空襲警報はもう止んだようだった。
普段からあまり気にも留めていないせいか、いつ鳴り終わったのか、もう通常に戻していいのかどうか、
そのときのハジにはちょっと判別できなかった。
どうせサイレンがあろうが無かろうがしょっちゅう砲弾が飛んでくるのだ。
警報など無意味なことこの上ない。
ハジは足早に運河を抜け、アパートへと急いだ。
コートの下には、ようやく買えたパンとジャガイモ、そして今日は幸運にもベーコンまで手に入れることが出来た。
ハジの足は知らずに家へと急いていた。
……ここ数日、ちゃんとした食事を作ってやれなかった。
ソ連の侵攻が間近に迫る今、ベルリンの食糧事情は悪化の一途をたどっている。
生活必需品はとっくに配給制で、その筆頭のパンでさえ手に入れるのが難しくなってきた。
ましてや、食料以外の「血液」など、手に入れられるはずもない。ハジは小さく、ため息をつく。
血は自分のものを一昨日、口移しで飲ませた。
「彼」は嫌がっていたが、次にいつ「赤い盾」から補給を受け取れるかわからない今現在の状況では、
「彼」に栄養を摂らせるためには手段を選んではいられない。
懐の中のちっぽけな食べ物を見下ろす。こんなものでは……とても足りはしない。
またなんとか説き伏せて、血を飲んでもらわなければーーー「彼」は顔を……
可愛らしいその眉を、思い切りしかめるのだろうけど。ハジは辺りに注意しつつ、古ぼけたレンガ造りの
アパートに入ってゆく。
5階建てのアパートの5階。ハジは2足飛びに階段を駆け上った。息も切らせず、すばやく周りを見回す。
誰も見ていないことを確かめ、ハジは扉を開けた。
「……ただ今戻りました」
ようやく、慣れ親しんだフランス語で話せる。
ドイツ語も、母国語とほぼ同じに話せるがハジは「彼」とふたりきりの時は必ずフランス語を使った。
少し鼻にかかる、甘い響きでその名を呼ぶ。
「サヤ?……どちらです?」
動物園の頃のように。
部屋の中を見回したーーー「彼」は、どこにいる?
気配はあるのにーーー奥の、寝室のドアを開けハジは息を呑んだ。
窓辺に「彼」はいた。 なんと、半裸で。
白いシャツを肩に羽織り、無造作に前を寛げて、窓辺に腰掛けて外を見ていた。
ーーーボタンをひとつも留めていないので胸の膨らみどころか両方の乳首まで丸見えだ。
可愛い臍(へそ)も、足もーーー下穿きひとつ着けただけで太腿からすんなりと伸びた足首まで、
堂々とさらけ出している。
「……サヤ」
つかつかと窓辺に歩み寄ったハジは、やや乱暴に窓を下ろし、カーテンを閉めた。
まさかこんな格好でこの窓辺に座っていたのだろうか。
カーテンの隙間から外をちらりと覗く。向かいのアパート、屋根……階下の道……誰にも見られてはいない
ようだ。
ほっと安堵し、ハジはサヤに向かって言った。
「ーーーそんな格好で……。いけません、サヤ」やんわりと窘める。
サヤは窓枠に腰掛けたまま、不思議そうにハジを見上げた。
「なぜ?」
本当に、なぜいけないのかわかっていないようだ。不服そうにぷっくりと色づいた唇を尖らせる。
「外から見えてしまいます」
「いいじゃないか見えたって。女じゃあるまいし」
サヤは魅惑的すぎる肢体を露にしたまま、ぶらぶらと室内を歩き始めた。
美しい鎖骨から乳房へのラインに、目が吸い寄せられる。
ーーーーサヤ……。
やはり……とハジは胸塞がれる想いを心の奥に押し込めた。
サヤは自分のことを男だと思っている。少年だと思っている。
はた目から見たらサヤは髪は短いものの、その愛らしい顔もその身体も、どこをどう見ても
少女そのものだ。
細く華奢なうなじや薄く小さな肩ーーーそして、慎ましくはあるけれどきちんと存在する、形のよい胸も。
あの乳房も、自分の身体なのにサヤには見えていないのだ。
膨らみも何も無い、少年の身体のように彼女の目には映っている。
背が低いのが悩みだとこぼし、これからもっと伸びて、”男”になってゆくのだと、自分は男だとーーー
本当に信じているのだ。
これは一体どういうことかーーーサヤが覚醒してこの事実に行き当たった時、「赤い盾」はさまざまな
考察、仮説を言い合った。
ーーー翼手の女王は生まれたときは雌でもいずれ雄へと変わるのではないか。
ーーー目覚めたときの社会情勢によって生存に有利な方に”擬態”し、記憶すらも作り変えるのではないか
……等々。いずれも答えなど出るわけがない。
だがハジはこの前の覚醒期ーーー革命前のロシアで過ごしたときだーーーのことを、思い出していた。
思えば前兆はあの時からあったのだ。
目覚めてすぐに、いきなり髪を切ったサヤ。それも男の子のようにものすごく、短く。
そしてズボンを穿き、少年のような、少女のような中性的な格好に身を包んだ。
ロシアでのサヤの想い出が脳裏をよぎる。ドレスを脱ぎ捨て雪原を駆けるサヤ。露になった細い襟足、
思いつめた横顔……。
あの頃はーーー今世紀に入って間もなかったあの頃はーーー今よりももっと、ずっと、髪を切る
婦人などいなかった。ズボンを穿く女性は好奇の目で見られた。
時にはからかわれたり、道行く人々に注意を受けたりした。
男装する女性に、あの頃の社会は(今もそうだが)まったく寛容ではなかったのだ。
その中でひとり、男の子のように外見を変え始めたサヤに、ハジはかなり途惑った事を憶えている。
髪を切ったサヤになぜかと問うた時、サヤは言った。
「だって……もう必要ないものだし」
戦いに身を投じ、ディーヴァを追い続ける日々に、長い髪やドレスは邪魔だということだろうか――
あの時はそう思った。そうさして深くは考えなかった。
あの頃はまだ、髪を切りズボンを穿いてもサヤは自身を女性だとちゃんと認識していたし、
言葉や仕草だって元の、少女らしいサヤだったのだから。
だが今では……。服装どころか心までもすっかり男だと信じるまでになってしまったサヤを見て、
ハジはたまらなく切なく、胸の奥が槍で突かれたように痛むのだった。
――サヤ……。あなたは……
サヤはカーテンを少し開け、(ようやくきちんと服を着てくれた)ぽつりと呟いた。
窓の外、道行く人々を見つめながら。
「……ずいぶん変わったんだな」
ハジに手渡されたコーヒーを受け取り、両手でふうふうと冷ましている。
そんな仕草は本当に可愛らしく、少女そのものなのに――サヤはとたんに鋭く視線を上げ、世を
すねた不良少年のように乱暴にあとの言葉を続けた。
「女たち、服装がずいぶん変わっちまったな」
「……どこがですか?」
少し用心深くハジは尋ねる。サヤの記憶は覚醒してまもなくはいつものことだが、まだら模様にあいまいだ。
憶えていることと、憶えていない事がジグソーパズルのように少しずつはまっては、また散らばり、そのくり返しに
サヤ自身が途惑っているようだった。
「スカートが短くなった」
「……」
ハジも階下の外を眺める。数人の女たちが足早に道を歩く姿が見えた。
「あんな……膝が見えそうな位まで短くなって――はしたないよ。女たちはあれで平気なのか?」
「……そうですね」
女性のファッションのことはよくわからないが、そう言われてみればサヤの眠っている間に、女たちの
スカート丈はずいぶん短くなったといえる。これも婦人の社会進出の象徴なのだろう。
サヤはさらに言う。女性たちの服装などが変わったことを、あれこれと。
髪が短い。結ってもいない。煙草を吸っている。それに――サヤは言い淀んだ。
「…コルセットは?つけていないのか?」
翼手の優れた視力で、街行く女たちのドレスの下に、かつては自分もそれを着け窮屈さの最たるものだった
コルセットが、もはや誰も着けてはいないことにサヤは気付いたようだった。
「……」
ハジは何と言ってよいやらわからない。
今の女はみんなそうなのかと問われ、よくわからないと正直に答える。おそらく女性たちがコルセットを
つけなくなったのはずいぶん前だったと思うが……この間ロシアで目覚めたときにはすでにそうだったはずだが
……サヤも記憶が混乱しているのだろうか。
そうだ、動物園の頃のサヤはそういったものを日常的に当然のものとして着けていたのだ。
ディーヴァを追う流浪の旅のなかで世は移り変わり、女たちの地位も向上し、彼女たちは己をきつく
縛り付けていた前世紀の拘束具をとっくに捨て去った。
そして、短くなり動きやすくなったスカートの裾をひるがえし軽やかに街を歩いている。
ふんとサヤは鼻を鳴らして笑った。
「無くなって結構なことだよ。そう思うだろうハジ?」
サヤは屈託なく笑って言う。
「あんな窮屈なもんはなかったからな。息ができないんだぜ、信じられるか?ぎゅうぎゅう締め上げられて、
本当に息が止まるかと思っ――」
言葉が止まった。
――サヤ。
サヤは一瞬呆然とし、気の抜けたようにふふ、と笑って呟いた。
「……なんで僕がそんなこと知ってるんだ……そんなわけない。コルセットなんて……触ったこともない
はずなのにな。はは、は……おかしいな」
いいえ。
ハジは痛ましげにサヤを見つめ、心の中で言った。
あなたはそれを身に着けていた。
コルセットなんて嫌いとこぼしながら――それでも、花柄やサテン地の綺麗なデザインのものを好み、
あなたの腰の細さでは不要だろうと思いながらも、あなたがそれを着けるのを手伝ったのは私です――
サヤは記憶を手繰るように眉を寄せ、不安そうな顔でハジを見た。
サヤの黒い瞳に、一瞬昏い影が走る。ハジは思う。
サヤの記憶の中では、これまでの道行きーーー動物園でのこと、そしてそこを出奔しひたすらディーヴァを
追って追跡と休眠を繰り返してきた今までの思い出はーーーいったい、どういう風に記憶を組み立てているのだろう。
何より、サヤにとって自分とは……どういう存在ーーーー
聞けなかった。
サヤの答えを聞くことが何より怖ろしく、ハジは強引に疑問の何もかもを放り投げた。
サヤが小声でぽつりと呟く。
「今日…これから…?」
「……ええ。もう、来るはずです」
”赤い盾”との久方ぶりの接触だった。
2
ノックの音が連続6回鳴った。
いちいち覗き窓から見なくても、ハジにはそれがもう”赤い盾”のメンバー、デヴィッドーーーこのベルリンの地では
グスタフだかハンスだったか、偽名を使っているようだったがーーーだと気配でわかっている。
いきなりドアを開けると、「確かめないのか?」と戦時下らしい小言とともに、男が二人、部屋に入ってきた。
”赤い盾”の『サヤ担当』デヴィッドと、ルイスだった。
彼らはまず固い表情でサヤに目を走らせた。意味深な目つきでじっとサヤを見つめる。
その目は、仲間の無事を確認するような優しいものではなかった。まるで、未知の未開人か異教徒でも見るような
不躾な、そして嫌悪を隠しもしない視線だった。必要だから仕方なく『飼って』やる。だが言うとおりにしなかったら……
ふたりの目はそうサヤに告げていた。
サヤはその目を気にする風でもなく(気づいていないのかもしれない)カーテンの隙間から外を見ている。
ハジはさっさとデヴィッドから食料を受け取り、遠慮なく「これだけですか」と言ってやった。
ルイスは顔をしかめて
「これだけ手に入れるのも苦労したんだぞ」とぼそぼそと言う。
何を言う。ハジは心の中で毒づいた。
ドイツ側と連合国側、どちらとも通じ様々なルートから金や物資や食料を手に入れている癖に。
じろりと冷たく見下ろすとルイスは「おお怖」と肩をすくめた。
この時代の”赤い盾”とはあまりうまくいっていなかった。
時代のせいか、彼らはやたら攻撃的でサヤに対する態度も無礼極まりなく、それは末端の構成員どころか
現長官4代目ジョエル・ゴルトシュミットでさえもがそうだった。
『兵器』
彼らがサヤのことを影でこう言い始めたのもこの時代だ。
長官自らが人前でも平気でそう呼び捨てていた。ハジはそれを最初に耳に挟んだ折の、湧き上がる
ような怒りを今でも覚えている。
サヤは……人間のためにこそ、身を捨てて運命に立ち向かっているのに。
ハジは冷淡に目線でのみ「それで?」と話を促した。
「……手筈どおり準備ができた」
デヴィッドは顎でルイスに続きを言え、と命じた。ちらり、とサヤに目をやり、すぐに逸らす。
「ええと、どこだったかな」
ルイスはメモらしきしわくちゃの紙片をポケットから出してのんびり言った。
「……うーん、日本の言葉はなんて発音するかわかんねえな…ええと、『ビゼンマサムネ・ダイショウヒトソロイ』
なんの品だこりゃ?」
「それがサヤの武器だ。日本の刀の名だそうだ」
そう言って、デヴィッドはようやくまともにサヤに向かった。そして早口で言った。
「…総統の誕生祝に日本から贈られる予定の刀だ。総統大本営に持ち込まれる」
「……」
「ほかの武器はいっさい持ち込めない。厳重なボディチェックがなされるーーーだが、この2本の刀だけは
別だ。同盟国からの特別な贈り物だからな。必ず総統本人まで運ばれる」
「……」
「総統のすぐ近くにいる者の、そばまでな」
サヤがきっ、とつよい目でデヴィッドを見た。
「日本の大使館員の一人と話はついている。お前はその男のむすめ…息子として総統の誕生パーティーに
行くんだ」
日本人として。
それは今に始まった詐称ではなかった。今のドイツ国内では、ユダヤ人どころかチャイナ含む有色人のほとんど
全てが国外追放、迫害の対象だ。例外は、同盟国である日本人。東洋系の色濃いサヤの容貌では、日本人のふりを
するしか安全に過ごせる方法はないーーーどこから手に入れたのか、ベルリンに入る早々ハジとサヤには偽の
身分証明書が手渡されていた。
サヤは日本大使館員の家族としてのパスポート。ハジはその職員としての。精巧に偽造された、手の掛かったそれに
ハジは”赤い盾”の意外な政治力を見る。
「パーティーに潜り込み、総統の個人的なエリアを探せ。そこにーーーディーヴァがいるはずだ」
「……」
「サヤ、その刀を使え」
デヴィッドはそう早口で言うと、すっ、とサヤから視線を逸らせた。罪悪感だろうか、どうやら彼はわずかばかりは
サヤだけにやらせることにすまないと思っているようだった。
まるで緊張感のないルイスがまだメモを見ながら首を捻った。
「刀とそれと……『カケジク』??なんだこりゃ?」
「よくは知らんが、なんでもくるくる巻いた絵のようなものだそうだ。刀と一緒に贈られる品じゃないか?」」
「日本……」
ふいに、サヤが呟いた。
ハジは黙ったままサヤを凝視した。
サヤはふらふらと窓辺から立ち上がり、ぶつぶつと小さく何度も呟いた。
「日本……に、ほ、ん」
ハジは胸騒ぎがしてサヤにかけ寄る。肩に手を置くと、はっきりとサヤの言葉が聞こえた。
「遠い……く、に……日本……聞いたことがある。そう…そうだ…」
「サヤ」
サヤは夢見るようにハジを見た。琥珀色の、優しい色の瞳にはハジは映っておらず、その唇は
何度も同じひとの名前を繰り返していた。
「そう……行きたいっていってたわよね……ジョエルーーーおとうさま」
3
ーーーまあ、ジョエル。ジャポンってこんなに遠いのね。インドよりもチャイナよりも
向こうなのね
ーーーそうだよ、サヤ。だがジャポンからの磁器や漆器はうちにもあるよ。はるばる船で運んで
きたものだよ。今度見せてあげよう。
ーーー行ってみたいわ。船に乗って。世界の果てのニホンにだって。ねえ、行けるわよね
ジョエル?私の病気が治ったら、連れて行ってくれるわよね?
ーーー……ああ、サヤ。連れて行ってあげるよ
ーーーハジも一緒よ?約束よ?ね、ジョエル
ーーー約束よ……約束よ……約束よ……
「サヤ」
ハジの心配そうな声で、ようやく目を開けた。
「……ハ…ジ」
「大丈夫ですか?」
サヤは反射的に頷いた。どうやらめまいを起こしたらしい。
サヤは殺風景なアパートを見回した。見ると、客人はもう帰ったあとのようだった。
遠くで空襲警報が鳴っている。
彼らは帰ったのか……サヤはハジに唇だけで水、と言った。
「…はい」
従者は黙ってキッチンに向かった。サヤはふう、と何度も深呼吸する。
頭に中でぐるぐると過去の記憶と現在が交互に回っていた。
いつもこうだ。遠い記憶のかけらはいつも不安定で、すぐに砕けて散らばってしまう。
今しがた思い出しかけた過去の情景を考えた。
(あれは……いつのことだった?)
(そう、『動物園』の時のことだ)
脳の中の、スクリーンにサヤの意思によらずに次々と映像が浮かび上がってくる。
ジョエルとの会話。彼の書斎に入った時だ。そう、地球儀をきまぐれに回し、世界の国のことを
語り合った。
サヤは眉を寄せた。幸せな思い出のはず。なのに何か違和感があった。ジョエルと話す
自分の姿。どこかおかしい。サヤは何がおかしいのかゆっくりと考える。
あの思い出の中で自分は。
袖を飾る白いレースの縁取り。
かろやかな衣擦れの音。
視界に写る自分の服は……そう、鮮やかな薔薇色の、絹のドレスだった。
若い娘が身につけるような、明るい、華やかなドレス……
ーーーそんなはずはない!
なぜだ。
(ーーーなぜあの感じを身体が覚えている?)
(きつくコルセットの紐で胴回りを締め付けたあの窮屈さ。足下にまとわりつく
スカートの布の重さ。どうしてそんなことがわかる?僕は男の子のはずなのに!)
(ーーー髪も……そうだ、この髪も)
自分の頭に手をやった。耳の上まで、短く切りそろえた髪。
その瞬間、悲しげなハジの顏が脳裏に甦った。
いつだったろう?確か……そう、ロシアで目覚めたときだ。
ジョキジョキと髪を乱雑に切った時、ハジはとてもとても悲しそうな顏でサヤを見たのだ。
「勿体ない……」と惜しむように。
かれは言った。
「こんな切らなくても……◯◯◯なのに……」
ハジは何と言った?
あのとき……確か……
「サヤ」
呼ばれて、顏を上げるとハジの手があった。
グラスに入った水。そしてこれはいつもの、サヤを案じるハジの目。大丈夫ですかの声まで
聞こえそうな目。
「……大丈夫だ」
独り言のようにそう言った。平気な顔でグラスを掴み、一気に喉に流し込んだ。
水が唇の端からこぼれるのも構わず、ごくごくと飲む。ぐいと濡れた喉元を乱暴に拭った。
ハジの視線を感じた。
「……なんだ、ハジ」
ほんのわずか、たしなめるような顏を一瞬見せる従者に聞く。
「何か言いたいことでもあるのか」
「……いえ」
こんな風に、わざと粗野にふるまうたびに、ハジが内心それを悲しく、残念に思っていることに
サヤは気付いていた。
なぜそんな顏をする?これくらいの無作法、男なら当たり前じゃないか。
立ち上がってバスルームに入った。白い陶器のバスタブに腰掛け、鏡に向かう。
曇った鏡の中には、不揃いの前髪と、細い首、不機嫌に眉をしかめたやせっぽちの
少年がいた。
……少し顔色が悪いのは、めまいを起こしたせいだ。じきに治る。すぐに。
シャツを思い切って脱いでみた。ちょうどサヤの腰の位置までの高さの鏡。自分の裸体を映してみた。
サヤは右手で、鏡の曇りを拭った。ごしごしと何度拭いても、そこに映る、華奢で貧相な身体は
変わりはしなかった。
ためらいがちに首に手をやる。鎖骨。肩、腕とゆっくり自分の身体に触れてゆく。
胸元まで来た時、手がぴたりと止まった。
鏡の中には、あばらの浮いた痩せた身体。
ーーーだがどこかがおかしかった。
胸の中心が、何かぼやけている。自分の目では見えない。
ーーー見えない?
自分の中の、何ものかが叫んだ。
ーーー嘘をつけ。見えないんじゃなくて、見たくないだけだろう。
知らずに叫び声が迸っていた。
「……ハジ!ハジ――!!」
ばん、と勢い良くドアが開け放たれた。
疾風のように一瞬ののち、見慣れた従者がしっかりとサヤを支えた。
「サヤ」
サヤの身体をすっぽりとその腕で包む。サヤは叫んだ。
「ハジ!おかしいんだ……!僕、目が、どうかしてるんだ」
「目が?どうしたのです?」
「身体がよく見えない……ぼやけてるんだ。こんなのっておかしいよ。背も伸びないし、
声も高いままだ。ハジ、僕はどこか悪いのか?こんなのってーーーこんなのって」
「……サヤ」
「ハジ、見て。僕の身体。……どうなってる?」
ハジの声が怯んだ。サヤ、と硬い声でサヤを呼ぶ。
「ちゃんと見て。どこか変か?なあ、ハジ」
サヤはハジの目の前で両手を広げ、堂々と裸体をさらした。
「よく見えないんだ。……ハジ」
「……サ、ヤ……」
「僕は男だろう?そう言ってくれ。この胸には、おかしいものなど何もないだろう?」
サヤは震える声でそう口走り、同時にハジの手を取った。
「!ーーーサヤ…!」
ハジの手を、そこにある乳房を掴ませた。
「何もない、よな?なあハジ…?」
「……」
サヤはハジの肩にすがりついた。
何かが自分の中で狂っていた。それが何なのか、多分私はわかってる。
……私?ーーー僕、だろう?
自我すらも揺らいでいた。
だがサヤは見えぬ何かに叱咤されたように、ふっと意識を立て直した。
心の中の誰かが言う。
ーーーこんなことに揺らいでいちゃ、いけないはず。
ーーーもっと大切なことがあったはず。
ーーーたった一つの、大切な、目的が。
ーーーそのためにすべてを棄てた、はずだろう。
ーーー……という、性さえ。
「……ごめん、ハジ」
「サヤ」
ハジが何かを言い出す手前で、サヤはまた元の『少年』になった。
頭を振り、一息ついて、そして生き急いでいるような焦りの含んだ目を、ハジに向ける。
「……どうかしていたよ。悪かったな、ハジ」
「……いえ」
ハジは言葉少なに答え、サヤの肩にシャツを着せかけた。
「大丈夫ですか……?サヤ」
「うん。もう何ともないよ」
ハジの指が慎重に動いた。丁寧にシャツのボタンを留めてゆく。
もう一度ハジはサヤに聞いた。
「……サヤ、大丈夫ですか」
その声はかすかに震えていた。そして、指も。
普段からあまり気にも留めていないせいか、いつ鳴り終わったのか、もう通常に戻していいのかどうか、
そのときのハジにはちょっと判別できなかった。
どうせサイレンがあろうが無かろうがしょっちゅう砲弾が飛んでくるのだ。
警報など無意味なことこの上ない。
ハジは足早に運河を抜け、アパートへと急いだ。
コートの下には、ようやく買えたパンとジャガイモ、そして今日は幸運にもベーコンまで手に入れることが出来た。
ハジの足は知らずに家へと急いていた。
……ここ数日、ちゃんとした食事を作ってやれなかった。
ソ連の侵攻が間近に迫る今、ベルリンの食糧事情は悪化の一途をたどっている。
生活必需品はとっくに配給制で、その筆頭のパンでさえ手に入れるのが難しくなってきた。
ましてや、食料以外の「血液」など、手に入れられるはずもない。ハジは小さく、ため息をつく。
血は自分のものを一昨日、口移しで飲ませた。
「彼」は嫌がっていたが、次にいつ「赤い盾」から補給を受け取れるかわからない今現在の状況では、
「彼」に栄養を摂らせるためには手段を選んではいられない。
懐の中のちっぽけな食べ物を見下ろす。こんなものでは……とても足りはしない。
またなんとか説き伏せて、血を飲んでもらわなければーーー「彼」は顔を……
可愛らしいその眉を、思い切りしかめるのだろうけど。ハジは辺りに注意しつつ、古ぼけたレンガ造りの
アパートに入ってゆく。
5階建てのアパートの5階。ハジは2足飛びに階段を駆け上った。息も切らせず、すばやく周りを見回す。
誰も見ていないことを確かめ、ハジは扉を開けた。
「……ただ今戻りました」
ようやく、慣れ親しんだフランス語で話せる。
ドイツ語も、母国語とほぼ同じに話せるがハジは「彼」とふたりきりの時は必ずフランス語を使った。
少し鼻にかかる、甘い響きでその名を呼ぶ。
「サヤ?……どちらです?」
動物園の頃のように。
部屋の中を見回したーーー「彼」は、どこにいる?
気配はあるのにーーー奥の、寝室のドアを開けハジは息を呑んだ。
窓辺に「彼」はいた。 なんと、半裸で。
白いシャツを肩に羽織り、無造作に前を寛げて、窓辺に腰掛けて外を見ていた。
ーーーボタンをひとつも留めていないので胸の膨らみどころか両方の乳首まで丸見えだ。
可愛い臍(へそ)も、足もーーー下穿きひとつ着けただけで太腿からすんなりと伸びた足首まで、
堂々とさらけ出している。
「……サヤ」
つかつかと窓辺に歩み寄ったハジは、やや乱暴に窓を下ろし、カーテンを閉めた。
まさかこんな格好でこの窓辺に座っていたのだろうか。
カーテンの隙間から外をちらりと覗く。向かいのアパート、屋根……階下の道……誰にも見られてはいない
ようだ。
ほっと安堵し、ハジはサヤに向かって言った。
「ーーーそんな格好で……。いけません、サヤ」やんわりと窘める。
サヤは窓枠に腰掛けたまま、不思議そうにハジを見上げた。
「なぜ?」
本当に、なぜいけないのかわかっていないようだ。不服そうにぷっくりと色づいた唇を尖らせる。
「外から見えてしまいます」
「いいじゃないか見えたって。女じゃあるまいし」
サヤは魅惑的すぎる肢体を露にしたまま、ぶらぶらと室内を歩き始めた。
美しい鎖骨から乳房へのラインに、目が吸い寄せられる。
ーーーーサヤ……。
やはり……とハジは胸塞がれる想いを心の奥に押し込めた。
サヤは自分のことを男だと思っている。少年だと思っている。
はた目から見たらサヤは髪は短いものの、その愛らしい顔もその身体も、どこをどう見ても
少女そのものだ。
細く華奢なうなじや薄く小さな肩ーーーそして、慎ましくはあるけれどきちんと存在する、形のよい胸も。
あの乳房も、自分の身体なのにサヤには見えていないのだ。
膨らみも何も無い、少年の身体のように彼女の目には映っている。
背が低いのが悩みだとこぼし、これからもっと伸びて、”男”になってゆくのだと、自分は男だとーーー
本当に信じているのだ。
これは一体どういうことかーーーサヤが覚醒してこの事実に行き当たった時、「赤い盾」はさまざまな
考察、仮説を言い合った。
ーーー翼手の女王は生まれたときは雌でもいずれ雄へと変わるのではないか。
ーーー目覚めたときの社会情勢によって生存に有利な方に”擬態”し、記憶すらも作り変えるのではないか
……等々。いずれも答えなど出るわけがない。
だがハジはこの前の覚醒期ーーー革命前のロシアで過ごしたときだーーーのことを、思い出していた。
思えば前兆はあの時からあったのだ。
目覚めてすぐに、いきなり髪を切ったサヤ。それも男の子のようにものすごく、短く。
そしてズボンを穿き、少年のような、少女のような中性的な格好に身を包んだ。
ロシアでのサヤの想い出が脳裏をよぎる。ドレスを脱ぎ捨て雪原を駆けるサヤ。露になった細い襟足、
思いつめた横顔……。
あの頃はーーー今世紀に入って間もなかったあの頃はーーー今よりももっと、ずっと、髪を切る
婦人などいなかった。ズボンを穿く女性は好奇の目で見られた。
時にはからかわれたり、道行く人々に注意を受けたりした。
男装する女性に、あの頃の社会は(今もそうだが)まったく寛容ではなかったのだ。
その中でひとり、男の子のように外見を変え始めたサヤに、ハジはかなり途惑った事を憶えている。
髪を切ったサヤになぜかと問うた時、サヤは言った。
「だって……もう必要ないものだし」
戦いに身を投じ、ディーヴァを追い続ける日々に、長い髪やドレスは邪魔だということだろうか――
あの時はそう思った。そうさして深くは考えなかった。
あの頃はまだ、髪を切りズボンを穿いてもサヤは自身を女性だとちゃんと認識していたし、
言葉や仕草だって元の、少女らしいサヤだったのだから。
だが今では……。服装どころか心までもすっかり男だと信じるまでになってしまったサヤを見て、
ハジはたまらなく切なく、胸の奥が槍で突かれたように痛むのだった。
――サヤ……。あなたは……
サヤはカーテンを少し開け、(ようやくきちんと服を着てくれた)ぽつりと呟いた。
窓の外、道行く人々を見つめながら。
「……ずいぶん変わったんだな」
ハジに手渡されたコーヒーを受け取り、両手でふうふうと冷ましている。
そんな仕草は本当に可愛らしく、少女そのものなのに――サヤはとたんに鋭く視線を上げ、世を
すねた不良少年のように乱暴にあとの言葉を続けた。
「女たち、服装がずいぶん変わっちまったな」
「……どこがですか?」
少し用心深くハジは尋ねる。サヤの記憶は覚醒してまもなくはいつものことだが、まだら模様にあいまいだ。
憶えていることと、憶えていない事がジグソーパズルのように少しずつはまっては、また散らばり、そのくり返しに
サヤ自身が途惑っているようだった。
「スカートが短くなった」
「……」
ハジも階下の外を眺める。数人の女たちが足早に道を歩く姿が見えた。
「あんな……膝が見えそうな位まで短くなって――はしたないよ。女たちはあれで平気なのか?」
「……そうですね」
女性のファッションのことはよくわからないが、そう言われてみればサヤの眠っている間に、女たちの
スカート丈はずいぶん短くなったといえる。これも婦人の社会進出の象徴なのだろう。
サヤはさらに言う。女性たちの服装などが変わったことを、あれこれと。
髪が短い。結ってもいない。煙草を吸っている。それに――サヤは言い淀んだ。
「…コルセットは?つけていないのか?」
翼手の優れた視力で、街行く女たちのドレスの下に、かつては自分もそれを着け窮屈さの最たるものだった
コルセットが、もはや誰も着けてはいないことにサヤは気付いたようだった。
「……」
ハジは何と言ってよいやらわからない。
今の女はみんなそうなのかと問われ、よくわからないと正直に答える。おそらく女性たちがコルセットを
つけなくなったのはずいぶん前だったと思うが……この間ロシアで目覚めたときにはすでにそうだったはずだが
……サヤも記憶が混乱しているのだろうか。
そうだ、動物園の頃のサヤはそういったものを日常的に当然のものとして着けていたのだ。
ディーヴァを追う流浪の旅のなかで世は移り変わり、女たちの地位も向上し、彼女たちは己をきつく
縛り付けていた前世紀の拘束具をとっくに捨て去った。
そして、短くなり動きやすくなったスカートの裾をひるがえし軽やかに街を歩いている。
ふんとサヤは鼻を鳴らして笑った。
「無くなって結構なことだよ。そう思うだろうハジ?」
サヤは屈託なく笑って言う。
「あんな窮屈なもんはなかったからな。息ができないんだぜ、信じられるか?ぎゅうぎゅう締め上げられて、
本当に息が止まるかと思っ――」
言葉が止まった。
――サヤ。
サヤは一瞬呆然とし、気の抜けたようにふふ、と笑って呟いた。
「……なんで僕がそんなこと知ってるんだ……そんなわけない。コルセットなんて……触ったこともない
はずなのにな。はは、は……おかしいな」
いいえ。
ハジは痛ましげにサヤを見つめ、心の中で言った。
あなたはそれを身に着けていた。
コルセットなんて嫌いとこぼしながら――それでも、花柄やサテン地の綺麗なデザインのものを好み、
あなたの腰の細さでは不要だろうと思いながらも、あなたがそれを着けるのを手伝ったのは私です――
サヤは記憶を手繰るように眉を寄せ、不安そうな顔でハジを見た。
サヤの黒い瞳に、一瞬昏い影が走る。ハジは思う。
サヤの記憶の中では、これまでの道行きーーー動物園でのこと、そしてそこを出奔しひたすらディーヴァを
追って追跡と休眠を繰り返してきた今までの思い出はーーーいったい、どういう風に記憶を組み立てているのだろう。
何より、サヤにとって自分とは……どういう存在ーーーー
聞けなかった。
サヤの答えを聞くことが何より怖ろしく、ハジは強引に疑問の何もかもを放り投げた。
サヤが小声でぽつりと呟く。
「今日…これから…?」
「……ええ。もう、来るはずです」
”赤い盾”との久方ぶりの接触だった。
2
ノックの音が連続6回鳴った。
いちいち覗き窓から見なくても、ハジにはそれがもう”赤い盾”のメンバー、デヴィッドーーーこのベルリンの地では
グスタフだかハンスだったか、偽名を使っているようだったがーーーだと気配でわかっている。
いきなりドアを開けると、「確かめないのか?」と戦時下らしい小言とともに、男が二人、部屋に入ってきた。
”赤い盾”の『サヤ担当』デヴィッドと、ルイスだった。
彼らはまず固い表情でサヤに目を走らせた。意味深な目つきでじっとサヤを見つめる。
その目は、仲間の無事を確認するような優しいものではなかった。まるで、未知の未開人か異教徒でも見るような
不躾な、そして嫌悪を隠しもしない視線だった。必要だから仕方なく『飼って』やる。だが言うとおりにしなかったら……
ふたりの目はそうサヤに告げていた。
サヤはその目を気にする風でもなく(気づいていないのかもしれない)カーテンの隙間から外を見ている。
ハジはさっさとデヴィッドから食料を受け取り、遠慮なく「これだけですか」と言ってやった。
ルイスは顔をしかめて
「これだけ手に入れるのも苦労したんだぞ」とぼそぼそと言う。
何を言う。ハジは心の中で毒づいた。
ドイツ側と連合国側、どちらとも通じ様々なルートから金や物資や食料を手に入れている癖に。
じろりと冷たく見下ろすとルイスは「おお怖」と肩をすくめた。
この時代の”赤い盾”とはあまりうまくいっていなかった。
時代のせいか、彼らはやたら攻撃的でサヤに対する態度も無礼極まりなく、それは末端の構成員どころか
現長官4代目ジョエル・ゴルトシュミットでさえもがそうだった。
『兵器』
彼らがサヤのことを影でこう言い始めたのもこの時代だ。
長官自らが人前でも平気でそう呼び捨てていた。ハジはそれを最初に耳に挟んだ折の、湧き上がる
ような怒りを今でも覚えている。
サヤは……人間のためにこそ、身を捨てて運命に立ち向かっているのに。
ハジは冷淡に目線でのみ「それで?」と話を促した。
「……手筈どおり準備ができた」
デヴィッドは顎でルイスに続きを言え、と命じた。ちらり、とサヤに目をやり、すぐに逸らす。
「ええと、どこだったかな」
ルイスはメモらしきしわくちゃの紙片をポケットから出してのんびり言った。
「……うーん、日本の言葉はなんて発音するかわかんねえな…ええと、『ビゼンマサムネ・ダイショウヒトソロイ』
なんの品だこりゃ?」
「それがサヤの武器だ。日本の刀の名だそうだ」
そう言って、デヴィッドはようやくまともにサヤに向かった。そして早口で言った。
「…総統の誕生祝に日本から贈られる予定の刀だ。総統大本営に持ち込まれる」
「……」
「ほかの武器はいっさい持ち込めない。厳重なボディチェックがなされるーーーだが、この2本の刀だけは
別だ。同盟国からの特別な贈り物だからな。必ず総統本人まで運ばれる」
「……」
「総統のすぐ近くにいる者の、そばまでな」
サヤがきっ、とつよい目でデヴィッドを見た。
「日本の大使館員の一人と話はついている。お前はその男のむすめ…息子として総統の誕生パーティーに
行くんだ」
日本人として。
それは今に始まった詐称ではなかった。今のドイツ国内では、ユダヤ人どころかチャイナ含む有色人のほとんど
全てが国外追放、迫害の対象だ。例外は、同盟国である日本人。東洋系の色濃いサヤの容貌では、日本人のふりを
するしか安全に過ごせる方法はないーーーどこから手に入れたのか、ベルリンに入る早々ハジとサヤには偽の
身分証明書が手渡されていた。
サヤは日本大使館員の家族としてのパスポート。ハジはその職員としての。精巧に偽造された、手の掛かったそれに
ハジは”赤い盾”の意外な政治力を見る。
「パーティーに潜り込み、総統の個人的なエリアを探せ。そこにーーーディーヴァがいるはずだ」
「……」
「サヤ、その刀を使え」
デヴィッドはそう早口で言うと、すっ、とサヤから視線を逸らせた。罪悪感だろうか、どうやら彼はわずかばかりは
サヤだけにやらせることにすまないと思っているようだった。
まるで緊張感のないルイスがまだメモを見ながら首を捻った。
「刀とそれと……『カケジク』??なんだこりゃ?」
「よくは知らんが、なんでもくるくる巻いた絵のようなものだそうだ。刀と一緒に贈られる品じゃないか?」」
「日本……」
ふいに、サヤが呟いた。
ハジは黙ったままサヤを凝視した。
サヤはふらふらと窓辺から立ち上がり、ぶつぶつと小さく何度も呟いた。
「日本……に、ほ、ん」
ハジは胸騒ぎがしてサヤにかけ寄る。肩に手を置くと、はっきりとサヤの言葉が聞こえた。
「遠い……く、に……日本……聞いたことがある。そう…そうだ…」
「サヤ」
サヤは夢見るようにハジを見た。琥珀色の、優しい色の瞳にはハジは映っておらず、その唇は
何度も同じひとの名前を繰り返していた。
「そう……行きたいっていってたわよね……ジョエルーーーおとうさま」
3
ーーーまあ、ジョエル。ジャポンってこんなに遠いのね。インドよりもチャイナよりも
向こうなのね
ーーーそうだよ、サヤ。だがジャポンからの磁器や漆器はうちにもあるよ。はるばる船で運んで
きたものだよ。今度見せてあげよう。
ーーー行ってみたいわ。船に乗って。世界の果てのニホンにだって。ねえ、行けるわよね
ジョエル?私の病気が治ったら、連れて行ってくれるわよね?
ーーー……ああ、サヤ。連れて行ってあげるよ
ーーーハジも一緒よ?約束よ?ね、ジョエル
ーーー約束よ……約束よ……約束よ……
「サヤ」
ハジの心配そうな声で、ようやく目を開けた。
「……ハ…ジ」
「大丈夫ですか?」
サヤは反射的に頷いた。どうやらめまいを起こしたらしい。
サヤは殺風景なアパートを見回した。見ると、客人はもう帰ったあとのようだった。
遠くで空襲警報が鳴っている。
彼らは帰ったのか……サヤはハジに唇だけで水、と言った。
「…はい」
従者は黙ってキッチンに向かった。サヤはふう、と何度も深呼吸する。
頭に中でぐるぐると過去の記憶と現在が交互に回っていた。
いつもこうだ。遠い記憶のかけらはいつも不安定で、すぐに砕けて散らばってしまう。
今しがた思い出しかけた過去の情景を考えた。
(あれは……いつのことだった?)
(そう、『動物園』の時のことだ)
脳の中の、スクリーンにサヤの意思によらずに次々と映像が浮かび上がってくる。
ジョエルとの会話。彼の書斎に入った時だ。そう、地球儀をきまぐれに回し、世界の国のことを
語り合った。
サヤは眉を寄せた。幸せな思い出のはず。なのに何か違和感があった。ジョエルと話す
自分の姿。どこかおかしい。サヤは何がおかしいのかゆっくりと考える。
あの思い出の中で自分は。
袖を飾る白いレースの縁取り。
かろやかな衣擦れの音。
視界に写る自分の服は……そう、鮮やかな薔薇色の、絹のドレスだった。
若い娘が身につけるような、明るい、華やかなドレス……
ーーーそんなはずはない!
なぜだ。
(ーーーなぜあの感じを身体が覚えている?)
(きつくコルセットの紐で胴回りを締め付けたあの窮屈さ。足下にまとわりつく
スカートの布の重さ。どうしてそんなことがわかる?僕は男の子のはずなのに!)
(ーーー髪も……そうだ、この髪も)
自分の頭に手をやった。耳の上まで、短く切りそろえた髪。
その瞬間、悲しげなハジの顏が脳裏に甦った。
いつだったろう?確か……そう、ロシアで目覚めたときだ。
ジョキジョキと髪を乱雑に切った時、ハジはとてもとても悲しそうな顏でサヤを見たのだ。
「勿体ない……」と惜しむように。
かれは言った。
「こんな切らなくても……◯◯◯なのに……」
ハジは何と言った?
あのとき……確か……
「サヤ」
呼ばれて、顏を上げるとハジの手があった。
グラスに入った水。そしてこれはいつもの、サヤを案じるハジの目。大丈夫ですかの声まで
聞こえそうな目。
「……大丈夫だ」
独り言のようにそう言った。平気な顔でグラスを掴み、一気に喉に流し込んだ。
水が唇の端からこぼれるのも構わず、ごくごくと飲む。ぐいと濡れた喉元を乱暴に拭った。
ハジの視線を感じた。
「……なんだ、ハジ」
ほんのわずか、たしなめるような顏を一瞬見せる従者に聞く。
「何か言いたいことでもあるのか」
「……いえ」
こんな風に、わざと粗野にふるまうたびに、ハジが内心それを悲しく、残念に思っていることに
サヤは気付いていた。
なぜそんな顏をする?これくらいの無作法、男なら当たり前じゃないか。
立ち上がってバスルームに入った。白い陶器のバスタブに腰掛け、鏡に向かう。
曇った鏡の中には、不揃いの前髪と、細い首、不機嫌に眉をしかめたやせっぽちの
少年がいた。
……少し顔色が悪いのは、めまいを起こしたせいだ。じきに治る。すぐに。
シャツを思い切って脱いでみた。ちょうどサヤの腰の位置までの高さの鏡。自分の裸体を映してみた。
サヤは右手で、鏡の曇りを拭った。ごしごしと何度拭いても、そこに映る、華奢で貧相な身体は
変わりはしなかった。
ためらいがちに首に手をやる。鎖骨。肩、腕とゆっくり自分の身体に触れてゆく。
胸元まで来た時、手がぴたりと止まった。
鏡の中には、あばらの浮いた痩せた身体。
ーーーだがどこかがおかしかった。
胸の中心が、何かぼやけている。自分の目では見えない。
ーーー見えない?
自分の中の、何ものかが叫んだ。
ーーー嘘をつけ。見えないんじゃなくて、見たくないだけだろう。
知らずに叫び声が迸っていた。
「……ハジ!ハジ――!!」
ばん、と勢い良くドアが開け放たれた。
疾風のように一瞬ののち、見慣れた従者がしっかりとサヤを支えた。
「サヤ」
サヤの身体をすっぽりとその腕で包む。サヤは叫んだ。
「ハジ!おかしいんだ……!僕、目が、どうかしてるんだ」
「目が?どうしたのです?」
「身体がよく見えない……ぼやけてるんだ。こんなのっておかしいよ。背も伸びないし、
声も高いままだ。ハジ、僕はどこか悪いのか?こんなのってーーーこんなのって」
「……サヤ」
「ハジ、見て。僕の身体。……どうなってる?」
ハジの声が怯んだ。サヤ、と硬い声でサヤを呼ぶ。
「ちゃんと見て。どこか変か?なあ、ハジ」
サヤはハジの目の前で両手を広げ、堂々と裸体をさらした。
「よく見えないんだ。……ハジ」
「……サ、ヤ……」
「僕は男だろう?そう言ってくれ。この胸には、おかしいものなど何もないだろう?」
サヤは震える声でそう口走り、同時にハジの手を取った。
「!ーーーサヤ…!」
ハジの手を、そこにある乳房を掴ませた。
「何もない、よな?なあハジ…?」
「……」
サヤはハジの肩にすがりついた。
何かが自分の中で狂っていた。それが何なのか、多分私はわかってる。
……私?ーーー僕、だろう?
自我すらも揺らいでいた。
だがサヤは見えぬ何かに叱咤されたように、ふっと意識を立て直した。
心の中の誰かが言う。
ーーーこんなことに揺らいでいちゃ、いけないはず。
ーーーもっと大切なことがあったはず。
ーーーたった一つの、大切な、目的が。
ーーーそのためにすべてを棄てた、はずだろう。
ーーー……という、性さえ。
「……ごめん、ハジ」
「サヤ」
ハジが何かを言い出す手前で、サヤはまた元の『少年』になった。
頭を振り、一息ついて、そして生き急いでいるような焦りの含んだ目を、ハジに向ける。
「……どうかしていたよ。悪かったな、ハジ」
「……いえ」
ハジは言葉少なに答え、サヤの肩にシャツを着せかけた。
「大丈夫ですか……?サヤ」
「うん。もう何ともないよ」
ハジの指が慎重に動いた。丁寧にシャツのボタンを留めてゆく。
もう一度ハジはサヤに聞いた。
「……サヤ、大丈夫ですか」
その声はかすかに震えていた。そして、指も。
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