ソードアート・オンライン3 『死銃』



第五章 「死を呼ぶ銃」(承前)


 それとも――、と、ことさらクールな声で続ける。
「……この映像を見られると困る相手でも、いるの?」
 するとキリトはちらりと真剣に怯えた顔を見せたあと、居直るように強張った笑みを浮かべた。
「あー……いや……その……そりゃ君のほうだろう。大体、これ見てる人は、両方女の子だと思う可能性が高いんじゃないか?」
「う……」
 確かに言われればそのとおりであり、いずれシノンは厄介な弁明を強いられることになりそうだった。だが――全ては、無事にこの状況を乗り切ってからだ。瞬間、生身の体が瀕している危機のことを思い出して背筋がひやりとするが、何故か、大丈夫、何とかなるという根拠のない確信のほうが大きかった。あるいはそれは、目の前の、美少女の外見にそぐわぬふてぶてしさを備えた光剣使いから伝染したものかもしれなかった。
 シノンはふん、と短く鼻を鳴らして言った。
「――カメラに気付いてジタバタ取り乱すほうがかっこ悪いわ。いいわよ別に、その……そういうシュミの持ち主っていう噂でも立てば、面倒なちょっかいも減るだろうし」
「じゃあ、俺はずっと女の子で通さないといけないの?」
「忘れたとは言わせないわよ。あんた最初に女のフリして私に案内を……あ、消えた」
 無音の映像からは睦言を囁いているとしか思えないであろう体勢で、皮肉の応酬を繰り広げようとしたその時、ライブカメラを現す光点は新たなターゲットを求めて旅立っていった。
 シノンはふう、とため息をつくと、今度こそ体を起こした。
「なんか……色々やりかけだけど、そろそろ移動しないと間に合わない」
「――そうだな」
 キリトは表情を引き締めると、軽くシノンの左腕を握り、言った。
「手順はわかってるな。くれぐれも、死銃に発見されないように気をつけろよ」
「ん。もうすっかり日も暮れたし、そうそう見つかるもんじゃないわよ」
 頷き、シノンは立ち上がった。思わぬ長時間に及んだ接触を失った体に、夜の砂漠の空気は少しだけ冷たく感じられた。

 ヘカートIIのスコープを暗視モードに変更し、シノンは右目で覗き込んだ。
 グリーンの濃淡で表示される砂漠には、今のところ動くものの影はない。
 洞窟の入り口にシノンと並んで横たわり、双眼鏡で索敵していたキリトが短く呟いた。
「赤外線でも見当たらないな。よし――俺はこのまままっすぐ北に50メートル移動し、モルターレを待つ。君は……見えるか? あそこ」
 黒のグローブを嵌めた右手で指差す先、西北西に300メートルほど離れた場所には、今居る場所と似たような岩山が黒く頭をもたげていた。
「あの根元に、ひとりなら隠れられそうな窪みが見えた。そこまで走って伏せるんだ」
「……わかった。めんどくさいの嫌だから、死銃の奴はあんたが片付けてよね」
 そっけない口調でそう言うと、キリトは片頬でニヤリと笑い、中腰で立ち上がった。
 それに倣いながら、シノンはふと、もうひとことだけ、何か言わなければ――という衝動を感じた。しかし、言うべき言葉を見つけるより早く、キリトはぐっと頷いて洞窟から一歩踏み出した。
 まあ、いいや――何を言うかは、現実世界で会ってから決めよう。
 そう思い、シノンも満天の星空のしたに進み出た。
 ヘカートをしっかりと背負いなおし、キリトと同時に、しかしおよそ80度異なる方向へとダッシュを開始したときには、もう雑念は全て吹き飛んでいた。
 細かい砂に数回足をとられそうになりながらも、シノンは目標地点までの距離を一分とかからず駆け抜けた。
 キリトの言葉どおり、岩山の下部には、先ほどまでいた洞窟とは比べ物にならないが、どうにか体全体を隠せそうな窪みが存在した。走りながら体を低くして、滑り込むように穴の中へと突っ込む。
 うつ伏せになると両足で奥の岩壁をしっかりと支え、ヘカートを肩から下ろした。バイポッドを展開してしっかりと砂に突き立て、セーフティを解除する。
 ぶつけるようにストックに肩を押し当て、スコープを覗いた。
 狙い違わず、視野の中央、ひときわ大きな砂丘の天辺に俯いて立つ人影があった。
 時折吹き抜ける風が、肩のラインでまっすぐに揃えられた黒髪を揺らしている。細い体を包む黒のファティーグは夜闇に溶け込むようで、なぜかその姿は、銃を帯びた兵士と言うよりも、幻想世界の荒野に佇む妖精の剣士のように思えた。
 シノンが思わず息を飲んで見守るなか、キリトはゆっくりと右手を動かし、腰からフォトンソードを外した。音も無くプラズマの粒子――あるいは魔法の燐光をまとった刀身が伸び、周囲を青紫色に照らし出した。あまりのまばゆさに、シノンは目を細めてスコープの光増幅率を下げた。
 ライフルから顔を離しても、数百メートル先の光剣の輝きは肉眼ではっきりと見えた。これなら、砂漠を彷徨っているであろうモルターレもすぐに気付くだろう。
 願わくば――キリトの推理が事実であり、死銃の殺人光線が偽りの力でありますように。
 それは同時に、現実の詩乃を狙っているもうひとりの死銃の存在を肯定することにもなる。しかしそれでもなお、シノンはそう祈った。あの禍々しい赤いビームに撃たれ、キリトが悶え苦しんで消滅するシーンなど絶対に見たくなかった。
 再びスコープを覗き、撃つ予定は無いもののトリガーに指を掛ける。
 それからの待ち時間は、今までスナイパーとして経験したどの狙撃よりも長く感じた。おそらく、たかが数分であったはずなのだが、過ぎ去る一瞬一瞬は永遠にも等しいほどに引き伸ばされていた。
 星明りに照らされた砂漠にただひとり、光の剣を携えて立つ中性的な少年の姿は、この殺伐とした戦場には有り得ないほどに美しく感じられた。この世界で最後に見る光景としては悪くない――、シノンはそう思いながら、瞬きもせずにその姿を見つめつづけた。
 しかしついに、その瞬間がやってきた。
 突如、キリトの周囲で立て続けに砂が弾けた。赤い光線ではなく、実弾の連射だった。しかしキリトは、弾道予測線から威嚇と察していたのか、身じろぎひとつしなかった。数秒後、砂丘の向こうから、あらたな人影が出現した。
 夜風になびく、裾がぼろぼろに解れた迷彩マント。右手に握ったベレッタSC70。左手に下げた無銘のハンドガン。間違いなくあの男――モルターレと名乗る死銃の片方の腕だった。
 死銃は、キリトから10メートルほど離れた場所に立ち止まった。
 その瞬間、シノンはヘカートの銃弾で男の頭を吹き飛ばしたい衝動に駆られ、右手の人差し指をぴくりと震わせた。死銃がシノンに気付いていない今なら、狙撃手の特権として、一度だけ予測線を与えない攻撃を試みることができる。
 しかし――多分、あの男は回避するだろう、という予感があった。それに、表面的には平静な意識を保っていても、いざ狙撃となればあの時の恐怖が甦り、照準を妨げるかもしれなかった。こわばった指を苦労してトリガーから剥がす。
 即座に激戦が繰り広げられると思いきや、予想に反して二人はなかなか動かなかった。キリトは右手の剣を下ろしたままの格好で、左手を動かしながら何事かを喋っている様子だった。おそらく、推測をもとに、モルターレの凶行を中止させるべく説得しているものと思われた。
 しかし、狂える殺戮者はまったく聞く耳を持っていないようだった。いきなり、左手に握った例のハンドガンでまっすぐキリトを照準し、短く叫び返した。
 キリトを撃つのでは――、と思った途端背筋を冷たいものが這ったが、シノンは歯を食いしばって耐えた。
 二人は、再び動きを止め、言葉の応酬を再開した。数百メートルの距離ゆえに、会話はまったく聞こえないが、それでもシノンには交わされている言葉の内容がおぼろげに察せられた。彼らは恐らく――今はもう存在しない、しかしなお二人の心を幾重にも縛っている彼の世界での出来事について語っているのだ。
 いくつかの言葉がやり取りされ、そしてついに、仁王立ちになったモルターレが体を大きく反らせて肺腑の底からすさまじい大音声をしぼり出した。あまりの声の大きさに、その言葉だけはいくつもの砂丘を越えてシノンの耳にまで届いた。
「……なら、お前の罪はこの僕が裁いてやるぞキリトォォォォォ!!!」
 直後、右手のベレッタを振り上げて、フルオートで銃弾の雨をばら撒いた。
 戦闘が始まった。
 キリトは、右手の光剣を目まぐるしく閃かせ、至近距離からの高速弾のほとんどを弾き返したが、それでも一、二発が体の末端を捉えるのが見えた。
 突撃銃の斉射が途切れるやいなや、黒衣の少年は10メートルの距離を一足飛びに詰め、モルターレに斬りかかった。
 右下から切り上げる第一撃。そのまま真横に凪ぐ第二撃。踏み込みながら素早く剣を引き、直突きの第三撃。振りかぶって大上段に切り下ろす第四撃。
 舞のように流麗でありながら、剣の描いた光の軌跡がすべて繋がって見えるほどの、凄まじいスピードの連続攻撃だった。しかし――
 驚くべきことに、死銃は体を開き、沈め、後方に飛び退って、すべての斬撃を回避してのけた。明らかに、剣相手の戦闘に慣れきった動きだった。
 全力を込めたと思しき上段斬りを回避され、キリトの動きが一瞬止まった。その隙を突いて後方宙返りで距離を取ったモルターレは、再び右手のアサルトライフルを吼えさせた。オレンジ色の発射炎が長く伸び、キリトの体を無数の射線が包み込む。
 今度は、キリトが飛び、伏せ、剣を振って、初めて会ったときに武器屋の店先で見せたのと同じ超絶回避技術を披露した。十数発の弾丸すべてが、青白い砂に空しく穴を穿った。
 ライフルが沈黙した瞬間、シノンは心の中で、今よ!! と絶叫した。
 ベレッタSC70のマガジン装弾数は30だ。一回目の連射と合わせると、間違いなくその全てを使い切っている。弾の無くなった銃など単なる鉄の塊であり、また近距離、一対一の戦闘中に弾倉を換える暇などありはしない。
 それはキリトも重々承知していたようだった。射撃が途切れた瞬間、激しく砂を蹴って一直線に襲い掛かった。ブルーパープルに輝く刃を、頭上高く振りかぶり――
 しかし、その突進は距離なかばでの中断を余儀なくされた。
 モルターレが左手の、あのハンドガンを突き出し、立て続けに真紅の光線を撃ち込んだのだ。
 キリトは右足を砂に突き立て、真横に転がった。その体を追って、次々と砂に赤いレーザーが突き刺さる。
 しかしシノンは、射線から、モルターレにはキリトに光線を命中させる気がないのを察していた。あれは、あくまで牽制なのだ。「死の光線」を命中させ、しかしキリトが消えなければ、今まで築いてきた死銃の伝説に傷がついてしまう。
 恐らく、キリトにもモルターレの意図はわかっているだろう。しかし、例えそうであっても、あの光線を身に受ける覚悟で突進するためには、途方もない意思力が必要であろうことは容易に察せられた。己の仮説にどれほど自信があろうと、それは現段階では絶対の事実ではないのだ。「もしかすると」と思ってしまったが最後、反射的にあの銃による攻撃を回避してしまうのも止むを得ない。
 血の色の光線でキリトを追い立て、充分に距離を稼いでから、死銃は手練の早業でベレッタのマガジンを換装した。再びライフルが火を噴き、体勢を立て直しきれなかったキリトの脚に更に一発が命中した。と――
 今まで、あえてフォトンソードだけで戦っていたキリトが、いつのまに抜いたのか、左手に握ったファイブセブンを連射した。ベレッタとは微妙に異なる色の光を曳きながら、弾丸が宙を切り裂く。
 虚を突かれたのか、死銃の回避は初動が遅れ、一発がその胸部を捉えた。貫通力にアドバンテージを持つSS90弾がボディアーマーを貫いたと見え、ぐらりと死銃の体が揺れた。
 その隙を逃さず、キリトは空を翔ける勢いで彼我の距離をゼロにし、再度斬りかかった。
 だが今度は、モルターレは攻撃を避けようとはしなかった。代わりに、右手のベレッタをまっすぐに突き出す。
 キリトの袈裟切りが死銃の肩口に食い込み――同時に、咆哮した突撃銃が三発の弾丸をキリトの腹に叩き込んだ。一瞬の交錯で、HPバーを半分以下に減らした両者は大きく飛びのいて、ぴたりと動きを止めた。
 いつしかシノンは、恐怖も忘れて、眼前で繰り広げられる死闘に見入っていた。
 通常、GGOにおける戦闘では、回避など端から考えない無様な撃ち合いが繰り広げられるものと相場が決まっている。相手の弾道予測線を意識することができるようになって、三流。十発中三発を回避できれば、二流。同時に己の着弾予測円を安定させられるようになればもう一流だ。
 しかし――、いま戦っているキリトとモルターレのように、掩蔽物の一切無いオープンフィールドにおいてこれほどの熱戦を繰り広げられる者は、BoB出場クラスのプレイヤーにもそうはいるまい。
 モルターレ・フチーレ、というあの男の名前にはまるで見覚えが無かった。ということは、あのキャラクターはこの「死銃伝説」の為に一から鍛え上げたものだろう。超高レベルのステータスからして、多分ゲーム担当とリアル担当の二人で交互にログインし、経験値を稼いだものと思われた。
 しかし、恐らく、「モルターレ」となる以前のあの男は、名の通ったガンナーであったに違いない。そう思うと、シノンはかすかなやるせなさを感じた。
 なぜ、それで満足できなかったのか。なぜ、現実での殺人行為に手を染めてまで、真のプレイヤー・キラーなどという汚れた称号を欲したのか。
 多分――。
 その心の歪みは、代償なのだ。あれほどの強さを手に入れるのと引き換えに、彼は人間の心を失ったのだ。
 そう確信するほどに、モルターレの動きは超人じみていた。あの男は、二年に及ぶ、仮想世界における本当の命のやり取りを繰り広げてきた「SAO生還者」という人種なのだ、という事実をシノンは今更のように実感していた。
 で、あるならば。
 そのモルターレと、互角以上の戦いを繰り広げているキリトにも、やはり失ったものがあるのだろうか。
 知りたい。彼がどのように戦い、どのように生きたのか、そのすべてを知りたい、とシノンは痛切に思った。その為には、必ず生き延びて、現実世界で再会しなくてはならない。
 HPを大きく減少させたキリトとモルターレは、次の交錯で決着をつけるべく、身じろぎもせずに睨み合っていた。
 シノンはスコープから目を外し、肉眼で彼方の青い光を見つめた。一瞬、何ものかに祈ってから、再びライフルに顔を寄せ――
 ようとして、視界の端に、ちらりと動いた影を捉えた。
 ハッと息を飲み、慌ててライフルの向きを変えて覗き込んだ。
 対峙するキリトとモルターレから、北西方向におよそ400メートル。人の背丈の倍以上はあろうかという巨大なサボテンの根元に、わずかに盛り上がる黒い影があった。こうして見ている限りでは、植物の瘤としか思えない。先ほどの動きを見咎めていなければ気付くことはできなかったろう。
 シノンは全神経を右目に集中しながら、スコープの光増幅率を上げた。ノイズ量は増加したが、同時に黒い瘤のディティールが明らかになった。
 やはり、そこにあったのはうずくまるプレイヤーの姿だった。戦場に残った四人の、最後のひとりだ。大柄な体を分厚いボディアーマーに包み、ナイトスコープつきのヘルメットを装着している。まっすぐキリトたちのいる地点に向けられている顔は、サボテンの作る陰に入ってはっきりとは見えない。
 シノンは顔からプレイヤーを識別するのを諦め、その懐に抱えられたアサルトライフルに視線を凝らした。こちらもほとんどシルエットしか見えないが、上部に装着された特徴的なハンドガードが目についた。コンパクトな全長からしても、ほぼ間違いなくブルバップ式突撃銃のジアット−FAMASだ。
 素早く、頭の中の出場者インデックスを検索する。機関部をグリップよりも後方に配置したブルバップ銃は、小型軽量というメリットゆえにAGI型プレイヤーが好んで装備する傾向がある。
 FAMAS装備の大柄なAGI型、という条件に合致する出場者はひとりだけだった。前大会で、ゼクシードと最後まで優勝を争った《闇風》という男だ。キリトに予選決勝で敗北するまでは、シノンが最大の敵と見なしていたプレイヤーでもある。圧倒的スピードを誇る純AGI型は近距離からのフルオート射撃ですら五割以上を回避してのけるため、間合いを詰められればスナイパーとしてもう成すすべもない。
 しかし――、シノンの脳裏からは、そのようなゲーム的思考はすぐに消え去った。
 今問題なのは、この闇風の登場が、状況にどのような影響を与えるか、というその一点のみである。
 おそらく彼は、このままキリトとモルターレの戦闘を見守り、どちらかが倒れた瞬間奇襲をかけようと考えているのだろう。
 もしキリトが勝てば、迷うことなく闇風を狙撃すればよい。だが、モルターレが生き残った場合は……。
 先ほどの、キリトの声が耳に甦る。――もし俺が負けたら、そいつとモルターレを戦わせる――。
 それで、問題はないはずだ。死銃がターゲットとしうるプレイヤーの条件は非常に限定的なため(一人暮らしで、東京近郊に住み、BoB出場経験があって、参加賞にモデルガンを選択している)、闇風が標的リストに乗っている可能性はかなり低い。それに、例えリストに彼の名があろうとも、死銃は現在シノンをターゲットにしている筈であり、ゆえに現実において闇風の命を奪う準備は出来ていない……
 猛烈なスピードでそこまで思考した瞬間、シノンはキリトが見落としたある可能性に思い至り、慄然とした。
 死銃の腕は――本当に二本だけなのだろうか?
 この瞬間、仮想世界で戦っている《モルターレ》は間違いなくひとりだけだ。
 しかし、現実世界で、心臓を停める薬品を片手に徘徊している、言わば《実行者》は――何人いても、おかしくないのではないだろうか?
 シノンは、最早遥かな過去とすら思える大会前半の記憶を、必死に辿った。
 モルターレはまず、最初の獲物にザッパを選んだ。そして一端姿を消し、シノンが名前を知らない誰かを殺した。さらに川底を遡って第一の惨劇の舞台に取って返し、その場にいたシノンをあのハンドガンで撃とうとした。
 三つの銃撃のインターバルは、それぞれ何分だっただろうか。
 正確には思い出せない。だが、三十分とは開いていなかった気がする。
 できるものだろうか? ひとりの人間が、それほどの短時間に、現実世界を移動し、鍵を破って侵入して、標的に薬液を注射して回る――などということが?
 もしシノンを含む三人の標的を、例えば隣接した区などのごく狭いエリアから選んでいれば、不可能ではないのかもしれない。しかし、現実世界の《死銃》が二人以上存在する、その可能性を否定することはできない。
 つまり。
 このまま傍観し、モルターレと闇風の戦闘となった場合、あの黒いハンドガンが牙を剥いて犠牲者の累計を五に増やす――しかも、横たわり何もできないキリトの目の前で――、ということは起こり得るのだ。
 ならばどうするか。降り注ぐ星明りの粒子すら停止するほどのスピードで、シノンは考える。
 闇風に状況を警告するのは不可能だ。すべてを説明しようと思ったら一時間あっても足りるまい。となれば、残る選択肢は二つだ。
 ひとつは、全てを偶然に委ね、ただ見守る。
 もうひとつは――闇風を狙撃し、一発で舞台から退場させることで死銃に近づくのを阻止する。しかしその場合、モルターレは間違いなくシノンに気付くので、距離があるうちに死銃をも狙撃して仕留める。
 今の私に、出来るだろうか。シノンは無力感とともにそう思った。
 バギーでの逃走中に行った狙撃は、実に惨めなものだった。今まで積み上げたプライドの全ては、あの瞬間に砕け散った。
 今にしてみれば、BoBで優勝することで真の強さを手に入れる――などという思い込みは、滑稽というほかはない。昔ながらのテレビゲームでハイスコアを出し悦に入る子供と、本質的には何ら変わるところが無いではないか。状況が「ゲーム」から「現実」になった途端、立ち上って前を見ることすらできなかったではないか。
 命が懸かっているのだから、恐れて当然だ――とキリトは言った。死を恐れない者などいない、と。
 でも。
 五年前、十一歳の私にはそれが出来た。いや――できるはずがないのに、偶然と、狂躁のせいで、出来てしまった。
 私はずっと、あの瞬間から逃げつづけてきた。忘れよう、消し去ろうと、目をつぶって闇雲に記憶に絵の具を塗りつづけてきた。
 しかし、心のどこかでは、もう一度同じ高さの壁が現われるのを望んでいたのではないか。それを乗り越えることなしに、恐怖に打ち勝つことはできないと、悟っていたのではないか。今度こそ、己の意思によって。
 ならば――
 今が、その時だ。

 シノンはヘカートIIの銃身にそっと左手を添え、右手でしっかりグリップを握った。そして、数々の戦闘を共にくぐり抜けてきた物言わぬ金属に向かって、心の中で囁きかけた。
 ――あなたのことを唯一の相棒なんて言いながら、ほんとは今までずっと、ゲームのアイテムとしか思ってなかったのかもしれないね。ごめんね――この二発だけ、私に力を貸して。
 再びトリガーに添えた人差し指は、滑らかに動いた。クロスヘアーの中央に、障害物から僅かにはみ出した闇風の体、その真ん中で鼓動する心臓を捉える。
 恐怖も、無力感も消えたわけではなかった。大会以前は、狙撃に際してはいつも氷にように冷たくなった頭のなかは、ごうごうとうねる想念の熱に満たされていた。
 しかし、それが戦いというものだ。あの時だって――そうだった。
 指に僅かに力を込めると、視界にグリーンの着弾予測円が表示された。ゆらゆらと、闇風の上半身から少しはみ出す大きさで脈動している。これ以上は、収縮することはなさそうだった。
 それを無視して、ぐっと呼吸を止める。
 システムの力で中ててもらう必要はない。命中させるのだ。意思の力によって。
 シノンは、トリガーを引いた。

 胸の中央に巨大な穴を開けて吹き飛ぶ闇風の姿を、シノンは最後まで確認することはなかった。右手の指に、一撃でクリティカルポイントを射抜き、仕留めたという確かな手応えがあった。
 スムーズな動きでライフルの向きを変え、スコープの視界にキリトとモルターレの姿を捉えた。
 そこに見たのは――意外な光景だった。
 二人は完全に密着していた。モルターレのライフルの銃身をキリトが左手で掴み、光剣を握ったキリトの右手首をモルターレが押さえている。黒いハンドガンは砂の上に落ちていた。
 恐らく、砂漠にヘカートの咆哮が轟いた瞬間、キリトは状況を察したのだ。自力で死銃を斬り倒すことよりも、シノンの狙撃を確実なものとすることを選んだのだろう。
 キリトの右手から、フォトンソードが落ちて砂を灼いた。その手でぐっとモルターレの首を鷲掴みにして、同時に少年は地を揺るがすほどの大声で絶叫した。
「――シノン!! 俺ごと撃て!!」
 それを聞いた瞬間、シノンは唇に不敵な笑みを浮かべ、囁いた。
「――馬鹿にしないで」
 轟音とともに、巨大な炎が砂の海を照らした。純粋な力の結晶たる50口径BMG弾は、青い夜を切り裂いて飛翔し――
 キリトの右手の五センチ上、フードに包まれた死銃の頭を無数の微細な破片へと分解させた。命中の直前、シノンは確かに、輝く銃弾が暴いた男の恐怖の表情を見た。
 キリトが手を離すと同時に、頭部を失った死銃の体は一メートルほども吹き飛び、どさりと砂の上に落下した。大の字に伸びたその腹のうえに、赤い光が凝縮して、すぐにそれは「DEAD」の四文字となって回転を始めた。
 ヘカートの銃身が冷えるのも待たず、肩に担ぎ上げると、シノンは夢中で駆け抜けだした。
 細かい砂をブーツで蹴るたび、ざく、ざくと心地よい音が耳朶を打つ。移動速度のマイナス補正ゆえにスピードは出ないが、それでもシノンは一足ごとにふわりと宙を滑るような飛翔感を味わっていた。色々なものから解き放たれたかのように、心が軽かった。
 目指す先では、キリトが砂の上から光剣を拾い上げ、ブレードを収めて腰に戻していた。顔を上げてシノンを認めると、ゆっくり、しかし大股に歩み寄ってくる。
 懸命に走り、黒衣の少年のすぐ前にまで達すると、シノンは盛大に砂を跳ね上げながら停止した。
 何かを言おうと唇を開いたが、すぐには言葉が見つからなかった。自分が今どのような感情を抱いているのかも、はっきりとは自覚できなかった。
 ただ、熱い情動のうねりが喉元に込み上げて、シノンは左手でぎゅっと胸を掴んだ。
 立ち尽くすシノンに向かって、キリトは初めて見せる穏やかな微笑を浮かべた。左の拳を握り、まっすぐ突き出してくる。
 シノンも口を閉じ、かすかに笑った。右拳を持ち上げると、キリトの手にごつん、とぶつけた。
「……終わったな」
 短く言うと、キリトは降るような星空を見上げた。つられて、シノンも視線を上げた。
 そう言えば――、この世界で星を見たのは、初めてのことだった。
 GGO世界の空は、かつての最終戦争の影響で、常に厚い雲に覆われている。憂鬱な黄昏の色は消えることがなく、夜空でさえどこか濁った血の赤が残っている。
 しかし、街の長老NPCが語る予言の一説によれば、いつか地の毒が浄化され、白い砂へと還るとき、雲は消え去り、星と星船の光が夜空に戻るという。もちろん、そんな定型台詞をまともに聞くプレイヤーはいなかったのだが、あるいはこの砂漠は、普段プレイヤー達が彷徨っている荒野ではなく、遥か未来の約束の地であるのかもしれなかった。
 シノンはしばし言葉を失い、リアルブラックの空を彩るさまざまなスペクトルの光点と、その間を川のように流れる星船の残骸に見入った。
 やがて、キリトが言った。
「……さて……そろそろ終わらせないとな。ギャラリーが怒ってるだろうし」
「……うん。そうだね」
 夜空の一角では、水色の中継カメラが、心なしか苛立ったように点滅している。
 シノンは視線を戻し、50メートルほど離れた場所に転がる死銃の体を眺めた。
 頭部を失った完全なる死体であるが、そこには未だにプレイヤーの意識が宿り、眼前の星空を見ながら何ごとかを考えているのだろう。あるいは、中継画面で向かい合うキリトとシノンを見て、罵り声でも上げているのか。
 ふと、何か言葉をかけようかと考えたが、言うべきことなど何一つありはしないと思い直した。一度かたく目蓋を閉じてから、顔を上げ、キリトをまっすぐに見た。
 少年は再び微笑むと、静かな声で言った。
「さあ、シノン――俺を撃て。君が、優勝者だ。いいか、忘れるなよ……ログアウトのときは、気をつけるんだぞ」
 シノンも笑い返し、だが、大きく首を横に振った。
「ううん。それは、できない。キリト……私と、戦って」

 真っ直ぐな黒髪を揺らして、少年は軽く目を見開いた。
「いや――しかし……」
「そんな場合じゃないのは、分かってる。私の部屋に、本物の死銃がいるかもしれないんだもんね。でも……私には、あなたと戦うことが必要なの。現実の命と同じくらい、重要なことなの」
 キリトは口をつぐみ、じっとシノンを見た。その視線を受け止めながら、言葉を続けた。
「それに、今なら、もう私が勝ってもあなたが勝っても関係ないはずだわ。ログアウト時間はほとんど変わらない」
「でも……俺の装備は近距離型で、君は遠距離型だ。フェアな戦闘をするためには、二人ともこの場所から離れて、遭遇からやり直さないと……」
「その必要はないわ。向かい合って、決闘スタイルで決めましょう。遠慮しなくていいよ。たぶん攻撃力は私のほうが上だわ」
 再びキリトは沈黙し、透徹した視線をシノンの瞳に注いだ。
「……わかった」
 答えは短かった。
 頷いたキリトは、くるりと振り向くと、砂を鳴らして歩きはじめた。正確に10メートル離れ、再び向き直る。
 腰からフォトンソードを外し、青紫色に輝く刃を伸長させる。左足を前に半身になると、わずかに腰を落とす。
 シノンも肩からヘカートIIを外し、両手で体の前に掲げた。対物ライフルは伏射専用であり、立って撃つことは不可能ではないが、無理な姿勢ゆえに弾道はまったく安定せず、また反動を殺しきれずに体ごと吹き飛ばされてしまうのは確実だ。
 しかし――どうせ次弾を撃つチャンスなどあろうはずもない。
 重いブーツをしっかり砂地に噛ませると、シノンも腰を落とし、ぐっと頷いた。
 キリトも頷き、左手を腰にやった。つまみだした、小さな光るものは、どうやらファイブセブン用の弾丸らしかった。
 まっすぐ左手を突き出し、キリトは親指を鋭く弾いた。高く舞い上がったSS90弾は、細身の薬莢に星明りをきらきらと輝かせながら飛翔し――
 二人の中間地点に、かすかな音をさせて突き刺さった。
 同時に二人は動いた。
 シノンは、ヘカートを素早く肩につけると、スコープを使わずにキリトを照準した。
 キリトは、爆発のように砂を蹴り上げると、右手の光剣を振りかぶりながら一直線に突進した。
 少年のスピードは、素晴らしいの一言だった。10メートルの距離を詰めるのに、わずか二回しか地面を蹴らず、黒い雷光のようにシノンの直前にまで達すると、フォトンソードを真っ向正面から振り下ろした。
 何の外連もない、必殺の名にふさわしい一撃だった。おそらく、弾丸が砂に落ちてから、シノンの頭上にまっすぐ剣を掲げるまで、2秒とはかからなかっただろう。
 それでも、シノンには一弾を発射するだけの猶予はあった。だが、撃たなかった。おそらく、撃ったところで回避されたことは疑いようもなかった。
 そのかわりに、ヘカートの銃身から左手を外し、まっすぐ振り上げた。
 大会開始時から、ジャケットの袖口、手首の内側に隠してずっと装備していたものが飛び出し、手に収まった。白く、細い円筒。小型のフォトンソードである。
 やや高い震動音を発しながら伸びあがった薄桃色のエネルギーブレードは、ほんとうにぎりぎりの、文字通り紙一重のところで、キリトの光剣の下に割り込んだ。
 キリトの一撃は、人間技とは思えない、すさまじいスピードだった。これが、他のゲーム世界における金属剣での一撃であれば、どのような防御も回避も無駄だったろう。
 しかし、この世界に来て間もないキリトが恐らく意識していなかったことが一つだけある。
 それは、フォトンソードの物理的質量は限りなくゼロに近く、ゆえに攻撃にともなう慣性はシミュレートされていない、ということだ。
 たとえ攻撃側の速度がどれほど素晴らしいものであっても、それが防御側のエネルギーブレードと衝突した場合、双方にまったく等しい斥力が生じるのだ。

 雷鳴にも似た衝撃音が、砂漠に轟いた。まばゆいスパークを発生させながら交差した二本のフォトンソードは、次の瞬間、有無を言わせぬ圧力によって後方に弾き返された。
 キリトは顔に驚愕の色を浮かべ、流れた右手を引き戻そうと、慣性に抗った。
 しかしシノンは、抵抗せずに左手を開いた。役目を果たした白いフォトンソードは、光の残像を引きながら、空高く吹き飛んだ。
 体が左に回転する勢いを利用し、右手一本でホールドしたヘカートIIをまっすぐ突き出した。13.8キロの重量は容赦なく地面に向かって沈もうとしたが、必死にこらえ、銃口をキリトの体に密着させた。
 先ほどに倍する衝撃音によって世界が震えた。
 巨大なハンマーで一撃されたかのようなショックが右手全体を襲い、ライフルはシノンの手から離れて、重い音をさせて砂にめりこんだ。肩に受けたリコイルによってシノンも倒れそうになったが、両足を踏ん張って必死に耐えた。
 ゼロ距離から放たれた弾丸は、キリトの胸の中央に大穴を穿っていた。
 少年は、吹き飛ばされながらも、一瞬の驚愕の色を即座に収め、唇に驚嘆の笑みを浮かべた。かすかな声が、シノンの耳に届いた。
「――見事」
 どさっという音とともに、キリトは砂地に落下した。その体のうえにDEAD表示が出現するのを、シノンは半ば信じられない気持ちで見つめていた。
 必死に考えた作戦ではあったが、成功するとはまったく思っていなかった。
 どのようなリアクションも取れず、ただひたすら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 不意に、頭上に甲高い爆音が轟いた。振り仰ぐと、どこから飛来したのか、小型のエアフライヤーの三機編隊がオレンジ色の炎を引きながら通過するところだった。航空機が、シノンの頭の上に達したその瞬間、夜空いっぱいに、色とりどりの花火が咲き乱れた。
 銃声とはまったく違う、どこか陽気な炸裂音が、次々と耳を叩いた。数秒間、盛大に振り撒かれた火花は、やがて寄り集まって、巨大な活字を作り上げた。――《CONGRATULATION!!》。
 ……優勝、したんだ。
 胸のおくで、ぽつりと呟いた。とても単なるゲーム大会とは言えない、異常事態とでも言うべき展開を辿った第三回バレット・オブ・バレッツではあったが――それでも、やっぱり、少しだけ嬉しかった。くるっと振り向くと、砂に銃身を突き刺している愛銃を見つけ、そっと持ち上げる。
 胸に抱くと、先ほどの発射の余熱がまだその黒く優美な体に残っていた。ありがとう、と小声で呟きかけ、一瞬だけ頬を摺り寄せた。
 顔を上げ、唇を綻ばせると、シノンはまばゆい色彩の乱舞する空をぐるりと見渡した。すぐに、水色のライブカメラを発見する。
 びしっと右腕を突き出し――握った拳から、高々と二本の指を伸ばした。それと同時に、どこからともなく、すさまじい歓声が聞こえてきた。グロッケンの中央広場の音声が、この戦場にも中継されているのだ。
 轟くような声の渦、口笛、そして拍手が、花火の破裂音を圧倒し、夜の砂漠に満ちた。高密度の音の波に揺られながら、シノンは恐らく初めて、この世界において、心の底からの笑顔を浮かべていた。

 戦場からの退出を促すシステムボイスに急かされるように、ウインドウを出してログアウトボタンを押しながら、シノンは必死に熱に浮かされた頭を冷まそうとした。
 BoBは終わったが、《死銃》をめぐる状況は、むしろこれからが本番である。現実に舞台を移し、キリトと協力して、死銃の起こした連続殺人事件を暴かなくてはならない。と言っても、自分に何ができるのかはさっぱり分からなかったが。
 だが――その前にまず、自分のからだを守らなくては。シノンは、確認ウインドウの上で指を停止させ、ちらりと先ほどまでキリトが横たわっていた砂地の窪みを見つめた。
 はやく来てよね、と胸のなかで呟く。
 大きく息を吸い、吐いて、シノンはぐいっと《YES》のボタンを押――そうとして、ふと躊躇した。
 現実に戻れば、自分のとなりに、狂気に駆られた殺人鬼が立っているかもしれない。その可能性を考えると、無理やりに忘れていた恐怖が鮮明に甦ってくる。
 モルターレが死んだ時点で、侵入者は姿を消しているはずだ、とキリトは言った。今はそれを信じるしかない。ぐっと奥歯を噛み締め、シノンは指を動かした。
 たちまち、周囲の光景は、白い光の中に溶け崩れていった。すぐに光は薄れ、暗闇が訪れる。右肩のヘカートの重みがまず消え去り、次いで音が遠ざかり、更に重力が消滅する。
 一瞬ののち、シノンは詩乃となり、現実世界の自室のベッドにひとり横たわっていた。
 いや――ひとり、とはまだ限らない。すぐに目を開けちゃだめだ、動いちゃだめだ、と自分に言い聞かせる。
 身動きひとつせず、瞼をしっかり閉じたまま、詩乃はそっと周囲の気配を探った。
 耳には、かすかにいくつかの音が届いている。
 まず、自分の呼吸音。早いペースで喚く心臓の鼓動。
 しゅるしゅると布を擦るような音は、ヘッドボードに置いてあるアミュスフィア本体ドライブ内のBDVDディスクの回転音だ。低く唸っているのは、エアコンの作動音。こぽ、こぽと泡だつような加湿器の音。
 窓の外、表通りから遠く響いてくる水素エンジン車の走行音。同じアパートの、どこかの部屋で鳴っているらしいステレオのウーファー。
 ――それだけだ。部屋のなかに異質な音を立てるものは、無い。
 今度はゆっくりと、細く長く空気を吸い込む。鼻腔が捉えた匂いの粒子は、これも、芳香剤がわりにチェストの上に置いたハーブソープの、穏やかな香りだけだった。
 部屋には私以外、誰もいない。
 そう思っても、詩乃はなかなか目を開けられなかった。ベッドの左横に、ぬうっと立って自分を覗き込んでいる何者かがいるのではないか――という畏れは、一向に去ろうとしない。
 いや……たとえ部屋のなかに居なくても、キッチン、あるいはユニットバス……ベランダ……狭い1Kのアパートでも、その気になれば、姿を隠せる場所はたくさんある。ことによると、ベッドの下……という可能性だってあるではないか。
 嫌だ、動きたくない! と詩乃は心の中で叫んだ。
 たしかキリト――いや桐ヶ谷和人が、ログアウトしたらすぐに警察に連絡し、自身も即座に駆けつける、と言っていた。要する時間はどれくらいだろうか。10分……15分?
 であれば、それまでこのまま動かずに待っていたほうが賢明だろうか。
 そう考え、ぎゅっと目を瞑りなおしたその時――
 旧式のエアコンが息切れを起こし、しゃっくりのように吐き出した過熱されていない空気のかたまりが、詩乃の剥き出しの太股を撫でた。寒気が肌を駆け上り……不意に、鼻の奥に不穏な気配が訪れた。
 抵抗できたのは、わずか二秒ほどだった。眉間と鼻筋がきゅっと収縮し、次いで裏切り者の呼吸器官が、小さく、しかしはっきりとした音を――くしゅん! と炸裂させた。詩乃は体を固くして、部屋の何処かからなんらかの反応が返ってくるのを待った。
 しかし、相変わらず、動くものはなかった。
 詩乃はそっと、ごく薄く、右の目蓋を持ち上げた。
 照明の落ちた室内は、カーテンの隙間から侵入する街灯りによってぼんやりと照らし出されていた。まず眼球の動く範囲、次いで首をじわじわと傾けて、部屋の様子を探る。
 とりあえず、視界内に人影は無いようだった。今更ながら、音がしないように注意して頭からアミュスフィアを外し、枕の横に置く。腹筋の力だけで上体を持ち上げ、素早く、もう一度部屋の中を見渡す。
 ――何もかも、数時間前に離脱したときのまま、のように思えた。
 テーブルの上の、ミネラルウォーターのボトル。その横に置かれた、やや大型のオーディオプレイヤー。床に放り出された、通学鞄。どれも動かされた様子はない。
 詩乃はシーツに手をついてベッドの端まで移動すると、ごくりと一回喉を鳴らしてから、体を乗り出して床とベッドの隙間を覗き込んだ。当然ながら、何一つありはしない。
 顔を上げ、カーテンの隙間から見えるアルミサッシのクレセント錠が、しっかりと降りているのを確認する。
 素足を床に下ろし、限界まで首を伸ばして、今度はキッチンの様子を探る。と言っても、わずか三畳ほどのスペースには、人が隠れられるような場所はない。
 立ち上げると、意識せずに足音を殺しながら壁際まで歩き、照明のスイッチを入れた。たちまち白い光が部屋に溢れ、キッチンの向こうにある玄関までも照らし出す。
 目を凝らすと、ドアのロックノブも水平に寝たままなのが見えた。詩乃はしばらくそこに立ったまま、壁一枚隔てた場所――ユニットバスの気配を探った。
 やはり、妙な音がする様子はない。再び爪先立ちになり、六畳間からキッチンへと移動する。
 シンクの反対側にあるユニットバスのドアは、しっかりと閉められていた。鍵は掛かっておらず、照明も落ちている。
 冷や汗で濡れた右手で、ぐっとノブを握り――
 大きく息を吸って、ぐっと止めてから、左手で灯りのスイッチを入れざま、一気にドアを引きあけた。
「…………」
 詩乃はしばし無言で内部を凝視してから、
「……馬ッ鹿みたい」
 ぽつりと呟いた。樹脂のベージュ色で統一されたバスの中は、もちろん、無人だった。
 ようやく、今度こそ、首筋、両肩から体の下方へ向かって、ふうーっと力が抜けていった。詩乃はくるりと半回転すると、壁に背中をあずけ、ずるずると座り込んだ。
 部屋には、誰も居なかった。侵入された形跡すらも、今のところは見つからなかった。
 もちろん、ピッキングによって入り込んだ何者かが、部屋の中で携帯端末を利用してGGOの中継動画を視聴し、モルターレの死亡と同時に立ち去った――という可能性はまだある。そうであるなら、侵入者はまだこのアパートの付近にいるはずだ。一応、警察には連絡すべきだろう、と思いながらも、立ち上がる気力はなかなか湧いてこなかった。
 ちらりと、冷蔵庫の上に置いてあるキッチンアラームを見上げた。時計機能もあるそのデジタル数字は、零時を二分ばかり回った時刻を示していた。
 何と長い三時間だったことだろう。ログイン前に、目の前のゴミ袋に捨ててあるヨーグルト容器の中身を食べたことなど、遥か昔の出来事のようだった。
 自分が、望んだとおりに変われたようには、まだ思えなかった。
 念願のBoB優勝を果たし、更に《死銃》という真の脅威を己の手で倒すことで、少しは強くなれたような気もする。
 しかし、あの砂漠の洞窟で、キリトが口にした言葉が思い出される。過去に打ち勝つことなど不可能だ――と、あの不思議な少年は言った。ずしりとした重みのある一言だった。
 多分、自分はようやく、あの事件から逃げるのではなく正面から向き合う、その第一歩を踏み出したところなのだ。そう、詩乃は思った。もう、モデルガンを手にとり、無理矢理記憶を抉じ開けるような真似はするまい。
 ――そう言えば、キリトがすぐに駆け付けると言っていた。警察も来るなら、まともな格好に着替えておかなければならない。
 よいしょ、と立ち上がったとき、詩乃は思い出したように猛烈な喉の乾きを意識した。シンクに歩み寄り、浄水ポットの水をグラスに注いで、一息に飲み干す。
 更にもう一杯注ぎ足そう、としたその時――
 キンコーン、と古めかしい音で、玄関のチャイムが鳴り響いた。
 詩乃は反射的にびくりと体を竦ませ、ドアを凝視した。今にも、勝手にロックが回転し始めるのではないか、と思うと息が詰まる。
 あるいはもうキリトが来たのか、と思って時計を振り返るが、まだログアウトしてからは三分と経ってはいるまい。いかにも早すぎる。
 立ち尽くしていると、再びチャイムが鳴った。詩乃は息を殺して、足音を立てないようにドアに歩み寄った。
 まずはドアチェーンを掛けよう、そう思って恐る恐る左手を伸ばしたが、指先が触れる前に――
「朝田さん、居る? 僕だよ、朝田さん!」
 ドアの向こうから、聞きなれた、やや高めの少年の声がした。
 詩乃は、ふううっと肩から力を抜いた。実に紛らわしいタイミングで、しかも電話ひとつせずやってくるとは人騒がせにも程があるが、それもまた不器用な彼らしいと言えば言える。
 詩乃はサンダルを踏み石がわりにドアに顔を近づけると、念のためにレンズを覗いた。魚眼効果で歪んだ廊下に立っているのは、間違いなく、新川恭二だった。
「新川くん? どうしたの、急に?」
 声をかけると、ドアの向こうから、相変わらず頼りなげな調子の声で答えが返ってきた。
「あの……どうしても、お祝いが言いたくて……」
 そんな理由で、深夜に一人暮らしの女性の部屋を突然訪れるとは少々世間知らずと言うほかはないが、それでも善意から出た言葉を無下にはできない、と詩乃は思った。それに、正体不明の殺人者がうろついているかもしれない状況では、恭二が居てくれれば少しは心強い。
「ちょっと待って、今開けるね」
 言って、ロックノブに手を伸ばしてから、ふと自分の体を見下ろす。上はだぶっとしたトレーナー、下は素足にショートパンツというやや頼りない格好だが、まあいいか、と肩をすくめてカチリとノブを九十度回転させた。
 ドアを押し開けると、そこには、はにかんだような笑みを浮かべた新川恭二が立っていた。ジーンズの上に、ボアつきのミリタリージャケットという重装備だが、外気はそれでも足り無そうなほどの冷たさだった。
 素足にまとわりつく冷気に首を縮めながら、詩乃は言った。
「うわ、凄く寒いね。早く入って」
「う、うん。お邪魔します」
 恭二はぺこりと首を縮めると、三和土に足を踏み入れ、詩乃を見て眩しそうに目を細めた。
「……な、なによ。……部屋が寒くなっちゃうから、早く上がってドア閉めて。あ、鍵もかけてね」
 恭二の視線に気恥ずかしさを覚え、詩乃は照れ隠しに捲し立てると、くるっと振り向いて部屋に向かった。カチリとノブを回す音に続いて、恭二もキッチンを横切り、後をついてくる。
 部屋に入ると、詩乃はリモコンを拾い上げ、暖房を強くした。大儀そうな唸りとともに、一際温かい空気が噴き出して、寒気を追い払っていく。
 ぼすんと勢い良くベッドに腰掛け、見上げると、恭二は所在なさそうに部屋の入り口に立っていた。
「どこでも、そのへんに座って。あ……何か、飲む?」
「う、ううん、お構いなく」
「疲れてるから、そんな事言うとほんとに何も出ないよ」
 冗談めかして言うと、恭二もようやくかすかな笑みを浮かべ、床のクッションに腰を降ろした。
「ごめんね朝田さん、急に押しかけて。でも……さっきも言ったけど、少しでも早く言いたくて」
 子供のように膝を抱えて、上目づかいに詩乃を見上げてくる。
「あの……BoB優勝、ほんとうにおめでとう。凄いよ、朝田さん……シノン。とうとう、GGO最強のガンナーになっちゃったね。でも……僕にはわかってたよ。朝田さんなら、いつかそうなるって。朝田さんには、誰も持ってない、本当の強さがあるんだから」
「……ありがと」
 詩乃はくすぐったさを感じて、両手でぎゅっと体を抱え、笑った。
「まさか、ほんとに優勝できるなんて、私も思ってなかったよ。――それに、ちょっと……ううん、だいぶ、変なこともあったし……ひょっとしたら、今回のBoBは無効になるかもしれない……」
「え……?」
「あのね……ええと……」
 恭二に、死銃事件のことをどう説明したものか、詩乃は迷った。最初から話すととてつもなく長そうだったし、それに――今となっては、まるであの出来事自体が、幻だったような気すらしていた。
 ひょっとしたら……すべては、やはり偶然の産物だったのではないだろうか……? GGO世界で銃撃した相手を、現実において毒殺するなど、考えてみればあまりにも荒唐無稽な話ではないだろうか。実際に詩乃が見たのは、ザッパが消えるシーンだけである。確かにモルターレの言動は常軌を逸していたが、あのくらいキャラクターにのめり込んでしまう者も、まるでいないとは言えない。ザッパが現実で本当に死んでいれば、やはり死銃は実在するのだろうが、それが判明するまでは確実なことは何もないのだ。
 どうせ、あと10分もすれば、キリトと警察が来る。説明は、責任を取ってあの男にやらせよう。
 詩乃は、肩をすくめると話題を変えた。
「や、なんでもない。ちょっと変なプレイヤーがいたってだけ。それにしても……君、ずいぶん早かったねえ? まだ、私がログアウトしてから5分くらいだよ」
「あ、その……実は、近くまで来て、携帯で中継見てたんだ。すぐに、おめでとうが言えるように」
「ふうん……寒いのに、風邪引いちゃうよ。やっぱり、お茶淹れたほうがいいかな」
 言って、立ち上がろうとしたのだが、恭二は首を振って詩乃を止めた。その顔から笑みが薄れ、かわりに切羽詰ったような表情が浮かぶのを見て、詩乃はぱちくりと瞬きした。
「あの……朝田さん……」
「な、なに?」
「中継で……終盤の、砂漠のシーンが映ってたんだけど……」
 その言葉と恭二の顔つきで、詩乃は咄嗟に彼が言わんとしていることを察した。あの砂漠の洞窟での出来事を思い出し、抑えようもなく、頬から耳までかかあっと熱くなる。
「あ……あの、あれは……」
 今まですっかり――あるいは意識的に忘れていたが、岩壁に寄りかかって座ったキリトの膝の上に乗っかって、散々泣いたり喚いたり、更には事もあろうに甘えたりしてしまったのだった。あのシーンを、当然恭二も見ていたのだ。そのことにまるで思い至らなかったのは、迂闊と言うしかない。
 気恥ずかしさのあまり俯いた詩乃に向かって、恭二の言葉が飛んできた。てっきり関係を聞かれるものと思ったが、その内容は詩乃の予想を裏切るものだった。
「あれは……あの男に脅されたんだよね? 武器奪われて……殺すぞって言われて。だから、仕方なくあんなことしたんだよね?」
「は、はあ?」
 唖然として顔を上げる。
 どこか必死な色を目に浮かべ、恭二は中腰になり、詩乃に向かって身を乗り出していた。
「脅迫されて、あいつの敵を狙撃までさせられて……でも、最後にはあいつを撃ったよね。だから、ほっとしたんだけど……それだけじゃ足りないよ。前にも言ったけど……もっと、ちゃんと思い知らせてやらないと……」
「あ……ええと……」
 詩乃は絶句してから、どう言ったものか、懸命に言葉を探した。
「あのね……ううん、脅迫とか、そういうんじゃないの。大会中に、あんなことしてたのは不謹慎だと思うけど……私、中で、例の発作が起きそうになっちゃって……。それで取り乱して、キリトに当たっちゃってさ。いろいろ、酷いこと言ったのは私のほう」
「…………」
 恭二は目をじっと見開き、無言で詩乃の言葉を聞いている。
「でも……あいつ、ムカつく奴だけど、でもね、あったかかったんだ。何だか、お母さんに似てた。抱っこしてもらったら、子供みたいにすごく泣いちゃって……恥ずかしいよね」
「……朝田さん……でも……それは、発作で、仕方なくなんだよね? あいつのこと……別に、なんとも思ってないんだよね?」
「え……?」
「朝田さん、僕に言ったよね。待ってて、って」
 膝立ちになり、身を乗り出す恭二の目が、思い詰めたようにぎらぎらと光っているのに、詩乃は気付いた。
「言ったよね。待ってれば、いつか僕のものになってくれるって。だから……だから僕……」
「……新川くん……」
「言ってよ。あいつのことは、なんでもないって。嫌いだって」
「ど……どうしたのよ……急に……」
 大会前、近所の公園で、恭二に向かって、待ってて、と言ったことは憶えていた。
 しかし、それは、いつか自分を縛るものを乗り越えてみせる、という意味だったはずだ。それができたとき、ようやく普通の女の子に戻れるのだ、と。
 新川恭二の「もの」になる――そんなことを言ったつもりは無かったのに――
「あ……朝田さんは、優勝したんだから、もう充分強くなれたよ。もう、発作なんて起きない。だから、あんな奴、必要ないんだ。僕が、ずっといっしょにいてあげる。僕がずっと……一生、君を守ってあげるから」
 うわ言のように呟き、すうっと恭二は立ち上がった。そのままふらりと二歩、三歩詩乃に歩みより――
 突然両腕を広げて、容赦のない強さで詩乃を抱きすくめた。
「っ……!?」
 詩乃は驚愕のあまり、体を竦ませた。両腕と、わき腹の骨が軋み、肺から空気が追い出される。
「……し……かわ……く……」
 ショックと、圧力のせいで息が詰まった。しかし恭二は、なおも腕に力を込め、ベッドに押し倒そうとするかのようにのしかかってくる。
「朝田さん……好きだよ。愛してる。僕の、朝田さん……僕の、シノン」
 しわがれ、ひび割れた恭二の声は、愛の告白には程遠い、呪詛のごとき響きを持っていた。
「ゃ……め……っ……!」
 詩乃は必死に両腕を突っ張り、体を支えた。両脚に力を込め、右肩を恭二の胸に押し当て――
「……やめてっ!!」
 声は掠れた囁きでしかなかったが、どうにか両手で恭二の体を押し返すことができた。あえぐように、空気を吸い込む。
 たたらを踏んだ恭二は、床のクッションに脚を取られ、尻餅をついた。
 その顔には、詩乃の拒絶が信じられない、と言わんばかりの純粋な驚きの色が浮かんでいた。
 丸く見開かれた目から、やがてすうっと光が薄れ――唇が痙攣するように震えて、虚ろな声が漏れた。
「だめだよ、朝田さん。朝田さんは、僕を裏切っちゃだめだ。僕だけが朝田さんを助けてあげられるのに、他の男なんか見ちゃだめだよ」
 再び、のろりと立ち上がり、歩み寄ってくる。
「……し、新川くん……」
 いまだ衝撃が去らず、詩乃は呆然と呟いた。
 確かに、以前この部屋に招いて手料理を振舞ったとき、あるいは公園で抱きしめられたとき、恭二の中にちらりと見えた衝動に、どこか危ういものを感じないではなかった。だが、男の子なんだから、ある程度は当たり前のことだと思ったし、おとなしく気の弱いところのある恭二は、自制を失うような真似はするまいと信じてもいた。
 しかし、ベッドに腰掛けたまま動けない詩乃の前に立ち、無言で見下ろしてくる恭二の目には、かつて見たことのない逸脱した光が渦巻いていた。
 まさか 新川くん 私を ――!?
 思考の断片が切れ切れに脳裏を横切り、ようやく、詩乃のなかに衝撃を上回る恐怖が滲み出した。
 だが――。
 詩乃の想像は、方向において正しく、しかし質量においては、大いに誤っていた。
 唇を僅かに開き、虚ろな呼吸音を漏らしながら、恭二はジャケットの前ポケットに右手を差し込んだ。中で、なにかを握るような動き。
 抜き出された手のなかにあったのは、奇妙なモノだった。
 全体は20センチほど。艶のある、クリーム色のプラスチックで出来ている。
 滑らかなテーパーのついた、太さ3センチ程度の円筒から、斜めにグリップ状の突起が伸び、恭二の右手に握られている。グリップと円筒の接合部には、薄いグリーンのボタンが突き出しており、人差し指が添えられている。
 円筒の先端には、そこだけ銀色の金属で出来た薄い円錐型部品が光っており、どうやらその中心には細い孔があいているようだ。全体としては、子供が遊ぶおもちゃの光線銃、といった趣だが、一切の飾りのないのっぺりとしたその姿には、明確な目的のための機能性が感じられた。
 恭二はゆらりとソレを握った右手を動かすと、先端をぐっと、詩乃の首筋に押し当てた。ひやりと氷のように冷たい感触に、全身が総毛立った。
「しん……わ……くん……?」
 強張った唇を動かし、どうにか声を出したが、その言葉が終わらないうちに、恭二が低い囁き声で言った。
「動いちゃだめだよ、朝田さん。声も出しちゃいけない。……これはね、無針高圧注射器、って言うんだ。中身は、サクシニルコリンっていう薬。これが体に入ると……筋肉が動かなくなってね、すぐに肺と心臓が止まっちゃうんだよ」
 精神の外殻なるものが頭のどこかにあるとして、それの底が抜けるような衝撃を味わうのが今日で何度目のことなのか、もう詩乃にはわからなかった。
 首筋から広がった冷たさが手足の先端にまで浸透し、そこがジンジンと痺れるのを意識しながら、詩乃は恭二の言葉をどうにか意味あるかたちに処理しようと、必死に脳を働かせた。
 つまり――恭二は、詩乃を、殺すと言っているのだ。言うことを聞かなければ、手に持ったおもちゃめいた注射器から長い名前の薬を注入し、詩乃の心臓を止めると。
 以上のことを考えながら、それと平行して、何かの冗談だよね? 新川くんが、そんなことするはずないよね? と頭の片隅で喚きつづける声がした。しかし実際には、詩乃の口は乾いた木にでもなってしまったかのように、動こうとしなかった。それに、首筋――正確には左耳の5センチほど下方に押し当てられた円錐形の金属の感触は、これが何らかのジョークであるという可能性を砂粒ほどにも許容しない冷酷な硬度と温度を持っていた。
 逆光のせいでよく表情の見えない恭二の顔を、詩乃はただ見上げることしかできなかった。その、削いだように尖った顎がわずかに動き、抑揚のない声が流れ出した。
「大丈夫だよ、朝田さん、怖がらなくていいよ。これから僕たちは……ひとつになるんだ。僕が、生まれてから今までずーっと貯めてきた愛を、全部朝田さんにあげる。その、いちばん気持ちいいところで、そうっと、優しく注射してあげるから……だから、何にも痛いことなんてないよ。心配しなくていいんだ。僕に、任せてくれればいい」
 言葉の意味は、詩乃にはまったく理解できなかった。日本語に似た響きを持つ、どこか異界の言語であるようにすら思えた。ただ、耳の奥に、二つのフレーズだけが、何度も何度もこだましていた。――「ムシンコウアツ注射器ッテイウンダ」「心臓ガ止マッチャウンダヨ」「注射器ッテ」「心臓ガ」「注射器」「心臓」……。
 その二つのことばを……ごく最近、どこかで聞いたのではなかったか。
 今となってははるかな幻想の中の出来事とも思える、夜の砂漠の洞窟の中で、少女めいた顔立ちを持った少年が、涼やかな響きのある声で(筋弛緩系の薬品を)確かに言った(注射したんだ)。
 それでは――まさか――まさか。
 自分の唇が痙攣するように動き、掠れた声が漏れるのを、詩乃は聞いた。
「じゃあ……君が……君が、もう一人の、《死銃》なの?」
 首筋に押し当てられた注射器が、ぴくりと震えた。恭二の口もとに、いつも詩乃と話すときに浮かべていたような、憧れを潜ませた笑みが滲んだ。
「……へえ、凄いね、さすが朝田さんだ……《死銃》の秘密を見破ったんだね。そうだよ、僕が《死銃》の右手だよ。と言っても、今までは僕が《モルターレ》だったんだけどね。ゼクシードを撃ったときの動画、見てくれた? だったら嬉しいけど。でも、今日だけは、僕に現実の役をやらせてもらったんだ。だって、朝田さんを、他の男に触らせるわけにはいかないもんね。いくら兄弟って言ってもね」
 何度目かの驚きに、詩乃は体を強張らせた。
 恭二に兄がいる、という話は、一度ちらりと聞いたことがあった。しかし、小さいころから病気がちで、ずっと入退院を繰り返している、ということだったので、その話題がそれ以上続くことはなかった。
「き……きょう……だい? モルターレが……《赤眼のザザ》が、君の……お兄さん、なの?」
 今度こそ、恭二の目は驚きに見開かれた。
「へえ、そんなことまで知ってるんだ。モルターレ……リョウイチ兄さんが、そこまで喋ったのか。ひょっとしたら、兄さんも朝田さんのことを気に入ったのかもね。でも、安心して、朝田さんは、誰にも触らせないから。ほんとは……今日、朝田さんに注射するのはやめよう、って思ってたんだよ。兄さんは怒っただろうけど……でも、朝田さんが、公園で、僕のものになってくれる、って言ったからさ」
 そこで恭二は口を止めた。浮かんでいた、陶酔したような笑みが薄れ、再び表情が虚ろになる。
「……なのに……朝田さん、あんな男と……。騙されてるんだよ、朝田さん。あいつが何を言ったのか知らないけど、すぐに僕が追い出してあげる。忘れさせてあげるからね」
 注射器を押し付けたまま、恭二は左手で詩乃の右肩を強く掴んだ。そのまま、力任せにシーツの上に押し倒すと、自身もベッドに乗り、詩乃の太腿に跨る。その間も、うわ言のように呟きつづけていた。
「……安心して、朝田さんをひとりにはしないから。僕もすぐに行くよ。二人でさ、GGOみたいな……ううん、もっとファンタジーっぽいやつでもいいや、そういう世界に生まれ変わってさ、夫婦になって、一緒に暮らそうよ。一緒に冒険して……子供も作ってさ、楽しいよ、きっと」
 完全に常軌を逸した恭二の言葉を聞きながら、詩乃は麻痺した思考の一部で、それでもどうにか二つのことだけを考えつづけていた。――もうすぐ、キリトと警察がくる。だから、何か喋り続けなくては。
「でも……君が、いなくなったら、モルターレが困るよ……。そ……それに、私、向こうで死銃に、撃たれなかった。私が死んだら、死銃のこと、みんな疑うよ」
 完全に乾ききった舌をどうにか動かし、詩乃は言った。恭二は右手の注射器を、トレーナーの襟ぐりから覗いた詩乃の鎖骨の下に押し当てながら、引き攣るような笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。今日は、ターゲットが三人もいたからさ……兄さんが、もうひとり見つけてきたんだ。SAO時代の、ギルドメンバーなんだって。これからは、その人が僕のかわりになればいい。それに……朝田さんを、あんなゼクシードやたらこみたいなクズと一緒にするわけないじゃない。朝田さんは、死銃じゃなく、この僕だけのものだよ。朝田さんが……旅だったら、どこか遠い……人のいない、山の中とかに運んでさ、そこで僕もすぐに追いかけるよ。だから、途中で待っててね」
 恭二の左手が、まるで恐れているかのように、こわごわとトレーナーの上から詩乃の腹部に触れた。二、三度指先を下ろしてから、次第に手のひら全体で撫でさすりはじめる。
 嫌悪と恐怖に肌が粟立つのを感じながら、詩乃は懸命に口を動かした。急に動いたり、大声を出せば、目の前の無害そうに見える少年は、ためらわずに注射器を作動させるだろうということは、残念ながらもう疑うことはできなかった。
「……じゃ、じゃあ……君はまだ、現実世界で、その注射器を使ったことはないんだね……? な……なら、まだ……まだ、間に合うよ。やり直せるよ。だめだよ、死のうなんて思ったら……。大検、受けるんでしょ? 予備校行ってるんでしょう? お医者様に、なるんでしょう……?」
「ダイケン……?」
 恭二は首を傾げ、知らない単語を聞いたかのように繰り返した。やがて、その口から「ああ……」という声が漏れ、左手が詩乃から離れてジャケットのポケットの差し込まれた。
 掴み出されたのは、細長い紙切れだった。
「見る?」
 どこか自嘲気味な笑みとともに、それを詩乃の眼前に突き出してくる。
 何らかのプリントアウトと思しき紙片は、詩乃にとっても見慣れたもの――模擬試験の成績票だった。並んだ得点と偏差値は、どの教科も目を疑うほどの、惨憺たる数字だった。
「し……新川くん……これ……」
「笑っちゃうよね。偏差値って、こんな数字が有り得るんだね」
「でも……ご、ご両親は……」
 この成績を見せられて、恭二の親はよくアミュスフィアの使用を許可しつづけているものだ、という意味で口にした一言を、恭二は敏感に理解したようだった。
「ふふ、こんな用紙なんて……プリンタでいくらでも作れるよ。大体、親にはアミュスフィアで遠隔指導受けてるって言ってあるしさ。さすがにGGOの接続料の引き落としはさせてくれなかったけど、それくらい、ゲームの中で稼げた……稼げたのに……」
 不意に、恭二の顔から笑みが消えた。鼻筋に皺が刻まれ、食いしばった歯が剥き出される。
「……もう、こんな下らない現実なんて、どうでも良かったんだ。親も……学校の奴らも……どうしようもない愚か者ばっかりだ。GGOで最強になれれば……それで、僕は満足だったんだ。そうなれた……シュピーゲルは、そうなれたはずなのに……」
 押し当てられた注射器から、ぶるぶると恭二の手の震えが伝わり、今にもそのボタンを押してしまうのではないかと思って、詩乃は息を詰めた。
「なのに……あのゼクシードの屑が……AGI型最強なんて嘘を……あの卑怯者のせいで……シュピーゲルは突撃銃もろくに装備できないんだ……畜生ッ……畜生ッ……」
 恭二の声に含まれた怨嗟の響きは、それがあくまでゲームの話である、という事実を遥かに超越したものだった。
「今じゃ……ろくに接続料も稼げない……GGOは……僕の全てだったのに……現実をみんな犠牲にしたのに……」
「……だから……だから、ゼクシードを殺したの……?」
 まさか、そんな――そんなことで、と思いながら、詩乃は訊いた。恭二はぎゅっと一度瞬きしてから、再び陶酔したように笑った。
「そうだよ。《死銃》で、今度こそGGO……いいや、全VRMMOで最強の伝説を作るための生贄に、あいつほど相応しい奴はいないだろ? ゼクシードとたらこ、それに今日の大会でザッパとカコートンを殺したから、いくらプレイヤー共が馬鹿でも、もう死銃の力は本物だと気付いたはずだ。最強……僕が、最強なんだ……」
 押さえがたい快感のせいだろうか、恭二の全身がぶるりと震えた。
「……これでもう、こんな下らない現実に用はないよ。さあ……朝田さん、一緒に《次》に行こう」
「し……新川くん」
 詩乃は必死に首を振り、訴えた。
「だめだよ。まだ……まだ引き返せる。君はまだ、やり直せるよ。私と一緒に、警察に……」
「無理だよ」
 恭二はどこか遠くを見るような目つきで、首を横に振った。
「今日……ザッパの心臓を停めたのは、僕なんだ。この注射器でね。ううん……注射器じゃない。これが……この銃こそが、本物の《死銃》なんだ」
「そん……な……」
 心に絶望の色が忍び込んでくる、その冷たさを詩乃は胸の奥に感じた。
「案外、簡単だったよ。胸に注射したら、すぐに動かなくなってさ。ぜんせん、苦しまなかった。だから、朝田さんも、怖がらなくていいよ。一瞬……一瞬のことだから……」
 いや――そうじゃない。たとえ筋弛緩剤で体はうごかなくても、意識は地獄の苦しみを味わったのだ。詩乃――シノンは、それを己の目ではっきりと見た。
「さあ……もう、現実のことなんてどうでもいいよ。僕とひとつになろう、朝田さん……」
 不意に、恭二の左手が、トレーナーの下端を掴んで捲り上げようとした。詩乃は反射的に右手を動かし、それを阻もうとしたが、途端に一際強く注射器が胸元に押し付けられた。
「お願い、動かないで、朝田さん。この世界の、最後の思い出は、きれいなものにしようよ」
 ビクリと体を竦ませた詩乃の右手を元の位置に戻させ、恭二は再びトレーナーを脱がせはじめた。布の端が胸を通り過ぎ、首もとに達したところで一瞬だけ注射器が離れ、今度はむき出されたわき腹へと押し当てられる。
 詩乃の両腕を上げさせると、恭二は力任せにトレーナーを引っぱり、手から抜き取った。その下は、黒のタンクトップ一枚しか身につけていない。
 恭二の視線は、薄い布地を押し上げる膨らみへと間近から注がれ、詩乃はそこに物理的な圧力を感じた。
「……朝田さん……朝田さん……朝田さん……」
 ぶつぶつとそれだけを繰り返しながら、恭二は左手を伸ばし、詩乃の胸の側面を撫でた。食い縛られた歯の隙間と鼻から、ふっ、ふっ、と荒く空気が吐き出され、その生暖かい感触を胸元に感じたとたん、今までに倍する生理的嫌悪感が詩乃の全身を貫いた。
 しばらく布の上を蠢いいていた恭二の手は、ついにタンクトップの中に潜り込むと、それを一気に首の下まで引っ張り上げた。素肌が剥き出される感覚に、圧倒的な恐怖のなかにも耐えがたい羞恥を感じ、詩乃はぎゅっと目をつぶると顔をそむけた。
 恭二の視線が肌の上を這い回る感触は、まるで小さな虫が歩いているかのようだった。ついに怒りと悔しさが抑えがたく湧き上がり、涙に形を変えて詩乃の目尻に滲んだ。
 しかし恭二はそれがまるで目に入らない様子で、わななく声を漏らした。
「ああ……朝田さん……きれいだ……凄くきれいだよ……」
 同時に、恭二の指先が直接肌を撫でた。皮膚のささくれが引っかかるたびに、小さく鋭い痛みが走る。
「朝田さん……僕の、朝田さん……ずっと、好きだったんだよ……学校で……朝田さんの、あの事件の話を……聞いたときから……」
「……え……」
 恭二のその言葉が、わずかなタイムラグを伴って意識に届いた瞬間、詩乃は思わず目を見開いていた。
「そ……それって……どういう……」
「好きだった……憧れてたんだ……ずっと……」
「……じゃあ……君は……」
 そんな、まさか、と心のなかで呟きながら、詩乃は消え入るような声で尋ねた。
「君は……あの事件のことが、あったから……私に、近づいたの……?」
「そうだよ、もちろん」
 恭二は左手と同時に注射器の先端を用いて詩乃の上半身をもてあそびながら、熱っぽく頷いた。
「本物のハンドガンで、悪人を射殺したことのある女の子なんて、日本中探しても朝田さんしかいないよ。ほんとに凄いよ。言ったでしょ、朝田さんには本物の力がある、って……僕の理想なんだ、って。愛してる……愛してるよ……誰よりも……」
「……そん……な……」
 ――なんという乖離。なんという隔絶だろう。
 眼前の少年のことを、一度は、この現実世界で肉親を除いて唯一人心を許せる存在とも信じたのだ。しかし――彼の精神は、詩乃と同一の世界にあるものではなかった。そもそもの最初から、遠く、恐ろしく遠く隔たっていたのだ。
 ついに、詩乃の心を黒く深い絶望の水が満たした。視覚、聴覚、五感のすべてが意味を喪い、世界が遠ざかっていった。
 詩乃は、全身の力を抜いた。
 焦点を失ってぼやけた視界のなかに、覆いかぶさる恭二の両の目だけが、黒い穴のように浮かんでいた。まったく光のない、闇の世界に繋がった通路にも似たその目は――
 あの男の、目だ。
 ついに戻ってきたのだ。夜道の物陰、戸棚の隙間、そして《死銃》のフードの奥、あらゆる暗がりに隠れて機会を伺っていたあの男が。
 指先が、すうっと冷たくなる。末端から、体と意識の接続が切れていく。魂が縮小していく。
 肉体という殻の最奥、暖かく狭い暗闇のなかで幼い子供に戻った詩乃は、ぎゅっと手足を縮めて丸くなった。もう、なにも見たくなかった。感じたくなかった。
 いままで十六年を過ごしてきた、あまりに冷たく、過酷な世界。それは、顔も知らない父親を奪い、母親の心を奪い、更なる悪意を差し向けて詩乃の魂の一部を連れ去った。
 珍しい動物に向けるような興味と、それを上回る嫌悪を隠した大人たちの視線。同年代の子供たちの、容赦ない悪罵。
 それに飽き足らず、この上なおも詩乃から奪い去ろうとするこの世界を、もう唯一の「現実」とは認めたくなかった。
 そう――これは現実ではない。無数に重なった世界の、たったひとつの相で起きている取るに足らない出来事でしかない。きっと、それらの世界のうちには、「全てが起きなかった世界」もあるはずだ。
 新川恭二と知り合わず、郵便局の事件も起きず、父を殺した交通事故も起きずに、平凡だが幸せな暮らしを送っている朝田詩乃も、どこかの世界にはいるに違いない。闇のなかでぎゅっと手足を縮め、小さく凝固した無機物へと変化しながら、詩乃の魂はひたすら暖かい光のなかで笑っている自分の姿を追い求めた。
 水晶発振子が息絶える直前の計算機のように、詩乃の思考も駆動力を失っていく。
 残されたわずかな意識のなかで、詩乃はふと、微かなアイロニーを感じた。
 現実の過酷さに耐え切れず、夢想のなかに逃げ込もうとしている自分は、ある意味では新川恭二の相似形だ。
 学校での苛め、両親の期待、受験の重圧、そのような「現実」を放棄して、恭二は仮想世界に救済を求めた。仮想世界において最強という称号を手にすることができれば、それは現実世界における自分という虚ろな穴を埋めてあまりある価値を持つと信じた。しかし、その望みすらも絶たれて、彼は、壊れた。
 いったい、仮想世界とは何なのだろう。
 人間の持ちうる時間は有限だ。「現実」を薄めてまで、いくつもの「架空」を生きることで、何を手に入れようというのだろうか。
 詩乃も、ガンゲイル・オンラインという名の世界において恭二と同じく強さを求めた。そして、彼があれほど焦がれた最強の座を手に入れた。しかし――
 血と火薬の匂いがする記憶の沼から伸びた冷たい手は、いまついに詩乃を捕らえ、連れ去ろうとしているのに、それに対して詩乃は何一つ抵抗できない。目を開けることすらできない。すべては、無駄だったのだ。
 深い水底から浮かび上がる小さな泡のように途切れ途切れの思考のなかで、ふと思う。
 あの少年は、どうなのだろうか。
 二年間ものあいだ、仮想の牢獄に捕えられ、そこで二人の命を奪うことになったというあの少年。長い幽閉の中で、大事な人を失うこともあっただろう。彼も、悔いているのだろうか。自分から多くのものを奪った仮想世界を、憎んでいるのだろうか。
 遠い谺のように、あの少年の言葉がよみがえる。
 (でもな、シノン)
 (戦いつづけることは、できる)
 ――君は強いね、キリト。
 深い闇の底で、詩乃はぽつりと呟いた。
 ――せっかく助けてもらったのに……無駄にしちゃって、ごめんね。
 キリトは、現実に戻ったらすぐに駆け付けると言っていた。あれから何分経ったかはわからないが、どうやら間に合いそうになかった。彼は、抵抗のあともなく殺された詩乃を見たら、どう思うだろうか。それだけが少しだけ気がかり……
 そこまで考えたとき、連鎖反応のように、ある危惧がかすかな灯となって闇を照らした。
 キリトと遭遇したら、新川恭二はどうするだろう。逃げるか、諦めるか……それとも、手に持った注射器を、彼にも向けるだろうか。
 自分がここで死ぬのは、定められた代償として受けいれなくてはならないのかもしれない。
 しかし――あの少年を巻き添えにするのは――それは――。
 それは、別の問題だ。
 
 だからってもう、どうにもならないよ。
 横たわって手足を縮め、目と耳を塞いだ幼い詩乃が呟く。その傍らにひざまずき、細い肩に手を置きながら、サンドイエローのマフラーを巻いたシノンが囁きかける。
 私たちはいままでずっと、自分しか見てこなかった。自分のためにしか戦わなかった。だから、新川君の心の声にも気付くことができなかった。でも――もう、遅すぎるかもしれないけれど、せめて最後に一度だけ、誰かのために戦おう。
 詩乃は闇の底でゆっくり目蓋を開けた。目の前に、白く、華奢で、しかしどこか力強い手が差し出されていた。恐る恐る手を伸ばし、その手を握る。
 シノンはにこりと笑うと、詩乃を助け起こした。色の薄い唇が動き、短く、はっきりとした言葉が響いた。
 さあ、行こう。
 二人は闇の底を蹴り、遥か水面に揺れる光を目指して上昇し始めた。

 一度強く目をしばたくと同時に、詩乃は現実世界と再接続を果たした。
 タンクトップは両腕から抜き取られ、上半身は一糸まとわぬ姿になっていた。恭二はふっ、ふっと短く浅い呼吸を繰り返しながら、右鎖骨のあたりに盛んに舌を這わせている。
 右手の高圧注射器は相変わらず詩乃の胸に強く押し当てられ、同時に左手は下に降りて、ショートパンツを脱がせようとしているところだった。薄いブルーの下着がなかば露わになっている。
 以上の状況を、詩乃は瞬時に見て取った。頭のなかは妙に冷えていた。
 ショートパンツがぴったりしたサイズなので、恭二はかなり苦戦しているようだった。苛立たしげに左手が動き、布地をぐいぐいと引っ張っている。
 その力に合わせ、引き摺られたように装って、詩乃は体を左に傾けた。途端、ずるりと注射器の先端が滑り、詩乃の体から離れてシーツの上に突き立った。
 その瞬間を逃さず、詩乃は左手で注射器のシリンダー部を強く握り、同時に右の掌で恭二の顎を強く突き上げた。
 ぐう、と潰れたような声を発して、恭二は仰け反った。体を押さえつけていた重さが消えた。
 右足を恭二の下から引き抜くと、全身の力を込めて、胃のあたりを狙って蹴り上げる。
 しかし、ほぼ腰の下まで引き降ろされていたショートパンツが邪魔をして、思ったよりも力が入らなかった。恭二は再び鈍い声を漏らして体を折りながらも、右手の注射器を手放すまでには至らなかった。
 詩乃は再び右掌を突き出しながら、必死に注射器を引っ張った。このチャンスにこれを奪えなければ、望みは潰える。
 だが、利き手でグリップを握る恭二と、滑りやすい胴を左手で握る詩乃との綱引きは、いかにも分が悪かった。体勢を立て直した恭二は、強引に右手を引っ張りながら、奇声を上げつつ左手を振り回した。
「っ!!」
 その拳が、強く詩乃の右肩を打った。左手からずるっと注射器が抜けると同時に、詩乃はベッドから転がり落ちて、背中からライティングデスクに衝突した。シンプルな構造の机は大きく傾き、抽斗が一つ抜け落ちて、派手な騒音とともに中身を撒き散らした。
 背中を強く打った詩乃は息を詰まらせ、空気を求めて喘いだ。恭二も、ベッドの上でうずくまり、蹴り上げられた下腹部を押さえてうめいていたが、すぐに顔を上げると詩乃を凝視した。
 恭二の両目は大きく見開かれ、唾液で光る唇が大きく痙攣していた。数回、開閉を繰り返したその口から、やがてしわがれた声が流れ出した。
「なんで……?」
 信じられない、と言わんがばかりに、ゆっくり左右に首を振る。
「なんで、こんなことするの……? 朝田さんには、僕しかいないんだよ。朝田さんのこと分かってあげられるのは、僕だけなんだよ。ずっと、助けてあげたのに……見守ってあげたのに……」
 その言葉を聞いて、詩乃は数日前のことを思い出していた。学校の帰りに、遠藤たちに待ち伏せされ、金銭を要求されたとき、通りがかった恭二が助けてくれた――
 それでは、あれは、偶然ではなかったのだ。
 恐らく恭二は連日、下校する詩乃のあとを付け、帰宅するのを見届け、その後家に取って返してGGOにログインし、シノンを待っていたのだ。
 妄執――としか言いようがない。彼の危さをかすかには感じながらも、その本質をなす狂気にはまるで気付かなかった。ひとと正面から向き合おうとしなかった報いなのか、と、この状況にありながらも詩乃は苦いものを感じていた。
「……新川くん」
 強張った唇を動かして、詩乃は言った。
「……辛いことばっかりだったけど……それでも、私、この世界が好き。これからは、もっと好きになれると思う。だから……君と一緒には、行けない」
 立ち上がろうとして、右手を床に突くと、その指先が何か重く、冷たいものに触れた。
 詩乃は瞬時にその正体を察した。先ほど抜け落ちた抽斗の奥に、ずっと隠していたもの。現実世界における、すべての恐怖の象徴。黒いハンドガン――プロキオンIIIだ。
 手探りでそのグリップを握ると、詩乃はゆっくりと重いモデルガンを持ち上げ、銃口で恭二を照準した。
 銃は、まるで氷の塊から削り出されたかのように、とてつもなく冷たかった。たちまち右手の感覚が鈍くなり、痺れが腕を這い登ってくる。
 それが現実の冷感でないのは、詩乃にもわかっていた。心理的な拒否反応がそう感じさせているのだと、わかってはいても抗うことができなかった。名状しがたい恐怖が、黒い水のように胸の奥に広がっていく。
 染みひとつない白い壁紙が、ゆらゆらと水たまりのように揺らいで、その奥からヒビの入った灰色のコンクリートが浮き上がってくる。フローリング調の床は色褪せたグリーンのリノリウムに、出窓は木製のカウンターにそれぞれ変貌し、気付けば詩乃は古びた郵便局の中にいる。
 照星の中央に捉えた恭二の顔も、突然ぐにゃりと溶け崩れる。肌が脂じみた土気色になり、深い皺が刻まれ、罅割れた唇のあいだから黄ばんだ乱杭歯が剥き出される。右手に握られていた注射器は、いつしか鈍く黒光りする旧式の自動拳銃へと変化している。そして――詩乃の手にある銃も、また。
 このあと出現するであろう光景を予想し、詩乃は竦んだ。突き上げられるように胃が収縮し、背中の筋が固くこわばる。
 嫌だ。見たくない。今すぐ、右手の黒星を投げ捨て、逃げ出したい。
 でも、ここで逃げたら、何もかもが無駄になる。命と同時に、おなじくらい大切なものも無くしてしまう。
 この五年間、何度となく銃を握り、恐怖の記憶と向き合ったこと。死銃の影に怯えながら、スコープを覗き、トリガーを引いたこと。それらの戦いが、結果をもたらすことは永遠にないのかもしれない。しかし――
 戦いつづけることは、できる。
 詩乃は軋むほどに奥歯を噛み締め、親指で銃のハンマーを起こした。硬く、密度のある音に切り裂かれるように、幻は一瞬にして消え去った。
 ベッドの上で膝立ちになった恭二は、向けられたプロキオンIIIに気圧されたように、わずかに後ずさった。怯みのせいか、激しく瞬きを繰り返す。
 その唇が動き、掠れた声が流れた。
「……何のつもりなの、朝田さん。それは……それは、モデルガンじゃないか。そんなもので、僕を、止められると思うの?」
 詩乃は左手をデスクの縁にかけ、ふらつく脚に力を込めて立ち上がりながら、答えた。
「君は、言ったよね。私には、本当の力がある、って。モルターレも同じことを言っていた。昔、ゲームの中でたくさん人を殺したから、自分には本物の力があるんだ、って。なら、私にも……ううん、モルターレなんか問題にならない力が、私にはあるはずだわ。なぜなら、私は、この現実世界でほんとうに人を撃ち殺したんだもの」
「…………」
 恭二は紙のように白くなった顔を強張らせながら、更に退がる。
 わずかに腰をかがめ、左手で床からトレーナーを拾い上げるとそれで胸を覆って、詩乃は言葉を続けた。
「だから、これはモデルガンじゃない。引鉄をひけば弾が出て、君を殺す」
 恭二をポイントしたまま、じりじりと足を動かし、床を横切ってキッチンへと向かう。
「ぼ……僕を……ぼくを、ころす……?」
 うわ言のように呟きながら、恭二はのろのろと首を振った。
「朝田さんが、ぼくを……ころす……?」
「そう。次の世界に行くのは、君ひとりだけ」
「やだ……嫌だ……そんなの……嫌だ……」
 恭二の眼から、すうっと意思の色が抜け落ちた。ぼんやりとした顔で宙を見つめながら、ぺたんとベッドの上に正座するように座り込む。
 右手も弛み、高圧注射器が半ば滑り落ちているのを見て、詩乃は一瞬、この機会にそれを奪うべきか迷った。しかし、刺激すると今度こそ理性をかなぐり捨てて襲い掛かってくるような気がしたので、そのままゆっくりと移動を続け、キッチンへと踏み込んだ。
 視界から恭二の姿が消えた途端、詩乃は床を蹴り、ドアへと走った。
 わずか5メートルほどの距離が、とてつもなく長かった。極力足音を立てないよう、しかし限界まで大股でキッチンを走り抜けて、上がり框に達したその時。
 踏んだマットが勢い良く滑り、詩乃は体勢を崩した。バランスを取ろうと振り回した右手からモデルガンが飛んで、シンクの中に落下して派手な音を立てた。
 どうにか倒れるのは堪えたものの、左膝を床に打ち付け、激痛が走った。それでも、一杯に体を伸ばし、右手でドアノブを握った。
 しかし、ドアは開かなかった。ロックノブが横に倒れているのに気付き、歯噛みをしながらそれを垂直に戻す。
 カチリという開錠音が指先に伝わったのと、ほとんど同時に――
 後ろに投げ出していた右足の踝を、冷たい手がぐっと握った。
「!!」
 息を飲みながら振り向くと、四つん這いになった恭二が、魂の抜け落ちた顔のまま、両手で詩乃の足を捕らえていた。注射器は見当たらない。
 振りほどこうと無茶苦茶に足を動かしながら、詩乃は必死に手を伸ばし、ドアを開けようとした。だが、指先はノブに触れたものの、それを掴むことはかなわなかった。恭二が凄まじい力で詩乃の足を引っ張ったのだ。
 ずるりと数十センチもキッチンに引き込まれたが、詩乃は左手で上がり框の段差を掴み、抵抗した。
 ここからなら外に声が届く、そう思って叫ぼうとしたが、喉の奥が塞がってろくに空気を吸い込めず、出たのは頼りない掠れ声だけだった。
 恭二の力は常軌を逸していた。詩乃とほとんど背の違わない、細いその体のどこに、と思うほどの膂力で引き摺られ、左手が外れた。その途端、詩乃は勢い良くキッチンの奥に引き込まれた。
 たちまち、恭二の体が圧し掛かってきた。右手を握り、顎を狙って突き上げたが、わずかに掠ったところを恭二の左手に掴まれた。万力のような締め付けに手首が軋み、激痛が頭の奥で火花を散らす。
「アサダサンアサダサンアサダサン」
 その奇妙な音が、恭二の口から漏れる自分の名前だとはしばらく気付かなかった。唇の端から白く泡立った唾液を垂らし、両目の焦点を失った恭二の顔が降ってきて、反射的に首を傾けて避ける。
 左耳の下から、頬、首筋にかけて生暖かく濡れた器官が激しく蠢く感触に、途方も無い嫌悪感が疾るが、必死にこらえる。武器になるものがないかと左手で床を探るものの、何も触れない。
 諦めずに頭上方向に伸ばした指先が、つるりとした壁に当たった。いや、壁ではなく、シンク下部の収納だ。そのドアを開けることができれば、内側のポケットにキッチンナイフと包丁が並んでいる。
 しかし、必死に振り上げた指先は、あと数センチ届かない。左足で床を蹴って体を摺り上げようとしたが、その足は恭二の右手に捉えられ、脇の下に抱えこまれてしまう。
 詩乃の腰を引っ張り上げ、恭二は右手をショートパンツのギャザー部分に掛けた。容赦ない力で引っ張られ、前ボタンが弾け飛んでユニットバスのドアに当たり、乾いた音を立てた。
 その音は何かの決壊を感じさせてわずかに怯んだが、詩乃は歯を食い縛り、左手の指を恭二の顔に突き立てた。爪を短く手入れしていることが今ばかりは悔やまれたが、思い切り力を込めるとそれでもわずかに皮膚が抉れ、恭二はくぐもった声を上げて仰け反った。
 しかし、力が抜けたのは一瞬だった。赤い筋に囲まれた右目を血走らせ、恭二は獣じみた吼え声とともに、唾液にまみれた口を大きく開いた。
 牙にも似た上下の歯を剥き出して、詩乃の肌を噛み裂こうとするかのように顔を近づけてくる。再び左手で退けようとするが、その手首をも恭二の右手に捕らえられてしまう。
 両手をがっちりと押さえられたものの、あと少し恭二の顔が近づいたら、逆に首筋に噛み付こうと、詩乃が口もとを緊張させた――その時だった。
 いつドアが開いたのか、冷たい空気の流れが詩乃の肩を撫でた。恭二がさっと顔を上げ、詩乃の後方を見やった。その目と口が、ぽかんと丸く広がった。
 と思った次の瞬間、黒い颶風のように走りこんできた何か――誰かが、恭二の顔面に膝をめり込ませた。
 どどっと音を立て、ひとかたまりになって奥の部屋に転がり込んだ恭二と謎の闖入者を、詩乃は唖然として見つめた。
 鼻と口から血を流して倒れた恭二を、見知らぬ若い男が押さえ込んでいた。
 やや長めの黒い髪。同じく黒のライダージャケット。咄嗟に、アパートの他の部屋の住人かと思ったが、男――というより少年がわずかに振り返り、叫んだとき、詩乃には彼の正体が分かった。
「早く逃げろシノン! 助けを呼ぶんだ!」
「キリ……」
 呆然と呟いてから、詩乃は慌てて体を起こした。素早く立ち上がろうとしたが、脚が言うことを聞かない。
 シンクの縁に手を掛け、どうにか体を引っ張り上げた。キリトが来たということは、すぐに警察も現われるはずだ。ふらつく脚を叱咤しながら、数歩ドアに向かって走り寄ったところで――
 詩乃は重要なことを思い出した。
 恭二は、致命的な武器を持っている。それをキリトに警告しなくてはならない。
 振り返り、注射器が、と叫ぼうとした時。
 押さえ込まれていた恭二が、完全に理性を失った、獣のような咆哮を轟かせた。弾かれるようにキリトの体が吹き飛び、二人の体勢が入れ替わった。
「お前……おまえだなああああ!!」
 恭二の絶叫は、巨大なスピーカーがハウリングを起こしたような、鼓膜を劈くほどの音量だった。
「僕のシノンに触るなああああああッ!!」
 体を起こそうとしたキリトの頬に、恭二の左拳が食い込み、鈍い音を立てた。同時に右手がジャケットのポケットに差し込まれ、あの禍々しい銃型の注射器がつかみ出された。
「キリト――ッ!!」
 詩乃が叫ぶのと、
「死ねええええええッ!!」
 恭二が吠えるのは同時だった。
 高圧注射器が、キリトの胸、ライダージャケットの隙間のTシャツに突き立てられ、
 ブシュッ!! という、小さく、鋭く、しかし聞き逃しようのない音が響き渡った。
 それは、恐ろしいことに、高性能の消音器を装着した銃の発射音に酷似していた。
 もちろん、詩乃が知っているのはあくまでガンゲイル・オンライン内の仮想の銃器が発するサウンドエフェクトであり、実際のサイレンサーがどのような音を立てるものなのかは知る由もない。しかし、耳に染み付いたその音は、詩乃にとっては立ち向かうべき脅威をあらわすものだった。気付いたときには、足が床を蹴っていた。
 数歩でキッチンを横断し、部屋に駆け込みざま、無意識のうちにもっとも効果的な武器となりそうなもの――テーブルの上のオーディオプレイヤーに視線を走らせていた。姿勢を低くし、右手でそのハンドルを掬い上げる。
 詩乃が長年愛用してきたその機械は相当の年代物で、最近の壁掛け式プレイヤーと比べればいかにも巨大だった。3キログラムは下るまいという金属の直方体の重量を、腰で支えて後方に勢い良く振り回し――
 陶酔した笑みを口もとに浮かべたまま、きょとんとした目つきで顔を上げた恭二の右側頭部目掛けて、一回転させた体の重さごと、思い切り叩きつけた。
 衝突の瞬間の音も、手応えも、ほとんど感じなかった。しかし、ハンドルを留めていたボルトが折れ、詩乃の手から離れたプレイヤーと恭二の体が一緒に吹き飛んで、1メートルほど離れたベッドのパイプの角に側頭部から激突したときの重い衝撃音ははっきりと耳の底に残った。
 半秒ほどの時間差を置いて頭の右側と左側を強打された恭二は、呻き声を上げながらうつ伏せに倒れ込んだ。その右手が緩み、高圧注射器が半ば滑り落ちた。
 果たしてその器具が、薬品を連続して発射できるものなのかどうか定かではなかったが、詩乃はとりあえずそれを恭二の手からもぎ取った。持ち主は白目を剥き、低い唸り声を漏らし続けているが、これ以上動く様子は無い。
 ベルトか何かを使って手を縛ったりするべきかどうか一瞬迷ったが、その前にやることがあった。詩乃は振り向くと、
「キリトっ……!」
 細く叫びながら、床に横たわったままの少年に向かって屈み込んだ。
 どこか、ゲーム内のキャラクターに共通した線の細さを持つ少年は、薄く開けた目で詩乃を認めると、掠れた声を漏らした。
「やられた……まさか、あれが……注射器だったなんて……」
「どこ!? どこに打たれたの!?」
 注射器を傍らに放り投げ、詩乃はキリトのライダージャケットのジッパーを千切るような勢いで引き降ろした。
 救急車を呼ばなければ、その前に応急処置を、でも胸の止血なんてどうやって――口で吸い出す――!? 等々と、混濁した思考が次々と浮かび、指先を震わせる。
 ジャケットの中の、色褪せたブルーのTシャツの一部、ちょうど心臓の真上と思しきあたりに、不吉に黒ずんだ染みがあった。注射器が発射した薬液の「貫通力」がどの程度なのかは分からないが、おそらく薄いシャツの布地で阻めるようなものではないと思われた。
「こ……このへん……」
 キリトが顔を歪めながら指先で染みのあたりを押さえた。その手を引き剥がし、詩乃は大きく息を吸いながら、シャツの裾をジーンズから引っ張り出して大きく捲り上げた。
 男にしては色が白く、つるりとした腹と胸が露わになった。その中央やや右寄り、染みがあったまさにその場所に――妙なモノが張り付いていた。
「……!?」
 詩乃は唖然としてそれを凝視した。
 直径3センチほどの円形。薄い銀色の円盤のまわりに、半透明のゴムでできた吸盤のようなものがはみ出している。円盤の縁から、何らかのソケットらしき突起が伸びているが、そこには何も接続されていない。
 金属円の表面は全体的に濡れ、一本のしずくが下方に流れていた。透明なその液体が、恐らく恭二の言っていた「サクシニルコリン」なる致命的な薬品なのだと思われた。
 詩乃は慌てて床を見回し、ティッシュのボックスを見つけて二枚抜き取ると、慎重にその液体を拭った。数センチの距離まで顔を近づけると、謎のパッチの周囲の肌を仔細に眺め回し、高圧流が侵入したあとがないか確かめる。
 いくら凝視しても、キリトの胸には傷ひとつ見つからなかった。おそらく高圧注射器の先端は、Tシャツ越しにこの直径数センチの金属円にあてがわれ、発射された薬品はすべて強固な壁に阻まれたらしかった。ためしにパッチの上から手を当てると、どくんどくんと、速いが力強く動き続ける心臓のビートが伝わってきた。
 詩乃はぱちぱちと瞬きし、視線を上げると、相変わらず目を閉じてうめいているキリトの顔を見た。
「ねえ……ちょっと」
「うう……駄目だ……呼吸が……苦しい……」
「ねえ、ちょっとってば」
「……ちくしょう……咄嗟に遺言なんて……思いつかないぜ……」
「これ、この貼り付いてるもの、何なの?」
「……え?」
 キリトは再び瞼を開けると、自分の胸を見下ろした。訝しげに眉をしかめ、持ち上げた右手の指で金属円をなぞる。
「……ひょっとして……注射は、この上に?」
「なんか、どうも、そうみたいよ。何なのよこれは?」
「……ええと……多分、心電図モニターの電極……だと思う……」
「は……はあ? 何でそんな……あんた、心臓悪いの……?」
「いや、ぜんぜん……。《死銃》対策でつけてもらってたんだけど……そ、そうか、焦って引っ張ったから、コードが抜けて一個残ったのか……」
 キリトはふううっと大きく息を吐くと、呟いた。
「まったく……、脅かしてくれるなあ」
「そりゃあ……」
 詩乃は両手でぎゅっとキリトの首を掴むと、締め上げた。
「――こっちの台詞よ! し……死んじゃうかと思ったんだからね!!」
 叫んだ途端、緊張が一気に抜けたのか、目の前がすうっと暗くなった。頭をぶんぶんと振ってから、少し離れた場所にうつ伏せに倒れたままの恭二に視線を向ける。
「彼は……大丈夫か?」
 キリトに言われ、おそるおそる手を伸ばし、投げ出された恭二の右手首を取った。幸い、こちらもはっきりとした鼓動が伝わってきた。拘束すべきか、と改めて思ったものの、瞼を閉じたどこかあどけない恭二の顔をそれ以上見ていることが出来ず、詩乃は目をそむけた。恭二のことを、今はもう考えたくなかった。怒りも悲しみも感じなかったが、ただ、虚ろなものが胸に広がっていた。
 ぺたりと床にしゃがみ込んだまま、詩乃は床に転がった高圧注射器――あるいは真の《死銃》を数秒間、漠然と見つめた。やがて口を開き、ぽつりと呟いた。
「とりあえず……来てくれて、有難う」
 キリトは、見覚えのある片頬だけの笑いをかすかに浮かべると、首を振った。
「いや……何もできなかったし……それに、遅くなって悪かった。警察が、なかなか言うことをわかってくれなくて……。――その……ケガは、ない?」
 詩乃はこくんと頷く。
「そうか。ええと……あの、シノン」
 先ほどから不自然に顔をそむけていたキリトが、頬を赤くしながら言った。
「ふ……服を着たほうが……」
 ぱちくりと瞬きしてから、ようやく詩乃は自分がボタンの取れたショートパンツしか身に付けていないことに気付いた。慌てて片手で胸を覆い、床に落ちたままだったタンクトップを拾い上げたそのとき、突然両眼から零れるものがあった。
「あ……あれ……」
 頭のなかは、真綿を詰められたようにぼうっとして何も考えられないのに、頬を伝う涙は勢いを増し、次々と滴って、胸に抱いたタンクトップに染み込んでいった。
 詩乃は口を閉ざし、身動きもせず、ただ涙が溢れるに任せた。何か喋ろうとしたら、その途端に大声で泣いてしまうだろうと思った。
 キリトも無言のまま動こうとしなかった。
 やがて、遠くからサイレンの音が近づいてくるのに気付いたが、涙は枯れる様子もなかった。密やかに、次々と大粒の雫をこぼしながら、詩乃は胸を満たす空虚さの源が、深い喪失感であることを強く意識していた。


(第五章 終)
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