ソードアート・オンライン2 『フェアリィ・ダンス』



第四章 『イグドラシル侵攻』

 薄く雪の残る庭に出ると、ぴりぴりと冷たい朝の空気が俺の体を包んだが、それでも頭の芯に居座る眠気の残り滓は消えなかった。
 何度かぶんぶん頭を振ってから、意を決して庭の隅にある手洗い場へ向かう。古めかしい銀色の蛇口を捻り、零れ出る水を両手で受け止める。
 凍る寸前といった温度の冷水をばしゃりと顔に浴びせると、強引に叩き起こされた神経系が痺れるような痛みで抗議した。構わず二度、三度と水を被り、ついでに蛇口から直接ごくごくと飲む。
 首にかけたタオルで顔を拭いていると、縁側のガラス戸がからりと引き開けられ、ジャージ姿の直葉が降りてきた。いつも朝から元気な彼女にしては珍しく、こちらも半眠半覚醒といった体でぼーっとしている。
「おはよう、スグ」
 声をかけると、ふらふらした足取りで俺の前まできて、眼をしばたきながら言った。
「おはよー、お兄ちゃん」
「やけに眠そうだな。昨日は何時に寝たんだ?」
「うーっと、三時くらいかなぁ」
 俺はあきれて首を振った。
「だめだぞ、子供がそんな夜更かししちゃ。何してたんだよ」
「えーっと……ネットとか……」
「ほどほどにしとけよ。――俺も人のことは言えんけど……」
 後半は口の奥でごまかすように呟いてから、俺はあることを思いついて直葉に言った。
「おいスグ、後ろ向いてみ」
「……?」
 半分眠っている顔を傾げながら直葉はくるりと半回転する。右手を蛇口に伸ばしてたっぷり濡らすと、ひょいっと直葉のジャージの襟首を引っ張り、無防備な背中に極低温の水滴を半ダースほど投下。
「ぴぁ―――――っ!!」
 飛び上がった直葉の悲鳴が盛大に響き渡った。

 ストレッチと素振りのメニューをこなす間も、直葉はぷーっとふくれていたが、近所のファミレスで特大宇治金時ラズベリーパフェを奢る約束をするとあっさり機嫌を直した。
 今日は二人とも少々寝坊したので、トレーニングのあと順番にシャワーを浴び終わった頃には時計の針は9時を回っていた。母さんは例によって寝室で爆睡中だったので、直葉と二人で朝食の用意をする。
 洗ったトマトを六等分に切っていると、隣でレタスを千切っていた直葉が俺の顔を覗き込みながら言った。
「お兄ちゃん、今日はどうするの?」
「うーん、昼過ぎからちょっと約束があるんだけど……午前中は、病院に行ってこようかと思ってる」
「そう……」
 アスナの置かれた状況を知ってから、一日おきに眠る彼女の病室を訪れるのは俺の最も重要な習慣となっていた。
 現実世界では無力な十六歳の子供でしかない俺が、アスナにしてやれることはごく少ない。いや――ほとんど無いに等しいと言っていい。彼女の手を取って祈る、できるのはそれだけだ。
 エギルから送られてきた写真を脳裏に思い浮かべる。
 あれを手がかりにアルヴヘイムなる仮想世界に足を踏み入れ、二日をかけてどうにか写真の少女がいるらしい場所の足元までは到達したが、彼女がアスナであるという確証はなにもない。まったく見当違いの方向を探しているにすぎないかもしれないのだ。
 あの世界には何かある――、それは確かだと思う。
 アスナが永遠の眠り姫であり続けることを望む男・須郷、奴の息がかかった企業の運営するアルヴヘイム・オンライン、その世界に残された『キリト』のキャラクターデータと、SAOのヘルスケアAIだった『ユイ』の存在……。それらのピースがどのようなパズルを組み上げるのかは、今はまだわからない。
 今日の昼にALOの定期メンテが明け次第、俺はあの世界に戻っていよいよ世界樹なる巨大構造物に挑むことになっている。そのことを考えるたび、はやる気持ちで背中が震えるのを感じる。このまま自室で、俺の目指している方向が正しいのか間違っているのか自問自答しながらメンテ終了をじっと待つのはとても耐えられそうにない。
 だから、その前に現実のアスナに触れ、彼女の温もりを確認しておきたかった。須郷は二度と来るななどと言っていたが知ったことではない。
 切り終わったトマトをレタスやクレソンといっしょにボウルに入れ、ドレッシングを振りかけてかき混ぜながら直葉はしばらく無言だったが、やがて顔を上げて言った。
「ねえ、お兄ちゃん――あたしも、一緒に病院に行っていい……?」
「え……」
 俺はわずかに戸惑った。今まで直葉は、SAOに関することはあまり積極的に知りたがろうとしなかったからだ。アスナのことだけはしばらく前に話したが、それ以外は俺のキャラクターネームに至るまで何一つ伝えていない。
 一昨日の夜、アスナの婚約という話に打ちのめされて直葉の胸で泣いてしまったことを思い出し、内心で激しく狼狽する。が、俺はどうにか平静な顔を保ったまま頷いた。
「ああ……いいよ。きっとアスナも喜ぶ」
 すると直葉も笑みをうかべてこくんと頷いたが、なぜかその笑顔にわずかな翳りを感じて、俺は彼女の瞳を覗き込んだ。だが直葉はすぐにくるりと振り向くと、ボウルを抱えて食卓のほうに歩いていった。
 その後は特におかしい様子はなかったので、俺は直葉のぎこちない笑顔のことをすぐに忘れてしまった。
「ねえ、お兄ちゃん、学校のほうはどうなるの?」
 俺の向かいの椅子に座り、ぱりぱりと音を立てて生野菜を噛みながら、直葉が言った。
「そういや総務省の連中が何か言ってたな……。俺の場合は、中学にもう一年通うか、あるいは指定高校に特設されるSAO帰還者用カリキュラム・コースの入試を受けるか選ぶ感じらしいよ」
「へえ、そんなのできるんだ。どこの高校なの?」
「首都圏だけでも受験できなかった中学生が千人以上いるみたいだからな。えーと、東京のなんとか言う私立校だったな……名前忘れた」
「んもう、ちゃんと聞いとかないとダメだよー。せっかくだから入試受けてみなよ。お兄ちゃん成績いいんだしさ」
「もう過去形だ。二年も勉強しなかったんだぜ」
「ならあたしが家庭教師してあげる!」
「ほう。じゃあ数学と情報理論をお願いしようかな」
「うっ……」
 言葉に詰まる直葉ににやにや笑いを向け、バターを塗ったトーストを口に運ぶ。
 正直、当分は学校のことなど考える心境にはなれそうにもなかった。アスナのこともあるが、何よりも学生である自分にさっぱりリアリティが感じられないからだ。
 この世界に帰還して二ヶ月が経過した今でも、背中に二本の愛剣が無いことが実に心細く思える。ここは現実で、命を奪おうと襲ってくるモンスターなどいないのだと分かっていてもなお不安なのだ。俺の「本体」は剣士キリトで、今後学校に通い、授業を受け、齢を取っていく桐ヶ谷和人のほうが仮の存在なのだという意識は当分拭い去ることはできないだろう。
 あるいは、それは俺のなかでソードアート・オンラインというゲームがまだエンディングを迎えていないせいなのかもしれなかった。アスナがこの世界に戻ってくるまで、俺は剣を置くことはできない。彼女を取り戻す――、すべてはそれからだ。

 プリペイドカードを支払機に二度通して、俺と直葉は連れ立って降車口から道路に降りた。いつもは自転車で病院まで通っているが、今日は帰り道にかける時間が惜しいのでバスを使うことにしたのだ。
 直葉は眼前の病院を見上げて目を丸くした。
「うわぁー、大きい病院だねえ」
「中もすごいぞ。ホテル並だ」
 守衛に手を上げ、ゲートを通過する。徒歩だと驚くほど長い並木道を数分歩き、巨大なダークブラウンの建築物に足を踏み入れる。健康の申し子である直葉は病院自体が珍しいらしく、きょろきょろとあたりを眺め回すその襟首をひっぱるようにして受け付けまで行き、二人分のパスを発行してもらってからエレベータへ。最上フロアで降り、人気の無い廊下を突き当たりまで歩く。
「ここ……?」
「ああ」
 俺は頷いて、パスカードをドアのスリットに差し込んだ。金属プレートを見つめ、直葉が呟く。
「結城……明日奈さん……。キャラネーム、本名だったんだね。あんまりいないよね、そういう人」
「へえ、詳しいな。俺の知るかぎりアスナだけだな、本名だったのは……」
 言いながらカードを滑らせると、控えめな電子音とともにオレンジのLEDが青く変わり、ドアが開いた。
 途端に、濃密な花の香りが内部から流れ出した。自然に呼吸音までを殺しながら、静謐な眠り姫の寝室へと歩を進める。俺にぴったりくっつくようにして歩く直葉の体からも緊張が伝わる。
 純白のカーテンに手を掛け、いつものように短く祈る。
 そっと、それを引き開ける。




 直葉は、息をするのも忘れ、広いベッドの上で眠りにつく少女に見入った。
 瞬間、人ではない、と思った。これは妖精――、世界樹の上に住むという伝説の真なる妖精アルフに違いない、と。それほどに、少女は世俗離れした雰囲気を漂わせていた。
 隣の和人もしばらく無言のまま佇んでいたが、やがて小さく息をつくとかすかな声で言った。
「紹介するよ。彼女がアスナ……KoB副団長、『閃光』アスナだ。剣のスピードとアキュラシーでは俺も最後までかなわなかった……」
 わずかに言葉を切り、少女に視線を落として続ける。
「アスナ、俺の妹の直葉だよ。――仲良くしてやってくれ……」
 直葉は少し進み出ると、恐る恐る少女に声をかけた。
「……はじめまして、アスナさん」
 もちろん、眠る少女からの答えはない。
 彼女の頭を拘束する、濃紺のヘッドギアに視線を移す。かつて直葉も毎日のように目にし、時として深く憎悪した『ナーヴギア』だ。その前縁部で青く輝く三つのインジケータランプだけが、少女――アスナの意識の存在を示している。
 和人があのゲームに囚われていた二年の間、直葉が抱きつづけた深い痛みと同じものを、今和人も感じているのだろう。そう考えると、直葉の心は水面の木の葉のように揺れる。
 この、妖精のように美しい人の魂が、どことも知れない異世界に繋がれたままというのは残酷すぎると直葉も思う。一刻もはやくこの現実世界に、和人のもとに帰還し、和人に心からの笑顔を取り戻させてあげてほしいと、そう思う。
 でも同時に、今となりに立ち、無言で少女を見つめている和人の顔は見たくない、そんな気もして直葉はそっと目を伏せた。ほんの少しだけ、この場所に来たことを後悔した。
 和人に同行を申し出たときは、自分の気持ちを確かめたい、そう思ったのだ。
 二年間の後悔と切望に満ちた日々の果てに、翠に真実を告げられたあの日、直葉の中に生まれた疼き。それは、兄である和人への愛情なのか、それとも従兄としての彼への恋慕なのだろうか。自分は和人に何を求めているのだろう。一緒にいて欲しい――、仲のいい兄妹として? 並んでトレーニングしたり、一緒にご飯を食べたりすること以上のなにかを求める気持ちが、自分の中に無いと言い切れるだろうか?
 それは、和人の帰還以後の二ヶ月、直葉が何度も何度も自分に問うた疑問だった。
 和人の心の奥底を占める「彼女」に直接会うことで、その答えが出るかもしれないと、そう思っていたのだが。
 今、金色の静謐に満ちた病室に立ちながら、直葉は心が怖じ気づくのを感じていた。答えを知るのが恐かった。
 和人の顔を見ないようにしながら、邪魔しちゃ悪いから廊下に出てるね、と言おうと唇を開いた、その時――。
 不意に和人が歩きはじめ、直葉はタイミングを逸してしまった。和人はゆっくりベッドの足元を回りこむと、向こう側にあった椅子に腰を下ろした。自然、直葉の視界に和人の姿が映る。
 和人は、純白のシーツからのぞくアスナの小さな手を両手で包み込むと、無言のまま少女の寝顔に見入った。その顔を見た途端――
「ッ…………」
 直葉の胸の奥を、鋭い痛みが深く貫いた。
 なんて目をするんだろう、と思った。何年も……いや、前世から今生、そして来世へと何度も生まれ変わりながら運命の相手を捜し求める旅人のような目だった。優しく、穏やかな光の奥に、狂おしいほどの慕情を感じた。瞳の色さえがいつもとは違っていた。
 その瞬間、直葉は自分の心が真に求めていたものを知り、同時にそれが決して手の届かないものであることを悟った。

 帰り道、和人と何を話したのかさえよく覚えていなかった。
 気付くと、直葉は自室のベッドに横たわり、天井のポスターを染めるスカイブルーに見入っていた。
 ヘッドボードの上で携帯が軽やかな音を立てている。着信音ではなく、昨夜寝る前にセットしておいたアラームだ。午後一時、ALOの定期メンテナンスが終了し、かの世界のゲートが再び開かれる時刻。
 現実世界では、涙を流したくなかった。泣けば逆に諦められなくなる、そう思った。
 そのかわりに、妖精の国でちょっとだけ泣こう。いつも元気なリーファなら、きっとすぐに笑えるはず。
 直葉はアラームを止め、その隣からアミュスフィアを持ち上げた。そっと被り、再び横たわる。瞳を閉じ、魂を飛翔させる。

 出現したのは、央都アルン外縁の宿屋の一室だった。ゆうべ、眠い目を擦りながらどうにかシルフ・ケットシー会談場からアルンまで飛び、この宿屋に転がり込んでベッドに倒れこみ、直後に寝落ちしてしまったのだ。二部屋取る余裕すらなかった。
 リーファは体を起こすとベッドの端に腰掛けた。街の喧騒、空気の匂い、自分の肌の色すら変わっていたが、心の奥に突き刺さる切ない痛みだけは消えていなかった。うつむいたまま、痛みが液体に形を変えて目尻に溜まってゆくに任せる。
 数十秒後、涼やかな効果音とともに、傍らに新たな人影が出現した。リーファはゆっくりと顔を上げた。
 黒衣の少年は、リーファを見るとわずかに目を瞠ったが、すぐに柔らかい声で言った。
「どうしたの……リーファ?」
 その穏やかな、秋の微風のような笑みは、どこか和人に似ていた。それを見た途端、リーファの両眸から涙が零れ、光の粒となって宙に舞った。どうにか頬に微笑を浮かべながら、言った。
「あのね、キリト君……。あたし……あたし、失恋しちゃった」
 キリトは闇色の瞳でまっすぐリーファを見つめた。この、外見のわりに大人びた、どこか謎めいた少年に、すべてを話してしまいたい――という衝動に一瞬駆られたが、ぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。
「ご……ごめんね、会ったばかりの人に変なこと言っちゃって。ルール違反だよね、リアルの問題をこっちに持ち込むのは……」
 笑みのかたちを保ったまま、リーファは早口で言った。しかし頬を流れる涙はいっこうに収まろうとしなかった。
 キリトは左腕を伸ばすと、薄いグローブに包まれた手をリーファの頭に乗せた。二度、三度、いたわるように手が動く。
「――向こうでも、こっちでも、辛いときは泣いていいさ。ゲームだから感情を出しちゃいけないなんて決まりはないよ」
 仮想世界で動いたり、喋ったりするときは、必ずどこかにぎこちなさが残るものだ。だがキリトの韻律に富んだソフトな声や、リーファの頭を撫でる手の動きは、あくまでも滑らかだった。何にも障ることなく、リーファの感覚神経をゆるやかに包み、流れていく。
「キリト君…………」
 呟くと、リーファは隣に座る少年の胸にそっと頭を預けた。ひそやかに零れる涙のつぶが、キリトの服に落ちるたびに、淡い光を放って蒸発していく。
 ――あたしは、お兄ちゃんが、好き。
 確認するように、胸の奥で呟いた。でもその気持ちは、芽を出し、小さな葉を広げたところで摘んでしまわなければならなかった。
 ――これでよかったんだ……
 言い聞かせるように、自分に向けて囁く。
 たとえ本当は従兄妹同士なのだとしても、和人と直葉は長い間ずっと兄妹として育ってきたのだ。この気持ちを露わにすれば、和人も、そして父や母も激しく戸惑い、悩むだろう。それに何より、和人の心はすべて、あの美しい人だけに向けられているのだ……。
 全部、忘れなくてはならない。リーファに姿を変え、不思議な少年キリトの胸に頬を預けていると、いつかはそれが出来るかもしれないと、そう思えた。

 ずいぶん長い間そのままの格好でいたが、キリトは何も言わずにリーファの頭を撫でつづけた。
 やがて窓の外から遠い鐘の音が響いてきたのを合図にリーファは体を起こし、キリトの顔を見た。今度は普段の笑顔を浮かべることができた。涙はいつの間にか止まっていた。
「……もう大丈夫。ありがとう、キリト君。やさしいね、キミ」
 言うと、キリトは心底照れたような顔で頭を掻いた。
「その反対のことはずいぶん言われたけどな。――今日は落ちる? 俺も、もう一人でも何とかなると思うし……」
「ううん、ここまで来たんだもん、最後まで付き合うよ」
 リーファは勢いをつけてぴょんとベッドから立ち上がった。くるんと一回転半してキリトに向き直ると、右手を差し出す。
「――さ、行こ!」
 キリトは唇の端にいつもの笑みを浮かべると、頷いてリーファの手を取った。立ち上がり、何かを思い出したかのようにひょいっと上空を見回す。
「ユイ、いるか?」
 その言葉が終わらないうちに、二人の間の空間にキラキラと光が凝集し、お馴染みのピクシーの小さな姿が出現した。右手で目を擦りながら大あくびしている。
「ふわぁ〜〜〜……。……おはようございます、パパ、リーファさん」
 すとんとキリトの肩に着地したユイの顔を、リーファは新たな驚きに見舞われながら覗き込んだ。
「お、おはようユイちゃん。――ピクシーも、夜は眠るの?」
「まさか、そんなことないですよー。でも、パパがいない間は入力経路を遮断して蓄積データの整理や検証をしてますから、人間の睡眠に近い行為と言っていいかもしれませんが」
「でも、いま、あくびを……」
「人間って起動シークエンス中はああいうことするじゃないですか。パパなんて、平均八秒くらい……」
「妙なことを言わなくてよろしい」
 キリトは人差し指でこつんとユイの頭を突付いてから、ウインドウを広げて背中に大きな剣を背負った。
「さて、行こうぜ!」
「うん!」
 リーファも頷き、愛刀を腰に吊った。
 連れ立って宿屋から出ると、ちょうど朝陽が完全に昇りきった頃だった。軒を連ねるNPCショップも大半が開店し、逆に夜間営業の酒場や怪しい道具屋などは木戸にクローズドの札をかけている。
 現実時間では平日の午後一時過ぎだが、週に一度の定期メンテナンス明けでモンスターやアイテムのポップがリセットされた直後とあって、プレイヤーの通行は意外に多かった。
 昨日は、あまりの眠さにろくろく周囲を見もしなかったが、改めて広い通りを行き交う人々を眺めると新鮮な驚きがあった。
 ずんぐり、がっしりした体を金属鎧に包み、巨大な戦斧を背負ったノームや、その腰ほどまでの高さしかない小さな体に銀色の竪琴を携えたプーカ、不思議な薄紫色の肌に黒いエナメルの革装備をまとったインプなど、雑多な種族のプレイヤー達が連れ立って楽しそうに談笑しながら歩いている。所々に置かれた石のベンチでは、赤い髪のサラマンダーの少女と青い髪のウンディーネの青年が仲睦まじく見つめあい、その傍らを巨大な狼を従えたケットシーが通り過ぎていく。
 街並みも人々の姿もグリーンを基調に統一されていたスイルベーンとは、似ても似つかぬ雑多な光景だったが、そこには心が浮き立つような活気が満ちていた。いつしかリーファも、胸の奥で疼いていた切ない痛みを忘れて笑顔を浮かべた。
 ここなら、シルフとスプリガンでも普通のカップルに見えるのかな、などと心のどこかで考え、つい隣のキリトの腕に自分の腕を絡ませてしまう。そのまま視線を通りの先へと向けていくと――
「うわぁ……」
 にわかには信じられない眺めがそこにあった。
 アルヴヘイムの央都アルンは、円錐形に盛り上がった超巨大な積層構造を成している。今リーファが立っているのは、中心からはまだ相当に離れた外環部だが、それでも幾重にもかさなるアルン市街の全景を一度に視界に収めることはできない程だ。
 高くそびえ立つアルン市街の表面には、薄いグレーの岩で出来た建材とは明らかに異なる質感の、モスグリーンの恐ろしく太い円筒がうねりながら何本も延びている。一本の直径が、ことによるとスイルベーンの風の塔以上の高さがあるかもしれない。
 アルン中央市街を包み込むように這いまわるそれらの円筒物は、実は木の根なのだった。何本もの根っ子は、うねうねと曲がりながら次第に合流し、太さを増し、アルン市街の頂点でひとつに寄り集まっている。
 視線を上に向けていく。同時にリーファの背中を、ぞくぞくという興奮が疾る。
 根元部分からは、ごつごつ盛り上がった幹がまっすぐ上空に伸び上がっている。苔やその他の植物に覆われて金緑色に光る幹は、高さを増すほどにその色が空に溶け合い、薄いブルーに変わっていく。やがて幹の周囲を、白いもやが取り囲む。霧ではなく、あれは雲なのだ。飛行高度限界を示す雲の群を貫き、幹はなおも高く高く伸びていく。
 そして、完全に空の青と混ざって見えなくなる寸前で、幹からは太い枝が放射状に広がっているのがどうにか見て取れる。枝は薄れながら広がり、リーファたちが立つ外環部の上空までも覆っているようだ。あまりの大きさから鑑みるに、木の頂点はアルヴヘイムの空を突き破り、宇宙――もし存在するのならだが――までも続いていてもおかしくなかった。
「あれが……世界樹……」
 隣のキリトも、畏れに打たれたような声で言った。
「うん……。すごいね……」
「えーと確か、あの樹の上にも街があって、そこに……」
「妖精王オベイロンと、光の妖精アルフが住んでいて、王に最初に謁見できた種族はアルフに転生できる……って言われてるわ」
「……」
 キリトは無言のまましばらく巨樹を見上げていたが、やがて真剣な表情で振り返った。
「あの樹には、外側からは登れないのか?」
「幹の周囲は侵入禁止エリアになってて、木登りは無理みたいだね。飛んでいこうとしても、雲がかかってるあたりで限界高度になっちゃうらしいよ」
「何人も肩車して限界を突破した連中がいるって話を聞いたんだけど……」
「ああ、あの話ね」
 リーファはくすりと笑って続けた。
「枝までもうちょっと、ってとこまで迫ったらしいけどね。GMも慌てたみたいで、すぐに修正が入っちゃったの。今は、雲のちょっと上に障壁が設定されてるんだって」
「……なるほど……。とりあえず、根元まで行ってみよう」
「ん。りょーかい」
 軽く頷きあい、二人は大通りを歩き始めた。

 行き交う混成パーティーの間を縫うように数分歩くと、前方に大きな石段と、その上に口を開けるゲートが見えてきた。あれをくぐればいよいよ世界の中心、アルン中央市街だ。空を仰ぐと、屹立する世界樹はすでに巨大な壁としか見えなかった。
 荘重な空気にうたれながら階段を登り、門をくぐろうとした――、その時だった。
 突然、キリトの胸ポケットからユイが顔を突き出した。いつになく真剣な顔で、食い入るように上空を見上げている。
「お、おい……どうしたんだ?」
 周囲の人目を憚るように、小声でキリトが囁いた。リーファも首を傾けながらピクシーの顔を覗き込む。しかし、ユイは無言のまま見開いた瞳を世界樹の上部に向けつづけた。数秒間が経過し、そしてついに小さな唇から掠れた声が漏れた。
「ママ……ママがいます」
「な……」
 今度はキリトが顔を強張らせた。
「本当か!?」
「間違いありません! このキャラクターIDは、ママのものです! まっすぐこの上空です」
 それを聞いたキリトは、燃えるような視線で空を振り仰いだ。顔の色が蒼白になり、ぎりぎりと音がしそうなほどに歯を食いしばったかと思うと――
 いきなり、背の翅を大きく広げた。クリアグレーのそれが、瞬間白熱したかのように輝き、バン!! という破裂音が空気を叩いたと思った時には、彼の姿は地上から消え去っていた。
「ちょ……ちょっと、キリトくん!!」
 リーファは慌てて叫んだが、黒衣の少年はすさまじい勢いで急上昇していく。わけがわからなかったが、やむなくリーファも翅を広げて地を蹴った。
 垂直ズームは、ダイブと並んでリーファの得意技だったが、まるでロケットブースターのように加速していくキリトにはとても追いつけなかった。黒い姿が、みるみる点のように小さくなっていく。
 アルン市街を構成する無数の尖塔群の間を抜け、街の上空に出るのに数秒もかからなかった。塔のテラスでくつろぐプレイヤーたちが、何事かという表情でこちらに視線を向けたが、キリトは彼らの鼻先を掠めてなおも上昇を続けた。
 やがて視界から建造物の姿が消え、かわりに金緑色の絶壁にも似た世界樹の幹が現われた。それと平行して、キリトは黒い弾丸のように空を駆け上っていく。幹の周囲を包む白い雲の群がぐんぐん近づいてくる。リーファは必死に後を追い、顔を叩く風圧に耐えながら叫んだ。
「気をつけて、キリト君!! すぐに障壁があるよ!!」
 だが、キリトに声が届いた様子はなかった。天地を貫く一本の矢となった彼は、仮想世界に孔を穿たんばかりの勢いで上昇を続ける。
 何が彼をここまで駆り立てるのだろう。世界樹の上にいるというその誰かは、彼にとってそれほど重要な人なのだろうか。
 ユイは、その人のことを「ママ」と呼んだ。女性なのだろうか――? キリトがこうまでして捜し求めるその人は――?
 そう考えた途端、リーファの胸の奥はずきんと痛んだ。和人に感じたものとは似て非なる痛みだった。
 集中力が乱れ、ズームの速度が鈍った。リーファは頭を振って雑念を払い落とし、全神経を背中の翅に集中する。
 キリトに遅れること数秒、リーファも分厚い雲海に突入した。視界が濃密な白に染まる。以前聞いた話が確かなら、この雲海の上はすぐに侵入不可能エリアに設定されているはずだ。わずかに速度を緩めつつ、雲の中を駆け抜ける。
 不意に、眼前に濃紺の世界が広がった。地上から見るのとは違う、染みひとつないコバルトブルーの空が無限に続いている。頭上には、天を支える柱のごとく四方に枝葉を広げる世界樹の巨体。キリトは、その枝の一本目指して更に加速していく――。
 と、突然、彼の体を中心に、ぱぁっと虹色の光が広がった。
 数瞬遅れて、落雷の音にも似た衝撃音が大気を揺るがした。見えない壁にぶつかったキリトが、銃に狙撃された黒鳥のように弾け飛び、力なく空に漂った。
「キリトくん!!」
 リーファは悲鳴を上げ、キリトのもとへと急いだ。この高さから墜落すれば、ログアウト後も現実世界に悪影響を引きずりかねない。
 しかし、リーファが追いつく前に、キリトは意識を取り戻したようだった。二、三度頭を振って、再び上昇を開始する。すぐに障壁に阻まれ、空しくエフェクト光を散らす。
 ようやく同高度に達したリーファは、キリトの腕を掴んで必死に叫んだ。
「やめて、キリト君!! 無理だよ、そこから上には行けないんだよ!!」
 だが、キリトは両眼に憑かれたような光を浮かべながら、なおも突進を繰り返そうとした。
「行かなきゃ……行かなきゃいけないんだ!!」
 彼の視線の先では、世界樹の太い枝が天を横切っている。地上からよりは格段にクリアに見えるが、ディティールの減少具合からしてまだまだ相当の距離があると思われる。
 その時、キリトの胸からユイが飛び出した。きらきらと光の粒を振り撒きながら、枝目指して上昇する。
 そうか、システム属性のピクシーなら……、とリーファは一瞬思ったが、しかし見えない障壁はユイの小さな体をも冷酷に拒んだ。水面に波紋が広がるごとく、七色の光が揺れてユイを押し戻す。
 だが、ユイは、プログラムとは思えない必死の面持ちで障壁に両手をつき、口を開いた。
「ノーティス・メッセージなら届くかもしれません……! ママ!! わたしです!! ママー!!」



『……!!』
 突然、耳もとにかすかな呼び声を感じて、アスナは突っ伏していたテーブルから顔を跳ね上げた。
 慌てて周囲を見回すが、金色の檻の中には誰の姿もない。時々遊びに来る、瑠璃色の小鳥も今はいない。陽光が格子状の影を落としているだけだ。
 気のせいか、と、テーブルに両手を戻したとき。
『……ママ……!!』
 今度ははっきりと聞こえた。アスナは椅子を蹴って立ち上がった。
 幼い少女の声だった。細い銀糸を鳴らすようなその声は、アスナの遠い記憶と共鳴して強く鳴り響いた。
「ユイ……ユイちゃんなの……!?」
 アスナはかすかな声を漏らすと、格子の壁に駆け寄った。金属の棒を両手で掴み、必死に周囲を見回す。
『ママ……ここにいるよ……!!』
 その声は、アスナの頭の中に直接響くようで、咄嗟に方向がわからなかった。だが、それでもなお「感じ」た。下だ。巨樹を包む白い雲海、どんなに目をこらしても何も見えないが、声はそこから届いてくる。
「わたしは……わたしはここだよ……!!」
 アスナは声の限りに叫んだ。
「ここにいるよ……!! ユイちゃん……!!」
 それに――ユイ、あの世界で出会った「娘」がいるということは、きっと「彼」もそこに――。
「……キリトくん――!!」
 こちらの声が届いているかどうかはわからなかった。アスナは咄嗟に鳥篭を見回した。何か、声以外に自分の存在を知らせる手段は――。
 だが、この鳥篭にあるオブジェクトは全て位置情報をロックされており、何一つとして格子から外に出すことができないのは確認ずみだった。はるか以前に、ティーカップやクッションを落として下界のプレイヤーにメッセージを送ろうと試み、挫折していた。アスナは焦燥に駆られながら金の格子をきつく握り締めた。
 いや――。
 たった一つ、あった。以前はこの場所に存在しなかったもの。イレギュラーなオブジェクト。
 アスナはベッドに走り寄ると、枕の下からそれをつかみ出した。小さな銀色のカード・キーだ。再び格子の前に戻る。カードを握った右手を、恐る恐る差し出す。以前なら、ここで目に見えない壁に阻まれてしまったのだが。
「……!」
 右手は、何の抵抗もなく檻から外に出た。クリアシルバーのカードが、陽光を反射してきらりと輝く。
(キリトくん……気付いて……!!) 
 祈りながら、アスナは躊躇なく手を開いた。音も無く宙に舞ったカードキーは、きらきらと光を振り撒きながら一直線に雲海目指して落下していった。




 俺は全身が引きちぎれそうなもどかしさに駆られて、右拳を見えない障壁に叩きつけた。強烈な磁石にも似た斥力によって拳が弾き返され、虹色の波紋が宙に広がった。
「何なんだよ……これは……!」
 食いしばった歯の間から震える声を絞り出す。
 ここまで――ようやくここまで来たのだ。アスナの心が捕われている牢、そこにあとわずかで手が届く。それなのに、「ゲームのルール」などという曖昧なプログラム・コードにすぎないものが立ち塞がる。
 すさまじいほどの破壊の衝動が全身を貫き、白熱した火花を散らした。
 壊したい。この、アルヴヘイムなる世界を全て崩壊させてしまいたい。ここは「あの世界」とは違う、単なる商業エンタテインメント・ワールドではないか。たかがその程度の代物が、この俺――真の「生存者」キリトの行く手を阻むだと――!?
 このアルヴヘイム・オンラインにログインして二日、ゲームのルールに則ってここまで移動する間に、俺の心の奥底に蓄積しつづけた焦燥がいっぺんに爆発したかのようだった。俺は犬歯を剥き出し、背の剣を抜こうと右手で柄を握り締めた。
 ――その時だった。
 瞋恚の炎に揺れる俺の視界に、小さな白い光がちかりと瞬いた。
「……あれは……?」
 瞬間、俺は憤激を忘れて光を凝視した。きらきらと輝く何かが、ゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって降ってくる。真夏の空に流れるひとひらの雪のように、長い旅路を経たたんぽぽの綿毛のように、まっすぐに俺を目指して舞い降りてくる。
 俺は剣の柄を離し、両手を輪にして光に向けて差し伸べた。途方もなく長い数秒間のすえに、白い光はゆっくりと俺の手のなかに収まった。どこか懐かしい温もりを感じながら、俺はその手を胸の前で開いた。
 左からユイ、右からリーファが覗き込む。俺も無言で手の中のものをじっと見つめた。
「……カード……?」
 リーファがぽつりと呟いた。たしかにそれは、小さな長方形のカード状のオブジェクトだった。銀色に透き通り、文字や装飾の類は何もない。俺はちらりとリーファの顔を見た。
「リーファ、これ、何だかわかる……?」
「ううん……こんなアイテム、見たことないよ。クリックしてみたら?」
 その言葉に従って、俺はカードの表面を指先でシングルクリックした。だがゲーム内のアイテムなら必ず出現するはずのポップアップ・ウインドウは表示されなかった。
 その時、ユイが身を乗り出し、カードの縁に触れながら言った。
「これ……これは、システム管理用のアクセス・コードです!!」
「なっ……」
 俺は絶句してカードを凝視した。
「……じゃあ、これがあればGM権限が行使できるのか?」
「いえ……ゲーム内からシステムにアクセスするには、対応するコンソールが必要です。わたしでもシステムメニューは呼び出せないんです……」
「そうか……。でも、そんなものが理由もなく落ちてくるわけがないよな。これは、多分……」
「はい。ママがわたし達に気付いて落としたんだと思います」
「……」
 俺はカードをそっと握り締めた。寸前まで、これにアスナが触れていたのだ。彼女の意思が、おぼろげに感じ取れるような気がした。
 アスナも戦っている。この世界から脱出しようと懸命に抗っている。俺にもまだ、できることがあるはずだ。
 俺はリーファを見つめ、口を開いた。
「リーファ、教えてくれ。世界樹の中に通じてるっていうゲートはどこにあるんだ?」
「え……あれは、樹の根元にあるドームの中だけど……」
 リーファは、気遣わしそうに眉を寄せた。
「で、でも無理だよ。あそこはガーディアンに守られてて、今までどんな大軍団でも突破できなかったんだよ」
「それでも、行かなきゃいけないんだ」
 カードを胸ポケットに収め、俺はそっとリーファの手を取った。
 思えば、このシルフの少女には随分助けられた。右も左もわからない世界で、焦る気持ちを抱えながらここまで来ることができたのは、彼女の元気な笑顔に励まされた部分が多い。いつか現実世界できちんとお礼を言わないとな……と思いながら口を開く。
「今まで本当にありがとう、リーファ。ここからは俺一人で行くよ」
「……キリト君……」
 泣きそうな顔で口篭もるリーファの手をぎゅっと握り、離した。ユイを肩に乗せ、身を翻す。
 翅を畳み、落下速度に加速の勢いを乗せて、俺は一直線に世界樹の最下部を目指した。

 目もくらむような急降下を数十秒続けると、やがて複雑に入り組んだアルン市街が世界樹の幹に張り付くようにその姿を現した。その上部、巨樹の根と接する部分にひときわ大きなテラスを見つけ、俺は体勢を入れ替えて減速を始めた。
 大きく広げた翅でブレーキをかけながら着陸地点を見定める。両足を突き出し、石畳に接する瞬間に思い切り制動をかけたが、それでもかなりの衝撃音が周囲に響き渡った。テラスからの眺望を楽しんでいた数組のプレイヤーが、驚いた顔でこちらを見た。
 俺は彼らの目が離れるまで待ってから、肩のユイに小声で話し掛けた。
「ユイ、ドームとやらへの道はわかるか?」
「はい、前方の階段を上ればすぐです。でも――いいんですか、パパ? 今までの情報から類推すると、ゲートを突破するのはかなりの困難を伴うと思われます」
「ぶつかってみるしかないだろう。失敗しても命まで取られるわけじゃない」
「それは、そうですが……」
 俺は手を伸ばし、軽くユイの頭を撫でた。
「それにな、もうあと一秒でもぐずぐずしてたら発狂しちまいそうだ。ユイだって早くママに会いたいだろう」
「……はい」
 頷くユイの頬をつんと突付くと、俺は目の前に見える大きな階段目指して歩き始めた。
 幅の広い石段を登りつめると、そこはもうアルン市街地の最上部らしかった。巨大な円錐形を成すアルンの表面を這いまわる世界樹の根が、俺の眼前で寄り集まって一本の幹になっている。と言ってもあまりにも直径が太すぎるので、ここからでは単なる一枚の壁にしか見えない。
 その壁の一部に、プレイヤーの十倍はあろうかという高さの、妖精の騎士を象った彫像が二体並んでいる場所があった。像の間には、華麗な装飾を施した石造りの扉がそびえている。
 ――待ってろよ、アスナ。すぐに行くからな……
 俺は自分の心に刻み込むように、胸の奥で呟いた。


 さらに数十秒歩き、大扉の前に立った途端、右側の石像が低音を轟かせながら身動きを始めた。少々意表を突かれて振り仰ぐと、石像は仰々しい兜の奥の両眼に青白い光を灯しながらこちらを見下ろし、口を開いた。大岩を転がすような重々しい声が響き渡る。
『未だ天の高みを知らぬ者よ、王の城へ到らんと欲するか』
 同時に、俺の目の前にイエス、ノーのボタンが表示された。あまりにも芝居がかった演出に首を縮めながら、ボタンに手を触れる。
 と、今度は左側の石像が大音声を発した。
『さればそなたが背の双翼の、天翔に足ることを示すがよい』
 遠雷のような残響音が消えないうちに、大扉の中央がぴしりと割れた。地響きを上げ、ゆっくり左右に開いていく。
 その轟音は、否応なく俺にアインクラッドのフロアボス攻略戦を思い起こさせた。当時の、呼吸も忘れるほどの緊張感が甦り、背筋に冷たい戦慄が走る。
 ここで倒れても実際に死んだりはしないんだ、と自分に言い聞かせてから、俺はその思考を振り払った。アスナの解放が懸かったこの闘いは、ある意味ではかつて経験したどんな戦闘よりも重い。
「行くぞ、ユイ。しっかり頭を引っ込めてろよ」
「パパ……、がんばって」
 胸ポケットに収まったユイの頭を一撫でして、背中の剣を抜き放つ。
 分厚い石扉は、完全に開ききるとひときわ大きな轟音と共にに停止した。内部は完全な暗闇だった。一歩足を踏み入れてから、暗視スペルを使うべきかと考えたが、右手を掲げるより早く、突然のまばゆい光が頭上から降り注いだ。思わず両目を細める。
 そこは、とてつもなく広い円形のドーム状空間だった。ヒースクリフと戦った、アインクラッド75層のボス部屋を思い出したが、優にあの数倍を超える直径があるだろう。
 樹の内部らしく、床は太い根か蔦のようなものが密に絡み合って出来上がっている。蔦は外周部分で垂直に立ち上がり、壁を形成しながらなだらかに天蓋部分へと続く。
 半球形のドームとなっている天蓋では、絡み合う蔦は床よりも疎となり、ステンドグラス状の紋様を描いている。白光はその向こうから降り注いでいるようだ。
 そして――天蓋の頂点に、円形の石扉が見えた。精緻な装飾が施されたリング型のゲートを、十字に分割された四枚の岩盤がぴたりと閉ざしている。目指すべき樹上への道はあの向こうにあるはずだ。
 俺は大剣を両手で構え、大きく深呼吸した。両足に力を込め、翅を広げる。
「――行けッ!!」
 己を叱咤するように一声叫び、猛然と地を蹴った。
 飛び上がって一秒も立たないうちに、天蓋の発光部に異変が現われるのが見えた。白く光る窓の表面が沸き立つ泡のように盛り上がり、何かを生み出そうとしている。瞬く間に光は人間の形を取り、滴り落ちるかのようにドーム内に放出されると、手足と、そして六枚の輝く翅を広げて咆哮した。
 それは、全身に白銀の鎧をまとった巨躯の騎士だった。鏡のようなマスクに覆われて顔は見えない。右手には、俺の得物をも上回る長大な剣を携えている。
 守護騎士は、急速に上昇する俺に鏡の顔を向けると、再び人語ならぬ雄叫びを上げながら真正面からダイブしてきた。
「そこをどけええええっ!!」
 俺も絶叫しつつ大剣を振りかぶる。両者の距離がゼロに近づくにつれ、脳の中で冷たい火花がスパークするような感覚が俺を襲い、あの世界での限界戦闘で何度か味わったアクセル感が戻ってくる。守護騎士のマスクに映る俺の姿に向かって、剣を思い切り打ち下ろす。
 俺と、奴の剣が空中でぶつかり合い、落雷にも似たエフェクト光が空間を切り裂いた。騎士は大きく弾かれた剣を再度頭上高く振りかぶろうとしたが、俺は剣が流されるに任せたまま、奴の懐に潜りこんだ。俺の二倍の身長がある巨人騎士の首元を左手で掴み、密着する。
 CPUが動かすモンスターを相手にする場合、敵の武器が作り出すアタック圏を見切り、その外側にポジションを取るのは基本だが、このような巨大なエネミーの場合アタック圏の内側にも死角が発生する場合が多い。無論そこに留まり続けるのは危険だが、崩れた体勢を回復する程度の時間は稼げる。
 俺は右手一本に握った剣を引き戻すと、その剣尖を守護騎士の首元にあてがった。
「ラァッ!!」
 翅を力いっぱい打ち鳴らし、全身の重さを乗せて剣を撃ち込む。ガツッ!! と硬い物体を断ち割る響きと共に、剣が騎士の首を深く貫いた。
「ゴガアアアアア!!」
 神々しい外見にそぐわない、獣のごとき絶叫を上げて守護騎士は全身を硬直させた。直後、その巨体は純白の炎に包まれ、四散した。
 ――行ける!!
 俺は心の奥で快哉を叫んだ。この守護騎士は、ステータス的にはSAOのフロアボスに遠く及ばない。一対一なら、こちらに分がある。
 体にまとわりつく白い炎を振り払い、俺は顔を上げてゲートを見据えた。そして――その光景を見た途端、顔が強張るのを感じた。
 未だかなりの距離がある巨大な天蓋、それを作っている無秩序なステンドグラスの、殆ど全ての窓から、白い守護騎士が出現しようとしていた。その数、数十――いや数百か。
「――――うおおおお!!」
 一瞬怯んでしまった己を鞭打つかのように、俺は叫んだ。例え何匹来ようとも、全てを切り捨てるだけだ。翅を震わせ、猛然とダッシュする。
 天蓋から新たに産み落とされた数体の騎士が、俺の進路を阻もうと舞い降りてきた。その先頭の一体に狙いを定め、再び剣を振りかぶる。
 今度は、剣を打ち合わせて体勢が硬直してしまうのを避けるべく、俺は斜めに振り下ろされる敵の剣の先端に意識を集中し、体を捻ってそれを回避した。完全には見切れず、肩を掠った剣先によってわずかなダメージ感が発生したが、それを無視して自分の攻撃に全神経を傾ける。
 俺の大剣は、一直線に守護騎士のマスクに吸い込まれるように命中し、そのまま二つに断ち割った。白い炎が噴き上がり、消滅する巨体の向こうから、次の騎士が姿を現す。
 敵の剣がすでに攻撃軌道に入っているのを見て、俺は歯を噛み締めた。完全に回避する余裕はないと判断し、左拳を上げて襲い来る剣に叩きつける。
 骨まで浸透するような衝撃とともに、視界左端のHPバーが一割ほど減少した。だが敵の剣の軌道は俺の体を逸れ、騎士の体がぐらりと崩れる。その首筋に、右手の剣を叩き込む。
 今度はこちらの攻撃スピードが減殺されたため、一撃で片付けることが出来なかった。右方向から、更に新たな守護騎士が迫ってくる。俺は体をそちらに捻ると同時に、その勢いを利用して左足のブーツを手負いの騎士のマスクに叩き込んだ。
 この世界に初ログインしたとき、膨大なスキルアップポイントを格闘術スキルにもつぎ込んでおいたのが幸いし、蹴りのダメージは敵のHPを削りきることに成功したようだった。仰け反らせた体を炎が包み、エフェクトで歪んだ悲鳴とともに爆散する。
 三体目の騎士の剣を、危ういところで俺の剣が弾いた。
「せああああっ!!」
 気合と共に握った左手を鏡のマスクに叩き込む。ビシィッ!! と硬質な音を立ててその表面が放射状にひび割れ、騎士が苦悶の叫びを上げる。
「死ね!! 死ねェェ!!」
 全身を駆動する破壊の衝動に意識を委ね、俺は絶叫した。右手の剣を騎士の首に引っ掛け、何度も何度も左拳を打ち付ける。
 そうだ――、俺はかつてこの世界に生きていたのだ。孤独にダンジョンの最奥を彷徨い、死線の連続に魂を磨耗させ、モンスターの屍で己の墓碑を築くかのごとく剣を振るい続けた。
 とうとう拳が敵のマスクを貫通し、ぐちゃりと嫌な感触が左腕を包んだ。だが殺戮を求める内なる声に従い、俺は闇雲に柔らかい何かを掴むと引きずり出した。赤黒い紐のような肉塊が千切れ飛び、同時に俺の体を白いエンドフレイムが包み込む。
 あの頃、俺の心は石のように固く乾ききっていた。ゲームクリアだとか、プレイヤーの解放だとかいうお題目はもうどうでもよかった。他人を拒絶し、ただひたすらに次の戦場を求めて這いずっていた。
 更に四、五匹の守護騎士が、輝く剣を高く掲げ、怪鳥のような奇声とともに降下してきた。俺は片頬に獰猛な笑みを浮かべ、その群に突っ込んだ。激烈な加速感に全神経が震え、俺の脳とかりそめの肉体を繋ぐ電子パルスが青白いスパークとなって視界を横切った。
「うおおおああぁぁぁぁぁ!!」
 雄叫びとともに、俺は両手に握った剣を横一文字に薙ぎ払った。敵の剣が弾かれる。そのまま体を風車のように回転させ、限界まで加速してから守護騎士どもの首に撃ち込む。
 がつ、がつっ! と鈍い音が連続し、二つの鏡面に包まれた首が宙高く舞った。白いバラのように咲く断末魔の炎が俺の神経を灼き、更に熱く燃え上がらせる。
 死の中でだけ、俺は生を感じられた。ギリギリの戦闘に身を投じ、己を最後まで焼き尽くし、その後に倒れることだけが、俺の眼前で死んでいった者達に報いる道だと思っていた。
 俺は回転の勢いを止めずに体の向きを入れ替え、伸ばした右足のつま先を錐のように新たな守護騎士の胸板に突き立てた。硬い殻に包まれた軟体生物を岩に叩きつけるような嫌な音が響き、俺の体が騎士を貫通する。エンドフレイムの中で動きの止まった俺の体に、左右から二本の剣が鋏のように迫った。右の剣を自分の剣で受け、左の剣は左腕で止め、HPバーに目もくれず俺は双方を押し返した。
 間髪入れずに右の騎士の手首を掴み、
「ぐうううおおおおっ!!」
 咆哮しながら頭上高く振り回すと左の騎士に叩きつける。二匹が重なったところを、剣で串刺しにし、止めをさす。
 いつまでも、敵が何匹来ようとも戦いつづけられると思った。あの頃のように、殺戮の炎で己を焦がし、心を硬く、硬く鍛え上げて――。
 いや――そうじゃない……。
 ――そんな、乾ききった俺の心に、懸命に水を注いでくれた人たちがいたのだ。シリカ、クライン、エギル、リズベット、そしてアスナ――
 俺は……俺は、アスナを助けだし、あの世界を本当に終わらせるためにここへ――
 顔を上げると、天蓋に視線を向けた。意外なほど近くに、石のゲートが見えた。
 そこへ向かって上昇しようとしたその時、唸りを上げて飛来した何かが俺の右足を貫いた。
 まばゆく輝く光の矢だった。俺の動きが止まる瞬間を狙い定めたかのように、雨のように矢が降り注いだ。二本、三本、立て続けに命中し、HPバーががくん、がくんと減少する。
 視線を巡らせると、いつのまにか遠距離で俺を取り囲んでいた守護騎士たちが、左手を俺に向け、ディストーションのかかった耳障りな声でスペルを詠唱していた。光の矢の第二波が、甲高い音とともに殺到してくる。
「うおおおおおっ!」
 俺は大剣を振り回して矢を叩き落したが、更に数本が命中し、HPバーがイエローゾーンに突入した。顔を上げ、ゲートを凝視する。
 遠距離攻撃を行う敵を単騎で撃破するのは難しい。俺は強行突破を図るべくゲートに向かって突進した。降り注ぐ光の矢が全身を貫くが、ゴールはもうすぐそこだ。歯を食いしばって衝撃に耐えながら、石扉に触れようと左手を伸ばす――。
 ――しかし。
 あと数秒というところで、すさまじい衝撃が背中を襲った。振り向くと、いつの間に接近していたのか、守護騎士が一匹、鏡面マスクに歪んだ笑みを浮かべて俺の背に剣を突き立てていた。体勢が崩れ、加速が止まる。
 そこへ、獲物に群がる白い屍鳥のごとく、十数匹の守護騎士が四方から押し寄せてきた。ドッ、ドッと鈍い音を立てて、剣が次々に俺の体を貫いた。HPバーを確認する余裕もなかった。
 視界に、青い燐光をまとった黒い炎が渦巻いた。それを背景に、小さく浮かび上がる紫の文字。『You are dead』。
 次の瞬間、俺の体は呆気なく四散した。

 次々とスイッチを切るように、身体感覚が消失していく。
 アインクラッド75層で聖騎士ヒースクリフと相打ちになり、倒れたときの記憶が鮮明にフラッシュバックし、瞬間、俺は激甚な恐怖に晒された。
 だが勿論、そこで意識が途切れることはなかった。半思考停止状態のなか、俺はSAOベータテスト以来の「ゲームにおける死」を体験することとなった。
 不思議な感覚だった。視界は彩度を失い、薄い紫のモノトーンに染まっている。その中央に、同じくシステムカラーの小さな文字で『蘇生猶予時間』の表示と、右に減少していく数字。視界の奥では、俺を屠った白銀の守護騎士たちが、満足の唸りを上げながら天蓋のステンドグラスに帰還していくのが見えた。
 四肢の感覚は存在しなかった。動かそうにも、今の俺は多分、この世界で斬り倒してきたプレイヤー達がそうなったように、小さな火の玉にすぎないのだ。心細く、惨めで、卑小な気分だった。
 そう――、惨めだった。この世界のことを、心のどこかで常に、たかがゲーム、と思い続けていた報いを受けたと感じていた。俺の強さなどというものは所詮、ステータスデータという名の数字でしかないのだ。なのに、ゲームの枠を越え、限界を超えて、何でも出来ると思っていた。
 アスナに会いたい。彼女の、全てを包み、癒す温かい腕に抱かれ、思考、感情、すべてを解放したい。しかし、俺の手はもう彼女には届かない。
 秒数表示が減少していく。これがゼロになったとき俺はどうなるのか、即座には思い出せなかった。
 しかしどうなろうと、俺に出来ることは唯ひとつだ。再びこの場所まで這い戻り、守護騎士に挑むのだ。何度倒れようと、例え勝てないとわかっていても――俺の存在が切り刻まれ、磨耗し、この世界から全て消えてなくなるその瞬間まで――……
 その時だった。下向けた俺の視界を、きらりと横切る影があった。
 リーファだった。開いたままの入り口からドーム内に侵入し、凄まじいスピードで上昇してくる。
 バカ、やめろ!! と叫ぼうとしたが、声は出なかった。慌てて上空を見ると、天蓋に並ぶ白い窓から、再びボトボトと守護騎士どもが産み出されつつあるのが見えた。
 神経を逆撫でる叫びを上げながら、白い巨人たちが俺の横を通過し、リーファ目指して殺到していく。彼女の敵う相手とはとても思えなかった。俺はいいから逃げろ、と必死に念じるが、リーファは翡翠色の瞳に強い光を浮かべ、真っ直ぐこちらに向かってくる。
 最前列の守護騎士数匹が、右手に握った長大な剣を次々に振り下ろした。リーファは俊敏な機動でそれらを回避したが、時間差で襲い掛かった剣が体を掠めた。それだけでHPバーががくっと減少し、華奢な体が大きく跳ね飛ばされた。
 だがリーファは、その勢いを利用して更に加速すると、騎士どもの列を回り込み、上昇を続けた。彼女が俺に近づくにつれ、それを阻止するかのように天蓋が吐き出す騎士の数は増え、奇怪な合唱を響かせながら所狭しと飛び回る。
 リーファは右手に長刀を握っていたが、それは防御にのみ利用し、敵を一箇所にまとめては逆に障壁として利用する見事な機動で着実に距離を詰め続けた。痛々しいほどの必死の飛行だった。
「――キリト君!!」
 ついに、俺の前に達したとき、リーファは涙の粒を散らして一声叫んだ。両手を伸ばし、俺をしっかりと包み込む。
 すでにゲートにかなり接近しており、騎士どもはこれ以上の上昇は絶対に許さないと言わんばかりに、上空にびっしりと密集し、幾重もの肉の壁を作り上げた。だがリーファは俺を確保した途端急激にターンし、今度は一直線に出口を目指した。
 背後から、呪詛のごときスペル詠唱音が鳴り響いた。たちまち、唸りを上げて白い光の矢が飛来する。リーファは右に左に進路を揺らし、敵の狙いを外そうとするが、降り注ぐ矢は驟雨のような密度で、避けきれなかった一弾が命中する震動が俺にも届いた。
「っ……!!」
 リーファは息を詰まらせたが、ダイブの勢いは鈍らなかった。ド、ドッと立て続けに矢がリーファの体を貫く。俺の視界の端に表示された彼女のHPバーが、たちまちイエローに変色する。
 追撃は、光の矢だけではなかった。猛烈な勢いで肉薄した二匹の守護騎士が、左右から十字に長剣を振り下ろすのが見えた。
 リーファは右に錐揉みし、片方の剣をかわしたが、もう一方の金属塊がまともに彼女の背を捉えた。
「あっ……」
 悲鳴に似た声を上げ、リーファは毬のように弾き飛ばされ、間近に迫っていた床に叩きつけられた。数度のバウンドののち、床面を削る勢いで滑走し、停止する。そこに、とどめの一撃とばかりに、数匹の守護騎士が舞い降りてくる。
 リーファは震える片手で体を起こすと、背中の翅を一度羽ばたかせた。その勢いで床を転がり――不意に俺の視界を、明るい日光が包み込んだ。そこはもう、ドームの外だった。




 かつてない程の絶望的な状況からどうにか生還し、リーファは恐怖に冷え切った体を石畳に投げ出して荒い息をついた。背後に目を向けると、巨大な石扉がゆっくりと閉ざされ、その奥で白い巨人たちが舞い上がっていくのが見えた。
 腕の中には、小さく揺らぐ黒い残り火。キリト君――、と胸の奥で呟くが、感傷に浸っている時間はない。上体を起こし、傍らに立つ巨石像の足にもたれさせると、右手を振ってアイテムウインドウを開く。
 水属性魔法をマスターしていないリーファは、高位の蘇生魔法を使うことができない。ゆえに、『世界樹の雫』なるアイテムをオブジェクト化させ、出現したブルーの小瓶を手に取る。
 ウインドウを消して小瓶の栓を抜き、輝く液体をキリトのリメインライトに注ぎかける。たちまちその場に、蘇生スペルと似たような立体魔方陣が展開し、数秒後、黒衣の小柄な少年の姿が実体化した。
「……キリト君……」
 座ったまま、リーファは泣き笑いのような顔で少年の名を呼んだ。キリトも、どこか哀切な笑みを浮かべると、石畳に片膝をつき、右手をそっとリーファの手に乗せた。
「ありがとう、リーファ。……でも、あんな無茶はもうしないでくれ。俺は大丈夫だから……これ以上迷惑はかけたくない」
「迷惑なんて……あたし……」
 そんなつもりじゃない、と言おうとしたが、その前にキリトは立ってしまった。くるりと振り向き――再び、世界樹内部へ繋がる扉へと足を踏み出す。
「き、キリト君!!」
 愕然としながら、リーファは震える脚に力を込め、どうにか立ち上がった。
「ま、待って……無理だよ、一人じゃ!」
「そうかもしれない……。でも、行かなきゃ……」
 背を向けたまま呟くキリトの姿に、リーファは限界まで過重のかかったガラスの像のような脆く儚いものを感じ、必死にかける言葉を探した。でも、喉が焼き付いたように声を発することができなかった。夢中で両手を伸ばし、キリトの体をぎゅっと抱いた。
 惹かれている、と強く感じた。和人のことを諦めるために、無理矢理この人を好きになろうとしているのかもしれない、と心の隅で考えたが、同時に、それでもいい、と思った。この気持ちは真実だと思えた。
「もう……もうやめて……。いつものキリト君に戻ってよ……。あたし……あたし、キリト君のこと……」
 右手がふわりとキリトの手に包まれた。耳に、穏やかな彼の声が流れ込んでくる。
「リーファ……ごめん……。あそこに行かないと、何も終わらないし、何も始まらないんだ。会わなきゃいけないんだ……もう一度……アスナに……」

 何を聞いたのか、一瞬、わからなかった。空白に塗りつぶされた意識の中で、キリトの言葉の残響がゆっくりと消えていった。
「……いま……いま、何て……言ったの……?」
 キリトはわずかに首を傾げ、答えた。
「ああ……アスナ、俺の捜してる人の名前だよ」
「でも……だって、その人は……」
 口元に両手をあて、リーファは半歩後退った。
 白く凍りついた脳裏に、滲むように記憶の残像がよみがえる。
 数日前、道場で試合した時の和人。初めて会ったとき、古森でサラマンダーを退けたキリト。記憶の中の二人は、戦いを終えたあと、右手の剣を素早く切り払い、背中に収める。寸分違わぬ動作で。
 ぴたりと重なった二人のシルエットが、放射光の中に溶けていった。リーファは目を大きく見開き、震える唇から消え入るような声を絞り出した。
「……お兄ちゃん……なの……?」
「え……?」
 それを聞いたキリトはいぶかしそうに眉を動かした。漆黒の瞳がまっすぐリーファの目を捉える。瞳に浮かぶ光が、水面の月のように揺らぎ、たゆたい、そして――
「――スグ……直葉……?」
 黒衣のスプリガンは、ほとんど音にならない囁きに乗せて、その名前を呼んだ。
 周囲の光景、アルンの街や巨大な世界樹、それらを包み込む世界そのものが崩壊していくような感覚に捕われて、リーファ/直葉はよろめくように更に数歩下がった。
 目の前の少年と旅をした数日間、リーファはこの仮想の世界がどんどん鮮やかに色づいていくのを感じていた。並んで飛ぶだけで心が躍った。
 直葉として和人のことを愛し、リーファとしてキリトに曳かれる自分に罪悪感を抱かなかったといえば嘘になる。しかし、リーファにとっては長らく仮想飛行シミュレータの延長でしかなかったアルヴヘイム世界が、もうひとつの真なる現実であることを教えてくれたのはキリトだった。それゆえに、リーファはこの世界で自分が抱いた感情もまたデジタルデータではなく本当の気持ちだと悟ることができたのだ。
 和人を求める心を無理矢理に凍らせ、深く埋める痛みも、キリトの隣でならいつかは忘れられそうな、そんな気がしていた。――それなのに、この世界の基盤を成している「現実」、妖精のキャラクターに命を与えているのは本当の人間であるというリアルは、思いもよらない形の結末をリーファに突きつけたのだった。
「……酷いよ……。あんまりだよ、こんなの……」
 うわ言のように呟きながら、リーファは首を左右に振った。これ以上、一秒たりともこの場所に居たくなかった。キリトから顔をそむけ、右手を振る。
 出現したウインドウの右下端に触れ、更に浮かび上がった確認メッセージを殆ど見もしないで叩いた。堅く閉じた目蓋の下で、虹色の光の輪が広がり、薄れ、暗闇が訪れた。

 自室のベッドで覚醒し、最初に目に入ったのは、アルヴヘイムの空を映した深いブルーだった。いつもなら憧憬と郷愁に似た感慨をおぼえるその色も、今は苦痛しか感じなかった。
 直葉はゆっくりと頭からアミュスフィアを外し、目の前にかざした。
「っ……ぅ……」
 喉の奥から、抑えきれず嗚咽が漏れた。細い円環を二つ重ねた華奢な機械を握った両手に、衝動のままに力を込める。リングがたわみ、微かな悲鳴を上げる。
 このままアミュスフィアを破壊し、あの世界への通路を永遠に閉ざしてしまおうと思った。しかし、できなかった。リングの向こうにいるリーファという名の少女が、あまりにも憐れだった。
 機械をベッドの上に戻し、直葉は体を起こした。両足を床に降ろして、目を閉じ、項垂れる。もう何も考えたくなかった。
 静寂を破ったのは、控えめなノックの音だった。次いで、ドアの向こうから、キリトとは違うが、同じ抑揚を持つ声。
「――スグ、いいか?」
「やめて!! 開けないで!」
 反射的に叫んでいた。
「一人に……しておいて……」
「――どうしたんだよ、スグ。そりゃ俺も驚いたけどさ……」
 戸惑いをはらんだ和人の言葉が続く。
「……またナーヴギアを使ったことを怒ってるなら、謝るよ。でも、どうしても必要だったんだ」
「違うよ、そうじゃない」
 不意に、感情の奔流が直葉を貫いた。床を蹴るように立ち上がり、ドアに向かう。
 ノブを回し、引き開けると、そこに和人の姿があった。気遣わしそうな光を浮かべた瞳で、じっと直葉を見ている。
「あたし……あたし……」
 気持ちが、勝手に涙と言葉になって溢れ出すようだった。
「あたし――お兄ちゃんを裏切った。お兄ちゃんを好きな気持ちを裏切った。それで、キリト君のことを好きになろうと思った。――なのに……それなのに……」
「え……」
 和人は瞬間、絶句してから、戸惑ったように言った。
「好き……って……だって、俺たち……」
「違うよ」
「……え……?」
「違うんだよ。本当は」
 いけない、と思った。しかし止められなかった。激情の全てを込めた視線を和人に向け、わななく唇で直葉はその先を告げた。
「――知ってるでしょう、お母さんに、亡くなったお姉さんがいたこと」
 いけない。母親に頼んで、和人にこの事実を告げるのを待ってもらったのは、こんな風に持て余す感情を和人にぶつける為ではなかったはずだ。このことが持つ意味を、時間をかけてちゃんと考えたい、そう思っていたはずなのに。
「お兄ちゃんは、その人の子供なの。あたしたち、本当の兄妹じゃないんだよ。だから――だから!」
 その言葉を聞いた和人は目を見開き、表情を凍りつかせた。全てが停止したような数秒間ののち、掠れた声が漏れる。
「……本当、なのか……?」
 覚醒してからの二ヶ月間、直葉を見る和人の瞳は常に、慈しむような穏やかな光に彩られていた。今、その光が消え、かわりに深い虚無を映した暗闇が広がるのを見て、直葉は悔恨の刃が激痛を伴って胸の奥を切り裂くのを感じた。詰まった喉の奥から無理矢理に言葉をしぼり出した。
「……ごめんなさい……」
 それ以上和人の顔を見ていられなかった。罪悪感と自己嫌悪に押し潰されそうになりながら、直葉は逃げるようにドアを閉め、数歩あとずさった。かかとがベッドに触れ、そのまま後ろ向きに倒れこむ。
 シーツの上で固く体を丸め、直葉はこみ上げる嗚咽に肩を震わせた。涙があとからあとから溢れ、白い布にかすかな痕を残して吸い込まれていった。



 閉じられたドアの前で立ち尽くしたまま、俺は耳の奥に反響する直葉のことばの意味を必死に理解しようとしていた。
 母さんのお姉さんという人――昔、交通事故で夫婦一緒に――俺の、本当の母親――。短い言葉が刻まれた無数の断片が、舞い踊る木の葉のように集まり、離れ、俺の思考を翻弄する。呆然とした足取りで廊下を歩き、自室に戻った俺は、無意識のうちにOAチェアに体を沈めた。
 ホワイトアウトしかけた視界の中央に、パソコンのモニタが黒い穴のように口を開けている。右手を伸ばし、デスクトップを表示させる。
 ブラウザを立ち上げて市のホームページを表示させた。自分のものとは思えない右手が自動的にマウスを操り、リンクからリンクへと飛んで戸籍データベースへとアクセスする。
 机の上の財布を取り上げ、中から住基ネットカードを抜き出した。レンタルショップの会員になるときくらいしか使ったことのないこのカードを、初めて本来の用途で使用する。11桁のコードとパスワードを打ち込むと、俺の戸籍データが表示された。
 父親――桐ヶ谷研介、母親が翠、妹に直葉。記憶と同様の家族構成が素っ気無いフォントで並んでいる。しかし、養子縁組の記録は世帯主の意思で伏せることもできたはずだ。思案のすえ、検索システムに、母親の旧姓に俺の名前を組み合わせたものと、記憶の彼方に埋もれかけていた母親の出身地を入力する。
 珍しい苗字のせいか、ヒットしたのは一件だった。その名前をクリック。再びコードとパスワードを求められる。エラーが出ることを予期し、半ばそう願ってもいたが、しかしシステムはあっさりと俺の要求を受け入れた。
 表示されたのは、三人のみのささやかな家族だった。親二人は十六年前に死亡。遺された子供が一人。俺と同じ名前と生年月日を持つ、見知らぬ誰か。
 俺は大きく息を吸い、吐き出した。
 それでは、全て真実なのだ。目を瞑り、背もたれに体を預けて、俺はこのことのもつ意味を考えようとした。
 意味? そんなものは明白だ。今まで母、父と信じていた人たちが、正しくは俺の叔母と血の繋がらぬ男性であり、妹と信じていた女の子が従妹だったという、それだけのことだ。
 エアコンは低い唸りを上げているが、不意に肌を這い上がる寒気を感じた。所在ない、という言葉の指すところを初めて理解できたような気がしていた。自分という存在が現実から切り離され、忘却の辺土へと漂っていくようだった。
 ――だが。
 この寂寥感には覚えがあった。
 そうだ……俺は、あの世界では常にストレンジャーだった。全てのコミュニティから遠ざかり、孤独にダンジョンを這いまわって、ねぐらに戻って獣のように体を丸めて眠った。人は皆、俺を見ると恐れ、哀れみ、蔑んだ。
 そんな俺を救ってくれた人がいたのだ。世界崩壊の直前、あの短い日々の間に俺は人の温もりを知り、その暖かさを周りの人々に還していこうと思った。浮遊城は消滅してしまったが、その気持ちは今も変わらない。
 直葉の、思いつめた目の光を思い出す。
 俺のことを好きだと言った。直葉は、いつからかは分からないが、多分俺が覚醒する以前からこのことを知っていたのだ。
 正直、妹であるという意識を変えることは当分できそうになかった。だが俺は直葉の前にいるときも、常にアスナのことを考えていた。アスナのことを思って泣きさえしたのだ。それが直葉を傷つけたであろうことは想像に難くない。
 いや、それだけではない。
 PC音痴でゲーム嫌いだった直葉が、いかなる経緯でバーチャルMMOゲームに手を出すことになったのかは分からないが、あのアルヴヘイムという世界で俺を助けてくれたリーファという少女――。彼女こそが直葉だったのだ。
 ログインして初めて出会ったのが彼女だった、それが偶然なのか、あるいはIPが同一だったせいなのかはわからないが、俺はキリトでいるときもアスナのことで頭がいっぱいで、同じようにリーファを傷つけてしまったのだと思う。
 自分のアイデンティティについて悩むのは、全てが決着してからでも遅くはない。俺は目を開くと、本当の母親であるという人の名を一瞬見つめてからPCをシャットダウンした。勢いよく立ち上がり、ドアへ向かう。
 今は直葉のために出来ることをしよう。言葉で足りないときは手を伸ばす、それはアスナが教えてくれたことでもある。




 力強いノックの音が、虚脱した直葉の意識を揺り動かした。反射的に体を竦ませる。
 開けないで、と叫ぼうとしたが、喉からは掠れた音が漏れるだけだった。しかし和人はノブを回さずに、ドアの向こうで短く言った。
「スグ――アルンの北側のテラスで待ってる」
 落ち着いた、穏やかな声だった。そのままドアの前を離れていく気配。廊下の向こうで開閉音がして、静寂が訪れた。
 直葉は、目蓋を固く閉じ、再び体を小さく縮こまらせた。弾き出された涙が、ぽつぽつと音を立てて落下する。
 和人の声には、動揺の響きは無かった。自分の本当の両親がすでに死去していると告げられたばかりなのに、もうそれを受け入れたのだろうか。
 ――強いね、お兄ちゃんは。あたしは、そんなに強くなれないよ……
 心の中で呟いてから、ふと数日前の夜のことを思い出した。
 あの夜、和人は今の直葉のように、ベッドの上で体を丸めていた。同じように、手の届かない人のことを思って泣いていた。その姿は、途方に暮れた幼子のようだった。
 キリトと出会ったのはその翌日だ。つまり和人は、どのようにしてか、眠るあの人の意識がアルヴヘイムに――世界樹の上にあるという情報を得て、再び仮想世界に身を投じたのだ。涙を振り払い、剣を握って。
 ――あのとき、あたしは、がんばれって言った。諦めちゃだめだと、そう言った。なのに、自分はこうして泣き続けている……
 直葉はゆっくりと目を開けた。視線の先に、輝く円冠が横たわっていた。
 手を伸ばし、それを持ち上げると、深く頭に被せた。

 うす曇りの空から降り注ぐ淡い陽光が、アルンの古代様式の街並みを柔らかく照らしていた。
 ログイン地点には、キリトの姿は無かった。今いるドーム前広場は世界樹の南側で、北側にはイベント用の広大なテラスがある。多分そこでリーファを待っているのだろう。
 ここまで来たものの、正直会うのは恐かった。何を言うべきか分からなかったし、何を言われるのかも予想できない。リーファは悄然と数歩あるくと、広場の片隅にあるベンチに腰を下ろした。
 俯いたまま何分経過しただろうか。不意に、目の前に誰かが着地する気配がした。反射的に体を固くし、目を閉じる。
 だが、リーファの名を呼んだのは意外な人物だった。
「んも〜〜〜、捜したよリーファちゃん!」
 馴染みの深い、頼りないくせに元気いっぱいな声が響き渡る。唖然として顔を上げると、黄緑色の髪の少年シルフの姿があった。
「……れ、レコン!?」
 思いがけない顔の出現に瞬間、疼痛を忘れて、どうしてここにと訊ねた。するとレコンは両手を腰に置き、自慢そうに胸を反らせて言った。
「いやー、地下水路からシグルドがいなくなったんで隙見て麻痺解除してサラマンダー二人を毒殺して脱出して、いざ旦那にも毒食わせてやろうと思ったらなんかシルフ領にいないし、仕方ないんで僕もアルンを目指そうと思って、アクティブなモンスターはトレインしては他人に擦り付けトレインしては擦り付けでようやく山脈を越えて、ここに着いたのが今日の昼前だよ。一晩かかったよ、マジで!」
「……アンタそれはMPKなんじゃあ……」
「細かいことはいいじゃんこの際!」
 リーファの指摘など気にするふうもなく、レコンは嬉々とした様子で、隣に密着する勢いで腰を下ろす。そこで今更のようにリーファが独りでいることに疑問を持ったらしく、周囲をキョロキョロ見回しながら言った。
「そういやあのスプリガンはどうしたの? もう解散?」
「ええと……」
 リーファはそれとなく腰をずらして隙間を空けながら言葉を探した。しかし相変わらず胸の奥は切ないうずきの塊に塞がれていて、器用な言い訳は浮かんでこなかった。気付いたときには心のうちをぽろりと口にしていた。
「……あたしね、あの人に酷いこと言っちゃった……。好きだったのに、言っちゃいけないことを言って傷つけちゃったの……。あたし、バカだ……」
 再び涙が溢れそうになったが、リーファは必死に堪えた。レコン/長田は単なるクラスメートで、その上ここは――少なくとも彼にとっては――架空のゲーム世界であって、彼を困惑させるような剥き出しの感情を見せたくはなかった。顔をそむけ、早口で続ける。
「ゴメンね、変なこと言って。忘れて。あの人とは――もう……会えないから……帰ろう、スイルベーンに……」
 たとえここで逃げても、現実の二人は数メートルと離れていない場所に横たわっているのだ。しかしやはりキリトと会うのは恐かった。スイルベーンに帰って、数は少ないが親しい人たちに挨拶して、「リーファ」を永い眠りにつかせよう、そう思った。いつかこの痛みが薄れる、その時まで。
 心を決め、顔を上げて、リーファはレコンの顔を見た。そして思わずギョッとして仰け反った。
「な……なに!?」
 レコンは、茹で上がったかのように顔を紅潮させ、眼を見開き、口をぱくぱくと開閉していた。一瞬ここが街の中であることを忘れ、水属性の窒息魔法でも掛けられたかと思ったその時、突然レコンが猛烈なスピードでリーファの両手を取り、胸の前で固く握った。
「なななんなの!?」
「リーファちゃん!」
 問いただす間もなく、かなり遠くにいるプレイヤー達も振り向くような大声で叫ぶ。顔をぐいーっと突き出し、限界まで後傾したリーファを至近距離から凝視しつつ言葉を続ける。
「り、リーファちゃんは泣いちゃだめだよ! いつも笑ってないとリーファちゃんじゃないよ! 僕が、僕がいつでも傍にいるから……リアルでも、ここでも、絶対独りにしたりしないから……ぼ、僕、僕、リーファちゃん……直葉ちゃんのこと、好きだ!」
 壊れた蛇口のように一気にまくし立てたレコンは、リーファの返事を待つこともなくさらに顔を突出させてきた。いつもは気弱そうな目に異様な輝きを貼り付け、脹らませた鼻のしたの唇がにゅーっと伸びてリーファに迫る。
「あ、あの、ちょっ……」
 アンブッシュからの不意打ちはレコンの得意技ではあるが、それにしてもあまりの展開に度肝を抜かれてリーファは硬直した。それを許諾と取ったか、レコンは顔を傾け、リーファに覆いかぶさらんばかりに身を乗り出して接近を続ける。
「ちょ……ま、待っ……」
 顔にレコンの鼻息を感じるところまで肉迫されてから、ようやくリーファはスタンから回復し、左拳を握った。
「待ってって……言ってるでしょ!!」
 叫ぶと同時に体を捻り、全力のショートブローをレコンの下腹部に叩き込む。
「ぐほェ!!」
 街区圏内ではあるもののパーティーを組みっぱなしであるがゆえにダメージが通り、レコンは一メートルほど浮き上がったのちベンチに落下した。そのまま腹部を両手で押さえつつ苦悶の声を上げる。
「うぐぐぐううぅぅ……ひ、酷いよリーファちゃん……」
「ど、どっちがよ!! い、いきなり何言い出すのよこのアホチン!」
 ようやく顔がかーっと熱くなるのを感じながらリーファはまくし立てた。危うく唇を奪われるところだったと思うと怒りと恥ずかしさが相乗効果でドラゴンブレスの如く燃えさかり、とりあえずレコンの襟首を掴み上げると右拳を更に数発ドカドカと見舞う。
「うげ! うげえ! ご、ごめん、ごめんって!!」
 レコンはベンチから転げ落ち、石畳の上で右手をかざして首をぷるぷると振った。リーファがとりあえず攻撃姿勢を解除すると、胡坐をかいて座り込んで、がっくりと項垂れる。
「あれ〜〜……。おっかしいなあ……。あとはもう僕に告白する勇気があるかどうかっていう問題だけだったはずなのになあ……」
「……あんたって……」
 リーファはほとほと呆れ、ついしみじみした口調になりつつ言った。
「……ほんっとに、馬鹿ね」
「うぐ……」
 叱られた子犬のようなレコンの傷ついた顔を見ていると、呆れるのを通り越して笑いがこみ上げてきた。ため息と笑みの混合したものを大きく吐き出す。同時に、すーっと胸の奥が軽くなったような気がした。
 今まであたしは何もかも飲み込みすぎてたのかな、とリーファはふと思った。傷つくのが恐くて、ぐっと歯を噛み締めてばかりいた。そのせいで、抱えきれなくなった気持ちが洪水のようにあふれ出て、大切な人を傷つけてしまった。
 もう遅いかもしれないけど――でもせめて、最後くらいは素直になりたい。そう考えて、リーファは肩の力を抜き、空を見た。そのまま、ぽつりと言った。
「――でもあたし、アンタのそういう所、嫌いじゃないよ」
「え!? ほ、ホント!?」
 レコンは再びベンチに飛び上がると、懲りもせずにリーファの手を取ろうとした。
「調子にのるな!」
 その手をすり抜けて、リーファはすいっと空に浮かび上がった。
「――あたしもたまにはアンタを見習ってみるわ。ここでちょっと待ってて。――ついてきたら今度こそコレじゃ済まないからね!」
 ポカンとした顔のレコンに向かってしゅっと突き出した右拳を開き、ひらひらと振ってから、リーファは体を反転させた。そのまま翅を強く震わせ、世界樹の幹目指して高く舞い上がった。

 恐ろしく太い世界樹を、回り込むように数分飛ぶと、眼下に広大なテラスが見えてきた。時々フリーマーケットやギルドイベントに利用されているらしいそのスペースは、しかし今日は閑散としていた。アルン北側は大した建築物もないために観光客の姿も見えない。
 がらんとした石畳の中央に、小柄な黒い人影がぽつんと立っていた。鋭利な形のグレーの翅、その上に斜めに背負った巨大な剣。
 リーファは大きく一回深呼吸すると、意を決して彼の前へと舞い降りた。
「……やあ」
 キリトは、リーファを見るとかすかな微笑を交えながら短く言った。
「お待たせ」
 リーファも笑みとともに言葉を返した。しばしの沈黙。風の音だけが二人の間を吹きぬけていく。
「スグ……」
 やがてキリトが口を開いた。瞳が真剣な輝きを帯びる。だが、リーファは軽く手を上げてその言葉を遮った。翅を一度羽ばたかせ、すとんと一歩後ろに下がる。
「お兄ちゃん、試合、しよ。あの日の続き」
 言いながら腰の長刀に手をかけると、キリトは軽く目を瞠った。唇が動き、何かをいいかけるが、すぐに引き結ばれる。
 その深い輝きだけは現実の彼と共通している黒い瞳でしばらくリーファを見つめていたが、数秒後、こくんと頷いた。彼も翅を動かし、距離を取る。
「――いいよ。今度はハンデ無しだな」
 微笑を消さぬまま言い、背中の剣に手を添えた。
 抜剣は同時だった。涼やかな金属音がふたつ、重なって響く。リーファは手に馴染んだ愛刀をぴたりと中段に構え、真っ直ぐにキリトを見つめた。キリトは腰を落とし、大剣を地面すれすれに低く構えている。あの日と同じように。
「寸止めじゃなくていいからね。――行くよ!!」
 言うと同時に地を蹴った。
 距離を詰める須臾の間、リーファは、そうか――と思っていた。あの日、無茶苦茶だが見事に様になっていた和人の構えは、この仮想世界で磨かれたものだったのだ。二年もの長い日々、和人は命を賭けて本当の剣のやり取りをしていたのだ。
 知りたい、と、初めて痛切に思った。殺人ゲームとして憎悪の対象でしかなかったあの世界で、和人が何を見、何を考え、どのように生きたのか知りたい。
 高く振りかぶった剣を、リーファは一直線に振り下ろした。スイルベーンでは不可避と言われたリーファの斬撃だが、キリトは空気が動くようにわずかに体をずらすだけでそれをかわした。直後、唸りと共に大剣が跳ね上がってくる。引き戻した長刀で受けるが、ずしんと重い衝撃に両腕が痺れる。
 武器が弾かれる勢いを利用して、二人は同時に地を蹴った。二重螺旋状の軌跡を描きながら急上昇し、交錯点で剣を打ち合う。爆発にも似た光と音のエフェクトが宙に轟き、世界を震わせる。
 剣を交えながら、リーファは妖精の剣士として、また剣道家として、キリトの動きに感嘆せざるを得なかった。無駄の一切無い、舞踏のように美しい動作で攻防一体の技を次々に繰り出してくる。
 彼のリズムに同期して剣を振りつづけるうち、いつしかリーファは自分がかつて体験したことのない領域に登りつめつつあるのを感じていた。思えば、かつてこの世界で何度となく行ったデュエルでは、一度として心の底から満足を味わったことはなかった。破れたことは無論あるが、それらは全て武器のエクストラアタックやスペルによるもので、真に剣だけでリーファを圧倒した者は居なかったのだ。
 今、ついに自分を遥か上回る剣士とまみえ、それが誰よりも愛する人だったことに、リーファは歓喜にも似た感情を味わっていた。例え二度と心が交わることはないとしても、この一瞬だけで充分に報われたと、そう思った。いつしかリーファは、目の縁に涙が溜まっているのに気付いた。
 何度目かの激しい撃剣によって体が弾かれたとき、リーファはそのまま宙を後ろに跳ね飛んで大きく距離を取った。翅を広げてぴたりと静止し、高く、高く、大上段に剣を構える。
 これが最後の一撃、というリーファの意思はキリトにも伝わったようだった。彼も体を捻り、後方に大きく剣を振りかぶる。
 一瞬、凪いだ水面のような静謐が訪れた。
 リーファの頬を音も無く涙が伝い、雫となって落ち、静寂の中に波紋を広げた。同時に二人は動いていた。
 空を焼き焦がす勢いで、リーファは宙を駆けた。長刀が、まばゆい光の弧を描いた。正面では、キリトが同じようにダッシュするのが見えた。彼の剣も純白に輝き、空を裂いて飛ぶ。
 自分の愛刀が頭上をわずかに越えたところで――リーファは両手を開いた。
 主を失った剣は、光の矢となって空高く飛んでいった。しかしそれにはもう視線を向けず、リーファは両腕を大きく広げ、キリトの剣を迎えようとした。
 こんなことで、キリト/和人が満足するとは思えなかった。しかし、彼を深く傷つけたであろう自分の愚かしさを謝罪し得る言葉を、リーファ/直葉は持たなかった。
 せめて、彼の剣の下に、自分の分身であるこの身を差し出すことしか出来ることはないと、そう思った。
 両手を広げ、眼を半ば閉じて、リーファはその瞬間を待った。
 しかし――。白い光に溶けつつある視界の中、飛翔してくるキリトの手に、剣は無かった。
「!?」
 リーファは愕然として目を見開いた。視界の端に、自分の剣と同じように回転しながら遠ざかっていくキリトの大剣が見えた。リーファが剣から手を離すと同時に、彼も自分の武器を捨てていたのだ。
 何で――、と思う間も無く、二人は宙で交錯した。同じく両腕を広げたキリトの体とリーファの体が正面から衝突し、息も止まるようなショックに見舞われて、リーファは夢中で相手にしがみついた。
 エネルギーを殺しきれず、二人の体はひとつになって回転しながら吹き飛ばされた。視界を、青い空と巨大な世界樹がぐるぐると横切っていく。
「どうして――」
 それだけを、どうにか口にした。至近距離からリーファを見つめるキリトも、同時に言った。
「何で――」
 沈黙し、視線を交差させたまま、しばらく二人は慣性に乗ってアルヴヘイムの空を流れ続けた。やがてキリトが翅を広げ、姿勢を制御して回転を止めながら口を開いた。
「俺――スグに謝ろうと思って――。でも……言葉が出なくて……せめて剣を受けようって……」
 不意に、リーファは、背に回されたキリトの両腕にぎゅっと力が入るのを感じた。
「ごめんな――スグ。せっかく帰ってきたのに……俺、お前を見てなかった。自分のことばかり必死になって……お前の言葉を聞こうとしなかった――。ごめんな……」
 その声を耳もとで受け止めると同時に、リーファの両眼から迸るように涙が溢れた。
「あたし……あたしのほうこそ……」
 それ以上はもう言葉にならなかった。リーファは声を上げて泣きながら、キリトの胸に強く顔を埋めた。

 永遠に続け、と思った時間もやがて終わり、二人はふわりと草の上に着地した。リーファがしゃくりあげている間、キリトはそっと頭を撫でつづけてくれていたが、数分が経過したあと静かな声で話しはじめた。
「俺……本当の意味では、まだあの世界から帰ってきてないんだ。終わってないんだよ、まだ。彼女が目を醒まさないと、俺の現実は始まらない……。だから、今はまだ、家族のこと……スグのことを、どう考えていいのかわからないんだ……」
「……うん」
 リーファは小さく頷く。
「だから、事件がぜんぶ決着したら、俺、真剣に考えてみるよ。それまで、答えは待ってもらっていいか……?」
「ん……」
 ふたたび頷き、リーファは呟くように言った。
「あたしは、もうじゅうぶん。これだけで、じゅうぶんだよ。……あたしも手伝う。説明して、あの人のことを……なんで、この世界に来たのか……」
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