ソードアート・オンライン4 『アリシゼーション』



第三章(承前)



 からーん、と五時半の鐘が鳴るのとほぼ同時に目を醒ました俺は、やればできるものだ、などと思いながら潔くベッドから降りた。
 東向きの窓を開け放つと、大きくひとつ伸びをして、暁色に染まった冷たい空気を胸一杯に吸い込む。数回呼吸を繰り返しているうちに、後頭部あたりにわだかまっていた眠気の残り滓は綺麗に消え去っていった。
 耳を澄ませると、廊下の向かいの部屋でももう子供たちが起き始めているようだった。一足先に井戸で顔を洗おうと、手早く服を着替える。
 俺の"初期装備"であるところのチュニックとズボンには、まだ目に見える汚れは無いものの、ユージオの言葉によれば衣服はこまめに洗濯しないと天命の減りが早まるのだそうだ。ということなら、そろそろ着替えを手に入れる算段をしなくてはならない。そのへんのことも、今日ユージオに相談してみよう――などと考えながら裏口から外に出て、井戸へと向かう。
 桶に数杯ぶんの水をタライに移し、顔をつけてばしゃばしゃやっていると、後ろから近づいてくる早い足音が耳に入った。シルカかな、と思いながら体を起こし、両手の水を切りながら振り向く。
「あっ……おはようございます、シスター」
 そこ立っていたのは、すでに一分の隙もなく修道服を身につけたシスター・アザリヤだった。俺が慌てて頭を下げると、向こうも会釈しながら「おはようございます」と答える。その厳格そうな口もとが、いつも以上にきつく引き締められているのを見て、内心で少々竦み上がる。
「あの……シスター、何か……?」
 恐る恐るそう聞くと、シスターは少し迷うように視線をさまよわせてから、短く言った。
「――シルカの姿が見えないのです」
「えっ……」
「キリトさん、何かご存知ではないですか? シルカはあなたに懐いているようでしたし……」
 これはもしや、俺がシルカをどうこうしたと疑われているのか? と一瞬周章狼狽したが、すぐにそんなわけはないと思い直した。この世界には犯す者なき絶対の法たる禁忌目録があるのであり、少女をかどわかすなどという大罪はシスターにとって想像の埒外であろう。つまり彼女は、シルカの不在は本人の意思によるものと思っており、純粋にその行き先について俺が何か情報を持っていないかと問うているのだ。
「ええと……いや、俺は特に何も聞いていませんが……。今日は安息日なんですよね? 実家に戻っているのでは?」
 起きぬけの頭で懸命に考えてそう言ったが、シスターは即座に首を振った。
「シルカは教会に来てからの二年間一度も生家には帰っていません。もしそうだとしても、私に何も言わず、朝の礼拝にも出ずに行くなどということは有り得ません」
「なら……何か買い物をしているとか……。朝食の材料は、いつもどうしているんですか?」
「週の最初の日にまとめて買いこんでおくのです。今日は村の店もすべて休みですから」
「ああ……なるほど」
 それでもう俺の乏しい想像力は種切れだった。
「……きっと、何か急な用事があったんでしょう。すぐに帰ってきますよ」
「……だといいのですが……」
 シスター・アザリヤは尚も心配そうに眉をひそめていたが、やがて短く溜息をついて言った。
「それでは、お昼まで待って、まだ戻らないようなら村役場に相談に行くことにします。お邪魔をして御免なさいね、私は礼拝の準備がありますので、これで」
「いえ……。俺も、あとで周りを探してみますよ」
 会釈して去っていくシスターを見送りながら、俺は遅まきながら胸にかすかな不安感がざわめくのを感じた。昨夜のシルカとの会話の中で、確かに何かひとつ懸念をおぼえることがあったのだ。だがそれが何なのか、思い出せない。シルカが教会から失踪するきっかけになるような何かを、俺は口にしてしまったのだろうか。
 胸騒ぎを抑えられないまま朝のお祈りをこなし、シルカ姉ちゃんはどこにいったの? と口々に尋ねる子供たちをなだめながら朝食を終えても、シルカは戻ってこなかった。俺は食事の後片付けを手伝ってから教会の表門に向かった。
 ユージオとは何の約束もしていなかったが、八時の鐘が鳴ると同時に北の通りから広場に入ってくる亜麻色の髪を見つけ、俺はほっとして駆け寄った。
「やあキリト、おはよう」
「おはようユージオ」
 微笑ながら手をあげるユージオに、俺も短く挨拶を返し、続けて言った。
「ユージオは、今日はいちにち休みなんだろう?」
「うん、そうだよ。だから、今日はキリトに村中を案内してあげようと思って」
「そりゃ有り難いけど、その前にちょっと手伝ってほしいんだ。朝からシルカが姿を消しちゃってさ……。それで、探してみようと思って……」
「ええ?」
 ユージオは目を丸くし、次いで心配そうに眉をひそめた。
「シスター・アザリヤに何も言わずに居なくなったのかい?」
「どうも、そうみたいだ。こんなこと初めてだってシスターは言ってた。なあ、ユージオはどこか、シルカが行きそうな所に心当りはないか?」
「行きそうな、って言われても……」
「俺ゆうべ、シルカと少しだけアリスの話をしたんだよ。だから、もしかしたら、アリスとの思い出の場所とかかもしれない、と思って……」
 そこまで口に出したところで、俺はようやく、本当に呆れるほど遅まきながら、胸にわだかまる不安感の正体に気付いた。
「あっ……」
「なんだい、どうしたのキリト?」
「まさか……。――なあユージオ。昔、シルカに、アリスが整合騎士に連れて行かれた理由を訊かれたとき、教えなかったんだって? 何故だ?」
 ユージオは何度かぱちぱち瞬きをしていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「ああ……そんなこともあったね。何故……何で言わなかったのかな……。はっきりした理由があった訳じゃないんだけど……不安だったのかもしれないね……シルカが、アリスの後を追いかけてしまいそうで……」
「それだ」
 俺は低くうめいた。
「俺、昨夜シルカに教えちゃったんだ。アリスが闇の王国の土を踏んだ話を……。シルカは果ての山脈に行ったんだ」
「ええっ!」
 ユージオの顔が一気に蒼ざめた。
「それはまずいよ。村の人に知られる前に、早く追いかけて連れ戻さないと……。シルカが出発したのは何時ごろなの?」
「わからない。俺が起きた五時半にはもういなかったらしい……」
「今ごろの季節だと、空が明るくなりはじめるのは五時くらいだ。それより早くだと森を歩くのは無理だよ。てことは、三時間前か……」
 ユージオは一瞬空を仰ぎ、続けた。
「僕とアリスが洞窟に行ったとき、子供の脚でも五時間くらいしかかからなかった。たぶんシルカはもう半分以上進んでると思う。今すぐ追いかけても、間に合うかどうか……」
「急ごう。すぐに出よう」
 俺が急かすように言うと、ユージオもこくりと頷いた。
「準備してる時間は無いね。幸いずっと川沿いだから、水に困ることはない。よし……道はこっちだよ」
 俺とユージオは、行き過ぎる村人に怪しまれない限界の速度で北に向かって歩き始めた。
 商店の類がまばらになり、人通りがなくなると、石畳の下り坂を転がるように駆け下りる。およそ五分で水路にかかる橋のたもとに辿り付き、詰め所の衛士の目を盗んで村の外に飛び出た。
 麦畑が広がる南がわと違い、村の北は深い森が迫っていた。ルーリッド村を構成する丘を一周するように取り巻く水路に流れ込む川がひとすじまっすぐ森を貫いて伸びており、その岸辺は短い草が繁る小道になっている。
 ユージオはわき目もふらず道に飛び込むと、十歩ほど進んでから立ち止まった。俺を左手で制止しながら、地面にしゃがみこみ、右手で足元の草を撫でている。
「ここだ……踏まれた跡がある」
 呟き、すばやく印を切って草の"窓"を呼び出した。
「天命が少し減ってる。しばらく前に誰かが通ったのは間違いないね。急ごう」
「あ……ああ」
 俺はごくりと唾を飲みながら頷き、早足に歩き始めたユージオの後を追った。

 どれだけ進もうと、風景はいっこうに変化する気配を見せなかった。RPGによくある"ループする回廊"のトラップに踏み込んでしまったのではないかと疑いたくなってくる。およそ一時間前に、かすかに鐘の音が届いてきたのを最後に村の時報も途絶えたので、時刻を知る手がかりはじわじわ上りつづける太陽しかない。
 俺とユージオは、半ば駆け足に近いスピードで川縁を遡りつづけている。現実世界の俺なら、三十分もこんな真似をすれば完全に息が上がってしまうだろう。しかし幸い、この世界の平均的男子はかなり体力に恵まれているようで、かすかな、心地よいとさえ言える疲労感があるのみだ。一度ユージオにもう少しスピードを上げようと提案したのだが、これ以上速く走ると天命がみるみる減って、長い休息を入れないと動けなくなると言われてしまった。
 そのくらいギリギリの速度ですでにたっぷり二時間は進んでいるのに、いまだ道の先に少女の姿を見つけることはできない。というよりも時間的にはシルカはそろそろ洞窟に到着してもおかしくない頃だ。不安と焦りが、口の中に鉄臭い味を伴って広がっていく。
「なあ……ユージオ」
 呼吸を乱さないように注意しながら声を掛けると、右前方を走るユージオがちらりと振り向いた。
「なに?」
「ちょっと訊いておきたいんだけど……もしシルカが闇の国に入ったら、その場ですぐ整合騎士に掴まってしまうのか?」
 するとユージオは一瞬記憶をたどるように視線をさまよわせ、すぐに首を振った。
「いや……整合騎士はたぶん明日の朝、村に現われると思う。六年前はそうだった」
「そうか……。じゃあ、最悪の場合でもまだシルカを助けるチャンスはあるわけだ」
「……何を考えてるのさ、キリト?」
「単純な話さ。今日中にシルカを連れて村から出れば、整合騎士から逃げ延びることができるかもしれない」
「……」
 ユージオは顔を正面に戻すと、しばらく黙り込んだあと、短く首を振った。
「そんなこと……できるわけないよ。天職だってあるし……」
「べつに、ユージオに一緒に来てくれとは言ってないぜ」
 俺は、挑発するようにそう口にした。
「俺がシルカを連れて逃げる。俺が口を滑らせたのが原因なんだからな。その責任は取るさ」
「……キリト……」
 ユージオの横顔に、傷ついたような色が浮かぶのを見て俺も胸が痛む。しかし、これも彼の"遵法精神"を揺さぶるためだ。シルカの危機を利用しているようで気が咎めるが、この世界に暮らすユニット――人間たちにとっての禁忌目録が、単に倫理的なタブーなのか、それとも物理的に焼きつけられたルールなのか、そろそろ見極めておく必要がある。
 果たして、ユージオは更なる沈黙に続いてゆっくり、何度も首を左右に振った。
「だめだよ……無理だよ、キリト。シルカにだって天職があるんだよ、たとえ騎士が捕まえにくるとわかっていても、君と一緒に行くはずがない。それに、そもそも、そんな事にはならないと思うよ。闇の王国に足を踏み入れるなんていう重大な禁忌を、シルカが犯すなんて有り得ないことだ」
「でも、アリスにはできた」
 俺が短く反例を挙げると、ユージオはぎゅっと唇を噛み、もう一度大きく否定の素振りを見せた。
「アリスは……アリスは特別な存在だった。彼女は、村の誰とも違っていた。もちろん、シルカとも」
 言葉を切ると、これ以上話を続ける気はない、というようにわずかに走る速度を上げる。俺はその後を追いながら、胸の中でつぶやいた。
 ――アリス……君は、いったい、何者なんだ?
 ユージオやシルカを含む住人たちにとって、やはり禁忌目録というのは、破りたければ破れる、というレベルのものではなさそうだ。あたかも、現実世界に暮らす人間が物理法則を破って空を飛んだりできないように。それは、彼らが『本物のフラクトライトを持つが俺と同じ意味での人間ではない』という、俺の考察を裏付ける材料であると言っていい。
 しかし、ならば、重大な禁忌を破ったという少女アリスはどのような存在なのか? 俺と同じく、STLを利用してダイブしているテストプレイヤーなのか、あるいは――。
 自動的に脚を動かしながら、頭の中でアイデアの断片をあれこれ切り貼りしていると、今度はユージオが沈黙を破った。
「見えたよ、キリト」
 はっとして顔を上げる。たしかに、目指す先で森が切れ、その奥に灰白色の岩が連なっているのが見て取れた。
 ラストスパートとばかりに、残る数百メートルを二人並んで駆け抜け、足元の草地が砂利に変わったところで立ち止まった。さすがに少々荒い息を繰り返しながら、俺は眼前に広がった光景を唖然として見上げた。
 仮想世界じゃあるまいし――、などと思わず言いたくなるほどの、見事なエリアの切り替わりっぷりだった。密に生い茂る樹々の縁から、ほんのわずかな緩衝帯をへだてて、いきなりほとんど垂直に岩山が切り立っている。驚いたことに、手の届きそうな高さから薄い雪に覆われて、比高何千メートルあるのか知らないが頂上付近は真っ白に輝いている。
 雪山は、俺のいる場所から右にも左にも視線の届くかぎりどこまでも続き、世界を南と北に完璧に二分しているようだった。もしこの世界にデザイナーが存在するのなら、あまりにも安易な境界線の引き方だと非難されても仕方あるまい。
「これが……果ての山脈なのか? この向こうが、すぐにもう、噂の闇の王国なのか……?」
 信じられない思いでそう呟くと、ユージオがこくりと頷いた。
「僕も、初めてここに来たときは驚いたよ。世界の果てが……」
「……こんなに、近いなんて」
 後半を引き取って嘆息混じりに言い、俺は無意識のうちに首を捻っていた。何の障害もない一本道を、たった二時間半の早足で辿り付けるこの距離、これでは、まるで、期待しているようではないか。住民が、偶然禁断の地へと迷い込んでしまう事態を。
 放心する俺に向かって、急かすようにユージオが言った。
「さあ、急ごう。シルカとは三十分くらいしか遅れていないはずだよ、見つけてすぐに引き返せば、まだ明るいうちに村に戻れる」
「あ、ああ……そうだな」
 彼が指し示す方向を見ると、俺たちが遡ってきた小川が、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟に吸い込まれて(正確には流れ出して)いるのが見えた。
「あれか……」
 小走りに近づく。洞窟はかなりの高さと幅があり、ごうごうと流れる急流の左側に、二人がじゅうぶん並んで歩けそうな岩棚が張り出していた。奥のほうは真っ暗闇で、時折凍りつきそうに冷たい風が吹き出してくる。
「おい、ユージオ……灯りはどうするんだ?」
 ダンジョン探索に必須のアイテムをすっぽり忘れ去っていた俺が慌ててそう言うと、ユージオは任せておけ、というように頷き、いつの間に拾っていたのか一本の草穂を掲げた。そんなネコジャラシをどうするつもりかと、俺が唖然として見守る前で、真剣な表情を浮かべると口を開く。
「システム・コール! エンライト・オブジェクト!」
 システムコールだぁ!? と驚愕したのも束の間、ユージオの握る草穂の先端に、ぽうっと青白い光が点った。暗闇を数メートル先まで照らし出すのに十分な光量を持ったそれを前にかざし、ユージオはすたすたと洞窟に踏み込んでいく。
 驚きから冷めやらぬまま俺は彼を追いかけ、隣に並んで問い掛けた。
「ゆ、ユージオ……いまのは?」
 厳しく眉を寄せたまま、それでもちらりと得意そうな色を口の端に浮かべて、ユージオは答えた。
「神聖術だよ、すごく簡単な奴だけどね。おととし、あの剣を取りにこようと決心したときに、一生懸命練習したんだ」
「神聖術……。お前……システムとか、オブジェクトとか……意味は知ってるのか?」
「意味……っていうか、聖句だよ。神様に呼びかけて、奇跡を授けてくださるようにお願いする言葉なんだ。上級の神聖術は、聖句もさっきの何倍も長いらしいよ」
 なるほど、言葉としての意味は持たない呪文扱いなのか、と内心で頷く、それにしても、即物的な呪文もあったものだ。やはりこの世界のデザイナーは、筋金入りの現実主義者らしい。
「なあ……俺にも、使えるかな?」
 こんな状況ではあるが、多少わくわくしながらそう尋ねると、ユージオはどうだろう、というように首を捻った。
「僕がこの術を使えるようになるのに、毎日仕事の合間に練習しながら二ヶ月くらいかかったんだ。アリスが言ってたんだけど、素質のある人なら一日で使えるし、できない人は一生かけてもできないって。キリトの素質はわからないけど、今すぐには無理じゃないかな」
 つまり反復訓練によるスキルアップが必須、というわけなのだろう。それは確かに一朝一夕でマスターできるものではなさそうだ。素直に諦め、前方の闇に目を凝らす。
 濡れた灰色の岩肌は、右に曲がり左に曲がりしながら、どこまでも続いているようだった。肌を切るように冷たい風がひっきりなしに吹き付けてきて、隣に相棒がいるとは言え、棒の一本も携えない丸腰の身では、多少の不安感が湧き上がってくる。
「なあ……ほんとに、シルカはこんなとこに潜っていったのかな……」
 思わずそう呟くと、ユージオは無言で光るネコジャラシを足元に向けた。
「あっ……」
 青白い光の輪のなかに浮かび上がったのは、凍りついた浅い水たまりだった。中央が踏み割られ、四方に罅が走っている。
 俺が試しにその上に乗ると、ばりんと音を立てて氷がさらに大きく割れ、わずかな水が飛び散った。つまり、直前に俺より体重の軽い者がこの上を歩いた、ということだ。
「なるほど……間違いないみたいだな。まったく……無鉄砲というか恐れを知らないというか……」
 思わずそうぼやくと、ユージオは不思議そうに首を傾げた。
「別に、何も怖いものなんてないよ。この洞窟にはもうドラゴンもいないし、それどころかコウモリ一匹だっていやしないんだからさ」
「そ、そうか……」
 改めて、この世界にはモンスターはいないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、果ての山脈のこちら側は、VRMMOで言う圏内エリアと考えていいわけだ。
 いつの間にか強張っていた背中から、ふう、と力を抜こうとした――その時だった。
 前方の闇の奥から、風に乗って妙な音がかすかに届いてきて、俺とユージオは顔を見合わせた。ぎっ、ぎいっ、と言うような、ある種の鳥か、あるいは獣の哭き声のように、聞こえなくもなかった。
「おい……今の、なんだ?」
「……さあ……初めて聞くよ、あんな音。……あ」
「こ、今度は何だよ」
「なんか……匂わない、キリト……?」
 言われるままに、俺は吹き寄せる風を深く鼻から吸い込んだ。
「あっ……なんか、焦げ臭いな……。それに……」
 樹脂の焼けるような匂いに混じって、ほんのわずかに、生臭い獣臭を嗅いだ気がして、俺は顔をしかめた。到底、心安らぐ香りとは言いがたい。
「なんだ、これ……」
 そう言いかけた時、新たな音が響いてきて、俺は息を呑んだ。
 きゃああああ……と、長い残響音の尾を引くそれは、間違いなく女の子の悲鳴だった。
「まずい!」
「シルカ……!」
 俺とユージオは同時に叫ぶと、凍りついた岩にまろびつつ全力で走り出した。
 この世界に放り出されて以来、最大限にまで――どこにいるのかまるで分からなかったあの時よりも――高まった危機感が、体の内側を氷のように駆け巡り、手足を痺れさせていく。
 やはり"アンダーワールド"もまた完全な楽園などではないのだ。薄皮一枚の下に黒い悪意を内包している。そうでなければ理屈に合わない。なぜなら、おそらくこの世界は、住人すべての魂を挟んだ巨大な万力なのだから。何者かが、数百年の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと螺子を回している。魂たちが結束して抗うか、あるいは無力に潰れてしまうのかを観察するために。
 ルーリッドの村は、もっとも万力の口金に近い場所のひとつなのだろう。"最後の時"が近づくにつれ、村の住人の中から、弾けて消える魂が少しずつ増えていく。
 だが、その最初のひとりにシルカが選ばれるのは、絶対に容認できない。彼女をこの洞窟に導いてしまったのは俺なのだから。彼女の運命に干渉してしまった者の責任として、かならず無事に連れ帰らなければ……。
 激しく揺れる弱々しい光だけを頼りに、俺とユージオはほぼ全力で走りつづけた。呼吸は乱れ、空気を求めて喘ぐたびに胸が激しく痛む。何回か滑ったときに打撲した膝や手首も絶え間なくうずき、"天命"が急速に減少しているであろうことは想像に難くないが、だからと言って速度を落とすわけにはいかない。
 進むにつれ、木が焚かれる焦げくさい匂いと、饐えたような獣の体臭は確実にその濃さを増していく。ぎっ、ぎっという声に混じって、がちゃがちゃ鳴る金属音も頻繁に耳に届く。前方に何者が待つのか分からないが、友好的な存在ではないだろうことは容易に想像できた。
 腰にナイフの一本も持たない以上、何らかの作戦を立てて慎重に進むべきだ――とVRMMOプレイヤーとしての俺が囁くが、躊躇している場合ではないという気持ちの方が大きかった。それに、俺以上に血相を変えて猛烈なスピードで走るユージオには、何を言っても引き留めることはできまい。
 不意に、前方の岩壁にオレンジ色の光が揺れた。反射の感じから見て、奥はかなり広いドームになっているらしい。びりびりと肌が震えるほどに明確な、敵性存在の気配を感じる。それも複数――かなり多い。シルカの無事を一心に祈りながら、俺はユージオとほぼ同時にドーム状空間に走り込んだ。
 すべてを視ろ、そして考え、行動を起こせ――可能な限り早く。刻み込まれたセオリーに従い、俺は両目をいっぱいに見開いて、その場の状況を広角カメラのようにかしゃりと切り取った。
 岩のドームはほぼ円形、直径は五十メートルほどもあるだろう。床面はほぼすべて厚そうな氷に覆われているが、中央部分で大きく割れて、青黒い水面が顔を出していた。
 オレンジ色の光の源は、その池の周りに立てられたふたつの篝り火だった。高い足のついた黒い鉄製の篭の中で、薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。
 そして、その二つの炎を取り巻くように、一応は人間型ではあるが明らかに人でも獣でもない者たちが三々五々固まって座り込んでいた。その数、三十をやや超えるか。
 一人、あるいは一匹の大きさはそれほどでもない。立ち上がっている者の頭の高さは、俺の胸ほどまでしかない。だが彼らの、やや猫背ぎみの体躯はがっしりと横幅があり、とくに異様なまでに長い腕と、その先の鋭い爪のついた手は何でも引き裂けそうなほど逞しい。体には、ほぼ黒に近い色の革製の銅鎧を付け、腰周りには雑多な種類の毛皮や何かの骨、小袋をじゃらじゃらと並べている。それに、無骨だが恐ろしい威力を感じさせる大きな曲刀も。
 肌は、炎に照らされていてもはっきりとわかるくすんだ緑色で、まばらな剛毛が生えている。頭部は例外なくつるりと禿げ、尖った耳の周囲にだけ密集している長い毛はまるで針金のようだ。眉毛は無く、突き出た額の下に、不釣合いなほどに大きい眼球が張り付いて、濁った黄色い光を放っている。
 どうしようもなく異質――ではあるが、同時に長年見慣れた姿でもあった。彼らは、RPGで言うところの低級モンスター、"ゴブリン"そのものだ。非常にオーソドックス、とさえ言っていい。それを認識すると同時に、俺はほんの少し肩の力を抜いた。ゴブリンというのはほとんど例外なくノービス・プレイヤーの練習相手兼経験値稼ぎ用のモンスターであり、そのステータスはかなり低く設定してあるのが通例だ。
 だが、その安堵も、俺とユージオに最も近い場所にいた一匹がこちらに気付き、視線を向けてくるまでのことだった。
 そいつの黄色い目玉に浮かんだいくつかの"表情"を見て、俺は骨の髄から凍りついた。そこにあったのはわずかな不審と、残忍な悦び、そして底無しの餓え。俺を大蜘蛛の巣に掛かった蜻蛉のように竦み上がらせるのに充分な悪意がそこにあった。
 こいつらも、プログラムではない。
 俺は圧倒的な恐怖の中で、それをはっきりと認識した。
 このゴブリン達もまた、本物の魂を持っている。ユージオや俺と、あるレベルではまったく同質の、フラクトライトによって生み出される知性を持っている。
 だが何故――どうしてそんな事が!? 
 俺は、この世界に放り出されてからの約二日間で、ユージオやシルカたち住人がどのような存在であるのか、おおよその推測を立てるに至った。彼らは恐らく、いくつかの原型からコピーされ、その後加工されて多様性を与えられた言わば人工フラクトライトなのだ。どのようなメディアに保存されているのかまでは分からないが、STLによって魂が読み取れるなら、その複製もまた可能であろうことは想像に難くない。
 原型となったのは、恐ろしいことだが多分、複数の新生児のフラクトライトであろう。言わば原思考体とでもいうべきその存在を無数にコピーし、この世界で赤ん坊として一から成長させる。それならば、アンダーワールドの住民たちが"本物の知性を持ち""現存STLを遥かに超える数存在する"という矛盾する状況が説明できる。俺が一日目の夜、神への挑戦であると畏れたラースの目的はつまり――真なるAI、人工知能を創ることだ。それも、人の魂を鋳型にして。
 その目的は最早、八割……いやもしかしたら九割九分達成されている。ユージオの思慮深さは俺を上回るほどだし、複雑な情動は深遠そのものだ。つまり、ラースのこの壮大かつ不遜極まりない実験はすでに終了していておかしくない。
 しかし尚も、このようにして継続しているからには、現段階の成果では研究者たちは不満なのだろう。何が足りないのかは根拠のない想像をするしかないが、もしかしたらあの禁忌目録、ユージオたちの"根源的に破れない法"と無関係でないのかもしれない。
 兎も角、俺のこの仮説によって、ユージオたちの存在についてはおおよそ説明できる。彼らは、俺とは物理的な存在次元が異なるだけで、魂の質量はまったく同じ"人間"であると言ってよい。
 しかし――ならば、このゴブリンたちは何者なのか? 黄色い目から強烈に放射される、このしたたるほどの異質な悪意は――?
 彼らの魂の原型もまた人間のものである、とはとても思えない。この底無しの餓え、俺、つまり人間の血をすすり骨を噛み砕くことへの欲望は、人の魂から作り出せるものでは絶対にない。もしかしたらラースは、現実世界で本物のゴブリンを捕まえて、そいつをSTLにかけたのか、などという支離滅裂な思考が頭のなかで明滅した。
 俺が凍り付いていたのは、ほんの一秒足らずだったろうが、俺の魂を竦み上がらせるには充分な時間だった。どう動いていいのかも思いつけないまま、ただ視線を動かせないでいる俺の前で、一匹のゴブリンがギィィッというような音――もしかしたら笑い声を上げ、立ち上がった。
 そして、喋った。
「おい、見ろや! 今日はどうなってんだぁ、またイウムの餓鬼が二匹も転がりこんできたぜ!」
 途端、ドーム中にぎぃぎぃ、きっきっというわめき声が満ちた。近くのゴブリンから次々に、武器を片手に立ち上がり、餓えた視線をぶつけてくる。
「どうする、こいつらも捕まえるかぁ?」
 最初のゴブリンがそう叫ぶと、奥のほうから、ぐららぁっと大きい雄叫びが轟き、全員がピタリと笑うのをやめた。さっと群れが左右に割れ、進み出てきたのは、一際大きな背丈を持つ、指揮官クラスとおぼしき一匹だった。
 金属の鎧をつけ、頭に巨大な飾り羽を立てたそいつの目は、それだけで俺を気絶させるのではと思うほどの圧倒的な邪悪さと、氷のような知性を放射していた。にやりと歪めた口の端から、黄色い乱杭歯を剥きださせて、そいつは言った。
「男のイウムなぞ連れて帰っても、幾らでも売れやしねぇ。面倒だ、そいつらはここで殺して肉にしろ」
 殺す。
 という言葉を、どのようなレベルで受け取ればいいのか、俺は一瞬戸惑った。
 真にリアルな死、つまり現実世界の俺の肉体が致命的損傷を受ける、という可能性は除外していいはずだ。おそらくSTLの中にいる現実の俺に、このゴブリンどもが危害を加えることなど(SAOじゃあるまいし!)できようはずもない。
 しかし、かと言って通常のVRMMOと同じように、死を単なるコンディションのひとつであると割り切るわけにも行かないだろう。この世界には、便利な蘇生魔法やアイテムは――神聖教会の中枢という例外を除き――存在しないのだから、ここで連中に殺されたら、たぶんこの"キリト"はジ・エンドなのだ。
 ならば、もし死んだら、主体的意識としての俺はいったいどうなるのだ?
 ラースの開発支部で目を醒まし、オペレータの平木孝治がにやにやしながらオツカレ、などと言ってドリンクでも差し出すのか? あるいは、この一連の記憶は消去され、またどこかの森でひとり目覚めるところからやり直しなのか? あるいは肉体なき幽霊として、世界のゆく末をただ見守る役を与えられるのか?
 そしてその場合――同じくここで命を落とすであろうユージオとシルカはどうなるのだろう?
 自前の脳味噌という"専用保存メディア"を持っている俺と違い、何らかの大容量記憶装置に存在するのだろう彼らの魂は、もしかしたら、死んだら消去されてそれきり……ということも有り得るのではないか?
 そうだ……シルカ、彼女はどこにいるんだ。
 俺は瞬間的思考をわずかに中断させ、再度目の前の光景に意識を向けた。
 隊長ゴブリンの指示に従い、部下たちのうち四匹がおのおののエモノをぶら下げて俺とユージオに向かって歩き始めたところだ。ゆっくりとした歩調といい、巨大な口に張り付くにやにや笑いといい、俺たちをなぶり殺しにする気満々と見える。単純な擬似AIには有り得ない行動パターンだ。
 奥に残る二十数匹のゴブリンたちも、目に興奮の色を浮かべながら口々にぎぃぎぃと囃し立て、そして――居た! 暗がりに紛れて見え難かったが、修道服を来たシルカの小さな体が、粗末な四輪の運搬車に転がされている。体は荒縄で縛られ、瞼は閉じられているが、顔色からして意識を失っているだけと思えた。
 そうだ、先刻、隊長ゴブリンはこう言った。男のイウム(人間のことだろうか?)を連れて帰っても売れないから、この場で殺せ、と。
 裏返せば、女なら売れるということだ。奴らは、シルカを闇の国へと拉致し、商品として売り飛ばすつもりなのだ。脳裏に、およそ十通りほどもの陰惨な想像が過ぎる。
 このまま何もしなければ、恐らく俺とユージオは殺され、ユージオの魂は"消滅"するだろう。だが、シルカを待つ運命の過酷さは恐らく死より辛いものだ。それを、単なるシミュレーションの枝葉末節などと割り切ることは俺にはできない。絶対にできない。彼女も、俺とおなじ人間――まだほんの十二歳の女の子なのだから。
 どうやら、やるべきことは――
「明確だな」
 俺はごく小さく呟いた。隣で、同じように凍り付いていたユージオの体がぴくりと動いた。
 シルカは絶対に助け出す。例えその代償を、俺のこのかりそめの命で払うことになろうともだ。そして例え、目の前の"本物の"ゴブリンたちを一匹残らず殺すことになろうとも、だ。
 もちろん、そんなことが簡単に出来ようはずもない。戦力差はあまりに巨大で、こちらには棒きれの一本も無い。しかし、知力と体力のすべてを振り絞ってやれる限りのことをやるのだ。これは明確なる戦争なのだから。
「ユージオ」
 視線を前方に据えたまま、ほとんど音にならない声でささやく。
「いいか、シルカを助けるぞ。動けるな」
 すぐに、短いがはっきりと、うん、という答えが返ってくる。やはりこいつも、おっとりしているようでその実ハラが据わっている。
「三つ数えたら、前の四匹を体当たりで突破して、俺は左、お前は右のかがり火を池に倒す。その光る草を無くすなよ。火が消えたら、床から剣を拾って、俺の後ろを守ってくれ。無理に倒そうとしなくていい。その間に、俺はあのボスをやる」
「……僕、剣なんて振ったことないよ」
「斧と一緒だ。いいな、いくぞ……一、二……三!」
 氷の上だが、俺もユージオも脚を滑らせることなく最高のスタートを切った。この運が最後まで続くことを祈りつつ、俺は腹の底からときの声を上げた。
「うらあああああ!!」
 一拍遅れて、ユージオのふほおおおお! という叫びが続くのを聞いてなんだよそりゃと思ったが幸い効果は充分だったようで、四匹のゴブリンは黄緑色の目を丸くして立ち止まった。もっともそれは雄叫びのせいではなく、"イウムのガキ"が捨て身の突進を仕掛けてきたこと自体に驚いたからかもしれないが。
 ちょうど十歩目で俺は体をぐっと沈め、一番左とその隣のゴブリンの隙間目掛けて、右肩から全力のタックルをぶちかました。不意打ちと体格差とスピードの修正効果で、二匹はものの見事に後ろにひっくり返り、手足を振り回しながら氷の上をつーっとすべっていった。ちらりと横を見ると、ユージオの体当たりもきれいに決まって、同じく二匹が裏返しの亀のように回転しながら遠ざかっていく。
 足を止めることなく、俺たちはゴブリンの円陣ど真ん中目掛けてさらに加速した。幸い、連中の状況対応力はそれほどでもないようで、隊長を含めていまだ立ち上がることなくぽかんとこちらを見ている。
 そうだ、そのままボーっとしてやがれ。罵るように祈りながら、俺はゴブリンどもの間を縫うように最後の数メートルを走り抜ける。
 さすがに隊長ゴブリンだけは他の連中とは一枚上の知能を持っているようで、怒りに満ちた叫びが氷のドームに轟いた。
「そいつらを火に近づけるな――」
 だが、いかにも遅かった。俺とユージオは、三本足の火篭に飛びつくと、勢い良く水面めがけて蹴り倒した。渦のように火の粉を撒き散らしながら、二つのかがり火は黒い水面へと倒れこんでいき、ばしゅっという音と白い水蒸気を残してあっけなく消え去った。
 ドームは一瞬、まったき暗闇に包まれ――次いで、ほのかな青白い光がそっと闇を退けた。ユージオが左手に握るネコジャラシの光だ。
 ここで、二つ目の僥倖が俺たちを待っていた。
 周囲にうじゃうじゃいるゴブリンどもが一斉にぎいいいいっという悲鳴を上げ、ある者は顔を覆い、ある者は後ろを向いてうずくまったのだ。見ると、池の向こうに立っている隊長ゴブリンさえも、苦しそうに顔を背け、こちらに左手をかざしている。
「キリト……これは……!?」
 驚いたように囁くユージオに、俺は短く答えた。
「多分……あいつら、その光が苦手なんだ。神聖術の光がな。今がチャンスだっ」
 俺は、周囲の床に乱雑に放り出されている武器のなかから、巨大な鉄板のように無骨な直剣と、先端にボリュームのある曲刀を拾い上げ、刀のほうをユージオの手に押し付けた。
「その刀なら使い方は斧と同じでいけるはずだ。いいか、草の光で牽制して、近づく奴を追い払うだけでいいからな」
「き……キリトは?」
「奴を倒す」
 短く答え、顔を覆った右手の隙間からこちらを凄まじい怒りの視線で睨んでいる隊長ゴブリンに向かって俺は一歩踏み出した。両手で握った直剣を、数回左右に振ってみる。外見に反して、やや頼りないと思えるほど軽いが、あの剣のように重過ぎて扱えないよりは遥かにマシだ。
「ぐららぁっ! イウムごときが……この"蜥蜴喰いのジラシ"様と戦おうとでも言うのか!」
 じりじり近づく俺を片目でねめつけながら、隊長が太い雄叫びを放った。同時に、右手で腰から巨大な蛮刀をじゃりんと抜き放つ。黒ずんだその刀身は、錆びだの何かの血などがこびり付き、異様な迫力を纏っている。
 勝てるのか!?
 頭ひとつほども大きいそいつと対峙した俺は、一瞬ひるんだ。だがすぐに、歯を食い縛って怯えの虫を噛み潰す。ここで奴を倒せず、シルカを助けられなかったら、俺がこの世界に来たのはあの子に最悪の運命を与えるためだった、ということになってしまう。サイズなど問題ではない――旧アインクラッドでは、俺より三倍も四倍も大きいモンスターどもと数え切れないほど戦ったのだ。しかもそいつらは、俺を"本当に殺す"可能性に満ち満ちていたのだ。
「違うね……戦うだけじゃない、ぶっ倒そうっていうのさ」
 俺は無理矢理作った笑みの隙間からそう吐き出すと、右足で思い切り地面を蹴った。
 左足を深く踏み込み、大上段に振りかぶった剣を敵の肩口目掛け真っ向正面から振り下ろす。
 甘く見ていたわけではないが、ボスゴブリンの反応は息を呑むほど速かった。視力を半ば奪っていることを考えると、旧SAOのベテラン剣士並みと言っていい。戦い慣れている。
 "後の先"――とでも言うのか、打ち込みに呼吸を合わせるように横殴りに飛んできた蛮刀を、俺はぎりぎりのところで掻い潜った。髪が何本か、圧力に引き千切られるのを感じた。俺の上段斬りは、先端が奴の肩アーマーを掠めて小さな火花を散らすに留まった。
 止まったら斬られる、そう確信した俺は、低い姿勢から体を左に捻り、がら空きのゴブリンの脇腹目掛けて右手一本の突き技を放った。今度は見事命中したものの、傷だらけの胴鎧を貫通するには至らず、鱗状の板金を何枚か引き千切っただけだった。
 ちゃんと先まで砥いどけよ! とこの剣の持ち主に向かって毒づきながら、ごうっと頭上から降ってくる反撃の一刀をさらに右に飛び退って回避する。蛮刀の分厚い切っ先が足元の氷を深く穿ち、改めてゴブリンの膂力に戦慄する。
 単発攻撃では埒があかない。隊長ゴブリンが体勢を回復する前に、俺は体に染み付いた片手直剣三連撃技"シャープネイル"を繰り出した。
 右下から払い上げの第一撃が、敵の左足を掠め、動きを止める。
 左から右へ薙ぎ払う第二撃が、鎧の胸部分を切り裂き、その奥の肉をも浅く抉る。
 右上から斬り下ろす第三撃が、致命傷を防ごうと上げられた敵の左腕を、肘の少し下部分からガツッと音を立てて断ち切った。
 壊れた蛇口のように迸る鮮血は、青白い光の中で真っ黒に見えた。跳ね飛んだゴブリンの左手が、くるくる回りながらすぐ左側の池に没し、どぷんと重い水音が響いた。
 勝った!
 俺がそう確信してから、止めの一撃を放つまでのわずかな隙を、しかし敵は見逃さなかった。
 横殴りにごうっと飛んできた蛮刀を、俺は回避しきれず、先端が左肩を掠めた。その圧力だけで俺は二メートル近くも吹き飛ばされ、ごろごろと氷床に転がった。
 左腕を切り飛ばされながらも一瞬も怯むことのなかった隊長ゴブリンの胆力、当たり損ねの一撃で俺を跳ね飛ばす剣の威力、そして何より、脳天に稲妻が突き刺さるような途方もない痛みのせいで――
 俺は石のように竦み上がった。
「キリト! やられたのか!?」
 すこし離れた場所で、右手に曲刀、左手に光る草を持って手下ゴブリンどもを牽制していたユージオが焦りの滲む声で叫んだ。
 かすり傷だ、と言い返そうとしたが、強張った舌が意思のとおりに動かず、俺はああ、うう、としゃがれた音を漏らすことしかできなかった。左肩から発生し、全身の神経を焼き切ろうとするかのような熱さのせいで、目の前にちかちかと火花が飛び、抑えようもなく涙が溢れた。
 なんという凄まじい痛みだ!
 耐えられる限界を遥かに超えている。氷の上に転がり、丸めた体を硬直させて浅い呼吸を繰り返す以外に何もできない。それでもどうにか首を回し、おそるおそる傷口を見ると、チュニックの左袖はまるごと引き千切られ、剥き出しになった肩に大きく醜い傷が口を開けていた。刀傷というより、巨大な鉤か何かでむしられたかのようだ。皮膚とその下の肉がごっそり抉られ、剥き出しになった筋繊維の断面から赤黒い血液が絶え間なく噴き出している。左腕はすでに痺れと熱の塊と化し、指先は他人のもののように動こうとしない。
 こんな仮想世界があってたまるか、と俺は脳裏で呪詛のようにうめいた。
 バーチャル・ワールドというのは、現実の痛みや苦しみ、醜さや汚さといったものを除去し、ひたすらコンフォートでクリーンな環境を実現するために存在するのではないのか!? こんな恐ろしい苦痛をリアルに再現することに、いったいどんな意味がある。いや――むしろ、この痛みは現実以上とさえ思える。現実世界でこのような怪我をすれば、脳内物質が分泌されたり、失神したりといった防御機構が働くのではないだろうか? こんな、魂そのものを苛む痛みに耐えられる人間などいるはずがない……。
 それも少し違うかもな。
 諦めに似た脱力感の中に逃げ込みながら、俺は自嘲気味にそう思いなおした。
 そもそも、俺はリアルな痛みというものにまったく慣れていないのだ。現実世界では、救急車に乗るような大きな怪我などしたことは無いし、幼い頃祖父に強制された剣道も、練習の辛さに音を上げてすぐに辞めてしまった。SAO脱出後のリハビリは苦しかったが、最先端のトレーニングマシンと補助的投薬のお陰でたいした苦痛に晒されることもなかった。
 仮想世界においては何をかいわんやである。ナーヴギアやアミュスフィアのペインアブソーブ機構によって過保護なまでに痛みを除去された結果、俺にとって負傷というのは財布から払うコインにも似た、単なる数値の増減でしかなくなった。そう――もしSAO世界にこんな痛みが存在すれば、俺は始まりの街から出ることもできなかったろう。
 アンダーワールドは、魂の見る夢。もうひとつの現実。何日前のことかは定かでないが、エギルの店で自分が口にした言葉の意味を、俺はようやく知った。何が『この世界を攻略したい』だ。剣の技を試してみたい、などとどうしようもない思い上がりだった。たったひとつの傷に耐えることのできない者に、そもそも剣を持つ資格があろう筈もない。
 それにしても痛い。今すぐにこの痛みから解放されなければ、大声で泣き喚き助けを乞うてしまいそうだ。せめてそんな醜態を晒す真似だけはしたくない。
 涙で滲む視界の先で、隊長ゴブリンが切断された左腕にぼろ布を巻き終え、おもむろに俺を見た。両眼から放射される凄まじい怒りの念で、周囲の空気が揺らいでいるかのようだ。口に咥えていた蛮刀を右手に移し、ぶんっ、と振り回す。
「……この屈辱は、お前らを八つ裂きにして、腸を食い散らしても収まりそうもねぇが……とりあえず、やってみるとするか」
 いいから、早くやってくれ。どうせここから出て、STLの中で目を醒ましたら、すべての記憶を無くしているんだ。ユージオのことも。シルカのことも。あの子をいかなる犠牲を払っても助けると誓ったその数分後に、尻尾を巻いて逃げ出す自分へのどうしようもない嫌悪感さえも。
 頭上で蛮刀をぶん、ぶんと回しながら近づいてくる隊長ゴブリンから視線を外し、俺は遠く離れた場所に意識を失って横たわるシルカの姿をちらりと見た。そしてぎゅっと両目を瞑った。
 重い足音が、転がる俺のすぐ前で止まった。空気が動き、巨大な刀が高く振りかぶられるのを感じた。頼むから一撃、一瞬で片をつけてくれよ、と思いながら俺はこの世界から放逐される瞬間を待った。
 だが、いつまで待ってもギロチンの刃は落ちてこなかった。かわりに、背後からだだっと氷床を蹴る音がして、すぐに聞きなれた叫び声が続いた。
「キリト――ッ!!」
 驚いて目を見開くと、俺を飛び越えて隊長ゴブリンに打ちかかるユージオの姿が見えた。右手に握った曲刀を腕力だけでめちゃくちゃに振り回し、自分より遥かに大きい敵を二歩、三歩と後退させていく。
 ゴブリンは一瞬驚いたようだったが、しかしすぐに余裕を取り戻し、蛮刀を巧みに操ってユージオの攻撃を左右に捌いた。瞬間痛みを忘れ、俺は叫んだ。
「やめろユージオ! 早く逃げろ!!」
 だが、ユージオは我を忘れたかのように大声で叫びながら、尚も剣を振りつづけた。一撃のスピードには目を見張るものがあるが、いかんせんテンポが単調すぎる。隊長ゴブリンは、獲物の抵抗を楽しむかのようにしばらく防御に徹していたが、やがて一声ぐららうっ! と叫ぶとつま先でユージオの軸足を払った。体勢を崩し、たたらを踏むユージオ目掛けて――
「やめろおおおっ!!」
 俺の叫びが届くより早く、蛮刀を横薙ぎに叩きつけた。
 一撃を腹に受け、高く宙を吹き飛んだユージオは、音を立てて俺のすぐ横に落下した。反射的に体を起こし、にじりよろうとすると左肩が目のくらみそうなほどに痛んだが、喉から情けない嗚咽を漏らしてどうにか堪える。
 ユージオの傷は酷い有様だった。上腹部を横一直線に切り裂かれ、ギザギザの傷口からごぽり、ごぽりと恐ろしいほど大量に血が溢れている。いまだ左手に握られたままの草穂に照らされ、傷口の奥で不規則に動く臓器が否応無く見て取れた。
 ごぼっ、と重い音がして、ユージオの口からも泡混じりの血が噴き出した。茶色の瞳はすでに光を失いかけ、虚ろに宙を睨んでいる。
 しかし、ユージオは尚も体を起こそうとするのを止めなかった。口と鼻からひゅっ、ひゅっと赤い飛沫混じりの空気を吐き出しながら、震える両腕を突っ張る。
「お前……なんで、そこまで……」
 俺は思わず呻いた。ユージオを襲っている苦痛は、俺の比ではないはずだ。人の魂が耐えられる範疇とはとても思えない。
 ユージオは、焦点のぼやけた瞳で俺を見ると、赤く染まった口を動かして言った。
「こ……子供の頃……約束したろ……。僕と……キリトと……アリスは、生まれた日も……死ぬ日も一緒……今度こそ……守るんだ……僕が……」
 そこで、がくりとユージオの腕から力が抜けた。俺は咄嗟にその体を両手で支えた。細身だが筋肉質なユージオの重さを、ずしりと感じた瞬間――。
 視界が断続的に白い閃光に包まれ、そのスクリーンの奥に朧な影が浮かんだ。
 真っ赤な夕焼け空の下、麦畑を貫く道を歩いている。俺の右手を握るのは、亜麻色の髪の幼い少年。左手を握るのは、金髪のお下げ髪の少女。
 そうだ……世界は永遠に変わらないと信じていた。三人、いつまでも一緒だと信じていたんだ。なのに守れなかった。肝心なとき、何もできなかった。あの絶望、無力感を忘れるものか。今度こそ……今度こそ俺は……。
 もう肩の痛みは感じなかった。俺はぐったりとしたユージオの体をそっと氷の上に横たえると、右手を伸ばし、転がっていた直剣の柄を握った。
 そして頭上に掲げ、今まさに振り下ろされつつあった隊長ゴブリンの蛮刀を横一閃に弾き落とした。
「ぐるらっ」
 驚いたような声を上げ、わずかに体を泳がせた敵の腹に、立ち上がりざまのタックルをぶちかます。ゴブリンは更によろけて、二、三歩後退する。
 右手の剣をぴたりと相手の正中線に据え、大きく息を吸い、吐き出す。
 俺は確かに、肉体的な痛みに関してはまるで素人だ。だが、そんなものを遥かに上回る絶対的苦痛ならよく知っている。大切な人を失う痛みに較べれば、こんな傷などいくつ負おうがものの数ではない。喪失の痛みだけは、機械で記憶をいかに操作しようと絶対に消えることはないのだ。
 最早我慢ならん、と云わんがばかりに隊長ゴブリンが大音響の咆哮を轟かせた。周囲で喚いていた手下どもがぴたりと押し黙る。
「イウムがぁ……調子に乗んじゃねぇッ!!」
 暴風のような勢いで突っ込んでくる隊長の、蛮刀の先端だけを俺はじっと凝視した。きいいいんという耳鳴りとともに、視界の余計な部分が放射状に流れて消えていく。久しく忘れていた、脳神経が赤熱するかのような加速感覚。いや――この世界では、魂が燃えるような、と言うべきか。
 袈裟斬りに振り下ろされる蛮刀を、俺は一歩前に踏み込んでかわし、左下からの一刀で敵の右腕をほぼ付け根から斬り飛ばした。巨大な腕を付けたままの蛮刀は、ぶんぶん回転しながら周囲のゴブリンの輪に飛び込み、複数の悲鳴が上がった。
 両腕を失った隊長ゴブリンは、黄色い両眼に怒りと、それ以上の驚きを浮かべ、よろよろと後ずさった。傷口から黒い体液がばしゃばしゃと迸り、氷に落ちて湯気を立てる。
「……イウムに……イウムごときに俺様が負けるわけがねぇっ……」
 その言葉が終わらないうちに、俺は全力で突進した。
「ゴブリンごときに……」
 無意識のうちに、獰猛なセリフが口を突く。左足のつま先から右手の指先、直剣の切っ先までが一本の鞭のようにしなり、たくわえた威力を解き放つ。
「この俺が斬れるかッ!!」
 ぴうっ、と空気を裂く音が耳に届いたのは、隊長ゴブリンの巨大な首が宙を舞った少し後だった。
 ほぼ垂直に高く上昇し、次いでくるくる回転しながら落下してきたそれを、左手で受け止める。鶏冠のように立てられた飾り羽を鷲掴みにして、いまだ鮮血の垂れる首級を高く掲げ、俺は叫んだ。
「お前らの親玉の首は取った! まだ戦う気がある奴はかかってこい、そうでない奴は今すぐ闇の国に帰れ!」
 ユージオ、もう少しがんばれ、と心の中で唱えつつ、両目に最大限の殺気を込めて集団を見回す。ゴブリンたちは、隊長が死んだことで相当に浮き足立ったようで、互いに顔を見合わせながらぎっぎっと忙しなく声を上げている。
 やがて、前列にいた一匹が、肩に担いだ戦棍をゆらゆらさせながら進み出てきた。
「ぎへっ、そういうことなら、手前ェを殺ればこの俺が次の頭に……」
 口上を最後まで聞くほどの忍耐力は、今の俺には無かった。左手に首をぶら下げたまま猛然とダッシュし、そいつの右脇から左肩までを一刀で両断する。どっ、と重い音に続いて血飛沫が散り、やや遅れて上半身がずるりと滑り地面に落ちた。
 それで、ようやく残る連中の意思決定も終わったようだった。甲高い悲鳴が一斉に上がり、我先にとドームの一端に走り出す。俺たちが入ってきたのとは別の出口に、数十匹のゴブリンたちが周囲の者を突き飛ばし蹴飛ばししながら吸い込まれていき、たちまちのうちに見えなくなった。反響する足音と、具足の金属音が徐々に遠ざかり、消えると、氷のドームは先刻の熱気が嘘のような冷たい静寂に包まれた。
 俺は今更のように戻ってきた恐怖と左肩の痛みを深呼吸ひとつで脇に押しやり、剣と首級を同時に放り投げた。振り向き、横たわったままの友の傍らに駆け寄る。
「ユージオ!! しっかりしろ!!」
 声を掛けるが、紙のように白い顔は瞼を閉じたまま動こうとしない。口の端でピンク色の泡混じりの呼吸が繰り返されてはいるが、今にも停止してしまいそうな弱々しさだ。上腹の凄惨な傷口からは相変わらず血が流れ出ており、それを止めなくてはならないのはわかるがどうやって止血していいのか見当もつかない。
 強張った右手で素早く印を切ると、俺はユージオの肩を叩いた。浮かび上がったウインドウを、こわごわ覗き込む。
 生命力――デュラビリティ・ポイントの表示は、『244/3425』となっていた。しかも、左側の数字がおよそ二秒毎に一という恐ろしいペースで減少していく。つまり、ユージオの命が尽きるまで、あとわずか八分しかないということだ。
「……待ってろ、すぐ助けるからな! 死ぬなよ!!」
 俺はもう一度声を掛け、立ち上がった。今度は、ドームの隅に放置されたままの四輪台車に向かって全力で走り寄る。
 荷台には、中身のわからない樽や木箱、雑多な武器類と一緒に、縛られ転がされたシルカの姿があった。手近な箱から適当なナイフを掴み出し、手早くロープを切る。
 小さな体を抱き上げ、広い床に横たえてざっと調べたが目立つ外傷は無いようだった。呼吸もユージオと較べればはるかにしっかりしている。氷に突いていたせいで冷えた左手で、頬をぴたぴた叩きながら大声で呼びかける。
「シルカ……シルカ! 目を醒ましてくれ!!」
 すぐに、弓形の眉が顰められ、長い睫毛が震えて、ばちりと音がしそうな勢いでライトブラウンの瞳が見開かれた。離れた池のほとりに転がる草穂の光だけでは、咄嗟に俺を認識できなかったようで、喉の奥から細い悲鳴が漏れる。
「やっ……いやぁぁっ……」
 両手を振り回し、俺を押し退けようとするシルカの体を抑えて更に叫ぶ。
「シルカ、俺だ! キリトだ! もう心配ない、ゴブリンは追い払った!」
 俺の声を聞いたとたん、シルカはぴたりと暴れるのを止めた。おそるおそる伸ばしてきた右手の指先で、そっと俺の頬をさわる。
「……キリト……キリトなの……?」
「ああ、助けに来たんだ。お前大丈夫か? 怪我してないか?」
「う……うん、平気……」
 シルカの顔がくしゃっと歪み、直後ものすごい勢いで俺の首に飛びついてきた。
「キリト……あたし……あたし……!」
 すううっと耳もとで息を吸う音がして、幼子のような号泣が――始まる前に、俺はシルカの体を両腕で抱え上げるとくるっと振り向き、また走り出した。
「ごめん、泣くのはちょっと後にしてくれ! ユージオが大怪我をしたんだ!!」
「えっ……」
 腕の中の体が即座に強張る。氷の欠片だのゴブリンどもが置いていったガラクタだのを蹴り飛ばしながら一目散にユージオのところまで引き返し、シルカをその隣に下ろす。
「もう、普通の治療じゃ間に合いそうにないんだ! シルカの神聖術でなんとかならないか!?」
 俺が捲し立てると、シルカは息を飲みながらひざまずき、おそるおそる右手を伸ばした。ユージオの深い傷のそばに指先が触れると、びくりとその手を引っ込める。
 やがて、三つ編みに結った髪を揺らして、シルカは大きくかぶりを振った。
「……無理よ……こんな……こんな傷……あたしの魔法じゃ、無理……」
 指先を、今度は蒼白になったユージオの頬に当てる。
「ユージオ……嘘よね……あたしのせいで……ユージオ……」
 シルカの頬をつうっと伝った涙が、氷の上にできた血溜まりに落ちて小さな音を立てた。戻した両手で顔を覆い、嗚咽を漏らそうとする少女に向かって、俺は酷と思いつつ大声で言った。
「泣いてもユージオの傷は治らない! 無理でもいい、やってみるんだ! 君は次のシスターなんだろう!? アリスの後を継いだんだろう!?」
 シルカの肩がぴくりと震え、しかしすぐに力なく落ちる。
「……あたしは……姉さんにはなれない……。姉さんが三日でマスターした術を、あたしはひと月かけても覚えられないのよ。今のあたしに治せるのは、ほんの……ほんのかすり傷くらいで……」
「ユージオは……」
 俺は喉に込み上げてくる様々な感情を無理矢理飲み込みながら口を動かした。
「ユージオは、君を助けにきたんだぞ、シルカ! アリスじゃない、君を助けるために、命を投げ出したんだぞ!」
 もう一度、シルカの肩が、さっきより大きく揺れた。
 こうしている間にも、ユージオの天命はゼロに向かって突進しつつある。残り時間は二分、それとも一分だろうか。身悶えするほど長くもどかしい一瞬の沈黙。
 不意に、シルカが顔を上げた。
「――もう、普通の治癒術じゃ間に合わないわ。危険な高位神聖術を試してみるしかない。キリト、あなたの助けが必要だわ」
「わ、わかった。言ってくれ、何でもやる」
「左手を貸して」
 即座に伸ばした俺の手を、シルカは自分の右手で強く握った。次いで、氷の上に投げ出されたユージオの右手を左手でしっかり掴む。
「もし術が失敗したら、あたしも、あなたも命を落とすかもしれないわ。覚悟はいいわね」
「その時は俺の命だけで済むようにしてくれ。――いつでもいいぞ!」
 シルカは一瞬、強い光を湛えた瞳で俺をまっすぐ見つめた。すぐに目を閉じ、すうっと息を吸い込む。
「システム・コール!」
 高く澄んだ音声が、氷のドームいっぱいに響いた。
「――トランスファー・ユニット・デュラビリティ、ライト・トゥ・レフト!!」
 声の反響を追いかけるように、きぃんという鋭い音が高まり、膨れ上がった――と思ったその瞬間、シルカを中心として青い光の柱が屹立した。
 草穂の光を遥かに上回る、凄まじい光量だ。巨大なドームの隅から隅までをライトブルーに染め上げている。俺は思わず目を見開いたが、それも束の間、突然シルカに握られた左手が異様な感覚に襲われ歯を食い縛った。
 まるで、全身の構成物が光に溶け、左手から吸い出されていくようだ!
 見れば、実際、俺の体から小さな光の粒が浮き出しては、左腕を滝のように流れ落ち、シルカの右手に注ぎ込まれていく。ぼやける視線でその先を追うと、光の奔流はシルカの体を通過して、ユージオの右手からその体へと流れ込んでいる。
 トランスファー・デュラビリティ、つまり人から人へと天命を移動させる術なのだろう。おそらく、今俺のウインドウを開けば、数値が目まぐるしく減少しているはずだ。
 構わないから全部使ってくれ、そう念じながら、俺は左手に一層力を込めた。見れば、エネルギーの導線となっているシルカも相当に苦しそうだ。あらためて、この世界に厳然として存在する、力の代償としての痛みの大きさを意識する。
 痛み、苦しみ、そして悲しみ。仮想世界には必要ないはずのそれらが、これほどまでに意図的に強調されていることが、アンダーワールドの存在理由と深くリンクしているのは最早明らかだ。魂たちを苛むことで、ラースの技術者たちが何らかのブレイクスルーを目指しているなら、予期せぬ闖入者の俺がここでユージオを助けようとするのは明白な妨害行為ということになるのだろう。
 だが、言わせてもらえば、そんなもの糞食らえだ。たとえ魂だけの存在であろうとも、ユージオは俺の友達なのだ。絶対にこのまま死なせたりしない。
 一体いかなる情報が俺の魂に与えられているのか、天命の移動が進むにつれ、全身を異常な寒気が包み込みはじめた。徐々に暗くなる視界で、懸命にユージオの様子を確かめる。腹の傷は、術の開始前と較べれば明らかに小さくなってきているように見えた。しかしまだ完全な治癒には程遠い。流れ出る血も止まっていない。
「き……キリト……まだ、だいじょうぶ……?」
 苦しそうな息の下で、シルカが切れ切れに言った。
「問題ない……もっと、もっとユージオにやってくれ!」
 即座にそう答えたものの、すでに俺の目はほとんど視力を失いつつあった。右手、右足の感覚も消失し、唯一シルカに握られた左手だけが熱く脈打っている。
 ここでこの世界における命を失おうとも、それはまったく構わない。ユージオの命が救われるなら、先刻に倍する痛みにだって耐えてみせる。しかしひとつだけ心残りなのは、世界の行く末を見届けられないことだ。恐らく、あのゴブリン集団を端緒とするのであろう闇の軍勢の侵攻に、真っ先に晒されるであろうルーリッドの村が気がかりで仕方ない。俺はログアウトとともにここでの記憶を失ってしまうだろうから、舞い戻ることも不可能だろう。
 いや――きっと、自分の眼でゴブリン達を見たユージオが何とかしてくれるはずだ。村長に警告して衛士を増強させ、更に世界の危機を知らせるために央都へ向かう。彼ならきっとそうする。
 そのためにも、今ここでユージオを死なせるわけにはいかない。
 ああ、だが、しかし――俺の命は、もうすぐ尽きてしまう。なぜか、それがはっきりと分かる。ユージオはまだ目を開けようとしない。彼の傷を癒し、死の際から呼び戻すためには、命をすべて費やしても足りないというのか。
「……もう……だめ……これ以上続けたら、キリトが……っ」
 シルカの悲鳴が、遥か遠くからかすかに聞こえた。
 止めるな、続けるんだ、そう言おうとしたがもう口も動かない。思考を続けることすら困難になりつつある。
 これが、死なのだろうか? アンダーワールドにおける魂の擬似的死……それとも、魂の死は、現実の肉体すらも殺すのだろうか。そんなふうに思えてくるほどに、たまらなく寒い……そして恐ろしいくらい孤独で……。
 ふと、両肩に、誰かの手を感じた。
 暖かい。氷が詰まった俺という殻を、じんわりと溶かしていく。
 アリス――!?
 俺はこの手を知っている。小鳥の羽のように華奢で、しかし誰よりも力強く未来を指していた手。
 アリスなのか……?
 声にならない声でそう尋ねると、左の耳にふっと優しい吐息の感触が訪れ、そして、泣きたくなるほど懐かしく思える声が聞こえた。
『キリト、そしてユージオ……待ってるわ、いつまでも……セントラル・カセドラルのてっぺんで、あなた達をずっと待ってる……』
 黄金色の光が恒星のように輝き、俺の内部を満たした。圧倒的なエネルギーの奔流は、すべての細胞に染み渡ったあと、行き場を求めて左手から溢れ出していった。

 五十回目の綺麗に澄んだ斧音が、春霞の空高く拡散していった。
 額の汗を拭いながら斧を下ろしたユージオに、俺は背後から声をかけた。
「傷の具合はどうだ? 痛んだりしないか?」
「ああ、丸一日休んだら、もうすっかり治ったみたいだよ。少し痕は残ったけどね。それどころか……気のせいかな、なんだか"竜骨の斧"がやけに軽く思えるんだ」
「気のせいってわけでもなさそうだぜ。今の五十回、真芯の当たりが四十二回もあった」
 それを聞いたユージオはひょいっと眉を持ち上げ、次いでにっと大きく笑った。
「本当かい? なら、今日の賭けは僕が頂きだな」
「そりゃどうかな」
 笑い返しながら、俺は受け取った竜骨の斧を右手一本で軽く振ってみた。確かに、記憶にあるよりは手首に感じる反動がずいぶんと少ない。
 果ての山脈地下の洞窟で、最早夢だったかとさえ思えるほどに恐ろしい体験をしてから、すでに二晩が過ぎ去っていた。
 シルカの神聖術によってからくも息を吹き返したユージオに右肩を貸し、左手に隊長ゴブリンの醜悪な首級をぶら下げて、どうにかルーリッドの村まで帰り着いたときにはとうに日没は過ぎ去っていた。村では大人たちが、捜索隊を出すかどうか広場で協議しており、そこに俺たち三人がひょっこり現われたものだから、短い安堵の溜息に続いて主に村長ガスフトとシスター・アザリヤによる叱責が轟雷のごとく降り注いだ。
 しかしそれも、俺が左手の生首を大人たちの足元に転がすまでのことだった。人間の頭より遥かに巨大で、黄緑色の眼と長い乱杭歯を剥き出した隊長ゴブリンの首に睨まれて、大人たちはしんと黙り込んだあと盛大な悲鳴を上げた。
 あとは主にユージオとシルカが、北の洞窟に野営していたゴブリンの大集団のことと、それが恐らく闇の軍勢による大侵攻の尖兵であることを説明した。村長たちはいかにも子供のたわ言と笑い飛ばしたそうだったが、誰一人本物を見たことのない怪物の生首が石畳に転がっていればそういう訳にもいかない。議題はすぐに村の防衛をどうするかに移り、俺たちは無事放免されて、疲れた足を引きずりながら家に戻った。
 教会の部屋でシルカに左肩の傷を手当てしてもらい、俺はベッドに倒れこんで泥のように眠った。翌日の仕事はユージオともども免除され、これ幸いと惰眠を貪り、さらに一晩明けて今朝には肩の痛みも全身の疲労感もすっきり抜けていた。
 朝食後、こちらも元気な顔で現われたユージオと連れ立って森へと歩き、最初の一セットを彼が打ち終えたところ――である。
 俺は、右手に握った斧を眺めながら、少し離れた場所に腰を下ろしたユージオに向かって言った。
「なあ、ユージオ。覚えてるか……あの洞窟で、お前がゴブリンに斬られたときのこと……。お前、妙なこと言ったよな。俺が、ユージオとアリスと、ずっと昔から友達だった、みたいな……」
 答えはすぐには返ってこなかった。しばらく沈黙が続いたあと、ざあっと心地よい風が梢を鳴らして通り過ぎ、その尻尾に乗るようにして心許なそうに揺れる声が俺の耳に届いた。
「……覚えてるよ。そんな訳はないんだけどね……なんだか、あの時は、すごくはっきりそう思えたんだ。僕と、キリトと、アリスはこの村で生まれて一緒に育って……アリスが連れていかれたあの日も、その場に一緒にいたような……」
「……そうか」
 頷き、しばし考え込む。
 極限状況における記憶の混乱、そう説明することは容易い。ユージオという人格を構成するのが俺のそれと同じ"不確定な光"フラクトライトなら、生死の瀬戸際において情報の誤った接続が発生しても不思議ではない。
 しかし、問題は――あの場で、俺にも同じような記憶の捏造が発生した、ということだ。目の前で死にゆくユージオを見たとき、確かに俺も、彼と一緒にルーリッドの村で育った、というような生々しい感覚を得たのだ。それに、眩い金髪を持つ少女、俺は会ったことすらないはずのアリスの思い出さえも。
 そんなことは有り得ない。この俺、桐ヶ谷和人には、埼玉県川越市で妹の直葉と一緒に今日まで(正確にはこの世界で目覚めるまで)暮らしたというクリアな記憶が存在する。それが捏造されたものだとはどうしても思えないし、思いたくない。
 やはり、あの現象は、俺とユージオを同時に同種の幻視が襲った、というそれだけのことなのだろうか?
 だとしても、唯一、説明のつけられないことがある。シルカの神聖術によって俺の天命をユージオに移動し彼を救おうと試みたあの時、俺は薄れゆく意識の中で、確かに背後に何者かの気配を感じたのだ。いや、何者か、ではない――あの瞬間、俺は彼女がアリスだと確信していた。そしてアリスは言ったのだ。キリト、そしてユージオ、セントラル・カセドラルの天辺で待っている、と。
 あの声までもを、俺の混濁した意識が生み出した幻だ、と切り捨てることはできない。なぜなら俺は"セントラル・カセドラル"などという単語をこれまで聞いたことはないからだ。現実世界には勿論、様々なVR世界においても、そんな場所あるいは建物の存在を噂にも聞いたことは無いと断言できる。
 ならばあの声は、六年前央都に連行されたはずの本物のアリスが、何らかの方法によって俺に送ってきたメッセージである、ということになる。しかし、彼女は俺を知っているようだった。そう――まるで、あの存在し得ない記憶、俺とアリスとユージオが、ルーリッドの村で生まれ育った幼馴染同士である、という思い出が真実である、とでもいうかのように……。
 俺は、昨日の朝目覚めてから頭の中で何度も堂々巡りさせているこの思考を中断し、口を開いた。
「ユージオ。洞窟で、シルカがお前に神聖術を使ったとき、誰かの声を聞いたか?」
 今度の答えは早かった。
「いいや、僕はもうまったく意識が無かったから。キリトは何か聞いたのかい?」
「いや……気のせいだ、忘れてくれ。――さて、仕事をしないとな。俺は四十五回超えを狙うぜ」
 頭の中から渦巻く想念を追い払い、俺はギガスシダーに向き直った。両手でしっかりと斧を握り、全身の神経の隅々にまで意識を行き渡らせる。
 振りかぶった斧は、イメージした軌跡を寸分たがわずトレースし、幹に刻まれた半月形の中心に吸い込まれるように命中した。

 午前のノルマの、二人合わせて千回の斧打ちは、普段より三十分近くも早く終わった。二人ともに疲労が少なく、休憩をほとんど必要としなかったせいだ。会心の一撃も先週と較べると激増し、気のせいか巨樹の刻み目も、見てそれとわかるほどに深さを増したようだった。
 ユージオは、満足そうに大きく伸びをすると、ちょっと早いけどお昼にしようと言いながらいつもの木の根に腰を下ろした。俺が隣に座ると、傍らの布包みからいつもの丸パンを取り出し、俺に二つ放ってくる。
 両手でひとつずつ受け止め、俺は相も変らぬその石のような固さに苦笑いしながら言った。
「斧が軽くなったみたいに、このパンも柔らかくなってるといいんだけどな」
「あははは」
 愉快そうに笑い、ユージオは大きく一口齧りとって首を振った。
「モグ……変わってないね、残念ながら。それにしても……なんで急に斧を軽く感じるようになったのかなあ……?」
「さてなあ」
 そう言いながらも、しかし俺はこの現象を、昨夜自分の"窓"を開いてみたときからある程度予想していた。問題のオブジェクトコントロール権限と、それにシステムコントロール権限、おまけに天命値までが数日前と較べて大きく上昇していたからだ。
 理由も見当がつく。あの洞窟で、ゴブリンの大集団を撃退したことによって通常のVRMMOおけるレベルアップ的現象が発生したのだろう。二度やれと言われても絶対に御免だが、困難な戦闘に挑んだ見返りはそれなりにあったというわけだ。
 今朝方、シルカにもそれとなく尋ねたみたが、やはり先週までは失敗率の高かった神聖術が妙に上手くいくような気がする、ということだった。実際には戦闘を行っていないシルカにも"レベルアップ効果"が及んでいるのは、多分俺たち三人がパーティー扱いされ、全員に経験値が入った、と考えれば納得がいく。
 恐らく、ユージオのオブジェクト権限も俺と同程度、48前後にまで上昇しているはずだ。となればもう一度アレを試してみない手はない。
 俺は、大急ぎで二つのパンを水と一緒に胃に流し込み、立ち上がった。まだゆっくり顎を動かしているユージオの視線を感じながら、ギガスシダーの幹に空いたウロのひとつに歩み寄り、先日以来そこに置きっぱなしだった青薔薇の剣の包みに手を伸ばす。
 半ば確信し、半ば祈りながら、革包みを両手で握り、腰を入れて持ち上げた。
「おっと……」
 途端、後ろにひっくり返りそうになり、慌てて足を踏ん張る。記憶にある、ウェイトをたっぷりつけたバーベルのようなとんでもない重さが、せいぜい肉厚の鉄パイプ程度にまで激しく減少していたからだ。
 手首にずしりと応えることに変わりはない。しかしその重みは、どちらかと言えば心地よい、まさに旧アインクラッド末期の我が愛剣を思い起こさせる手応えだ。
 俺は、左手一本で持った革包みの紐をほどき、露わになった美しい細工の柄を右手で握った。パンを咥えたまま目を丸くするユージオに短くにやっと笑いかけてから、しゃりーんと背筋の震えるような鞘走りとともに剣を抜き放つ。
 青薔薇の剣は、先日の暴れ馬っぷりとは打って変わって、深窓の美姫の佇まいで俺の手にしっくりと収まった。改めて、見れば見るほど見事な剣だ。そこらのVRゲーム中のポリゴン製武器には有り得ない、吸い付くような柄の質感、わずかに透明感のある刀身の艶、薔薇の蔦を象った鍔の細工の見事さ、昔話のベルクーリとやらが竜から盗もうとしたのもむべなるかなと思える。
「お……おいキリト、持てるのか、その剣が?」
 唖然としながらそう言うユージオに、俺はひゅひゅんと剣を左右に切り払って見せた。
「パンは柔らかくならなかったけど、この剣は軽くなったみたいだぜ。まあ、見てろって」
 改めてギガスシダーの斧目の前に立ち、すっと腰を落とす。左手を前に出し、見えない弓につがえた矢のように、剣を握った右手をいっぱいに引き絞る。
「シィッ!」
 かの世界で何千回と繰り返した一番の得意技、シングル・スラスト剣技"ヴォーパル・ストライク"を、俺は鋭い気合とともに全体重を乗せて放った。
 水平に疾る稲妻のように宙を切り裂いた青薔薇の剣は、狙ったピンポイントを寸分違わず貫き、轟雷にも似た炸裂音を周囲に響かせた。周りの木々でさえずっていた鳥たちが瞬間押し黙り、次いで一斉に飛び立った。
 久々に、剣人一体、とでも言うべき境地を味わえたことで恍惚となりながら、俺は伸びきった右手の先を目で追った。青薔薇の剣の切っ先は、小指の長さほどにまで深く、ギガスシダーの黒光りする木肌に埋まっていた。

 悪魔の杉、森の暴君、黒鋼の巨樹ギガスシダーがついに――あるいは呆気なく倒れたのは、俺とユージオが竜骨の斧に換えて青薔薇の剣を振るいはじめてからわずか五日後のことだった。
 実際には、膨大な樹の天命を律儀にゼロにする、つまり太い幹の全直径を刻みぬく必要は無かったのだ。くさび型の切り込みが、直径の八割に迫ろうとしていたとき、ユージオが繰り出した水平斬りの一撃を受けた巨樹がそれまでにない不気味な軋み声を発した。
 俺たちは唖然として顔を見合わせ、次いで遥か頭上に伸びるギガスシダーの幹を振り仰いで、驚愕のあまり凍りついた。樹が、徐々に俺たちに向かって倒れ込んでくるのが見えたからだ。
 もっとも、その時はむしろ樹ではなく、俺たちの立っている地面が前方に傾斜していると錯覚したものだ。それほどまでに、直径四メートルを超える巨樹が重力に屈して頭を垂れる光景は非現実的なものだった。
 まだ一メートル近く残っていた幹の厚み部分が、のし掛かる重さに耐え切れず、石炭のような欠片を撒き散らしながら圧潰していった。巨樹の断末魔は雷が十発次々に落ちた以上の凄まじさで、破壊音は村の中央広場を突き抜けて北の端の衛士詰め所まで鮮明に届いたらしい。
 俺とユージオは同時に悲鳴を上げ、それぞれ右と左に逃げ出した。オレンジ色に染まり始めた空を黒々と切り裂きなからギガスシダーはゆっくり、ゆっくりと倒れていき、とうとうその巨体を大地に横たえた。途方もない衝撃で俺は空高く放り上げられ、尻から岩の上に落下して天命が百ほど減少した。

「驚いたな……この村、こんなに人がいたんだなあ」
 俺は、ユージオが差し出す、泡立つりんご酒のジョッキを受け取りながらそう呟いた。
 ルーリッド村中央広場には、赤々としたかがり火が幾つも焚かれ、集った村人の顔を明るく照らし出していた。噴水の傍らでは、バグパイプに似た楽器やえらく長い横笛、獣の皮を張ったドラムを携えた楽団が陽気なワルツを奏で、それに合わせて踊る人々の靴音や手拍子が夜空へ舞い上がっていく。
 喧騒から少し離れた片隅のテーブルに陣取り、足でリズムを取っていると、なんだか自分も村人の輪に飛び込んで踊りまくりたくなってきて思わず苦笑いを浮かべる。
「僕も、村の人がこんなに集まるのを見たのは初めてかもしれないな。年末の大聖節のお祈りよりも多いよ、絶対」
 そう言って顔をほころばせるユージオに向かって、俺は右手のジョッキを突き出して何度目かの乾杯を交わした。アップルサイダーに似た味の酒は、この村では一番弱いものらしいがそれでも一息に呷ると顔がかーっと熱くなる。
 ギガスシダーが切り倒されたことを知った村長以下の顔役たちは、六日前の安息日に引き続いて村会議の開催を余儀なくされた。そこでは、"巨樹の刻み手"ユージオ(とついでに俺)の処遇をどうするか喧喧諤諤の議論が交わされ、恐ろしいことに、予定より少々――具体的には九百年ほど――早くお役目を果たしてしまったことを罪として処罰する案も出されたそうだが、最終的には村長ガスフトの鶴の一声により、何はともあれ村を挙げての祭りを催しユージオについては掟どおりに遇する、という結論に達したそうだ。
 掟どおり、というのが実際には何を指すのかが俺には見当もつかず、ユージオに尋ねてみたのだが、彼はどうせすぐにわかるよ、と笑うだけだった。
 まあ、その顔を見れば、少なくとも困った目に合うわけではなさそうだという事だけは察せられる。俺はジョッキを干すと、傍らの皿から肉汁したたる巨大な串焼きを掴みあげ、がぶりと噛み付いた。
 考えてみると、この世界に来てから食べたものと言えば、もう相当にうんざりしつつあった例の固丸パンと教会で出る野菜中心の質素な料理だけで、肉と名のつくものを口にするのは初めてだ。濃厚なソースのかかった柔らかい牛肉(たぶん)は、ここが仮想世界だと信じられなくなるほど芳醇な香りと旨味に満ちていて、この一口のためだけでもギガスシダー相手に苦闘した甲斐はあったと思える。
 もっとも、勿論これで全てめでたしめでたしという訳には行かない。むしろ、ここでようやく全ての端緒に辿り付いたのだと考えなくてはいけないのだ。視線を動かし、ユージオの腰に誇らしげに吊られたままの青薔薇の剣をちらりと眺める。
 彼にはこの五日間、ギガスシダーを標的として俺が身につけた片手直剣技のほぼ全てをみっちりと練習させた。その剣技の出自は、ソードアートオンラインという一ゲーム内の動作にすぎないのだが、イメージ力が重要なこの夢世界では有効に機能することをゴブリン隊長相手に実証ずみである。更にユージオは俺が舌を巻くほどの素質と吸収力を持っており、剣の性能と併せて今では堂々たる強力な剣士であると太鼓判を押してもいい。
 あとは、その事実をどうにかして彼の自信へと変え、村を出て央都を目指す計画に同意させなくてはならない。
 金串に刺さった肉と野菜を全て平らげると、俺は意を決して声をかけた。
「なあ、ユージオ……」
「ん?」
 同じく串焼きを頬張っていたユージオが、もぐもぐ口を動かしながら顔をこちらに向ける。
「お前、この後……」
 だが、続きを口にする前に、高い声が俺たちの間に降ってきた。
「あっ、こんな所にいた! 何やってんのよ、お祭りの主役が」
 両手を腰に当て、胸を反らせて立っている女の子がシルカだと気付くのにすこし時間がかかった。髪をほどいてカチューシャを飾り、いつもの修道服ではなく赤いベストと草色のスカートを身につけていたからだ。
「あ、いや、僕ダンスは苦手で……」
 もごもごと言い訳するユージオに倣って、俺も首と右手を振る。
「ほら、俺も、記憶喪失だし……」
「そんなもの、やればなんとかなるわよ!」
 俺とユージオは同時に手を掴まれ、ずるずると椅子から引き起こされてしまった。シルカは俺たちを有無を言わせず広場の真ん中まで引っ張っていき、どーんと威勢良く突き飛ばした。途端、周囲からわっという歓声が上がり、たちまち踊りの輪に飲み込まれてしまう。
 幸い、ダンスは学校の体育祭でやるような簡単なもので、パートナーが三回替わる頃にはどうにか見よう見真似で踊れるようになった。するとだんだん、素朴なリズムに乗って体を動かすのがなんだか楽しく思えてきて、ステップを踏む足も軽くなってしまう。
 健康的な赤い頬で陽気に笑う、東洋人とも西洋人ともつかない顔立ちの娘さんたちと手を取りあって踊りまくっていると、なんだか自分が本当に記憶を無くした風来坊だというような気がしてきて、このままこの村で職を見つけ家を構えずーっと暮らしていくのも悪くないのかなあ――。
 などとボーっと考えていた時、不意に音楽が高まりつつペースを上げていき、そして突然終わった。なんだもう終わりか、と楽団のほうを見ると、並んだ楽器の隣に設えられた壇に、見事な髭を生やした威丈夫が登ったところだった。ルーリッド村長にしてシルカの父、ガスフトだ。
 村長は両手をぱんぱん叩き、よく通るバリトンで叫んだ。
「みんな、宴もたけなわだが、ちょっと聞いてくれ!」
 村人たちは、ダンスで火照った体を冷やすためのエールやらりんご酒のジョッキを掲げて村長に歓声を送ったあと、さっと静かになる。
「ルーリッドの村を拓いた父祖たちの大願はついに果たされた! 肥沃な南の土地からテラリアとソルスの恵みを奪っていた悪魔の樹が倒されたのだ! 我々は、新たなる麦畑、豆畑、牛や羊の放牧地を手に入れるだろう!」
 ガスフトの大音声を、更なる歓声が掻き消す。村長は両手を上げてふたたび静けさが戻るのを待つと、更に続けた。
「それを成し遂げた若者――オリックの息子ユージオよ、ここに!」
 村長が村人の輪の一角を指すと、その先に、緊張した顔で進み出るユージオの姿があった。照れくさそうに頭を掻きながら、村長の隣の壇上に登る。彼がこちらに向き直ると、三度目の、そして最大の歓声が浴びせられた。俺も、負けじと両手を打ち鳴らし、ぴいぴいと口笛を鳴らす。
「掟に従い――」
 村長の声が響き渡り、村人はまた口を閉じて耳を澄ませた。
「天職を成し遂げたユージオには、自ら次の天職を選ぶ権利が与えられる! このまま森で樵を続けるもよし、父親の後を継いで畑を耕すもよし、牛飼いになろうと、酒を醸そうと、商売をしようと、なんなりと己の道を選ぶがいい!」
 なんだって!?
 俺は、ダンスの余韻が急激に冷めるのを感じた。しまった、娘さんたちの手を握って浮かれている場合ではなかったのだ。やはり早いところユージオを説得し念を押しておく必要があった。ここで、僕は麦を育てますなどと宣言されてしまったら万事窮する。
 息を飲みながらユージオの様子を注視していると、彼は困ったようにうつむき、ぐしぐしと頭を掻き、左手を何度も閉じたり開いたりした。いっそ俺も壇上に乱入し、彼の肩を叩いて、俺たち央都に行きまーすと宣言してやろうか――と考えたとき、すぐ隣で小さな声がした。
「ユージオ……村を出るつもりなのね……」
 いつの間にか俺の横に立っていたシルカは、そう呟くと、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「そ、そうなのか?」
「そうよ、間違いないわ。それ以外に、何を迷う理由があるのよ」
 まるでその声が聞こえたかのように、ためらいがちに動いていたユージオの左手が、腰の青薔薇の剣の柄をぐっと握った。顔を上げ、まず村長を、次いで村人たちの輪を見回したあと、大きなはっきりした声で言った。
「僕は――剣士になります。ザッカリアの街で衛兵隊に入り、腕を磨いて、いつか央都に上ります」
 しんとした静寂のあと、村人の間に、さざ波に似たどよめきが広がった。しかしそれは、あまり好意的なものではないように思えた。大人たちは皆、眉をしかめて周りの者に首を寄せ、ぼそぼそと何か言い合っている。
 その声を静めたのは、今度もガスフト村長だった。片手を上げて村人を黙らせると、彼も厳しい顔を作り、口を開いた。
「ユージオ、君はまさか――」
 そこで一度言葉を切り、あご髭を撫でてからまた続ける。
「……いや、理由は問うまい。天職を選ぶのは教会の定めた君の権利なのだからな。よかろう、ザッカリアの長として、オリックの息子ユージオの新たなる天職を剣士と認める。望みのままに流離い、その腕を磨くがよかろう」
 ほうーっ、と、俺の口から長い吐息が漏れた。これでようやく、この世界の核心を自分の目で確かめることができる。もしユージオが農民になってしまったその時は単身央都を目指すつもりでいたが、知識も路銀も無い身で行き当たりばったり進むのでは何ヶ月、何年かかるか知れたものではない。ここ数日の苦労が報われた思いで、すうっと肩が軽くなる。
 村人たちも、村長の決定ならばと納得したようで、思い出したように手を叩き始めた。が、その音が大きくなる前に、鋭い叫びが夜空にこだました。
「待ってもらおう!」
 人垣を割って壇の前に飛び出したのは、ひとりの大柄な若者だった。
 朽葉色の短い髪といかつい造作、そして何よりその左腰に吊られたシンプルな形の長剣に見覚えがあった。いつも北門の詰所にいる衛士だ。
 若者は、壇上のユージオと村長に張り合うように胸を張り、太い声で叫んだ。
「ザッカリアの衛兵隊を目指すのはまず第一にこの俺の権利だったはずだ! ユージオが村を出ることを許されるのは、俺の次じゃないとおかしいだろう!」
「そうだ、その通りだ!」
 追随する叫び声を発しながら続いて進み出てきたのは、若者とよく似た髪色、顔立ちをした、しかしこちらは相当に腹の出た中年の男だった。
「……あれは?」
 シルカに顔を寄せて尋ねると、渋面とともに答が返ってくる。
「前の衛士長のドイクさんと、その息子で今の衛士長のジンクよ。村で一番の使い手、が口癖の一家なの」
「なるほどね……」
 さてどうしたものか、と思いながら見守るうち、ジンクとその親父の言い分を一通り聞いたガスフト村長が、なだめるように手を挙げながら言った。
「しかしジンクよ、お前はまだ衛士の天職に就いて六年だろう。掟では、あと四年経たねばザッカリアの剣術大会に出ることはできんぞ」
「ならばユージオもあと四年待つべきだ! 剣の腕が俺より下のユージオが、俺を差し置いて大会に出るのはおかしい!」
「ふむ。しかしそれをどうやって証明するのだ? お前のほうがユージオより腕が立つことを?」
「なっ……」
 ジンクと親父の顔が、見る間にまったく同じ赤に染まった。今度は親父のほうが、湯気を立てながらガスフトに詰め寄る。
「ルーリッドの長と言えどその暴言は聞き捨てなりませんな! 息子の剣が、木こりごときに遅れを取ると申すのなら、この場で試合わせてみればよいでしょう!」
 それを聞いた村人の間から、そうだそうだ、の声とともに無責任な野次が盛んに飛んだ。思いがけぬ祭りの余興を楽しめそうだと見るや、ジョッキを掲げ、足を踏み鳴らして、試合だ試合だと喚き散らす。
 俺が呆気に取られて見守るうち、あれよあれよという間にジンクがユージオに立会いを申し込み、ユージオもそれを受けざるを得ず、壇の前に作られたスペースで両者が向き合うという流れになってしまった。マジかよ、と思いながらシルカに耳打ちする。
「俺ちょっと行ってくら……」
「ど、どうする気なの」
 それには答えず、人波を掻き分けてどうにか噴水前まで出ると、ユージオに走り寄る。悍馬のように入れ込んでいる相手とは対照的に、いまだに何が何やらと言いたそうなユージオは、俺を見ると短く苦笑した。
「ど、どうしようキリト、なんかとんでもないことになっちゃった」
「ここまで来てごめんなさいじゃ済まないだろうなあ。それはともかく、試合って本気の斬り合いなのか?」
「まさか、剣は使うけど寸止めだよ」
「ふうん……。でも、その剣はもし止まらないで当たっちゃうと、それだけで相手を殺しかねないからな。いいか、ジンク本人じゃなくてあいつの剣を狙え。出会い頭に"バーチカルアーク"を一発当てればそれで終わる」
「ほ、ほんとに?」
「絶対だ、保証する」
 ユージオの背中をばんと叩くと、少し離れた場所で俺を胡散臭そうに見ているジンクとその親父にぺこりと頭を下げ、観客の列まで退いた。
 壇の上でガスフト村長が両手をたたき、静粛に! と叫んだ。
「それでは――予定には無かったが、この場で衛士長ジンクと剣士ユージオの立会いを執り行う!」
 ジンクがじゃりんと音を立てて腰の剣を抜き、少し遅れてユージオがゆっくり抜剣する。村人の間からほおうという嘆声が漏れたのは、かがり火の下で美しく映える青薔薇の剣の輝きのせいだろうか。
 ジンクも一瞬、相手の剣がまとうオーラに気圧されたようだったが、すぐに両手にぺっと唾を吐き、自分の武器を大上段に構えた。
 対してユージオは、右手一本で握った剣をぴたりと正眼に据え、左手左足を引いてすっと腰を落とす。
 数百の村人が息を飲んで見守るなか、ガスフトが右手を高く掲げ、
「始め!」
 の声とともに振り下ろした。
 予想通り、即座に突っ掛けたのはジンクのほうだった。本当に止まるのかよと思いたくなる勢いで真っ向正面の一撃を繰り出す。
 ユージオも、わずかに遅れて動いた。流れるような足捌き、体重移動、右手の振り、そして何よりその間合いと呼吸を見て――
 俺の背中に圧倒的な戦慄が走った。
 何もかもが完璧だった。五日前、初めて剣を握った人間の動きではなかった。一条の青い光線と化したユージオの剣が、ジンクの剣と接した瞬間、それをまるで飴細工ででもあるかのように粉砕するのを眺めながら、俺は内心で自問していた。
 彼がこの先研鑚を積み、数多の技を会得し、実戦の修羅場をも経たとき、いったいどれほどの剣士となるのだろうか? もしその彼と本気で剣を交える場面に至ったとしたら、果たして俺は彼の前に立てるのか――?
 あまりにあっけない、しかし見事な決着に大いに湧く村人たちに混じって、両手を盛んに叩きながら、俺は背中を伝う冷たい汗を意識した。

 ジンク親子が茫然自失の体で引き上げていったあと、すぐさま音楽が再開されて祭りは前以上に盛り上がり、ようやくお開きとなったのは教会の鐘が夜十時を告げる頃だった。
 りんご酒をさらに三杯飲んでやっと理由のない不安を忘れた俺は、心地よい酩酊に任せてまた散々踊りまくってしまい、仕舞いにはシルカに引きずられるようにして教会に戻る破目になった。門のところで、俺の有様を散々笑ってくれたユージオと明朝の旅立ちを約束して別れ、どうにか自室に辿り付いて、ふらふらとベッドに倒れ込む。
「まったく、ちょっと飲みすぎよ、キリト。ほらお水」
 シルカの差し出す冷たい井戸水を一息に呷り、ふう、と息をつくと、改めて傍らに立つしかめっ面の少女を見上げた。
「……な、何よ」
「いや……悪かったな、って思って……。もっと、ユージオと話したいこととかあったんじゃないのか……?」
 途端、軽い酒で上気したシルカの頬が更にさくらんぼ色に染まる。
「何言い出すのよ、急に」
「……謝らなきゃいけないのは、それだけじゃないな。ごめんな、俺がユージオを遠くに連れてくみたいなことになっちゃって……。もしあいつがずっとこの村で木こりを続けてたら、そう遠くないうちにシルカと結婚するようなことにもなってたかもしれないのにな……」
 ふううー、ととても長い溜息をついて、シルカはベッドにすとんと腰を下ろした。
「あんたって、ほんと、何て言うか……」
 呆れかえったと言わんばかりに数回頭を振ってから、続ける。
「……まあ、いいわ。――そりゃ、ユージオがいなくなっちゃうのは寂しいけど……でも、あたし、嬉しいのよ。アリス姉さんがいなくなってからずっと、何もかも諦めたみたいにして生きてたユージオが、あんないい顔で笑うようになったんだもの。自分から、村を出て姉さんを探しにいくって決めてくれたんだもの。ああ見えて、父様も心の中じゃすごく喜んでたわ。ユージオが、姉さんを忘れてなかったことをね」
「……そっか……」
 シルカは頷き、ついで視線を窓の向こうの見事な満月に向けた。
「あたしね……別に、姉さんの真似して闇の国の土を踏むためにあの洞窟に行ったわけじゃないの。そんなこと、あたしにできっこないのは判ってた。判ってたけど、それを……できないのを、確かめたかったの。あたしは、アリス姉さんの代わりにはなれないってことを、確かめたかった」
 俺はしばらくシルカの言葉の意味を考えたあと、首を横に振りながら言った。
「いや、君はすごいよ。普通の女の子なら、村を出る橋のところで、森の道の途中で、洞窟の入り口で引き返したはずだ。なのに、あんな暗い洞窟のずっと奥まで入っていって、ゴブリンの偵察隊を見つけちゃったんだからな。君は、君にしかできないことをしたんだ」
「あたしにしか……できないこと……?」
 目を丸くし、首をかしげるシルカに、大きく頷きかける。
「君はアリスの身代わりなんかじゃない。シルカには、シルカだけの才能があるはずだ。ゆっくりそれを見つければいいんだ」
 実際に、これからのシルカは以前よりはるかに神聖術の才能を増していくだろうという根拠がある。彼女も、俺やユージオと一緒にゴブリンを撃退し、そのせいでシステム上の権限レベルが上昇しているはずだからだ。
 しかし、それは本質的な問題ではない。彼女は、自分とは何者なのかという問いに挑み、答えを手に入れた。そのこと自体が強力なエネルギーを彼女に与えていくだろう。自分を信じること、それこそが、人の魂の生み出す最大の力の源なのだから。
 そろそろ、俺も、今まで先延ばしにしてきた恐るべき疑問の答えを見つけるべき時だった。
 果たして、この意識――キリトあるいは桐ヶ谷和人という名の自我は、一体何者なのか? 生物的な脳に宿るフラクトライトによって構成される、つまり"本物の俺"なのか。それとも、STLによって作成された複製――コピーされた魂なのか。
 それを確かめる方法が、たった一つだけある。ユージオやシルカたち、人工フラクトライトには絶対に不可能なある行動が、俺に可能かどうか知るのだ。
 俺は体を起こすと、隣に座るシルカの顔を見つめた。
「……?」
 不思議そうに首を傾げるその頬に手を伸ばし、引き寄せ、白く広い額にそっと唇を付ける。
 シルカはぴくっと体を震わせ、三秒ほどそのままじっとしていたが、急に凄い勢いで立ち上がると両手で口もとを覆い、見開いた目で俺を凝視した。
「……あなた……今、何したか……知ってるの……?」
 顔中真っ赤に染めて、ごくごくかすかな声でささやくシルカに向かってこくりと頷く。
「知ってる。"教会によって婚姻を認められた男女以外の者は、箇所を問わず互いに口づけしてはならない"……禁忌目録違反」
「ほんとに……信じられない……信じられない人ね」
「今のは、誓いの印さ。俺は絶対に、ユージオとアリスをこの村に連れて帰る。信じていいぜ……俺は……」
 少し間を置いて、俺はゆっくりとその先を口にした。
「俺は、剣士キリトだからな」


 翌朝は、見事な快晴だった。
 シルカが作ってくれた弁当のバスケットの重みを右手に感じながら、俺とユージオは長い間帰らぬであろう道を南に歩いていた。
 ギガスシダーの森へと入る細道の分岐点まで来たとき、俺はそこに一人の老人が立っているのを見つけた。皺深い顔は見事な白髭に覆われているが、背がぴんと伸びた体は逞しく、眼光は炯炯としている。
 老人を見た途端、ユージオは嬉しそうに顔をほころばせ、走り寄った。
「ガリッタ爺さん! 来てくれたの、嬉しいよ。昨日会えなかったからね」
 その名前は聞覚えがあった。確か、前任の"ギガスシダーの刻み手"だ。
 ガリッタという名の老人は、髭の下で顔をわずかにほころばせると、ユージオの肩に手を置いた。
「ユージオよ、儂が指の長さほどにしか刻めなかったギガスシダーを、よもや倒すとはなあ……。教えてくれんか、一体どうやって……?」
「この剣と……」
 ユージオは、左腰の青薔薇の剣をわずかに抜いてからチーンと音をさせて鞘に収め、次いで振り返って俺を見た。
「何より、彼のおかげだよ。名前はキリト……ほんとに、とんでもない奴なんだ」
 どういう紹介だよと思いながら慌てて頭を下げる。ガリッタ老人は鋭い眼光で俺を射抜かんばかりに見据えると、すぐに破顔した。
「そなたが噂の"ベクタの迷子"か。なるほど変動の相じゃな」
 そんなことを言われたのは初めてで如何なる意味かと首を捻っていると、老人は続けて言いながら左手で森を指した。
「さて、せっかくの旅立ちを邪魔して悪いが、少々付き合ってもらえるかな。何、そう手間は取らせん」
「え、ええ。いいよね、キリト」
 特に拒否する理由も無いので頷く。老人はもう一度笑い、それでは付いてきなされ、と森へと続く道に足を踏み入れた。
 この道を毎日通ったのは一週間程度のことだが、それでも懐かしさに似た感慨を覚えながら二十分ほど歩いて、広い空き地へと到着する。
 数百年の長きに渡って天を衝かんばかりに聳え立っていた森の支配者は、今やその巨体を静かに横たえていた。漆黒の樹皮には、すでに細い蔦が這い登りつつあり、いずれ遠い未来には朽ち果てて大地に還って行くのかと思わせる。
「……ギガスシダーがどうかしたの、ガリッタ爺?」
 ユージオの声に、老人は無言で倒れた幹の先端方向を指差し、そちらにすたすた歩いく。慌てて後を追うが、途中からはギガスシダーの枝やそれが薙ぎ倒したほかの木々が絡み合って迷路のごとき有様だ。よくよく見ると、ギガスシダーの黒い枝はどんなに細いものでも一本たりとも折れておらず、改めてその強靭さに舌を巻く。
 引っかき傷を作りながら苦労して枝を掻い潜り、涼しい顔ですでに立ち止まっていたガリッタ老人の隣に辿り着いた。掌で汗を拭いながら、ユージオがぼやくように言った。
「一体なんなのさ?」
「これじゃ」
 老人が指差したのは、倒れたギガスシダーの幹のまさに最頂点、真っ直ぐに伸びた梢だった。かなりの長さに渡って小さな枝ひとつ生えておらず、その先端はレイピアのように鋭く尖っている。
「この枝が、どうかしたんです?」
 俺が尋ねると、老人はそっと手を伸ばし、太さ五センチほどのその梢部分を撫でた。
「ここは、ギガスシダーの全ての枝のなかで最も古く、最も結晶化し、最もソルスの恵みを吸い込んだ部分じゃ。さあ、その剣で、ここから断ち切るのじゃ。一刀で落とすのだぞ、何度も打つと裂けてしまうかもしれんでな」
 老人は先端から一メートルと二十センチほど下の部分に手刀をぽんと当ててから、数歩退いた。
 ユージオと俺は顔を見合わせ、とりあえず言うとおりにしようと頷いた。ユージオの弁当を預かり、俺も後ろに下がる。
 青薔薇の剣が鞘から抜かれ、陽光を受けて薄青く輝くと、隣で老人がわずかな嘆息を漏らした。そこには、もしあの剣を若い頃に手にしていたら全てが変わっていた――という慨嘆の響きがあったように思えたが、ちらりと見た老人の横顔は穏やかで、心中を見透すことはできなかった。
 ユージオは、剣を構えたもののしかし中々動かなかった。切っ先が、内心の迷いを映してかわずかに揺れている。手首ほども太さのある枝を一撃で断ち切れるかどうか、自信が持てないのだろうか。
「俺がやるよ」
 前に出て手を伸ばすと、ユージオは素直に頷き、剣の柄を差し出してきた。弁当と交換に受け取り、彼と場所を入れ替えて立つ。
 何も考えず、何も見ずに、俺はただ剣を振り上げ、まっすぐに斬り下ろした。きしっ、という澄んだ音とわずかな手ごたえを残して刃は狙った箇所を通り抜け、少し遅れて落下した黒く長い枝を返す刀で受け止めて、跳ね上げる。
 宙をくるくる回りながら落下してきたそれを、俺は左手で受け止めた。ずしりと響く重さと、氷のような冷たさに少々よろける。
 青薔薇の剣をユージオに返し、黒い枝を両手で掲げてガリッタ老人に差し出した。
「そのまま持っていておくれ」
 言うと、老人は懐から分厚い布を取り出し、俺の手の中の枝を慎重に幾重にも包んだ。さらにその上から、革紐でぐるぐると縛り上げる。
「これで良い。もし央都に辿り着くことができたら、この枝をシルドレイという名の細工師に預けるがいい。強力な剣に仕立ててくれるはずじゃ。その、美しき青銀の剣に優るとも劣らぬ、な」
「ほ、ほんとうかい、ガリッタ爺! それは有り難いな、僕らは二人なのに剣が一本じゃあこの先困りそうだなと思ってたんだ。ねえ、キリト」
 嬉しそうに声を上げるユージオに、俺もそうだなと笑いながら頷き返した。しかし、素直に諸手を上げて喜ぶには、枝の重みと発せられる冷気は少々腕に応え過ぎる気もした。
 二人揃ってぺこりと頭を下げると、老人は莞爾と微笑んだ。
「なに、儂からのささやかな(はなむけ)じゃよ。道中、気をつけて行くのじゃぞ。今やこの世界は、善神のみがしろしめす地ではないからな。……儂はもう少しここで、この樹を見てゆくとしよう。さらばだユージオ、そして旅の若者よ」

 再び小道を辿って街道に出ると、つい先刻までは晴天だった空に、西の端から小さな黒雲が伸び上がっているのが見えた。
「ちょっと風が湿ってきたね。今のうちに進んでおいたほうがよさそうだ」
「……そうだな。急ごう」
 ユージオの言葉に相槌を打ち、俺はギガスシダーの天辺の枝が入った包みをベルトに結わえ付けた。遠く遠く轟く雷鳴が、枝の重みと響き合って、俺の心をわずかに震わせた。
 対となる二振りの剣。
 それは何かを暗示する、未来からのサインなのだろうか?
 俺は一瞬、この包みは森の奥深く埋めていくべきではないだろうか、という気がして立ち止まった。しかし、何を、何故畏れる必要があるのか、その答えはまったくわからなかった。
「ほら、行くよ、キリト!」
 顔を上げると、未知なる世界への期待に輝くユージオの笑顔が目に入った。
「ああ……行こう」
 俺は、わずか一週間前に友達になった、しかしどこか生来の友であるかのような気がする少年と肩を並べ、南へ――アンダーワールドの中心、全ての謎の解答が待つはずの場所へと続く道を、早足で歩き始めた。


(第三章 終)
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