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自分の性的嗜好について日頃、考えていることや世界の同性愛文化の比較、世界の男色習俗の紹介、旅行記、大好きなアフリカ大陸や映画の話
by jack4africa
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裏の垣根はマラだらけ

若い頃、外国に10年ほど住んだあと、日本定住を決意して帰国してまもなく、東京新宿の牛込柳町の交差点でフンドシ一丁の裸で歩いている中年男を目撃してショックを受けたことがあります。

アフリカやニューギニアの奥地ならともかく、この文明国の日本で白昼堂々、裸で大通りを歩いている人間がいるとは思わなかったのです。

あとでわかったのですが、その日は近くの神社の祭りの日で、その裸男は神輿を担いだ帰りだったのです。

深沢七朗の小説「因果物語」によると、明治になって裸体で外出することが禁止されるようになるまで、昔の日本の庶民の男たちは夏の暑いときなどフンドシ一丁で歩き回っていたそうです。

当時は美人を形容する決まり文句として「裏の垣根はマラだらけ」という言葉があったといいます。

たとえば、旅芝居などで座がしらが、

「エー、これからお目にかけますのは『赤穂浪士』のうち、裏の垣根はマラだらけと言われる祇園、一力の美人舞子初菊と大石主税の悲恋物語でございます」

などと口上を述べたそうです。

初菊という女は大層、いい女だったそうで、近所の若い男たちは夕方、仕事を終えると初菊の家に彼女を見にやってきたといいます。


初菊の家は貧乏で一間しかなく、裏に八畳くらいの狭い庭があって、まわりはヒバかなんかの垣根が三尺ばかり高く囲ってあるだけです。

若い男たちはその垣根の上から顔を出して家の中にいる初菊を覗くのですが、夏のこととてみんなフンドシ一丁の裸で、美女の初菊を眺めているうちに自然と興奮してフンドシの前が膨らんできます。

しかしフンドシの幅は狭いので、大きく膨らんだモノはフンドシからはみ出てしまいます。

若い男たちは垣根があるので気がつきませんが、初菊の家から見ると、垣根の上にはずらーっと若い男の顔が並び、垣根の間からは勃起したマラがニョキニョキ生えていて、それで、

「ひとり娘にムコ八人、裏の垣根はマラだらけ」

と言われるようになったのだそうです。

幕末から明治の初めにかけて日本にやってきた西洋人は、多くの日本人が男はフンドシ一丁、女は腰巻一枚の裸でいるのを見て驚きます。

当時、日本は裸族の住む国だったのです!

日本が野蛮な国であると思われるのを嫌った明治政府は、裸体禁止令を出して、裸体の風俗を取り締まるようになりますが、

法律で裸体を禁止しても、それが一般国民に浸透するのには時間がかかり、銭湯の帰り、フンドシ一丁で歩いているのを巡査に見つかって叱られるというようなことがよくあったそうです。

このような取り締まりの結果、日本ではフンドシ一丁で通りを闊歩する人間は見られなくなりましたが、唯一の例外が祭りのときで、このときばかりは大っぴらに裸を晒してもだれも文句をいいません。

日本には全国各地に裸祭りの習俗が残っていて、祭りの日ともなると男たちは競って裸になって祭りに参加するのですが、

そのような裸の男たちを見ていると、日本人は基本的に裸になるのが好きな国民ではないかという気がしてきます。

同じアジアといっても、人前で裸になるのを嫌う中国人とは大きな違いです。

実際、中国や朝鮮半島に裸祭りが存在するという話は聞いたことがありません。

日本は過去に中国文化を輸入しましたが、輸入された中国文化はあくまでも日本社会の表層に留まったに過ぎないように思われます。

その表層の中国文化も年と共に徐々に日本化されていくのですが、日本社会の基層には縄文時代から育まれてきた日本独自の文化が存在し、

その日本の基層文化は、台湾やフィリピン、ボルネオの先住民の文化、ミクロネシアからメラネシア、さらにはハワイを含むポリネシアなどの太平洋の島嶼地域の文化と大きな共通点を持っているような気がします。

裸体の風俗がその代表的なもので、これら太平洋の島々ではキリスト教の宣教師が来るまでは、日本と同様、男はフンドシ、女は腰巻一枚の裸で暮らしていたのです。




飛脚や人足などは全身に刺青を彫っていました。裸体は見せるものだったのです。


幕末に西洋人が撮った日本女性の入浴写真。混浴の習慣があったことからもわかるように日本女性は裸を見せるのに抵抗がなかったといいます。


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by jack4africa | 2012-04-24 00:07
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