ソードアート・オンライン2 『フェアリィ・ダンス』
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第四章 『イグドラシル侵攻』(承前)
飛んでいってしまった二本の剣を苦労して回収し、キリトと連れ立ってゲート守護像前の広場に着陸すると、予想外におとなしく待っていたらしいレコンが駆け寄ってきた。リーファの隣に立つ黒衣のスプリガンの姿を見て表情を目まぐるしく変えた挙句、首を捻りながら言う。
「えーと……ど、どうなってるの?」
リーファはにっこり笑いかけながら答えた。
「世界樹を攻略するのよ。この人と、アンタと、あたしの三人で」
「そ、そう……って……ええ!?」
顔面蒼白になって後退るレコンの肩をポンと叩き、がんばってね、と言っておいて、リーファは改めて眼前の巨大な石扉を見上げた。二体の守護像に挟まれたそれは、侵入者を拒絶するかのごとく冷酷な輝きをまとって聳え立っている。
攻略する、と言ってはみたものの、キリトほどの剣士が守護騎士に無惨に倒されるシーンを見せつけられたあとでは、正直二人増えたところでどうにかなるものとも思えなかった。かたわらのキリトにちらりと視線を向けると、彼も厳しい表情で唇を引き結んでいる。
と、キリトが何かを思いついたように顔を上げた。
「ユイ、いるか?」
その言葉が終わらないうちに、中空に光の粒が凝集し、お馴染みの小さなピクシーが姿を現した。両手をがっしと腰にあて、憤慨したように唇をとがらせている。
「もー、遅いです! パパが呼んでくれないと出てこられないんですからね!」
「悪い悪い。ちょっと立てこんでて」
苦笑しながら差し出したキリトの左手に、小妖精がちょこんと座った。するとその前にレコンが物凄いスピードで首を伸ばし、食いつかんばかりの勢いでまくし立てた。
「うわ、こ、これプライベートピクシーって奴!? 初めて見たよ!! うおお、スゲエ、可愛いなあ!!」
「な、なんなんですかこの人は!?」
「こら、恐がってるでしょ」
リーファは思い切りレコンの耳を引っ張ってユイから遠ざける。
「コイツのことは気にしないでいいから」
「……あ、ああ」
呆気に取られた様子のキリトは、二、三度瞬きをすると、改めてユイの顔を見た。
「――それで、あの戦闘で何かわかったか?」
「はい」
ユイも、可愛らしい顔に真剣な表情を浮かべて頷く。
「あのガーディアン・モンスターは、ステータス的にもかなりの数値に設定されていますが、それよりも湧出パターンが異常です。ゲートへの距離に比例してスパウン量が増え、再接近時には秒間12体にも達していました。あれでは……攻略不可能な難易度に設定されているとしか……」
「ふん」
キリトは顔をしかめながら首肯した。
「有り得ることだな。ユーザーの興味を繋げるぎりぎりのところまでフラグ解除を引っ張るつもりだろう。しかしそうなると厄介だな……」
「でも、異常なのはパパのステータスも同じです。瞬間的な突破力だけならあるいは可能性があるかもしれません」
「…………」
キリトはしばらく黙考するふうだったが、やがて顔を上げ、真っ直ぐにリーファを見た。
「……すまない。もう一度だけ、俺の我侭に付き合ってくれないか。ここで無理をするよりは、もっと人数を集めるか、別のルートを捜すべきなのはわかる。でも……なんだか嫌な感じがするんだ。もう、あまり猶予時間がないような……」
リーファはキリトの目を見つめ、深く頷いた。
「いいよ。あたしに出来ることなら何でもする。それと、コイツもね」
「え、ええ〜……」
リーファに肘で突付かれたレコンは、いつも困ったような眉を最大限に傾けて情けない声を出したが、リーファちゃんと僕は一心同体だし等々とぶつぶつ呟いた挙句にかっくんと頷いた。
地の底から響くような低音を轟かせつつ開いた石扉の向こうからは、濃密な妖気が流れ出しているような気がして、リーファは軽く翅を震わせた。先ほどキリトを助けるために飛び込んだときは無我夢中だったが、改めて前に立つと強烈な心理的圧迫があった。
しかし、心の中は不思議に穏やかだった。
今、自分は嵐の中にいるのだと思う。何もかもが音を立てて流れ、変わっていく。この激流の行方はまるでわからないけれど、今はただ、彼方に見える灯り目指して懸命に飛ぶだけだ。
キリトに続いてリーファとレコンも剣を抜く。ユイも含めた四人は無言で視線を交わすと、翅を広げた。キリトの合図で地を蹴り、一気にドーム内部へと突入する。
事前の打ち合わせどおり、キリトは猛烈な加速で天蓋中央のゲート目指して急上昇を開始した。リーファとレコンは底面付近に留まり、ヒールスペルの詠唱に入る。
天蓋の発光部分から、粘液が滴るように次々と白い巨人が産み出されるのが見えた。不気味な雄叫びを上げつつキリトに殺到していく。守護騎士の先陣と、それに比べてあまりにも小さなキリトが交差した瞬間、轟くような爆音と閃光がドームを揺るがした。
複数の巨人が、一撃で胴を分断されて四散するのを見て、隣のレコンが低くうめいた。
「……すげぇ」
確かに恐ろしいほどの剣の威力だ。しかしリーファは、鬼神の如く戦うキリトの向こうに出現しつつある光景に、全身を冷気が駆け巡るのを感じていた。
あまりにも、敵の数が多すぎる。キリトのリメインライトを救出に行ったときは無我夢中で気付かなかったが、網目状の天蓋から吐き出される守護騎士はゲームバランスの埒外と言ってもいい数だ。現在最悪のフィールドと目されているのは、アルヴヘイム北方の地下に広がるヨツンヘイムという氷雪の国で、邪神級モンスターとその護衛が凄まじい勢いで湧出するためにどんな手練のパーティーでも一時間の滞在が限界なのだが、目の前で繰り広げられる白い巨人の出現ペースは明らかにそれを上回る。
守護騎士たちはいくつかの密集した群を作り、うねる帯を描いて次々とキリトに襲い掛かった。その度に空間に眩い閃光が連続し、吹き飛ばされた騎士の体が雪のように舞い散るが、一体消滅するたびに三体が増えるような有様だ。
ゲートまでの距離を半分ほど詰めたところで、ついにキリトのHPバーが一割ほど減少した。間髪入れず、リーファとレコンは待機状態のまま保持していた治癒魔法を発動させる。キリトの体を青い光が包み、HPが回復していく。
――だが。
スペルが届くと同時に、恐ろしいことが起きた。
最も低空を飛行していた守護騎士の一群が、短い奇声とともにまっすぐリーファ達のほうに顔を向けたのだ。
「うぁ……」
レコンが引き攣ったような声を上げた
守護騎士の、鏡面マスクの奥から放射される残虐な視線がまっすぐ自分に注がれるのをリーファは感じた。思わず強く歯を噛み締める。
ターゲットされるのを回避するために、リーファとレコンはキリトに対するヒール以外のスペルを一切使わないことを決めていた。通常、モンスターは反応圏内にプレイヤーが侵入するか、あるいは遠距離から弓やスペルで攻撃されない限り襲ってくることは無いからだ。
しかし、どうやら守護騎士たちは外界のモンスターとは違う、より悪意あるアルゴリズムを与えられているようだった。圏内にいるプレイヤーに対する補助スペルにさえも反応するのであれば、前衛にアタッカー、後衛にヒーラーというオーソドックスな配置は意味がない。
五、六匹で構成される騎士の一群は、あっちを向け! というリーファの願いも空しく、六枚の翅を打ち鳴らすと急降下を開始した。彼らの右手に握られた、リーファの身長を軽く上回るであろう長大な剣がぎらぎらと餓えたような光を放った。
リーファは咄嗟にレコンに向かって叫んだ。
「奴等はあたしが引きつけるから、あんたはこのままヒールを続けて!」
そのまま返事を待たずに上昇しようとする。しかし、今まで戦闘中は常にリーファの指示に従うだけだったレコンが、待って、と右手を掴んだ。驚いて振り向くと、緊張に震えた声で、しかしいつになく真剣な表情を浮かべつつ言った。
「リーファちゃん……僕、よく分かんないんだけど、これ、大事なことなんだよね?」
「――そうだよ。多分、ゲームじゃないのよ、今だけは」
「……あのスプリガンにはとても敵いそうにないけど……ガーディアンは僕がなんとかしてみる」
言うやいなや、レコンはコントローラを握ると床を蹴った。リーファが虚を突かれて立ち尽くすうちにみるみる遠ざかり、正面から守護騎士群に突入していく。
「ば、ばかっ……」
――歯が立つ相手じゃないのに、と思ったときにはもう追いつけないほどの距離ができていた。視線を彼方に向けると、一度は全快したキリトのHPバーが再びわずかに減少を始めている。リーファはやむなく回復スペルの詠唱に入った。スペルワードを早口で組み立てる間にも、気が気でない思いでレコンの後姿を見守る。
レコンは、飛行中に準備していたらしい風属性の攻撃魔法を正面から守護騎士に浴びせた。緑色のカッターが複数枚、扇状に広がって飛び、騎士たちに絡みつくように切り裂く。気休め、としか言えないほどのわずかな量騎士たちのHPバーが減少し、同時に彼らのターゲットが全てレコンに移る。
歪んだ怒声を上げながら、白い巨人の群が、対峙するにはあまりに小さな緑色の少年に襲い掛かった。レコンは風に翻弄される木の葉のようにふらふらと飛行しながら、危いところで巨剣をかいくぐり群の後方に抜けた。騎士たちも急旋回し、彼を追う。
リーファの詠唱が終わり、遥か上空で闘うキリトをヒールスペルの光が包んだ。再び数匹の守護騎士が反応し、下降を始める。その一団はすぐにレコンを追いまわす群と合流し、白いうねりは倍の大きさに膨れ上がる。
エアレイドが決して得意ではないはずのレコンだが、彼は驚くほどの集中力で殺到する剣を避け続けた。時折かすめる攻撃でHPバーはじわじわと減少していくが、致命的なヒットはまだない。
「……レコン……」
あまりにも懸命なその飛行に、リーファは思わず胸を衝かれたが、それがいつまでも続かないことは明らかだった。リーファの回復呪文がキリトに届くたびに、確実に降下してくる騎士の数は増えていく。
ついに、レコンを追う守護騎士の群は二つに分裂し、左右から挟み込むような動きを見せ始めた。雨のように降り注ぐ剣尖のひとつがレコンの背を捉え、その体を大きく跳ね飛ばす。
「レコン、もういいよ! 外に逃げて!!」
これ以上見ていられず、リーファは叫んだ。一度退避した者は、内部の戦闘が続いている間はもう扉をくぐることができない。後は自分が限界まで引き受けるしかない、と覚悟を決め、ヒールの詠唱をしながら飛び立とうとする。
しかし、その直前、レコンがちらりと振り向いた。その顔に、ある種の決意に満ちた笑みが浮かんでいるのを見て、リーファは開きかけた翅を止めた。
立て続けに剣を身に受けながら、レコンは新たなスペルの詠唱を開始した。体を、深い紫色のエフェクト光が包む。
「!?」
それが闇属性魔法の輝きであることに気付き、リーファは息を飲んだ。たちまち、複雑な立体魔方陣が展開する。その大きさからしてかなりの高位呪文と思われた。シルフ領ではあまり目にする機会のない闇魔法ゆえ、咄嗟にはそれがどのような効果を持つものなのか判らなかった。
魔方陣はいくつかの軸を作って回転しつつみるみる巨大化し、全方位から押し寄せる騎士の群を包み込んだ。複雑な光の紋様が一瞬、小さく凝縮し――次いで恐ろしいほどの閃光を放った。
「あっ……!!」
リーファは、あまりの眩さに思わず顔をそむけた。天地が砕けたかと思うほどの爆音が轟き、ドーム全体が激しく震動した。
白く飛んだ視界が回復するのに一秒ほどかかった。リーファは手をかざしながら必死に爆心点のほうを凝視し、そして驚きの余り言葉を失った。あれほど密集していた守護騎士の群が、綺麗に消滅していた。跡には紫の残光が宙に揺らいでいるだけだ。
恐ろしいほどの威力だった。範囲攻撃魔法でこれほどのパワーを持つ呪文は、風魔法はもちろん火属性魔法にも存在しない。レコンの奴、いつのまにこんな隠し技を、とリーファは驚嘆すると同時に快哉を叫んでいた。この魔法を数発撃てば、ゲートまでの突破口を開くことも可能なはずだ。とりあえずレコンにヒールを掛けようと手をかざし――そして再び凍りついた。
爆発の余光が残るその場所には、レコンの小さな姿も既に無かった。
「――自爆魔法……?」
呆然と呟く。そう言えば――闇魔法に、そのようなものが存在するとは昔聞いた記憶があった。しかしあれは、死ぬと同時に通常の数倍のデスペナルティを課せられる、言わば禁呪だったはずだ。
リーファは数瞬絶句してから、ぎゅっと目を瞑った。たかがゲーム、たかが経験値、でもその為にレコンが費やした努力と熱意だけは本物の犠牲だ。もう、ここからの撤退は許されない、そう決意して目を見開き、上空を凝視する。そして――
その光景を見て、リーファは両足が力なく萎えるのを感じた。
いつの間にか、ドームの天蓋は、びっしりと蠢く白いモノに隙間無く埋めつくされていた。
小さな黒点となったキリトは、あとわずか、ほんのわずかのところまで天蓋に肉薄している。彼の剣が閃く度に、分断された騎士の体がバラバラと落下する。しかしそれは、広大な砂浜に針で穴を穿とうとする行為にも思えた。守護騎士の体で作られた白い肉の壁は、わずかに凹みはするものの次の瞬間には埋め戻され、分厚くキリトの行く手を阻む。
「うおおおおおおお!!」
鬼神の如く闘うキリトの、血を吐くような絶叫が、リーファの耳にもかすかに届いた。反射的に、ヒールを掛けようと両手を掲げたが、しかしリーファは力なくその手を下ろし、呟いた。
「……無理だよ、お兄ちゃん……こんな、こんなの……」
正直なところ、キリトの言ったこと、この世界にあの人の魂が囚われているという話を、そのまま信じられたわけではなかった。ここはあくまでゲームを楽しむための仮想世界であって、リーファにとっては悪夢と同義語である彼の「SAO世界」に侵食されているという話には抵抗を感じずにはいられなかった。
しかし、リーファは今初めて、これまで意識することのなかった「システムの悪意」を感じた。公平なバランスのもと世界を動かしているはずの見えない存在が、この空間でだけはプレイヤーに対する殺意に満ちた、血塗られた大鎌を振り回しているような――そんな気がした。それは神の殺意だ。抗うことは誰にもできない。
冷気にも似た恐怖に心を鷲掴みにされ、リーファはよろよろと数歩後退した。
その時だった。
突然、背後から、津波のような声のうねりがリーファの萎えた翅を叩いた。
「っ……!?」
慌てて振り向いたリーファの目に入ったのは――開け放たれた大扉から、密集隊形をとって突入してくる、新緑の色に輝く鎧に身を固めたシルフの戦士たちの姿だった。
一見してエンシェントウェポン級と知れる、お揃いのフル装備を煌かせたプレイヤーの大集団は、春の突風を思わせる勢いでリーファの傍らを駆け抜け、天蓋目指して一直線に上昇していった。その数、五十は下るまい。
唖然としながらも視線を集中し、次々とカーソルを出現させる。目深に下ろされたバイザーのせいで顔はわからなかったが、表示された名前はどれもシルフ領ではよく知られた有力プレイヤーのものだった。
つまり――来てくれたのだ、彼女が。約束を果たすために。
リーファの背を、戦慄とも感動ともつかぬ震えが駆け抜けた。だが、ドーム攻略に参戦したのは彼らだけではなかった。
シルフの精鋭部隊の最後尾が大扉をくぐった数秒後、再びときの声が響き渡った。それに重なって、遠雷のような巨獣の雄叫びも。
突入してきた新たな一団の数は、シルフ部隊よりもかなり少なかった。およそ十と言ったところか。しかし、その一騎一騎がとてつもなく巨大だった。
「飛龍……!」
リーファは驚愕のあまり叫んでいた。頭から尾までがプレイヤーの数倍はあろうかという、鉄灰色の鱗をもつドラゴンの集団だ。野生のモンスターではない証に、龍の額と胸、長大な両翼の前縁部には輝く金属のアーマーが装着されている。
額の装甲の両端からは、銀の鎖で作られた手綱が伸び、背の鞍に跨るプレイヤーの手にしっかりと握られていた。騎手も真新しい鎧に身を固めているが、頭の両脇に突き出た三角形の耳と、腰アーマーの下から長くたなびく尻尾は見落としようもない。
それでは彼らがケットシーの最終戦力、ドラゴンライダー隊なのだ。切り札として秘匿され、スクリーンショットすら流出したことのない伝説の戦士たちが、今リーファの眼前を飛翔していく。
全身の血が沸き立つような高揚感にとらわれ、翅をぴんと伸ばして立ち尽くしていると、不意に背後からリーファに声をかける者がいた。
「すまない、遅くなった」
さっと振りかえると、そこに立っていたのは高下駄に着流し姿のシルフ領主・サクヤだった。隣に寄り添うケットシー領主アリシャ・ルーが、耳をぱたぱたと動かしながら言った。
「ごめんネー、レプラコーンの鍛冶匠合を総動員して人数分の装備と竜鎧を鍛えるのにさっきまでかかっちゃったんだヨ〜。スプリガンの彼から預かった分も合わせて、うちもシルフも金庫すっからかんだヨ!」
「つまりここで全滅したら両種族とも破産だな」
サクヤは腕組みをして涼しげに笑った。
「……ありがとう……ありがとう、二人とも」
震える声でリーファが言うと、二領主は異口同音にそれは全てが終わってから、と答え、厳しい顔で天蓋を睨んだ。サクヤが右手に握った扇子を音高く、ぱちんと鳴らした。
「さて――我々も行こう!」
力強く頷きあい、三人が地を蹴って向かった先では、すでに白い守護騎士の壁から群が何本も長く垂れ下がり、突進するシルフ部隊を迎え撃とうとしていた。中央では相変わらずキリトが激戦を繰り広げているが、彼も援軍に気付いたのか、遮二無二突貫しようとするのを止めて、壁からある程度の距離を取っている。
ドーム中央部まで急上昇すると、アリシャ・ルーが高く右手を上げ、アニメ声優のように可愛らしいがよく通る声で叫んだ。
「ワイバーン隊! ブレス攻撃用――意!」
十騎の竜騎士は、リーファたち三人を囲むように広い円陣を組んでホバリングした。翼を大きく広げた飛竜は長い首をS字型にたわめ、牙の奥からオレンジ色の光がかすかに漏れる。
次いで、サクヤが朱塗りの扇子をさっと掲げた。
「シルフ隊、エクストラアタック用意!」
密集方形陣に固まったシルフ部隊も、突進しつつ右手の長剣を頭上にかざす。その刀身を、エメラルド色の電光が網目のように包み込む。
あまりの数が集まっているために白い虫の群のように見えていた守護騎士の塊が、呪詛にも似た奇声を上げつつ殺到してきた。アリシャ・ルーは長い八重歯で唇を噛み締め、限界まで守護騎士を引き付けたあと、大きく右手を振り、声を張り上げた。
「ファイアブレス、撃て――――ッ!」
直後、十騎の飛竜が、溜め込んだ紅蓮の劫火を一斉に吐き出した。クリムゾンレッドの火線が、長く尾を引いて宙を疾る。シルフ隊とその前方に浮かぶキリトを囲むように、十本の炎の柱が屹立し、守護騎士の群に突き立った。
パァッ、と眩い光がドームを照らし出した。一瞬の後、膨れ上がった火球が立て続けに炸裂し、巨大な爆炎の壁を作り出した。凄まじい轟音が世界を揺り動かす。千切れ飛んだ守護騎士の残骸が放射状に拡散し、白い炎を引いて燃え尽きていく。
だが、無限とも思える数のガーディアンは、肉の壁から新たな群を伸ばし、燃えさかる業火を強引に突破してきた。まず、最前線にいるキリトを飲み込もうというのか、液体が広がるように大きく口を開ける。
その白い塊が殺到する寸前、サクヤが鋭く扇子を振り下ろし、叫んだ。
「フェンリルストーム、放てッ!!」
シルフ部隊が、一糸乱れぬ動作で長剣を鋭く突き出した。五十本の剣それぞれから、まばゆいグリーンの雷光が迸り、宙をジグザグに切り裂いて守護騎士群を深く貫通した。
ふたたび純白の閃光が世界を白く染め上げた。今度は爆発は起きなかったが、替わりに縦横無尽に太い稲妻が走り、そのあぎとに捕えた守護騎士を粉々に吹き飛ばしていく。
二度に渡って大集団を粉砕され、守護騎士の壁の中央部分はさすがに大きく落ち窪んでいた。しかしそれも、液体の表面が元に戻ろうとするかのように、周囲からじわじわと盛り上がっていく。
今しかない、とリーファは確信した。瞬時に長刀の鞘を払い、宙を蹴って突進を開始する。そう判断したのは領主たちも同じようだった。サクヤの鞭のように鋭い声が響き渡った。
「全員――突撃!!」
それは、間違いなくこの世界で行われた最大の戦闘だった。後方から断続的に放たれるブレスによって、守護騎士が次々と炎上、落下していく。一個の弾頭のように密な陣形を取ったシルフ部隊は、肉の壁に更に深い穴を穿つべく、押し寄せる巨人たちを凄まじい威力を持つ長剣で切り倒していく。
弾丸の尖端に立つのは、黒衣のスプリガンの小さな姿だった。装備のグレードは明らかにシルフ戦士たちには劣るだろうが、神速と言うよりない勢いで振り回される巨剣は、触れるもの全てを瞬時に崩壊、霧散させていく。
リーファはシルフ隊の中央に開いた間隙を駆け抜け、キリトの直後にまで到達した。彼の背後から襲いかかろうとした守護騎士の剣を長刀で弾き、その鏡面マスクの下、白い柔組織に深く刀身を埋め込む。全身を振り回すように剣を薙ぐと、騎士の首が飛び、その体が白く炎上した。
ちらりと振り返ったキリトが、唇の動きだけで言った。
「スグ――後ろを頼む!」
「任せて!!」
同じく視線で応え、リーファはぴたりとキリトの背に自分の背を合わせた。そのまま二人はぐるぐると回転し、目の前に現われる守護騎士を次々と切り倒していった。
一対一なら、巨人の騎士は自分に倒せる相手とは思えなかった。しかし、キリトと密着し、その速度に同期するうちに、リーファは騎士の動きがどんどん遅くなっていくのを感じていた。いや――自分の神経が加速されているのだろうか? かつて剣道の試合中にほんの何度か訪れたような、全てを脳の中心でダイレクトに把握できる感覚がリーファを包んでいた。
キリトと一体になっている、と感じた。直結した神経を、電子パルスが青白い尾を引いて流れていく。見なくても、背後のキリトの動きがわかる。彼が剣を弾き上げた守護騎士の首を、反転したリーファが高く刈り飛ばす。リーファが傷をつけた騎士のマスクの、まさに同じ箇所をキリトの剣が深く貫く。
キリト、リーファ、シルフ隊、ワイバーン隊は、白熱した一個のエネルギー体となって、無限に出現しつづける守護騎士の壁を融かし、抉り、深く深く突き進んでいった。騎士の数は無限でも、ドームの空間は固定されている。前進し続ける限り、いつかはその瞬間がやってくる。
「セラァァァッ!!」
気合と共に、リーファが縦に分断した守護騎士の体が、崩れ、飛び散った。
その向こうに――光が広がっていた。
見えた。樹の枝が網目のように絡み合ったドームの天蓋、その中央に、十字に分割された円形のゲートがあった。
「うおおおおっ!!」
絶叫したキリトが、リーファの背から離れ、黒い閃光となって肉壁の間隙に突進した。それを阻止しようと、怨嗟の唸りを上げながら新たな守護騎士が迫る。だが――
振り下ろされる大剣の列を、一閃させた巨剣で全て弾き飛ばし、キリトは体をその向こうに躍らせた。
抜けた。とうとう。黒衣の姿は、光の尾を引き、ゲートに向かって飛翔していく。
リーファの眼前で、たちまち守護騎士の体が幾重にもかさなり、一瞬開いた隙間を埋め尽くした。キリトが防衛線を突破したのを見て取ったサクヤが、後方から叫んだ。
「全員反転、後退!!」
シルフ隊と一緒に身を翻し、ファイアブレスの援護を受けながら急降下に入ったリーファは、一瞬、天蓋の方向を振り返った。ガーディアンの壁に阻まれてキリトの姿は見えなかったが、リーファの目には、高く、高く、かつて誰も達したことのない場所目指して舞い上がっていく彼の姿が映った。
飛べ――行け――行け、どこまでも! 巨樹を貫き、空を翔け、天を穿ち、世界の核心まで――!
俺は、脳神経が灼きつくかと思うほどの速度で最後の距離を駆け抜けた。
眼前には、巨大な円形のゲートがあった。四分割された石版が十字に組み合わさり、その中央を閉ざしている。その向こうに、彼女が――アスナがいる。あの世界に置き去りのままの、俺の魂のもう半分とともに。
背後で、守護騎士どもの悲鳴にも似た怨嗟の声が轟いた。反転して、俺を追ってくる気配。また、ゲートの周囲の天蓋発光部分からも再現なく騎士が産み落とされ、俺目掛けて押し寄せてくる。
だが、俺のほうが早い。ゲートはもう手を伸ばせば届くほどの距離だ。
しかし――しかし。
「……開かない……!?」
俺は、予想外の事態に思わず叫んでいた。
ゲートが開かない。直前まで接近すればその忌々しい重い口を開けるものとばかり思っていたが、ぴたりと閉ざされた十字の溝は、小揺るぎさえせず俺の行く手に立ち塞がっている。
今から減速する余裕はない。俺は剣をかざすと、それで石壁を打ち砕かんとばかりに、一体になって突進した。
直後、凄まじい衝撃とともに俺はゲートにぶち当たった。剣尖が石版に突き立って火花が激しく飛び散った。だが――その表面は、わずかにも傷ついた様子は無かった。
「ユイ――どういうことだ!?」
混乱して、俺は絶叫した。まさか――まだ足りないのか? 守護騎士どもを蹴散らすだけではなく、何らかのアイテム――条件――フラグが必要だとでも言うのか? そんな物、そんなモノは、糞食らえだ!!
衝動のまま、再び剣を振りかぶろうとした俺の胸ポケットから、鈴の音を引きながらユイが飛び出した。小さな両手でゲートを塞ぐ石版を軽く撫でる。
「パパ――」
さっと振り向き、早口で言った。
「この扉は、クエストフラグによってロックされているのではありません! 単なる、システム管理者権限によるものです」
「ど――どういうことだ!?」
「つまり……この扉は、プレイヤーには絶対に開けられないということです!」
「な――……」
俺は絶句した。
それでは、このグランドクエスト……世界樹の上の空中都市に達したものは、真の妖精に生まれ変わるというそれは、プレイヤーの鼻先にぶら下げられた、永遠に手の届かないニンジンだということか? 難易度を極限まで上昇させるに留まらず、扉に絶対に解除できない、システム権限という名の鍵を――。
全身から力が抜けるのを感じた。背後に、俺目掛けて津波のように殺到してくる守護騎士の叫びが響く。しかしもう、剣を握りなおす気力も湧かなかった。
アスナ――、ここまで、ここまで来たのに……もう少しで、手の届くところまで……。
君の手からこぼれた一片の温もりが、あれが、俺たちの最後の触れ合いなのか……?
――いや。待て。あれは、あれは確か……
俺は目を見開いた。左手で、腰のポケットをまさぐる。あった。小さなカード。ユイは言った。これは、システムアクセス・コードだと……。
「ユイ――これを使え!」
俺は引っ張り出したシルバーのカードを、ユイの眼前に差し伸べた。ユイも一瞬目を丸くし、次いで大きく頷いた。
小さな手がカードの表面を撫でる。光の筋がいくつか、カードからユイへと流れ込む。
「コードを転写します!」
一声叫ぶと、ユイは両手をゲートの表面へと叩きつけた。
俺はあまりのまばゆさに目を細めた。ユイの手が触れた箇所から、放射状に青い閃光のラインが走り、直後、ゲートそのものが発光を始めた。
「――転送されます!! パパ、掴まって!!」
ユイが伸ばした右手を、俺は左手の指先でしっかりと掴んだ。光のラインは、ユイの体を伝わり、俺の中にも流れ込んできた。
突然、頭のすぐ後ろで守護騎士どもの奇声がした。体を固くするのも束の間、何本もの大剣が降り注いできた。だが――、それらの剣は、まるで実体を失ったかの如く、何の感触ももたらさずに俺をすり抜けた。いや、透過し始めているのは俺の方か。体が薄れ、光に溶けていく。
「――!!」
不意に、前方に引っ張られた。すでに白く輝くスクリーンへと変貌していたゲートの中へ、俺とユイはデータの奔流となって突入した。
意識の空白は一瞬だった。
数回頭を振り、ぱちぱちと瞬きをしながら俺は転送感覚の余韻を払い落とした。アインクラッドで転移結晶を使ったあとに似ていたが、必ずゲート広場の喧騒の中に出現したあれとは異なり、周囲は完全な静寂に満ちていた。
肩ひざをついた姿勢から、俺はゆっくりと立ち上がった。目の前に、心配そうな顔をしたユイの姿があった。小さなピクシー態ではなく、本来の、十歳ほどの少女の姿だ。
「大丈夫ですか、パパ?」
「――ああ。ここは……?」
俺は頷きながら周囲を見回した。
何とも――奇妙な場所だった。最新のゲームらしく、過剰なほどに精緻な装飾を与えられていたスイルベーンやアルンの街並みとは大きくことなり、視界に入るのはのっぺりとした、ディティールやテクスチャの一切無い白い板だけだ。
どこか、通路の途中のようだった。直線ではなく、ゆるく右に湾曲している。後ろを振り返ると、こちらも同様に曲がっていた。どうやら長いカーブか、あるいは円形の通路らしい。
「……わかりません、ナビゲート用のマップ情報が、この場所には無いようです……」
ユイも困惑した顔で言った。
「アスナのいる場所はわかるか?」
聞くと、ユイは一瞬目を閉じ、すぐに大きく頷いた。
「はい、かなり――かなり近いです。上のほう……こっちです」
白いワンピースから伸びた素足で床を蹴り、音も無く走り出す。俺は握ったままの剣を背中に戻し、慌ててその後を追った。
数十秒走ると、左側、外周方向の壁に四角い扉が見えてきた。これも一切装飾はない。
「ここから上部へ移動できるようです」
立ち止まったユイの言葉に頷いて、俺は扉の脇に視線を落とし――一瞬、硬直した。
そこにあったのは、上下に二つ並んだ三角形のボタンだった。この世界では初めて見るが、現実ではよく見慣れた形のモノ。エレベータのボタンとしか思えない。
何だか、不意に、戦闘服に身を包み、剣を背負った自分がとてつもなく場違いな存在であるような違和感に襲われて、俺は顔をしかめた。いや――おかしいのはこの場所のほうだ。これが見た目どおりの物なら、ここはゲーム内世界ではない。ならば……何処なのだろうか?
しかし、その疑問は一瞬俺の脳を走りぬけただけだった。何処でもいい。アスナがいるなら。
躊躇せず、俺は手を伸ばすと上向きの三角形にタッチした。すぐに、ポーンという効果音と共に扉がスライドし、その向こうに箱型の小部屋が現われる。ユイと共に乗り込み、向き直ると、やはりドアの脇にボタンの並んだパネルがあった。光っているボタンが現在位置なのだとしたら、この上にさらに二つのフロアがあるようだ。わずかに迷ったのち、一番上のボタンを押す。
再び効果音。ドアが閉まり、紛うことなき上昇感覚が俺を包んだ。
エレベータはすぐに停止した。開いたドアの向こうは、先ほどまで居た場所と同じような湾曲した通路だ。俺の右手をぎゅっと握っているユイに向かって、言う。
「高さはここでいいか?」
「はい。――もう、すぐ……すぐそこです」
言うやいなや、ユイは俺の手を引いて走り出した。
更に数十秒、高鳴る鼓動を必死に抑えつけつつ通路を駆ける。いくつか、内周に並んだドアの前に差し掛かったが、ユイはそれらには目も向けることなく通過した。
やがて、何もない場所でユイはぴたりと立ち止まった。
「……どうしたんだ?」
「この向こうに……通路が……」
呟きながら、ユイは外周のつるりとした壁を手で撫でた。と、手がぴたりと止まり、ゲートの時と同じような青い光のラインが直角に曲がりくねりながら壁面に走る。
突如、太いラインが四角く壁を区切り、ブン、と音を立ててその内側が消滅した。奥には、やはりツルリとした無味乾燥な通路が、真っ直ぐ伸びている。
ユイは無言で通路に足を踏み入れると、一層スピードを増して駆けはじめた。その幼い顔にも、これ以上一秒たりとも待てないという渇望が色濃く浮かんでいるのを見て、俺はアスナが近いことを確信した。
早く、早く。心の奥で一心不乱に念じながら、ひたすら進む。やがて、前方で通路は終わり、四角いドアが行く手を塞いでいた。ユイはもう立ち止まることなく、左手を伸ばすと、勢いよくそのドアを押し開いた。
「――!!」
正面に、今まさに沈みつつある巨大な太陽が見えた。
世界を包む、無限の夕焼け空。視点の位置にわずかな違和感を感じ、そして気付いた。ここは、恐ろしく高いのだ。ゆるいカーブを描く地平線が見える。かすかに風が鳴っている。
否応無く、俺はあの瞬間を想起していた。
アスナと並んで腰掛け、浮遊城の終焉を看取った、あの永遠の夕焼けの世界。耳もとに、彼女の声が甦る。
『わたしたちは、いつまでもいっしょ――』
「ああ――そうだ。俺は、戻ってきたよ」
呟いてから、俺は視線を足元に向けた。
そこにあったのは、水晶の板ではなく、恐ろしく太い樹の枝だった。
深紅の夕陽だけにむかって狭窄した視野が、角度を取り戻した。気付くと、頭上には天を支える柱のような枝が四方に大きく伸び、葉を繁らせている。眼下には、更に何本かの枝が広がり、その向こうには薄い雲海、そして遥か彼方の地上には、緑の草原を蛇行して流れる河がかすかに見て取れる。
ここは――世界樹の上だ。リーファ……直葉があれほど夢見た、世界の頂。
しかし――。
俺はゆっくりと振り向いた。そこには、壁のごとく屹立する世界樹の幹がどこまでも伸び上がり、枝分かれしていた。
「無いじゃないか……空中都市なんて……」
呆然と呟いた。あったのは、あの無味乾燥な白い通路だけだ。あんなものが伝説の都市のわけはない。
つまり、全ては中身のないギフトボックスだったのだ。包装紙やリボンを飾り立て、しかしその内側に広がるのは空疎な嘘のみ。直葉に何と言えばいいのだろうか。
「……許されないぞ……」
思わず呟いていた。この世界を動かしている誰か、何かに向かって。
不意に、右手が軽く引っ張られた。ユイが、気遣わしそうな顔で俺を見上げていた。
「ああ――そうだな。行こう」
全ては、アスナを救い出してからだ。今、俺は、そのためだけに存在する。
目の前には、太い樹の枝がまっすぐ夕陽に向かって伸びていた。枝の中央には、人工的な小道が刻み込まれている。道の先は、生い茂った木の葉に遮られているが――その梢の向こうに、夕陽を反射して、金色にきらりと光る何かがあった。俺とユイは、その光目指して走り始めた。
今にも発火しそうなほどの焦燥と渇望を必死に抑えつけ、樹上の道を進む。あと数分――数十秒――でとうとうその瞬間が来ると思うほどに、加速された俺の知覚神経は一瞬一瞬を無限の長さにも引き伸ばしていく。
色濃く繁った不思議な形の木の葉の群をくぐり、乗り越え、道は続く。枝のうねりに合わせて、短い階段が登ったり下ったりしながら現われるたびに、背中の翅を一振りして飛び越える。
行く手できらめく金色の光の正体が、やがて明らかになってきた。金属を縦横に組み合わせた格子――いや、鳥篭だ。
俺たちが走る太い枝の、少し上空に平行して伸びる別の枝から、円筒の上部が窄まったオーソドックスな形の鳥篭がぶら下がっている。だが、恐ろしく大きい。小鳥はおろか、猛禽だって閉じ込めることはできまい。そう――あれはもっと、別の用途の――。
もう遥か昔に思えるほど遠い記憶の中から、エギルの店で奴が言った台詞が思い出される。バカなプレイヤーが、肩車で世界樹に肉薄し……枝に下がった鳥篭を見つけて……撮影したのがあの写真だ……――そうだ。間違いない。アスナ――あの中に、アスナがいる。
俺の右手を引くユイの小さな手にも、確信を示す強い力がぎゅっと込められた。俺たちはほとんど宙を滑る勢いで疾走し、最後の繁りを飛び越えた。
小道の刻まれた枝は、急激に細くなりながら鳥篭の下部に達し、そこで道は終わっていた。
金色の鳥篭の中も、すでにはっきりと見えた。一つの大きな植木と、様々な花の鉢が白いタイル張りの床を彩っている。中央には、豪奢な天蓋つきの大きなベッド。傍らに、純白の丸テーブルと、背の高い椅子。それに腰掛け、両手をテーブルの上で組み合わせ、何かを祈るような姿勢で頭を垂れる、ひとりの少女。
艶やかな栗色の髪。ユイのものに似た、白いワンピース。その背から伸びる、プラチナ色の翅。すべてが、巨大な夕陽の力を受けて赤く輝いている。
少女の顔は翳になって見えなかった。だが、俺にはわかった。わからない筈があろうか。引き合う魂の磁力が、目に見えるほどの閃光となって、俺と彼女の間にスパークした。
その瞬間、少女――アスナがさっと顔を上げた。
あまりにも深い思慕のゆえに、俺のなかではもう光に満ちた概念にまで昇華されていたその懐かしい姿。時には研ぎ上げた刃のような怜悧な美しさ、時には人懐っこいやんちゃな暖かさを浮かべ、あの短くも懐かしい日々のあいだ、常に俺の傍らにあった彼女の顔に、まず純粋な驚きが走り、次いで組み合わされていた両手が口もとを覆った。はしばみ色の大きな瞳に、溢れるような輝きが満ち、それはたちまち涙に形を変えて睫毛に溜まった。
最後の数歩を一息に飛翔しながら、俺は音にならない声で囁きかけた。
「――アスナ」
同時に、ユイも叫んだ。
「ママ……ママ!!」
小道の終点、鳥篭と接する部分には、壁より少し密な格子で作られた四角いドアがあり、その横にロック機構と思しき小さな金属板があった。ドアは閉じられていたが、ユイは俺の手を引きながらわずかにも勢いを緩めず、ドアの直前で右手を体の左側に振り上げた。その手を青い輝きが包んだ。
直後、手はさっと右側に払われ、同時にドアが金属板ごと吹き飛んだ。それはたちまち光の粒を散らして消滅する。
ユイは俺の手を離すと、両手をまっすぐ前方に差し伸べて再び叫んだ。
「ママ――!!」
そのまま一気に、開け放たれた入り口から鳥篭に駆け込む。
アスナも、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。口もとに添えられていた両手が大きく開かれ、そしてその唇から、震えているがはっきりとした声が発せられた。
「――ユイちゃん!!」
直後、床を蹴ったユイの小さな体が、アスナの胸にまっすぐ飛び込んだ。二人の、栗色と漆黒の長い髪が宙に揺れ、夕焼け色の光が舞った。
固く抱き合ったユイとアスナは、互いの頬をすり寄せ、確かめるようにもう一度名前を呼んだ。
「ママ……」
「ユイ……ちゃん……」
二人の涙が次から次へと零れ落ち、紅玉のように輝きながら消えていった。
俺は走る勢いを緩め、そっとアスナに歩み寄り、数歩手前で足を止めた。顔を上げたアスナが、瞬きをして涙を払い落とし、まっすぐに俺を見た。
あの時と同じように、俺は動けなかった。これ以上近づき、手を触れたら、全てが消えてしまいそうな――。それに、今の俺の姿は当時とはまるで違う。俺はただただ涙をこらえ、じっと彼女を見つめることしかできなかった。
しかし、やはりあの時と同じように、アスナの唇が動き、そして俺の名を呼んだ。
「――キリトくん」
一瞬の静寂のあと、俺の口が動き、彼女の名を呼んだ。
「……アスナ」
俺は、最後の二歩をあるき、両手を広げた。胸に抱かれたユイの体ごと、アスナの華奢な体をそっと包み込み、ゆっくりと力を込めた。懐かしい香りがふわりと漂い、懐かしい暖かさが俺の体を包んだ。
「……ごめん、遅くなった」
震える声で呟くと、アスナは至近距離からまっすぐ俺の目を見詰め、答えた。
「ううん、信じてた。きっと――助けに来てくれるって……」
それ以上、言葉はもう不要だった。俺とアスナはどちらからとも無く目を閉じると、穏やかに唇を合わせ、そのまま頬を触れさせた。俺の背にアスナの両手が回され、固く力が込められた。二人の間で、ユイが幸せそうな吐息を洩らした。
――これで、もう、いい。そう思った。
この瞬間が最期になるなら、俺の命が燃え尽きてももう悔いはなかった。あの世界と共に終わっていたはずの命は、ここで完結する、それだけのために長らえ――
――いや、そうじゃない。ようやく、ここから始まるのだ。ここで、あの剣と戦闘の世界がついに終わり、現実という名の新しい世界へと二人で旅立つのだ。
俺は、顔を上げ、言った。
「さあ、帰ろう。いるべき場所へ」
抱擁を解いたあとも、俺とアスナはしっかりと手を握り合い、ユイはアスナのもう片方の腕に抱かれていた。俺はその顔を覗き込み、訊ねた。
「ユイ、ここからアスナをログアウトさせられるか?」
するとユイは瞬間眉を寄せ、すぐに首を振った。
「ママのステータスは複雑なコードによって拘束されています。解除するにはシステム・コンソールが必要です」
「コンソール……」
首を傾げると、アスナが俺を見て言った。
「あ、わたし、それっぽい物を見たよ。ラボラトリーの一番下で……あ、ラボラトリーっていうのは……」
「あの、白い何も無い通路のことか?」
「うん。……あそこを通って来たの?」
「ああ」
頷いた俺に向かって、アスナは何か気がかりそうに眉をしかめる。
「何か……ヘンなモノ、居なかった?」
「いや、誰にも会わなかったけど……」
「……ひょっとしたら、須郷の手下がうろついてるかもしれないの。その剣で斬れればいいんだけどなあ!」
嫌悪感に満ちたその声の調子も気になったが、それよりも俺はアスナが出した名前に、軽い驚愕とやはり、という確信を同時に味わっていた。
「あの男……須郷の仕業なのか? アスナをここに閉じ込めたのは」
「ええ。――それだけじゃないわ、須郷はここで恐ろしいことを……」
アスナは深い憤りを滲ませながら何かを言いかけたが、すぐに首を振った。
「続きは、現実に戻ってから話すわ。須郷は今、会社に居ないらしいの。その隙にサーバーを押さえて、みんなを解放しないと……。行きましょう」
色々と聞きたいことはあったが、何よりもアスナを現実に戻すのが先決だった。俺は頷き、体を翻した。
ユイを抱いたアスナの手を引き、俺はドアの吹き飛んだ入り口に向かって駆けはじめた。二歩、三歩進み、格子をくぐろうと身をかがめた、その時だった。
――誰かが、見ている。
不意に、俺はうなじの辺りに嫌な気配をちりちりと感じた。あの世界で、誰か――いや、モンスターではなくオレンジカラーの殺人者が、物陰に身を潜めて俺をターゲッティングしたときに感じた視線とまったく同じ感覚だ。
とっさに俺はアスナの手を離し、背中の剣の柄を握った。それを抜こうと、わずかに腕を動かした、その瞬間。
いきなり、鳥篭が水没した。ドプン、と粘性の高い、濃い色の液体が俺たちを包んだように感じた。
いや、そうではない。呼吸はできるが、しかし空気が異常に重くなったのだ。体を動かそうとすると、ねっとりとした粘液の中にいるかのような、凄まじい抵抗を感じる。体が重い。立っているのも苦痛だ。
同時に、世界から光が遠ざかっていった。鳥篭を満たしていた赤い夕陽が、深い闇にみるみる覆い尽くされていく。
「――な、なに!?」
アスナが叫んだ。その声も、深い水底で発せられたかのように歪んでいる。
俺は途方もなく嫌な戦慄を感じながら、振り返ってアスナとユイを抱き寄せようとした。だが――体を動かせない。ねばねばとした空気が、意思あるもののように俺に絡みつく。
やがて、ついに世界は全くの暗闇に包まれてしまった。いや、それとは少し違う。白いワンピース姿のアスナとユイは明瞭に見える。だが、視界のバックグラウンド全てが濃密な黒に塗りつぶされてしまっているのだ。
俺は歯を食いしばって右手を動かした。すぐ近くに鳥篭の格子があったはずだ。それに掴まって、体をこの空間から引き抜こうとしたのだが――しかし、伸ばした手は何にも触れることは無かった。
見た目だけではない。俺たちはどことも知れない闇の世界に放り込まれたらしい。
「ユイ――」
状況が分かるか、と言おうとした時。アスナの腕の中で、突然ユイが体を仰け反らせ、悲鳴を上げた。
「きゃあっ! パパ……ママ……気をつけて! 何か……よくないモノが……!」
その言葉が終わる前に。ユイの小さな体の表面を紫色の電光が這いまわり、一瞬まばゆくフラッシュした――と思ったときにはもう、アスナの腕の中はからっぽになっていた。
「ユイ!?」
「ユイちゃん――!?」
俺とアスナは同時に叫んだ。しかし答えはない。
どろりと濃い、リアルブラックの闇の中に、俺とアスナだけが残された。俺は必死に手を伸ばし、アスナの体を引き寄せようとした。不安そうに目を見開いたアスナもこちらに手を伸ばす。
だが、二人の指先が触れ合う直前、すさまじい重力が俺たちを襲った。
まるで、深い深い粘液の沼の底に放り込まれたかのようだ。全身にのしかかるプレッシャーに耐えかね、俺は片膝をついた。同時にアスナも倒れこみ、床――もし存在するとしてだが――に両手を突く。
アスナが俺の瞳を見つめ、唇を動かした。
「キリト……くん……」
だいじょうぶ――君は俺が助けてみせる――、と答えようとした、その時だった。粘つくような笑いを含んだ、甲高い声が闇の中に響き渡った。
「やあ、どうかな、この魔法は? 次のアップデートで導入される予定なんだけどねえ、ちょっと効果が強すぎるかねえ?」
抑え切れない嘲弄の色を含んだその声には、聞き覚えがあった。眠るアスナを前にして、俺を嘲笑ったあの男の声。
「――須郷!!」
俺は立ち上がろうともがきながら、顔を上げて叫んだ。
「チッチッ、この世界でその名前は止めてくれるかなあ。君らの王に向かって呼び捨ても戴けないね。妖精王、オベイロン陛下と――そう呼べッ!!」
声の語尾が、高く跳ね上がって絶叫に変わり、同時に何かが俺の頭を強く打ちつけた。
首を動かすと、いつの間にかそこに立っている男がいた。ごてごてと刺繍の施されたブーツを履き、白いタイツに包まれた足の片方を、俺の頭に乗せて左右に動かしている。
視線を上向けていくと、体には毒々しい緑色の長衣をまとい、その上に、作り物のように端正な顔が乗っていた。いや――実際作り物なのだ。ポリゴンで美貌を創造しようとすると必ず陥ってしまう、生気の無い、ある種醜悪な美しさ。真っ赤な唇を大きく歪め、かつて見たことのあるニヤニヤ笑いを浮かべている。
たとえ姿は違えど、俺には分かった。この男は須郷だ。アスナの心を強奪し、こんなところに閉じ込めた、どれほど憎んでも憎み足りない男。
「オベイロン――いえ、須郷!」
床にほとんど倒れながらも、気丈に顔を上げたアスナも鋭い声で叫んだ。
「あなたのした事は、全部この目で見たわ!! あんな酷いことを……許されないわよ、絶対に!!」
「へえ? 誰が許さないのかな? 君かい、この彼かい? それともまさか神様かな? 残念ながら、この世界に神はいないよ。僕以外にはね、ヒッ、ヒッ!」
耳障りな笑いの混じった声で言うと、須郷は一際激しく俺の頭を踏み下ろした。その途端、圧し掛かる重力に耐え切れず、俺の体は床に押し付けられた。
「やめなさい、卑怯者!!」
アスナの言葉には耳も貸さず、須郷は身を屈めると、背中から俺の剣を抜き去った。伸ばした人差し指の上に、巨大な剣をまっすぐに立て、くるくると垂直に回転させる。
「――それにしても桐ヶ谷君、いや……キリト君と呼んだほうがいいかな。まさか本当にこんな所まで来るとはねえ。勇敢なのか、愚鈍なのか。まあ今そうやってへたばってるんだから、後の方かな、ククッ。僕の小鳥ちゃんがカゴから逃げ出したって言うんで、今度こそきついお仕置きをしてあげようと急いで帰ってきてみれば、いやあ驚いたね! カゴの中にゴキブリが迷い込んでるとはね! ――そう言えば、あと一つ妙なプログラムが動いてたな……」
須郷は言葉を切ると、さっと右手を振ってウインドウを出した。唇を曲げながらしばらく青く発光するスクリーンを眺めていたが、やがてフン、と鼻を鳴らし、閉じた。
「……逃げられたか。あれは何だい? そもそもどうやってここまで登ってきたのかな?」
少なくともユイが消去されたわけではないらしいと知り、かすかに安堵しながら、俺は言った。
「飛んできたのさ、この翅でね」
「――ふん、まあいい。すぐに分かるさ、君の頭の中身はね」
「……なに?」
「君はまさか、僕が酔狂でこんな仕掛けを作ったと思ってるんじゃないだろうね?」
須郷は指先でひょいひょいと剣をバウンドさせながら、ニタリと毒の滴るような笑みを浮かべた。
「元SAOプレイヤーの皆さんの献身的な協力によって、思考・記憶操作技術の基礎研究はすでに八割がた終了している。そして本日めでたく新しい実験体が加わったわけだ。いやあ、楽しいだろうね!! 君の記憶を覗き、感情を書き換えるのは!! 考えただけでフルエるね!!」
「そんな……ことが、出来るわけが……」
あまりに途方も無い須郷の台詞に、愕然としながら俺が呟くと、須郷は再び右足を俺の頭に載せ、つま先をとんとんと動かした。
「君、性懲りも無くナーヴギアで接続してるんだろう? クライアントを書き換えるくらい容易いさ。やっぱり馬鹿だね、子供は。犬だって一度蹴飛ばされれば入っちゃいけない場所は分かるだろうに」
「そんな……そんな事、許さないわよ須郷!!」
アスナが、血の気の引いた顔で叫んだ。
「キリトくんに手を出したら、絶対に許さない!!」
「小鳥ちゃん、君のその憎悪が、スイッチ一つで絶対の服従に変わる日も近いよ」
陶酔した表情で言うと、須郷は俺の剣を握りなおし、もう一本の手で刀身をぱちんと叩いた。
「さて! 君達の頭をいじる前に、盛大にパーティーと行こうかな! ああ……とうとう、待ちに待った瞬間だ。最高のお客様も来てくれたことだし、限界まで我慢した甲斐があったというものだ!!」
くるりと体を一回転させ、両手をさっと広げる。
「ただ今、全方位から超高解像度で録画中だ! せいぜいいい顔をしてくれ給えよ!!」
「…………」
アスナは唇を噛み締めると、俺の目をじっと見つめ、早口で囁いた。
「……キリトくん、今すぐログアウトして。現実世界で、須郷の陰謀を暴くのよ。わたしは大丈夫」
「アスナ……!」
俺は一瞬、体を引き裂かれるような葛藤を感じた。しかし即座に頷くと、右手を振った。これだけの情報があれば、救出チームも俺の言葉を無視できないはずだ。レクトプログレスにあるALOサーバーを押さえれば、すべてを白日のもとに引き出せる。
――だが。ウインドウは、出現しなかった。
「キャハハハハハ!!!」
須郷は体を折り、腹を抱えて哄笑した。
「言ったろう、ここは僕の世界だって! 誰もここからは逃げられないのさ!!」
ひっ、ひっ、と体を跳ねさせながら踊るように歩き回り、突然さっと左手を掲げる。その手がパチンと鳴らされると、いきなり無限の闇に塗り込められた上空から、じゃらじゃらと音を立てて二本の鎖が垂れ下がってきた。
耳障りな金属音を立てて床に転がった鎖の先端には、幅広の金属リングが鈍い輝きを放っていた。須郷はその片方を取ると、俺の目の前に倒れたままのアスナの右手首にカチンと音を立てて嵌めた。次いで、闇の中にまっすぐ伸びている鎖を軽く引く。
「きゃあっ!」
いきなり鎖が巻き上げられ、アスナは右手を上にして高く吊り上げられた。つま先がぎりぎり床につくかどうかという所で鎖が停止する。
「貴様……何を……!」
叫ぶが、須郷は俺には目もくれず、鼻歌交じりにもう片方のリングを手に取った。
「小道具は色々用意してあるんだがね。まあ、まずはこの辺からかな」
言いながら、リングをアスナの左手首に嵌め、鎖を引く。そちらもジャラっと巻き上がり、アスナは両手を強く引かれる格好で宙吊りになった。重力はまだかかっているらしく、優美な眉の曲線が苦痛に歪む。
須郷は、アスナの前で腕組みをすると、下品な口笛を吹いた。
「いいね。やっぱりNPCの女じゃあその顔はできないよね」
「……っ!」
アスナはキッと須郷を睨みつけると、俯いて目を閉じた。須郷は喉の奥でククッと笑うと、ゆっくりと歩いてアスナの後ろに回った。長い髪をひと房手に取り、鼻に当てて大きく息を吸い込む。
「うーん、いい香りだ。現実のアスナ君の香りを再現するのに苦労したんだよ。病室に端末まで持ち込んだ努力を評価してほしいねえ」
「やめろ……須郷!!」
耐えがたい怒りが俺の全身を貫いた。赤い炎が神経を駆け巡り、瞬間、体にかかる重圧を吹き飛ばした。
「ぐ……おっ……」
俺は突っ張った手を伸ばし、体を持ち上げた。膝を立て、そこに全身の力を込めてじわじわと立ち上がっていく。
須郷は芝居がかった仕草で左手を腰にあて、首を振った。のっそりと俺の前まで歩き、言う。
「やれやれ、観客はおとなしく……這いつくばっていろッ!!」
いきなり両足を真横に蹴り払われ、俺は支えを失って床に叩きつけられた。
「ぐはっ!!」
肺が空になるような衝撃に、思わず声を上げる。再び手を突っ張り、顔を上げると、須郷は唇の両端を持ち上げてニタっと笑い――右手に握ったままの俺の剣を、思い切り俺の背に突きたてた。
「がっ……!」
分厚い金属が体を貫通する衝撃が、俺の神経を駆け巡る炎を吹き飛ばした。剣は俺の体を貫き、床に深く食い込んだようだった。痛みはないが、ざらざらした不快感が強烈に襲ってくる。
「き……キリトくん!!」
アスナの悲鳴に、俺は顔を上げ、大丈夫だ、と言おうとした。
――しかし。須郷は笑いを消さず、ふいっと上空の闇を振り仰ぐと、言った。
「システムコマンド! センスフィードバック・アブソーバ、レベル8に変更」
その途端。鋭い錐を突き込まれるような純粋な痛みが、俺の背中に疾った。
「っ……ぐっ……」
俺がうめき声を上げると、須郷は愉快そうな含み笑いを洩らした。
「おいおい、まだツマミ二つだよ君。段階的に強くしてやるから楽しみにしていたまえ。ま、レベル3以下にするとトラウマが残る恐れがあるらしいがね」
さて、と手を叩き、アスナの背後に戻っていく。
「い……今すぐキリトくんを解放しなさい、須郷!」
アスナの叫びにも、無論耳を貸す様子はない。
「標本箱の虫はピンで止めておかないとね。それに、彼のことを心配できる状況じゃないだろう、小鳥ちゃん?」
須郷は背後から右手を伸ばすと、人差し指でアスナの頬を撫でた。アスナは首を捻り、避けようとするが、強烈な重力ゆえにままならない。
指先は、アスナの顔を縦横に這いまわり、やがて首筋に降りた。アスナの顔が嫌悪に歪んだ。
「やめろっ……須郷!」
必死に体を起こそうとしながら、俺は叫んだ。するとアスナは気丈な笑みを浮かべ、震える声で言った。
「――大丈夫だよ、キリトくん。わたしは、こんなことで傷つけられたりしない」
その途端、須郷がきっきっと軋るような笑いを上げた。
「そうでなくっちゃね。君がどこまでその誇りを保てるか――十分? 一時間? それとも丸一日? なるべく長引かせてくれたまえよ、この楽しみを!!」
叫ぶと同時に、須郷の右手がアスナのワンピースの襟元を飾っていた赤いリボンを掴んだ。布地ごと、一気に引きちぎる。血のように赤い、細い紐はゆっくりと宙を舞い、俺の目の前に落下して力なくわだかまった。
破れ、大きく開いたワンピースの胸元から、真っ白い肌が覗いた。須郷の右手はゆっくり、ゆっくりとその中に侵入していく。アスナの顔が恥辱に歪み、固く閉じられたまぶたの縁に涙の雫が盛り上がる。
アスナの素肌をまさぐりながら、須郷は首を伸ばし、ニタニタと笑った。唇が三日月型に裂け、毒々しい赤い舌が長く伸びた。粘液がしたたるような音を立てながら、アスナの頬を下から上に舐めあげる。
「クッ、クッ、今僕が考えていることを教えてあげようか」
舌を出したまま、須郷が狂熱を帯びた声で言った。
「この場所でたっぷり楽しんだら、君の病室に行く。ドアをロックして、カメラを切ったら、あの部屋は密室だよ。君と僕、二人きりさ。そこに大型モニタを設置して、今日の録画を流しながら、君ともう一度じっくりと楽しむ。君の、本当の体とね。――まず心の純潔を奪い――しかるのちに体の貞節を汚す!! 面白い、実にユニークな体験だと思わないか!」
完全に裏返った須郷の甲高い哄笑が、暗闇に満ち、吸い込まれていった。
アスナは目を見開き、ゆっくりと首を左右に振った。
「いや……嫌よ……そんなの……」
ついにその唇から、絶望に満ちた悲鳴が漏れた。
「いや……いやぁぁ!!」
全てを焼き尽くすほどに白熱した怒りが、俺の思考をまっすぐ貫き、視界に激しい火花を散らした。
「須郷……貴様……貴様ァァァ!!」
絶叫しながら、俺はがむしゃらに四肢を動かし、立ち上がろうとした。だが、俺を貫いた剣は小揺るぎもしない。
両目から涙が溢れるのを感じた。虫のように無様に這い、もがきながら、俺は咆哮した。
「貴様……殺す!! 殺す!! 絶対に殺す!!」
俺の絶叫に被さって、狂ったように笑う須郷の声が高く響き渡った。
今、俺に力を貸してくれるなら――
両手の指を立てて床を引っ掻き、一ミリでも前に体を動かそうとしながら、俺は念じた。
もし今、俺に立ち上がる力を与えてくれるなら、何を代償にしてもいい。命、魂、全てを奪われても構わない。鬼でも悪魔でもいい、あの男を斬り倒し、アスナを彼女のいるべき場所に戻してさえくれるなら。
須郷は両手を使って、アスナの体を思うままに蹂躙し続けていた。奴の手が動くたびに、邪な電子パルスが強制的に感覚刺激を励起するのだろう、アスナは血が出るほど唇を噛み締めて、辱めに耐えている。
その姿を視界に映しながら、俺は己の思考が白く、白く灼き切れていくのを感じていた。怒りと絶望の炎が俺を焼き尽くしていく。脳の奥を走るシナプスの全てが灰になる。骨の色の、乾いた塊になってしまえば、もう何も思うことはない。思わなくていい。
剣一本あれば、何でもできると思っていた。なぜなら俺は、五万人の剣士たちの頂点に立つ英雄だから。魔王を倒し、世界を救った勇者だから。
利潤を追求するだけの企業がマーケティングに基づいて組み上げたにすぎない仮想世界、ただのゲーム、それをもう一つの現実と思い込み、そこで手に入れた強さが本物の強さだと思い込んでいた。SAO世界から解放――または追放され、現実に帰還してから、俺は現実の貧弱な肉体に失望していたのではないか? 心のどこかでは、あの世界に、最強の勇者でいられた世界に帰りたいと思っていたんだろう?
だからお前は、アスナの心が新たなゲーム世界にあると知った時、それならば自分の力でどうにか出来ると思い込み、真にするべきこと、現実の力を持つ大人たちに任せることをせず、のこのことやって来た。再び幻想の力を取り戻し、他のプレイヤー達を圧倒し、醜いプライドを満足させて、悦んでいたんじゃないのか?
ならばこの結果は――当然の報いだ。そうだろう、お前は与えられた力に嬉々としてはしゃいでいた子供だ。システム管理権限という単なるID一つ圧倒することすらできない。これ以上できることはただ一つ、悔恨のみだ。それが嫌なら、思考を放棄することだ。
『逃げ出すのか?』
――そうじゃない、現実を認識するんだ。
『屈服するのか? かつて否定したシステムの力に?』
――仕方ないじゃないか。俺はプレイヤーで奴はゲームマスターなんだよ。
『それは、あの戦いを汚す言葉だな。私に、システムを上回る人間の意思の力を知らしめ、未来の可能性を悟らせた、我々の戦いを』
――戦い? そんな物は無意味だ。単なる数字の増減だろう?
『そうではないことを、君は知っているはずだ。さあ、立ちたまえ。立って剣を取れ』
『――立ちたまえ、キリト君!!』
その声は、雷鳴のように轟き、稲妻のように俺の意識界を切り裂いた。
遠ざかっていた感覚が、一瞬で全て接続されたようだった。俺は目を大きく見開いた。
「う……お……」
喉の奥からしわがれた声が漏れた。
「お……おおぉ……」
歯を食いしばり、瀕死の獣にも似た声で唸りながら、俺は右手を床に突き、肘を立てた。
体を持ち上げようとすると、背中の中央を貫いた剣が固く、重く、圧し掛かってきた。
――こんな物の下で無様に這いつくばっているわけにはいかない。こんな、魂の無い攻撃に屈服するわけにはいかない。あの男の剣はもっと重かった。もっと痛かった。須郷などという、剣士の誇りを持たない人間の剣に、倒されるわけにはいかない!
「うおお……オオォォォォ!!」
一瞬の咆哮ののち、俺は全身全霊の力を込めて体を起こした。ざりっ、と嫌な音を立てて剣が床から離れ、俺の体から抜け落ちて転がった。
ふらつきながら立ち上がった俺を、須郷はぽかんとした顔で見つめた。次いでアスナの体から手を離し、芝居じみた動作で肩を竦めながら首を振る。
「やれやれ、オブジェクトを固定したはずなのに、妙なバグが残っているなあ。開発部の無能どもときたら……」
呟きながら俺の前まで歩き、右拳を振り上げて俺の頬を張ろうとした。俺は左手を上げ、その拳を空中で掴んだ。
「お……?」
訝しい顔をする須郷の目を見ながら、俺は口を開いた。脳の奥で響いた一連の言葉を、そのまま繰り返す。
「システムログイン。ID、ヒースクリフ」
その途端、俺を包んでいた重力が消失した。
「な……なに!? なんだそのIDは!?」
須郷は歯を剥き出して驚愕の叫びを上げると、俺の手を振り払って飛び退り、右手を振った。青いシステムメニューウインドウが出現する。
だが、奴が指を動かすより早く、俺は言っていた。
「システムコマンド、スーパーバイザ権限変更。IDオベイロンをレベル1に」
同時に、須郷の手の下からウインドウが消滅した。須郷は目を見開き、何も無い空間と俺の顔の間で視線を何度か往復させたあと、苛立ったように右手を振った。
しかし何も起こらない。須郷に王の力を与えていた魔法のスクロールはもう現われない。
「ぼ……僕より高位のIDだと……? 有り得ない……有り得ない……僕は支配者……創造者だぞ……この世界の帝王……神……」
PCMを倍速再生したような、甲高い声で須郷は立て続けに捲し立てた。その、醜く崩れた美貌に視線を向けながら、俺は静かな声で言った。
「そうじゃないだろう? お前は盗んだんだ。世界を。そこの住人を。盗み出した、汚れた玉座の上で独り踊っていた泥棒の王だ」
「こ……このガキ……僕に……この僕に向かってそんな口を……後悔させてやるぞ……その首をすっ飛ばして飾ってやるからな……」
須郷は鉤のように曲げた人差し指を俺に突きつけ、金切り声を上げた。
「システムコマンド!! オブジェクトID『エクスキャリバー』をジェネレート!!」
だが、システムはもう須郷の声には応えなかった。
「システムコマンド!! 言うことを聞けこのポンコツが!! 神の……神の命令だぞ!!」
喚きたてる須郷から視線を逸らし、俺は吊り上げられたままのアスナを見た。
力任せに引き千切られたワンピースは、ぼろぼろの布となって体にまとわりついているだけだ。髪は乱れ、頬には涙の跡が光る。しかし、その瞳はいまだ輝きを失っていない。その強靭な魂は挫かれていない。
――すぐ終わらせる。もう少し待っていてくれ
俺はアスナのはしばみ色の瞳をじっと見つめ、心の中で呟いた。アスナは小さく、しかし確かな動作でこくりと頷いた。
虐げられたアスナの姿を見たことによって、俺の中に新たな怒りの炎が噴き上がった。俺は視線をわずかに上向けると、言った。
「システムコマンド。 オブジェクトID『エクスキャリバー』ジェネレート」
すると俺の前の空間が歪み、微細な数字の羅列が猛烈な勢いで流れ、一本の剣を形作った。尖端から徐々に色と質感が与えられていく。金色に輝く刀身を持つ、美麗な装飾を施されたロングソードだ。
俺はその剣の柄を掴むと、目を丸くしている須郷に向かって放り投げた。奴が危い手つきで受け止めるのを見ながら、左足を動かし、床に転がったままの俺の剣を跳ね上げ、手に収める。
無骨な黒鉄色の大剣をぴたりと構え、俺は言った。
「決着をつける時だ。泥棒の王と鍍金の勇者……。システムコマンド、センスフィードバック・アブソーバをレベルゼロに」
「な……なに……?」
黄金の剣を握った須郷の顔に動揺が走った。一歩、二歩、後退る。
「逃げるな。あの男は少なくとも臆したことは無かったぞ。あの――茅場晶彦は」
「か……かや……」
その名を聞いた途端、須郷の顔が一際大きく歪んだ。
「茅場……ヒースクリフ……アンタか。またアンタが邪魔をするのか!!」
右手の剣を虚空に振り上げ、須郷は金属を引き裂くような声で絶叫した。
「死んだんだろ! くたばったんだろうアンタ!! なんで死んでまで僕の邪魔をするんだよ!! アンタはいつもそうだよ……いつもいつも!! いつだって何でも判ったような顔しやがって……僕の欲しいものを端から攫って!!」
不意に剣を俺に向かって突きつけ、須郷は更に叫んだ。
「お前みたいなガキに……何が、何がわかる!! アイツの下にいるってことが……アイツと競わされるのがどういうことか、お前にわかるのかよ!?」
「判るさ。俺もあの男に負けて家来になったからな。――でも俺はあいつになりたいと思ったことはないぜ。お前と違ってな」
「ガキ……このガキが……ガキがぁぁぁぁ!!」
須郷は裏返った悲鳴とともに地を蹴り、剣を振りかざした。その体が間合いに入るや否や、俺は右手の剣を軽く一閃させ、奴の滑らかな頬を剣先が掠めた。
「イアァァ!!」
須郷は高く叫ぶと左手で頬を押さえ、飛び退った。
「い……痛ァァアアッ」
目を丸くして悲鳴を上げるその姿は、俺の怒りを更に燃え上がらせた。こんな男がアスナを閉じ込め、二ヶ月もの間虐げつづけたと思うと耐えがたかった。
大きく一歩踏み込み、正面から剣を撃ち下ろした。反射的に掲げた須郷の右手が、一撃で断ち割られ、黄金の剣を握った手首ごと高く飛んで濃い闇の彼方へと消えていった。
「アアアアァァァァ!! 手が……僕の手がああぁぁああ!!」
擬似的な電気信号ではあるが、それゆえに純粋な痛みが今須郷を襲っているのだろう。しかし勿論、そんなものでは足りない。足りるわけがない。
消えうせた右手を抱えてうめく須郷の、緑色の長衣に包まれた胴を、俺は力任せに薙ぎ払った。
「グボアアァァァ!!」
均整の取れた長身が、腹から真っ二つに切断され、重い音を立てて床に転がった。直後、下半身だけが白い炎を上げて燃え崩れた。
俺は、須郷の波打った長い金髪を左手で掴み、持ち上げた。限界まで見開かれた目からどろりとした涙を流し、口をぱくぱくと開閉しながら、須郷は金属質な悲鳴を上げ続けている。
その顔を無表情に眺めながら、俺はしわがれた声で言った。
「――お前のHPが幾つあるか知らんがな、それがゼロになるまで端から少しずつスライスしてやる」
「ヒィ……やめ……や、やめ……」
その姿は、もう俺に嫌悪しか与えなかった。左手をぶんと振って、須郷の上半身を垂直に放り投げる。
大剣を両手で握り、体を捻って直突きの構えを取った。耳障りな絶叫を撒き散らしながら落ちてきた須郷の顔面に向かって――
「うらぁ!!」
俺は全力の突きを叩き込んだ。ガツッと音を立てて、刀身が須郷の右目から後頭部へ抜け、深々と貫いた。
「ギャアアアアアアア!!!」
数千の錆び付いた歯車を回すような、不快なエフェクトのかかった悲鳴が暗闇の世界に響き渡った。剣を挟んで左右に分断された右目から、粘りのある白い炎が噴出し、それはすぐに頭部から上半身に広がった。
溶解し、燃え尽きるまでの数秒間、須郷は途切れることなく叫び続けていた。やがてその声が徐々にフェードアウトし、姿が消え去った。世界に静寂が戻ると、俺は剣を左右に切り払って白い残り火を吹き散らした。
軽く剣で薙いだだけで、アスナを戒めていた二本の鎖は千切れ飛び、消滅した。役目を終えた剣を床に落とし、俺は力なく崩れるアスナの体を抱き止めた。
俺の体を支えていたエネルギーも同時に尽き、俺は床に膝をついた。腕の中のアスナを見つめる。
「……うっ……」
やるせない感情の奔流が、涙に形を変えて俺の両眼から溢れ出した。アスナの柔らかい体を固く抱きしめ、その髪に顔を埋めて、俺は泣いた。言葉は出なかった。ただ、泣き続けた。
「――信じてた」
アスナの、透明な声が耳もとで揺れた。
「……ううん、信じてる……これまでも、これからも。きみは私のヒーロー……いつでも、助けにきてくれるって……」
そっと、手が俺の髪を撫でた。
――違うんだ。俺は……俺には何の力もなくて……
だが、俺は大きく一度息をついてから、震える声で言った。
「……そうあれるように、がんばるよ。さあ……帰ろう……」
右手を振ると、通常のものとは異なる、複雑なシステムウインドウが出現した。俺は直感的に階層を潜り、移動し、転送関連のメニューを表示させると指を止めた。
じっとアスナの瞳を見つめ、言う。
「現実世界は、多分もう夜だ。でも、すぐに君の病室に行くよ」
「うん、待ってる。最初に会うのは、キリトくんがいいもの」
アスナはふわりと微笑んだ。純水のように澄み切った視線で、どこか遠いところを見つめながら、囁いた。
「ああ――とうとう、終わるんだね。帰るんだね……あの世界に」
「そうだよ。……色々変わっててびっくりするぞ」
「ふふ。いっぱい、いろんなとこに行って、いろんなこと、しようね」
「ああ。――きっと」
俺はゆっくり、大きく頷くと、一際強くアスナを抱きしめ、右手を動かした。ログアウトボタンに触れ、ターゲット待機状態で青く発光する指先で、アスナの頬を流れる涙をそっと拭った。
その途端、アスナの白い体を、鮮やかなブルーの光が包み込んだ。少しずつ、少しずつ、水晶のように透き通っていく。光の粒が宙を舞い、足先、指先から消えていく。
完全にこの世界から消え去るまで、俺は、強く強くアスナを抱いていた。ついに腕の中から重みが消え去り、俺は暗闇の中、独りになっていた。
しばらく、そのままの格好で俺はうずくまっていた。
全てが終わったような気もしたし、まだ大きな流れの過程にいるような気もした。茅場の夢想と須郷の欲望が引き起こしたこの事件――これがそのエンディングなのだろうか? あるいは、これすらもより巨大な変革の一部なのだろうか?
俺は、エネルギーの尽きかけた体に鞭打って、どうにか立ち上がった。頭上、暗闇に包まれた世界の深奥を見やって、ぽつりと呟く。
「――そこにいるんだろう、ヒースクリフ」
しばしの静寂ののち、先ほど俺の意識の中で響いたのと同じ、錆びた声でいらえがあった。
『久しいな、キリト君。もっとも私にとっては――あの日のこともつい昨日のようだが』
その声は、先ほどとは異なり、どこか遥か遠いところから届いてくるように感じられた。
「――生きていたのか?」
短く問うと、一瞬の沈黙に続いて答えが聞こえた。
『そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。私は――茅場晶彦という意識のエコー、残像だ』
「相変わらず判り難いことを言う人だな。とりあえず礼を言うけど――どうせなら、もっと前に助けてくれてもいいじゃないか」
『――』
苦笑を洩らす気配。
『それはすまなかったな。カーディナルに溶けた私のフラグメントが結合・覚醒したのが、つい先ほど――君の声が聞こえたときだったものでね。それに礼は不要だ』
「……なぜ?」
『君と私は無償の善意などが通用する仲ではなかろう。もちろん代償は必要だよ、常に』
今度は俺が苦笑する番だった。
「何をしろと言うんだ」
すると、遥か遠い闇の中から、何か――銀色に輝くものが落下してきた。手を差し出すと、かすかな音を立てて収まった。それは小さな、卵型の結晶だった。内部に微弱な光が瞬いている。
「これは?」
『それは、世界の種子だ』
「――何?」
『芽吹けば、どういうものか分かる。――では、私は行くよ。また会おう、キリト君』
そして唐突に、気配は消え去っていた。
俺は首を捻り、輝く卵をとりあえず胸ポケットに落とし込んだ。そして、ハッと思い出した。
「そうだ――ユイ、いるか? 大丈夫か!?」
そう叫んだ途端、暗闇の世界が裂けた。
さっとオレンジの光が暗幕を切り裂き、同時に風が吹いて、みるみるうちに闇を払っていく。あまりの眩しさに一瞬目蓋を閉じ、恐る恐る開くと、そこはあの鳥篭の中だった。
正面に、今まさに沈もうとしている巨大な夕陽が最期の光を放っていた。風が鳴るだけで、人の姿はない。
「――ユイ?」
もう一度呼ぶと、眼前の空間に光が凝縮し、ぽんと音を立てて黒髪の少女が姿を現した。
「パパ!!」
一声叫んで俺の胸に飛び込み、首にぎゅっとかじりつく。
「無事だったか。――よかった……」
「はい……。突然アドレスをロックされて、消去されそうになったので、一度ナーヴギアに退避したんです。でももう一度接続してみたら、パパもママも居なくなってるし……心配しました。――ママは……?」
「ああ、戻ったよ……現実世界に」
「そうですか……よかった……本当に……」
ユイは目を閉じ、俺の胸に頬を擦り付けた。その顔に、かすかな寂しさの影を感じて、俺はそっと長い髪を撫でた。
「――また、すぐ会いにくるよ。でも……どうなるんだろうな、この世界は……」
呟くと、ユイはにこりと笑って、言った。
「わたしのコアプログラムはパパのナーヴギアにあります。いつでも一緒です。――あれ、でも、へんですね……」
「どうかしたのか?」
「なんだか大きなファイルが、ナーヴギアのローカルエリアに転送されています。……アクティブなものではないようですが……」
「ふうん……」
俺は首を傾げたが、その疑問は棚上げすることにした。それよりも、今はやらなくてはならないことがある。
「――じゃあ、俺は行くよ。ママを出迎えに」
「はい。パパ――大好きです」
うっすらと涙を滲ませ、力いっぱい抱きつくユイの頭を撫でながら、右手を振った。
ボタンを押す手を一瞬止め、俺は夕焼けの色に染まる世界を眺めた。偽りの王が治めていたこの世界は、一体これからどうなるのだろうか。この世界を深く愛しているであろうリーファや他のプレイヤー達のことを考えると胸が痛んだ。
ユイの頬に軽く唇を当て、俺は指を深く動かした。放射状の光が視界に広がり、意識を包んで、高く、高く運び去っていった。
頭の芯に深い疲労感を覚えながら瞼を開けると、目の前に直葉の顔があった。心配そうな表情でじっと俺の顔を覗き込んでいたが、目が合うと慌てたようにさっと体を起こした。
「ご、ごめんね、勝手に部屋に入って。なかなか戻ってこないから、心配になって……」
ベッドの縁にぺたんと座り込んだ格好で、直葉は頬をわずかに赤らめながら言った。俺は少々のタイムラグの後に接続感の回復した四肢に力を込め、勢いよく上体を跳ね上げた。
「遅くなって、ごめんな」
「……全部、終わったの?」
「――ああ。終わった……何もかも……」
俺は瞬間、視線を虚空に向けながら答えた。あやういところで再び仮想世界の虜囚に、しかも今度はクリアフラグなしの牢獄にとらわれる所だったなどとは、とても直葉には言えない。いずれ全てを話すときが来るだろうが、今はこれ以上の心配をかけたくなかった。このたった一人の妹に、俺はすでに言葉では言い尽くせないほどの救いを与えてもらっているのだ。
深い夜の森で、緑色の髪の女の子に出会ったあの時から、俺の新しい冒険が始まり――長い旅のあいだ、傍には常に彼女が居てくれた。道を示し、風物を語り、剣で守ってくれた。彼女の導きによって二人の領主たちと出会い、知己を得ることが無ければ、あの守護騎士の壁は突破できなかったに違いない。
思えば、何と多くの人たちに助けてもらったことだろう。最たる助力となってくれたのは勿論彼女だ。俺はキリトとしてリーファに、和人として直葉に頼り、支えられ、しかもその間じゅう、彼女はその小さな肩に深い懊悩を背負っていたのだ――。
俺は改めて直葉の、どこか男の子のようなまぶしい生気と、萌え出たばかりの新緑の儚さの同居した顔を見つめた。手を伸ばし、照れたように小さく笑う彼女の頭をそっと撫でながら言う。
「本当に――ほんとうにありがとう、スグ。お前が居なかったら、俺、何も出来なかったよ」
直葉は真っ赤に染めた顔を俯かせ、しばらくもじもじしていたが、意を決したように体を前に進ませて俺の胸に頬を預けた。
「ううん……あたし、嬉しかった。お兄ちゃんの世界で、お兄ちゃんの役に立てて」
目を閉じて呟く直葉の背に手を回し、軽く力を入れる。
しかし――つい数分前、アスナを同じように抱擁し、その後ユイを抱きしめ、さらにその後直葉と触れ合っていることには罪悪感を覚えずにはいられない。この状況に結論を出すのは非常な困難を伴うであろうという深い確信に、神の前に引き出された罪人のような気分を味わっていると、直葉が俺を見上げて言った。
「じゃあ……取り戻したんだね、あの人――アスナさんを……」
「ああ。ようやく――ようやく帰ってきた。……スグ、俺……」
「うん。行ってあげて、きっとお兄ちゃんを待ってるよ」
「ごめんな。詳しいことは帰ってきてから話すよ」
俺はぽんと直葉の頭に手を乗せ、体を離した。
記録的な速さで身支度をし、ダウンジャケットを引っ掴んで縁側に立つと、外はすっかり暗くなっていた。居間に掛かった時代物の柱時計は10時少し前を指している。面会時間はとうの昔に終了しているが、状況が状況だ。ナースステーションで事情を話せば入れてもらえるだろう。
直葉がとてとてと走り寄ってきて、「これ、作っといた」と分厚いサンドイッチを差し出した。ありがたく受け取って口に咥え、サッシを開けて庭に降りる。
「さ、寒……」
ジャケットを透過してくる冷気に首を竦めると、直葉が暗い夜空を見上げて、言った。
「あ……雪」
「なぬっ」
確かに、大きな雪片が二つ、三つ、白く輝きながら舞い降りてくるところだった。一瞬タクシーを使うべきか迷うが、これから呼んだり、幹線道路まで歩いてから拾うよりは、自転車を飛ばしたほうが時間的には早い。
「気をつけてね。……アスナさんに、よろしくね」
「ああ。今度、ちゃんと紹介するよ」
直葉に手を振ってMTBに跨り、俺はペダルを踏み込んだ。
頭の中が空っぽになるほどの勢いで自転車を疾走させ、埼玉県南部を縦断する。雪は徐々に勢いを増したが、路面に積もるほどではなく、交通量が減るのは逆に有り難かった。
一秒でも早くアスナの病室に辿りつきたい――と思う反面、あの場所を訪れるのを恐れる自分もいた。二ヶ月間というもの、俺は一日置きにあの部屋を訪れては、深い、深い失望を味わいつづけてきた。このまま冷たい彫像になってしまうのではないかと思うほどに、静寂に満ちた眠りにとらわれたままの彼女、その手を取り、届かないと知りつつ何度も、何度も呼びかけた。
こうして、もう路面のギャップに至るまで覚えてしまった道を再び走っていると、あの妖精の世界で彼女を見つけ――残虐な王を倒し――鎖を解き放ったことが、ただの幻想であったような気がしてならない。
もし、あと数分後に病室を訪れ、アスナが目覚めていなかったら。
アルヴヘイムに彼女の魂はすでに無く、現実にも帰還しておらず――ふたたび、どことも知れぬ場所に消え去ってしまったら。
顔を叩く雪のせいだけではない、恐ろしいほどの冷気が俺の背を駆け巡る。いや、そんなことがある筈はない。この現実という名の世界を司るシステムが、そこまで冷酷である筈はない。
縺れ、絡み合う思考の渦を抱えたまま、俺はペダルを踏み続けた。太い幹線道路を右折し、丘陵地帯に入る。トレッドの深いブロックタイヤが、シャーベット状の雪をまとったアスファルトを噛み、蹴り飛ばし、マシンを加速させる。
やがてついに、前方に黒々とした巨大な建築物の影が出現した。灯りは殆ど落ち、屋上のヘリパッドに設置された青い誘導燈が、暗黒の城を彩る鬼火のように明滅している。
最後の坂を登ると、高い鉄柵が出現した。それに沿って更に数十秒走る。一際高い門柱に守られた正面ゲートが見えてくる。
急患の受け入れはしていない、高度医療専門の機関ゆえに、この時間ではすでに門は固く閉ざされ、ガードマンの詰めるボックスも無人だ。俺は正門前を通過してパーキングエリアまで走ると、職員用に開放されている小さなゲートから敷地内に乗り入れた。
駐車場の端に自転車を停め、ロックするのももどかしく俺は走った。ナトリウム灯がぼんやりとしたオレンジ色の光を投げかける夜の駐車場はまったくの無人だ。ただ、大粒の雪だけが無音で天から降り注ぎ、世界を白く染めていく。荒い呼吸と共に水蒸気の塊を吐き出しながら、俺は走る。
恐ろしいほど広大なパーキングを半分ほど横切り、背の高い濃い色のバンと、白いセダンの間を通り抜けようとした、その時だった。
バンの後ろからスッと走り出てきた人影と、俺は衝突しそうになった。
「あ――」
すみません、と言いつつ身をかわそうとした俺の視界を――
ギラリとした、生々しい金属の輝きが横切った。
「!?」
直後、俺の右腕、肘の少し下に鋭い熱感が疾った。それが痛みだと気付くのに、コンマ5秒ほどかかった。白いものが大量に散った。雪ではない――細かい、羽だ。俺のダウンジャケットの断熱材。
俺はよろけ、白のセダンのリア部に衝突してどうにか踏みとどまった。
いまだ状況が理解できず、2メートルほど離れた場所に立つ黒い人影を、唖然としながら凝視した。男だ。黒に近い色のスーツ姿。何か白く、細長いものを右手に握っている。オレンジ色の光を受けて、鈍く輝いている。
ナイフ。大ぶりのサバイバルナイフだ。しかし。何故。
凍りついた俺の顔を、バンの作り出す陰の中から男が凝視するのを感じた。男の口もとが動き、殆ど囁きのような、しわがれた声が流れた。
「遅いよ、キリト君。僕が風邪引いちゃったらどうするんだよ」
その声。キーの高い、粘り気のある、その声は。
「す……須郷……」
呆然と、俺がその名を呼ぶと同時に、男が一歩進み出た。ナトリウム灯の放つ光が、顔を照らし出した。
かつて一度まみえた時は丁寧に撫で付けられていた髪が、激しく乱れている。尖った顎には髭の翳が浮き、ネクタイはほとんど解けて首にぶら下がっているだけだ。
そして――メタルフレームの眼鏡の下から俺に注がれる、異様な視線。その理由はすぐにわかった。細い目は限界まで見開かれ、点のように収縮した瞳孔が細かく震えているが、右の白目の部分が全て真っ赤に染まっているのだ。あの世界で――俺の剣が貫いた、その箇所が。
「酷いことするよねえ、キリト君」
須郷が軋る声で言った。
「まだ痛覚が消えないよ。まあ、いい薬が色々あるから、構わないけどさ」
右手をスーツのポケットに突っ込み、カプセルを幾つか掴み出して口に放り込む。こりこりと音をさせてそれを咀嚼しながら、須郷は更に一歩踏み出した。俺はようやく衝撃から回復し、乾いた唇をどうにか動かした。
「――須郷、お前はもう終わりだ。あんな大き過ぎる仕掛けを誤魔化しきれるものか。おとなしく法の裁きを受けろ」
「終わり? 何が? 何も終わったりしないさ。まあ、レクトはもう使えないけどね。僕はアメリカに行くよ。僕を欲しいっていう企業は山ほどあるんだ。僕にはまだ二千の実験体がある。あれを使って研究を完成させれば、僕は本物の王に――神に――この世界の神になれる」
――狂ってる。いや――おそらく遥か昔から、この男は壊れていたのだ。
「その前に、幾つか片付けることはあるけどね。とりあえず、君は殺すよ、キリト君」
表情を変えず、ボソボソと喋り終えると、須郷はすたすたと歩み寄ってきた。右手のナイフを無造作に俺の腹目掛けて突き出してくる。
「――!」
俺はどうにかそれを避けようと、右足でアスファルトを蹴った。しかし、靴底にこびり付いた雪のせいか、大きく滑ってバランスを崩し、駐車場に倒れ込んだ。体の左側をしたたか打ち付け、瞬間、息が詰まる。
須郷は焦点を失った瞳孔で俺を見下ろした。
「おい、立てよ」
直後、革靴の尖った先端が、鈍い音を立てて俺の大腿部に蹴り込まれた。二度。三度。熱い痛みが脊髄を駆け、頭の奥に響く。
俺は動けなかった。声も出せなかった。須郷の握るサバイバルナイフ――刃渡り二十センチを越えるであろう、その殺傷のための道具が放つ重い圧力が、俺を凍らせた。
殺す――俺を――あのナイフで――?
断片的な思考が流れ、消える。肉厚の刃が、音も無く俺の体に侵入し、致命的な――文字通り命を奪うに足る損傷を与える、その瞬間を何度も、何度も想像する。それ以外、何もできない。
右腕に、痺れるような熱を感じた。ジャケットの袖口と、ウインターグローブの隙間から、黒い液体が数滴したたった。体から、血液が際限なく流れ出すイメージ。HPバーではなく、数値ではなく、明確な、リアルな「死」のイメージ。
「ほら、立てよ。立ってみろよ」
須郷は、壊れた人形のように何度も、何度も俺の足を蹴り、踏みつけた。
「キリト君、さっき何か言ってたよな。逃げるなとか? 臆するなとか? 決着をつけるとか? 偉そうなこと言ったよな」
須郷のささやき声に、あの闇の中で聞いたのと同じ狂気の色が混ざりはじめた。
「わかってんのか? お前みたいなゲームしか能の無い小僧は、本当の力は何も持っちゃいないんだよ。全てにおいて劣ったクズなんだよ。なのに僕の、この僕の足を引っ張りやがって……。その罪に対する罰は当然、死だ。死以外ありえない」
抑揚の無い声でぼそぼそと言いおえると、須郷は左足を俺の腹の上に乗せた。ぐっと重心を移す。その物理的圧力と、奴の狂気が放つ精神的プレッシャーで、息が詰まる。
俺は浅く、速い呼吸を不規則に繰り返しながら、ただ近づいてくる須郷の顔を見ていた。体を屈めた須郷は、右手に握った凶器を高く振りかぶり――
瞬き一つせず、それを振り下ろした。
「――――ッ」
俺の喉の奥から、引き攣った声が漏れるのと――
鈍い金属音とともに、ナイフの先端が俺の頬を掠め、アスファルトに食い込むのは同時だった。
「あれ……右目がボケるんで狙いが狂っちゃったよ」
須郷はぶつぶつ呟くと、再び右手を高く掲げた。
ナイフのエッジをナトリウム灯の明かりが滑り、暗闇の中にオレンジ色のラインを描いた。
硬い路面に突き立てられたせいだろうか、切っ先が、ほんのわずかに欠けている。その瑕が、より現実的な、物理的な凶器としての存在感をナイフに与えている。ポリゴンの武器ではなく、金属分子が密に凝縮した、重く、冷たい、本物の、殺傷力。
何もかもが、ゆっくりと動いていた。黒い空を舞う雪片。歪んだ須郷の口から吐き出される息の塊。俺に向かって降下してくるナイフ。その背に刻まれたセレーションを明滅しながら移動するオレンジ色の反射光。
そう言えば、あんなギザギザのついた武器があったな……。
停止しかけた思考の表層を、無意味な記憶の断片が流れていく。
あれは何だったか。アインクラッド中層の街で売っていたダガー系のアイテムだ。確かソードブレイカーという名前だった。背の鋸状の部分で敵の剣をパリィすると、武器破壊に成功する確率に僅かなボーナスがあるという奴だ。面白そうだったので短剣スキルをスロットに入れてしばらく使ってみたが、基本攻撃力が低いので満足する結果にはならなかった。
今、須郷の手に握られている武器は、あれよりも更に小さい。ダガーと言うにも及ばない。いや――武器の範疇ではない、こんな物は。日常作業用のツールだ。剣士が闘いに用いるような物ではない。
耳の奥に、数秒前の須郷の言葉が蘇る。
本当の力は、何も持っちゃいない――。
そうだ……その通りだ。今更言われるまでもない。しかし、ならば俺を殺すと言うお前は何なのだ、須郷。ナイフ術の達人なのか? 武道の心得でもあるのか?
俺は須郷の眼鏡の奥、血の色に染まる細い目を見つめた。興奮。狂気。しかしそれ以外にも何かある。あれは――逃げる者の眼だ。ダンジョンでモンスターの大群に囲まれ、絶体絶命の死地に陥ったとき、その現実を遮断するために狂躁的に剣を振り回す者の視線。
頭の芯が、急激に冷えていくのを感じた。知覚の加速感。全身の神経をパルスが駆け回る。戦闘待機状態――
そうだ、これは戦闘だ。
俺は左手を上げ、振り下ろされつつある須郷の右手首を掴んだ。同時に右手を伸ばし、親指を須郷の緩んだネクタイの間、喉の窪みに突き込む。
「ぐぅ!!」
ひしゃげた声を上げ、須郷が仰け反った。俺は体を捻ると、両手で須郷の右腕を掴み、その手の甲を凍ったアスファルトに思い切り擦りつけた。悲鳴と同時に手が緩み、ナイフが路面に転がった。
笛の音のような甲高く掠れた絶叫を上げながら、須郷がナイフに飛びつこうとする。右足を曲げ、その顔面を靴のソールで蹴り飛ばした。ナイフを掬い上げ、反動を利用して立ち上がった。
「須郷……」
喉から、自分のものとは思えないさび付いた声が漏れた。
右手のグローブ越しに、硬く冷たいナイフの存在を感じた。武器としては貧弱だ。軽いし、リーチもない。しかし――
「お前を殺すには、十分だ」
呟くと、アスファルトに座り込み、バンに寄りかかって、ぽかんとした顔で俺を見ている須郷に向かって、猛然と飛び掛った。
左手で髪ごと頭を鷲掴みにし、バンのドアに打ち付けた。鈍い音とともにアルミのボディが凹み、眼鏡が吹き飛んだ。須郷が口を大きく開けた。
「イイイィィィィィィィ……」
涙と悲鳴を同時に撒き散らすその口に、俺はナイフを鋭く突き入れた。
カツン、というかすかな音と共に、前歯が一本折れて消し飛び――
そして俺は、左膝をバンのフェンダーにぶつけて体の勢いを止めた。ナイフの先端は、須郷の口蓋の奥にほんのわずか食い込んだ所で停止していた。
「ぐう……ううっ……!」
俺は歯を食いしばった。
「ィィィ! ヒィィィッ!! ィィィィィ!!」
須郷は悲鳴を上げ続けている。
この男は――死んで当然だ。裁かれて当然だ。今、この右手に体重を乗せ、刀身を撃ち込めば、全て終わる。決着だ。完全なる勝者と敗者の決定。
しかし――
俺はもう、剣士ではない。剣の技によって全てが決まるあの世界は、もう、終わったのだ。
「ヒィィィィィィ……」
不意に、須郷の口から血の混ざった白い泡がボトボトと大量にこぼれた。眼球が裏返り、悲鳴が途切れ、その全身が、電力の切れた機械のように脱力した。
俺の手からも、力が抜けた。ナイフが滑り落ち、須郷の腹の上に転がった。
左手も離し、俺は体を起こした。
これ以上、一秒でも長くこの男を見ていれば、再び殺意の衝動が沸き起こり、そしてそれにはもう耐えられないだろうと思った。
須郷のネクタイを引き抜き、体を路面に転がして、両手を後ろに回して縛り上げた。ナイフはバンのルーフの上に放り上げる。俺はよろめく脚に鞭打って後ろを振り向き、一歩、一歩、ゆっくりと駐車場を歩き始めた。
広い階段を登って正面エントランス前に出るころには、五分ほどが経過していた。立ち止まって大きく深呼吸し、どうにか言う事を聞くようになった全身を見下ろす。
雪と砂に汚れ、ひどい有様だ。切られた右腕と左頬が疼くが、すでに血は止まっているようだった。
自動ドアの前に立つ。しかし開く様子はない。ガラス越しに覗き込むと、メインロビーの照明は落ちているが、奥の受け付けカウンターには灯りがあった。左右を見回す。左奥に、小さなガラスのスイングドアを発見し、押してみると音も無く開いた。
建物の中は静寂に満ちていた。広大なロビーに整然と並べられたベンチの列を、ゆっくりと横切っていく。
カウンターの中も無人だったが、その奥に隣接したナースステーションからは談笑する声が漏れていた。俺はマトモな声が出ることを祈りつつ、口を開いた。
「あの……すみません!」
俺の声が響いた数秒後、ドアが開いて薄いグリーンの制服を来た看護師の女性が二人、現れた。いぶかしむような警戒の色を浮かべていたが、俺の顔を見た途端目を丸くする。
「――どうしたんですか!?」
背の高い、髪をアップにまとめた若い看護師が低い声を上げた。どうやら、俺の頬の出血は思った以上の量があるらしい。俺はエントランスの方向を指差し、言った。
「駐車場で、ナイフを持った男が暴れています」
二人の顔に緊張が走った。年配の看護師がカウンターの内側にある機械を操作し、細いマイクに顔を寄せる。
「警備員、至急一階ナースステーションまで来てください」
巡回中のガードマンが近くにいたらしく、すぐに足音と共に紺色の制服を来た男が小走りに現れた。看護師の説明を聞くと、男の顔も厳しくなる。小さい通信機に何事か呼びかけ、ガードマンはエントランスへ向かった。若い方の看護師も後を追う。
残った看護師は、俺の頬の傷を仔細に眺めてから言った。
「君、十二階の結城さんのご家族よね? 傷はそこだけ?」
少々事実に誤認があるようだが、訂正する気力もなく俺は頷いた。
「そう。すぐドクターを呼んでくるから、そこで待っていてください」
言うや否やパタパタと駆けていく。
俺は大きく一度息をついて、周囲を見回した。とりあえず近くに誰もいないのを確認し、カウンターに身を乗り出して、内側からゲスト用のパスカードを掴みだす。看護師が走って行ったのとは別の方向、何度も通った入院棟への通路に向かって、震える足を鞭打って走り出す。
エレベータは一階に停止していた。ボタンを押すと、低いチャイムと共にドアが開く。内部の壁に体を預け、最上階のボタンをプッシュ。病院ゆえに加速は緩やかだが、その僅かなGですら膝が折れそうになる。必死に体を支える。
気が遠くなるほど長い数秒間ののち、箱が停止してドアが開いた。半ば這うように通路へと転がり出る。
アスナの病室までの、ほんの数十メートルは、もう無限の距離と思えた。倒れそうになる体を壁の手すりで支え、前に進む。L字の通路を左に折れると――正面に、白いドアが、見えた。
一歩、一歩、歩いていく。
あのときも――。
夕焼けに包まれた終焉の世界から、現実世界に帰還し、ここではない別の病院で目覚めたあの日も、俺は萎えた脚に鞭打って、歩いた。アスナを捜して、ただただ歩いた。あの道は――ここに繋がっていたのだ。
ようやく、会える。その時が来る。
残りの距離が縮むと同時に、俺の胸に詰まる様々な感情が恐ろしい勢いで高まっていく。呼吸が速くなる。視界が白く染まる。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。歩く。ひたすら、脚を前に出す。
ドアの直前まで達したのに気付かず、衝突しそうになって危うく足を止めた。
この向こうに、アスナが――。もう、それしか考えられない。
震える右手を持ち上げると、汗のせいかカードが滑り落ちて床に転がった。拾い上げ、今度こそメタルプレートのスリットに差し込む。一瞬息を止め、一気に滑らせる。
インジケータの色が変わり、モーター音と共にドアが開いた。
ふわりと、花の香りが流れ出した。
室内の照明は落ちている。窓から差し込む雪明りが、ほのかに白く光っている。
病室は、中央を大きなカーテンが横切っている。その向こうにジェルベッドがある。
俺は動けない。これ以上は進めない。声も出せない。
不意に、耳もとで囁き声がした。
『ほら――待ってるよ』
そして、そっと肩を押す手の感触。
ユイ? 直葉? 三つの世界で、俺を助けてくれた誰かの声。俺は右足を動かした。もう一歩。さらに、もう一歩。
カーテンの前に立つ。手を伸ばし、その端を掴む。
引く。
鈴のような――草原を渡る風のような――かすかな音とともに、白いヴェールが揺れ、流れた。
「……ああ」
俺の喉から、祈りに似た声が漏れた。
純白のドレスにも似た薄い病衣をまとった少女が、ベッドに上体を起こし、こちらに背を向けて大きな窓を見ていた。つややかな長い髪に、舞い散る雪が淡い光を届けている。細い両手は体の前に置かれ、その中に深いブルーに輝く卵型のものを抱えている。
ナーヴギア。常に少女を拘束し続けた茨の冠が、その役目を終えて静かに沈黙している。
「アスナ」
俺は、音にならない声で呼びかけた。少女の体がかすかに震え――花の香りに満ちた空気を揺らして、振り向いた。
永い、永い眠りから醒めたばかりで、まだ夢見るような光をたたえているヘイゼルの瞳が、まっすぐ俺を見た。
何度、夢に見たことだろう。何度、祈ったことだろう。
色の薄い、しかしなめらかな唇に、ふわりと微笑みが浮かんだ。
「キリト君」
初めて聴く、その声。あの世界で毎日耳にしていた声とは大きく異なる。しかし、空気を揺らし、俺の感覚器官を震わせ、意識に届くこの声は、何倍も――何倍も素晴らしい。
アスナの左手がナーヴギアから離れ、差し伸べられた。それだけでかなりの力を使うのだろう、わずかに震えている。
俺は、雪の彫像に触れるように、そっと、そっと、その手を取った。痛々しいほど細く、薄い。しかし、温かい。俺の、すべての傷を癒していくように、手から温もりが染み込んでいく。不意に脚の力が抜け、ベッドの端に体を預けた。
アスナは右手も伸ばすと、おそるおそるというふうに俺の傷ついた頬に触れ、首を傾けた。
「ああ……最後の、本当に最後の闘いが、さっき、終わったんだ。終わったんだ……」
言うと同時に、俺の両目から、ついに涙が溢れた。雫が頬を流れ、アスナの指に伝い、窓からの光を受けて輝く。
「……ごめんね、まだ音がちゃんと戻らないの。でも……わかるよ、キリト君の言葉」
アスナは、いたわるように俺の頬を撫でながら、囁いた。その声が届くだけで魂が震える。
「終わったんだね……ようやく……ようやく……きみに、会えた」
アスナの頬にも、銀に輝く涙が伝い、零れ落ちた。濡れた瞳で、意識すべてを伝えようとするかのようにじっと俺を見て、言った。
「はじめまして、結城、明日奈です。――ただいま、キリトくん」
俺も、嗚咽をこらえ、応えた。
「桐ヶ谷和人です。……おかえり、アスナ」
どちらともなく顔が近づき、唇が触れ合った。軽く。もう一度。強く。
腕を、華奢な体に回し、そっと抱きしめる。
魂は、旅をする。世界から世界へ。今生から、次の生へ。
そして誰かを求める。強く、呼び合う。
昔、空に浮かぶ大きな城で、剣士を夢見る少年と、料理が得意な少女が出会い、恋に落ちた。彼らはもういないけれど、その心は長い長い旅をして、ついに再び巡り合った。
俺は、泣きじゃくるアスナの背をそっと撫でながら、涙で揺れる視線を窓の外に向けた。一際勢いを増して舞い散る雪の向こうに、寄り添って立つふたつの人影が見えた気がした。
背に二本の剣を背負った、黒いコート姿の少年。
腰に銀の細剣を吊った、白地に赤の騎士装の少女。
二人は微笑み、手を繋ぐと、振り向いてゆっくりと遠ざかっていった。
(第四章 終)
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