ソードアート・オンライン3 『死銃』



インタールード 「装弾数7」


 ブラウザが起動すると同時に、スタートアップURLに設定されたサイトに自動でアクセスが行われ、いくつものウインドウがぱぱぱっと重層的に表示された。そのすべてがガンゲイル・オンライン関連で、特に《死銃》についての情報を扱っている所は重点的に集められている。
 「彼」は右手の指先で3Dマウスを操り、現在もっとも注目しているサイトをアクティブにした。トップには、死銃情報検証サイト、とあり、死銃の文字だけが赤く色づけされている。
 まず履歴に目をやり、今夜はまだ管理人による更新が無いのを確認すると、掲示板に移動。前夜にチェックしたときから、いくつかの書き込みがあったらしく、記事ツリーのあちこちに「New!」のマークが点滅している。順に読んでいくことにする。

 ――現われないね、ゼクシードとたらこ。もうじき一ヶ月? いいかげんアカウント切れるんじゃないの? 誰かリアルで連絡とれる奴ーここ見てたらそろそろ情報投下きぼーーーー

 ――だからいないって。スコードロンのメンバーも誰もリアル連絡先知らないっつってんだろ? つかGGOで個人情報漏らすやつはアホすぎw ピザ100人前届くよマジでww

 ――死銃に撃たれた日付けと時間はわかってるんですから、仮にほんとに二人が死んだとすれば、ちょうどその時間に死んだVRMMOプレイヤーがいなかったか調べれば分かるのでは?

 ――話題ループさせんな、過去ログ読め。一人暮らしだったら死んだって誰も気付かないし、警察に問い合わせても教えてくれないのは確認済み。ちなみにザスカーに英文メールで聞いたら、ユーザーの個人情報に関してはなんたらっていう定型レスが来て終〜〜了〜〜〜

 ――やっぱこれはアレでしょ。ゼクたんとたらこたんの引退記念ドッキリネタでしょ。お二人、そろそろ出てきて「大成功!」ってやってくれないとネタが冷めてしまいますよ☆

 ――歳がばれますよアナタ(笑) 結局、誰かが自分のカラダで検証するしかないと思います。というわけで、明日2330にロッケン中央銀行前で赤いバラを胸にさしてお待ちしていますので、死銃さん私を撃ってください

 ――勇者登場w でも死ぬ前に本名と住所晒してないと無意味な罠w

 ――むしろどっかのネカフェから公開ログインでオネガイシマス

 ――…………

 「彼」は苛立たしく舌打ちしてマウスのホイールを回し、次のウインドウをアクティブにした。だが、どこのサイトでも、「彼」の望む種類の記事や書き込みを見つけることはできなかった。
 当初の予想では、二人目に死を与えた時点で、《死銃》の力は本物なのではないか、という噂がネットを駆けめぐり、GGOプレイヤーたちは自分が次のターゲットとされるのではないかという恐怖に怯え、ゲームから引退する者が相次ぐ――ということになっていた。
 しかし現実には、愚かなネットゲーマーたちは未だ《死銃》の与える真の恐怖に気付かず、冗談めかしたやり取りに終始している。登録アカウント数も殆ど減っていないようだ。
 やはり、現実でのゼクシードとたらこの死がまったく報道されなかったのが計算外だった。どうやら、都内に限っても一日に相当数の変死事件があり、明らかな犯罪性が見られないものはニュースにならないようなのだった。
 もちろん、「彼」は自ら銃撃した二人の心臓が現実世界で確実に停止し、死亡に至っていることを知っている。それこそが《死銃》の持つ力なのだから。
 その情報を、検証サイトの掲示板に書き込みたいという誘惑は強烈だった。だが具体的な証拠を提示するのは「彼」にしても困難だし、そもそもそんなことをすれば《死銃》の伝説性が薄れてしまう。《死銃》はあの荒野に現われた最初で最後の絶対的強者、運営体の力すら凌駕する、本物の死神なのだから。
 ――まあいい。
 「彼」は深く長い息をつき、気持ちを落ち着かせた。
 もうすぐ、第三回のバレット・オブ・バレッツが開催される。《死銃》はその本大会において、更に二人、可能なら三人の命を消滅させる予定になっている。もちろん予選はあの銃の力を使わずに突破しなくてはならないが、その日の為に一日二十時間に及ぶログインで鍛え上げたステータスがあれば充分可能なはずだ。
 BoBの注目度は絶大だ。MMOフラッシュでの中継番組を見るのはGGOプレイヤーだけに留まらない。その大舞台で名実ともに最強者として君臨し、またあの銃で撃たれた者がまたしても姿を消せば、もう《死銃》の力を疑う愚か者はいないだろう。
 それだけの注目を浴びてしまえば、現在のアカウントはさすがにもう使えなくなるだろうが、構うことはない。あの銃さえあれば、新しい《死銃》が荒野に降り立つのは容易だ。
 そして更に殺す。予定では、生贄の数は7にまで増えるはずだ。その頃には、引退するプレイヤーが続出し、やがてはガンゲイル・オンラインというゲームそのものが死に至るだろう。かくて《死銃》は伝説となる。かの呪われた《ソードアート・オンライン》が生み出した死者の数には到底及ばないが、あれは単なる狂人が、電子レンジでユーザーの脳を茹でてまわったに過ぎない。《死銃》の力は、そんな低次元のものではないのだ。仮想世界の銃弾が、現実の心臓を止める――その秘密を理解できるものは、「彼」とその半身以外にはいない。《死銃》こそが真の最強者――SAOをクリアしたという噂の「黒の剣士」など問題にならない――絶対の力――伝説の魔王――最強――最強――最強――……
 「彼」はいつしか、右手にマウスを握り潰さんばかりの力を込めていたことに気付き、息を荒げながら肩の力を抜いた。
 そうなる日が待ち遠しい。その伝説さえ手にできれば、こんな下らない世界にはもう用がない。「彼」を煩わせる愚鈍な連中とも永遠におさらばだ。
 ブラウザ中に開いたウインドウ・タブを全て閉じると、「彼」は新たにひとつのローカルHTMLファイルを呼び出した。
 7列のテーブルに7つの顔写真、GGO中で撮影したスクリーンショットを切り抜いた画像が配置され、それぞれの右側に名前や武装等の情報が並んでいる。一番上の《ゼクシード》と、その下の《薄塩たらこ》の写真は色調を黒く落とされ、その上に血の色の×印が刻印されている。
 これは、《死銃》のターゲットリスト、言い換えればあの銃のマガジンに込められた死の弾丸の数だ。7人の誰もがGGOで名の通った強力なプレイヤーである。
 「彼」はゆっくりとファイルをスクロールし、一番下に配置されている写真を中央に表示させた。7人中、唯一の女性プレイヤーだ。
 右斜めのアングルで撮影されたスクリーンショット。淡いブルーのショートヘア、顔の両脇で結わえた房が細く流れて、頬のラインを半ば隠している。深く巻いたサンドイエローのマフラーのせいで口もとが見えないのが残念だが、どこか猫を思わせる深い藍色の瞳だけでも充分な輝きを放っている。
 右側に表示された名前は《シノン》。メインアームは対物狙撃ライフルのウルティマラティオ・ヘカートII。
 「彼」は何度も、ゲーム中で直接彼女を見たことがあった。グロッケンのマーケット街で買い物をしている姿、公園のベンチで屋台のブリトーを齧っている姿、そして戦場で巨大なライフルを背負い、疾走する姿――。そのどれもが、所有欲を掻き立てずにおかないコケティッシュな魅力に満ちていた。彼女が笑顔を見せることはほとんど無く、瞳には常にある種の憂いが満ちているのだが、それもまた「彼」を惹きつけてやまない。
 このシノンという名の少女を《死銃》のターゲットとすることに、「彼」は迷いを抱いていた。もし彼女が――ゲーム中に留まらず、現実でも、身も心も「彼」のものとなってくれるなら――
 だが「彼」の半身、《死銃》のもう一方の腕は、彼女の死を望むだろう。シノンは、GGOでは冷酷なる狙撃手、冥界の女神として知らぬ者のいない程の有名プレイヤーだ。《死銃》伝説に捧げられる花として、彼女ほど相応しい存在はない。
 せめて彼女の命を奪わざるを得ないときは、遠距離からの銃撃ではなく、この腕に抱き、素肌に触れ、唇を交わしながらにしたい、と「彼」は思った。もしそれがかなうなら、その瞬間を同時に「彼」がこの世界から離脱する時としてもよい。彼女とひとつになりながら、あの銃によって共に新しい世界へと旅立つ――それは至福の体験となるだろう。
 「彼」は、体の底にどうしようもない興奮のうずきを感じた。
「……ああ……」
 抑えきれない呼気を漏らしながら、モニタに顔を近づける。舌先でそっと、シノンの写真を舐める。
 つるりとしたラスタパネルの感触の中に、シノンの素肌の味と温度を感じとろうと、「彼」は何度も、何度も、飽くることなく舌を動かしつづけた。


第四章 「孤剣、弾雨」


 ウインカーを出し、車体をリーンさせて大きなゲートを通過した途端、並木道の両側を歩く人たちの非難の視線が集中した気がして、俺はあわててバイクのスピードを落とした。
 エギルのつてで入手した125cc2ストロークのタイ製おんぼろマシンは、エレクトリック動力車両全盛のこの時代にあっては絶望的なまでの騒音を発し、直葉などは後ろに乗るたびに「うるさいうるさいうるさい」と不満を爆発させている。そのつど、このサウンドがわからないうちは風になれないぞ等と言って誤魔化しているのだが、俺も内心では、せめて排ガス規制後の4ストスクーターにしておくんだったかと後悔していなくもない。
 ことに、走っている場所がこのような、病院の敷地内である場合などは尚更だ。
 ロバの引く荷車のごとき速度でトロトロと並木道を進むと前方に駐車場入り口が見えた。ほっとしながら乗り入れ、バイク置き場の端にマシンを止める。キーを抜き、メットを脱ぐと、師走の寒風に乗ってかすかに消毒薬の匂いが感じられた。
 菊岡との高額ケーキ会談から数日後の土曜日。ガンゲイル・オンラインにログインする為の部屋の用意が出来たというメールに重い腰を上げたのだが、指定された場所は何を考えているのか千代田区にある大きな都立病院だった。普段あまり東京都心には来ないのだが、道順に迷うことはなかった。なぜなら、この病院は――SAOに囚われていた二年のあいだ、我が現実の肉体が横たわっていた、まさにその場所だからだ。
 覚醒後もリハビリで長い時間を過ごし、退院してからも検査だの何だので何度も通った道である。ここ半年近く訪れたことはなかったが、こうして見慣れた白い建物を見上げると、懐かしいような心細いような何とも微妙な感慨が胸中を過ぎる。軽く頭を振って感傷を振り落とし、エントランス目指して歩きはじめる。
 菊岡の依頼でGGOにダイブすることを、俺は結局アスナにも直葉にも伝えなかった。伝えればまず間違いなく一緒に潜ると言い出すだろうし、それを止めさせるために《死銃》の話をすれば、今度は俺を行かせまいとするだろう、と思ったからだ。身勝手な言い分だが、俺はもう決して彼女らを、わずかにも危険な匂いのするバーチャルワールドに近づける気はない。
 《死銃》の話は、九分九厘まで噂の産物だろうと思う。
 仮想世界から、現実の人間に死をもたらす――、何度考えてもそんなことが可能とは信じられない。アミュスフィアというのは、いわばテレビの延長線上にある機械に過ぎないのだ。仮想世界、バーチャル技術、とまるでテクノロジーが生み出した魔法のごとき扱われようだが、その実体はあくまで便利な道具であり、人間の肉体から魂を切り離して異世界に運ぶマジックアイテムなどでは決してない。
 しかし、残り一厘の可能性が俺の足をこの場所に向けた。
 数ヶ月前、自室の押入れに堆積していた古いゲーム雑誌を処分していたところ、SAO稼動以前に行われた、アーガス開発部総指揮・茅場晶彦のショートインタビュー記事を発見した。そこで、生前のあの男はこう言っていた。
 ――アインクラッドとは、アン・インカーネイト・ラディウス、「具現化する世界」の略です。そこでプレイヤーの皆さんは、数々の夢が現実となるのを見るでしょう。剣、怪物、迷宮、そのようなゲーム的記号の具現化に留まらず、プレイヤー自身をも変容させていくだけの力が、あの世界には存在します――
 確かに俺は変わった。アスナも変わった。あの世界での二年間で、絶対に元には戻れないほどの人格変容が行われたはずだ。
 しかし、茅場の言う「変容」がそれに留まるものではなかったとしたら……? 今やザ・シードのお陰で無制限に増殖しつつある仮想世界のどこかに、人間の能力それ自体を変化させうる因子が生まれたのだとしたら……?
 今まで俺も菊岡もあえてその名称は用いなかったが、この際はっきりと言おう――「超能力」と。《死銃》という人物は、茅場晶彦の遠大なる計画が生み出した新しい人類なのだろうか……? もしそうなのだとしたら、彼が殺人者として姿を現したのは大いなる皮肉と言うべき――
 ういん、と音を立てて目の前で自動ドアが開き、押し寄せた暖かい空気が俺の思考を押し流した。

 まずトイレに寄って体内の貯蔵庫を限界まで空にしてから、プリントしたメールを頼りに、入院病棟3階の指定された病室へとたどり着いた。ドア脇のプレートに患者の名前はない。ノックの後、ドアを引き開けると――
「おっす! 桐ヶ谷君、お久しぶり!」
 俺を出迎えたのは、長い入院からリハビリ期間のあいだお世話になった、顔見知りの女性看護師だった。
 ナースキャップの下の長い髪を一本の太い三編みにまとめ、その先端で小さな白いリボンが揺れている。女性にしては長身の身体を包む薄いピンクの白衣は、鎖骨の下あたりから目を見張るほど盛り上がり、その頂点に「安岐」と書かれた小さなネームプレート。
 にこにこと笑みを浮かべている小作りの顔は、艶麗とでも表現するべき、入院患者にはいかにも毒だろうなあーと思わせる美しさである。
「あ……ど、どうも、ご無沙汰してます」
 つっかえながら俺が挨拶すると、安岐ナースはいきなりにゅっと両手を伸ばし、俺の肩から二の腕、わき腹あたりをぎゅうぎゅうと握った。
「わ……わぁ!?」
「おー、けっこう肉ついたねえ。でもまだまだ足りないよ、ちゃんと食べてる?」
「た、食べてます食べてます。というか何故安岐さんがここに……」
 部屋を見回すが、狭い個室には他に人の姿はない。
「あの眼鏡のお役人さんから話、聞いてるよー。なんでも、お役所のために仮想……ネットワーク? の調査をするんだって? まだ帰ってきて一年も経ってないのに、大変だねえ。それで、入院中の桐ヶ谷君の担当だった私にぜひモニターのチェックをして欲しいとか言われて、今日はシフトから外してもらったんだ。ドクターや婦長とも話ついてるみたいでさ、さすが国家権力ーって感じだよねー。とりあえず、またしばらくよろしくね、桐ヶ谷君」
「あ……こ、こちらこそ……」
 なんだかまるで俺が美人に弱いとでも言わんがばかりの小ざかしい策だなァ菊岡あああああとこの場に居ないエージェントを心中で罵りつつ、俺は笑顔で安岐ナースの差し出した手を握った。
「……で、その眼鏡の役人は来てないんですか?」
「うん、外せない会議があるとか言ってた。伝言、預かってるよ」
 渡された茶封筒を開き、紙片を引っ張り出す。
『報告書はメールでいつものアドレスに。経費は任務終了後、報酬とまとめて支払うので請求すること。追記――美人看護婦と個室で二人きりだからと言って若い衝動を暴走させないように』
 一瞬でメモを封筒ごと握りつぶし、ブルゾンのポケットへ放り込む。セクハラもいいところだ。
 訝しそうな顔をする安岐ナースに強張った笑顔を向け、俺は言った。
「あー……それじゃあ、早速ネットに接続しますので……」
「あ、はい。準備できてます」
 案内されたジェルベッドの脇には仰々しいモニター機器が並び、ヘッドレストの上には真新しいアミュスフィアが銀色の輝きを放っている。
「じゃあ脱いで、桐ヶ谷君」
「は……はい!?」
「電極、貼るから。どうせ入院中に全部見ちゃったんだから赤くならなくていいよー」
「…………あの、上だけでいいですか……」
 安岐ナースは一瞬考えてから、幸い首を縦に振った。観念してブルゾンとスウェット、Tシャツを脱ぎ、ベッドに横になる。たちまち、ゲルを塗られたモニター用の電極が上半身の数箇所にぺたぺたと貼られていく。
「よし、これでOK……っと」
 最後にモニタ機器のチェックをしたナースがこくんと頷くと、俺は手探りでアミュスフィアを取り上げ、頭に被った。電源を入れると、頭の後ろのほうで本体が動作し始める気配。
「えと、それじゃあ……行ってきます。多分4〜5時間くらい潜りっぱなしだと思いますが……」
「はーい。桐ヶ谷君のカラダはしっかり見てるから、安心して行ってらっしゃい」
「よ……よろしく……」
 なんでこんなことになってるのかなぁ……という疑問を今更のように抱きつつ、目を閉じた。
 同時に、耳もとでチチッ、とスタンバイ完了を告げる電子音。
「リンク――スタート!」
 叫ぶと、お馴染みの白い放射光が眼前に広がり、俺の意識を肉体から解き放っていった。

 世界に降り立った瞬間感じた強烈な違和感の理由は、数秒後に判明した。
 空が一面、薄く赤味を帯びた黄色に染まっていたのだ。
 ガンゲイル・オンライン内の時間は、現実同期と聞いていた。つまり、午後一時をいくらか回ったばかりの空は、先ほど病室の窓越しに見えていたのと同じ青であるはずだ。それなのにこの憂鬱な黄昏の色は、どういう理由によるものなのだろう。
 しばらくあれこれ想像してから、俺は肩をすくめて思考を打ち切った。GGOの舞台である荒涼たる大地は、最終戦争後の地球という設定だ。黙示録的雰囲気を出すための演出なのかもしれない。
 改めて、眼前に広がるGGO世界の中央都市、《グロッケン》の威容に目を向ける。
 さすがにSF系MMOの雄だけあって、その佇まいは、見慣れたアルヴヘイム首都の《イグドラシル・シティ》や、先日ようやく辿り付いたアインクラッド50層《アルゲード》のファンタジックな街並みとは大きく異なっていた。
 金属の質感を持つ高層建築群が天を衝くように黒々とそびえ、それらを空中回廊が網の目のようにつないでいる。ビルの谷間を、ネオンカラーのホログラム広告が賑やかに流れ、地上に近づくにつれそれらの数は増して、色と音の洪水のようだ。
 地面、と言っても俺が立っているのは土の上ではなく黒い金属でできた道だった。
 背後には、どうやら初期キャラクター出現位置に設定してあるらしいドーム状の建物があり、目の前にまっすぐ、あまり広くない道が伸びている。両側にはぎっしりと怪しげな商店が並び、どこか秋葉原の裏通りに似た情景だ。
 そして、ぎっしりと道を埋めて行き交うプレイヤー達も、一筋縄では行かない雰囲気を持った連中ばかりだった。
 圧倒的に男が多い。比較的女性比率が高いALOをホームとしているせいか、あるいはあの世界の住人は華奢な妖精ばかりだからだろうか、迷彩のジャケットや黒いボディアーマーをまとったゴツい男達が大量に闊歩している光景は実に圧迫感がある――と言うかエネルギッシュ――と言うか、はっきり言えばむさ苦しい。その上どうにも剣呑で、とても話し掛けるような気にはならない。
 それも当然、気圧されるのは大抵のプレイヤーが肩や腰に黒光りする無骨な武器――銃をぶら下げているからだ。
 装飾的要素のある剣や槍とは違って、銃にはたった一つの目的しかない。武器であること――つまり、敵を倒す、その為だけに磨かれた形であり、色なのだ。
 なるほど、つまりそれはこの世界そのものにも言えることなのだな、と俺は内心で頷いた。
 このゲーム世界に存在するのは、戦い、殺し、奪う、という先鋭化された目的だけだ。ALOにあるような、「幻想世界での生活を楽しむ」といった要素は在り得ない。
 その為には、多分華麗な容姿と言ったようなものは邪魔なのだろう。戦場で敵を怯えさせるための、獰猛な兵士としての外見がすでに重要なパラメータなのだ。男たちの多くが濃い無精髭を伸ばし、あるいは顔に目立つ傷痕を刻んでいるのはそれが理由だ。
 そう言えば、俺は一体どのような外見が与えられたのだろう、と今更のように考え、俺は両手と自分の体を見下ろした。理想を言えば、古い映画の「ランボー」やら「ターミネーター」的マッチョソルジャーな姿が望ましい――
 ――嫌な予感がした。
 手の肌は白く滑らかで、指はびっくりするほど細い。黒のミリタリー・ファティーグに包まれた体は、ことによると現実の俺以上に華奢だ。視点の感じからして、どうも背丈もそれほど高いとは思えない。
 このガンゲイル・オンラインにダイブするにあたって、初期キャラクターを一から生成したわけでは勿論ない。そんなことをしていては、強者のみを狙うという《死銃》といつ出会えるのか知れたものではない。
 VRMMO開発支援パッケージ、ザ・シードを利用して生成されたゲーム世界に共通する最大の特徴、それは「キャラクター・コンバート」機能である。ザ・シードを使うかぎりこの機能は決してオフにすることができない。
 それはつまり、あるゲームで育てたキャラクター・データを、全ゲームに共通のメタ・ルールを通して、他のゲームに移動させることができる、という機能だ。
 例えば、Aというゲームで育てた、筋力100、素早さ80というキャラクターを、ゲームBに移動させたとする。すると、ゲームAでの「強さのレベルを保持した」変換が行われ、ゲームBにおいて、STR40、AGI30といったキャラクターが誕生することになる。手っ取り早く言えば、ALO内で中の上、と言った強さを持ったキャラクターは、GGOでも中の上として生まれるというわけだ。
 無論これは、キャラクターのコピーを増やすという機能ではない。コンバートした瞬間、元の世界でのキャラクターデータは一時消滅し、更に移動できるのは生身のキャラクターだけでアイテム類は一切持ち出せない――理由は説明するまでもないだろうが――ため、便利ではあるがなかなかに度胸の要る行為なのだ。今回ALOにおける剣士キリトをGGOに移動するに当たって、可能な限りの財産を問答無用でエギルの店のコンテナに押し込めてきたが、いきなりフレンドリストから俺が消滅してアスナやリーファ達は泡を食うことだろう。どう説明したものか頭が痛い。
 さて、そのコンバート機能によって俺はこの世界でもALOでのキリト程度の強さ――と言っても一度初期化して育てなおしたキャラクターなので、SAOにおける初代キリトほどの無茶ステータスではないが――を得ているはずだが、外見もアイテムと同じく持ち出せないために、どのような姿がランダム生成されるかはまるで分からなかった。ゆえに、どうせなら屈強な兵士の姿を、と望んだわけなのである――が。
 どうにも嫌な気配を感じつつ、俺は周囲を見渡し、出てきたばかりのドームにはめ込まれたミラーガラスを見つけて歩み寄った。
 そして、愕然とした。
「な……なんだこりゃあ!?」
 思わず呻く。ガラスに映っていたのは――身長およそ160センチ、体重はどう見ても40キロそこそこ、艶やかな黒髪は肩のラインで鋭く切りそろえられ、肌は透き通るような白、唇が血の如く赤い――どう見ても少女としか言えない姿だった。濃い眉が一直線に伸び、黒々とした目も勝気そうに吊りあがっているのが救いだが、それにしたって睫毛が長すぎる。
 SAOのキリト君はかなり女顔だったよー、とはアスナの弁だが、この姿はもうそんな問題じゃない、一体どこに兵士の屈強さを見出せばいいのだ、と俺が呆然と立ち尽くしていると、少し離れた場所で何かを食っていた背の高い男が走り寄ってきて、背後からガラスに映る俺に声をかけた。
「おおおお、お姉さん運がいいね! その体、F-13型でしょ! め〜〜〜ったに出ないんだよ、それ。どう、今ならまだ始めたばっかだろうしさあ、アカウントごと売らない? 2M出すよ!」
「…………」
 俺は思考停止状態のまましばらく男の顔を眺め、ようやくある可能性を思いつき、泡を食って両手で自分の胸部をまさぐった。だが幸い、そこには平らな胸板があるばかりで、危惧したような感触はなかった。それでは、恐怖の性別逆転事故が起こったというわけでもないらしい。ようやく少しばかり頭がマトモになり、男に向きなおりながら答える。
「あー……、悪いな。俺、男なんだ」
 その声も、やや低いが充分に女の子で通用するトーンである。げんなりしながら男の顔を見上げると、今度は奴さんがしばらく目を丸くしたあと、先刻に倍する勢いで捲し立てはじめた。
「じゃ、じゃあそれM-B19型かい!? す、すごいな、それなら4……いや5M出す。う、売ってくれ、ぜひ売ってくれ」
 売るどころかタダで進呈しよう、いやアンタの外見と取り替えてくれ、と俺は思ったが、残念ながらそういう訳にも行かない。
「初期キャラじゃなくて、コンバートなんだ。ちょっと金には替えられない、残念だけどな」
「そ……そうか……」
 男はいかにも惜しそうに俺を各方向から眺め回していたが、やがて気が変わったら連絡してくれ、と透明なカード状のものを俺に押し付けて立ち去って行った。眺めているうちにそのカードは発光・消滅してしまったが、多分システムウインドウ中のアドレス帳か何かにデータが追加されているのだろう。
 俺はなおもガラスの中の我が身に呆然と見入りながら、何とかならないものかと考えたが、何ともなりはしないという結論以外出てこなかった。このコンバート履歴は俺のキャラデータに埋め込まれ、ALOに戻ったときに元のツンツン髪のスプリガン・キリトの姿に復帰できる代わりに、再びGGO世界にコンバートした所で与えられるのはこの少女だか少年だか判別できない体なのだ。
 不運の中に幸運を捜せ、がモットーの俺は、それから数分間あれこれ考え、ようやく一つの「良かったコト」を捻くり出した。この世界に来た目的は、ひとえにかの《死銃》なる男と接触して、銃撃されるのは願い下げだがどうにかしてその能力の真贋を判定することだけだ。その為には、とにかく強さをアピールし、また目立たなくてはならない。
 この姿は――少なくとも、目立つのは確かだろう。戦場での威圧感などはカケラも望めそうにないが、そちらのほうは戦闘能力そのものでカバーするしかない。
 強さの宣伝に関しては、とりあえず一つの作戦があるにはあった。通常のゲームプレイ、ダンジョン探索や、やりたかないがプレイヤーキルなどで名を売るにはそれなりに時間が必要となるが、幸いこのゲームではほんの数日後に「バレット・オブ・バレッツ」なる最強プレイヤー決定イベントが開催される予定になっていた。それにエントリーし、ともかくバトルロイヤル形式の本戦に進むのだ。上位に食い込んで名を売れば《死銃》氏にも当然注目されるだろうし、あるいはことによると大会に本人が出場してくる可能性もあった。
 初めてダイブするゲームでどの程度戦えるかは未知数だが、とりあえずやってみるしかない。銃相手の戦闘というのがどのような物なのかは見当もつかないものの、ともかくVRMMOである限り実際に体を動かして闘うには変わりないだろう。頑張れるだけ頑張って――それで力が及ばなければ、その時はこんな無茶な仕事を押し付けた菊岡の責任である。
 ともかくまずは大会へのエントリー手続き、そして装備の購入だ。
 俺は最後に我が身を一瞥し、フンと息を鳴らしてきびすを返した。そして、揺れて頬にかかった髪を無意識のうちに指先でかきあげているのに気づき、暗澹とした気分に襲われた。

 ――数十秒後、あっけなく道に迷った。
 グロッケンは、どうやら基本となるフロアが三つ重なっている多層構造を取っているらしく、それらを繋ぐ空中回廊やらサブフロアやらエスカレータやらエレベータやらが滅多矢鱈と入り組んで、街なんだかダンジョンなんだかわからない有様なのだ。メインメニューからは、詳細な立体マップを呼び出すことができるのだが、表示される現在位置と、実際に眼前に広がる光景を照合するのも容易ではない。
 これがスタンドアローンRPGであれば、自棄を起こして闇雲に歩き回り、元の場所にすら戻れなくなるところだが、幸いこれはMMOだ。こういう時に取るべき手段は一つである。
 俺は、目の前の細い路地を流れる人波の中に、一際目を引く水色の髪のプレイヤーを見つけ、後ろから声を掛けた。
「あのー、すいません……ちょっと……道、を……」
 そして即座にしまったと思った。
 振り向いたのは、どう見ても女の子だったからだ。
 さらさらと細いペールブルーの髪は無造作なショートだが、額の両側で結わえた細い房がアクセントになっている。眉はくっきりと太く、猫科な雰囲気を漂わせる藍色の大きな瞳、小ぶりな鼻と色の薄い唇がそれに続く。
 いやいや、ひょっとしたら俺のバーチャル体と同様の少女っぽい少年君かも知れぬと思い雷光の迅さで身体に視線を走らせたが、サンドカラーのマフラーの下、ジッパーの開いたジャケットの奥ではシャツの胸部分が控えめに盛り上がり、さらによくよく見れば相当に小柄だ。それに気付かなかったのは、俺の目線もかなり低くなっているせいなのだが。
 VRMMOにおいて、男性プレイヤーが女性プレイヤーに「道に迷った」等々と声を掛ける場合、その8割はナンパ目的と思ってよい。
 危惧したとおり、振り向いた女性プレイヤーの顔にもあからさまな警戒の色が浮かんでおり――しかし、意外にもその表情はすぐに消え去った。
「……このゲーム、初めて? どこに行くの?」
 高く澄んだ可愛らしい声で言うその口もとには、かすかな微笑さえ浮かんでいるではないか。これは一体どうしたことだろう、と内心で首を捻ってから、俺はようやくその理由に思い至った。この女の子は、先刻声を掛けてきたアカウントバイヤーの男と同様の誤解をしているのだ。俺を、自分と同じ女の子だと。まったく何ということだ。
「あー、えっと……」
 俺は反射的に己の性別を明らかにしようと思ったが、咄嗟に思いとどまった。
 これはある意味都合のいい状況かもしれない。この後、改めて男に声を掛けなおし、また同じような誤解をされれば、少々面倒な事態になりかねない。利用できるものは何でも利用しろが俺の第二のモットーでもあることだし、この際、彼女には悪いがしばらく誤解したままでいてもらうにしくは無い。
「あ、はい、初めてなんです。どこか安い武器屋さんと、あと総督府、っていう所に行きたいんですが……」
 比べればやや低く、ハスキーな響きのある声で俺が答えると、女の子はわずかに首を傾げた。
「総督府? 何しに行くの?」
「あの……もうすぐあるっていう、バトルロイヤルイベントのエントリーに……」
 それを聞いた途端、彼女の大きな目がぱちくりと丸くなる。
「え……ええと、今日ゲームを始めたんだよね? その、出ちゃいけないことはぜんぜんないけど、ちょっとステータスが足りないかも……」
「あ、初期キャラってわけじゃないんです。コンバートで、他のゲームから……」
「へえ、そうなんだ」
 女の子の、藍色の瞳がきらりと光り、口もとに今度こそにこっと笑みが浮かんだ。
「聞いていい? 何でこんな埃っぽくてオイル臭いゲームに来ようと思ったの?」
「それは……ええと、今までずっとファンタジーなゲームばっかりやってたんですけど、たまにはサイバーっぽいので遊んでみたいなあ、って思って……。銃の戦闘とかも、ちょっと興味あったし」
 まあこれは嘘ではない。剣での近接戦闘に特化した俺のVRMMO勘が、どの程度GGOに通用するのかということには少々の興味がある。
「そっかー。それでいきなりBoBに出ようだなんて、根性あるね」
 女の子はくすりと笑うと、大きく頷いた。
「いいよ、案内してあげる。私もどうせ総督府に行くところだったんだ。その前にガンショップだったね。好みの銃とか、ある?」
「え、えっと……」
 そう言われても、咄嗟には出てこない。俺が答えに詰まると、女の子はもう一度微笑した。
「じゃあ、色々揃ってる大きいマーケットに行こう。こっち」
 くるりと振り向き、歩き始めた彼女のマフラーの揺れるしっぽを、俺はあわてて追いかけた。
 絶対に経路を記憶することなど不可能と思える、路地やら動く歩道やら動く階段を次から次へと通り抜け、数分歩くと不意に開けた大通りに出た。正面に、大手の外資系スーパーを思わせる賑やかな店舗が見える。
「あそこだよ」
 女の子はすいすいと人波を縫って店に向かった。
 広大な店内は、様々な色の光と喧騒に満ち、まるでアミューズメントパークのようだった。NPC店員たちは皆露出の大きい銀色のコスチュームをまとった美女たちで、ニッコニッコと営業スマイルを振り撒いているのだが、ギョッとするのが彼女らの右手に握られたり、四方の壁に飾られているのが全て、黒光りするゴツい拳銃やら機関銃だということだ。
「な……なんだか、すごい店ですね」
 俺が言うと、隣に立つ女の子も小さく苦笑した。
「ほんとは、こう言う初心者用の店よりも、もっとディープな専門店のほうが掘り出し物があったりするんだけどね。まあ、ここで好みの銃系統を見つけてからそういうとこに行ってもいいし」
 言われれば、店内をうろついているプレイヤー達の服も派手めな色のコーディネートで、ビギナーっぽい印象ではある。
「さてと。あなた、ステータスはどんなタイプ?」
 女の子に聞かれて、俺は一瞬考えた。異世界間コンバートとは言ってもキャラの能力的傾向は引き継がれるはずだ。
「えっと、筋力優先、その次が素早さ……かな?」
「STR-AGI型か。じゃあ、ちょっと重めのアサルトライフルか、もうちょっと大口径の小銃をメインアームにして、サブはハンドガンの中距離戦闘タイプがいいかなあ……。あ……でも、あなたコンバートしたばかりだよね? てことは、お金が……」
「あ……そ、そっか」
 俺は慌てて左手を振った。コンバートで能力値は引き継がれても、アイテムやら所持金の移動はできない。つまりウインドウの下端に表示されている金額は――
「ええと……せ、千クレジット」
「……ばりばり初期金額だね」
 俺と女の子は顔を見合わせ、困ったように笑いあった。

「うーん……」
 女の子は、薄い唇の下に右手の指先を当て、わずかに首をかたむけた。
「……その金額だと、小型のレイガンくらいしか買えないかも……。実弾系だと、中古のベレッタが……どうかなあ……。――あのね、もし、よかったら……」
 俺は、彼女が言わんとする先を察し、慌てて首を振った。どんなMMOでも、ニュービーがベテランから過剰な援助を受けるのは決して褒められたことではない。この世界にはゲームを楽しみに来たわけではないが、それでもゲーマーとして譲れない一線というものはある。
「い、いや、いいですよ、そこまでは。えっと……何処か、どかんと大きく儲けられるような場所ってないですか? 確かこのゲームにはカジノがあるって聞いたんですが……」
 すると女の子は、さすがに少しばかり呆れたような笑みを見せた。
「ああいうのは、お金が余ってるときに、スるのを前提でやったほうがいいよ。そりゃあ、あちこちに大きいのも小さいのもあるけどね。確か、この店にだって……」
 くるりと頭を巡らせ、店の奥を指差す。
「似たようなギャンブルゲームはあるよ。ほら」
 細い指先が示す先には、なにやらピカピカと電飾がまたたく巨大な囲いが見えた。
 近寄ってみると、それは店の壁の一面を丸ごと占領する、ゲームと言うにはあまりに大きな代物だった。幅3メートル、長さは15メートルほどもあるだろうか。金属タイルを敷いた床を腰の高さほどの柵が囲い、一方の端に、西部劇のガンマンめいた格好のNPCが立ち、時折腰のホルスターから巨大な拳銃を抜いては指先でくるくる回しながら挑発的な台詞をわめいている。もう一方の端には柵が無く、かわりに開閉式の金属バーと、キャッシャーらしき四角い柱が見える。
 ガンマンの後ろには弾痕の刻まれた壁がそびえ、その上部にピンクのネオンで《Untouchable!》の文字。
「……これは?」
「あっち側のゲートから入って、NPCの銃撃をかわしながらどこまで近づけるか、っていうゲームだね。今までの最高記録が、ほらそこ」
 女の子の目線の先、柵内部の床面に、赤く発光する細いラインがあった。全体の三分の二をわずかに超えたところだろうか。
「へえ。……いくら貰えるんです?」
「えっと、確かプレイ料金が500Crで、8メートル突破で500、10メートルで1000、12メートルで2000、ガンマンに触れれば、今までプレイヤーがつぎ込んだお金が全額バック」
「ぜ、全額!?」
「ほら、看板のとこに表示があるよ。いち、じゅう……30万ちょいか」
「す……凄い金額ですね」
「だって無理だもん」
 女の子は即答し、肩をすくめる。
「あのガンマン、10メートルラインを超えるとインチキな早撃ちになるんだ。一度に三発撃ってくるしね。予測線が見えたときにはもう遅いよ。がんばって8メートル超えれば、料金を取り戻すくらいのことはできるけど」
「予測線……」
 その時、女の子がくいくいと俺の袖を引っ張った。小声でささやく。
「ほら、またプールマネーを増やす人がいるよ」
 見ると、三人連れの男がゲームの入り口に近寄っていくところだった。
 そのうちの一人、白地に薄いグレーの、寒冷地仕様と思しきファティーグを着込んだ男が両腕をぐるぐる回しながらゲートの前に立つ。右手の掌をキャッシャー上端のパネル部分に押し付けると、それだけで支払いが行われたのか、一際賑やかなファンファーレが響き渡った。たちまち、店内のあちこちから十人ほどのギャラリーが集まってくる。
 NPCガンマンが英語で「てめえのケツを月まですっ飛ばしてやるぜ」的スラングをわめき、腰を落として銃を収めたホルスターに手を添えた。寒冷地用迷彩男の前に、グリーンのホロ表示で大きな「3」の数字が現われ、効果音とともに2、1と減少、0になると同時にゲートの金属バーががしゃんと開いた。
「ぬおおおりゃあああ!」
 寒冷男は雄叫びを上げながら数歩ダッシュし――たかと思うと両足を広げて急制動をかけた。一瞬目を見開き、突如、上体を右に傾け、左手、左足を上げるという妙な格好を取る。
 何の踊りだろう、と思ったその瞬間、寒冷男の頭の左側10センチのところと、左脇の下と、左ひざの下を青白いレーザーの火線が通過した。NPCガンマンがホルスターから銃を抜き、立て続けに三発ぶっぱなしたのだ。見事な回避だが――まるで、寒冷男には、レーザーが狙っている箇所がわかっていたように見えた。
「……いまのが……?」
 顔を寄せてささやくと、水色の髪の女の子はこくんと頷き、同じく小声で答えた。
「そう、弾道予測線による攻撃回避」
 寒冷男は、火線が消えると同時に再び猛然とダッシュし、またすぐに停止する。今度は両足をぐっと大きく開き、上半身を90度屈める。
 直後、甲高い唸りとともに、二本のレーザーが男の頭上を、一本が股の間を通過した。再び数歩進み、立ち止まる。まるで、「だるまさん転んだ」のようだ。
 男はどうしてなかなかに機敏な動きを見せ、たちまち6メートルほど前進した。あと数歩で、とりあえずプレイ料金だけは取り戻せるはず――と思ったその時。
 今まで三発ずつ同じ間隔で連射していたNPCガンマンが、時差をつけて二発、一発とレーザーを放った。遅れて飛来した一弾を、寒冷男はジャンプで回避したが、着地でバランスを崩し、片手を地面に着いた。あわてて立ち上がろうとしたものの時既に遅く、ガンマンの右手が閃いて、放たれた火線が男の白いベストの上にブルーの火花を散らした。
 へろへろへろ〜と情けないファンファーレ。ガンマンは口汚く勝利の言葉をわめき、その背後のプール金額表示が金属音とともに500クレジット分上昇した。寒冷男は肩を落とし、すごすごとゲートから外に出た。
「……ね?」
 隣で女の子が、マフラーの奥でかすかに笑いながら再び肩をすくめた。
「左右に動けるならともかく、一直線に突っ込むんじゃどうしたってあのへんが限界なのよ」
「ふうん……なるほど、予測線が見えたときにはもう遅い……か」
 俺は呟くと、ゲートに向かって足を踏み出した。
「あ……ちょっと、あなた……」
 目を丸くして呼び止めようとする女の子に、軽く片頬で笑みを返し、キャッシャーに右手を押し当てる。がしゃちゃりーんと旧式のレジスターのような音が聞こえ、賑やかなサウンドが鳴り響く。
 新たな馬鹿者登場のせいか、あるいは俺の容姿のせいか、ギャラリーや寒冷男を含む三人組がざわめいた。マフラーの女の子は両手を腰に当て、あっきれたーというふうに小さく首を振っている。
 ガンマンの、先ほどとは異なる罵り声と同時に、目の前でカウントダウンが始まった。
 腰を落とし、全力ダッシュの体勢を取る。数字が減少し、金属バーが開いた瞬間、俺は地を蹴って飛び出した。
 数歩も進まないうちに、ガンマンの右手が閃き、握られた銃の先端から三本の赤いラインが伸びた。俺の頭、右胸、左足をそれぞれポイントしている。
 ――と感じた瞬間、俺は思い切り右前方に飛んでいた。直後、体の左側をかすめて、青い光線が通過。すぐに右足でパネルを蹴り、中央に戻る。
 もちろん、VRMMOゲーム内で銃と相対するのは初めてのことだ。
 しかし、ALOにも――そしてSAOにも、弓やら毒液やら魔法やらで遠距離攻撃をするモンスターは多々存在した。それらの飛び道具を回避する方法は一つ。敵の「眼」から射線を読むのだ。
 俺は赤い弾道予測線も、黒い銃口も見ずに、ただひたすらNPCガンマンの眼だけを凝視した。ぴくりぴくりと動くその生命なき瞳から、攻撃が襲ってくる箇所の気配を感じ取る。と同時に右に左に、あるいは上に下に大きく動き、無音で飛来する予測線それ自体を回避する。
 気付くと、ガンマンは俺の目の前、あと少しで手の届こうという所に立っていた。右手の銃はもう間断なく光線を撒き散らしている。俺は顔を右に振り、左に倒し、体を横にして、至近距離からの三連撃をやり過ごした。直後に伸ばした右手が、ドンとガンマンの胸板を叩いた。
 一瞬の静寂のあと――
「オー!! マィ……ガ――――――――ッ!!」
 大げさな絶叫とともに、ガンマンが両手が頭を抱え、地面に両膝をついた。同時に、狂ったようなファンファーレの嵐。
 それに混ざってガラガラという音が響き、何事かと顔を上げると、ガンマンの背後の赤レンガ壁の一部が内側から爆発したように崩れ、内部からドでかい金貨の雨がざらざらと降ってきた。それは俺の足元に跳ね返り、薄れて消えていく。
 プール金額の表示がだーっと減っていき、ゼロになると同時に金貨の雨も途絶えた。一際やかましいサウンドが店内中に響いたあと、ゲームはリセットされ、ガンマンも起き上がってまた拳銃を指先でくるくる回し始めた。
「……ふう」
 俺は息をつくと、左側の柵を飛び越え、ゲームから出た。
 その途端、いつのまにか倍くらいに増えていたギャラリーの壁から、どよめきの渦が湧き起こった。何だよ今の、誰だあれ、という声が飛び交う。
 人垣の中からたたっと駆け寄ってきた水色の髪の少女が、藍色の目を丸くして俺を凝視した。数秒後、その唇から掠れた声が流れた。
「……あなた、どういう反射神経してるの……? 最後、目の前……1メートルくらいのとこからのレーザーを避けた……あんな距離だともう、弾道予測線と実射撃の間にタイムラグなんてほとんどない筈なのに……」
「え、えーと……だって……」
 俺はどう答えたものかしばし迷った挙句、言った。
「だって、この弾避けゲームは、弾道予測線を予測する、っていうゲームなんでしょう?」
「予測線を予測ぅ!?」
 女の子の、可愛らしい叫びが店内の空気を貫いた。ギャラリー達も全員、目を丸くしてしーんと黙りこんだ。

 数分後、ようやくギャラリーが三々五々散った武器ショップの一角で、俺はショーケース内のライフルをあれこれ眺めては首を捻っていた。
「う〜ん……。このアサルトライフルってのは、サブマシンガンより口径が小さいのに図体が大きいのは どういうわけ なんです?」
 隣の親切な女の子に素朴な疑問をぶつけてみたが、彼女はまだ驚きの余韻が冷めないらしく、見慣れぬものを見た猫のような、警戒心と好奇心の入り混じった瞳でじーっと俺を見ている。
「……そんなことも知らないのに、あんなとんでもない回避技術があるなんて……。コンバート、って言ったよね。前はどんなゲームにいたの?」
「え、えっと……よくある、ファンタジー系のやつですけど……」
「そう……。――まあ、いいわ。BoBの予選に出るなら、戦闘を見せてもらう機会もあるしね。で、銃だっけ。300kも稼いだなら結構いい奴が買えると思うけど……最終的には、その人の好みと拘りだから……」
「ナルホド」
 俺はゆっくり歩きながら、黒光りする銃を次々に見て回るが、どうにもピンと来ない。それも当然、銃に関する知識なんて、「拳銃にはリボルバーとオートマチックがある」で終了してしまう程度なのだ。
 唸っている間に、いつの間にか、店内に隙間無く並んでいる陳列棚の一番奥まで来てしまっていた。こうなったらもう、女の子にお任せで選んでもらおう――と思ったその時、視界に妙なモノが入った。
 長いショーケースの隅に、銃とは明らかに異なる、金属の筒のようなものがいくつか並んでいた。
 直径3センチ、長さは25センチほどだろうか。片側には登山用のカラビナに似た金具が下がり、もう一方は少し太くなっていて、中央に何かの発射口にも見える黒い穴の開いた突起が伸びている。この店に陳列されているからには銃なのだろうが、握りも、引鉄らしきものも見当たらない。筒の上部に、小さなスイッチが一つ見えているだけだ。
「あの……これは?」
 聞くと、女の子はちらりと視線を走らせ、それが癖なのであろう仕草で小さく肩をすくめた。
「ああ……それはコーケンよ」
「こ、こうけん?」
「光の剣、と書いて光剣。正式名は《フォトンソード》だけど、みんなレーザーブレードとか、ライトセーバーとか、ビームサーベルとか、適当に呼んでる」
「け、剣!? この世界にも剣があるんですか」
 俺はあわててショーケースに顔を近づけた。言われてみれば、古いSF映画で宇宙の秩序を守る騎士たちが振り回していた武器に非常によく似ている。
「あることはあるけど、実際に使う人なんていないよ」
「な……なぜ?」
「そりゃあ、だって……超近距離じゃないと当たらないし、そこまで接近する頃には間違いなく蜂の巣に……」
 女の子はそこで言葉を切り、唇を僅かに開いたままじっと俺を見た。
 俺はにこっと笑い返し、言った。
「つまり、接近できればいいわけですね」
「で、でも、そりゃあなたの回避は凄いけど、フルオートの銃相手だと……あ」
 女の子が言い終わらないうちに、俺はケースに並ぶフォトンソードのうち、色合いが気に入ったマットブラック塗装の奴を指先でワンクリックしていた。出てきたメニューから「BUY」を選択すると、ものすごい速さでNPC店員がすっとんできて、笑顔で金属のパネルのようなものを差し出した。板の中央に、先ほどのゲームのキャッシャーについていたのと同じ、緑色のスキャナ面があるのに気付き、右掌を押し当てる。
 またしてもレジスター的効果音が響き、パネル上面にぶうんとフォトンソードが実体化した。持ち上げると、NPC店員はお買い上げありがとうございましたぁ〜と笑顔で一礼し、来たときと同じ速度で定位置まで戻っていった。
「……あーあ、買っちゃった」
 女の子が右斜め45度の視線で俺を見ながら、言った。
「ま、戦闘スタイルは好きずきだけど、さ」
「そうそう。売ってるってことはきっとそれなりに戦えるはずですよ、コレでも」
 答えながら、俺は右手で短い筒状武器をしっかり握りなおし、目の前にかざした。親指を動かしてスイッチを入れると、低い振動音とともに、紫がかった青に光るエネルギーの刃が1メートル強ほど伸長し、周囲を照らした。
「おお」
 思わず短くつぶやく。今までいろいろな剣を握ってきたが、刀身が実体のない光でできた奴は勿論初めてだ。とりあえず中段に構えてから、すっかり体に染み付いているSAOの片手直剣ソードスキル《バーチカルスクエア》を繰り出してみる。
 ブン、ブォン、と心地よい唸りを上げながら、光の剣は空中に複雑な軌跡を描き、ぴたりと停止した。当然ながら、剣の重量による慣性の抵抗はまるで感じない。
「へえー」
 横で、女の子が短く手を叩きながら、少し驚いたような笑みを見せた。
「なんだか、けっこうサマになってるね。ファンタジー世界の技かぁ……案外あなどれないかな?」
「や、それほどでも……。しかし、軽いなァ」
「そりゃそうよ、せいぜい軽いくらいしかメリットない武器だもん。――それはそうと、メインアームはまあソレでいいとしても、サブにSMGかハンドガンくらいは持ってたほうがいいと思うよ。接近するための牽制も必要だろうし」
「……なるほど、それはそうかもですね」
「あといくら残ってる?」
 言われてウインドウを出してみると、300kクレジット以上あったはずの所持金は、150kそこそこに減っていた。そう言うと、女の子はまばたきしてからひょいっと肩をすくめた。
「うへ、光剣って無闇と高いんだなぁ。残り15万だと……弾や防具の代金も考えると、ハンドガンかな」
「あの、もう、お任せします」
「BoBに出るなら実弾銃がいいよね……牽制目的なら、パワーよりもアキュラシーかな……うーん」
 呟きながら、女の子は拳銃が並んでいるケースの前をゆっくりと歩き、やがてそのうちの一つを指差した。
「残金ぎりぎりだけど、これがいいかな。FN−ファイブセブン」
 細い指の先には、握り部分がなめらかな丸みを帯びた、やや小型の自動拳銃が鎮座していた。
「ファイブ……セブン?」
「口径のこと。5.7ミリだから、普通の9ミリパラベラム弾に比べるとかなり小さいんだけど、形がライフル弾に近いから命中精度と貫通力にアドバンテージがあるの。特殊な弾だから、同じFN製SMGのP90としか共用できないけど、これしか持たないなら関係ないしね」
「は、はあ……」
 立て板に水のごとく滑らかな解説が出てくるのを聞いて、俺は初めて、この水色の髪の少女にわずかな興味を抱いた。
 性別固定のVRMMOゆえに現実のプレイヤー本人も女性なのは間違いないが、人種、年齢はまったく定かではない。それでも、俺の勘によれば、歳はそれほど離れていない気がする。
 もちろん、MMORPGをプレイしているのだから、ゲーム内のアイテムについて詳細な知識があるのは当然だ。アスナやリーファだって、ALO内の剣やら魔法について語らせれば5分や10分では終わらない。
 しかし――、やはり「銃」はどこか別格であるように思えてならない。しかも、GGOに登場する銃の半分は、現実世界に実際に存在する武器なのだ。導かれるのはどうしたって荒廃と殺戮のイメージだ。俺と同年代の女の子が、そのような世界にダイブし、すべての銃について詳細な知識を持つベテランプレイヤーとなるまで戦い続けるほどの動機、モチベーションとは一体どのようなものなのだろうか――
「ね、聞いてる?」
「あ、は、はい」
 俺は慌てて思考を中断し、頷いた。
「じゃあ、これを買います。他に買ったほうがいいものって、なんです?」
 勧められた《ファイブセブン》なる拳銃、いやハンドガンのほかに、女の子の言葉に従ってスペアマガジンやら厚手の防弾ジャケット、ベルト型の《対光学銃エネルギーフィールド発生器》等々を買い込むと、先ほどの弾避けゲームで稼いだ300kクレジットは綺麗に消えてしまった。
 右腰にフォトンソード、左腰にファイブセブンの新たな重みを感じながら店を出ると、黄昏色の空はわずかに赤味を増していた。
「すっかりお世話になっちゃいました。どうもありがとう」
 俺が頭を下げると、女の子はマフラーの奥でかすかに微笑み、首を振った。
「ううん、私も予選が始まるまで、特に予定無かったから。……あっ」
 言葉を切り、女の子は慌てたように左手首の無骨なクロノメーターを覗き込んだ。
「いけない、確か3時でエントリー締め切りだよ、急がないと。総督府はこっち!」
 ひょいっと俺の手を握り、いきなり駆け出す。これはやはり、同じ女の子だと思っているのだろうなあ、と今更のように罪悪感を覚えながら、俺も必死に後を追った。
 複雑に入り組んだグロッケンの街を、三次元的にとても覚えきれない道順で走り抜け、最後に暗渠のような短い地下道を抜けると、突然目の前が大きく開けた。
 半月形の広大なスペースに接して、ごつごつと無骨なかたちをしたビルディング――というより塔が聳え立っている。どうやら、ドーム形状のグロッケンのほぼ北端にいるらしく、塔の背後には高い壁が左右に伸び、左手方向から降り注ぐオレンジ色の陽光を受けて鈍く光っている。
「ここが総督府、通称《ブリッジ》。あなたが出てきたスタート地点の、ちょうど反対側だね」
 女の子は俺の手を離し、塔を見上げながら言った。
「ブリッジ? 橋?」
「じゃなくて、艦橋っていう意味かな? グロッケンが宇宙船だった時代の司令部だから、そう呼ばれてるみたい。イベントのエントリーとか、ゲームに関する手続きは全部ここでするんだ。さ、行こ」
 女の子のあとについて広場を横切り、塔の一階に入ると、そこもかなり広い円形のホールになっていて、左右の壁に沿って無数の端末が並んでいた。かなりの人数のプレイヤーがフロアを行き交い、また吹き抜けの二階にはカフェのような物もあるらしく、肩にごつい銃を下げた男たちがアフタヌーン・ティーを楽しんでいるという異様な光景が見える。
 俺を並んだ端末のひとつに連れて行き、女の子はひょいっと首を傾げた。
「操作は普通のパソコンと一緒だけど……エントリーの仕方、わかる?」
「やってみます」
「ん。私も隣でやってるから、分からなかったら聞いて」
 こくんと頷き、パネルで仕切られた端末に向かう。
 モニターに映し出されているのは、「グロッケン総督府」と表記されたホームページ状の画面で、驚いたことにメニューも含めて全てが日本語だ。ダイブ前に、現実世界のネットでGGOのオフィシャルサイトを見たときはすべて英語で閉口したものだが、どうやらゲーム内はある程度のローカライズが行われているらしい。
 指先でモニターを辿ると、すぐに第三回バレット・オブ・バレッツエントリーのボタンが見つかり、更に数回の操作で簡単に手続きが終了した。モニタに、予選トーナメント一回戦のブロックと時間が表示される。日付けは今日、時間は――わずかに30分後だ。
「終わった?」
 女の子がひょいっと俺のブースを覗き込んだ。はい、と答え、メニューを初期化して端末から離れる。
「ブロックはどこだった?」
「Kです。K−37だったかな?」
「あ……そっか。同時に申し込んだからかな、私もKブロックだよ。12番だから……良かった、当たるとしても決勝だね」
「良かった、って、何でです?」
「決勝まで行けば、本大会には出られるの。予選だからって……」
 猫を思わせる瞳をくるっときらめかせ、
「手は抜かないけどね」
「ああ……なるほど。もちろん、もし当たったら全力で戦いましょう。――それにしても、ここの端末は日本語なんですね?」
「ああ……うん。運営体のザスカーっていうのはアメリカの企業らしいんだけど、日本向けサーバーのスタッフには日本人もいるみたい。でもほら、GGOって日本でもアメリカでも、法律的には結構グレーらしくて」
「還元システムのせいですね」
「そう。ある意味ギャンブルだもんね。だから、表向きのホームページとかには最低限の情報しかないんだ。所在地も載ってないんだから、徹底してるよね。キャラ管理とか、通貨還元用のEマネーIDとか、ゲームに関する手続きはほとんど中でしか出来ないの」
「何て言うか――凄いゲームですね」
「だから、現実とはほぼ完全に切り離されてるんだけど……でも、そのせいで、今の自分と、現実の自分も……」
 ふと、女の子に瞳に影が過ぎった気がして、俺は口を噤んだ。
「……?」
「う、ううん、なんでもない、ご免。――そろそろ会場に行かないと。って言っても、ここの地下なんだけどね。準備はいい?」
「ええ」
「決勝で会えるといいね。あなたの戦い方、ちょっと興味あるし。あ……まだ、名前言ってなかったね」
 女の子はメニューを出し、その表面から透明のカードを取り出した。慌てて俺も左手を振ると、出現したホロウインドウの左下に「パーソナルカード」なるボタンを発見し、押した。ピコっという音とともに名刺サイズのカードが出現する。
 俺に向かってカードを差し出しながら、女の子は微笑み、言った。
「私の名前はシノン。よろしくね」
 偽装もどうやら限界と見て、俺もカードを摘んだ右手を伸ばしながら名乗った。
「――俺はキリト。よろしく」
「…………俺? キリト……?」
 女の子の微笑みがすうっと消え、眉がわずかにしかめられる。
「あなた……まさか……」
 左手でパッと俺のカードをひったくり、女の子――シノンはそれを覗き込んだ。
「……M。 あなた、男!?」
 引っ込められかけたシノンのカードを俺も素早く掻っ攫い、視線を落とした。「シノン」という名前の横に、小さく「F」の表記。どうやら俺と違って間違いなく女の子らしい。
「あれ、言わなかったかな? 男だよ、勿論」
「……こ、この……口調まで違うじゃない……」
 シノンの藍色の瞳が強い光を放ちながら、俺をじろりと睨んだ。先ほどまでは無かった、明確な敵意の色。
 うーんゾクゾクするね、と不埒なことを考えながら、俺はいつもの片頬だけの笑みとともに改めて右手を差し出した。
「助かったよ、ありがとう」
 シノンは、左手の甲でぱしんと俺の手を叩き、答えた。
「ほんとに、楽しみだよ、君と決勝で当たるのが」
 少女のまとう雰囲気の変化には、驚くべきものがあった。周囲の温度までが、春から冬へと急降下したかのようだ。
 真珠のごとく色の薄い唇を一直線に引き結び、改めて「敵戦力」を計る視線で俺を一瞥すると、シノンはくるりと身を翻した。そのまま、総督府一階ホールの奥に見えるエレベータらしき扉へと、コンバットブーツを鳴らして歩いていく。まるで――いま初めて、現実のプレイヤーからゲーム内の戦士へと変貌したとでもいうような……
 しばらく、揺れる水色の髪とマフラーのしっぽを見つめていたが、予選会場の場所も知らない俺はここで置き去りにされては困ると思い慌てて追いかけた。シノンは振り向きもしなかったが、壁に設けられたボタンに触れ、開いたドアの内部に一歩踏み込んだところで足を止め、ようやく肩越しに一瞬だけ俺の顔を見た。
「ついてこないで」
「や、その……場所、知らないし」
 氷の彫像のような横顔に向かって言うと、シノンはかすかにため息をつき、もう一歩動いて入り口を空けた。ほっとして、俺もエレベータに体を滑り込ませる。
 シノンが内部のボタンを押すと音も無く扉が閉まり、すうっと降下する感覚が訪れた。
 しばらくは、カシッ、カシッ、と階数表示が切り替わる機械音だけが狭い空間に満ちていたが、やがてシノンが抑揚の薄い声で言った。
「――最低限のことだけ説明しておく。ここから出たら本当に敵同士だから」
「ど、どうも」
「地下20階のホールが待機場所になってて、時間が来たら対戦者と一緒にバトルフィールドに転送される」
 俺はちらりとエレベータ上部のインジケータを見上げた。Bのついた数字は25まであるようだ。
「最下層じゃないんだ?」
「ああ、最下層には遺跡ダンジョンに入るためのチェックゲートが……――余計な口挟まないで」
 じろりと睨まれてしまう。
「は、はい」
「実際の戦場に飛ぶ前に、カーゴルームにアクセスできるからそこで装備を整えて、と言っても君には必要ないだろうけど。フィールドの広さは500メートル四方、マップはランダム。最低200メートル離れた場所からスタートして、決着したらまた待機エリアに戻ってくる。勝ったとして、その時点で、次の対戦者の試合が終わってればすぐに二回戦がスタート。終わってなければ、それまで待機。Kブロックは64人だから、5回勝てば決勝進出で本大会の出場権が得られる。――これ以上の説明はしないし質問も受け付けない」
 ぶっきらぼうな言葉のわりには丁寧な解説によって、どうやら予選トーナメントの概略は想像できた。俺は改めてシノンに礼を言った。
「大体わかったよ。ありがとう」
 すると彼女は、再び一瞬だけ俺に視線を投げ、またすぐに前を向いた。唇が動き、ささやくような声が流れる。
「――決勝まで来るのよ。あれだけ色々説明させたんだから、最後のひとつも教えておきたい」
「最後?」
「敗北を告げる弾丸の味」
「……楽しみだな。しかし、君のほうは大丈夫なのかい?」
 シノンはフン、とかすかに鼻を鳴らし、ごくごくわずかな笑みを浮かべた。
「予選落ちなんかしたら引退する。今度こそ――」
 エレベータの扉を凝視するシノンの瞳が、強烈な瑠璃色の光を放った。標的にフォーカスするレンズの如く、ギュウッ! と音を立てて焦点が切り替わったような気がした。
「――強い奴らを、全員殺してやる」
 その言葉はほとんどボリュームのある音声としては発せられず、かすかな振動として直接俺の意識に響いた。シノンの唇が更に動き、獰猛な獣のような笑みを形作った。俺の背筋を、久しく感じたことのなかった氷のような戦慄が駆け上った。ちょうどその時、電子音と同時にエレベータが減速、停止し、扉が左右に開いた。
 ドアの向こうは、ドーム状の広大な空間だった。六角形の金属タイルを敷き詰めたフロアがどこまでも広がり、彼方にトラス構造の支柱が連続する壁と天蓋が見えるものの、ほとんど闇に飲まれている。上空には、街で見たのと同じような巨大なホログラムがゆっくりと回転しているが、それは謎の広告ではなく、明朝体の日本語フォントで「第三回 バレット・オブ・バレッツ予選会場 開始まで あと7分30秒」と書いてある。
 どうやら俺たちはほとんど最後に会場入りしたようで、フロアには既に数百人は下らないプレイヤー達がたむろしていた。三々五々固まり、盛大にくわえ煙草の紫煙を噴き上げたり、ボトルごと酒をあおったりしている連中は、地上で見たプレイヤー達よりも更に数倍怪しく、剣呑で、俺はおもわず「うわっ」とうめいていた。強面大男のエギルだってここに混じれば目立つまい。
 だがシノンはまるで気にするふうもなく、すたすたと壁際を歩いていく。と、その姿を目に留めたプレイヤーの一団が低くざわめいた。やはり彼女は相当な有名人なのだ。この世界では珍しい女性プレイヤーだから、というだけではなく、突出した強さのせいでもあるのだ、きっと。――などと思っていると、男達の視線が俺を捉え、そして新たなどよめきが波のように広がった。反射的に首を縮める。
 確かにこの世界には、せいぜい目立って「死銃」氏と接触するために来たのではあるが、こういう場所で直接の注目を集めるのはどうにも苦手だ。
 慌てて俺もドアの前を離れ、シノンの後を追った。
 すたすたと歩いていくシノンは、やがて壁際に人気の無いスペースを見つけると、そこにすとんとしゃがみ込んだ。マフラーをぐいっと引き上げ、深く顔を埋める。その姿からは他人を拒絶するオーラが強烈に放たれているが、俺は図太い神経を発揮してそれをやり過ごし、シノンの隣にどっこいしょと腰を下ろした。
「……ついてこないで、って言った」
 苛立ちを帯びた、氷点下の声が流れる。
「心細いし……どうせあと数分だしさぁ」
 子供のように言い返すと、盛大なため息が返ってきて、それきりシノンは黙り込んだ。
 数十秒間の沈黙のあと、俺が懲りもせずに話し掛けようとしたその時、新たな足音が俺たちに近づいてきた。膝をかかえて座り込んだまま顔を上げると、それは灰色の長髪を垂らした背の高い男だった。
 ダークグレーにもう少し明るいグレーのパターンが入った、迷彩の上下を身につけている。肩から、やや大型の機関銃、多分サブマシンガンではなくアサルトライフルという奴を下げ、痩せた体に似合った鋭い顔立ちだ。歴戦の兵士、というよりは、特殊部隊の隊員といった雰囲気である。
 男は俺には目もくれず、シノンをまっすぐ見て微笑を浮かべ、口を開いた。
「遅かったね、シノン。遅刻するんじゃないかと思って心配したよ」
 その馴れ馴れしい口調に、俺はまたシノンの言葉のナイフが出るぞー、と思って首をすくめたが、以外や水色の髪の少女は身にまとった雰囲気をふっと和らげ、小さな笑みを浮かべて答えた。
「こんにちは、シュピーゲル。ちょっとしょうもない用事に引っかかっちゃって。あれ、でも……あなたは出場しないんじゃなかったの?」
 シュピーゲルと呼ばれた男は照れくさそうに笑いながら右手で頭をかいた。
「いやあ、迷惑かもと思ったんだけど、シノンの応援に来たんだ。ここなら、試合も大画面で中継されるしさ」
 どうやら男はシノンと旧知の間柄らしく、すとんと彼女の前に腰を下ろして胡坐をかいた。
「それにしても、しょうもない用事……って?」
「ああ……ちょっと、コノヒトをここまで案内したりとか……」
 シノンが、打って変わって冷たい目を一瞬だけこちらに向ける。俺はやれやれ、と思いながらうつむけていた顔を上げ、シュピーゲルという男にむかってかるく会釈した。
「どーも、こんにちは」
「あ……ど、どうも、はじめまして、シュピーゲルといいます。ええと……シノンの、お友達さんですか?」
 それなりに雰囲気のある、強そうな男ではあるが、どうやらシュピーゲルはその鋭い外見に似合わず礼儀正しい性格のようであった。あるいは――やはり俺の性別を誤解しているのか。
 どう答えると面白いかなあ、と思いながら俺が言葉を捜していたとき、シノンが短く吐き捨てた。
「騙されないで。男よ、そいつ」
「えっ」
 目を丸くするシュピーゲルに、しかたなく名乗る。
「あー、キリトと言います。男です」
「お、男……。え、ていうことは、えーと」
 シュピーゲルは混乱した表情で俺とシノンを交互に見る。へえ、ふーん、と思った俺はちょっとした悪戯心で、男の混乱に燃料を注いでみることにする。
「いやあ、シノンにはすっかりお世話になっちゃって、いろいろと」
「ちょっ……な、何もしてないわよ私は。だいたいアンタにシノンなんて呼ばれるおぼえは……」
「またそんなつれないことを言う」
「つれないもなにも、赤の他人よ!!」
「武装のコーディネイトまでしてくれたのに?」
「そっ……それは、アンタが……」
 と、そこまで掛け合いを続けたときだった。
 突然、甘い響きの女性NPCボイスが、大音量で待機エリアに響き渡った。
『大変お待たせしました。ただ今より、第三回、バレット・オブ・バレッツ予選トーナメントを開始いたします。エントリー・プレイヤーの皆様は、カウントダウン終了後に転送されます。幸運をお祈りします』
 直後、会場じゅうに拍手とうおおっという歓声が湧き上がる。
 喧騒のなかシノンはすっくと立ち上がり、俺にびしっと右手の人差し指を向けた。
「決勝まで上がってきなさいよね! その頭すっ飛ばしてやるから!」
 俺も腰を上げ、にっと笑って答えた。
「デートのお招きとあらば参上しないわけには行かないな」
「こっ、この……」
 進行していた10秒のカウントダウンがゼロに近づき、俺はシノンに手を振ってから転送に備えようと前を向いた。そして、じっと俺を見ていたシュピーゲルと視線が合った。
 その鋭い目に、明らかな警戒と敵意の色を見て、これはちょっとやりすぎたかな、と思ったのも束の間――俺の体を青い光の柱が包み、たちまち視界の全てを覆い尽くした。
 転送された先は、暗闇の中に浮かぶ一枚のへクスパネルの上だった。目の前に、斜めに浮かぶ緑色のホロウインドウがあり、上部に「カーゴルーム」の表示がある。更にその奥に、こちらは垂直に「準備時間:残り58秒 戦場タイプ:古代遺跡G」と書かれたウインドウ。
 おそらく、指定されたマップに適合する装備を整えるための準備時間として一分間が与えられているのだろうが、余分なアイテムも、マップの知識も持ち合わせていない俺にはまったく意味がない。右手の指先で、カーゴルーム・ウインドウ下部のOKボタンを押して消去する。
 デジタル数字が、蝸牛の歩みほどの速度でのろのろと減少していくのを待つ間、俺はあるひとつの突飛な可能性についてぼんやりと考えていた。
 あのシノンという少女の、あまりにも極端な変貌。触れたもの全てを切り裂くナイフのような殺気。
 エレベータの中で、まるでテレパシーのように俺の脳裏に響いた声を思い出す。「強い奴を、全員殺す」――荒唐無稽と言えばそれまでの、あまりに直截な台詞ではあるが、俺はなぜかかのSAO世界においても何回とは憶えがないほどの戦慄を感じていた。ゲーム内のロールプレイを超えたリアルな殺意が、彼女の小さな身体から強烈に放射されたかのようだった。
 電子信号が作り出す虚構世界において、あそこまでの「意思」を感じさせるプレイヤーにはほとんど会ったことがない。女性プレイヤーでは、端的に言えば、激怒した時のアスナ以外には知らない。いや――「閃光」、そしてそれ以前は「凶戦士」とまで呼ばれたアスナでも、あのような獰猛さを俺に感じさせたことはなかった。
 有りうるだろうか? あの水色の髪の少女が、俺の捜す「死銃」その人である、というようなことが?
 菊岡が俺に聴かせた音声ファイルに記録されていた死銃の声、あの、金属が軋むような不快な声と、シノンの甘く澄んだ声とはまるで違う。だが、ここはSAOとは異なる、あくまで通常のゲーム世界だ。一人のプレイヤーが複数のキャラクターを所持し、ログインごとに使い分けるということはごく当たり前に行われている。
 それに、口ぶりからすれば、シノンはバレット・オブ・バレッツ本大会進出に絶対の自信を持っているようだった。「死銃」はきっとその大会に出てくる、という俺の予測が正しければ、候補者は30人にまで絞られる。シノンはその一人、ということになる。
 心情としては、こんな可能性は検討したくない。俺をショップに案内し、あれこれ説明してくれたときの彼女からは、まったくと言っていいほど殺気を感じなかった。それどころか、そこはかとない寂しさ、人恋しさを漂わせていたような気すらした。一体どちらが本物のシノンなのだろう……
 ――ここでいくら考えていても結論は出ない。剣を交えれば、いや銃を撃ち合えば、きっと何かが分かるだろう。
 そう思って、伏せていた視線を上げたその瞬間、残り時間表示がゼロになった。俺の体を、再度の転送感覚が襲った。

 放り出されたのは、陰鬱な黄昏の空の下だった。
 甲高い笛のような音を引いて、風が過ぎ去っていく。上空の黄色い雲が恐ろしい速さで流れ、足元の枯草がざわざわと揺れる。
 すぐ傍らには、古代ギリシャ風――だかローマ風だかの、巨大な円柱がそびえていた。3メートルほどの間隔を置いて、コの字型に何本も連なっている。ある柱は上部が崩れ、あるものは完全に倒れて、はるか昔に滅びた神殿の廃墟といった趣だ。
 俺はとりあえず、手近な柱にぴたりと体を寄せてから素早く周囲を見渡した。
 枯れた草原が四方どこまでも続き、その彼方に、今いる場所と似たような遺跡が点在している。シノンの説明によればフィールドは500メートル四方ということだが、地平線までは数十キロとありそうだ。きっと不可視の障壁が設定してあるのだろう。
 更に解説を思い出す。対戦者は、現在少なくとも200メートル離れた位置に出現しているはずだが、とりあえず見渡したところ人影のようなものはない。きっと、俺と同じようにどこかの遺跡に隠れているのだ。
 このまま俺も隠れ続けて、敵が痺れを切らせて動いたところを発見する、という作戦もあるが、どうも「待ち」は性分ではなかった。それよりも、とりあえず最寄の遺跡まで全力ダッシュして、あえて銃撃されることで敵位置を確認するほうが手っ取り早いなあ……と思いながら、何気なく左手で、腰に装備されているハンドガン、確かFN−ファイブセブンなる名前のソレの感触をたしかめた時だった。
 一際激しい風が、ざああっと吹き渡って、周囲の草原を激しく波打たせた。突風が過ぎ去り、草が再び立ち上がった、まさにその瞬間。
 俺の目の前、わずか20メートルほど離れた草むらから突然、ザッ! と人間が立ち上がった。
 すでに両手でぴたっと構えられたアサルトライフル、その機関部に押し付けられた髭の生えた頬、顔の上半分を覆うレンズのついたゴーグルと、ダミーの草が伸びたヘルメットなどが一瞬で目に焼きつく。
 いつのまにそんなところまで接近されたのか、まるで分からなかった。その理由の一端は、彼が身に付けた迷彩服にあるのは明らかだった。周囲の草むらとまったく同じカーキ色の地に、細い縦縞のパターンが入っている。なるほど、これがあの60秒の準備時間の効用か――と思う間も無く。
 敵が右肩に構える黒いライフルから、無慮数十本の赤いラインが伸び、俺を含む周囲の空間をびっしりと貫いた。
「うわっ!!」
 俺は思わず悲鳴を上げ、同時に思い切り地を蹴り、飛んでいた。もっとも「弾道予測線」の密度が薄かった方向――上空へ向かって。
 直後、敵のライフルがカタカタカタ! と軽快な音を立て、右足の脛部分に立て続けに二回の衝撃を感じた。視界の右端に表示されていたHPバーが、がくん、がくんとほぼ一割減少する。とてもじゃないが、避けきれる弾数ではない。シノンが警告してくれた、「フルオート射撃」という言葉を今更のように思い出す。
 俺は空中でくるりと後方に宙返りして、背後にあった円柱の上端に着地した。とりあえず反撃してみようと、左手で腰からファイブセブンを抜く。
 が、それを構える余裕すらも敵は与えてくれないようだった。再び、俺の身体に無数の予測線が突き立った。
「わああ」
 情けない悲鳴を上げ、円柱の後ろに飛び降りる。が、更に一弾が左腕を掠め、HPが削られる。
 降り注いだ弾の雨のほとんどは石の柱に命中し、ビシビシビシと音を立てて細かい破片を飛散させた。ばくばく言う心臓を押さえつけながら、必死に体を縮め、円柱の陰にうずくまる。
 いやはや、これは確かに剣対剣の戦闘とはまったく違う!
 あの弾除けゲームのNPCガンマンによる銃撃は、二秒のインターバルを置いて三発程度のリズムで、それを避けるのにも全神経の集中を要したのだが、いくらなんでもこんな――秒間十発以上とさえ思える連射には手も足も出ない。
 俺の右腰に下がる「フォトンソード」であの髭面をぶった斬るには、どうしたってすぐ目の前まで接近しなくてはならないが、そこまでたどり着く前に穴だらけにされるのは必至だ。
 完全に回避するのが不可能なら、どうにかして銃弾を「防御」するしかない。だが生憎、この世界には飛び道具を防いでくれるマジックシールドのような物は存在しない。SAOなら、剣を盾のかわりにする武器防御スキルというものがあったのだが――
 俺はふと、右腰に下がったままの光剣に手を添えた。この剣で、せめて何発か銃弾を防ぐことができれば……だが、そんな離れ業を実現するためには、襲ってくる弾の軌道を正確に予測する必要が……
 いや――それは可能だ。可能なはずだ。なぜなら、弾の軌道は、「予測線」がきっちり教えてくれるではないか。
 俺はごくりと生唾を飲み込み、右手で光剣を強く引いて金具から外した。
 現在、銃撃は一時的に止んでいる。おそらく、再び草むらに身を沈め、左右どちらかから回り込んでくるつもりだ。
 俺は目を閉じ、聴覚のみに集中した。
 あいかわらず風がびゅうびゅうと鳴っている。その甲高い音を、意識から排除する。波立つ草原の乾いた葉擦れの音、規則的に繰り返されるそのリズムの中に、イレギュラーな音を探す。
 居た。
 左斜め後方、7時の位置を、かすかな不規則音源が9時方向へとゆっくり移動している。二〜三秒動いては停止し、こちらを探る気配を感じる。
 敵の移動が再開し、止まり、そしてまた動きはじめた、その瞬間。
 俺は右足で思い切り地面を蹴り飛ばし、男の潜む位置へと一直線の全力ダッシュを開始した。
 よもや、隠れているはずの自分に向かって敵がまっすぐに突っ込んでくるとは、髭面の男も想像しなかったのだろう。枯草の中から体を起こし、膝立ちになってライフルを構えるまでに一秒半ほどのタイムラグがあった。
 その時点で、俺は男との距離約25メートルを半分近く詰めていた。走りながら、右手に握ったフォトンソードのスイッチを、親指でスライドさせる。ヴン、と頼もしい音とともに、青紫色に輝く刃が長く伸びる。
 三たび、敵のアサルトライフルから伸びる10本以上の着弾予測線が表示された。
 首筋をちりちりと疾る恐怖を抑えつつ、冷静に観察したところ、赤く細いラインはすべてが同時に現われたわけではなく、ほんの少しずつの時間差があった。その差がつまり、ライフルのマガジンから吐き出されてくる弾丸の順序、というわけなのだろう。
 ダッシュする俺の、現実と比べれば相当に小柄な身体をしっかりと捉えている予測線は合計で6本あった。あとは全て、上下左右にわずかずつ外れている。ごく近距離であることを考えると、敵のライフル――もしくは射手自身の命中精度は案外大したことはないのかもしれない。
 久々のガチンコバトルの緊張感に、ようやく俺のスイッチも入りはじめたようだった。視界の余白部分が放射状に引き伸ばされ、ターゲットの姿だけが鮮明になっていくような、懐かしいアクセル感。ゆっくりと流れていく時間のなかで、意識だけが猛烈なスピードで回転しはじめる。
 黒い敵ライフルの銃口が、パッとオレンジ色に光った。
 その瞬間、俺の体をポイントする6本のライン、その初弾と次弾の軌道を、光剣の刀身で寸分の狂いもなく遮る。
 バッ、バシッ!! ――とまばゆい火花が、光の刃の表面に弾けた。それを意識した時にはもう、俺の右腕は電光のように閃き、三弾め、四弾めの軌道を結ぶ線分にフォトンソードを重ねている。再度、銃弾が高密度のエネルギーによって消滅させられる衝撃音。
 「当たらないはず」の銃弾が耳もとで立てる唸りを、一切無視して突進し続けるのはかなりの精神力を要する行為だったが、俺は歯を食い縛って更に剣を動かした。五――そして六! 命中弾のすべてを剣で叩き落し、残る距離を一気に駆け抜けるべく全力で地面を蹴る。
 驚愕のせいか、レンズつきゴーグルの下、濃い髭に囲まれた男のアゴががくんと落ち、口が大きく開かれた。だが、それでも男の両手はすさまじい速さで動き、空になったマガジンをリリースすると同時に腰からスペアを引き抜いてライフルに叩き込もうとする。
 そうはさせじと、俺は左手に握っていたファイブセブンを男に向けた。指に力を込めた途端、男の胸を中心に薄い緑色の円が表示されて驚かされるが、構わず立て続けに五回、引鉄を絞る。
 意外に軽い反動が肘から肩へ伝わると同時に、緑の円は小さく収縮し、男の上半身をきっちり収める程度のサイズになった。その内部、男の肩とわき腹に二発が命中し、残り三発は背後の草むらへと消えていったが、どうやら当たった弾は男の防弾装備を貫通してダメージを与えたようだった。ぐらりとよろめいて、僅かにたたらを踏む。
 その時間で充分だった。
 間合いに入った瞬間、俺は体を小さく右に捻り――
 仮想の大地を突き破る勢いで踏み込むと同時に、ダッシュのスピードを余さず乗せた全力の直突き、SAO世界であれば《ヴォーパルストライク》と呼ばれた必殺の一撃を、敵の胸板に叩き込んだ。
 まるでジェットエンジンのような振動音とともに、光の刃はあっけなく根元まで貫通した。行き場の無いエネルギーの嵐が、一瞬敵の体内で吹き荒れるような感触。
 直後、凄まじい光と音が俺の右手元から円錐状に放射され、敵の身体を無数のポリゴン片に変えて空間に拡散させていった。

 痺れるような戦闘の余韻を全身に感じながら、俺はゆっくりと体を起こした。ヴヴン、と音をさせて光剣を左右に切り払い、一瞬背中に収めそうになってからスイッチを切る。
 カラビナ状の金具で右腰に剣を吊り、左手のハンドガンもホルスターに収めると、ようやく溜めていた息を長く吐き出して、黄昏の空を仰ぎ見た。ちょうどその時、流れていく雲をスクリーンにして、コングラチュレーションの表示が浮かび上がった。
 このしんどい戦闘が、あと四回か――と思い、がくりと肩を落とす俺の体を、転送エフェクトの青い光が包んでいく。寂しい風鳴りが徐々に遠くなっていき、大勢の人間が立てる喧騒がそれにとって変わったときには、俺はもう待機エリアへと戻っていた。
 どうやら、場所も転送されたときと同じ壁際のようだった。きょろきょろと左右を見渡すが、シノンとシュピーゲルの姿は無かった。シノンは戦闘中としても、彼女との関係が少々気になるあの男はどこに行ったのだろうと周囲を見渡すと、少しドームの中央寄りの場所に、覚えのあるグレーの迷彩服姿があった。こちらに背を向け、上空を見上げている。
 俺も視線を上向けると、予選開始前は残り時間の表示が浮いていた場所に、マルチ画面のホロモニターが出現していた。4×4個の巨大な画面それぞれに、さまざまなフィールドで銃をぶっぱなしまくるプレイヤー達の姿が映っている。
 おそらく、現在同時進行している数百の試合のうちいくつかを中継しているのだろう。時折、不運なプレイヤーが銃弾を受けて四散し、勝敗が決するたびに、フロアにたむろする無数のプレイヤーから大きな歓声が湧き上がる。
 どれどれ、シノンの試合は映っているかな、と思いながら俺も数歩前に進んだ。右上から一つずつ確認していくが、カメラが引き気味なのでどうもよくわからない。あの目立つ水色の髪を見つけようと、じっと視線を集中する――
 ――だから、いきなり右耳のすぐ近くで声がした時は、心臓が止まるほど驚いた。粘つくような、それでいて金属質な響きのある声が、直接耳に注ぎ込まれた。
「君、強いね」
「!?」
 反射的に飛び退りながら振り向く。
 立っていたのは、俺より少しだけ背の高い――つまりはどちらかと言えば小柄なプレイヤーだった。
 性別はわからない。黒いぼろぼろのマントを体に巻きつけてフードを目深に下ろし、更に顔の下半分を布で覆っているからだ。わずかにフードの奥、暗闇の中で光る眼だけが見て取れる。ナイフで切ったように細く吊りあがり、暗赤色の小さな瞳が瞬きもせずに俺を見ている。
「あ……アンタは?」
 反射的に聞くが、黒マントのプレイヤーは答えずに、音も無く俺に歩み寄ってきた。ここは街中で、アタックはできないはずだと判っていても、無意識のうちに腰の剣に手が伸びる。
 黒マントは再び俺の眼前数センチにまで顔を近づけると、まるでエフェクターにでも通したかのような非人間的な声で言った。母音が多重にブレる不快な響きに、肌が粟立つ。
「試合、見てたよ。それ……光剣だね。珍しいね、ここで剣を使うなんて」
「…………」
「それに……どこかで見たような動きだったよね。今はもう無い、別のゲームで、だけどね」
 ――まさか……。
「ねえ……名前、教えてよ」
 名乗るべきではない、そんないわれもない強迫観念に捕われ、俺はためらった。しかし――試合経過のデータを参照すれば、どうせ分かってしまうことだ。
「……キリト」
 短く告げた、その途端、フードの奥で細い目が一瞬見開かれた。点のごとき瞳孔が、血の色の光を放ったような気がした。
 黒マントは、さらに一歩踏み出し、殆ど俺の頬に唇を接するほどに顔を寄せてきた。幾らなんでもこれはハラスメントだろう、突き飛ばしたって文句は言われない――と分かっていても、俺はすでに相手の粘つくような気に呑まれていた。
 超至近距離からじっと俺の目を覗き込みながら、黒マントは言った。
「キリト……その名前…………騙りだったら、君、殺すよ?」
「…………!?」
「本物だったら…………ふ、ふ……やっぱり、殺すけどね」
 絶句する俺の目に、男の視線がスキャン・レーザーのように突き刺さる。脳の内側を、くまなく走査されているかのような錯覚に襲われる。
 数秒間硬直したあと、どうにか動揺した意識を立て直して、俺は黒マントの目を睨み返した。
「……騙りとか、本物とか、どういう意味だ」
「さっき、君が使った剣技……いや、ソードスキルと呼ぼうかな。分かるんだよ、僕も昔、使ってたからね」
「お前は……」
「そうさ、《生還者》だよ。君も、そうなんだろう? でも、あの世界にいたプレイヤーで、その名前を知ってる奴はごく少ないはずだよね。本人か、その周囲の攻略組か……あるいは、彼の、敵か」
「……なら、お前はそのうちのどれなんだ。なぜ《キリト》を殺したがる」
「もちろん、三つ目……敵だからに決まってるじゃないか」
「……敵……?」
「ギルド《ラフィン・コフィン》。聞いたことあるかい?」
 その名前を聞いた瞬間、首筋に氷の息を吹きかけられたような気がして、全身が総毛立った。足元の、金属タイルがいつのまにか木板――棺桶の蓋に変わり、それがゆっくりとずれていく。青白い手が音も無く突き出し、俺の足首を握る。
 悪魔の顔が描かれた棺からはみ出した腕――「笑う棺桶」のギルドエンブレム。
 こいつは亡霊……過去から現われた亡霊だ。そう思いながら、俺は反射的に首を振っていた。
「……いや、知らないな」
「…………」
 黒マントはしばらく無言で俺を凝視し続けたあと、すっと体を引いた。完全な闇に隠れたフードの奥から、電子的な声が低く響いた。
「……もし騙りなら、その名前を使うのはやめたほうがいいよ。殺したいと思ってる奴は僕だけじゃないだろうしね」
「殺す殺すって……あの世界はもう無くなったんだ。HPがゼロになることはあっても、もう誰も死んだりしない」
「ふ、ふ……本当に、そうかな?」
「何……?」
 男は、ボロボロのマントの前をわずかに開くと、その隙間で右手を動かし、腰のホルスターから大型のハンドガンを少しだけ抜き出した。艶消しの黒に塗装された銃身に、細く刻まれた深紅のラインが目を引く。
 反射的に俺も右腰の光剣に手を添えるが、黒マントはそこで動きを止めた。
「君も、すぐに知ることになる。あの世界でたくさん、たーくさん殺したプレイヤーキラー……いや、《マーダラー》には本当の力が宿っている、ということをね」
「なんだと……」
 本当の力。つい最近も、その言葉を聞いた。菊岡が持っていたファイルの中で、目の前の男と似た声の持ち主が確かにそう叫んでいた。
「お前……お前が……」
 掠れた声でその先を言おうとした時、背後で声がして、俺は口をつぐんだ。
「一回戦は勝ったみたいね」
 素早く振り向くと、立っていたのは水色の髪の女の子――シノンと、灰色の迷彩服を着たシュピーゲルだった。戦闘の余韻のせいか、シノンの藍色の瞳はきらきらと光り、頬にはわずかに赤味が射している。どうやら彼女も勝ったらしい。
 シノンは、少しだけ訝しそうな顔で俺と黒マントを見比べたあと、肩をすくめた。
「新しいお友達? 意外に社交的なんだ」
「……いや……」
 どう答えたものか迷って一瞬口ごもっていると、黒マントがシノンに数歩近づいて言った。
「ふ、ふ、そうなんだよ。彼とは――言わば同郷でね」
 男の異様な雰囲気に気付いたのか、シノンが唇を結んでわずかに身を引いた。だが黒マントは更にシノンににじり寄っていく。
「君、スナイパーのシノンだよね。……一度、戦いたいと思っていたんだ。ブロックが違うから、予選では当たれないけどね」
「…………」
 シノンは無言のまま、剣呑な眼光で黒マントを睨む。と、彼女を守ろうとするかのように、シュピーゲルが一歩踏み出し、シノンと黒マントの間に立った。
「ちょっと、君……」
 だが黒マントは、シュピーゲルの抗議の言葉を遮るように短く首を振り、滑るように退いて距離を取る。
「ふ、ふ、まさかここで撃ったりしないよ。あくまで本大会のフィールドで……大勢が見ている前で、ね」
 それを聞いたシノンの、獲物を狙う猫の瞳がきゅっと細まった。
「……あんた、名前は?」
「……モルターレ」
 短く答え、黒マントはフードの奥の細い目でシノンを、次いで俺を凝視した。すうっと、宙を浮くようにこちらに近づいてくる。再び耳もとで、いんいんと響く金属的な声。
「君とは、一度じっくりと思い出話をしたいね。できることなら――リアルでね。……おっと、二回戦が始まるようだ。じゃあまた……本大会で会おうね」
 しゅうしゅうと擦過音の混ざる笑い声をかすかに漏らし、モルターレと名乗る男はぼろぼろに解れたマントの裾を踊らせながら、熱気と歓声の渦巻く人込みのなかへと歩み去ってたちまち見えなくなった。
 俺はいまだ動揺から醒めず、棒のように立ち尽くすことしかできなかった。
 《ラフィン・コフィン》――、その名はすでに遠い過去、混沌とした記憶の海に没したはずだった。あの世界での二年のあいだに次から次へと襲ってきた、嵐のような戦闘の連続のひと欠片でしかないはずだった。
 だが、黒マントにその名を出されたとき、俺は反射的に嘘をついた。知らない、と否定した。
 それはつまり、俺の中にまだ罪の意識が消えずに残っているというということなのだろうか?
 いや――罪悪感は有って当然だ。そう感じて当たり前のことをしたのだから。しかし、それでもなお、あれは必要なことだったのだと……やらなければならなかったのだという確信とともに、あの記憶は解決済みの判を押されて記憶のファイルの奥底に埋まっていたはずなのに。
 「レッド」ギルド《ラフィン・コフィン》の名前は勿論憶えていた。忘れるはずも無い、そのメンバーを……俺はこの手で……
「妙な知り合いがいるのね」
 傍らで声がして、俺は過去から引き戻された。二、三度まばたきして顔を上げると、隣でシノンが眉をしかめ、黒マントが消え去った方向を睨んでいた。
「……あ、ああ……いや、知り合いって訳じゃ……」
 わずかに首を振って呟くと、シノンが怪訝な顔で振り向いた。
「……何、魂抜けたみたいな顔をしてるの」
「え……」
「初戦はビギナーズラックで勝てたかもしれないけど、次からはそうも行かないんだからね」
 俺はとりあえずいつものペースを取り戻そうと、無理矢理片頬に笑みを浮かべた。右手の指先を、スッとシノンの頬に伸ばしながらささやく。
「嬉しいな、そんなに心配してくれるなんて。安心していいよ、決勝では必ず君と……いってえ!」
 バシッと俺の手を弾き、ガツンと向こう脛を蹴飛ばして、シノンは一メートルほども飛び退った。
「ば、馬鹿じゃないのアンタ! その頭を跡形無くすっ飛ばしてやりたい、それだけ!」
 青い火花の飛び散りそうな視線で俺を一撃して、ぐるんと振り向く。
「こんなアホに付き合ってられない。行こう、シュピーゲル。…………?」
 この炸裂弾のようなお姫様を守る騎士殿は、さぞかし怒っているだろうと思って俺もシュピーゲルに視線を向けた。しかしアッシュグレーの髪を垂らした痩身の男は、俺とシノンのやり取りなど目に入らない様子で、じっとフロア中央の人波――モルターレが去っていった方を見ていた。
「ねえ……ちょっと」
 シノンが腕を突付くと、シュピーゲルはハッと顔を上げた。
「あ……な、何?」
「行くよ。ちょっとでも、次の対戦相手の試合を見ておかないと」
「う、うん、そうだね」
 もう俺には目もくれず、シノンはすたすたとマルチモニターに向かって歩き始めた。シュピーゲルは一瞬俺に目を向けてから後を追った。
「やれやれ……」
 俺はため息をつき、壁に背をつけてずるずると座り込んだ。
 何を考えていいのかすらも分からなかった。ここで聞くはずのない名前を聞いたショックが、未だに思考を妨げている。
 これは一体何なのだ。何かの罠……俺を呼び寄せる陰謀なのだろうか? 黒マントが《死銃》で、俺の命を狙っている……? 復讐のために……?
 そんな訳はない。あの菊岡が、ケチな計画の片棒を担ぐはずはないし、そもそも仮想世界で人を殺す力なぞ存在しないというのが俺の結論だったのではなかったか。
 第一、黒マントが死銃だと決まったわけでもない。依然として、恐るべき殺気を隠し持つ少女シノンがそうである可能性は残されているし、大会に出ていないとは言え、どこか底の見えない男シュピーゲルが死銃だという可能性だってある。疑いだせばキリがない。出くわす奴出くわす奴すべてが怪しく思える。
 いや――それだけではない。
 抱えた膝の間でどこか狂おしい笑みを浮かべながら、俺は熱に浮かされたように考えた。
 実は、忘れたはずの過去に捕われた俺が、アミュスフィアを被るたびに第二の人格に取って代わられ、この世界にやってきて、殺人者が身に付けるという「本当の力」とやらでプレイヤーを殺している――という可能性だって有り得ないわけじゃない!
 軽やかな効果音に顔を上げると、目の前に、二回戦の開始を告げるウインドウが出現していた。転送カウントがカシャカシャと減少していく。
 俺はふらりと立ち上がると、思考そのものを放棄し、意識を戦闘モードへと切り替えた。
 今はただ戦うだけだ。戦い、勝ちつづけるうちに、おのずと真実が姿を現すだろう。結局、VRMMOワールドで何かを得ようと思ったら、戦うしかないのだ。
 カウントダウンがゼロになった。再び青い転送光が足元が伸び上がって、俺を未知の戦場へと誘っていった。


(第四章 終)
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