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ネイチャーインタフェイス > この号 No.04 の目次 > P100-101 [English]

科学技術社会論のすすめ 2) -- 藤垣 裕子


科学技術と社会のインタフェイスのために....2

科学的な妥当性と市民

藤垣裕子

科学技術は

民主主義と矛盾する?

 先回の記事で紹介したように、現代の科学技術と社会との接点では、「科学者に問うことはできても、科学者にも答えられない問題」(たとえば遺伝子組み換え食品の安全性について)をめぐって、公共空間における民主的な議論が必要になる課題が増えつつある。公共空間においては、科学技術に対する民主的コントロールが必要となるのである。

 そのコントロールはいかにして可能なのだろうか。まず最初に「科学技術と民主主義はそもそも矛盾する」という話からはじめてみよう。

 民主主義(democracy)とは、語源がギリシャ語のdemo-kratiaで、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したものである。すなわち、人民が権力を所有し、権力を自由行使する立場をいう(広辞苑、第五版、岩波書店)。つまり、「人民が主権をもち、自らの手で、自らのために政治を行う立場。人民が自らの自由と平等を保証する行き方」である(岩波国語辞典、第四版)。

 それに対し、科学技術とは、「その知識の妥当性の保証において、科学者が主権をもち、科学者の手で、(公共のために)知識生産を行う場」と考えていいだろう。科学者とそうでない人とは「知識の妥当性の保証においては」平等ではないのだから、科学と民主主義は、まずその主権のありかたの違いから議論されなくてはならない。

 では、この「知識の妥当性の保証において主権をもつ」科学者は、どのようにして妥当性を保証されるのだろうか。

専門誌への掲載によって保証される

「科学的妥当性」

 ある科学知識が、妥当性をもつか否か。その妥当性境界を判定し、保

証する機構を科学者はもっている。科学者の知識生産の単位である「ジャーナル共同体」(藤垣、一九九五、九八年)の査読機構がそれだ。ジャーナル共同体とは、各専門分野の専門誌共同体のことであり、この専門誌の編集・投稿活動を行うコミュニティのことを指す。なぜ科学者の活動にとってジャーナル共同体が大事なのか。

 理由は四つある。まず第一に、科学者の業績は、専門誌に印刷され、公刊(publish)されることによって評価される。第二に、科学者によって生産された知識は、信頼ある専門誌にアクセプト(掲載許諾)されることによって、その正しさが保証される(妥当性保証)。第三に、科学者の後継者の育成は、まずこの種の専門誌にアクセプトされる論文を作成する教育をすることからはじまる(後進育成・教育)。最後に、科学者の次の予算獲得と地位獲得(研究予算、研究人員、研究環境など、社会的側面の獲得)は、このジャーナル共同体にアクセプトされた論文の本数によって判定される(次の社会的研究環境の基礎)。ジャーナル共同体が、研究の判定、蓄積、育成、社会資本の基盤にとって重要であることがおわかりいただけよう。

 またジャーナル共同体は、ある科学的知識が正しいかどうか、妥当であるかどうかを検閲し、保証する機能をあわせもつ。たとえば、ある論文が一つの専門誌に投稿されたとしよう。この専門誌の査読機構によって、ある論文はアクセプト(許諾)され、ある論文はリジェクト(拒否)される。

 この掲載許諾と拒否の判断の積み重ねが、その専門誌関連の知識の「妥当性境界」を作る。この境界こそが、その専門誌の扱う領域の科学的知識が正しいかどうかを保証する境界であり、その領域の科学者によって作られるものだ。より正確には、専門誌共同体の査読システムによって作られる。

 つまり科学の知識生産においてその知識の妥当性の保証に主権をもっているのは、人民ではなく、科学者である。民主主義は「平等」であり「すべてのひとに判断が開かれている」のだが、科学知識の妥当性の保証においては、「科学者とそうでないひとは平等ではなく」、「科学者集団内部で閉じている」。科学知識の生産機構をふまえると、科学の妥当性保証と民主主義は矛盾するのである。

 科学の専門主義が専門分野のなかで閉じている(disciplinary-closed)ことと、公共の原則である公開性は最初から矛盾することになる。しかし二〇世紀半ば、一九五〇年代ころは、ブッシュレポート「Science, The Endless Frontier」(V. Bush, 1945)にみられるような「科学は無限の可能性を秘めており、その発展に対して国家の投資を惜しむべきではない」という科学観に支えられており、、この矛盾はあまり問題とされなかった。科学の自律的発展はかならず人類に対しプラスの価値をもたらす、という素朴な科学観に支えられているあいだは、無限の可能性を秘めた科学のその専門主義が「閉じて」いることに対して批判はなかったのである。

 しかし、八〇年代に欧州で酸性雨問題、チェルノブイリの事故などをへて環境問題に対する意識が先鋭化し、かつ九〇年代における遺伝子組み換え食品の安全性や地球温暖化をめぐる議論などが活発になるにつれ、今まで「disciplinary-closed」が許された科学にも公開性が求められるようになった。

専門家集団と公共の場で異なる

科学的正しさの要求基準

 さて、その公共空間が公開された場で、たとえば「大気汚染防止のために排出される煤塵の大きさを何ミクロン以下に規制するか」「ダイオキシンの許容量はどこまでか」「どのくらいの証拠があればO157の汚染源の食物は同定されうるか」という、科学的証拠をめぐる「境界引き」の問題が議論される。このとき科学者の要求する妥当性境界と、公共の場で必要とされる妥当性境界とが異なる場合がある。

 たとえばO157の汚染源特定においては、専門家の要求する水準の手順では汚染源の特定に膨大な時間がかかる。より水準を緩くした段階での汚染源の「公表」は、公共にとっては望まれるところであり、そうすると公共の判断基準を科学者の妥当性境界よりも緩めに設定せよという力が働くことになる。

 これに対し、公共の判断基準を、科学者のジャーナル共同体の妥当性境界よりも厳しく設定する必要のある場面もある。たとえば「New England Journal of Medicine」誌のような被引用回数の非常に高い著名な雑誌においても、その科学的方法論にそれほど厳しい吟味が加えられていない(コントロール群との比較がきちんとできていない)論文が掲載されることがある。科学者間のコミュニケーションにおいては、そうした手続きの緩さは、試行錯誤のプロセスとして許されるわけである。ところが治療実践者にとっては、方法論的により厳しい吟味(コントロール群との比較によって効果があると判断されること)を経た治療法(薬物の処方)でなければ処方できないのである。この場合は、公共の基準のほうが厳しくなる(Haynes,1990)。

 このように、公共空間での判断に要求される妥当性要求水準と、科学者のジャーナル共同体において必要とされる妥当性要求水準とは、ときに厳しさが反転することがあるので注意を要する。この妥当性要求はまた、分野間によっても異なる場合がある。これが異分野摩擦をひきおこすのであるが、これについては次号で詳細に扱うことにする。

藤垣裕子 ふじがき・ゆうこ

一九六二年生まれ。東京大学教養学部卒業、同大学院総合文化研究科広域科学専攻博士課程修了。Ph.D. 同大学助手、科学技術庁研究所を経て、現在、東京大学助教授(大学院総合文化研究科広域化学専攻/広域システム科学系・情報図形科学)。専攻は、STS(科学技術社会論)、科学計量学。著書に『科学を考える』(共著、北大路書房)。『科学計量学の挑戦』(玉川大学出版会)ほかがある。

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