2012年06月22日

小沢一郎裁判と夏目漱石の「草枕」

聖書を読みながら自殺した芥川龍之介が残した言葉である。

「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たとひピストルを用ふる代わりに新聞の記事を用ひたとしても」

私刑とは何か。世界では私刑とは「リンチ」と表されるのである。

聖書の言葉を引用する。
姦淫の場で捕えられた一人の女が、律法学者らに石を投げられる場面でのイエス・キリストの言葉である。

「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」
ヨハネの福音書 8章7節

「クリーンハンドの法則(自らがクリーンハンドでなくては、相手のダーティを責められない)」も同じである。日本社会はメクラ判社会である。どこの会社でも経理は「経理部」と「税理士」にまかせ、経営者は細かい内容をチェックせずにメクラ判を押すことが慣習となっている社会である。

この法則により一度でもメクラ判を押したことのある「ダーティーハンドの者」は、小沢一郎が政治資金収支報告書にたとえメクラ判を押したとしても、批判することは許されないのである。

次に、この「メクラ判を押す」行為がどの程度の罪なのかを考察する。聖書では、このような形式犯、手続き違反など、人間が人間を制御するためにつくった律法と、殺人や盗みなど、神によってつくられ、すべての人間の遺伝子に組み込まれている律法(原則)を明瞭に分けている。

「悪い考え、殺人、姦淫、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。これらは人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
マタイの福音書16章19節、20節

人間のつくった「洗わない手で食べる、人を汚さない決めごと」である政治資金報告書の記載漏れや、以前に問われた「贈収賄」とは次元の違う犯罪なのである。

五十嵐文彦財務副大臣のブログから

官の権威
2009.03.26 Thursday
 小沢代表の秘書の起訴について、人気テレビキャスターが「政治資金規正法違反は重罪ですよ」と発言していました。報道する側が「重罪」という極めて強い非難の言葉を安易に用いるのは問題です。法的には重罪ではありません。裁判が確定するまでは推定無罪の原則もあります。
 政治家がたやすく大金を集める手法に対する国民の反発は当然ですし、改めるべきだと考えます。政党、そも党首としての反省も必要です。
 しかし、麻生政権は政敵を重罪犯扱いしてイメージを損ない、政権交代の大義を覆そうとしているように見えます。未だに「官の権威」に弱いという日本国民の習性を悪用しているのではないでしょうか。
 永田メール事件を思い出します。政府が窮地に陥った時にニセ・メール事件は人為的に起こされました。ニセ・メールの作者は政府要人と友人で、銀座を飲み歩いていました。正義感が強く、功名心にはやった有能な若者がだまされ、糾弾され、命を落としました。だました男たちは全く追及されませんでした。私の携帯には、未だに永田寿康さんの携帯番号が残っています。心配して掛けてもついに返って来ることのなかった番号です。まだ削除することができません。可哀想でたまりません。悔しくてたまりません。
 権力は何でもする。権力は許されてしまう。それを勘案して、報道機関も、報道の受け手も判断していただきたいと思います。
<終了>

ここで、小沢一郎元幹事長を苦しめている検察審査会とは何かを確認しておく。ウィキペディアより
「日本の検察審査会は、戦後GHQ が日本政府に対し検察の民主化のために大陪審制及び検察官公選制を求めたのに対し、日本政府が抵抗した結果、妥協の産物として設けられたものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%AA%E5%AF%A9

アメリカ側が提案した検察官公選制により、役人支配層に民間人が入り込むことを恐れた日本側の役人が、強烈に反対して「手に入れた制度」なのである。

マスメディアは、このような知識を有しているにもかかわらず、役人支配層から相手にされなくなることを恐れ、「知らんぷり」を図っているのである。アメリカ側が懸念した「検察の暴走社会の悲劇」を世に伝えることなく、表面的な検察批判にとどめている、つまり国民をだましているのである。

小沢一郎裁判を単純化して表せば、「バカと阿呆のだまし合い」がもたらした、人権侵害の国家的犯罪である。集団リンチが国家をあげてなされているのであるから。

芥川龍之介は、阿呆をこう表現している。
「阿呆はいつも、彼以外の者を阿呆であると信じている。」

最後に、このような愚行を繰り返す、明治維新以降にアメリカによって変質された「日本人」の特性について、夏目漱石の「草枕」の引用文をもって明らかにしたい。

「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、そのうえずうずうしいいやなやつで埋っている。」
「五年も十年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人生だと思っている。そうして人の前に出てきて、御前は屁をいくつひった、いくつひったと頼みもせぬことを教える。前へ出て云うならそれも参考にしてやらんでもないが、後ろの方から御前は屁をいくつひった、いくつひったと云う。分かったと云ってもなおなお云う。よせと云えば益々云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。」

今、この国に住む者は、小沢一郎の「屁をひった」勘定をするのではなく、まさに小沢一郎が言うように「天下国家」を考えた高コンプライアンスで国民主権型の知行合一(ちこうごういつ「知ること」と「行うこと、心の働き」は分けられない)を実践しなくてはならない。

過去は変えることはできないが、未来は変えられる。日本人力の再構築が、今、世界中から求められているのである。
posted by M.NAKAMURA at 09:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする