には当分なりそうもない。
 そのような状況のなかに登場したのが、破格の十一連撃技をひっさげた謎の剣豪『絶剣』、というわけなのである。

「まあ、そういうことなら対戦希望者が殺到するのも納得だね。みんなはそのソードスキル、実際に見たの?」
 アスナの問いに、三人はそろって首を振った。代表して、リズベットが口を開く。
「んーん、なんでも、辻デュエルを始めた初日のいちばん最初に、演舞として披露したらしいんだけど、それっきり実戦では使ってないみたいね。……というか、OSSを使わせるほど絶剣を追い詰められた人はまだ誰もいない、って言うか」
「リーファちゃんでも無理だったの?」
 尋ねると、リーファはしゅんと肩を落として首を振る。
「お互い、HPが六割切るくらいまではいい勝負だったんですけど……結局最後までデフォルト技だけで押し切られちゃいました」
「へええ……。――そう言えば、肝心なことな何も聞いてなかった。種族とか、武装は? どんなの?」
「あ、インプですよ。武器はレイピアですけど、アスナさんの剣よりもうすこし重いかな。――ともかく、速いんです。通常攻撃もソードスキル並みのスピードで……動きが目でも追えないくらいでしたよ。あんなこと初めてですよ、すごいショック」
「スピード型かー。リーファちゃんにも見えないんじゃ、わたしも勝機ナシかな。……――あ」
 そこまで言ってから、アスナはようやく重要なことを思い出した。
「動きのスピードと言えば、反則級のヒトがそこで寝てるじゃない。キリト君は? そういう話、興味持ちそうだけど」
 言うと、リズベット、シリカ、リーファは互いに目を見交わし、いきなりプッと吹き出した。
「――な、なに、どうしたの?」
 あっけに取られるアスナに向かって、リーファがくすくす笑いながら、衝撃的なことを口にした。
「ふふふ。――もう戦ったんですよ、お兄ちゃん。そりゃもう、きれーに負けました」
「ま……」
 負けた。あのキリトが。
 アスナは口をぽかんと開け、そのままたっぷり数秒間にわたって固まった。
 剣士としてのキリトは、アスナのなかでは最早「絶対的強者」という名の観念的存在となっていると言っても過言ではない。SAO、そしてALOの二世代を通して、一対一のデュエルでキリトを破ったのはアスナの知る限り血盟騎士団々長ヒースクリフ唯一人であり、それすらもゲームマスターとしてのシステム的優遇措置に助けられた結果である。
 リズベット達には喋ったことは無いが、実はアスナ自身もSAO時代に一度だけ、キリトとギリギリの本気デュエルで剣を交えたことがある。
 まだ知り合って間もない、アスナがKoB副長として最前線攻略の指揮を取っていた頃の話だ。
あるフロアの強力なボスモンスターの攻略方針を巡って、KoB以下の最速攻略優先派ギルドと、キリト以下数人のソロプレイヤーが対立したことがあった。両者の主張は平行線のまま妥協点を見出すことが出来ず、最終的に双方の代表によるデュエルで結論を出すことにしたのだ。
 アスナはその頃すでに、内心ではキリトに惹かれつつあったのだが、まだその気持ちを打ち消そうという気分も大きかった。個人的な感情が、ゲームクリアという大義に優先することは許されないと思っていたのである。
 デュエルは、自分のなかの柔弱な心を打ち消すいい機会だとアスナは考えた。キリトを倒し、ボスモンスターをきっちり効率的に討ち取ることで、ふたたび冷徹な自分に戻れるだろうと。
 しかしアスナは、キリトという一見頼り無さそうな剣士の隠された実力を知らなかった。
 デュエルは熱戦の名に相応しいものだった。剣を打ち交わすうちに、アスナの脳裏からすべてのしがらみは吹き飛び、ただ好敵手と戦うことのよろこびだけが全身にあまねく満ち溢れた。かつて体験したことのない次元での、直接脳神経パルスを交感するかのような戦闘はおよそ20分にも及んだのだが、その時間すらも意識することはなかった。
 そしてアスナは敗れた。全身全霊の気合を乗せた突きを、およそ人間技とは思えない反応で回避され、直後にレイピアはアスナの右手から弾かれて空高く舞った。
 結局、そのデュエルを経験することによって、逆にアスナの恋心は打ち消しようのないものになってしまったのだが、同時にキリトの剣はアスナのなかにもうひとつの印象を深く刻んでいった。
 ――最強の剣士。その確信は、SAO時代の「キリト」というキャラクターデータが消滅した今でも、わずかにも薄れてはいない。
 ゆえにアスナは、キリトが「絶剣」に敗れたという話に、戦慄すら伴う衝撃を受けたのである。
 アスナはリーファからリズベットに視線を移すと、掠れた声で聞いた。
「キリトくんは……本気だったの?」
「う〜〜〜ん……」
 リズベットは腕組みをすると眉をしかめた。
「こう言っちゃなんだけど、あの次元の戦闘になると、あたし程度じゃ本気かそうでないかなんて判らないんだよね……。まあ、キリトは二刀じゃなかったし、そういう意味じゃ全力ってことにはならないんだろうけど。それに、さ……」
 リズベットはふと言葉を切ると、暖炉の炎を映して煌めく瞳を、眠るキリトに向けた。その口もとに、穏やかな微笑が浮かぶ。
「あたし、思うんだ。たぶん、もう、正常なゲームの中じゃ、キリトがほんとのほんとに本気で闘うことは無いんじゃないかな、ってさ。逆に言えば、キリトが本気になるのはゲームがゲームじゃなくなった時、バーチャルワールドがリアルワールドになった時だけ……だから、アイツが本気で闘わなきゃならないようなシーンは、もう来ないほうがいいんだよ。ただでさえ厄介な巻き込まれ体質なんだから」
「…………」
 アスナは、ちくりとする胸の痛みを意識しながら、リズベットの言葉にこくんと頷いた。
「ン……。そうだね」
 両隣で、リーファとシリカもそれぞれの感慨を込めながらゆっくりと首を動かす。
 しばし訪れた沈黙を破ったのはリーファだった。
「――でも、あたしが感じた限りではですけど……お兄ちゃん、真剣だったと思いますよ。少なくとも、手を抜いてたってことはまったく無いと思います。それに……」
「……なあに?」
「確信はないんですが、勝負が決まるちょっと前、鍔迫り合いで密着して動きが止まったとき、お兄ちゃん何か喋ってたような気がするんですよね……。そのすぐ後、二人が距離を取って、絶剣さんの突進攻撃をお兄ちゃんが回避しきれないで決着したんですが……」
「ふうん……何話してたんだろ?」
「それが、聞いても教えてくれないんですよね。何かありそう……な気はするんですけどねえ」
「そっか。じゃあ多分、わたしが聞いてもだめだろうなあ。あとはもう、直接闘ってみるしかない、かな」
 アスナが呟くと、リズベットが眉を上げた。
「やっぱり闘う気?」
「勝てるとは思わないけどねー。なんだかその絶剣ってヒト、何か目的があってALOに来たような気がするんだ。辻デュエルすること以外にね」
「うん、それはあたしも思った」
「ともかく、明日セルムブルグに行ってみるよ。付き合ってくれる?」
 くるりと見回すと、リズベット、シリカ、リーファは同時に頷いた。シリカがシッポをぴんぴん振りながら言う。
「もちろんですよ! こんな名勝負見逃せません」
「勝負になるかどうかわかんないけど……じゃ、決まりね。午後3時に現われるんだっけ、なら2時半にここで待ち合わせしよう」
 ぽん、と両手を合わせてから、アスナはウインドウを出し、現実時間窓に目を走らせた。
「いけない、もう6時か。晩御飯遅れちゃう」
「じゃ、今日はここでお開きにしましょう」
 リーファが自分の前のウインドウをセーブし、ぱぱっと片付ける。三人がそれにならうあいだに、リーファは揺り椅子に歩み寄ると、背もたれを掴んでがっこがっこと派手に揺らした。
「ほら、お兄ちゃん起きて! 帰るよー!」
 その様子を微笑しつつ見やりながら、アスナはふとあることに思い至り、リズベットに顔を寄せた。
「ねえ、リズ」
「なに?」
「さっき、絶剣はコンバートプレイヤーだろう、って言ったけどさ……。それだけ強いなら、可能性としては、もしかすると……元SAOプレイヤー、って線もあるんじゃないの?」
 小声で尋ねると、リズは真剣な表情を作り、小さく頷いた。
「うん。あたしもまずそれを疑ったんだ。で、キリトが絶剣と闘ったあと、どう思うか訊いてみたんだけどさ……」
「キリト君は、何て……?」
「絶剣がSAOプレイヤーだった可能性は、まず無いだろう、って。なぜなら……」
「…………」
「もし絶剣があの世界にいたなら、二刀流スキルは、俺でなくあいつに与えられていたはずだ、って」

 チチッ
 という短い電子音とともに、アミュスフィアの電源が落ちた。
 薄っすらとまぶたを持ち上げる。同時に、湿った冷気が肌にまとわりつくのを、明日奈は感じた。
 エアコンを弱暖房運転にセットしておいたのだが、タイマーを解除するのを忘れてダイブ中に停止してしまったらしい。10畳の少し広すぎる部屋の温度は、完全に外気と熱平衡に達している。かすかな音に気付いて大きな窓に目を向けると、黒いガラスに無数の水滴が張り付いていた。
 明日奈は身震いしながら、ベッドの上でゆっくりと体を起こした。サイドボードに埋め込まれた統合操作パネルに指を伸ばし、タッチセンサーを一度叩く。それだけで、軽いモーター音とともに二箇所の窓のカーテンが閉まり、エアコンが息を吹き返し、天井の隅のライトパネルがややオレンジがかった光を灯す。
 レクト家電部門が開発した、最新のパッケージング・インテリア技術が明日奈の部屋にも使われている。入院中にいつのまにか部屋がリフォームされていたのだが、明日奈はなぜかこの便利な仕掛けが好きになれない。ウインドウひとつで部屋中のものが操作できるのは、VRワールドでは当たり前のことだが、それが現実世界に出現すると、どこか薄ら寒いものを感じさせるのだ。壁や床のいたるところに張り巡らされたセンサー類の、無機質な視線をどうしても肌に意識してしまう。
 あるいはそう感じるのは、何度か訪れたことのあるキリト――和人の家が伝統的な和風家屋で、あの暖かみと自宅の冷たさをつい対比してしまうからかもしれない。母方の祖父母の家もちょうどあんな感じだった。夏休みに遊びにいったときは、陽光の降り注ぐ縁側に座って足をぶらぶらさせながら、おばあちゃんが作ってくれたかき氷を食べたものだ。その祖父母はすでに鬼籍に入り、家も取り壊されてしまって久しい――。
 小さくため息をつきながら、明日奈はスリッパに足を突っ込み、立ち上がった。途端、かすかに立ちくらみを感じて、じっと俯く。現実の重力がずしりと全身を引き寄せるのを強く意識する。
 無論、仮想世界の中でも同じだけの重力感覚はシミュレートされている。だが、あの世界のアスナはいつでも軽やかに地を蹴り、体と魂を空に解き放つことができる。現実世界の重力というのは、単なる物理的な力ではない。どうしても振りほどくことのかなわない、様々な事象の重さが含まれている。再びベッドに倒れこんでしまいたい誘惑に駆られるが、すぐに夕食の時間だ。一分でも遅れれば、母親の小言のネタがひとつ追加されてしまう。
 重い足をひきずるようにクローゼットの前に移動すると、手を伸ばすまでもなく、扉が折りたたまれながらスライドした。ゆったりした厚手のスウェットの上下を脱ぎ、何かに反抗するかのように床に放り投げる。染みひとつない白のブラウスと、ダークチェリーのロングスカートに着替え、隣のドレッサーのスツールに腰を下ろすと、またしても自動で三面鏡が展開し、上部の明るいライトが点灯する。
 母親は、家の中でも明日奈がいいかげんな格好をしているのを好まない。ブラシを手にとり、ダイブ中に乱れた長い髪を手早く整える。
 ふと、今ごろ川越の桐ヶ谷家ではどのような光景が繰り広げられているだろうか、と明日奈は考えた。
 今日は和人と二人で食事当番なのだと直葉は言っていた。まだ寝惚け眼の和人を、直葉が階下に引き摺っていく。二人で台所に並び、直葉が包丁を使う隣で和人が魚を焼く。そのうちに母親の翠さんが帰ってきて、テレビを見ながらビールの晩酌を始める。賑やかな応酬のあいだにも次第に料理が出来上がり、テーブルに並ぶと、三人揃っていただきますを言う。
 震える息を大きくひとつ吐いて、明日奈はこぼれそうになった涙をこらえた。ブラシを置き、立ち上がる。
 自分の部屋から薄暗い廊下に一歩出ると、ドアを閉める直前に、背後で照明が勝手に落ちた。

 半円を描く広い階段を降り、一階ホールに出ると、ハウスキーパーの佐田明恵がちょうど玄関のドアを開けようとしているところだった。夕食の用意を済ませ、帰宅するところだろう。
 40代前半の小柄な女性に向かって、明日奈はぺこりと頭を下げた。
「お疲れ様です、佐田さん。毎日ありがとう。遅くまで御免なさいね」
 言うと、明恵は滅相もない、というふうに目を丸くして首を振り、直後深々と一礼する。
「と、とんでもないです、お嬢様。仕事ですので」
 明日奈でいい、と言っても無駄なのはこの一年で思い知っている。かわりに歩み寄ると、小声で尋ねた。
「母さんと兄さんはもう帰ってます?」
「浩一郎様はお帰りが遅くなるそうです。奥様はもうダイニングにいらっしゃいます」
「……そう、ありがとう。引き止めてごめんなさい」
 明日奈がもう一度会釈すると、明恵は再び深く腰を折り、重いドアを開けてそそくさと帰っていった。
 彼女には確か中学生と小学生の子供がいるはずだ。家は同じ世田谷区内だが、今から買い物をして帰宅すると、七時半を回ってしまうだろう。食べ盛りの子供には辛い時間だ。一度、母親にそれとなく、夕食は作り置きしてもらってもいいじゃないと言ってみたことがあるのだが、一顧だにされなかった。
 三箇所のドアロックが掛かる金属音を聞きながら、明日奈はきびすを返し、ホールを横切ってダイニングルームへと向かった。
 重厚なオーク材のドアを開けた途端、静かだがびんと張った声が明日奈の耳を叩いた。
「遅いわよ」
 ちらりと壁の時計を見ると、6時半ちょうどである。だがそのことを口にする前に、再び声が飛んでくる。
「五分前にはテーブルに着くようにしなさい」
「……ごめんなさい」
 低い声で呟きながら、毛足の長いカーペットを踏んで、明日奈はテーブルへと歩み寄った。視線を伏せたまま、背もたれの高い椅子へと腰を下ろす。
 20畳はあろうかというダイニングルームの中央に、12脚の椅子を備えた長いテーブルが設えてある。その北東の角から二番目が明日奈の席と決まっている。左隣が兄・浩一郎の椅子であり、東端が父・彰三の椅子だが、今は両方とも空いている。
 そして、明日奈の左斜め向かいの椅子に、母親の結城京子が座し、お気に入りのシェリー酒のグラスを片手に、ポータブル端末に視線を落としていた。
 女性としてはかなりの長身だ。痩躯だが、しっかりした骨格のせいで華奢というイメージはない。艶やかなダークブラウンに染められた髪を左右に分け、あご下の線でぴしりと切り揃えている。
 顔立ちは、整ってはいるものの、鋭い鼻梁とあごのライン、そして口もとに刻まれた短く深い皺が冷厳な印象を拭いがたく与えている。もっともそれは本人が望んで作り上げたイメージかもしれない。鋭い舌鋒と辣腕の政治力で学内のライバルたちを蹴落とし、昨年49歳にして教授の座に着いた人物なのだ。
 明日奈が席に着くと、京子は顔を上げないまま端末を片付け、ナプキンを広げて膝に置いた。ナイフとフォークを取り上げたところで、ようやく明日奈の顔をちらりと見る。
 今度は明日奈が視線を伏せ、いただきます、と呟いてスプーンを手に取った。
 しばらく、銀器が立てるかすかな音だけがダイニングに響いた。
 ブルーチーズ入りのグリーンサラダ、そら豆のポタージュ、白身魚のグリルにハーブのソース、全粒粉のパン、エトセトラ……といったメニューだ。毎日の食事はすべて京子が栄養学的に計算し、決めたものだが、勿論調理したのは彼女ではない。
 いつの頃から、母親とふたりだけの食卓が、こんなに緊張感に満ちたものになってしまったのだろう、と考えながら明日奈は手を動かした。
 いや、あるいはずっと昔からこうだったのかもしれない。スープをこぼしたり、野菜を残したりすると手厳しく叱責された記憶がある。昔の明日奈は、賑やかな食卓というものを知らなかっただけなのだ。
 機械的に食事を続けながら、記憶のかなた、異世界の我が家へと意識が彷徨いそうになった時、京子の声が明日奈を引き戻した。
「……またあの機械を使ってたの?」
 明日奈はちらりと母親に視線を向け、小さく頷いた。
「……うん。みんなと宿題する約束があったから」
「そんなの、ちゃんと自分の手でやらないと勉強にならないわ」
 自分の手でやっていることに代わりはないのだ、と言っても京子には理解してもらえないのは明らかだ。明日奈は俯いたまま、違うことを言う。
「みんな、住んでるとこが遠いの。あっちでなら、すぐに会えるのよ」
「あんな機械使っても会ってることにはならないわよ。だいたい、宿題なんて一人でやるものです。友達と一緒じゃ遊んじゃうだけだわ」
 シェリー酒のグラスを傾け、京子は舌の速度をさらに上げる。
「いい、あなたには遊んでる余裕なんてないのよ。他の子より二年も遅れたんだから、二年分余計に勉強するのは当たり前でしょう」
「……勉強はちゃんとしてるわ。二学期の成績通知表、プリントして机に置いておいたでしょう?」
「それは見たけど、あんな学校の成績評価なんてあてになりませんよ」
「あんな……学校?」
「いい、明日奈。三学期は、学校のほかに家庭教師を付けるわ。最近はやってる機械越しのじゃなくて、ちゃんと家に来て見てもらいます」
「ちょ……ちょっと待ってよ、そんな急に……」
「これを見てちょうだい」
 京子は有無をいわせぬ口調で明日奈の抗議を遮ると、テーブルから端末パネルを取り上げた。差し出されたそれを受け取り、明日奈は眉をしかめて画面に目を走らせる。
「……なにこれ……。編入試験……概要?」
「お母さんのお友達が理事をしてる高校の、三年次への編入試験を、無理を言って受けられるようにしてもらったのよ。あんな寄せ集めの学校じゃなくて、ちゃんとした高校です。そこは単位制だから、あなたなら前期だけで卒業要件を満たせるわ。そうすれば、九月から大学に進学できるのよ」
 明日奈は唖然として京子の顔を見つめた。端末をテーブルの上に戻し、右手を小さく上げて、尚も言い募ろうとする京子の言葉を遮る。
「ま、待って。困るよ、そんなこと勝手に決められても。わたし、今の学校が好きなの。いい先生も沢山いるし、勉強はあそこでもちゃんとできるよ。転校なんて必要ないわ」
 どうにかそれだけ言うと、京子はこれみよがしなため息をついた。目蓋を閉じ、金縁の眼鏡のブリッジ部分を指先で押さえながら、椅子の背もたれに体を預ける。この間の取り方も、京子一流の、常に己の優位を相手に意識させつづけるための話術の一環だ。教授室のソファーでこれをやられた男性はさぞ萎縮することだろう。夫の彰三ですら、家のなかでは京子との意見対立を極力避けているように見える。
「……お母さん、ちゃんと調べたのよ」
 京子は諭すような調子で話しはじめた。
「あなたの通っているところは、とても学校とは言えないわ。いいかげんなカリキュラムに、レベルの低い授業。教師だって寄せ集めで、まともな経歴のある人はほとんどいないじゃない。あれは教育機関と言うよりも、矯正施設とか、収容施設とか言ったほうがいい場所だわ」
「そ……そんな言い方……」
「事故のせいで教育が遅れてしまった生徒の受け皿なんて体のいい事を言ってるけど、あの学校は、ほんとうのところは、将来的に問題を起こすかもしれない子供を一箇所に集めて監視しておこうっていう、ただそれだけの場所なのよ。それは確かに、おかしな世界でずっと殺し合いをしてた子供もいるそうだから、そういう施設は必要かもしれないけれど、でもあなたまでそんなところに入ることはないのよ」
「…………」
 あまりに一方的な言葉をぶつけられ、明日奈は口を開くこともできない。痺れたような思考の奥底で、一瞬、すべてを吐露してしまおうかという衝動が頭をもたげる。わたしもその殺し合いをしてきたのだ、この手で人ひとりの命を奪ったのだ、と。そしてそのことを、わたしは一片も悔いていないのだ、と。
「あんなところに通ってても、まともな進学なんてできるわけないわ」
 明日奈の葛藤に気付く様子もなく、京子は早口で話し続ける。
「いい、あなたは今年でもう19になるのよ。でも、今のところにいたんじゃ、大学に入れるのがいつになるか判ったもんじゃない。中学の時のお友達は、今ごろみんな受験の真っ最中だわ。少しは焦る気持ちがないの?」
「進学なんて……何年遅れたって、たいした問題じゃないわ。それに、大学に行くだけが進路じゃないし……」
「いけません」
 京子は明日奈の言葉をにべもなく否定した。
「あなたには能力があるの。それを引き出すために、お母さんとお父さんがどれくらい心を砕いてきたかあなたも知ってるでしょう。なのに、あんなおかしなゲームに二年も無駄にさせられて……。平凡な子供なら、お母さんだってこんなこと言いませんよ。でも、あなたはそうじゃないでしょう? 与えられた才能を十全に生かさず、腐らせてしまうのは罪だわ。あなたは立派な大学に行って、一流の教育を受ける資格と能力がある。ならそうすべきです。省庁や企業に入って能力を生かすもよし、大学に残って学究の道に進むもよし、お母さんもそこまでは干渉しません。でも高等教育を受ける機会すら放棄することは許さないわよ」
「先天的な才能なんてものはないわ」
 明日奈はどうにか、京子の長口上の接ぎ穂に言葉を割り込ませた。
「人の生き方なんて、今ある自分が全てでしょう? わたしも昔は、いい大学に入っていい就職をすることが人生のすべてだと思ってた。でも、わたしは変わったの。今はまだ答えは出せないけど、本当にやりたいことが見つかりそうなのよ。今の学校にあと一年通って、それを見つけたいの」
「自分で選択肢を狭めても仕方ないでしょう。あんなところに何年通っても、何の道も開けないわ。でも、編入先の学校は違うわよ。上の大学は名門校だし、そこでいい成績を残せば、お母さんのところの大学院にだって入れるわ。いい、明日奈。お母さんは、あなたに惨めな人生を送ってほしくないの。誰にでも胸を張って誇れるキャリアを築いてほしいのよ」
「わたしのキャリアって……それなら、あの人はなんなの? 本家で引き合わされた……何を吹き込んだのか知らないけど、あの人もうわたしと婚約でもしたような口ぶりだったわよ。わたしの生き方の選択肢を狭めてるのは母さんじゃない」
 明日奈は自分の声がわずかに震えるのを抑えられなかった。視線に精一杯の力をこめたが、京子は動じる様子もなくグラスに唇をつける。
「結婚もキャリアの一部よ。物質的に不自由のあるような結婚をしてしまったら、五年、十年先に後悔するわ。あなたの言うやりたい事だって、できなくなっちゃうわよ。その点、裕也君なら申し分ないわ。今時、大手の都市銀行よりも地盤のしっかりした地方銀行のほうが安心だしね。お母さんは裕也君を気に入ったわよ。素直ないい子じゃない」
「……何にも反省してないのね。あんな事件を起こして、わたしと大勢の人を苦しめて、レクトの経営を危くしたのは、母さんが選んだ須郷伸之なのよ」
「やめてちょうだい」
 京子は盛大に顔をしかめ、煩い羽虫でも払うように左手をぱたぱたと振った。
「あの人の話は聞きたくもないわ。……だいたい、あの人を気に入って養子にしようって言い出したのはお父さんですよ。人を見る目がないのよ、昔から。大丈夫よ、裕也君はちょっと覇気のないところがあるけど、そのぶん安心できるじゃない」
 たしかに、明日奈の父彰三は、ずっと以前から身近な人間をあまり顧みないところがあった。会社の経営だけに注力し、社長職を退いた今も、海外資本との提携を調整するためにまったく家に帰らない日々が続いている。須郷の開発・経営能力と上昇志向のみを評価し、内部の人間性に目を向けなかったのは自分の不徳だったと、彰三本人も口にしていた。
 しかし、須郷伸之が、中学生の頃から徐々に攻撃的な性格を強めていったのは、周囲から与えられる苛烈なプレッシャーに原因の一端があったのだと明日奈は思う。そして、その圧力の一部には、間違いなく京子の言葉も含まれている。
 明日奈は苦いものを飲み下しながら、硬化した声で言った。
「――ともかく、あの人とお付き合いする気はまったく無いわよ。相手は自分で選ぶわ」
「いいわよ、あなたに相応しい、立派な人なら誰でも。言っておきますけど、あんな子――あんな施設の生徒は含まれませんからね」
「…………」
 京子のその言い方に、特定の人物を指し示すような響きを感じて、明日奈は再度唖然とした。
「……まさか……調べたの? 彼のこと……」
 掠れた声で呟いたが、京子は否定も肯定もせず、さらりと会話の方向を逸らした。
「わかってちょうだい、お母さんもお父さんも、あなたに幸せになってほしいのよ。あなたが幼稚園の頃から、ずっとそれだけを願ってきたの。ほんのちょっと躓いちゃったけど、まだまだじゅうぶん立て直せるわ。いま、真剣に頑張ればね。あなたなら、輝かしいキャリアを積み重ねられるのよ」
 わたしではなく、母さんのでしょう、と明日奈な胸の奥で呟いた。
 明日奈や兄の浩一郎は、京子自身の輝かしいキャリアの一要素なのだ。浩一郎は一流大学に進み、レクトに就職してからも着実に実績を残し、京子を満足させた。明日奈もそれに続くはずが、SAO事件などというわけのわからないものに巻き込まれ、また直後に須郷が起こした事件でレクトの企業イメージも低下し、京子は自分のキャリアに傷がついたと感じているのだ。
 明日奈はこれ以上言葉を戦わせる気力を失い、まだ半分近く残っている皿の横にフォークとナイフを置いて立ち上がった。
「……編入のことは、しばらく考えさせて」
 どうにかそれだけ言ったが、京子の答えは無味乾燥なものだった。
「期限は来週中ですからね。それまでに必要事項を記入して、三通プリントしてデスクに置いておいてちょうだい」
 明日奈は俯き、振り向いてドアに向かった。そのまま部屋に戻ろうと思ったが、胸の奥にわだかまるものを抑えられず、廊下に一歩出たところでテーブルの京子に向かって言った。
「母さん」
「……なに?」
「母さんは、亡くなったお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのことを恥じてるのね。米農家じゃなくて、由緒ある名家に生まれなかったことが不満なんでしょう?」
 京子は一瞬あっけに取られたように目を丸くしたが、すぐにその眉間と口もとに深く険しい谷が刻まれた。
「……明日奈! ちょっとここに来なさい!」
 鋭い言葉が飛んできたが、明日奈は重いドアを閉めて、その先を遮った。

 逃げるような早足で階段をのぼり、自分の部屋のドアを開けた。
 途端、センサーの目が明日奈を捉え、照明とエアコンが自動的に点いた。
 明日奈は耐えがたい苛立ちを感じ、まっすぐにサイドボードに歩みよると、部屋の統合制御AIを完全に停止させた。そのまま体をどさりとベッドに投げ出し、高価なブラウスが皺になるのもかまわずに大きなクッションに顔を埋める。
 泣くつもりはなかった。剣士として、悲しい涙、悔しい涙はもう流さないと決めていた。しかし、その決意すらも、胸を塞ぐやるせなさを果てしなく増幅させていくようだった。
 何が剣士だ、と心のどこかで嗤う声がする。たかがゲームの中で、ポリゴンの剣を少しばかり上手く振り回せるからといって、それが現実世界にどれほどの力を及ぼせるというのか。明日奈は歯を噛み締め、自分に向かって問いかける。
 あの日、あの世界で一人の少年に出会って、自分は変わったはずだった。誰かに与えられた価値観に盲従することはもうやめて、本当になすべきことのために戦える人間になったはずだった。
 しかし、外側から見たとき、今の自分はあの世界に赴く以前とどこが違うというのだろう。親類たちの前では飾り物の人形のように空疎な笑みを浮かべ、親に強制されたルートをきっぱりと拒否することもできない。本当の自分と信じる姿に戻れるのがVR世界の中だけだというなら、何のために現実世界に戻ってきたのかまるでわからない。
「キリトくん……キリトくん」
 いつしか、唇のすきまから、その名前を何度も呼んでいた。
 キリト――桐ヶ谷和人は、現実世界に帰還して一年以上が経過するいまでも、SAO世界で得た強靭な精神を苦もなく保ちつづけているように見える。それなりのプレッシャーは彼にもあるはずだが、それをまったく顔に表すこともない。
 いつか、それとなく将来の目標を訊いてみたところ、照れくさそうに笑いながら、プレイする側でなく作る側になりたいのだ、とキリトは言った。それも、ゲーム世界などのソフトウェア的なものではなく、制約の多い現行NERDLES技術に取ってかわる、より親密なマンマシン・インタフェースを。そのために、すでに海外の技術系フォーラム・ワールドにも出入りし、勉強や意見交換を活発に行っているらしい。
 彼なら、何の迷いもなく、一直線にその目標に突き進んでいくだろうと明日奈は思う。叶うなら、ずっと彼の隣にいて、同じ夢を追っていきたい。その為に何を勉強すればいいのか、あと一年いっしょに学校に通い、じっくりと見極めていきたい。
 でも、その道もいま絶たれようとしている。そして明日奈は、結局はこのまま抗えないかもしれないという無力感に襲われている。
「キリトくん……」
 今すぐ会いたい。現実世界でなくてもいいから、あの家で二人きりになって、彼の胸で思い切り泣いて、全てを打ち明けてしまいたい。
 でも、できない。キリトが愛した自分は、この無力な結城明日奈ではなく、最強剣士の列に名を連ねた「閃光」アスナなのだという認識が重い鎖となって明日奈を絡め取っている。
『アスナは……強いな……。俺よりずっと強い……』
 かつてあの世界でキリトが呟いた言葉が耳もとに甦る。明日奈が弱さを露わにしたとたん、彼の心が離れていってしまうかもしれない。
 それがとても怖い。
 明日奈はうつ伏せになったまま、いつしか浅い眠りに落ちていた。
 銀鏡仕上げの鞘を腰に吊り、キリトと腕を絡ませて木漏れ日の下をどこまでも歩き続ける自分が見えた。だが、もう一人の自分はどこか暗い場所に閉じ込められて、笑いあう二人を声も出せずに覗き見ることしか出来なかった。
 浅い夢のなかで、あの世界に還りたい、と明日奈は強く思った。

 * * *

 久しぶりに訪れる湖上都市セルムブルグは、昔とまったく変わらない美しい姿を青い水面に映していた。
 アスナは白亜の城をかなたに見ながら、隣に座るキリトの肩にこてんと頭をもたれさせた。
 島全体が城砦都市となっているセルムブルグ主街区は、61層全体に広がる湖の中央にその威容を聳えさせている。湖には他にも大小さまざまな島が点在し、二人は今、主街区の少し北に位置する小島の岸壁に並んで座っていた。背後には大きな樹が枝を広げ、足元を小波がちゃぷちゃぷと洗っている。冬にしては暖かい風が湖面を渡ってきて、周囲の細い草をさやさやと鳴らす。
「ね、覚えてる? キリトくんが初めてわたしの部屋に来たときのこと」
 顔を見上げながらアスナが尋ねると、キリトはわずかに微笑みながら答えた。
「自慢じゃないが、記憶力の自信の無さには自信がある――」
「ええー」
「――けど、あの時のことは鮮明に覚えている」
「……ほんと?」
「勿論。あんときはほら、俺が超レアな食材アイテムをゲットしてさ。アスナがシチューを作ってくれたんだよ。ああ……あの肉は旨かったなあ……。今でも時々思い出すよ」
「もう! ごはんのことしか覚えてないんでしょ!」
 アスナは唇をとがらせ、それでも声に笑いを滲ませながらキリトの胸を突付いた。
「……まあ、わたしも思い出しちゃうことあるけどね」
「なんだよ、人のこと言えないじゃないか。……なあ、あのシチューは現実世界では再現できないかな?」
「う〜〜ん……。基本的には鶏肉に似てたから、ソースに工夫すればもしかしたら……。でもさ、たぶん、思い出のままにしとくのがいいよ。もう二度と味わえない料理、ってなんだか素敵じゃない」
「うう、うむ、まあそうだな」
 頷きながらもまだどこか残念そうなキリトを見て、アスナはもう一度笑ってしまう。
「あ、そうだ。……なあ」
「なあに?」
「なんかいつの間にかまたけっこうユルドが貯まってきたんだけどさ、次はセルムブルグに部屋買う? もとアスナの部屋があったとこ。このあいだ見に行ったら、まだ空いてたぜ」
「んー」
 キリトの提案に、アスナはしばらく考えてから、首を横に振った。
「ううん、いいや。あんまりいい思い出ばっかりあったわけじゃないしさ。お金は、アルゲードにエギルがお店出すのに協力してあげようよ」
「あのボッタクリ商店が復活するのか……。融資するなら利息はトイチで……」
「うわ、ひどいなぁ」
 キリトと旧アインクラッドの思い出話をしていると、本当にきりがない。笑いながらあれこれ言葉を交わしているうちに、ふとアスナは、セルムブルグからこの島に飛んでくるプレイヤーの数がかなり増えてきているのに気付いた。皆、二人の頭上を飛び越して、島の中央に屹立する大樹を目指していく。
「あ、そろそろ時間だ。いかなくっちゃ」
 そう言いながらも、アスナが触れ合う体の温もりを惜しんでいると、キリトがどこか真剣な表情でつぶやいた。
「絶剣と、戦うなら……」
「……え?」
「えーと……うーん、いや、その……強いぞ、ほんとに」
 キリトの口調にどことなく歯切れの悪さを感じとって、アスナは首を傾げた。
「強いのは、リズたちからじゅうぶん聞かされたよー。ていうか、そもそもキリト君でも勝てなかったんだからさ。わたしにどうこうできるとは最初から思ってないけど。ただその剣を見てみたいだけだから……。それにしても、信じられないなあ、キリト君が負けちゃうなんてさ」
「今は俺より強い奴はいっぱいいるって。まあ、その中でも絶剣は別格だったけどな」
「そう言えば、なんかデュエル中に喋ってたみたいってリーファちゃんが言ってたけど。何話してたの?」
「あー、うーと、ちょっと気になったことがあって……」
「どんなこと?」
「えっと、その……」
 キリトの視線に、ある種の気遣わしさが混じっているのを、アスナは敏感に感じ取った。ますます訳がわからなくなり、眉をしかめる。
 いくら絶剣なる男が強いと言っても、ここはもうSAO世界ではないのだ。例えデュエルでリザインが間に合わず、HPが無くなったところで、誰かに蘇生魔法をかけてもらえばすぐにその場で復活できる。デスペナルティで経験値は減少するが、何時間か狩りをすればすぐに取り返せるはずだ。
 だが、キリトはアスナの思いもよらぬことを呟いた。
「あいつに、聞いたんだ。――君は、完全にこの世界の住人なんだな、って。答えは、猛烈なスピードの突進技だった。あの速さは……限界を超えていた……」
「……それって、ものすごい廃プレイヤーってこと?」
 アスナが首を傾げながら訊くと、キリトは慌てたように首を振った。
「い、いや、そうじゃない。もっとピュアな意味でさ。純粋に、この世界で生きている人間……そんな気がしたんだ」
「それって……どういう意味……?」
「――あんまり先入観を持たせなくないな。これ以上は、アスナが自分で感じてみてほしい。戦えばわかると思う」
 キリトに頭をぽんと叩かれ、アスナがぱちくりと目をしばたいたそのとき、背後の樹の向こう側にいくつかの降下音が立て続けに響いた。直後、聞きなれた大声。
「ちょっと目を離すとすぐこれなんだから!」
 ざくざくと草を鳴らして近寄ってくる足音に、アスナは慌てて体を起こす。
 リズベットは両手を腰に当てて立ち止まると、じとっとした目でアスナを見下ろしながら言った。
「お取り込み中すみませんけど、そろそろ時間でーす」
「わ、わかってるわよ」
 背中の翅を使って体を持ち上げ、すとんと直立すると、アスナは全身の装備を確認した。青銀の糸を編んだ短衣と、お揃いのスカート。水竜の革で作ったブーツとグローブ。腰の剣帯には、水晶の柄を持つレイピア。いずれも現段階で手に入るアイテムとしては最高級のスペックを備えている。これで敗れても武装の差のせいにはできない。
 マジックアクセサリの類も含めてチェックを終え、最後に時計を一瞥した。現実時間の午後3時をわずかに回ろうとしている。
 傍らで立ち上がったキリトの顔にちらりと視線を送ってから、振り向いてリズベットとその背後のシリカ、リーファ、さらにその頭上のユイをぐるりと見回し、アスナは言った。
「――じゃ、行きましょう」

 横一列で低空を飛行し、小島の中央を目指す。梢の連なりが途切れると、すぐに大きな丘が視界に入った。頂上には巨大な樹が四方に枝を広げ、その根元にはすでに沢山のプレイヤー達が集まって幾重にも輪を作っている。盛大な歓声が津波のように揺れながら届いてくる。
 ギャラリーの輪のなかに空きスペースを見つけ、アスナ達が着陸したちょうどその時、遥か上空から喚き声とともにプレイヤーが一人落下してきた。大樹の根元に、猛烈な勢いで頭から突き刺さり、盛大な土煙を上げる。
 見たところサラマンダーらしいその剣士は、しばらく大の字になって伸びていたが、やがて頭を左右に振りながらむっくりと上体を起こした。まだ墜落のショックが収まらないらしく顔をしかめながら、両手を差し上げて大声で喚く。
「参った! 降参! リザイン!」
 途端、デュエル終了のファンファーレが宙に鳴り響き、一層大きな拍手と歓声がそれに続いた。
 すげえ、これで六十七連勝だ、誰か止める奴はいないのかよ、と賞賛ともぼやきともとれる叫び声が無数に交錯する。それを聞きながら、アスナは勝者の姿を確認しようと、上空を振り仰いで目を細めた。
 大樹の枝が作り出す木漏れ日の光の中を、くるくると螺旋軌道を作って降下してくるひとりのプレイヤーの姿が見えた。
 思ったより小柄だ。名前のイメージから、筋骨隆々の巨漢といった姿を想像していたが、どちらかと言えば華奢な体型である。逆光の中をゆっくりと近づいてくるにつれ、細部が徐々に見て取れるようになる。
 肌の色は、闇妖精インプの特徴である、ごくわずかに紫がかった白。長く伸びたストレートの髪は、濡れ羽色とでも言うべき艶やかな黒だ。胸部分を覆う黒曜石のアーマーはやわらかな丸みを帯び、その下のチュニックと、風をはらんではためくロングスカートは矢車草のような青紫。腰には、黒く細い鞘。
 唖然として見つめるアスナの視線の先で、無敗の剛剣士「絶剣」は、地面の直前でくるりと一回転すると、軽やかにつま先から着陸した。そのまま左手を横に伸ばし、右手を胸に当てて、お芝居のような仕草で礼をする。途端、四方の男達から、もういちど盛大な歓声と口笛。
 絶剣はぴょこんと体を起こすと、満面ににいっと笑みを浮かべ、打って変わって無邪気な動作でVサインを作った。身長は明らかにアスナより低い。顔は小造りで、えくぼの浮かぶ頬、つんと上向いた鼻の上に、棗型のくりくりとした大きな瞳が、アメジストのような輝きを放っている。
 アスナはいまだ驚きからさめやらぬまま、隣のリズベットのわき腹を肘でつついた。
「……ちょっと、リズ」
「なに?」
「絶剣って――女の子じゃない!」
「あれ、言わなかったっけ?」
「言ってないよ! ……あ、もしかして……」
 今度は反対側に立つキリトの顔をやや横目で見る。
「キリトくんが負けた理由って……」
「ち、違うよ」
 真顔でぶんぶんぶんと首を振るキリト。
「女の子だから手加減したとかじゃないって。もう、超マジでした。ほんと。……少なくとも途中からは」
「どーだか」
 つん、と顔をそむける。
 その間にも、起き上がったサラマンダーが、敗れたにも関わらず笑顔で絶剣と握手を交わし、頭をかきながらギャラリーの一角に戻っていった。闇色の髪の少女は、ごく低位のヒール魔法を自分に掛けながら、くるりと周囲を見回す。
「えーと、次に対戦するひと、いませんかー?」
 その声も、幼い少女のように高くかわいらしい響きだ。生身のプレイヤーの要素が反映されるのは性別のみで、年齢までは中からはわからないのだが、それでもまるで実年齢に即した姿であるように思えてくる。
 周囲からは、お前行けよ、ヤダよ即死だよ、などというやり取りが聞こえるだけで、なかなか名乗り出る者はいなかった。と、今度はアスナの脇腹を、リズベットが肘でどやした。
「ほら、行きなさいよ」
「や……ちょっと、気合入れなおさないと……」
「そんなもんあのコと一合撃ちあえばバリバリ入るわよ。さ、行った行った!」
「わっ」
 どすん、と背中を押され、アスナは数歩つんのめりながら進み出た。転びそうになるのを翅を広げて立て直し、顔を上げたところで、絶剣の二つ名を持つ女の子と正面から目が合った。
「あ、お姉さん、やる?」
 ニコッと笑いかけられ、アスナは仕方なく、
「え、えーと……じゃあ、やろうかな」
 と小声で答える。強面の大男と予想していた絶剣と、試合前に威勢のいい舌戦のひとつも繰り広げてやるはずが、調子が狂うことおびただしい。
 しかし周囲からは、たちまち沸き立つような歓声が上がった。月例大会の表彰台常連であるアスナの顔を知るものも多いようで、名前を呼ぶ声もいくつか漏れ聞こえてくる。
「おっけー!」
 少女はぱちんと指を鳴らすと、手を振ってウインドウを出し、素早く操作した。即座に、アスナの前にデュエル申し込み窓が出現する。
 OKボタンに指先を触れながら、アスナは訊ねた。
「えーと、ルールはありありでいいのかな?」
「もちろん。魔法もアイテムもばんばん使っていいよ。ボクはこれだけだけどね」
 即答しながら、絶剣は左手で剣の柄をぽんと叩いた。無邪気なほどの自信ぶりに、アスナの戦意もようやくぴりっと刺激される。
 そう言われたら、遠距離からの魔法攻撃といった絡め手は使えないな、剣同士の真っ向勝負なら望むところよ、とアスナが内心で呟きながらレイピアの柄に右手を添えた、その時。
 絶剣が、更に余裕を伺わせることを大声で言った。
「あ、そうだ。お姉さんは、地上戦と空中戦、どっちが好き?」
 当然空中で戦うものと思っていたアスナは、虚をつかれて、剣を抜きかけた右手をぴたりと止めた。
「……どっちでもいいの?」
 言うと、絶剣はにこにこしながら頷く。これも一種の駆け引きかとおもわず勘ぐるが、インプの少女が浮かべる笑顔にはひとかけらの邪さも感じとれない。つまり、単純に、どちらで戦おうと勝てると思っているのだ。
 そういうことなら、こちらも素直に甘えさせてもらおう、と考えながらアスナは答えた。
「じゃあ、地上戦で」
「おっけい。ジャンプはあり、でも翅を使うのはなしね!」
 絶剣は即座に頷くと、背後に広げていた特徴的なシルエットの翅を畳んだ。コウモリに似たかたちのそれは、たちまち色を薄れさせ、ほとんど見えなくなる。アスナもそれに倣い、肩甲骨の先に伸びる翅から、意識の接続を切る。
 アスナは、ALO接続初日には補助スティックを使わない随意飛行をほぼマスターし、今ではもうアップデート以前の古参プレイヤーたちにも空中戦で引けを取らないほどの腕前になっている。
 それでも、やはり二年に及ぶSAO内での戦闘で体に染み付いた動きはそうそう薄れるものではない。地上で戦えるのは正直有り難いことだった。つま先を動かし、ブーツの底を通して伝わる地面の硬さを、しっかりと感じ取る。
 剣を抜いたのはほぼ同時だった。じゃりーん、と高い音が二つ、重なって響いた。
 絶剣が装備しているのは、細めの両刃直剣だった。鎧と同じく、黒曜石のような深い半透明の色合いを帯びている。武器のランクとしてはアスナが持つレイピアとほぼ同等であり、一部のレジェンダリィ・ウェポンが持つようなエクストラ能力は無いはずだ。
 絶剣は中段に構えた剣を前に、自然な半身の姿勢を取った。対してアスナは右手を体側に引き付け、レイピアをほぼ垂直に向ける。すうっと波が引くように周囲の歓声が遠ざかっていく。
 大きく息を吸い、吐いたところで、進行していたカウントがゼロになった。
 「DUEL」の文字が一瞬の閃光を発すると同時に、アスナは全力で地を蹴った。約七メートルの距離を瞬時に駆け抜けながら、体を右方向にきゅっと捻る。
「シッ!」
 短い気合とともに、弓から撃ち出される矢のように右手をまっすぐ突き出した。慣性力と捻転力をすべて乗せた突きを、絶剣の体の中心やや左に向けて二発、わずかにタイミングをずらして右に一発。ソードスキルではない通常技なのでスピードはさほどではないが、かわりに照準は精密だ。最初の二発を右に避けてしまうと、続く一発の回避はほとんど不可能となる。
 絶剣は、アスナの思惑どおり、体をすっと右に振って初撃と次撃を避けた。その動きが止まったところに、狙い違わず三撃目が吸い込まれていく――
 だが、剣尖がアーマーの胸元を捉えるその直前、絶剣の右手が煙るように動いた。同時にアスナのレイピアの右側面に小さな火花が弾け、突きの軌道が微妙にズレた。
 絶剣が、己の武器で超高速の突き技の途上にあったレイピアを正確にパリィしたのだ、と頭で理解したときにはもう、剣先は絶剣の鎧をわずかに掠めて宙に流れていた。
 カウンターの反撃を予想し、アスナはうなじの皮膚がちりちりと痺れるのを感じた。だがここで剣を戻そうとすれば体勢が硬直してしまう。技の慣性に逆らわず、思い切り体を左に回転させる。
 同時に、首元目掛けて跳ね上がってくる黒い輝きが視界に入った。
「――ッ!!」
 まさに雷光と言うべき恐ろしいほどのスピードに、戦慄が全身を駆け抜けた。歯を食い縛り、右足のつま先に地面を抉り取るほどの力を込めて体を捻る。
 足元は短く細い草が密に生えており、設定された摩擦力は石畳や裸地と比べるとわずかに低い。その数値がアスナを裏切り、ずるりと右足が滑った。瞬間的に、体ががくんとズレた。
 だがそれが幸いし、絶剣の剣先はアスナの胸元を掠めるに留まった。ずばん! という衝撃が耳のすぐそばを通過した。もし髪に当たり判定があったら、アスナの水色のロングヘアは長さが半分になっていただろう。虚空に放出されたエネルギーが、空気を揺らして拡散していくのが目の端に見えた。
 アスナはグリップの回復したブーツで地面を蹴り飛ばし、大きく右にジャンプした。左足でもう一度跳び、充分な距離を取って停止する。
 追撃に備えて腰を落としたが、絶剣は相変わらず笑顔を崩さないまま、再び剣を中段に構えて動きを止めた。アスナはばくばく言う心臓をなだめながら、どうにか笑みを返した――ものの、内心では冷や汗を滝のように流していた。
 自分に向かって飛んでくる突き技の軌道というのは、近づく小さな点でしかない。それを回避するには、基本的に足を使ったステップ防御を使うしかないのだが、絶剣はアスナのレイピアの横腹を正確に弾いてのけた。カウンター攻撃のスピードよりも、アスナはその超反応速度に舌を巻いていた。強い強いと散々聞かされていたものの、相手の思いがけず可愛らしい容姿に緩んだ意識に、ばしゃりと冷水を浴びせられたような思いだった。一時は、キリトが敗れたのは女の子相手の油断もしくは手心のせいかと疑ったのだが、それはあらぬ濡れ衣と言うべきだろう。彼でさえ、アスナの全力突きをパリィ防御してのけたことは一度もないのだ。
 アスナは再び深く息を吸うと、ぐっと止めた。確かに恐るべき相手だが、たった一合交えただけで諦めては剣士の名がすたる――
 不意に、耳の奥にこだまする声があった。
 (何が剣士だ――そんなもの――たかがゲームの――)
 ぎりりと歯を噛み締めて、意識からノイズを振り落とす。この世界はもうひとつのリアル・ワールドであり、そこでの戦いはいつだって真剣勝負なのだ。そうでなければならないのだ。
 己を鋭く鞭打つように、アスナは剣を鳴らして右肩の上に構えた。今度は剣先をまっすぐ相手に向ける。
 通常技が通用しないとなったら、あとは危険覚悟でソードスキルを撃ち込むしかない。しかしソードスキルにはシステム的な技後硬直時間が設定されており、もし全弾を回避されたら、致命的な反撃を叩き込まれるのは必至だ。どうにか相手の体勢を崩して、必中の状況を作らなくてはならない。アスナは空いている左手をぐっと握り締めた。
 再度地面を蹴って飛び出したときには、意識は完全に研ぎ澄まされていた。ALO世界での戦闘ではほとんど感じたことのない、神経系が燃え上がるような加速感が体じゅうを包んでいく。
 こんどは、絶剣のほうも飛び出してきた。口元からふっと笑みが消え、紫水晶の瞳がきらりと光る。
 右斜め上段から、轟と襲い掛かってきた黒曜石の剣を、アスナは左からの切り払いで受けた。火花、金属音と同時にすさまじい衝撃が右手に伝わる。撥ね戻された剣を、絶剣は武器の重量を感じさせないほどのスピードで切り返し、次々と撃ち込んでくる。見てから反応したのでは絶対に間に合わない速さだ。視界全体で捉えた相手の全身の動きから次の攻撃方向を予測し、受け、また避ける。時折偶発的に剣が互いの体を掠め、じわじわと二人のHPが減少していくが、クリーンヒットと言えるものは一発も無い。
 超高速の剣戟を響かせながら、アスナはふとある種の違和感を覚えていた。
 確かに、絶剣の攻撃速度、反応速度には恐るべきものがある。純粋なスピードだけを見ればキリト以上だ。だがそれでも、アスナがどうにかついていけるのは、SAOで培った膨大な戦闘経験に加えて、相手の攻撃が素直すぎるせいもある。武器を振りはじめで止めたり、テンポを一瞬遅らせたりといったフェイントはまったく使ってこない。
 もしかしたら、対プレイヤー戦闘の経験はあまりないのかもしれない、とアスナは感じた。もしそうなら、一瞬だけでも意表を突ければ、勝機は見える。
 右上、左上、左横と続いた三連撃をかいくぐり、アスナは思い切って絶剣の懐にまで飛び込んだ。ほぼ密着と言っていいほどの間合いだ。これでもうステップ防御は互いに使えない。
 アスナが腰を落とし、右手のレイピアを相手の体の中心めがけて、思い切り突き込もうとし――
 絶剣がそれに反応し、剣を下から切り上げようとした――
 その瞬間、アスナは右手を思い切り引き戻し、同時に握った左拳を絶剣の右体側に向けて叩き込んだ。はるばるノーム領の首都の修練場にまで赴いて修行した、「拳術」スキルによる攻撃だ。専用のナックル系武器を装備していないので威力はないが、無スキルではありえないダメージが発生する。
 どう、という衝撃が左拳に伝わり、絶剣の目が驚きに丸くなった。
 ――最初で最後のチャンス。アスナは躊躇なく、ソードスキル「カドラプルペイン」四連撃を発動させた。
 レイピアがまばゆい赤に発光し、同時に右手がシステムの見えざる手に後押しされて、稲妻のように宙を裂いた。
 アスナは攻撃が命中するのを確信した。相手は体勢を崩している。距離的にも、最早回避は不可能だ。
 だが。右手をシステムの加速に委ねながら、絶剣の顔を見たアスナの背に、再度の戦慄が疾った。絶剣は大きな目を見開いていたが、紫色の瞳に驚きの色はなかった。その瞳孔は、ぴたりとレイピアの先端に焦点を合わせていた。
 この突きが見えている――!?
 アスナがそう思った瞬間、絶剣の右手が閃いた。
 剣をグラインダーに掛けたときのような、硬質の擦過音が四つ、立て続けに響いた。アスナの四連撃は、上下左右に正確に弾かれ、一撃として命中したものは無かった。アスナには、絶剣の黒い剣が残した薄墨のような残像しか見えなかった。
 最後の一撃が受け流され、右手を前に出した格好のまま、コンマ何秒の――しかし絶望的な――硬直時間がアスナを襲った。その隙を絶剣が見逃すはずもなかった。
 ぎゅん、と引き戻された黒曜石の剣が、青紫色の光を帯びた。
 恐らく、硬直中でなくとも回避は難しかったであろうスピードの直突きが、アスナの左肩を捉えた。そのまま斜めに、右腹に向かって五連撃。全てを綺麗に貰い、HPバーががくがくと急激に減少した。記憶にない技だった。ということはオリジナル・ソードスキルだ。これほどの速度の五連突きを編み出すとは――
 とアスナが呆然と考えたその時、剣がその光を失わぬまま、今度は左上に構えられた。
 五発で終わりではないのだ。まだ続きがある。ようやく硬直が解けた体を引き起こしながら、アスナは三度慄いた。
 仮に、同じような突きがもう五発続いたら、ほぼ間違いなくHPはゼロになる。かと言って、回避は不可能だ。
 無駄な逃げ動作をして背中を斬られるくらいなら、わずかな可能性に賭けたほうがいい。アスナはレイピアを握る右手に力を込め、もう一度ソードスキルを発動させた。唯一マスターしているOSS五連撃技、「アストラルティアー」。
 赤と青の閃光がまばゆく交錯した。アスナの右肩から左下に向けて、先ほどの連撃とあわせてバツの字を描くように剣尖が叩き込まれる。
 だが今度こそ、アスナのレイピアも絶剣を捉えた。小さな星型の頂点を辿りながら、五発の突き技が黒いアーマーを貫いていく。
 五連撃を交換し終わり、一瞬の静寂が訪れた。二人とも、まだ倒れていなかった。
 絶剣のHPはアスナには見えないが、アスナのHPバーはほんの少しだけ残っていた。もともと、SAOからのキャラデータ引継ぎ組であるアスナのHP数値はALO古参組を上回るほどなのだ。驚異的な十連撃でそれをほぼ削りきった、絶剣のOSSの威力は凄まじいものが――
 ――絶剣の剣を包む青紫色の輝きは、まだ消えていなかった。
 もう一度引き戻された剣が、アスナの体の中央、バツの字の交差点をぴたりと照準する。
 それでは、これが、絶剣がデュエルに賭けているという十一連撃OSSなのか、とアスナは感嘆とともに思った。
 強い。そしてそれを上回る美しさを持った技だ。これほどの剣技に敗れるなら悔いはない。そう心のなかで呟きながら、アスナはとどめの一撃を待った。
 猛然と襲い掛かってきた十一撃目は、しかし、アスナを貫く寸前でぴたりと停止した。
「――!?」
 唖然として目を見開くアスナの前で、絶剣は武器を下ろすと、何を思ったかすたすたと近づいてきた。左手でアスナの肩をぽんと叩き、にっこりと輝くような笑みを浮かべる。その唇が動いて、威勢のいい声が発せられた。
「うーん、すごくいいね! お姉さんに決めた!!」
inserted by FC2 system