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by jack4africa
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夜這いの話(3)

赤松啓介氏の夜這いの話を続けます。

明治42年(1909年)播州(兵庫県西部)の農村に生まれた赤松氏は、大正の終わりから昭和の初めにかけて大阪で丁稚奉公をするのですが、

当時、大阪の商店で丁稚や女中として働いていた若者や娘はみんな地方の農村出身で、彼らは田舎の夜這いの習慣をそのまま都会に持ち込んだといいます。

当時の商家では丁稚や女中は住み込みで働くのが普通で、主人一家と同じ屋根の下に寝起きしていて、店の主人はあたり前のように女中に手を出したそうです。

おかみさんの方も丁稚とよろしくやっていたそうで、また丁稚が女中に夜這いをかけることも日常茶飯事だったそうです。

赤松氏が最初に丁稚奉公した大阪九条の果物屋では、店のオヤジがバクチ好きでしょっちゅう家を空けるので、先輩の丁稚がおかみさんのところに夜這いに行って慰めていたそうです。

その店には女中もいたそうですが、先輩の丁稚は女中とヤルとおかみさんに叱られるということで、女中の方は後輩の丁稚である赤松氏が夜這いしてヤッていたそうです。

赤松氏は色白で可愛い少年だったそうで、近所の商店のおかみさんや、店に来る女性客にもよく誘われたそうで、中には商店の女房に頼まれた亭主が「うちのカカァ、どないや?」と声をかけてくることもあったといいます。

客の女性の方は、御用聞きに行ったり、商品を届けに行ったときに、「まぁお茶でも飲んでいき」と誘われて座敷に上がり、そこで関係したそうです。

商店でも大店(おおだな)と呼ばれる豪商では、丁稚小僧だけで10人近く、住み込みの女中も6人くらいいて、そういう店では、夜這いを行なう優先順位が番頭、手代、古参の丁稚の順になるので、

あぶれた新米の丁稚は一人でマスをかくか、新米の丁稚同士、おかま(男色)をするしかなかったそうです。



奉公人の間では男色もけっこう行なわれていたそうで、夜中に目が覚めて隣の布団を見ると、男同士が重なっていることもあったといいます。

こういう大店では奉公人たちが店の金に手を出したりすると厳しく罰せられたそうですが、イロゴトについてはおおようで、あまり派手にやらない限り、大目に見られたそうです。

店の旦那はもちろん、自分の店の女中にも手をつけますが、外でも芸者遊びをしたり、妾を囲ったりしていたそうで、御寮人さんと呼ばれるおかみさん、お家さんと呼ばれる先代のおかみさんも番頭や丁稚を相手に遊んでいたそうです。

御寮人さんやお家さんの中には役者買いをする女性もいたそうですが、役者など外部の男との関係はとかくトラブルに発展しがちで、賢い御寮人さんやお家さんは気心のしれた番頭や丁稚を選んで相手にしたといいます。

商家では年に3回くらい、大掃除の習慣があって、大きな商店では、大掃除のあとは近所の料理旅館に使用人が集って慰労会が開かれたそうですが、酒が入ると乱交になって、これを「ボボ掃除」と呼んだそうです。

夜這いや乱交の結果、妊娠する女中も当然、出てくるのですが、主人や複数の奉公人の男と関係をもっているので、だれが子供の父親かわからず、

そういう場合は一番、父親である可能性の高い男が10円出し、それ以外の男で彼女と関係を持ったことがある男が5円ずつ出し合って女に渡し、女はその金で中絶するか、産まれた子供を里子に出したそうです。

この都会の商家での夜這いの習慣は、百貨店などを皮切りに丁稚を「店員」と言い換えて月給制にして、住み込みではなく通いにする習慣が普及するにつれて無くなっていったそうです。

農村での夜這いの習慣は、資本主義の発達とともに村の娘たちが都会に出て働くようになって、夜這いできる娘たちの数が減ったことと、

戦後の農業の機械化によって、昔は村中総出の共同作業であった田植えなども機械で簡単にできるようになって、村の共同体意識が希薄になったことで、徐々に消えていったそうです。


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by jack4africa | 2006-07-06 23:58
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