ソードアート・オンライン3 『死銃』
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第五章 「死を呼ぶ銃」
「ムカつく!」ガツン!「……あの男!」 スニーカーのつま先でブランコの鉄柱を蹴り飛ばしながら、詩乃は吐き捨てた。 自宅のアパートから程近い、小さな公園の片隅。すでに空は紺色が濃くなり、またそもそも遊具ふたつに砂場がひとつの公園とは名ばかりの場所ゆえに、日曜ではあるが子供の姿は無い。 立ったままの詩乃の隣で、ブランコの片方に腰掛けた新川恭二が目を丸くした。 「……め、珍しいね、朝田さんがそんな……ストレートなこと言うの」 「だってさ……」 黒のジャンパースカートのポケットに両手をずぼっと突っ込み、鉄柱に背中を預けて、詩乃は唇をとがらせる。 「……傲慢で、皮肉屋で、セクハラやろーで、だいたいGGOに来てまで剣で闘わなくてもいいじゃないのよまったく……」 ブツブツと「あの男」に対する怒りを口にするたび、足元の砂利を一つずつ蹴飛ばす。 「その上最初は女の子のフリして、私に店を案内させたり装備選ばせたりしたのよ! 危くお金まで貸しちゃうところだったわよ。あ〜〜もう、アイツにパーソナルカードまで渡しちゃったし……」 ふと言葉を切って隣を見下ろすと、恭二は驚いたような気がかりなような微妙な顔をしていた。 「……なに? 新川君」 「いや……珍しいって言うか、初めてだから……朝田さんが、他人のことをそんなに色々言うの……」 「え……そう?」 「うん。朝田さん、普段は……人にぜんぜん興味ないって感じだから……」 「…………」 言われてみればそうかも知れない、と思う。そもそも人と積極的に関わろうとすることなど皆無だし、否応無くちょっかいを出してくる相手――遠藤たちのような――についても、煩わしいとは思うが、それ以上の感情を持つのはエネルギーの無駄と考えている。 そもそも詩乃は自分の問題だけで手一杯で、他人のことを考えている余裕はない。――のであるが、あの男ことキリトは妙に詩乃の癇に障り、初接触から24時間以上が経過した今でも意識の何割かを占領し続けている。 だがそれも当然と言えば当然だ。GGOであれほど挑発的な態度を取られたのははじめてだし、一回戦後のインターバルタイムにいきなり髪を触られたときは、C4プラスチック爆薬のごとく激発すると同時に深く動転してしまって、その後の二回戦では着弾予測円が定まらずに狙撃弾を二発も外した。 「……私、怒りっぽいのよ、これでも」 つま先が届く範囲内の、最後の小石を思い切り蹴り飛ばしながら、詩乃は呟いた。 「ふうん……そうなんだ」 恭二はなおもじっと詩乃を見ていたが、やがて何かを思いついたように目を見開き、勢い込んで言った。 「じゃあさ……どっかフィールドで待ち伏せて狩る? 狙撃がよければ僕囮やるし、あ、でもやっぱり恨み晴らすなら正面戦闘がいいよね。腕のいいマシンガンナー、2、3人ならすぐに集められるよ。それとも、ビームスタナー使ってMPKするのもいいかも」 詩乃は少々呆気に取られてぱちぱちと瞬きした。あれこれとPKプランを捲し立てる恭二の言葉を、右手を少し上げてどうにか遮る。 「え、えっと……ううん、そういうんじゃないの。何て言うか……ムカつくけど、戦い方だけは馬鹿正直な奴だからさ。私も、公平な条件で、堂々とぶっとばしてやりたいのよ。そりゃ昨日は負けたけど……あれでアイツの戦法もわかったし、幸いリベンジのチャンスもあるしね」 スカートのポケットから携帯を引っ張り出し、時刻を確認する。 「あと3時間でBoB本大会だわ。その舞台で、今度こそ頭に風穴開けてやるんだ」 右手の人差し指をまっすぐ夕闇の彼方に向ける。照準線の先に、昇り始めた赤い月を捉える。
昨夜の、バレット・オブ・バレッツ予選トーナメントKブロック決勝。詩乃/シノンの前に現われたのは、意外にも初心者のはずの――しかし心のどこかではそう予感していたとおり――あの男、キリトだった。 詩乃は一回戦から準決勝までを、すべてヘカートIIの一撃のみで勝ち進んでいた。敵との距離が最短200メートル、最大でも500メートルという開始条件は、千以上のロングレンジを得意とするスナイパーにとっては圧倒的に不利だが、その一方で距離が近ければ対物ライフルの威力は飛躍的に増加する。 200メートルあれば、接近する敵を発見・照準し、どんなボディアーマーでも防護フィールドでも防御不可能の必殺弾を叩き込む自信はあった。――二回戦だけは、目の前に迫った敵を三発目でどうにか撃破したわけであるが。 ゆえに、メインアームに常識外のフォトンソードを装備し、サブにはハンドガンしか持たない超近距離仕様のキリトとの決勝戦は、それまでのどの戦いよりも楽勝となる、はずだったのだ。 乱数決定されたバトルフィールドは「旧市街地G」、前文明のビル街の遺跡だった。障害物が多数林立する、狙撃には不利な地形だったが、幸いフィールドの真ん中を巨大なハイウェイが貫いていた。 シノンは視界に敵の姿が無いことを確認すると、即座に長い階段を駆け上り、ハイウェイに出た。広い道の両側は背の高いフェンスに囲まれ、登ってくるには一つ存在するジャンクションか、二つの非常階段のいずれかを使うしかない。シノンはハイウェイの一方、不可視障壁にさえぎられたギリギリの端で伏射姿勢を取った。その場所からなら、三つの入り口のどこからキリトが登ってこようとも、即座に狙撃できるはずだった。 だが、キリトは予想外の場所から攻撃を仕掛けてきた。 ハイウェイの左側、相当に離れた背の高いビルの屋上からすさまじい距離のジャンプを敢行し、伏せるシノンに向かって、ダメージ覚悟で落下してきたのだ。あれには完全に裏をかかれた。 だがキリトもひとつミスをした。GGO世界の空は常に黄色い薄雲に覆われているために、太陽の位置を確認し忘れるのだ。キリトが選んだビルの背後に太陽があり、小さな影が一瞬だけハイウェイの路面に流れたのをシノンは見逃さなかった。 咄嗟に膝立ちになり、シノンはヘカートIIを空に向けた。その時点でキリトはかなり肉薄しており、シノンが気付いたとみるや左手のファイブセブンで牽制してきた。一発が左足に命中したが、シノンは微動だにせず、照準に黒い姿を捉えた。 その瞬間勝利を確信した。飛翔中は軌道を変えるすべがない。ライフル弾を回避することは不可能だ。 グリーンの着弾予測円は、シノンの過剰な気負いのせいかピンポイントまでには収縮しなかったが、それでもすべてキリトの胸部中央に収まった。シノンはトリガーを絞り、獰猛な女神は轟音とともに致命的な一弾を吐き出した。 だが。 同時に右手の光剣を展開したキリトは、そのエネルギーの刃を右下から左上におそるべき速度で払い――こともあろうに、音速を遥かに超える50口径BMG弾を真っ二つに切り飛ばしたのだった。シノンの目には、左右に分かれて空しく飛んでいく光の欠片がはっきりと見えた。 歯を食い縛り、次弾を装填し終わったその時には、キリトは地響きを立ててすぐ眼前に着地していた。アスファルトがびしびしとひび割れ、あの男も相当のダメージを受けたはずだったが、それをまるで顔に出さずに左手でヘカートの銃口を弾き、同時に右手のフォトンソードをシノンの首筋へ―― そこでぴたりと動きを止めた。 シノンは掠れた声で言った。「……何のつもり。さっさと斬ったら」 キリトは冷静な声で答えた。「ご免、女の子は斬らないんだ。リザインしてくれないかな」
「〜〜〜〜〜〜!!」 思い出しただけで昨夜の屈辱がリアルに再生され、更に石ころを蹴っ飛ばそうと足元を見渡したが、残念ながらもう全部遠くの植え込みへと移動してしまったあとだった。かわりに踵で、背後の鉄柱を思い切り蹴り付ける。 「……覚えてなさいよ、ぜーったいにクツジョク二倍返しにしてやるから……」 ふうふうと鼻息を荒くしていると、恭二が立ち上がり、なおも気がかりそうに眉を寄せながら詩乃の顔を覗き込んだ。 「……な、なに?」 「その……大丈夫なの? そんなことして……」 恭二の視線が詩乃の右手に落ちる。見ると、握った拳から人差し指と親指がぴんと伸び、無意識のうちに拳銃を模した形を作っていた。 「あ……」 慌てて手を開く。確かに、いつもなら、そんな仕草によって「銃」を意識した途端に動悸がはね上がっているところだ。だが今は、不思議にその気配はなかった。 「う、うん。なんか……怒ってるからかな、平気だった」 「そう……」 恭二は顔を上げ、じっと詩乃の目を見た。不意に両手を伸ばし、詩乃の右手を包み込む。温かく、わずかに汗ばんだ手のひらの感触に、詩乃はおもわずぎゅっと肩を縮め、うつむいた。 「ど……どうしたの、新川君……急に……」 「なんだか……心配で……。朝田さんが、いつもの朝田さんらしくないから……。その……ぼ、僕にできることあったら、何でもしてあげたいんだ。本大会は、モニタ越しの応援しかできないけど……その他にも、できること、あったら……って……」 詩乃は一瞬だけちらりと視線を恭二に向けた。線の細いナイーブそうな顔立ちの中で、両の瞳だけが、内側の感情を持て余すように熱く光っている。 「い……いつもの私、って言われても……」 普段の自分がどんなふうなのか咄嗟に想起できず、詩乃は呟いた。すると、恭二は両手に力を入れ、熱っぽく言葉を並べた。 「朝田さんて、いつもクールで……超然としててさ、何にも動じないで……僕と同じ目に合ってるのに、僕みたいに学校から逃げたりしないしさ……強いんだよ、すっごく。朝田さんのそういう強いとこ、ずっと、憧れてたんだ。僕の……理想なんだ、朝田さんは」 恭二の熱気に気圧され、詩乃は体を引こうとしたが、背中に当たるブランコの鉄柱がそうさせなかった。 「で、でも……強くなんかないよ、私。君も知ってるでしょう……銃とか、見ただけで、発作が……」 「シノンは違うじゃない」 恭二が更に半歩踏み出してくる。 「シノンは、あんな凄い銃を自在に操ってさ……GGOでももう、最強プレイヤーの一人じゃない。僕、あれが朝田さんの本当の姿だと思うな。きっと、いつか、現実の朝田さんもああなれるよ。だから……心配なんだ。あんな男のことで、怒ったり、動揺してる朝田さんを見ると。僕が……僕が、力になるから……」 ――でもね、新川君。 詩乃は心の中で呟いた。 ――私だって、ずっと、ずーっと昔には、普通に泣いたり笑ったりしてたんだよ。なりたくて、「今の私」になったわけじゃないんだよ。 確かに、現実でもシノンのようになりたい、というのは詩乃の切なる願いだった。しかし、それは銃への恐怖を乗り越えるという意味においてであり、感情を捨てた氷の機械人形になりたいということではない、はずだった。 多分……たぶん、心の底では、もっと普通に……大勢の友達と笑ったり、騒いだりしたいと思っているのかもしれなかった。それゆえに、グロッケンの街角で道に迷った少女を見かけたとき、普段のシノンからは考えられないほどあれこれと世話を焼いたし、ソレが男だったと知って怒りもしたのだ。 恭二の気持ちは素直に嬉しい。嬉しいが、どこか気持ちの照準がずれているように思えた。 ――私が……私が、欲しいのは…… 「朝田さん……」 不意に耳もとで囁かれ、詩乃は目を見開いた。いつの間にか、背後の鉄柱ごと恭二の両腕に包まれていた。 無人の公園はほとんど闇に落ちているが、葉の落ちた街路樹の向こうの道には人通りがある。今の詩乃と恭二を見れば、誰しも恋人同士としか思うまい。 そう考えた途端、詩乃は両手でぐいっと恭二の体を押し返していた。 「…………」 恭二が傷ついたような瞳で詩乃を見た。ハッとして、慌てて言い訳をする。 「ご、ごめんね。そう言ってくれるのは、すごく嬉しいし……君のことは、この街でたった一人、心が通じ合える人だと思ってる。でもね……今はまだ、そういう気になれないんだ。私の問題は、私が戦わないと解決しない、って思うから……」 「……そう……」 寂しそうにうつむく恭二を見て、罪悪感が胸に満ちる。 恭二は、詩乃の過去――あの事件のことを知っているはずだ。彼が不登校となる前に、遠藤たちが全校に喧伝してくれたのだから。それを知ってなお、こんな自分に心を寄せてくれるのなら、それに応え、すべてを差し出すべきなのだろうか、と思わないでもない。恭二が失望し、離れていけば、それは相当の寂しさをもたらすだろうとも感じる。 しかし、なぜか意識の片隅にあの男、キリトの顔がよぎる。あの過剰なまでの自信。己の強さに対する絶対の確信。彼と戦い、勝つために、自分ひとりの強さ、力のすべてをぎりぎりまで絞りつくしてみたい。 そう――今はただ、心を覆い包む恐怖の記憶、その硬く黒い殻を打ち破って自由になりたい。望むのはそれだけだ。その為に、黄昏の荒野で戦い、勝利する。 「だから……それまで、待ってくれる?」 ごくかすかな声で囁くと、恭二は無言のままさまざまな感情の渦巻く瞳で詩乃を凝視したが、やがてこくりと頷き、微笑んだ。ありがとう、と唇だけで呟き、詩乃も笑った。
公園から出たところで恭二と別れ、詩乃は自宅へと急いだ。途中のコンビニエンスストアでミネラルウォーターと、夕食がわりのアロエ入りヨーグルトを買い求める。普段から食事は可能な限りバランスのとれたメニューを自炊するよう心がけているが、三時間を超えるほどのロングダイブ前にあまりしっかりと胃にものを入れるのはいくつかの理由によって望ましいことではない。 かさかさ音を立てる小さな袋を片手に階段を駆け上がり、部屋に入る。ロックノブを回すのももどかしくキッチンを横切って、奥の六畳間へ。壁の時計にちらりと目を走らせる。 BoB本大会が開始される午後九時までにはまだしばらく間があったが、なるべく早くログインし、装備・弾薬の点検と精神集中にたっぷりと時間を費やすつもりだった。 手早くデニム地のジャンパースカートとコットンシャツを脱ぎ、ハンガーに掛ける。上の下着も外して隅のカゴに放り込み、床上にわだかまる冷気に体を縮めながら、タンクトップにだぶっとしたトレーナー、ショートパンツの楽な格好に着替える。 控えめな温度に設定されたエアコンと、加湿器のスイッチを入れると、詩乃はほっと息をつき、ベッドに腰を落とした。コンビニの袋からペットボトルを取り出し、キャップを捻って、冷たい水を少しずつ口に含む。 アミュスフィアの感覚信号インタラプト機能によって、ダイブ中は現実環境からの干渉をほぼ99パーセント排除することができるが、それでも快適なゲームプレイを維持するためには色々とノウハウが必要なことを詩乃は経験から学んでいた。ダイブ前の食事を控え、トイレを済ませておくことは勿論、気温と湿度に気をつけ、ストレスのない服装を心がけることも重要だ。いちど、夏の盛りに、きんきんに冷えた水をがぶ飲みしてからログインしたときは、ニュートラルフィールドでの戦闘中に猛烈な腹痛に見舞われて、異常信号を検知したアミュスフィアによる緊急カットオフの憂き目に遭った。もちろん、おなかをなだめて再度ダイブした時にはすでに死亡のうえ街に転送されていた。 コアなVRMMOゲーマーで、かつ金銭的に相当の余裕がある者は、完全な感覚遮断ダイブを求めて個人用のアイソレーション・タンクを導入したりもするらしい。リラクゼーション施設を兼ねるような高級ネットカフェにはすでにタンクを備えているところも出始めており、詩乃は先月、恭二に「代金はオゴるから」と誘われてその種の店に行ってみたことがある。 ログイン用の部屋は完全な個室で、備え付けのシャワーを浴びたあと、全裸のまま面積の半分を占めるカプセルに入るという手順になっていた。カプセル内部は意外に広く、40センチほどの深さで、比重を調節されたぬめりのある液体が満たされていた。 横たわると体がぷかりと浮かび、首を支えるジェル素材のヘッドレストもほとんど接触感が無かった。壁に掛かっていたアミュスフィアを装着し、重いハッチを占めると、タンク内部は完全な闇と静寂に包まれた。 実のところ、その空間に浮遊しているだけでも充分に興味ぶかい体験だったのだが、GGOで恭二と待ち合わせていたのでそうも行かず、詩乃はVR空間にログインした。 入ってみて驚いたのだが、確かに普段よりも、仮想世界から与えられる五感の情報がわずかにクリアなような気がした。身体感覚が極限まで低下しているので、「インタラプト漏れ」するノイズが無いせいだと恭二は言ったが、理屈はともかく、砂を踏む敵のブーツが立てる音まで聞き取れそうなその感覚は確かに高い料金に見合うだけのことはあるかもしれない、と思ったものだ。 しかし、同時に詩乃はある種の、言葉にしにくい不安を感じていた。 完全に現実の肉体から切り離されることで、逆に向こうのカラダが気になる――とでも言おうか。VRワールドへのダイブ中は、現実の自分は一切の知覚を失って人形のように横たわっているだけであるという事実がもたらす、ごくわずかな危惧をあのタンクは増幅したのだ。 もちろん、「プロトタイプ」「悪魔の機械」ことかのナーヴギアに比べれば、アミュスフィアは過剰なまでの安全対策が施してある。感覚インタラプトもあえて100%には設定されていないし(だからこそアイソレーションタンクが有効なのだが)、音・光・振動その他の刺激によって容易にセーフティが作動し、使用者を現実へと放り返す。 それでも、基本的にダイブ中の肉体は無防備だ。ある意味では睡眠中と大差ないのだが、アイソレーションタンクからログインした時の詩乃は、どうしても首筋にちりちり弾ける不安感を振り払うことができなかった。結論としては、たとえ漏れてくるノイズが少々あろうとも、世界で唯一安心できる場所――自分のちいさな部屋からダイブするのがいちばんだ、ということに落ち着いた。 とりとめのない思考を彷徨わせながら、小さなスプーンを動かしているとヨーグルトのカップはすぐに空になってしまった。シンクでざっと洗って燃えないゴミの袋に放り込む。ユニットバスで歯を磨き、ついでにもうひとつの用事も済ませ、手と顔を洗って部屋に戻る。 「――よし!」 ぴたん、と両頬を叩き、詩乃はベッドにぽーんと転がった。携帯の着信はシェル点滅だけモードにしてあるし、ドアとアルミサッシの鍵も掛けたし、月曜締め切りの宿題も昼間に片付けてある。現実世界のアレコレをとりあえず脳から排除する用意は万端だ。 アミュスフィアを装着し、壁のスイッチに触れて照明を落とす。薄い闇の色に変化した天井に、倒すべき敵の顔が次々に浮かんでは消える。 最後に現われたのは、艶やかな黒髪と紅い唇を持つあの少年――キリトの姿だった。左手にハンドガン、右手にフォトンソードを下げ、片頬に不敵な笑みを浮かべてまっすぐこちらを見ている。 詩乃のからだの奥底に、ポッと闘志の火が灯った。たぶんあの男こそが、殺戮の荒野で捜し求めた最強の敵だ。詩乃に、忌まわしい過去を打ち破る力を与えてくれる、ある意味では――最後の希望。 全力で戦う。そして絶対に倒す。 大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出して、詩乃は目を閉じた。魂をシフトさせるためのキーワードを唱える自分の声は、いつになく強く、はっきりと響いた。 体に対して水平方向にかかっていた重力がふっと消滅し、わずかな浮遊感、次いで天地がぐるんと90度回転してつま先が硬質な床を叩いた。シノンはそっとまぶたを開けた。 真っ先に目に入ったのは、星のない夜空に尾を引いて流れていく巨大な真紅のネオンサインだった。『The Bullet of Bullets!! the ultimate battle royal!!』という立体文字列が、ビルの谷間を埋めつくしている。 グロッケン中央大通りの北端、総督府前の広場にシノンは出現していた。いつもはあまり人影のないエリアなのだが、今日に限っては無数のプレイヤー達が詰め掛けて、飲み物食べ物を手に大騒ぎしている。それも当然、もうすぐ始まるBoB本大会をネタにしたトトカルチョのせいで、今この広場ではGGO内に存在する通貨の半分以上が飛び交っているのだ。 倍率が表示されたホロウインドウを掲げた胴元や、怪しげな極秘情報を売る予想屋のまわりには大勢のプレイヤーが詰め掛けて口々に喚き声を上げている。ふと気になって手近なウインドウに近づき、見上げると、シノンのオッズはかなりの高倍率だった。やはり、昨日の予選決勝で敗退したのが原因だろう。ならばと思ってキリトの名前を探すと、こちらも相当の大穴っぷりだ。 ふん、と鼻を鳴らしてから、いっそ全財産を自分に賭けてやろうかとシノンは思ったが、目的意識の純度が鈍るような気がしてそのままきびすを返し、人込みから離れた。早めにカーゴルームに入り、精神を静めておこうと総督府の建物に向かって歩きはじめたところで、背後から声をかけられた。 「シノン!」 振り向くと、シュピーゲルが手を振りながら駆け寄ってくるところだった。モノトーンのファティーグに身を固めた長身痩躯の男は、興奮のせいかわずかに顔を紅潮させていた。 「遅かったじゃない、心配したよ。……? どうか、したの?」 シノンがかすかに笑みを浮かべたのに気付いて、シュピーゲルは首をかしげた。 「ううん、何でもない。……ついさっきリアルで会ってた人と、すぐにこっちで顔を合わせるのって何だか妙な感じだな、と思っただけ」 「……そりゃあ、現実の僕はこのバーチャル体ほどカッコよくないけどさ。そんなことより、どう、勝算は。作戦とか、あるの?」 「勝算、って言われても……がんばるだけ、としか言えないよ。基本的には索敵・狙撃・移動の繰り返しだと思うけど」 「そりゃ、そうか。でも……信じてるよ、絶対シノンが優勝するって」 「ん、ありがと。君は、これからどうするの?」 「うーん……どこか酒場で中継を見ようと思ってるけど……」 「じゃあ、終わったあとその酒場で祝杯か自棄酒に付き合ってね」 もういちど僅かに微笑みながらシノンが言うと、シュピーゲルは一瞬うつむき、すぐに顔を上げた。どこか切迫したようなその表情に、シノンはぱちくりと瞬きする。 「シノン……ううん、朝田さん」 VR世界でプレイヤー本人の名を呼ぶことがどれほどのタブーなのか知らないはずのないシュピーゲルの言葉に、シノンは今度こそ仰天した。 「な……なに……?」 「さっきの言葉、信じていいんだよね?」 「さっきの、って……」 「待ってて、って言ったよね……? 朝田さんが、自分の強さを確信できたら、その時は、ぼ……僕と……」 「い、いきなり何言い出すの」 かあっと頬が熱くなるのを感じながら、シノンはマフラーの奥に顔を埋めた。だがシュピーゲルは一歩踏み出し、ぐっとシノンの右手首を握った。 「僕……僕、ほんとに朝田さんのことが……」 「ごめん、今はやめて」 少し強い口調で言い、シノンは首を振った。 「今は大会に集中したいの。……でも、嘘を言ったつもりはないよ。多分……たぶんだけど、この大会に優勝できたら……私……」 「……そっか、そうだよね……」 シュピーゲルの手が離れた。 「でも、僕、信じてるから。信じて、待ってるから」 「う、うん。……じゃあ、私、そろそろ準備があるから……行くね」 これ以上シュピーゲルと話していると、大会まで動揺を引き摺りそうな気がして、シノンは体を引いた。 「頑張って。応援してる」 尚も熱っぽく言葉を続けるシュピーゲルに頷きかけ、小さく微笑んでから、くるりと振り向く。総督府のエントランス目指して早足に歩くあいだも、シノンはずっと背中に燃えるような視線を感じていた。 ガラスのゲートをくぐり、打って変わって人気のない建物内に入ると、ようやく肩から力が抜けた。 自分の態度が思わせぶりだったのだろうか、とエレベーターに向かいながら考える。 恭二に好意を持っているのは確かなことだ――と思う。だが正直なところ、今は自分のことだけで手一杯すぎる。 父親の記憶がない詩乃にとって、もっとも強い印象を残す男性というのはすなわち――事あるごとに甦り、発作を誘発する「あの顔」だ。底なし沼のように光のない眼が、周囲の暗闇のいたるところに潜み、詩乃を見ている。 普通の女の子と同じように、彼氏を作って毎晩電話したり、週末に遊びに行ったりすることに憧れる気持ちも無いではない。しかし、今のまま恭二と付き合えば、いつか彼の中に「あの眼」を見てしまうかもしれない。それが恐い。 もし、記憶を呼び覚ますトリガーである「銃」に加え、単に「男性」を見ることでも発作が起きるようになったら――その時は、生活することすら困難になってしまうだろう…… ウイン、という音に顔を上げると、いつの間にかエレベータは地下20階、待機ホールへと到着していた。今は何も考えず、目の前の闘いに集中しよう、そう自分に言い聞かせながら、シノンは勢いよく足を踏み出した。
地上の広場とは逆に、大きなドームにはほとんど人影は無かった。今ここにいるのは、BoB本大会の出場者とその連れだけだ。それも、大半の出場者はまだ到着していないか、すでにカーゴルームに入っていると見えて、中央にわずか10人ほどの姿が見えるだけだった。 シノンがブーツを鳴らしてドーム中央の参加登録コンソールに近寄っていくと、男たちが無言のまま鋭い視線を向けてきた。うち数人とは顔見知りだったが、さすがに殺気立っているのか声を掛けてくる者はいない。 無意識のうちに視線を走らせて黒衣の少年キリトの姿を捜したが、見当たらなかった。開始前に、あの憎たらしい顔に勝利宣言を叩きつけて闘志を掻き立てておこうと思ったのに、残念――などと考えている自分に気付き、眉をしかめる。 待っているのもシャクだったし、とっとと装備の点検をはじめることにして、シノンはコンソールの前に立った。参加登録、と言ってもスキャナに手のひらを押し当てるだけだ。 グリーンの光が一瞬右手を照らすと、目の前にカーゴルームに移動するかどうかを問うウインドウが表示された。イエスボタンに触れると、体を青いライトエフェクトが包み、周囲の光景を消し去った。 出現したのは、黒い金属に囲まれた小さな個室だった。部屋の右側にベンチ。右側にはロッカーが並んでいる。と言っても、実際のアイテム操作は正面に設置されたパネルで行う。 時刻を確認すると、大会開始までにはあと30分近く残されていた。とりあえずパネルに指を走らせ、分身たるヘカートIIを実体化させる。続いて、サブアームのMP7を取り出し、それぞれの弾倉を引き抜いてきちんと装弾されているのを確認する。 スペアマガジンと双眼鏡その他の必需品を装備し、ボディアーマーを身に付けると、所持限界重量はたちまち一杯になった。とりあえず準備はこれで完了だ。 ずしりと重い巨大なライフルを両手で抱き、シノンはベンチに腰を下ろした。まぶたを閉じ、銃身に頬を押し当てると、ひんやりとした硬さが伝わり、頭の芯を冷やしていく。 長い、長い待ち時間が過ぎ去り、ついに大会の開始を予告する人工ボイスが狭い部屋に響き渡るまで、シノンはぴくりとも身動きしなかった。 甘い女性の声が100秒のカウントダウンを行う間も、シノンはずっと目を閉じていた。数字がゼロに近づくにつれ、耳もとで転送エフェクトの唸りが高まっていく。 『2……1……レディ…………ゴゥ!』 ふっと体の下からベンチの感触が消え、一瞬ののち、ざしっと音を立ててブーツが乾いた地面を噛んだ。シノンは眼を見開いた。 夕陽に赤く燃え上がる荒野が、どこまでも無限に広がっていた。
噛み締めた歯のすきまから、細く長く、息を吸い込む。冷たい空気が仮想の体を満たしたところで、同じだけの時間をかけて吐き出す。 そのゆったりとしたリズムに同期して、グリーンの着弾予測円も収縮と拡大を繰り返す。 スコープの中では、ひとりのプレイヤーがうずくまり、潅木の茂みの中をじわじわと移動していた。両手で抱えているのはホウワ89式小銃、サブアームの類がほとんど見当たらず、また全身がやけにごつごつと膨れているところを見ると、武器の重量を最低限に収めて替わりに防護フィールドとボディアーマーに所持容量を注いだ防御型のプレイヤーだろう。頭にもフェイスガードつきの分厚いヘルメットを装着し、まるで巨大な陸亀のようだ。 1200メートル以上の距離があるこの状況では、いかなヘカートIIと言えどもアーマーを貫通して致命的ダメージを与えるのは難しいと思われた。立て続けに二発命中させられれば話は別だが、敵も素人ではない。狙撃されれば即座に遮蔽物の陰に姿を消し、しばらく出てこないだろう。再び頭を出すのを悠長に待っていれば、初弾の発射音を聞きつけたほかのプレイヤーがわらわら寄ってきてマシンガンで蜂の巣にされるのは必至だ。 シノンは大きな岩と低木の間に腹ばいになり、銃爪に指を掛けたまま、こっちに来い、と念じた。距離が800を割れば、装甲が薄く被ダメージ修正も高い顔面に一撃見舞って、ステージから退場させてやる自信があった。 しかしテレパシーは届かず、男は体の向きを変えて徐々に遠ざかっていく。ご丁寧に背中もきっちりと装甲されており、隙はない。残念ながらこのターゲットは諦めて、次の敵が近づいてくるのを待ったほうが良さそうだ――と思い、スコープから右目を外そうとしたところで、男の右腰にぶらさがった丸いものにシノンは気付いた。 ハンドグレネードだ。それも二個。サブアームを持たないかわりのお守りだろう。確かに、掩蔽物の多いフィールドでの超近距離戦では頼りになる代物だが、ゲームにおける安価で有効なアイテムの常としてちょっとしたデメリットが仕掛けてある。シノンは再び全身を緊張させ、右目を細めた。 今まで男の背にポイントしていた照準を、少し右下に下げる。ゆらゆら揺れる楕円形の金属球を十字の中央に捉える。 息を吸う。吐き出す。もう一度吸い――ぐっ、と止める。 すべての雑念が消滅し、腕の中の鋼鉄と存在が一体化したその瞬間、予測円がぐうっと凝集してピンポイントの光点となった。意識せず指が動き、トリガーを絞った。 全身を叩く衝撃。マズルフラッシュによって一瞬視界が白く染まる。それはすぐに回復し、色彩を取り戻したスコープの中で、男の右腰にぶら下がったグレネードのひとつがパッと弾けた。シノンは銃から顔を離した。 遥か遠く離れた丘の中腹でオレンジ色の炎が一瞬噴き上げ、すぐに赤黒い煙がもうもうと巻き起こった。数秒遅れて遠雷のような爆発音が訪れる。確認するまでもなく、男のHPバーは跡形もなく消滅していることだろう。 その時にはもうシノンは立ち上がり、右肩にヘカートIIを背負っていた。発射音によって位置が露見してしまうため、スナイパーにとって最も危険なのは狙撃直後からの数十秒だ。素早く左右に眼を走らせながら、あらかじめ決めてあったルートを一目散にダッシュする。 周囲にはびっしりと潅木が密生し、また付近のプレイヤーの眼は派手な爆発に奪われるだろうから発見される可能性は低い、と頭では分かっていても足をゆるめる気にはならない。一分以上走りつづけ、ようやく辿り付いた巨大な枯れ木の根元にうずくまって、ふうっと一息つく。顔を上げると、厚い雲の隙間で、血の色の太陽がその下端をゆっくりと地平線に沈めようとしていた。 バレット・オブ・バレッツ本大会の開始から三十数分が経過し、シノンは二人のプレイヤーを狙撃によって仕留めていた。ウインドウを出して特設欄を確認すると、残り人数は二十一人に減少している。すでに九人が退場している計算だが、前大会と比べるとペースが遅い。 だが考えてみればそれも当然と言えた。前回の舞台は「市街地M」、障害物は多かったがフィールド自体は2キロメートル四方と狭く、頻繁に遭遇が発生した。しかし今回選ばれたのは「荒野S」であり、山あり谷あり川あり森ありの地形が10キロ四方にも渡って続いているのだ。南西の一角には小さな村さえ存在する規模で、敵を発見するのも一苦労である。 シノンは更に指先を動かしてマップを表示させ、周囲の地形を頭に叩き込んでからウインドウを消去した。 腰の後ろのポーチから小型の双眼鏡を取り出し、視界に入る範囲内をつぶさに眺めていく。 シノンが現在身を隠しているのは、四角いフィールドの北東に広がる丘陵エリアの一角だ。さらに北と東にはもう他のプレイヤーの姿が無いことは確認してあるので、南西方向を重点的にチェックする。 赤茶けた岩と潅木が連なる荒地は、徐々に下りながらおよそ3キロメートル続き、その先に大きな川が蛇行しながら流れている。南北に伸びる川はフィールドを左右に分断しており、橋は三箇所しか存在しない。そのうちの一つ、錆びた鋼材を組み合わせた鉄橋が、赤い川面に黒々とした影を投げかけているのが見える。 待ち伏せからのサプライズドアタックを仕掛けようとするプレイヤーにとっては、その橋は格好の目標となる。自分だったら、どこに隠れて橋を狙うか――と考えながら、こちら側の岸に沿って広がる茂みや岩陰をチェックしていく。と―― 「!」 橋から50メートルほど離れた潅木の茂みに、一瞬チカリとまたたく光が見えた。距離があり、また茂みの奥はほとんど暗闇に没しているため、人の姿までは見えない。だが間違いなく、木の葉を貫いた気まぐれな夕陽を金属が弾き返した光だった。シノンは素早く中腰で立ち上がると、念のために周囲をもう一度チェックしてから双眼鏡を仕舞い、移動を開始した。
岩陰から岩陰へと伝いながら、2キロを10分弱で走破し、シノンは適当なくぼ地を見つけてしゃがみ込んだ。赤い陽光をきらきらと反射する広い川と、そこを横切る鉄橋はもう肉眼でもはっきりと見える。まだターゲットが動いていないよう祈りながら、岩の隙間からライフルを突き出し、スコープを覗く。 果たして、先刻マークしておいた茂みの下に、腹ばいになって小銃を構える男の姿がはっきりと見えた。無防備な背中を晒し、一心に橋を狙っている。爆死した亀男と比べれば装甲も薄い。 これなら、頭か背中の中央に命中すれば、一撃で仕留められる可能性も高い――と思いながら、スコープの倍率を上げようとダイヤルに手を伸ばしたところで、シノンは男の全身がぐっと緊張したのに気付いた。構えた小銃、無骨なシルエットからして M1ガーランド に頭を押し付け、射撃体勢に入る。 気付かれたか、と一瞬思ってから、すぐにそうではないことを悟ってシノンはヘカートIIを少し上向けた。 予想たがわず、鉄橋の向こう側から、匍匐前進でじりじりと這い進んでくる人影があった。こんな序盤で渡河に挑戦するとはノンキな奴もいたものだ、と少し呆れる。 川を渡る必要が生じるのはおそらく、戦況が煮詰まる終盤になってからだ。もう自分がいるエリアに敵の姿が無いか、あるいは弾を撃ち尽くして、南東の隅にあるボーナスコンテナ群もしくは南西にある村の武器屋に赴かざるを得なくなった場合にのみ、危険を冒して橋を渡ることになるのだろう――と思っていたのだが。 いったいどんな豪傑だろう、と橋の上をのろのろと進みつつあるプレイヤーに照準を合わせてから、シノンはあれっと思った。男が装備している突撃銃が、なかなかにレアであるSG550だったからだ。これはもしかして、とスコープの倍率を限界まで上げ、ヘルメットの下の顔を覗き込む。 「…………」 見覚えのある髭面は、間違いなく数日前まで所属していたスコードロンのリーダー、ダインのものだった。石橋でも渡らない慎重派だと思っていたのだが、どうやら予想外にチャレンジャーな一面もあったらしい。あるいは単純に――あまり戦略戦術ということを考えない男なのか。 やれやれ、とかすかなため息をつきながら、シノンは心の中で呟いた。 ――悪いけど、あなたとガーランド男と、どちらか勝ったほうを狙撃させてもらうわね。 とりあえずは目前の遭遇戦を高みの見物と行こう、そう思ってスコープの倍率を落とし、橋のこちらがわ全体を視野に入れた、その瞬間――。 シノンは首筋に、ぞくりと冷たい戦慄が疾るのを感じた。 すぐ後ろに、誰かいる。 馬鹿! 狙撃のチャンスに夢中になって、後背の警戒を怠った! ……そう頭の奥で絶叫しながら、ヘカートIIから手を離した。バネ仕掛けのように体を180度捻りざま、左手で腰のMP7を抜く。 背後の何者かに短機関銃を突きつけるのと、目の前に黒い銃口が突き出されるのはまったく同時だった。最早回避は不可能。あとは互いのHPを削りながら、マガジンが空になるまで弾をバラ撒くしかない――と覚悟して、トリガーを引き絞ろうとしたとき。 襲撃者が、シノンの動きを留めようとするかのように素早く右手を上げ、低い声で囁いた。 「待て」 「!?」 両眼を見開き、視線の焦点を銃口から相手の顔へと移動させる。 肩の線で切りそろえられた、艶のある黒髪。夕陽を受けてなお白い肌。強烈に輝く、切れ長の黒い瞳。 左手にファイブセブンを握った仇敵キリトが、シノンに圧し掛かるように目の前に立っていた。 それを認識した途端、いつもは極地の永久氷のようにつめたいシノンの内側で、いくつかの感情が複合した炎がぱあっと弾けた。眼前の銃口を忘れ、意識せず獰猛に歯を剥き出して、左手のMP7を斉射しようとする。 だが、再びキリトが冷静な声でささやき、シノンの指にかかった重さをギリギリのところで停止させた。 「待つんだ。提案がある」 「……何を今更ッ……」 シノンはごく小さな声で、しかし燃え上がる殺気を込めて言い返した。 「この状況で提案も妥協もありえない! どちらかが死ぬ、それだけよ」 「撃つ気なら、いつでも撃てた!」 キリトの言葉の、やけに切迫した響きに、シノンは思わず口をつぐむ。まるで、銃を突き付けあったこの状況よりも重要なことが他にあるとでも言うかのようだ。 それに、悔しいが確かにキリトの言葉は真実だった。こんなゼロ距離まで接近する余裕があったのなら、いつでも背後から銃弾を打ち込むなり、光剣で斬るなりできたはずだ。 「…………」 押し黙ったシノンに向かって、キリトは更に囁いた。 「今ハデに撃ち合って、銃声を連中に聴かれたくないんだ」 キリトの視線がほんの一瞬だけシノンの背後、今まさにもうひとつの遭遇戦が発生しようとしている鉄橋に向けられる。 「……? どういう意味……」 「あの戦闘を最後まで見たい。それまで手を出さないでくれ」 「……見て、それからどうするの。あらためて撃ち合うなんて、間抜けなこと言わないでよね」 「状況にもよるが……俺はここから離れる。君を攻撃はしない」 「私が背中から狙撃するかもよ?」 「それならそれで仕方がない。諒解してくれ、もう始まる!」 キリトは気が気でないように再び鉄橋のほうを見ると、驚いたことに左手のファイブセブンを下ろした。MP7を額に擬せられた格好のまま、銃を腰のホルスターに収める。 シノンは怒りながらもほとほと呆れかえり、肩の力を抜いた。 このままトリガーにかかる指にほんの少し力を加えれば、MP7の4.6ミリ弾20発がキリトのHPをあっけなく吹き消すだろう。だが――最大の敵と見込んだこの男との戦いが、こんな不明瞭な決着を迎えるのはシノンの本意でないのも確かだった。 キリトなら、予測線なしでもヘカートIIの遠距離狙撃を回避してのけるだろう、そう予想して正面戦闘の対策もあれこれと、頭から湯気が出そうなほど考えてきたのだ。どうせなら、30人中最後のふたりになるまで勝ち残り、エネルギーの最後の一滴まで絞り尽くすような死闘を演じてみたい。 「……仕切り直せば、今度はちゃんと戦ってくれる?」 「ああ」 頷くキリトの瞳を半秒ほどじっと凝視してから、シノンは短機関銃を下ろした。まさかとは思いつつも、その途端に斬りかかってくることを警戒してトリガーから指は離さなかったが、キリトはふっと体から力を抜くとすぐさまシノンの左隣、窪地の縁に腹ばいになった。背中から双眼鏡を引っ張り出し、そそくさと目に当てる。 こちらのことなど二の次三の次と言わんがばかりのその態度に、ムカつくやら呆れるやら複雑な感情がこみ上げるが、とりあえずぐっと飲み込んでおいてシノンもMP7を左腰に戻した。再び両腕でヘカートIIを抱え、スコープに目を当てる。 鉄橋のたもとに程近いブッシュの下には、まだガーランドを構えたままの男の姿があった。橋の上をずりずりと移動しているダインは、ようやく半ばまで差し掛かったところだ。 戦闘開始までおよそあと二分、と見当をつけてから、シノンは今更のように、すぐ隣に横たわる男の意図に首をひねった。確かに情報収集は重要だが、この大会では、極論してしまえば誰が誰を倒そうと関係ないのだ。最後のひとりに勝ち残りさえすればいいのである。 勿論、参加者全員が、どこかに隠れてラスト二人になるまでやりすごそう、などと考えてはイベントにならないので、長時間一箇所に留まれないような工夫はしてある。しかしこの場合、キリトはダインとガーランド男のうち勝ったほうをシノンに狙撃させ、更に狙撃直後の隙を狙ってシノンを片付ければ一石二鳥どころか三鳥だったはずだ。危険を冒してシノンの狙撃を阻止する必要などまるでないのだ。 口をきくのも業腹だったが、増殖したクエスチョンマークがアタマのなかで踊るのに耐え切れず、シノンはスコープに目を付けたままささやいた。 「……言っちゃなんだけど、橋の上のSG550……ダインも、ブッシュで待ち伏せてる、確かザッパって名前のM1も、そう大した奴じゃない。二人とも、よくいるタイプのAGI速射型だし……一体、何を見るつもり?」 するとキリトも、双眼鏡を覗き込んだまま低い声で意外な答えを返してきた。 「気付いてないのか。あの二人だけじゃない」 「え……?」 「橋から右に50メートル……川岸の草の中だ。俺はそっちを付けてたんだ」 慌ててライフルを動かし、北――川の上流方向をつぶさに眺めていく。 川の両岸には、土手のように盛り上がった赤い裸地が続いているが、水面に向かって傾斜する部分には枯れた草がびっしりと密生し、風になびいている。 その一部に、周囲とは違う動きをする草を見つけ、シノンは目を凝らした。 「……あ……」 いた。褐色の迷彩マントに体を包み、深くフードを下ろしたプレイヤーが、橋を目指してじわじわと移動している。肩にかかるアサルトライフルは、折りたたみストックの ベレッタ SC70/90 だ。 「ベレッタ……いたかな、あんな奴」 シノンは目を細め、暗記してあるBoB本大会出場者名簿を頭の中に呼び出す。 傭兵としてあちこちのスコードロンを流れ歩いた経験によって、GGOの有力プレイヤーのうちかなりの人数を、その武装から戦術の傾向までも把握してある。が、パーティープレイをせず、ソロでダンジョンに潜る者まではチェックしきれない。今大会に関して言えば、顔と名前、戦闘スタイルが一致するのはキリトを含めても30人中20人強というところで、あの迷彩マントのベレッタ使いは記憶になかった。 肩をすくめ、視野を橋に戻そうとしたとき。キリトが思わぬことを言い、シノンを驚かせた。 「シノンは、あいつに会ったことあるよ」 「え……?」 「それも昨日さ。予選一回戦が終わった後だ。あの時は、マントの色は黒だったが」 「あ……あの、ちょっと気味の悪い……ええと、名前は……」 「モルターレ。参加登録名はアルファベットで、mortale fucileとなっていた」 キリトは《モルターレ・フチーレ》と覚束ない口調で発音した。 それで気付かなかったのか――と思いながら、シノンは昨日の記憶を呼び覚まそうとした。いくら名前をチェックしそこねたとは言え、一度会って、言葉まで交わした相手をこうしてスコープで見るまで忘れていたとは、我ながら不注意な―― 「あ……あの後すぐ、アンタのハラスメントで無茶苦茶腹たったせいよ。それで忘れてたんだ」 記憶と共に怒りまで甦り、スコープから目を外して烈火のごとき視線をキリトに浴びせる。 「わ、悪かったよ。……ほら、橋の二人が接触するぞ」 「落とし前はつけるからね」 最後にじろりと一睨みしておいて、シノンは右目をスコープに戻した。 匍匐前進を続けていたダインは、ようやく鉄橋を渡り終え、砂利に覆われた土手まで到達した。伏せたままひょいっと頭をもたげ、周囲を見回す。 他人事――と言うか、ダインが撃たれようが死のうがまったく構わない立場ではあるが、それでもシノンは少しだけハラハラした。 アンタのすぐそばに二人もアンブッシュしてるのよ、何をノンキにきょろきょろと…… と心のなかで呟いたその時、さすがにPvP慣れしているのか、ダインは正面30メートルほど離れた潅木の下に伏せる敵に気付いたようだった。髭面がぐっと緊張し、両手で素早くSG550を構える。 だがやはり、初動はザッパという名のM1ガーランド使いのほうが早かった。 ブッシュの中で閃光がまたたき、立て続けに五本の火線がダインを襲った。わずかに遅れて、ガッガッガッと重い発射音がシノンの耳を叩く。 スプリングフィールドM1「ガーランド」は、主に第二次大戦で米軍の主力小銃として活躍したセミオートマチック・ライフルである。小口径高速弾を用いるアサルトライフルが歩兵携行銃の主流となる以前の時代の代物であり、でかい、重い、フルオート射撃ができない、クリップ一つで8発しか撃てないと欠点も多いが、使用する7.62×63ミリ――通称30−06弾の威力はそれを補って余りあるものがある。 装備要求STR値が少々厳しいが、速射力に優るAGI型プレイヤーとは意外に相性もいい。不意をうたれてあんなタマを何発も叩き込まれたら、生半可なアサルトライフル使いではそのまま押し切られてしまう可能性が高い。 ダインを狙った五発のうち、命中したのは三発だった。おそらくそれだけでHPを七割以上持っていかれただろう。すでに勝利を確信したか、ブッシュから大型のライフルを抱えたザッパが踊り出て、伏せたままのダインめがけて走り出した。近距離から、残る三発で止めを刺すつもりだ。 だがダインもおとなしく敗北を受け入れるつもりは無いようだった。 バック転の要領で跳ね起き、腰だめに構えたライフルから一気に十発以上をバラ撒いた。フルオート射撃のカタタタッという軽快な音とともに薬莢がつぎつぎと宙を舞い、細く鋭い光の束がザッパを迎え撃つ。 オリーブグリーンの迷彩に小太りの体を包んだザッパは、さすがにAGI型らしい素早い動きで射線を回避した。二、三発が命中したようだったが、多少たたらを踏んだだけで足は止まらない。たちまち10メートル以下の必中距離まで肉薄し、頬をぶつけるような勢いでガーランドを照準した。それを阻止するべく、ダインも550のストックを肩に当て、精密射撃姿勢を取る。 あとはもう、敵のHPを削りきるまで、己の技量と愛銃と幸運を信じて撃ちまくるだけだ。思わず手に汗を握りながら、それでも勝者にはすかさず冷酷な一弾を叩き込もうと、シノンがスコープを覗く右目を細めた―― その時だった。 正対するダインとザッパの右手方向から、突如弾丸の奔流が降り注いだ。二人は驚愕して動きを止め、首を振り向けた。だが、できたのはそれだけだった。 狙われたのはダインだった。襲い掛かった七、八発のライフル弾のすべてが次々と体の各所に命中し、髭面に驚愕の表情を貼り付けたまま、男は地面に叩きつけられて動きを止めた。手足を大の字に投げ出した体の上に、鮮やかな赤に発光する「DEAD」の文字が出現し、くるくると回転をはじめる。これでダインは舞台裏に退場、ということになり、最後の勝者が決定するまで退屈な待ち時間を過ごさなくてはならない。 シノンはライフルをわずかに右に振った。 勝負に乱入して獲物をさらったのは、やはりあの第三の男、モルターレと名乗るベレッタ使いだった。草むらから飛び出し、ザッパから20メートルほど離れた位置にライフルを構えて仁王立ちになっている。暗い色の迷彩マントの、ぼろぼろにほつれた裾が風に長くたなびき、顔は深く下ろしたフードの陰に沈んで、どうにも陰気な姿だ。 シノンはわずかに迷ったが、トリガーに掛けた指を少し緩めた。予想外の展開ではあるもののやるべき事は変わらない。今度は、ザッパとモルターレのうち生き残ったほうにヘカートIIの女神の息吹をプレゼントするだけだ。 ザッパが何か叫んだらしく、口が動いたが言葉まではわからなかった。直後、M1が咆哮し、30−06弾がモルターレを襲った。 だが、マントの男は、肩にベレッタを構えたまま宙を滑るように動き、あっさりと攻撃を回避した。と思う間もなく今度はモルターレの銃が火を噴き、一発だけ発射された5.56ミリ弾が、こちらは見事にザッパの体を捉えた。そのまま、無造作な歩調で前に歩きはじめる。 よろめいたザッパは、しかし果敢に次弾を発射した。――ものの、再びモルターレは滑らかな動きで回避。歩みも止めないまま、返礼とばかりにベレッタを撃つ。同じようにザッパの体の一部がパッと弾ける。 更にもう一度、まったく同じ光景が繰り返された。弾倉が空になったザッパが、慌てて腰に手を伸ばし、新しいクリップを掴んでガーランドに叩き込む。その間も、モルターレはするすると距離を詰め続ける。 「……あいつ、強い」 シノンは思わず呟いていた。 モルターレの動きにはまったく気負いがない。つまり至って冷静ということであり、それは着弾予測円の揺らぎが小さいということでもある。 いや――冷静というのとは少し違う。どこか生気のない……まるで、地下遺跡ダンジョンの奥に出現する不死者系クリーチャーのような気配…… 装弾を終えたザッパが、再びガーランドを肩に構えた。 しかしその時には、モルターレはほとんど手の届く距離にまで達していた。 何事か喚きながら、ザッパがライフルを発射した。しかし驚くべきことに、モルターレは頭をわずかに振って至近距離からの銃弾を回避すると、手の中のベレッタを地面に投げ落とし―― 左手でぐいっとガーランドの銃身を掴み、上空に向けた。同時にマントがばっと跳ね上がり、右手が素早く動いて、腰から大型のハンドガンを抜くのが見えた。 見たことのない銃だった。少なくとも、実弾系ではない。と言うことは光学銃か。 確かに、あの密着状態なら防護フィールドの効果は大幅にダウンするだろうが、それにしても対人戦オンリーのBoBに光学銃を持ち出すとは。よほど己の腕に自信があるのか。 今まで沈黙を守っていたモルターレが、フードの奥で何かを叫んだようだった。右手に握った漆黒の銃を、ザッパの顔面に突きつける。その顔が、屈辱と、諦めと――そして大きな困惑に歪んだ。 不意に、隣で、鋭く息を吸い込む気配がした。接触してはいないが、キリトの肉体がギリッと緊張したのがわかった。 訝しく思ったのも束の間―― モルターレのハンドガンが、真紅の光線を吐き出した。ほぼゼロ距離からザッパのヘルメットの額部分に命中したエネルギー弾は、まばゆい光を撒き散らし、二人を明るく照らし出した。 これで決着か、とシノンは思い、再び銃爪に掛けた人差し指を緊張させた。だが、地面に倒れダインと同じようにDEADマークをくるくるさせる、と思われたザッパは、ガーランドから手を離してよろよろと数歩後ずさっただけだった。 どうやら、HPがわずかに残っていたらしい。せっかくキメたのに、目算を間違えたねモルターレさん、とシノンはかすかに苦笑した―― 「――!?」 その瞬間。 ザッパの目が、丸く見開かれた。次いで、口もOの字にぽっかりと開く。 両手がゆっくりと持ち上がり、胸の中央をぎゅうっと掴むような形になった。 直後、丸い体が限界まで反りあがった。そのまま、どうっと地面に倒れる。今度こそHPがゼロになったのか、と思ったのも束の間――ザッパの動きは止まらず、砂利の上でビクン、ビクンと跳ね回る。二度、三度、口が限界まで開けられ、悲鳴を上げているようにも見えるがここからでは聞き取れない。 「な、なに……何なの……?」 シノンが呆然と呟くのと、ほぼ同時だった。ザッパの体全体に空電のようなノイズが走ったと思うと、その姿はいきなり消滅してしまった。 スコープを通して見た光景の意味を解しきれず、シノンは眉をひそめた。 通常GGOにおいては、HPバーがゼロになった者の体は派手なエフェクトとともに四散し、意識は即座に街のセーブポイントへと転送されてそこで蘇生することになる。 だがこのBoB本大会に於いてはその限りではなく、数十秒前に倒れたダインのように、死亡者の体と意識はDEADマークと共にその場に残り、最終的な勝者が決定するのを待たなくてはならない。例外はないはずだ。 しかし、モルターレという迷彩マント男の光学銃に撃たれたザッパは、謎の苦悶のちに消滅してしまった。考えられるのは、リアルで何らかのトラブルが発生し、アミュスフィアの強制カットオフ機構が働いた――ということだろうか。それにしても、あまりにタイミングがよすぎはしないか。まるで――モルターレの銃撃が、ゲームの枠を超えた何らかの影響をもたらした、とでも言うかのような―― 「……三度続けばもう、偶然じゃない……」 隣のキリトが妙に掠れた声を漏らし、シノンを内的思考から引き戻した。 ハッと目を見開き、慌ててヘカートIIを抱えなおす。指先を緊張させ、照準にあらためてモルターレの姿を捉える。 迷彩マントの男は、賑やかな銃撃戦直後だというのにその場から遁走する様子も見せず、それどころか黒いハンドガンを高く掲げて何事か叫び続けているようだった。近接戦闘シーンは各街に中継されることが多いので、カメラに向かって自己アピールでもしているのかもしれない。実力はあるかもしれないが、軽薄な男だ。 それなら、退場シーンもついでに中継させてあげる、とシノンは胸のうちで呟いた。キリトにいちおう断っておこうと、スコープを覗いたまま囁きかける。 「もういいんでしょ。あいつ、狙撃するよ」 「あ……ま、待て。――一撃で仕留められる自信、あるか?」 「え……うーん、ちょっと距離があるから、百パーセントとは言えないけど……」 「なら、止めてくれ。奴が逆襲してくるかもしれない」 硬くこわばったキリトの声に、シノンは顔をあげると、じろりと冷たい視線を投げかけた。 「何。ビビってるの?」 キリトも眼から双眼鏡をはずし、やけに青白い顔を向けてくる。 「そうじゃない……いや、そうだな、ビビってるよ。アイツは、やばいんだ」 「はあ?」 「近づいちゃいけない。――ともかく、俺は目的を達した。ここでログアウトする。君も落ちるんだ、シノン。もう大会なんて言ってる場合じゃない。早く、あいつを止めないと……」 口早に言い募るキリトの言葉に、シノンは驚くと同時に呆れ帰った。まだ大会はほんの序盤で、倒すべき敵はたっぷり残っているのだ。そもそもこの男は、BoB本大会の基本的なルールも理解していないらしい。 「あのねえ……どういうつもりか知らないけど、できないよ、ログアウト。規約読んでないの? 参加登録するときに出たでしょ?」 「な……なに!?」 今度はキリトが驚愕の表情を浮かべた。 「できないって……どういうことだ!?」 「メインメニュー見てみれば? ボタン無いから。……あ」 狙撃の途中だったことを思い出し、急いで再びスコープを覗く。だが、視野に迷彩マント姿はすでに無かった。 舌打ちして倍率を落とす。モルターレは、ボロボロのマントの裾を風に踊らせながら、ちょうど左手方向の大きな岩の陰に消えていくところだった。その後数回、岩の隙間にちらちらとその影が見えたが、やがて完全に視界から失せてしまった。どうやら川の下流、南に向かって歩き去ったらしい。 「……あーあ、行っちゃった」 肩の力を抜いてスコープから顔を離し、アンタのせいだからね、という非難を込めた視線を隣に向ける。キリトはシステムウインドウを食い入るように見ていたが、ログアウトボタンが無いことをようやく理解したのか、ため息をつきながら手を振ってそれを消去した。 「クソ……一体どうなってんだ」 「そう言いたいのはこっちよ。……仕方ない、あと五分だけ付き合う。なんで狙撃を止めたのか納得いく説明してもらうからね」 マフラーをぐいっと引き上げ、シノンは言葉を続けた。 「BoB本大会が途中ログアウト不可なのは……上であんたも見たでしょう、トトカルチョのせいよ、主に」 「ギャンブル? それが何で?」 「第一回大会ではログアウトできたし、五分以内なら再接続もありだったの。で、出場した三十人中五人が、ある有力スコードロンのメンバーだったんだけど、そいつらが頻繁にログアウトログインを繰り返して、リアルで互いに敵の情報の交換をしたのね。武装は何かとか、どこに隠れてるかとか……。BoBはあくまで三十人が殺しあうバトルロイヤルだから、チームプレイに必須の通信機は一切使えないんだけど、一グループだけが情報交換したら有利なのは当たり前。結局その五人が最後まで勝ち残って、うち四人はそのまま落ちてタイムアウト。残ったのが五人中最低レベルの奴で、倍率的にも大穴で……しかもそのスコードロンがそいつに大金賭けてたから、トトカルチョ会場はもう大暴動よ。GGOのクレジットは現金と一緒だもんね」 「……なるほどな……」 「さすがに放任無干渉主義のザスカーも問題視したらしくて、第二回からはログアウト不可になった上、同じスコードロンに所属してるプレイヤーは予選で同一ブロックに配置されるようになったって訳。勿論、リアルでトラブってカットオフしたり、誰かに頼んでアミュスフィアを外したりしてもらえば落ちられるけど、その場合も再接続はできない。二回目の時、優勝候補のひとりだった奴がWC落ちしてトイレで泣いたってのは有名な話よ。――こんな所で、納得した?」 「ああ……非常によく分かった。まったく……規約を読み飛ばすのは悪癖だな。二度としないぞ畜生」 ごろんと体を仰向けて、キリトは頭を抱えた。そのまま、何やらブツブツと呟く。 「……現実で何かあれば落ちられる訳か……どうにかして連絡を……でも安岐さんは中継なんて見てないし……あの男は言わずもがなだし……」 「ちょっと、今度はそっちの番よ。一体アンタは何なのよ。あのモルターレって奴がどうかしたの?」 「…………」 キリトは口をつぐむと、黒く光る瞳でちらりとシノンを見た。唇が動き、乾いたささやき声が流れた。 「……死銃……《デス・ガン》の話を知ってるか」 「はあ……? です……がん……?」 たっぷり二秒半ほど戸惑ったあと、シノンはようやく記憶倉庫の片隅から曖昧な情報を引っ張り出すことに成功した。 「ああ……あの、しょうもない噂でしょ? 前に優勝したゼクシードと、あと……スジコだかカズノコだかって名前の人が姿を消したのは、GGOの中でその、死銃? って奴に撃たれてほんとに死んだからだ、っていう。馬ッ鹿馬鹿しい」 その話は、パーティープレイ中や街の酒場などで何度か耳にしたことがあった。しかし常識的に考えて、そんなことが有り得るわけがない。リアルでの様々な事情によって突然の引退を余儀なくされるプレイヤーは数多いし、ゲームとの永別を宣言しておきながらひょっこり戻ってくるプレイヤーもこれまた多い。いずれ本人が帰ってきて、あっさりと消えていく類のデマだ――と判断し、すぐに忘れてしまったのだが。 「じゃあ……なに? アンタ、あのモルターレって奴が、その死銃だ、って言うの? ……冗談だとしたらつまんないし、それとも何かの作戦のつもり……?」 唇に苦笑、視線に警戒を滲ませて、シノンはキリトを睨んだ。しかし、隣に横たわる少年は、ただただ焦燥の色を浮かべて首を振るだけだった。 「どっちでもない。本当なんだ、死銃の話は。ゼクシードと薄塩たらこの二人は現実で実際に死んでいる。死因は心不全――しかも死亡推定時刻は、GGO内で死銃に撃たれた、まさにその時間だ」 「……ええ……?」 今度こそ、シノンの理解を完全に超えた話だった。キリトの言葉の意味を、数秒かけてどうにか咀嚼する。 「死んだ……? ゼクシードが……?」 「そうだ。俺は死体の写真も、死体検案書も見た。――でも、俺だって偶然だと思ってたさ。偶然心臓発作が起きたんだとな。……さっきの、モルターレの銃撃を見るまでは。まさかと思っていた……だから……畜生、見殺しにしてしまった。昨日の時点で、怪しいのはわかっていたのに……」 キリトはぎゅっと眼をつぶると、右手で額のあたりを覆った。 「でも……だからってまだ、モルターレがその死銃だって決まったわけじゃないんでしょ……?」 「イタリア語だよ」 「え?」 「モルターレは《致命的な》。フチーレは《銃》。つまり……死銃、さ。それに、君も見たろう。奴の赤いビームに撃たれたプレイヤーが、もがき苦しんで消えたのを。VRMMOで痛みを感じることはないのに、あれだけ苦しんだということは、現実の肉体に感覚インタラプトの閾値を超えた何かが起きたんだ。――三回目はもう偶然じゃない……早く現実に戻って、あいつを止めないと……いや……待てよ」 いきなりを両眼を見開き、キリトはシノンを凝視した。 「死んだら……HPがゼロになったら、退場できるんじゃないのか!?」 「……駄目よ」 シノンはあごを動かして、先ほど戦場となった橋の方向を示す。 「見たでしょう。ザッパは消えちゃったけど、ダインの体はデッド表示が出て、死んだ場所に残ってる。大会が終わるまで、意識もあそこに繋がれたままなのよ。退屈しないように中継画面は見られるけど、動いたり喋ったりはできない」 「意識が……残る?」 「そうよ。私も前回、一時間も無様に転がってたけど、辛いよ」 「じゃあ……死体になっても、リアルの体と回線は繋がってるのか……。てことは、死銃が死体を撃つ可能性もある……?」 キリトは再び頭を抱え、聞き捨てならないことを口走った。 「クソッ、いざとなったらシノンに死んでもらえばいいと思っていたのに……」 「なっ……」 シノンは絶句し、反射的に右手でしっかりとヘカートを抱え、左手でMP7のグリップを握った。 「あんたやっぱりそのつもりでっ……!」 短機関銃を抜き、突きつけようとした――のだが、黒い電光のように伸びたキリトの右手が、シノンの左腕をがしっと掴んだ。 「この……っ」 「君を守るためだ!」 狭い窪地に並んで横たわるシノンとキリトの視線が至近距離で交錯し、鋭い火花を散らした。 「もう大会なんて言ってる場合じゃない。分かってくれ――本当の生き死にの、問題なんだ」 あくまでかすかな囁き声だが、それでもシノンはそこにびりびりと震えるほどの真剣さを感じ、思わず息を飲んだ。数瞬の静寂。 「……痛いよ、離して」 やがてシノンは目を伏せ、呟いた。実際には痛みは無いが、掴まれた左の手首が焼けるように熱い。 「わかったわよ。とりあえず……大会のことは、一時的に忘れる」 あれほど憎らしく、究極的な敵とさえ思ったキリトだが、思わぬ展開に戦意をどこか、心の隙間に落としてしまったかのようだった。今の心理状態では、望んだような死闘、激戦を繰り広げるのはとても無理な気がした。 シノンの言葉にキリトはこくりと頷くと右手を開いた。ふたたびごろんと仰向けに横たわる。 「でも……でもさ……」 まだ熱の残る手首をさすりながら、シノンはまだまだ数多く残る疑問点を改めて尋ねた。 「そんな……ゲームの中から現実のプレイヤーを殺すなんて、一体どうやって……? それに、ログアウトしてあいつを止めるって言ったけど、どうやってリアルのプレイヤーを特定するの? そもそも、あんたは一体、何者なの? なんでゼクシード達が死んだことを知ってるの?」 立て続けに質問をぶつけられ、キリトはわずかに苦笑したようだった。 「……仕組みはさっぱり分からない。だが、ナーヴ……いや、アミュスフィアが装着者に与える影響については、まだまだ未知数の部分も多い。死銃の殺気、怨念……《悪意》があまりにも大きくて、それをNERDLESシステムが何らかの形で受け取り、銃撃の対象にゲームシステムを超えたダメージを与える……心臓が止まるほどの……というようなことも、有り得ないとは言えないのかもしれない……」 「まさか、そんな……。それに、悪意って言うけど、そこまでの、ええと……サイコパス、って言うんだっけ? そういう異常な人なら、ゲームの中じゃなくて現実で」 不用意に口にした言葉によって、記憶のフラッシュバックが起こる気配を感じてシノンは体を竦ませたが、さいわい血の色の光が一瞬頭の中を過ぎっただけで済んだ。 「……?」 「な、なんでもない。……ゲームの中じゃなくて、現実で人殺しをしようと思うんじゃないの?」 「異常だからこそ、ゲームを舞台に選んでいるのかもしれない。――これは、奴をどうやってリアルで特定するのか、って質問の答えでもあるんだけど……俺は、死銃ことモルターレと、昔ほかのゲームで会っているんだ。奴はそのゲームでも、PK行為を繰り返していた。金やアイテムのためでも、経験値のためでもなく、楽しみのためだけに……。そのゲームはもう無いけど、殺しの味が忘れられずに、この世界で同じことを繰り返している……そんな印象だった。――ザスカーに問い合わせて死銃のIPを調べるのはほとんど不可能だろうけど、その昔のゲームの登録情報から、あいつの本名や住所を割り出すことは可能なはずだ」 キリトはぎりっと歯噛みをして、殆ど消え去りつつある太陽を睨んだ。 「……昨日の時点でそれをやっていれば……。どうにかして菊岡に連絡を取って、死銃の本体を押さえないと……」 「きくおか、って誰?」 「ああ……総務省の、仮想世界関連部署の役人。俺はそいつと知り合いで、この件の調査を頼まれたんだ。ゼクシードとたらこの事はそいつに聞いたんだよ」 「ふうん……。じゃあ、ゲームを遊びに来たわけじゃないんだ」 何となくいろいろと納得しながらシノンが呟くと、キリトはどこか申し訳なさそうな顔で肩をすくめた。 「まあ、な。GGOプレイヤーとしては気に食わないだろうけど」 「別に。私も……似たようなもんだし」 「え……」 「なんでもない、気にしないで。――ともかく、大会が終わるまでログアウトは不可能よ。ひょっとしてGMが今ここを見てれば、英語で必死にわめけば聞いてくれるかも……だけど、99パーセント無理ね。ザスカーはほんとにプレイヤーには不干渉だから」 「……いくら死銃に謎の力があっても、まさかアメリカの運営会社とグルってわけじゃないだろうから、ゲームのルールは超越できないはずだ。奴がとっとと他のプレイヤーに負けてDEAD状態になるのが次善なんだけどな……」 「期待できないわね。あいつ、ものすごい近距離から銃撃を回避した。プレイヤーとしても相当の実力だと思う」 「……昔のゲームでも、かなりの手練だった。とても正面から戦う気にはなれないけど……こうしてる間にも、他の出場者がまた殺されているかもしれない。畜生、どうすりゃいいんだ」 焦燥に駆られたキリトの言葉に、ウインドウを出して戦況を確認してみる。 「ええと……残り人数は十六人。負けた十四人中、回線切断したのは……まだ一人だけ……あっ」 まさにその瞬間だった。 カットオフにより退場した者の数が、一から二に上昇した。それを見たとき、はじめてシノンは体の深いところにすうっと冷たいものが流れるのを感じた。 ザッパが消える瞬間を目撃し、キリトの説明を聞いたあとも、《死銃》の存在を現実のこととは思えなかった。ゲームの中から人を殺すなどということができるはずがない、と心の奥では思っていた。 しかし、一切の誤謬の有り得ないシステムウインドウ上のデジタル数字が変化したとき、シノンは確かに誰かの命が消える瞬間を見たと信じた。 ゲームではなく、実際に人を殺そうという意思を持つ者、つまり「あの男」と同種の人間がこのフィールドのどこかに存在する。 いや……もしかしたら…… ぐらり、と地面が傾いていく。色が、光が遠ざかる。 もしかしたら――「あの男」がどこか暗いところから帰ってきたのかも――私に――復讐するために―― 「おい……おい、シノン」 肩に手が掛かるのを感じて、シノンはハッと目を見開いた。 「あ……」 なんでもない、というように首を振り、キリトの手を押し戻す。 「い、今、また一人殺した……。残り十五人」 「……そうか」 キリトは大きく息を吸い、吐き出した。 「このままだと、あと何人やられるかわからない。やっぱりどうにかして奴を倒すしかない……。……いや……待てよ」 「どうしたの?」 「……《死銃》はなぜさっき、二人とも撃たなかったんだ? 撃とう思えば撃てたはずだ」 「…………」 「そうだろう? モルターレの言動から見て、単純に殺しを楽しむことだけではなく、己の力をGGOの……ひいては全VRMMOのプレイヤーに誇示することも奴の目的の一つであるはずだ。なら、襲撃が外部に中継される絶好の機会に、一人だけ殺して一人は見逃す、というのは理屈に合わない」 「つまり……死銃はダインを見逃したのではなくて、殺したくても殺せなかった……っていうこと?」 「そう考えるのが自然だ。……奴の言うとおり、二つのアミュスフィアを介して何らかの致死的なパワーを標的に送り込めるのだとしても……もしかしたら、ある程度はゲームシステムの制約を受けているのかもしれない。あの黒い銃は光学系だった。ダインって奴の装備に、何か死銃の力を阻むものがあったのかも……」 寝転がったままのキリトは、指先で細いあごのラインを撫でながら考えに沈むように呟いていたが、やがて伏せていたまぶたをパチリと開けた。 「これ以上は考えても無駄だな」 左手のクロノメーターをちらりと眺め、 「奴が立ち去ってから20分……もう充分に離れただろう。俺はさっきの戦場を調べてくる。君はここにいてくれ」 四方に素早く眼を走らせながら、上体を起こす。 こくんと頷きかけてから、シノンはあわてて首を振った。 「――私も行くわよ」 「いや、しかし……」 「どこに居ようと、遭遇の可能性は大して変わらないわ。それに……組むのは癪だけど、いざ襲われたときに二人なら逃げ切れる。もしくは倒せる確率が上がる」 「…………」 キリトは厳しい顔でしばしシノンを凝視した。数秒後、軽く頷く。 「それは確かにそうだ。だが、襲われても戦おうとは思うな。逃げることを最優先するんだ。いいな――これはもう、ゲームじゃない」 顔を近づけ、深い色の瞳で真っ直ぐにシノンの目を覗き込む。 「絶対に、撃たれるなよ」 不意にドクン、と大きく跳ねた鼓動を押し隠すようにシノンは顔を逸らせた。 「……あんたこそ」 呟いた声はいつもより一層か細く、つめたい風に揺れた。
ヘカートIIを肩に掛け、MP7は左手に握って、シノンは前を行くキリトのあとを追った。頻繁に後方を見渡し、枯死した木々の奥に人影がないことを確認する。 いつの間にか、キリトの指示に従っているのが癪と言えば癪だった。だが、謎めいた少年の言葉には、歴戦のスコードロン指揮官のように命令し慣れた響きがあってつい頷かされてしまう。 それに――さっき、回線切断による退場者の数が増加する瞬間を目撃したときから、胸のおくに何か冷たいものが這いまわり、時折心臓がきゅうっと縮むような感覚が襲ってくる。認めたくはないが、シノンには分かっていた。 これは多分……恐怖だ。怯えている。 想像してはいけない、と思いつつも、「その瞬間」のことを考えずにはいられない。不意に、すぐ傍の木陰から――あるいは樹上から、土の中から――あのぼろぼろの迷彩マント姿が飛び出してくる。右手に握った黒いハンドガンから赤い光線が迸り、胸の中央に命中する。撃ち込まれた「悪意」がネットワーク回線を駆け抜け、現実世界の自室に横たわる詩乃の体に流れ込み、心臓をその冷たい手で握り潰す。 痛いのだろうか。 ……きっと、そうだろう。ザッパはあれほど苦しんだのだ。痛いのは――嫌だ。 そう、シノンには分かっていた。さっきキリトに、ここで待て、と言われたときに拒否したのは、戦力上の問題などのせいではなかった。単に、ひとりになりたくなかったのだ。あれほど憎んだ敵なのに、置いていかれるのが恐かった。 キリトと戦いたい、という気持ちはまだある。予選決勝の借りを返さないわけにはいかない。 しかし同時に、すがりつきたい、とも思っているのではないか。「恐いもの」から守ってほしいと。だから、離れたくない。 結局――シノンの強さなど、その程度のものだったのだろうか。 仮想空間で、データの銃弾を撃ち合っているときだけの極めて限定的な強さ。張子の虎もいいところだ。《死銃》という現実的な脅威が現われたとたん、幼子のように怯え、嫌いな相手にすら救いを求めている。 つまるところ、全てが無駄な足掻きだったのか。シノンとしていくら強くなろうとも、詩乃があの記憶に打ち勝つ助けには一切ならない――そういうことだろうか……。 「おっと」 不意に肩を掴まれ、シノンははっと顔を上げた。いつの間にかキリトがすぐ隣に立っている。 「この先は遮蔽物が少ない。警戒を切るなよ」 言われたとおり、枯れた森は少し前方で途切れていた。その先は赤茶色の裸地が広がり、川とそれに掛かる鉄橋へと続いている。黒く錆びた橋のすぐ手前には横たわるダインの姿。 「あ……う、うん」 いつの間にか物思いに沈んでしまっていた。今はただ、生き延びることだけを考えなければ。そう自分に言い聞かせながら、シノンは短く頷いた。
森から出ると、一際強く吹く夕暮れの風が頬にかかる髪を揺らした。太陽は完全に荒野の彼方へと姿を消し、濃い赤から深い紺へと至るグラデーションが空を染めている。あと四、五十分で自然光は消え失せ、苦手なスターライトゴーグルを装着しなくてはならなくなる。それまでに、この異常な状況から脱出できることを祈らずにはおれない。 鋭く周囲を索敵しながら、シノンとキリトは小走りに荒れ地を抜け、盛り上がった土手へと駆け上った。重い水音を立てて北から南へと流れる川に、最後の残照が反射して炎の粒が舞っているように見える。すぐ正面に、鉄骨を組み合わせた橋が黒々と伸び、対岸へと続いている。 50メートルほど離れた向こう岸も同じような赤い裸地だが、そのさらに奥は奇妙な形の岩やサボテンが点在する砂漠が広がっている。鉄橋からは蛇行する道らしきものが伸び、砂漠に入る少し手前に、廃墟と化した小さな建物が見えた。もしあの廃墟がプレイヤーの手付かずであれば、武器や弾薬などが入ったトレジャーボックスがいくつか配置している可能性は高いが、この状況ではのんびりアイテムを漁っている余裕など無いだろう。 そして、橋のすぐ手前に、大の字になって伸びるダインの姿があった。腹の上に、赤く発光する立体文字がくるくると回っている。傍らには彼の愛銃SG550が落ちているのが見える。拾って使用することはできるが、通常のゲームにおける武器ドロップとは違い、大会の終了とともに元の持ち主へと返却される。 少し離れた場所には、ザッパが持っていたM1ガーランドも遺されていた。あのシーンを思い出しそうになり、慌てて目を逸らせる。たとえアイテム重量制限に余裕があっても、とても手に取る気にはなれない。 ゆっくりとダインに歩み寄りながら、キリトがぼそっと呟いた。 「あの死んでる奴は、その……周囲の状況とか知覚できるのか?」 シノンはうなずき、囁き声で答えた。 「うん。視界に入るモノは見えるし、音も聞こえる。ただ、すぐ目の前に大会中継画面が表示されてるけどね」 「ふうん……。じゃあ、この会話も聞こえてるのかな」 「まあね」 シノンは荒い砂をざくざくと鳴らして、ダインのすぐ傍で立ち止まった。髭面を覗き込むと、こちらからは目蓋を閉じた死人の顔に見えるが、本人は中継ウインドウの横にシノンの顔を認識しているはずだ。 軽く肩をすくめ、シノンは低い声で言った。 「ダイン、お疲れさま。前回よりはいい順位でしょう……多分。それに、もしかしたら今回の大会は無効になるかもしれない。何だか妙なことが起きてて……。アンタを撃ったモルターレって奴のことだけどさ」 隣に立ったキリトが、顔をしかめてダインの「死体」に視線を落とした。 「もどかしいな……。このダイン氏は、あんな間近から死銃の銃撃シーンを見ているんだ。何か気付いたこともあるだろうに……」 「仕方ないよ。そういう情報を漏らさないように、こんな仕様になってるんだからさ。あ……言っとくけど、ダイン。こいつと――」 キリトのほうにあごをしゃくり、シノンは続ける。 「別に組んでるわけじゃないからね。あくまで緊急避難なんだから、後で妙な噂とか撒かないでよね」 「そんなことより、どうだシノン。何か特殊な装備はあるか?」 言われて、シノンは地面に膝をつき、ダインの体を詳細に眺めた。 「ごめん、ちょっと装備見せてね。――うーん……防護フィールド発生器も、ボディアーマーも、高級品だけど特に変わったモノじゃないよ。私もあんたもこれくらいのは装備してるし。ねえダイン、死銃の奴はなんでアンタをあの光学銃で撃たなかったの? むさ苦しいから?」 指先であごひげを突付くが、勿論「死体」は答えを返さない。立ち上がると、キリトが難しい顔でため息をついた。 「結局手がかりなし、か。――シノン、この死体は動かせるのか?」 「え? 無理だけど……何で?」 「いや……もしダイン氏を見逃したのが死銃の単なる気まぐれなら、戻ってきて死体を見たら、今度は撃つ可能性もあるからさ。どこか見えないところに隠せればと思って……」 「ああ、そっか」 ダインは目の前で、ザッパが死銃に撃たれて消えるところを見ている。死銃に撃たれた奴は本当に死ぬという噂は当然知っているだろうし、その上こんな会話を聞かされては、半信半疑ながら気が気ではないだろう。 「ダイン……死銃が戻ってこないことを祈って。あと、余裕があったら私たちが無事に脱出できることもね」 呟き、シノンはマフラーをぐいと引き上げた。 「……で、これからどうするの?」 「取るべき作戦としては三つある」 キリトは腕組みし、視線を伏せた。 「まず、プラン1はこのままどこかに隠れつづけ、死銃が誰かに倒されるか、あるいは――他のプレイヤーが全員やられて、奴と俺たちだけが残るのを待つ。そうなったら、俺たちが相撃ちになって死ねば奴が優勝で、大会は終了する」 「……でも……」 「ああ。でもこの場合、あと何人犠牲者が出るかわからない。――俺は別に聖人君子じゃない、知らない奴よりも、自分の命と、かかわった人間……つまりシノンの命のほうが重要だ。しかし……やはり、事情を知る俺たちが行動せずに隠れ続ければ、自分のために他のプレイヤーを見殺しにすることになるという覚悟はしなけりゃならないだろう」 「…………」 「プラン2は、死銃には極力近づかないように注意しながら、俺たちが他のプレイヤーを倒してまわる。君の狙撃があれば、多分かなり大会終了を早められるはずだ。だが、死銃も、それに他のプレイヤーだって素人じゃない。死銃を察知できずに接触してしまうか、あるいは最悪、他のプレイヤーにやられて動けない死体になったところを死銃に見つかるかもしれない」 シノンはこくりと頷く。文字通り手も足も出ない、口さえ動かせない状況で、あの死神めいたボロマント姿が近寄ってきたらと思うと身の毛もよだつ。 「プラン3は――さらに積極策だ。死銃を捜す。そして倒す。だがこれは……ある意味では自殺と一緒だ。一発食らえばそれだけで殺される銃を持った相手と、こっちはまっとうなゲームルールに則って戦おうと言うんだからな」 シノンは再び頷き、大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。確かに、キリトの提案した三つの案以外に取れる行動はありそうにない。 「……で、あんたはどのプランがいいと思うの?」 マフラーの下から、上目遣いにキリトの顔を見ながら訊くと、黒衣の少年は思わぬことを言った。 「プラン4だ」 「……はあ?」 思わず間抜けな声を出してから、シノンは突然、キリトの言おうとしていることを察した。 「ここで別れよう。俺は単独でプラン2……他のプレイヤーを倒せるだけ倒す。残り人数が三になったら自殺する。君は後ろの森の、木が密集してるあたりに隠れて、残りが二人になったら自分を撃つんだ」 「…………」 鋭く息を吸い込み、シノンはキリトの整った顔を睨みつけた。足元で寝ているダインのことも意識から飛んでいた。 胸の奥では、相変わらず恐怖という名の細い蛇が心臓に巻きついている。しかし、青白く燃えあがったプライドの欠片が、瞬間その冷たい感触を忘れさせた。 「……馬鹿にしないでよ。確かにこの前は負けたけど、だからって総合力であんたに劣っているとは思っていない。あんたが死銃にやられるんじゃないかって考えながら、ウインドウ睨んで震えてるなんて真っ平よ。ここで分かれるのは反対しない。でもその場合は、私は一人で戦う」 「……シノン」 キリトもぐっと力を込めた視線でシノンを見た。 「……こんな状況になったのは、ある意味では俺の責任なんだ。昨日の時点で、奴を止めようと思えば止められた。だが、常識に縛られて、一度死銃の戦闘を見てから判断しよう――と考えてしまった。だから、俺は戦わなきゃならない。でも、君は…………」 「私にだって……戦う理由くらい……」 そう――ここで逃げることはできない、とシノンは思った。 もしここで死銃に怯え、どこか穴に隠れてしまったら……もう二度と、シノンの「強さ」を信じることはできなくなるだろう。「あの記憶」に打ち勝つための、唯一にして最後の希望は消え去り、現実の詩乃はこれからの日々を恐怖の発作に怯えながら生きていかなくてはならなくなるだろう。 それだけは嫌だった。死銃の力がもたらすという「死」も恐い。だが、それと同じくらい、恐怖に塗れた長い「生」も恐ろしい。 ひょっとしたら――キリトの存在ではなく、この状況こそが、運命によって与えられた試練なのではないだろうか。死銃と戦えと。そして倒せと。本物の殺傷力を持つ相手と戦うことによってのみ、あの記憶がもたらす恐怖を払拭できる―― 瞬間的に、そのような思考がシノンの脳裏を過ぎった。逃げることはできない、ともう一度キリトに告げるべく、口を開こうとした…… その時だった。 かすかな音が、シノンの聴覚の表面を叩いた。ぷちっと、何かが弾けるような、小さい音。 「待って」 さっと右手を上げ、シノンは素早く周囲に視線を向けた。川沿いに伸びる土手、鉄橋、その向こうの砂漠、背後の枯れた森――どこにも人影は無い。 しかし確かに、異質な音がした。現在聴こえているのは、甲高い風鳴り、低く響く川音、背後の木々の梢が風に擦れる乾いた音――その後ろに紛れるように、確かに…… 「!」 また聴こえた。銃声ではない。武器が擦れる金属音でも、ブーツが石を噛む音でもない。左前方……しかしそこにはとうとうと流れる水面しかない。 真紅の残照が反射する水面をじっと凝視する。川の流れは緩く、波頭が立つほどではない。その、揺れる鏡のような表面に―― ぽこっ、と小さな泡が浮いた。白い半球は数秒間水面を流れたあと、弾けて、ぷちっというあの音を発した。 それを見た瞬間、シノンの左手は反射的に動いていた。握ったMP7を横に構え、トリガーを引き絞った。 コンパクトなサブマシンガンは、スネアドラムのロールに似た咆哮を上げ、20発の弾丸をフルオートで吐き出した。川面に小型の水柱が幾つも立ち、濡れた貫通音が耳朶を叩く。 「シグを拾ってあんたも撃って!」 たちまち空になったマガジンを交換しながら、シノンは叫んだ。その時にはキリトも動いていた。つま先でダインのSG550を弾き上げ、空中でキャッチして腰溜めに構える。再び、今度は二重奏となった発射音が唸りを上げ、水面は沸騰したかのように真っ白になった。 水に潜ることは、ルール的には不可能ではない。だが、30秒を過ぎた時点でHPが減少をはじめ、またリペアキットによるHP回復が鈍足なこのゲームのシステムゆえに、自らダメージを被るその行為はまったくの愚考と思われていた。 しかし、先ほど浮かんだ泡は、水面の下に何ものかがいることを示していた。まさか、ともしや、の思いが交錯する。今にも、水の表面を貫いて赤い光線が伸びてくるのでは、と考えると心臓がぎゅうっと痛くなる。 新しい弾倉をMP7に叩き込み、再びトリガーを絞るが、目標の見えない射撃ゆえに着弾予測円は定まらない。数秒で再び20発を撃ち尽くし、同時にキリトの持つライフルも沈黙した。水面に幾つも広がった波紋がゆっくりと消え去り、再び静寂が訪れた。 倒したのだろうか。だとすれば、すぐにこの場を離れなくてはならない。だがこの位置からでは、反射が邪魔をして水底が見えない。 シノンが逡巡し、動きを止めたその隙を狙ったかのように―― いきなり、ざばっと水面が割れた。黒く巨大な影が、凄まじい高ステータスを示す恐るべき跳躍力で空を駆けた。ぼろぼろに解れたマントの裾が、凶鳥の翼のように広がった。 川岸を一度蹴っただけで、襲撃者は二人のわずか五メートル先にまで達し、地面に低くうずくまった。その姿勢のまま、機械のような動きでフードに包まれた頭がもたげられ、暗がりのなかから禍々しい視線が照射された。 間違いなく、モルターレ、デス・ガン、そして死銃の名を持つあの男だった。一度ははるか地平の彼方に歩み去ったと見せかけ、その実延々と川底を遡ってこの場所まで戻ってきたのだ。どのような方法で溺死を回避したのかは見当もつかない。 ぎりっと歯を食い縛り、シノンはMP7のマガジンをリリースした。稲妻のようなスピードで腰から弾倉を掴み取り、装着する。キリトも撃ち尽くしたSG550を投げ捨て、ファイブセブンに手を伸ばす。 しかし、二人が再度攻撃態勢に入るより早く、死銃のマントの隙間から右腕が突き出された。枯れ枝のように骨ばった指に、鈍い黒に光るあの銃が握られている。 深い闇を湛えた銃口にポイントされた瞬間、シノンの全身を冷たい震えが駆けめぐった。脚からすうっと力が抜ける。心臓が小さく縮み上がる。動きを止めたのはキリトも同様だった。 二人を黒いハンドガンで牽制しながら、死銃は左手を口もとに持っていった。フードの陰からつかみ出したのは、細いシリンダーを水平に二本接続したような形の器具だった。シノンは見たことがなかったが、何らかの呼吸補助アイテムと察せられた。それをマントの中にしまいこみ、死銃はしゅうしゅうと掠れた声で笑った。 「……わかってたよ、さっきの戦闘を誰かが見てたのはね。銃を拾いに出てくるかもと思って、苦労して川を潜ってきたんだけど……まさか、君達だとはね。僕は運がいい。こうも順序良く、ターゲットと遭遇できるとは……おっと」 キリトの体が一瞬緊張したのに目敏く気付いた死銃は、ひょいっとハンドガンの照準を移動させた。 「動かないでもらおう。さっきの戦闘を見てたなら、この銃の力は知ってるはずだよね。できれば、中継カメラが来てから撃ちたいんだよね。それまで待ってくれると嬉しいなぁ」 「……モルターレ」 左手をファイブセブン、右手をフォトンソードに添えた格好のまま、キリトが乾いた声で言った。 「お前の力は分かったし、からくりは見当もつかない。だが、もう止めておけ。お前はすぐに逮捕される、これ以上罪を重ねるな」 「……なんだって?」 「本名も、住所もわかっているんだ。ブラフじゃあないぞ、モルターレ……いや、《赤眼》のザザ」 ひゅっ、と鋭くモルターレが息を吸い込む音がした。 「……キリト……やっぱり……」 「そうだ。49層でお前と戦い、黒鉄宮に送り込んだのは俺だ」 「……ふ、ふ……まさかと思ったけどね……」 モルターレが握った黒い銃が、小刻みに震えているのにシノンは気付いた。反撃するチャンスかも、とかすかに思ったが、凍りついた指先はまるで動こうとしなかった。迷彩マントに包まれた痩せた体から、目に見えるほどの強烈な殺気が放射されてシノンを竦ませた。 「そうか……君かぁ……久しぶりだね……」 陰々と金属的に響くモルターレの声に含まれた悪意は、黒いタールのように粘ついて肌を粟立たせる。 「――お前は知らないだろうけどな、モルターレ。あの世界にいたプレイヤーのデータは、ある程度外部からモニターされていたんだ。お前がどこの誰だか、ちゃんと記録に残っているんだよ。だからもう、馬鹿な真似はやめるんだ」 キリトの言葉に、死銃はしばし沈黙したが、やがて再び乾いた笑いを漏らした。 「……それがどうしたって言うんだい? 僕は、自分の家からゲームを遊んでいるだけだよ。法律で僕を縛ることなんかできない」 「たとえすぐに逮捕はできなくても、お前とお前のアミュスフィアは徹底的に調べられるぞ。謎はすぐに解明され、お前は裁かれる。お前のしていることは唯の人殺しだ。いくらその銃で殺し続けても、誰もお前を称えたりはしない」 「……どれだけ調べたってわからないよ、死銃の力の秘密はね。だいたい……君そんなことを言う資格があるのかい? 僕を……人殺しと……責める資格が……」 モルターレの声は奇妙に歪みながら途切れた。突然、がしゃりと音をさせてハンドガンを構えなおす。極度の緊張のせいか、右腕がぶるぶると震えている。 ――撃つ。シノンはそう思って息を詰まらせた。 だが、モルターレはしゅうしゅうと呼吸を繰り返し、やがて腕から力を抜いた。 「……君はまだ撃たないよ。最後のご馳走に取っておくことにしよう」 左腕を出し、ちらりと時計に視線を落とす。 「まずは……こっちのお嬢さんからだ」 ゆらりと銃が動き、まっすぐに――シノンの顔を狙った。 動けない。声も出せない。 思考は完全に麻痺していた。シノンは棒立ちになり、ただ自分を殺そうとする相手を凝視することしかできなかった。 冷たい風が、モルターレのマントの裾を揺らす。空気をはらんだフードがわずかに持ち上がり、赤い残照がその奥を照らし出す。暗闇に、ぼんやりと顔が浮かび上がる。 土気色の肌。口もとと額に刻まれた皺。こけた頬。そして、暗い穴のように光のない目。そこにあったのは、どうしても忘れることのできないあの顔――あの男の顔―― 突然、男の右目の下に赤い穴が穿たれ、どろりと赤いものが流れ出す。次いで、右目が白い粘液と化して垂れ落ちる。しかし、男は笑う。とうとうつかまえた、と言わんがばかりににたりと笑う。 高周波のような耳鳴りがすべての音を掻き消す。地面がぐらりと傾き、視野が狭窄していく。 発作が/恐い/死にたくない/発作が起きる/助けて/助けて 混濁した思考の塊が頭のなか一杯に広がった。氷の狙撃手シノンは消え去り、両手を血に染めて悲鳴を上げつづけた五年前の詩乃に戻っていた。 目の前に立つ、腹と肩、それに顔からどす黒い血を大量に流したあの男が、にたにたと笑いながら右手に握った黒星の撃鉄を起こした。
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