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by jack4africa
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昔の日本人の性生活(3)

キリスト教宣教師が、男色と共に激しく非難した日本の性習俗に売春があります。

売春に関しても、明治政府は、明治5年(1872)に娼妓解放令を発令し、江戸時代から続く公娼制度の廃止を試みたそうですが、実効性がなかったことから、1900年に娼妓取締規則を制定し、公娼制度を認めた上で、一定の規制を行なう方針に転換したそうです。

このへんの詳しい経緯はよくわかりませんが、簡単にいうと、売春をなくすことは非現実的であることがわかったことから、政府の管理下に置いて、監視することに方向転換したということらしいです。

救世軍などキリスト教系団体による廃娼運動も盛んに行われたそうですが、この公娼制度は第二次大戦後まで維持されます。

日本人にとって、売春はそれだけ身近な存在で、完全に捨て去ることなど考えられなかったのでしょう。

フリードリッヒ・S・クラウス著「日本人の性生活」は日本の売春について次のように述べています。

日本では、あらゆる大都市や商業地だけでなく、あらゆる港や小さな村にも、強い性欲をたやすく満たすための公認の娼家がある。官能のこの家は・・・放蕩の場所、あるいはわいせつな場所とはみなされておらず、評判がもっとも良い人さえも訪れる。このような快楽の家は、その土地のもっとも美しく、もっとも華麗な家の一つであり・・・刑務所と同じく、国家の建物である。

また東京の遊郭である吉原には100軒の娼家があって大層、賑わっていること。

ここで働く娼婦たちは、ヨーロッパの娼婦と比較して上品で、教養があること。

娼婦は自分の職業を恥じておらず、娼婦を身受けして正式な妻にする男も多いこと。

このようにして結婚した元娼婦は、娼婦だったことで差別されることはなく、立派な人妻になって尊敬される例も多い、と述べています。

かっての日本の娼婦が娼婦を恥ずかしい職業であるとはみなしてなかったという事実は、コラムニストの故山本夏彦さんも指摘しています。



「樋口一葉の名作、『たけくらべ』の主人公、美登利は、自分が将来、吉原のおいらん(売春婦)として売られる運命にあることは知っているが、おいらんという職業自体は恥ずかしい職業であるとはまったく思っていない」

と山本さんは書いています。

しかし、第二次大戦でアメリカに敗れた結果、日本の公娼制度はアメリカ占領軍の命令でついに廃止されることになります。

ペリーの来航から数えて約100年、宣教師国家、アメリカは、ついに売春=悪というキリスト教的道徳観念を日本人に押しつけることに成功したわけです。

もっとも、日本に進駐していたアメリカ兵は、アメリカ兵用の慰安所を利用していたそうですが・・・

日本人に対して売春は良くないと説教しながら、みずからはちゃっかりそれを楽しむというのは、偽善国家、アメリカに特有のダブル・スタンダードで、アメリカで禁止されていた同性愛も、進駐軍の兵士や将校は日本の若者相手に多いに楽しんでいたといいます。

このアメリカ占領軍の公娼廃止指令(1946年)によって、名目的には公娼制度は廃止されたものの、日本の役人は、赤線地帯と呼ばれる地域での売春を黙認することで、これに抵抗します。

しかし、1957年に売春防止法(略して売防法)が制定され、赤線も廃止されることになります。

売防法の成立の経緯は詳しくはわかりませんが、アメリカとの戦争に負けて自身を失っていた戦後の日本人は、これからは「民主主義」で生きていかなければならないと考えて、このような法律を成立させてしまったのではないでしょうか。

その後のソープやヘルスなど風俗産業の隆盛ぶりをみれば、売防法がザル法であったことはあきらかですが、この売防法の成立は、戦後の日本の同性愛の歴史に大きな影響を与えます。

赤線地帯であった新宿二丁目の風俗店が売防法の成立によって営業できなくなり、空き家になった店舗にゲイバーが入るようになって、現在のゲイタウン、新宿二丁目が生まれるきっかけになったからです。

私が二丁目デビューした1960年代後半は、売防法の施行から10年以上経っていましたが、赤線の名残りであるノンケ向けのヌードスタジオと呼ばれる風俗店がまだ名残っていて、ゲイバーと混在していました。

ヌードスタジオとはなにをするところかよくわかりませんが、女が客と一緒に個室に入って、客の前で着ているモノを脱いで、裸になるんだそうです。

売防法によって直接の売春が禁じられたために、表向きはヌードモデルを撮影するスタジオであるという触れ込みのこのような風俗店が営業されるようになったみたいですが、

御苑大通りから新宿二丁目の仲通りに抜ける、現在、床屋やビデオショップがある細い路地の両側には、このヌードスタジオがずらっと並んでいて、店の前には女たちが立っていて、

前を通ると女たちに「坊や!」と声をかけられ、「男好き?女好き?どっちなの?」などと訊かれたものです。

売防法によって売春=悪という道徳観念が定着したかにみえた戦後の日本ですが、90年代に入ってバブルが弾けると、女子中学生や女子高校生が「援助交際」という名の下に売春を始めるようになります。

なんの罪の意識もなく、あっけらかんと売春する少女たちの出現に親や教師などオトナたちは驚き、当惑しますが、明治初期の『たけくらべ』の時代に戻ったと思えば納得が行くのではないでしょうか。

結局のところ、日本には売春=悪というキリスト教的道徳観念は根付かなかったわけです。

欧米の道徳観念を表面だけ取り入れて、その基盤となるキリスト教それ自体は受け入れなかったのだから、当然といえば当然ですが。


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by jack4africa | 2007-07-27 00:19
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