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民主党の小沢一郎元代表がみずからのグループを率い、来週の消費増税関連法案の衆院採決で反対票を投じる構えだ。すでに約50人が離党届に署名し、小沢氏とともに集団離党して新党[記事全文]
政府の国家戦略会議がテーマの一つとする大学改革論議で、大学の「統廃合促進」が取りざたされている。いわく、大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外[記事全文]
民主党の小沢一郎元代表がみずからのグループを率い、来週の消費増税関連法案の衆院採決で反対票を投じる構えだ。
すでに約50人が離党届に署名し、小沢氏とともに集団離党して新党結成をめざすという。
それならそれで仕方がない。
だが、小沢氏が「私どもの大義の旗は国民の生活が第一だ」と、造反を政策論で正当化するのは納得できない。私たちには、今回の行動は「大義なき権力闘争」にしか見えない。
政権交代した09年総選挙で、民主党が掲げた「国民の生活が第一」の旗印は色あせた。
「予算組み替えなどで16.8兆円の新たな財源を生み出す」という公約が実現不能なことは、この3年の挫折で明白だ。
自分が首相なら実行できる、と言いたいかもしれない。ならば具体的に説明してほしい。
消費増税なしに持続可能な社会保障をどう築くのか。どうすれば16.8兆円もの巨額の新規財源が生み出せるのか。
小沢氏は「選挙になれば反増税と脱原発を掲げて戦える」と側近議員に語ったという。
だが、反増税はともかく、脱原発や原子力政策のあり方について、本人の口からまとまった主張は聞いたことがない。
結局、反増税も脱原発も、小沢氏にとっては実行すべき政策論というより、次の総選挙で一定の「数」を確保し、キャスチングボートを握るための道具ということではないのか。
あきれたのは、離党届に署名した衆院議員たちが、それを小沢氏に預けたことだ。
最後まで自分で判断し行動する姿勢を放棄し、「親分」に身の処し方を委ねるかのようだ。小沢氏に世話になっているのが事実でも、民主主義国の国会議員のふるまいとは思えない。
この3年、小沢氏の公約実行に向けた努力は見えない代わり、時の政権の足を引っ張る権力闘争ばかりが目についた。
震災の痛手が生々しい昨年6月、小沢氏は、菅内閣に対する不信任案に一時賛成しようとした。春には、グループの議員たちに野田内閣の政務三役や党役職の辞表を次々と出させた。
その小沢氏がいま「公約こそ大義」と叫ぶのは、驚きを通り越してこっけいですらある。
離党者が54人以上なら与党は過半数を割り、野党と組めば内閣不信任案が可決される。自民党はますます野田首相の足元を見るだろう。
首相の置かれた状況は厳しいが、妥協は不可能だし、すべきでもない。たじろぐことなく採決に臨むしかない。
政府の国家戦略会議がテーマの一つとする大学改革論議で、大学の「統廃合促進」が取りざたされている。
いわく、大学が増えすぎて学生の質が下がった。専門知識はおろか一般教養も外国語も身についていない。大学への予算配分にメリハリをつけ、競争によって質を上げよ。校数が減って大学進学率が下がってもいい。
企業人や閣僚が、そんな主張を展開した。
しかし、大学や学生の数を減らせば質が上がるのか。弊害にも目を向ける必要がある。
問題提起じたいはわかる。
学生の勉強時間は少ない。東大の調査では、米国の学生の過半数は授業以外の勉強時間が週11〜15時間だが、日本は5時間以下が6割を超える。
世界と渡り合える優秀な人材を育てないと日本は埋没してしまう。産業界にはそんな焦りがある。新卒の3割が3年以内に離職することへの不満も強い。
しかし、大学の淘汰(とうた)を進めると、都会と地方の格差が広がるおそれがある。
大学・短大進学率は今でも東京都や京都府が60%台なのに対し、北海道や東北、九州の大半の県は40%台と開きがある。
統廃合が進めば、体力のない地方の小さな私大からつぶれ、地方の裕福でない家庭の子は進学の機会を奪われる。
学生が勉強しないのは企業側にも原因がある。3年の後半から就職活動が始まり、専門課程の勉強がろくにできない。
それに、大学の現場はむしろ学力が足りない学生をいかに底上げするかに頭を悩ませている。それは高校までの教育や大学入試のあり方も合わせて見直さなければ解決しない問題だ。
そこに手をつけずに統廃合を進めたのでは、行き場を失う子を増やすだけに終わるおそれがないか。仕事に必要な能力が身についていない若者が増えれば、年金などの社会保障を担う層が細ってしまう。
そもそも日本の大学進学率は先進国の中で決して高い方ではない。大学教育への公費負担の割合も低い。
ただでさえ少ない予算を上位校に回し、下から切り捨てるようなことになれば、人材の層がますます薄くなってしまう。
複数の大学が運営部門や教員を共有し、研究や教養教育を共同で行う。そうした「連携」で経営の効率を上げる。そして、生まれた余力は各大学の特色を高める工夫に回す。
淘汰のムチをふるうより、そんな底上げをめざすほうが実りがあるのではないか。