©辰巳ヨシヒロ/青林工藝舎
七つ年上の手塚治虫に導かれるようにマンガの世界へ入った。雑誌の投稿マンガの常連だった中学3年の時、手塚との座談会に参加した。あこがれの手塚と思う存分マンガを語り合う、夢のような時間だった。
「当時はマンガを読むのは恥ずかしいことで、学校では描いているのを内緒にしていた。でも、手塚先生が堂々と論じるのを聞いて『一生をかけよう』と決心した」
手塚の上京などで途絶えた交流が復活したのは70年代半ばごろ。80年代には2人でフランスのマンガ祭も訪れた。
晩年の手塚に「僕も劇画に近づくかも」と言われたことが印象に残っている。「新しい表現を模索されていたのでは。先生との縁を思うと、本当にうれしい受賞です」
《辰巳ヨシヒロさん(ひと〉》
辰巳ヨシヒロさん
劇画の生みの親である。受賞作の「劇画漂流」は800ページ超の自伝的作品。マンガ史上の画期となった劇画の誕生と変質をたどった。
戦後ほどない50年代、大人向けのマンガに取り組んだ。映画に学び、コマ割りの大小や場面展開の緩急で人物の心のひだを浮き彫りにする表現技法を工夫。
ユーモアや躍動感が売りの子ども向けと区別したくて「劇画」と名づけた。
劇画はブームとなるが、ヒットしたのは他のマンガ家の作品。暴力描写の多さから劇画は「悪」と世間にみなされる。落胆し、自分の思いとずれていく劇画が「怪物」に思えて、いったん決別もした。
生活のため、意に沿わない作品も描いたが、「劇画への誤解を解きたい」との思いで、受賞作の連載を95年に開始。マンガ家仲間や編集者らとの葛藤も赤裸々に描き、それまでの鬱屈と希望を再確認する作業となった。「苦しかったが楽しかった。やはり劇画から離れられない」
哀愁漂う庶民の戦後を描いた「地獄」「グッバイ」など多くの作品が欧米で翻訳され、賞も贈られた。「海外で評価され、自分の劇画に自信を持てた」。部数や映像化などの「ヒット」を尺度にする日本では、過小評価だったといえる。
60年安保で締めくくる「劇画漂流」は「掲載誌の都合で終わったけど実は未完」。カナダの編集者の熱いラブコールで続編が決まった。日本には「逆輸入」となりそうだ。
《たつみ・よしひろ》
35年、大阪市生まれ。51年に描き上げた「愉快な漂流記」でデビュー。59年に「劇画工房」を結成。05年に仏アングレーム国際マンガフェスティバル特別賞。
※受賞者プロフィールは当時のものです。