久しぶりの波音が、耳に届く。夜の、ひた寄せる音達だ。
バッグの中から当面必要な筆記用具などを出し終え、琴巳は一息ついた。
微かな足音が近づき、琴巳ちゃん？ と窺うように祖母の声が呼んだ。
「花火しないの？ 今日は疲れちゃってる？ 電車にたくさん乗ったものね。先にお風呂に入ってお休みした方がいいかしら」
「ううん、花火したい」
琴巳は急いで立ち上がった。部屋を出て祖母に並ぶ。
「あぁあ。せっかく今年の登校日は早かったのに�狃�の子の日�瓩覆鵑�始まっちゃうから、８月半分過ぎちゃった」
「ふふっ、そうねぇ」
「損しちゃった気分」
階段を降りながら琴巳がぼやくと、あら、と祖母は目を丸めて見せた。
「そうでもないんじゃない？ コウ君がお姉ちゃんをとっても大事に思ってくれてるって、解ったでしょ。こういうコトって、近過ぎる所為で、こんな機会でも無いと、なかなか気づけないものよ？」
「――そっか」
琴巳は両手を合わせた。えくぼが浮かぶ。「お祖母ちゃんにも見せたかったナ。駅前で、コウったら、ちっちゃい子みたいにしがみついて来たんだよー」
２階も１階も静かだ。男性陣は既に外らしい。祖母のくすくす笑う声が、廊下に柔らかく響いた。
「お姉ちゃんを見て、ほっとしたのね。コウ君、ずっと元気無かったのよ」
「あの子、もう随分、わたしが助けなくても色々できるのに」
「でも、まだ９歳になったばかりだもの」
祖母は、玄関内の電気を点けた。
「琴巳ちゃんが来るまで、いっつも��那君にくっついてたわ。心配なのを我慢してたのね」
「え、そうなの？」
靴に足を入れつつ、琴巳は口をすぼめた。
「お兄ちゃん、受験生なのに。邪魔だったんじゃないかな」
「��那君は、お勉強の仕方が上手だから。ちゃんと時間を見つけてやってるわ。気にしなくても平気よ？」
「……そうなら、いいけど……」
琴巳は、上がり口で立ち止まっている祖母を見上げた。
「行かないの？」
「ふふ。新発明のデザート作っておくから、楽しんでらっしゃい」
その作り方を教わる方が花火より楽しそうだと、ふと過る。口にしようとすると、祖母が先に言葉を継いだ。
「あ、ほら、噂した所為かしら。��那君だわ。迎えに来てくれたのね」
玄関のすり硝子の向こうに、丈高い姿が見えた。ゆったりした動作で、横開きの戸に手をかける。からから、と軽い音と共に、戸が開いた。祖母の言う通りの人物が顔を見せる。
「早く始めよう、って、公士が言ってる」
適度なバリトンの低音が、頭上から降ってきた。いってらっしゃい、と祖母が手を振って、琴巳はぎごちなく頷いた。
少年は、ついと踵を返し、歩き出す。歳は少年でも、見かけは大人だ。琴巳は後ろを歩きながら、何�僂砲覆辰燭鵑世蹐Α△版愧罎鮓�つめた。暗闇に浮かび上がった真っ白なＴシャツが、やけに大きく見える。
声が変わってしまった時は、変わっていく間、一緒に過ごしていたので、それほど驚きは感じなかった。たまに、遠くから呼ばれて、変わったんだった、と認識するぐらいだった。
それが、今年のこの、急激な背の変わりようは、はっきり言って驚異的である。
わたし、去年より５�僂眇�びたんだけどな。
初めて会った一昨年、��那少年の身長は、１４７�僂△辰振很Δ茲蠅曚鵑両�し高い程度だった。並んで横を向けば、綺麗な横顔があった。それが去年の夏、身長が伸びたと弟が嬉しそうに話題にした時、お兄ちゃんは？ と尋ねられ、１６０、と彼は答えた。琴巳は１５０�僂砲覆辰討い燭�、並んだ時に先ず襟元が目に入るようになっていたので、どうりで、と思ったのだ。
今年、前を行く��那の、背中が琴巳の目の高さにある。向かい合っても、胸元しか見えないだろう。去年からの担任の先生と同じぐらいだ。
前を歩いている人が誰か、知っているのに、知らないように思えた。
賢いのは知っていたけれど、水晶高校に行けるくらい頭がいいなんて、知らなかった。
小学校１年生の時、集団登校の班長をしていた６年生の�爐�姉さん�瓩�、今、水晶高校の２年生だ。合格した時、彼女の母親は大層喜んでいた。どうしても水高に入れたくて中１の頃から進学塾に行かせていたとか、塾から帰っても何時間も猛勉強させたとか、隣家の小母さんに説明していた。あんまり声高に話すので、家の中で夕飯の支度をしていた琴巳も一部始終聞いてしまった。
近所の高校がそんなに有名な学校だったとは、その時まで知らなかった。県内で１、２を争う頭のいい人が集まる事。自由な校風の中で個性溢れる人が何人も卒業し、社会で活躍している事。そんな事々もその時知った。
��那は、来年そこを受験すると言う。今日の昼食時に、祖父母がそう打ち明けた。夏休み前の模擬試験で合格率が９８％と出たそうだ。担任の先生もこれは狙うべきだと言ってくれたので、第１志望は水晶高校に決めたらしい。
母も水高の噂を知っていたようで、��那の成績にびっくりしていた。９８％なら先生の仰る通りです、と感心した口振りで言った。それから、水晶は家のすぐ近くなんですよ、と教えた。
『歩きで１０分もかからないです。チャイムの音が聞こえてきますもの』
母は言ってから、あ、と天ぷら蕎麦の脇に箸を置いた。
『お話って、それですね？』
そうなんだ、と応じて、祖父が母同様に箸を置いた。
『高校の３年間、��那を千鶴子さんの家に寄せてもらえないだろうか』
『この子達が頷けば、わたしは構いません。わたしが何もお世話できない事は御承知の上で仰っておられると思いますし』
母はさらりと言い、こちらを見た。
『やったっ！』
隣で、公士が顔を輝かせて身を乗り出した。
『オレ達の部屋、半分あげる！』
母が慌ててフォローした。
『部屋は、１階に８畳の空き部屋があります』
『まぁ、そんな広いお部屋が？』
祖母が問うと、母は頷いた。
『書斎って名目で作ったんですけど、殆ど使わず終いで』
父が落ち着いて本を読む為に防音にした部屋だ。母は目を細めた。
『是非、今度お出で下さい。他でもない雅士サンが建てた家ですし』
ありがとう、と祖父母はしみじみした口調で応じた。
��那は、物静かな眼差しを２人に向けていたが、つと、こちらを見た。琴巳は、どきりとして肩をすくめた。
少年は、声や身長が変わってしまったけれど、顔は別段変わり無い。相変わらず表情は無いけれど整った顔が、僅かに傾いだ。
『琴巳の考えは？』
え、と言う形に口を開いた琴巳に、全員の視線が集まった。公士が、きょとんとした顔をこちらに向けた。
『姉ちゃん、嫌なの？』
『ううん』
ふるふるっと琴巳は首を振った。
『わーい、って言うタイミングを、外しちゃっただけなの』
わたしは構いません、と母が言った時点で、琴巳の内では決着がついていた。��那が周りをきちんと見る人だという事を、忘れていた。琴巳の意見もきちんと聞いてくれる人だという事も。
違う人みたいだったから……
「暗いから足元気をつけな」
低い声に、ぼんやりしていた琴巳はびくっとして足を止めた。いつの間にやら、庭の端の階段口に来ていた。
弱い月の光に照らされ、白いＴシャツが階段を降りて行く。
「お、お兄ちゃん……？」
少年は、振り返った。何段か降りていた所為で、目線が合う。
「何？」
理由も無く呼んでしまったので、琴巳は戸惑った。うつむく。
間の生まれた２人の合間を、さ……と風が吹いた。
うつむいた視界に片手が入って来て、琴巳は目を上げた。深い色合いの双眸が、真っ直ぐ見ていた。
「おいで」
やんわりとした声音に誘われ、琴巳は手を重ねた。軽く握られる。
「もう片方の手を手摺にかけておけば、大丈夫だから」
「……うん」
琴巳は言われた通りにした。��那は琴巳の手を引いて、段を降り始める。
潮の香に慣れた鼻が、別の匂いを捉えた。陽の光を含んだ布団から薫るような、いい匂いが風に乗って届いて来る。
お兄ちゃんの匂い――
やっぱりこの人は、優しくて頼り甲斐があって物知りで綺麗な、琴巳の兄だ。
やっぱり、わたしの知ってる人だ。
琴巳は安心して、少年のひんやりした手を握り直した。ペンを持っているところなどを見るとしなやかそうだったけれど、実際には骨太い感触だ。
「琴巳、去年花火をした時は、１人で降りれなかったっけ」
「えっ」
急に質され、琴巳は慌てた。
「えと、えっと、とっ、年とった、から」
くっ、とこもった笑い声が起こった。横に広くなった気のする肩が、小刻みに震えている。かあっと琴巳は顔が熱くなった。
「あの、あの、お兄ちゃんは、今年は花火なんかやっててもいいの？」
あぁ、と笑みを含んだ低声が美しく響いた。
「下宿を認めてもらえたから、必ず合格する」
兄は気安くホラを吹くタイプではないから、琴巳は信じることにした。
バッグの中から当面必要な筆記用具などを出し終え、琴巳は一息ついた。
微かな足音が近づき、琴巳ちゃん？ と窺うように祖母の声が呼んだ。
「花火しないの？ 今日は疲れちゃってる？ 電車にたくさん乗ったものね。先にお風呂に入ってお休みした方がいいかしら」
「ううん、花火したい」
琴巳は急いで立ち上がった。部屋を出て祖母に並ぶ。
「あぁあ。せっかく今年の登校日は早かったのに�狃�の子の日�瓩覆鵑�始まっちゃうから、８月半分過ぎちゃった」
「ふふっ、そうねぇ」
「損しちゃった気分」
階段を降りながら琴巳がぼやくと、あら、と祖母は目を丸めて見せた。
「そうでもないんじゃない？ コウ君がお姉ちゃんをとっても大事に思ってくれてるって、解ったでしょ。こういうコトって、近過ぎる所為で、こんな機会でも無いと、なかなか気づけないものよ？」
「――そっか」
琴巳は両手を合わせた。えくぼが浮かぶ。「お祖母ちゃんにも見せたかったナ。駅前で、コウったら、ちっちゃい子みたいにしがみついて来たんだよー」
２階も１階も静かだ。男性陣は既に外らしい。祖母のくすくす笑う声が、廊下に柔らかく響いた。
「お姉ちゃんを見て、ほっとしたのね。コウ君、ずっと元気無かったのよ」
「あの子、もう随分、わたしが助けなくても色々できるのに」
「でも、まだ９歳になったばかりだもの」
祖母は、玄関内の電気を点けた。
「琴巳ちゃんが来るまで、いっつも��那君にくっついてたわ。心配なのを我慢してたのね」
「え、そうなの？」
靴に足を入れつつ、琴巳は口をすぼめた。
「お兄ちゃん、受験生なのに。邪魔だったんじゃないかな」
「��那君は、お勉強の仕方が上手だから。ちゃんと時間を見つけてやってるわ。気にしなくても平気よ？」
「……そうなら、いいけど……」
琴巳は、上がり口で立ち止まっている祖母を見上げた。
「行かないの？」
「ふふ。新発明のデザート作っておくから、楽しんでらっしゃい」
その作り方を教わる方が花火より楽しそうだと、ふと過る。口にしようとすると、祖母が先に言葉を継いだ。
「あ、ほら、噂した所為かしら。��那君だわ。迎えに来てくれたのね」
玄関のすり硝子の向こうに、丈高い姿が見えた。ゆったりした動作で、横開きの戸に手をかける。からから、と軽い音と共に、戸が開いた。祖母の言う通りの人物が顔を見せる。
「早く始めよう、って、公士が言ってる」
適度なバリトンの低音が、頭上から降ってきた。いってらっしゃい、と祖母が手を振って、琴巳はぎごちなく頷いた。
少年は、ついと踵を返し、歩き出す。歳は少年でも、見かけは大人だ。琴巳は後ろを歩きながら、何�僂砲覆辰燭鵑世蹐Α△版愧罎鮓�つめた。暗闇に浮かび上がった真っ白なＴシャツが、やけに大きく見える。
声が変わってしまった時は、変わっていく間、一緒に過ごしていたので、それほど驚きは感じなかった。たまに、遠くから呼ばれて、変わったんだった、と認識するぐらいだった。
それが、今年のこの、急激な背の変わりようは、はっきり言って驚異的である。
わたし、去年より５�僂眇�びたんだけどな。
初めて会った一昨年、��那少年の身長は、１４７�僂△辰振很Δ茲蠅曚鵑両�し高い程度だった。並んで横を向けば、綺麗な横顔があった。それが去年の夏、身長が伸びたと弟が嬉しそうに話題にした時、お兄ちゃんは？ と尋ねられ、１６０、と彼は答えた。琴巳は１５０�僂砲覆辰討い燭�、並んだ時に先ず襟元が目に入るようになっていたので、どうりで、と思ったのだ。
今年、前を行く��那の、背中が琴巳の目の高さにある。向かい合っても、胸元しか見えないだろう。去年からの担任の先生と同じぐらいだ。
前を歩いている人が誰か、知っているのに、知らないように思えた。
賢いのは知っていたけれど、水晶高校に行けるくらい頭がいいなんて、知らなかった。
小学校１年生の時、集団登校の班長をしていた６年生の�爐�姉さん�瓩�、今、水晶高校の２年生だ。合格した時、彼女の母親は大層喜んでいた。どうしても水高に入れたくて中１の頃から進学塾に行かせていたとか、塾から帰っても何時間も猛勉強させたとか、隣家の小母さんに説明していた。あんまり声高に話すので、家の中で夕飯の支度をしていた琴巳も一部始終聞いてしまった。
近所の高校がそんなに有名な学校だったとは、その時まで知らなかった。県内で１、２を争う頭のいい人が集まる事。自由な校風の中で個性溢れる人が何人も卒業し、社会で活躍している事。そんな事々もその時知った。
��那は、来年そこを受験すると言う。今日の昼食時に、祖父母がそう打ち明けた。夏休み前の模擬試験で合格率が９８％と出たそうだ。担任の先生もこれは狙うべきだと言ってくれたので、第１志望は水晶高校に決めたらしい。
母も水高の噂を知っていたようで、��那の成績にびっくりしていた。９８％なら先生の仰る通りです、と感心した口振りで言った。それから、水晶は家のすぐ近くなんですよ、と教えた。
『歩きで１０分もかからないです。チャイムの音が聞こえてきますもの』
母は言ってから、あ、と天ぷら蕎麦の脇に箸を置いた。
『お話って、それですね？』
そうなんだ、と応じて、祖父が母同様に箸を置いた。
『高校の３年間、��那を千鶴子さんの家に寄せてもらえないだろうか』
『この子達が頷けば、わたしは構いません。わたしが何もお世話できない事は御承知の上で仰っておられると思いますし』
母はさらりと言い、こちらを見た。
『やったっ！』
隣で、公士が顔を輝かせて身を乗り出した。
『オレ達の部屋、半分あげる！』
母が慌ててフォローした。
『部屋は、１階に８畳の空き部屋があります』
『まぁ、そんな広いお部屋が？』
祖母が問うと、母は頷いた。
『書斎って名目で作ったんですけど、殆ど使わず終いで』
父が落ち着いて本を読む為に防音にした部屋だ。母は目を細めた。
『是非、今度お出で下さい。他でもない雅士サンが建てた家ですし』
ありがとう、と祖父母はしみじみした口調で応じた。
��那は、物静かな眼差しを２人に向けていたが、つと、こちらを見た。琴巳は、どきりとして肩をすくめた。
少年は、声や身長が変わってしまったけれど、顔は別段変わり無い。相変わらず表情は無いけれど整った顔が、僅かに傾いだ。
『琴巳の考えは？』
え、と言う形に口を開いた琴巳に、全員の視線が集まった。公士が、きょとんとした顔をこちらに向けた。
『姉ちゃん、嫌なの？』
『ううん』
ふるふるっと琴巳は首を振った。
『わーい、って言うタイミングを、外しちゃっただけなの』
わたしは構いません、と母が言った時点で、琴巳の内では決着がついていた。��那が周りをきちんと見る人だという事を、忘れていた。琴巳の意見もきちんと聞いてくれる人だという事も。
違う人みたいだったから……
「暗いから足元気をつけな」
低い声に、ぼんやりしていた琴巳はびくっとして足を止めた。いつの間にやら、庭の端の階段口に来ていた。
弱い月の光に照らされ、白いＴシャツが階段を降りて行く。
「お、お兄ちゃん……？」
少年は、振り返った。何段か降りていた所為で、目線が合う。
「何？」
理由も無く呼んでしまったので、琴巳は戸惑った。うつむく。
間の生まれた２人の合間を、さ……と風が吹いた。
うつむいた視界に片手が入って来て、琴巳は目を上げた。深い色合いの双眸が、真っ直ぐ見ていた。
「おいで」
やんわりとした声音に誘われ、琴巳は手を重ねた。軽く握られる。
「もう片方の手を手摺にかけておけば、大丈夫だから」
「……うん」
琴巳は言われた通りにした。��那は琴巳の手を引いて、段を降り始める。
潮の香に慣れた鼻が、別の匂いを捉えた。陽の光を含んだ布団から薫るような、いい匂いが風に乗って届いて来る。
お兄ちゃんの匂い――
やっぱりこの人は、優しくて頼り甲斐があって物知りで綺麗な、琴巳の兄だ。
やっぱり、わたしの知ってる人だ。
琴巳は安心して、少年のひんやりした手を握り直した。ペンを持っているところなどを見るとしなやかそうだったけれど、実際には骨太い感触だ。
「琴巳、去年花火をした時は、１人で降りれなかったっけ」
「えっ」
急に質され、琴巳は慌てた。
「えと、えっと、とっ、年とった、から」
くっ、とこもった笑い声が起こった。横に広くなった気のする肩が、小刻みに震えている。かあっと琴巳は顔が熱くなった。
「あの、あの、お兄ちゃんは、今年は花火なんかやっててもいいの？」
あぁ、と笑みを含んだ低声が美しく響いた。
「下宿を認めてもらえたから、必ず合格する」
兄は気安くホラを吹くタイプではないから、琴巳は信じることにした。
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