◆仏教

○本寺制度

 仏教寺院を本寺(本山)と末寺の階級制度を設け本寺を核としてた宗派組織を作り全ての寺院僧侶を把握・統制した。


○触頭制度

 触頭は幕府又は藩からの伝達を触下へ通達し、触下からの訴訟を寺社奉行や本寺・本所へ取り次ぐ役目を負う。触下間の利益調整や統制を行った。制度内容からして本寺が行ったと思われる。


○寺請制度

 キリスト教徒ではないと証明する目的として発足し、全ての人はどこかの寺の檀家となりその証明書を発行してもらった。証明書のことを寺請証文と呼んだ。寛永十二年(1635年)頃より開始され、二年後の島原の乱以降は全国に拡大された。当初はキリスト教徒でないことを証明することに重点が置かれ寛文年間(1661から1673)までは寺院以外に村役人が証明書を発行していたこともあったようだ。同年間に寺請証文は「宗門改帳」として村単位で記載した。


 
幕府は戸口や領民の実態制度を把握を目的に調査を実施し、村落や町単位で「宗教人馬書上帳」を戸口単位の人別帳を作成した。やがて、寺請証文が戸籍台帳に組み込まれ、婚姻や出産死亡など戸籍に変更がある場合は寺請証文も書き換え、引越しには現地の役人宛の「送一札」だけでなく引越し先にある寺院へ檀家寺が発行した「寺送状」など寺請証文を発行した。

 

◆神道

○神社・神職の統制

 社頭、社領、社地といった宗教施設と宗教者の把握と組織化を行った。仏教同様に触頭制度に組み込んだ。神社禰宜神主等法度(神社条目)を遵守することを条件に朱印状などを発行した。


 法度の内容は五条で構成され装束に関することや位階という制度上の内容もあるが「神道に励み、神社を掃除し修理しなさい」や「社領の売買と質入の禁止」など極めて常識の範囲内である。


 幕府は神祓官領長吉田家に神職の装束認可権を与えたが、特定の執奏家がある神社は他の家に頼むことが認められていた。装束の許可申請に多額の費用がかかり絶対必要なことではないこともあり執奏家自体を不要とする神社もあった。幕府は吉田家の一元的神職統制よりも神社神職を組織化し把握できればいいという考え方のようだ。

 

◆儒教

 儒教は宗教か思想のどちらなのか区別しにくいが孔子廟で孔子が祭られていることからも宗教性がある。幕府の官学だけに儒学は保護され、幕府立の昌平坂学問所や前身の弘文館に孔子廟が祭られ将軍が廟参している。毎年祭祀を行っていることからも儒教には宗教性がある。

 

◆民間宗教者

 陰陽道や神事舞太夫、夷職など民間の宗教者は特定の宗教施設を持たず檀家場を廻り歩き、祈祷や御祓い芸能を行い初穂料を得ていた。幕府は各民間宗教者の本所を設けその職分を保障する免許状を発行させることで民間宗教者を把握した。本所には管轄する民間宗教者からの様々な礼金が支払われる。公家や大寺院を本所と定めることで彼らを経済的に助けようという意味合いを持つ。

 しかし、民間宗教者は習慣的に差別されて、人別帳が別にされたり住む集落を枝村と呼び差別した。差別はされたが幕府に公認されていたことになる民間宗教は明治政府の祭祀一致政策や風俗統制政策により否定され姿を消した。

 

◆禁止されていた宗教


○キリスト教

 キリスト教が既存宗教を否定し、キリシタン大名の中には領内の他宗の信仰を禁止し、領内の寺社を破壊するなど排他的な行為があった。豊臣秀吉はキリスト教の教義を否定するのではなく、キリスト教徒が織田信長など多くの大名を苦しめた一向宗のような宗教勢力として台頭することを怖れ、禁止したようである。


 幕府は当初放任していたが、旧教徒国が布教を名目に各地を回り、国内の調査やキリシタン大名や幕府にやむなく随っている大名を扇動し内乱を起こさせることを怖れた。


 慶長十七年(1612年)に幕府直轄領にキリスト教の禁令を出し、翌年には全国に拡大させ、宣教徒を追放し信者に改宗を命じた。徐々に全国規模でキリスト教徒への迫害が広がり元和八年(1622年)に信徒五十五名を処刑し、翌年にはイギリス商館を閉鎖し、翌々年にはスペイン船の渡航を禁じた。


 
寛永十四年(1637年)のキリシタンや浪人らによる島原の乱が起こり、幕府は鎮圧に苦労する。寛永十六年(1639年)には島原の乱を扇動したとされるポルトガル船の来航を禁じた。島原の乱以降は禁教政策が強化され、五人組制度や踏絵を実施し密告を奨励した。寺請制度で全ての人をどこかの寺の檀家にし宗門改めを行った。


 純粋な布教目的で来た宣教師もいたはずだが、幕府にとって宣教師の名を借りた諜報員と感じたようだ。大型船の造船を禁止し、日本各地から補給なしで海路からの江戸攻撃を不可能にする一方で、陸路からの攻撃を防ぐ目的で大井川に敢えて橋を架けず、幕府に無断で血縁関係を結び大名家同士が結束し、幕府に叛旗を翻すことを警戒するなど幕府は防衛に関しては些細な不安要素でも取り除く細心な姿勢だけにキリスト教禁止は幕府にとっては当然のことだった。

 

○不受不布施派

 日蓮宗の一派。日蓮宗の信徒以外からは布施を一切受け取らず、施しもしないという考え方。例え、相手が権力者でも信徒でなければ経済的支援を断るという政治権力を否定する排他的な教義。幕府の意に沿わないとして弾圧した。


 同派の京都妙覚寺日奥は文禄四年(1595年)に秀吉が営む法要への出仕の命を断り寺を退去し、慶長四年(1599年)に家康は日奥と受布施派を対論させ日奥の負けとし対馬に流罪、寛永七年(1630年)に同派と受布施派を対論させ不受不布施派を邪道とし、寺請制度から外し非合法組織となった。

 同派は表向きは受布施派に改宗したが、内信など密かに信仰が続けられ、明治政府により公認された。他の幕府公認の宗教が緩やかながら幕府の統制化に置かれている中で、権力者である幕府を否定した同派を幕府は許さなかった。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/syukyo.htm


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江 戸 時 代
          
 江戸幕府は、当初よりキリスト教を禁制し、幕藩体制の強化を目的として既成仏教教団を利用し、
                          てらうけ                           だんか
本末制度で寺院を統制しつつ、「宗門改め・寺請制度」などによって、民衆を寺院に所属させる檀家
                                          かんえい        げんろく
制度を確立しました。これによって各宗の寺院が急増したため、幕府は寛永八年(1631)と元禄
                                   はっと              じさん き た
五年(1692)に「新寺建立禁止の令」を出し、以後「寺院法度」を定め、宗教論争や自讃毀他を
                          
禁止するなど、強力に宗教を統制しました。
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/nichiren_rekishi3.htm

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日蓮正宗(当時は本門宗大石寺)は江戸幕府に禁制とされることはありませんでした。しかし、地方によっては現在の受不施派と同一視され、迫害された藩がありました。金沢法難などが有名です。金沢の下級武士の信徒などには、参勤交代の途中に大石寺近くの宿場に留まった際、宿を抜け出して暗闇を走り、大石寺門前にたどり着くと石畳に正座して題目を唱え、夜が明けるころ宿に駆け戻るという「抜け参り」の風習があったと伝えられています。信仰心の弱い者に対しては有効な弾圧も信仰心の強い者に対してはかえって逆効果になります。まして「法華経の行者は必ず法難を受ける」という日蓮系ならばなおのことです。日蓮正宗総本山大石寺が日蓮系の本門宗から独立し日蓮宗富士派を名乗ったのは意外と最近で、明治33年。日蓮正宗に改名したのは大正2年のことです。ただし、それまで大石寺が本門宗の傘下にあったとしても、それは当時の寺檀制度のものでの緩やかな集まりのようなもので、総本山大石寺として独自の教義を持ち続けてきたのは間違いないでしょう。

http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/nitiren-kiso.html


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〇邪教の烙印を押された不受不施派

慶長四(一五九九)年十一月十三日、日重らは家康に日奥を訴え、日奥また応戦し、これにより家康は両者を大坂城に召し、対論せしめた。翌年、日奥は対馬に流刑となり、十三年に及ぶ流人生活を送った。これを慶長度の不受不施事件という。
日奥は妙覚寺で六十六歳の生涯を閉じたが、再び対馬に死後流罪となった。


慶長十三(一六〇八)年、尾張熱田で常楽日経と浄土宗正覚寺・綽道とが宗論を起こした。家康は江戸城に双方を呼び対論させたか、意図的に日経を敗けとし、弟子と共に惨刑に処した。これを慶長法難という。

池上日樹らを流刑。これを身池.対論、または寛永年度の不受不施事件という。

日述・日堯・日了・日完らは流罪となり、翌年、日講・日浣が流刑となった。これを寛文度の不受不施という。


不受不施派は寛文九(一六六九)年に寺請(てらうけ)が禁止され、禁制宗門として信仰を奪われ、明治九年まで邪宗門の烙印(らくいん)を押され続けた。

【結論】
もし大石寺が不受不施を唱え、仁恩と返答したら仏閣は即座に破却され、命脈の存在すらあやぶまれたことであろう。
http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yowa/62/6206.htm

もう分かったであろう。創価君の挙げた北山に対する日俊上人の返状は、「富士大石寺を護るための方便であり、その真意は本門戒壇の大御本尊を寺社奉行の取り上げから護るためのカモフラージュだった」ということである。

そう言えば戦時中にも不受不施派と似たような「勇気ある莫迦会長」が創価にいたではないか! そうだ牧口常三郎氏、その人である。 この人物は宗門の再三の助言にも拘らず「皇大神宮の神札」を拒否し続けたのである。してどうなったのか? 結局は「国家諌暁」どころか一人も折伏することが出来ず、獄中でこの世を去ったのである。つまり軍部により殺されてしまったということだ。まさに勇気だけあった「莫迦会長」ということだ。本年「牧口常三郎 生誕141周年」ということらしいが、まさに創価史上に残すべき「永遠の莫迦会長」ということだ。

このように大石寺の歴史を検証して行けば、上代の猊下及び御僧侶諸氏が「如何にご苦労され戒壇様をお守りするために苦労されたか」ということがわかるのである。この莫迦な創価君はこのような歴史背景を無視し、江戸時代がまるで信教の自由が認められた現在と同一視し、莫迦な投稿を続け、何としても大石寺に仏像造立が存在していたと話を持ってゆきたいわけである。

http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53965856.html