立ち読み

GOSICK -ゴシック-

著者:桜庭一樹

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プロローグ 野兎を走らせろ!


 大きくて黒いものが
 横切った。
 犬だ、と子供は思った。宵闇にまぎれる、闇のように黒い犬。猟犬だ。その四肢はつややかに黒く、二つの目が、闇の中で燃える青い炎のように揺らめいていた。
 子供は黒い森を抜けて、ようやく村道を歩きだしたところだった。お使いにしては遅すぎる時間だった。はやく暖炉の燃える暖かな我が家に帰りたかった。近道しようと、村外れのその屋敷の庭に一歩入った途端、その猟犬に遭遇したのだった。
 子供は思わず、数歩、後ずさった。
 ぐしゃり。
 足の裏に、いやな感触がした。柔らかく、生暖かい液体をふくんだなにかを踏んだ。足元を見下ろすと、ぐじゃぐじゃになった小さな肉塊が落ちていた。赤い肉。血の滴を跳ね返す、茶色い毛皮がところどころ見えていた。長いふわふわした耳が肉塊の中から覗いていた。そして、それに埋もれたガラス玉のような丸い瞳。夜空の暗黒を映して、暗く虚しくこちらを見上げていた。
 ……野兎だ、と気づいた。
 顔を上げた。猟犬の閉じた口蓋から、一筋の生々しい血がぼとり、と落ちた。
 こいつが食い殺したんだ……!
 子供の手から、力が抜けた。ぎゅっと握っていた葡萄酒の瓶が、ゆっくりと地面に落下し、破片を飛び散らせた。赤紫色の液体が、猟犬の頭にもびしゃりとかかった。
 犬は、ズルリ……と、舌なめずりした。
 ふいに雷鳴がとどろいた。
 白い閃光に、その村外れの屋敷が浮かび上がった。いまは誰も住んでいないはずの朽ちた屋敷。そのテラスに、見たこともない姿をした何者かが座っていた。
 子供は目を見開いた。
 頭から赤いリンネルの布を被った人間が、車椅子に座っていた。その布がかすかにはだけ、頭があるはずの場所にぽっかり空いた暗い空洞が見えた。布の中から、生きている人間のものとは到底思えない、枯れ枝のごとくせ細り、あまりに老いた手が一本だけ、にょっきりと突き出ていた。
 その手は、金色に輝く手鏡を強く強く握りしめ、ブルブル震えていた。
 三つの壺銀の壺、銅の壺、ガラスの壺が置かれ、不気味に輝いている。
 ふいに、老いたしわがれ声が響いた。
「一人の青年が、もうすぐ、死ぬ、だろう……!」
 子供は息を飲んだ。老婆の声……。まるで、この老婆が口にした不吉なことが片端から現実になるような恐怖を覚えた。声は続けた。
「その死が、すべての始まり。
 世界は石となって転がり始める」
 誰もいなかったはずのテラスから、無数の男たちの声が響いた。子供は驚いて目をこらすが、雷鳴の瞬間に照らされたテラスは、いまは再び、闇に埋もれている。
「どうすれば……」
「我々はどうすれば……」
「ロクサーヌ様!」
「……箱、を」
 再び、老婆の声が響いた。
「大きな箱を用意するのじゃ。この庭よりも大きな箱を。それを水面に浮かべよ。そして……」
 バリバリバリッ!
 雷鳴がとどろいた。
 白い閃光に、テラスと庭が照らされた。
 それが浮かび上がらせた光景に、子供は腰を抜かし、声にならない悲鳴を上げた。
 テラスには、赤い老婆と、それを囲む人間たちがいた。人間たちはみな、白い布を被り、手を伸ばして、まるで幽鬼のようにテラスを彷徨っていた。
 そして、庭には……。
 たくさんの茶色く丸い塊が走り回っていた。十匹以上の野兎が必死で逃げまどい、それを、さきほどの猟犬が追い回しては噛み殺していた。地面にはいくつもの小さな肉塊が転がり、血溜まりを作っていた。
 つぎの瞬間には、雷鳴は去り、再び闇が屋敷と庭を包んだ。
 静寂。
 やがて、テラスから老婆の声が響いた。

「そして……〈野兎を、走らせろ!〉」

第一章 金色の妖精




 それから十年後。
 ヨーロッパの小国、ソヴュール王国。
 山脈の麓に構えられた、名門聖マルグリット学園の、豪奢な石造りの校舎の一角で……。

「……それでね、海上救助隊が駆けつけたとき、その客船にはディナーのお皿にまだ温かい料理が残っていて、暖炉も赤々と燃えていて、テーブルにはカードゲームのカードが並べられていて……なのに、なのによ? だーれもいなかったんだって。船客も、航海士たちも、みんな消えてしまった……。血のついた部屋とか、争った跡のある部屋もいくつかあったんだけど、とにかく人っ子一人いなくて、ね……」
「うん、うんうん」
 校舎裏の花壇で、二人の生徒が熱心に話していた。
 コの字形をした校舎から、中庭に出る小さなドアを開け放ち、三段ある石階段の二段目に腰掛けている。顔を寄せている二人の目前には、色とりどりの花が咲き乱れて、春の心地いい風に揺れている。