セカンドインパクトという大災害のおかげで、低地にあった都市は壊滅の憂き目にあっていた。それは日本の首都東京も例外ではなく、大地震の後に起きた津波で、都市の機能のすべてが破壊されたのである。さらには暴動と新型爆弾によって都市は完膚無きまでに破壊され、さらには海面上昇によって海の下となってしまったのである。その災害に懲りたというわけではないが、新たな首都は長野の松本市に設けられた。
松本城に近い大手に、政府関係の施設は集中していた。そしてその周辺に、著名企業の本社が集まっていた。勢い事態、かつての東京には及ばないのかも知れないが、人口の減った今、第二新東京市は世界でもっとも栄えている都市の一つと数えられていた。
神凪コーポレーションは、その官庁街から少し離れ、国分にある中層ビルの一角に本社を構えていた。設計の新しいビルは、省エネを目的として外光を最大限に取り入れる構造となっていた。そして同時に、赤外線を遮断するスクリーンによって、冷房効果も高める構造となっていた。そのビルの1フロアを使い、およそ50名ほどの社員が働いていた。会社としては、非常に小さく、その他の企業に埋もれてしまうような規模しかなかった。だがこれから起業しようとする者にとって、無視することのできない巨大な企業でもあったのである。いわゆるベンチャーキャピタル、それが神凪コーポレーションの持つ一つの顔だった。
神凪ジンは、まだ30を少し超えたぐらいの青年と言われる年頃だった。怜悧な顔は、いかにもベンチャーキャピタルの社長という所だろうか、ツーポイントの眼鏡が、さらにその印象をシャープなものにしていた。その神凪ジンは、金曜の昼下がりに外出の準備に精を出すことになってた。普通社長ともなれば、秘書の一人や二人いてもおかしくはない。だが少数精鋭を旨とし、更に経費削減を推し進めている神凪コーポレーションでは、たとえ社長といえども出張準備は自分で行わなければならなかった。
その中で少し不思議な光景と言えば、それを面白そうに見ている女性が居ることだろう。まだ大学生ぐらいに見える女性は、忙しそうにするジンを手伝おうとはしなかった。そしてその女性の見た目も、社長室にはいささか不似合いなものだった。
その女性は、長い髪を無造作に後ろでゴムで縛っていた。そして社長室に居るには、いささか場違いな格好、おへそを出すように白いTシャツはお腹のあたりで縛られ、ぼろぼろのジーンズは左足の付け根からちぎれていた。おかげで健康的な素足が覗いているし、Tシャツの胸元は自己主張するように突き上げられていた。露出という意味では、いささか過剰と言うことができるだろう。少し鋭すぎる瞳の嫌いはあるが、まっすぐ通った鼻筋とか、客観的に見れば美女の要素を持っていた。それを考えると、腰刺された日本刀のようなものは、きっと何かの間違いなのだろう。
「相変わらず、ジン兄は忙しいのだな」
少しも手伝おうとはせず、神凪アキは、忙しそうにする従兄に声を掛けた。それに少し顔を歪めたジンは、誰のせいだと眼鏡の奥から睨み付けた。だがその視線を受け流し、「たまには休んだ方が良い」と嘯いた。
「ああ、週末は得意先とゴルフの予定が入っていたよ。
いったい誰のせいで、それをキャンセルして田舎に行くことになったと思っているんだ!
おかげで、得意先への謝りから、しなくても良い指示書を作る羽目になったんだぞ。
だいたい親族会議なんか、しばらく開かれていなかっただろう!」
「文句なら、碇家の跡取り息子に言ってくれ。
あんなのが帰ってこなければ、緊急親族会議など開く必要がなかったのだ。
そして私も、こんな空気の悪いところに来なくても済んだんだ。
良い迷惑なのは、むしろ私の方なんだぞ。
だいたいジン兄が大人しく帰ってくれば、わざわざ私が呼びに来る必要もなかったんだ。
本家に逆らうだなんて、ジン兄も偉くなったものだな」
そう言って口元を歪めたアキに、務めなら果たしているとジンは言い返した。
「毎年、純利益で100億近い金を稼いでいるんだ。
それをちゃんと、本家の方に還元しているだろう!」
「株主に利益を還元するのは当たり前のことだろう?
それ以外にも、ジン兄には神凪としての務めがあるんだよ」
「だからこうして、帰る準備をしているだろう!
だが言わせて貰えば、今更碇に関わる必要なんてどこにもないんだぞ。
だいたい100年も前のことを、未だに引きずる方がどうかしているんだ。
本家は、碇に拘りすぎだっ………」
ジンが口から泡を飛ばして文句を言ったとき、アキは腰に差した日本刀に手を掛けた。そして抜き手も見せぬ早さで、ジンの前の空気を切り裂いた。チンと刀がさやに戻る音と、ジンの前髪が宙を舞うのはほぼ同時だった。突然の出来事に、ジンは言葉を失い椅子にへたり込んだ。
「ジン兄は、碇ドッポにこけにされることを許容できるのか?
残念ながら、私を含め、本家の考えはジン兄とは違う。
ドッポの切り札が碇シンジだというのなら、それを叩きつぶしてやろうじゃないか。
それで碇との因縁も、神凪の勝利で幕を閉じることになる」
「テツマも同じ考えなのか?」
何とか言い返したジンに、アキの表情は一段と険しくなった。
「あいつは、まだ世間のことがよく分かっていないだけだ。
今更碇相手に、話し合いをするような余地はない。
碇が神凪に手を出そうというのなら、完膚無きまでに叩きつぶしてやれば良いだけだ」
「俺は、今更碇を相手にする必要がないと言っているんだ。
ちゃんと政府にも、余計なことを言われないように手を打ってある。
今の碇では、うちを潰すほどの政治力は発揮できないんだ。
碇の跡取り息子など無視しても何も起こらないんだぞ。
むしろ手を出すことで、つけ込む隙を与えることになりかねない!」
そう言い返したジンに、アキは再び実力行使に出ることにした。先ほどと同じように刀に手を掛け、今度はその白刃をジンの鼻先に突きつけたのだ。
「それが、ジン兄の考えと受け取って良いのか?」
「そ、そうだ、これが俺の意見だ……」
冷や汗を掻きながら、ジンは精一杯アキの顔を睨み付けた。しばらくそのまま膠着した空気も、「よかろう」と言うアキの言葉で融解した。
「ジン兄の考えは理解した。
だが、理解はしたが、私は認めるつもりはない。
ジン兄も、親族会議で自分の考えを認めさせることだな」
くるくると回って、その勢いのまま氷の刃は元の鞘へと収まった。
「一応ジン兄にも教えておくが、碇シンジが田辺に来るという情報がある。
のこのことわれらの本拠に碇家次期当主が来るというのだ、これは間違いなくわれらへの挑発だろう」
「そんなものは無視すればいいだろう!
そうすれば、碇は完全に無駄足を踏むことになる」
「そうやって、神凪が碇を恐れたと評判を立てると言うのか?」
「相手にしないと言うだけだ。
どうして、碇を恐れるという話になるんだ」
無茶苦茶だと主張したジンに、それが神凪だとアキは言い返した。
「それぐらいのことは、ジン兄だって知っているはずだろう。
神凪は、碇に絶対に舐められてはいけないんだ!」
ムキになって言い返してくるアキに、ジンはそれ以上言い返すことを諦めた。冷静でない相手に、道理は絶対に通じない。だからいくら言い返しても、相手の気に入る答えでない限り、時間の無駄と言う事になる。それにちょうど席を空ける準備も終わったところだった。
「これ以上の議論は無駄だな。
こちらの準備も終わったから、すぐに本家に向かうことにしよう。
それから、その刀は表では見えないようにしておけよ。
ここは和歌山の田舎じゃないんだからな」
「分かってる、だからあんなケースを持ってきたんだ」
そう言ってアキが指さしたのは、金属製のギターケースだった。これに入れている限り、X線検査を受けなければ日本刀所持がばれることはないだろう。
「今から空港に向かうからな、さっさとそんな物騒な物はしまってくれ」
「飛行機に乗せてくれるのかっ!」
目を輝かせたアキに、「これだから田舎者は」とジンは心の中でバカにしていた。もちろんそんなことを口に出すはずもなく、ただ時間の節約だと素っ気なく答えた。
「6時間も7時間も列車に乗っていられないだろう。
それに今から出たら、夜の会合に遅刻してしまう。
タクシーを呼んだから、さっさと出るぞ」
「社用車じゃないのか?」
「そんなものは無駄遣いだ!」
急げと急かされ、アキはあたふたとギターケースに日本刀を押し込んだ。そうやってみると、ギターケースとしている服装は似合っているのかも知れない。一応は考えているのかと感心しかけたジンだったが、絶対にそんなことはないだろうと考え直した。あったとしても、テツマが気を遣ったぐらいだろうと。
「なあアキ、ちょっと聞いて良いか?」
「なんだジン兄?」
「お前の荷物は、それだけなのか?」
ジンの言うそれだけとは、ギターケースのことを言っていた。日本刀をしまうときに見た限りでは、それ以外は何も入っていないようだった。
「化粧品とか、タオルとか、携帯電話とか、そもそも財布を持っているのか」
「ここまでの切符なら、テツマが買ってくれた。
それ以外に、何か必要な物があるのか?」
「いや、お前に聞いた俺がバカだった……」
そもそも常識が違うことを、ジンは思い知らされたのだ。本家の長女がこれで良いのかと言う疑問は、今は考えないことにすることにした。これでは嫁に行けないだろうと言うのは、もっと考えてはいけないことだろう。誰か見た目で騙される相手を見つけないと、自分におはちが回ってきそうな気がしてしまったのだ。一瞬鼻についた汗臭さも、香水臭いのよりはマシとは、前向きに考えることはできなかった。
松本空港から南紀白浜空港まで、小型のチャーター機でおよそ1時間のフライトだった。その間ずっと外を見てはしゃいでいたアキを無視し、ジンは身の振り方を考えることにした。100年に渡る碇との因縁は、アキのような武闘派には根強く残っている。だが自分のような頭脳派には、どうでも良いこととしか思えなかった。そして次期当主と目されているテツマも、碇との争いには興味がないように見えていた。と言うか、テツマは神凪自身から逃れたいと考えているようだ。跡取りの意欲の無さも、碇に対する危機感を煽る理由になっているのだろう。
だが冷静な目で見たときには、碇は争うべき相手なのかという問題がある。碇と友綱を合わせれば、依然として政界に太いパイプが維持されている。そのパイプを利用されたら、神凪でも大きな痛手を受けることになるだろう。それなりの対処はしているが、穏便に済ませておく方が身の為なのである。それに、100年前とは時代が違うだろうとジンは言いたかった。語られている碇との因縁にしても、どこまで誇張されたものか分かった物ではない。
翻って碇家次期当主を考えてみると、なかなか興味深く思えてしまうのだ。仕事柄付き合ってきた相手と比較すると、間違いなく一級品と言えるのだろう。投資物件として考えれば、かつて無い優良物件なのは間違いない。企業家として考えたとき、いの一番にコネクションを構築する相手だとジンは考えた。比較しては悪いが、友綱の跡取りでは太刀打ちできないと見切っていたし、神凪の跡取りなど論外だと考えていたのだ。跡取り同士の勝負をしたら、間違いなく友綱・神凪は碇に飲み込まれてしまうだろう。
(そうなると、落としどころをどこに持っていくかと言うことか)
武闘派が血気に逸っているのは、アキを見れば一目瞭然だった。そこに理を解いたとしても、聞き入れられる可能性は皆無に等しい。そもそも現当主が、武闘派の頭を勤めている事情がある。アキほど血が上っているとは考えられないが、流れが融和に向かうのは期待薄というものだ。従って、ジンとして落としどころをどこに持っていくのか、そしてどう誘導するのかに頭を使わなければならなかった。
そこでちらりと頭をよぎったのは、逆に好機ではないかという考えだった。幸い本家が潰されても、神凪コーポレーションへの影響は軽微なのだ。事業を続けていく上で、むしろ本家の存在が足枷になっている部分もある。うまく碇を利用することで、本家を潰すことができたなら。余計な重しがとれるということに繋がるのではないかと考えたのである。
(だとすると、むしろ闘争心を煽った方がメリットがあるか……)
碇家次期当主と手を組めるのなら、むしろ本家が自滅してくれた方が都合が良い。考えを変えたジンは、落としどころを考え直すことにしたのだった。
日本一広い市と言われる田辺市の中心街に、神凪の本拠地は置かれていた。本来彼らの居場所は、そこから山奥に入った熊野山中のはずだった。だが今日日山奥に籠もっていても、何も良いことはないのである。だから折衷案として、海沿いの繁華街に出てきたのである。もっとも繁華街というのは、熊野山中に比べてという意味である。日本の中心から比べれば、どうしようもない田舎というのには変わりはなかった。
その田舎の町外れに、神凪は本宅を構えていた。彼らの立場を考えると、目立つ広大な屋敷というのは邪魔以外の何ものでもない。だから彼らの持つ財力から見てひっそりとした、そして地方のどこにでもある資産家の構えをとっていたのだ。
神凪ジンが南紀白浜空港から帰り着いたのは、ちょうど夕餉の時間だった。本宅にアキと共にタクシーで乗り付けたジンは、そのまま迎えに出た女中に大広間に連れて行かれた。アキの方はと言うと、本宅の長女と言う事で、別の準備が必要らしい。久しぶりの親族会議に、ジンはしきたりを思いだしていた。
こちらにと連れて行かれたのは、末席と行って差し支えのない席だった。コの字型に並べられたお膳の一番端、宴会なら幹事席に座らされたジンは、正面に五つ並べられた本家の席を見た。並びに間違いがなければ、中心に座るのは現当主神凪ゼンザブロウ、そしてその隣が妻のアサヒと言う事になる。そしてゼンザブロウの隣には、次期当主となる神凪テツマ、そして反対側には長女のアキが座るのだろう。するともう一つ用意されたのは、いったい誰の席あのだろうか。しかもその席は、やけに端に作られていたのが不思議だった。
そしてコの字型の両側に10ずつ並べられた親族席。一番入口に近いと言うことは、自分が一番格下と言うのは間違いない。
(誰のおかげで、何不自由なく暮らせていると思っているんだ)
その席次もまた、ジンには不満その物だった。かつて情報を一手に扱うことで、碇の中でその存在を誇示していた神凪である。碇と袂を分かってからも、その位置づけは少しも変わっていないはずだった。変わったことと言えば、友綱が担っていた暴力も身内に取り込んだことだろうか。しかも今の当主や長女が頭となった事で、情報から暴力に重点が移っていたのである。
そんな彼らの活動資金は、ジンの経営する神凪コーポレーションが一手に稼ぎ出していた。つまり神凪は、ジンの働きがなければ立ちゆかない組織だったのだ。だからこそ、誰のおかげというジンの考えになる。
(初めは、碇に比べて進歩的な組織だったはずだ……)
それが今では、融通の利かない旧態然とした組織となっている。それが頭に立ったことのない者の限界だと、ジンは考えるようになっていた。そして組織を束ねる力の無い当主が、今親族の頭に立って、滅びの決定をしようとしていた。
「みなも腹が空いたことだろう。
粗食ではあるが、まずは腹を満たしてくれ。
残念ながら、これから重要な話をするから、それが終わるまで酒は待って欲しい」
当主ゼンザブロウの言葉で、味けのない晩餐が開始されることとなった。おそらく仕出し料理としては悪くはないのだろうが、ジンにしてみれば文字通りの粗食だった。天ぷらにしても刺身にしても、今時こんな物を有り難がる方がおかしいのだ。しかもできたてならいざ知らず、天ぷらなどすでに冷め切っていた。だが田舎育ちの親族達は、とっておきの粗食を有り難そうにいただいていた。
余り食欲は沸かないが、この後腹にたまる物は絶対に出てこない。渋々冷めた仕出し料理に手を出したところで、御当主一家が勢揃いすることとなった。なるほどこれで時間が掛かったのかと納得したのは、アキが綺麗な着物に身を包んで現れたことだった。さすがに飾り立てれば、元の素材が際立ってくる。馬子にも衣装という言葉通り、なかなかの美女ぶりを際立たせていた。もっともその本質を知るだけに、ジンは少しも感心することはなかった。そしてどちらがアキの本質かというのは、ぎこちない動きを見れば一目瞭然だったのだ。それでも親族の中からは、お美しいという本気の世辞が所々から上がっていた。
黙々と食べれば、仕出し料理など10分も掛ければ食べ終わってしまう。一同の終わりが見えたところで、ゼンザブロウはお茶をすすって小さく咳払いをした。
「皆も知っていることと思うが、碇の跡取りが日本に帰ってきた。
すでに友綱は、その跡取りの軍門に下っている。
さすがは碇と言うところだが、我らは友綱のように平和惚けをしてない。
大人しく奈良で引きこもっているのなら見逃してやったのだが、
どうやら我らの地に足を踏み入れるらしいのだ。
まさに飛んで火に入る夏の虫、どう料理をするのか皆の考えを教えて欲しい」
考えを教えろと言ってはいるが、ジンはそれをまともに受け取らなかった。そもそも親族会議など、当主の考えを追認するための物でしかない。考えを教えろと言う言葉にしても、気に入る答えを出せという意味しか持っていなかったのだ。そしてこの場合当主の気に入る答えは、碇家次期当主を迎え撃ち、目に物を見せるというのがそれにあたった。そしてジンが考えた通りの答えが、筆頭席に座る老人から出されたのである。
「碇の小せがれは、我らの因縁を甘く見ておるのでしょう。
ならば、その甘い考えがどう言うことを招くのか、教えてやるのが我らの努めと考えます。
さすがに今の世に生かして帰さぬと言うわけに行かないでしょうから、
痛い目に合わせて追い返してやりましょうぞ」
「痛い目程度では甘いのではないか?
五体満足で帰さないのが、我らを甘く見た報いという物だ」
「綺麗な顔を、二目と見られぬ顔に買えてやるのも一興ではないか?」
そして筆頭の言葉に勢いを得て、他の者たちも一斉に目に物を見せろとはやし立てた。それに呆れたジンは、アキが自分を見て得意げな顔をしているのに気がついてしまった。その表情を翻訳するなら、「言った通りだろう」と言うところか。強い疲労を感じながら、やってられないとジンは現実逃避をしていた。
(こいつら、バカしか揃っていないのか?)
暴力で小さな満足を得ることに、どれだけ意味があることなのか。ここで全面戦争にもつれ込めば、間違いなく友綱は碇の側に着くだろう。それは次期当主の見た目ではなく、恩義に報いるという意味がある。そしてもう一つの問題は、碇の家がそこまで没落しているのかと言う事だった。情報が正しければ、次期当主に付けた監視が、ことごとく痛い目に合わされているではないか。
だがジンは、ここで異論を挟む愚を犯さなかった。末席という立場が示す通り、彼の発言権無いのに等しかったのだ。彼に意見が求められるとしたら、それは大勢が決まり、それに追随する意見を出すときだけである。それが分かっているから、こんなつまらぬ会議には出たくなかったのだ。
そのつまらない会議の中で、一つだけジンの興味を引いたことがあった。それは現当主ゼンザブロウが、この件の対応を次期当主テツマに任せたことだった。
(テツマの権威付けか……アキを補佐にしたところは、危ういと考えているのだろうな)
神凪の本質、情報収集能力に陰りは出ていない。だがいくら情報を集めても、それを扱う能力がなければ猫に小判なのである。そしてジンの目から見て、今の神凪には情報を正しく扱う能力はなかった。神凪の中では、ジンのような存在は異端に属していたのだ。だからこそ、こうして低く扱われてもいた。
ジンの触れることができる情報だけでも、碇家次期当主は容易ならない相手と言う事が分かってくる。エヴァンゲリオンパイロットと言う実績は、世間的には絶大な評価を集める物なのだ。そしてその事実を忘れても、友綱マドイ誘拐事件を解決する能力を持っている。送り返しただけという豪龍寺で広がっている話も、深い策略から出た物だとジンは考えていた。ただこのことについては、神凪内では豪龍寺広がる話が正しいという意見が大勢を占めていた。
そして忘れてはいけないのは、碇家次期当主を守る者の謎の存在である。這々の体で逃げ出してきた者の言葉を纏めると、まだ若い男女ということしか分かっていない。その存在もまた、不気味としか言いようがなかった。更に言えば、誰がその男女を仲間に引き入れたのかということも気になった。それが碇家次期当主の力というのなら、神凪は挑んではいけない戦いに、軽い気持ちで臨むことになる。
(相手の力を正しく評価できないのは、世間を知らない事が理由なのか)
情報を扱う資質がない以上、正しい判断を行うことはできない。予想通りに進む親族会議に、ジンは再度身の振り方を考えることにした。最悪の場合は、会社を潰して自由になる事を考えなければならない。
会議と言うより、一方的に誰かがまくし立てているだけだった。その言葉にしても、ただ威勢が良いだけで、どうするという展望に欠けた物だった。それでも騒ぎが少し収まったところで、ゼンザブロウが「皆に感謝する」と大声を上げた。彼にしてみれば、満場一致で碇家次期当主を血祭りに上げることが決まったと言うことだろう。
やれやれこれで終わりかと席を立とうとしたとき、「もう一つ」とゼンザブロウが大きな声を上げた。
「そろそろ、アキを嫁に出そうと考えている。
碇の跡取り息子を血祭りに上げた次は、アキの祝言を挙げたいと考えている!」
それで振り袖かと、飾り立ててきた理由に納得がいった。もっともジンには、それ以上の感想を抱かなかった。神凪アキは、今年で22になろうとしている。最近では早婚になるのだろうが、一族のことを考えれば、嫁入りを考えてもおかしくはないと思っていた。
だが次にゼンザブロウが発した言葉に、ジンは今日一日のどたばたの理由を理解したのだった。そもそも末席でしかない自分の出席が問題とされたのか。そしてなぜ長女のアキが迎えに来たのか、ゼンザブロウの言葉はその理由を明確に示してくれたのだ。
「神凪の財政を支えるのが、第二に居るジンと言うのは皆も知っているだろう。
あやつも今年で35になる、いい加減嫁を迎えてもおかしくない歳になったのだ。
そろばん勘定に長けてはおるが、神凪の本質を忘れないようにする必要がある。
アキを嫁入りさせ、神凪の力を更に力強い物にさせようと思っておる」
「ち、ちょっと待ってくれ!
俺には、結婚しようと考えている女性がいるんだぞ!」
思いがけない言葉に、思わずジンは叫んでしまっていた。だがその途端、親族全員から人を殺しそうな視線を向けられた。そしてアキからも、何が不満だと言う目を向けられた。
「それがどうした?
よその女なら、別れてしまえば済むことだ。
手切れ金が必要なら、欲しいと言うだけ払ってやればいいだろう」
冷たく言い放たれたことに、ジンは本気で殺意を抱いてしまったほどだ。どこまで自分本位なのだと激怒したジンだったが、これが神凪なのだと旧態然とした組織を思い出した。一族に関わる事は、全て当主が決めることになっている。その中には、婚姻も含まれていると言うのは今更のことだった。そしていくら刃向かおうとも、誰も味方にならないことは言うまでもなかった。
だからと言って、大人しく受け入れるつもりは全く無かった。だがそんなジンの意志に関係なく、ゼンザブロウはこっちへ来いと呼び寄せた。つまり不自然に作られた五番目の席、アキの隣に座れと言うのだ。
親族会議の場において、ゼンザブロウの命令は絶対の意味を持つ。ここで逆らうことは、最悪殺されることもあり得るだろう。いくら意に沿わない命令でも、ジンには従う以外の選択肢は残されていなかった。渋々アキの隣に座ったジンに、親族一同の鋭い視線が向けられた。その視線を無視したジンは、勝ち誇った顔をしているアキに声を掛けた。
「お前、第二に来るつもりが有るのか?」
「ジン兄の嫁になるのだから、当然私も第二に行くぞ。
ただあんな空気の悪いところは嫌だから、空気の良いところを探してくれ。
確か北の方に行けば、安曇野の地があったはずだな」
「俺は、そんな遠いところだと仕事にならないのだがな」
「それでも帰ってくるのが、亭主の務めというものだろう。
こんな若くて美しい私が嫁に行くのだ、しかもジン兄の立場も上がるのだ。
それぐらいのことは、大した問題じゃないだろう」
いったい誰が神凪の屋台骨を支えているのか。自分以外の誰が支えているのかと、ジンは大声で問いかけたい衝動に囚われていた。だがそれを口にしたところで、まともな答えが返ってくるとは思えなかった。得意げな顔をするアキを無視したところで、ゼンザブロウが「難しい話は終わりだ」と声を張り上げた。そしてそれを合図とするように、女中達が大量のとっくりを持って現れた。つまりこの後は、一族揃っての酒盛りという訳である。付き合いきれるかと、ジンは逃げだそうとしたのだが。
「こら、主役の一人が席を外してどうする!」
それを見とがめた親戚一同とアキに引き留められた。そして祝い酒だと言って、ビールメーカーの名前入りのコップを手渡された。当然その中には、なみなみと日本酒が注がれていたのである。
「ジンよ、アキは三国一の花嫁になるぞ。
それにお前の立場も、儂らを飛び越すことになる。
いいか、アキを大切にするんだぞ!」
誰だか思い出せないのだが、この場にいるからには親戚の一人に違いない。とっくりを持って、さっさと飲み干せと圧力を掛けてくれた。後ろに列ができているのを考えると、まともに付き合ってはあっという間につぶれてしまう。この退屈きわまりない宴から逃げ出すには良い方法なのかも知れ居ないが、目が覚めたとき隣に裸のアキが寝ていると考えるとぞっとしない。絶対に酔いつぶれないと言う覚悟を決め、「不調法ですから」と断って、少しだけ酒を注いで貰うことにした。
そして返す刀で、ジンはアキを酔い潰すという作戦に出ることにした。この方法の都合が良いのは、親戚一同勘違いをしてくれるという所にある。そしてもう一つ、主導権を手元に置くことができると言うことだ。そしてジンが思ったとおり、親戚の男どもは我先にとアキを酔い潰しに掛かってくれた。
(やっぱり、こいつはバカだ)
お世辞と一緒に酒を勧められ、アキは限度を考えずに杯を煽り続けた。いくら酒豪でも、そんな真似をすればいつまでももつはずがない。それでも、アキはなかなかつぶれてくれなかった。まだかと冷や汗を掻いていたら、コップ20杯ほど重ねたところでアキが酔いつぶれてくれた。きっちりと着ていた振り袖も乱れ、一見色っぽい格好にはなっていたのだが、一ミリも劣情は湧いてくれなかった。
「テツマ、少し手伝ってくれないか?」
誤解を利用するためには、この場からアキと共に消える必要がある。だが酔いつぶれたアキを運ぶには、さすがにジンはひ弱すぎた。そこでジンは、テツマを共犯者に選んだ。親族会議が始まってから観察を続けたのだが、一人蚊帳の外に置かれていたのに気づいたいたのだ。それにテツマの性格では、もともと暴力を肯定しないのを知っていた。
「そうだねジン兄さん、姉さんを寝所に運ばないといけないね」
渡りに船と喜んだテツマは、ジンの言葉にすぐさま立ち上がった。そしてジンの反対側で、酔いつぶれたアキを支えた。さすがに男二人いれば、正体を無くしたアキを運ぶのも難しくなかった。
「テツマ、お前はすぐに戻ってくるのだぞ!」
その姿を目にとめたゼンザブロウは、テツマにだけ帰ってこいと命令を出した。裏を返せば、ジンは帰ってこなくても良いと言うことになる。つまり酔いつぶれていようと、自分の娘を抱いてこいと言っているのだ。色々と本家に対して腹を立てていたジンだったが、さすがに可哀相だとアキに同情してしまった。
「ジン兄さんには悪いと思っているんです」
大騒ぎの酒宴からアキを運び出したところで、テツマはごめんなさいとジンに謝った。
「本家が偉そうにしていられるのも、全部ジン兄さんのおかげだというのは分かっています。
あの人達は、金を出せばもうけが出るのが当然だと思っているんです。
そこにどれだけの苦労と才能が必要だなんて全く分かっていない」
「お前が後を継げば、多少ましになるんだろうな」
「俺じゃ、あの人達を押さえきれませんよ。
親父の代になって、神凪は完全におかしくなっています。
あの親父ですら、どこかおかしいことを感じているんですよ。
でもそれがなんなのか、考えることをやめてしまっているのが問題なんです。
それでも分かっているのは、兄さんが逃げたらとんでも無いことになるってことです。
だから姉さんを嫁に出して、兄さんをつなぎ止めようと考えたんですよ。
でも姉さんは、ジン兄さんが相手で喜んでいるんですよ。
ただ素直になれないというのか、ちょっと常識がずれているというのか。
ただ俺も、ジン兄さんが姉さんを貰ってくれればと思っています」
そこまで話して、テツマはもう一度ごめんなさいとジンに謝った。
「そう何度も謝るな。
お前と話をして、少しほっとしているところもあるんだ。
テツマは、二十歳になったんだったな。
大学は……」
「和歌山大の機械科です。
ジン兄さんのおかげで、バイクいじりもしているんですよ。
だけどそれも、親父は気に入らないようですけどね」
「技術を持つことは良いことだぞ。
8耐では、かなり良い成績を取ったんだったよな?」
「あれは、仲間が良かっただけですよ」
ジンに褒められ、テツマは照れたように鼻の頭を掻いた。
「でも、自分で整備したマシンに乗るのは気持ちいいですよ。
それに仲間と一緒に走るのは、達成感がありますからね」
少し嬉しそうに答えてから、テツマは表情を曇らせた。
「俺は、碇と争うのは反対です。
でも、神凪の空気はそれを許してくれません。
お互いつぶし合うより、どうして一緒に伸びていこうと考えないんでしょう。
昔と違って、競争する相手は世界中に広がっているのに……」
「田舎に籠もっているせいで、視野が極端に狭くなっているんだよ。
だから沢山の情報を集めていても、心のフィルターがそれを排除しているんだ。
碇ドッポはよく分からんが、碇シンジなら色々な情報がある。
日本に帰ってきてからの情報だけでも、争う相手じゃないことは一目瞭然だ。
あれだけ多くの組織に監視されている高校生なんて、世界のどこを捜しても居ないだろうな」
「なんで碇シンジは神凪に興味を持ったんでしょうね……
こちらに来なければ、争いになる事もないのに」
テツマの疑問に、ジンは答えを持っていなかった。ただ「さあな」と答えて、テツマの言葉を待ったのだった。
「俺も、碇シンジの情報は見ています。
さすがに、友綱があんなに簡単に陥落するとは思ってもいませんでした。
それに豪龍寺の編入試験で、天才的な頭脳を披露していますよね。
入学して僅か5日間で、生徒達の心も掴んでいます。
教師達の対応も、変化が見えてきています……
もう、凄いなんてものじゃない。
彼は、指導者となる資質に溢れていると思います。
だから、どうして神凪にちょっかいを掛けてくるのか余計に分からなくて」
「もしかしたら、警告なのかも知れないな……
見張らせていた奴が追い返されただろう?
碇シンジは、神凪が見張っているのに気がついているんだ。
だから直接警告に来ようとしているんじゃないのか?
大人しくしているのなら何もしないと。
手を出してくるのなら、叩き潰してやるとな。
向こうから見れば、監視している時点でうちが先に手を出したと考えるだろうな。
見張られているのが分かるのは、鬱陶しいことこの上ないからな」
「だったら、話し合いで終わることですよね?」
「ああ、たぶん碇シンジには通用するだろうな。
だが神凪の御当主様は、戦う気満々なんだろう?
結局、神凪が碇と戦いたくて仕方が無いんだよ」
感情を込めず言い切ったジンに、そうですねとテツマは認めた。
「碇と正面からぶつかったら、いったいどうなるんでしょうね。
碇シンジは、何をしてくるんでしょう?」
「さすがにそれは分からないが……
一人でのこのこと乗り込んでくるようなマネはしないだろう。
そうなると、得体の知れない護衛が付いてくることになるな。
どこまで相手が準備しているのかは、さすがに想像が付かないな」
「血が流れるんでしょうか……」
「それは、神凪次第と言う事になるな」
ジンの言葉が正しければ、流血は避けられないと言うことになる。事実神凪は、親族会議で五体満足では帰さないと決定していた。
「ジンさん、碇を潰して良いことがあるんですかね?」
「年寄り共は、良いことがあると考えているんだろうな。
まあ本当に潰せれば、自己満足ぐらいは得られるだろうよ」
「自己満足程度しか得られないんですね……」
小さくため息を吐いたテツマに、そうだなとジンもため息を返した。もともと居心地の悪いと思っていた本家が、更に居心地の悪いものになってしまっていた。テツマが言うとおり、おかしくなってきているのだろう。ある意味豊富に資金を調達したことで、自分達の力を勘違いしてしまったのかも知れない。
そうやって歩いて行けば、アキの部屋にはすぐ着くことができる。テツマが襖を開くと、すでに布団が敷かれていた。そして予想通りというか、その布団には枕が二つ並べられていた。
「もともと無いと思っていた常識だが、更に酷いことになっていないか?」
「ごめんなさいとしか言いようがないです。
でも、それだけジン兄さんを引き留めようと必死になっているんだと思います。
あとは、姉さんもその気になっていると言うのもありますが……」
「お前も、俺にアキを貰って欲しいんだったな」
弟のようなテツマにまで言われるのだから、親戚一同の総意というのは間違いない。怒るに怒れないジンは、深すぎるため息を吐いたのだった。
「しかし、色気のない部屋だな、ここは」
「姉さん、女性的なことは苦手だから……」
良い意味では質素、ちょっと冷静に言うなら飾りっ気のない、そして正直に言うなら殺風景な部屋に、ジンは失望を感じていた。小さな頃のアキを知っているのだが、その頃はもう少し女の子らしいところがあったはずなのだ。それなのに、部屋の中を見てみても、どこにも女性を思わせるものは見あたらない。時代小説とか剣道の指南書とかは見つかっても、料理やファッションどころか普通の小説すら見つけられなかったのだ。
「ジン兄さん、付き合っている人が居るって言っていましたよね」
「ああ、いい加減結婚しようと考えていたところだ。
見た目やスタイルは人並みなんだが、とにかく性格が良いんだよなぁ。
だからそいつと居ると、疲れないというか、安らぐというのか……」
「つくづくごめんなさいとしか言いようがないんですね」
まさか振り袖を着たまま布団に寝かせるわけにはいかない。テツマは手慣れた様子で、アキの着物を脱がしていった。最初の帯では手こずったが、それさえ乗り越えれば後は簡単だった。そして頭の方も、油で固めていなかったので、髪飾りと櫛を外せばそれで終わりだった。5分もしないうちに、テツマによってアキは白い襦袢だけに剥かれていた。
「こう言っちゃなんだが、手慣れているな?」
「古い家ですから、着物は珍しくないんですよ。
ちなみに言っておきますが、俺は童貞ですからね」。
機械工学部なんて、女っ気の無い学部ナンバーワンだと思いますよ」
「だが、大学には女子学生も大勢いるだろう?
それにレースをやっていれば、レースクイーンだって居るじゃないか」
「プライベートチームにそんなものは居ませんよ。
本当に体育会の乗りだから、女っ気なんか全くないんですからね。
それに軟派でもしない限り、女性と知り合うきっかけもないんですから……」
「結構可愛い顔をしていると思うんだがなぁ」
小さく吹き出したジンに、はいはいとテツマは投げやりな答えを返した。そしてジンに対し、いきなり選択を突きつけた。
「で、これからどうするんです?
ここまで来たら、何もしないというのは許されませんよ。
ジン兄さんには同情しますけど、俺だって姉さんを泣かせたくありませんからね」
「だがなテツマ……」
「結婚なんて、かならずしも恋愛でするとは限らないでしょう?
ジン兄さんだって、逃げられないのは分かっているはずです。
池上シュリさんっていいましたよね。
ジン兄さんが拘ると、その人にも迷惑を掛けることになります。
俺は、ジン兄さんを辛い目に遭わせたいとは思っていないんです」
情報の使い方はうまくないが、情報を集めるのがうまいのが神凪である。ならばジンの交際相手が知られていても不思議ではないだろう。そして暴力の比重を増した今の神凪なら、邪魔者に直接的な行動に出ても不思議ではない。その事実を義弟に教えられ、ジンは自分のうかつさを呪った。
「ここの奴らは、俺まで敵に回したいと思っているのか……」
苦しげにはき出すジンに、テツマはもう一度ごめんなさいと謝った。
「価値観が違いすぎるんです。
あの人達にしてみれば、ジン兄さんは涙を流して喜ぶ立場なんですから」
本家の長女を嫁にするのは、末席の者には考えられない名誉だろう。それを不思議と思わない者達に、ジンの気持ちが分かるはずがなかった。
「でも、その頭の固さが神凪が結束できる理由でもあるんです。
だから進歩的な碇と、そりが合わなくなったんでしょうね。
その因縁も、明日には一つの区切りが付くことになるんでしょうか」
「そのときは、神凪が吹っ飛ぶことになるのかも知れないぞ」
「もしもそんなことになったら、ジン兄さんが姉さんを守ってあげてください。
でも、今のままでは滅びるのは碇の方でしょうね。
得体の知れない護衛を付けていても、ここに乗り込むには戦力が足りなさすぎる。
友綱が動いていないのは確認できているんです。
それどころか、碇ドッポすら何も動きを見せていません。
問題は、碇の次期当主を潰した後のことだと思っています」
眠っているアキに布団を掛け、テツマは「そろそろ戻る」とジンに告げた。
「こんなこと強制できるものじゃないのは分かっています。
だけどジン兄さん、兄さんも覚悟を決めるときだと思っているんです」
「百歩譲ってもだな、酔いつぶれた女なんか抱きたくないぞ。
キス一つするにも、臭くて悪酔いしてしまいそうだ」
「だったら酔い覚ましでも飲ませてあげてください……口移しで。
なんなら、お風呂に一緒に入っても良いんですよ」
「どうあっても、逃がさないという訳か……」
「ジン兄さん、諦めが肝心ですよ」
そう言うことでと手を挙げ、テツマは広間へと戻っていった。そうなると残されたのは、酔いつぶれたアキとほとんど素面のジンだけになる。いくら美女でスタイルが良くても、酔いつぶれてだらしない姿を見せられると、なかなか劣情など抱けるものではない。ましてや、相手は小さな時から知っている女性だった。
「確かに、今更に逃げられないか……」
諦めたようにため息を吐いたジンは、スーツの上着を脱ぎネクタイを緩めた。着替えらしきものは、布団の上にたたまれていた。初めから予定通りなのだと呆れながら、ジンは風呂を浴びることにした。今のままでは勢いすらないから、せめて覚悟だけは決めてこようというのである。
ふうっともう一度ため息を吐き襖を開けようとしたら、小さな声でアキが「ジン兄」と呼びかけてきた。
「なんだアキ、目が覚めていたのか?」
「ジン兄、どこに行くんだ……私を捨てて、どこに行くんだ……」
「捨てて行きはしないよ。
ちょっと汗を流しに、風呂に行くだけだ」
「ジン兄、ジン兄、私を捨てていかないでくれ……」
全く会話が通じないのを不思議に感じ、ジンは起き上がったアキに近づいてみた。テツマがわざとやったのか、白い襦袢ははだけ、形の良い胸があらわになっていた。そして下の方を見ると、黒い茂みが暗い明かりで更に暗さを増していた。
「アキ?」
「ジン兄、行かないでくれ……」
「寝ぼけているのか……」
よくよく見てみると、薄く開かれた目はジンの方を見ていなかった。その寝ぼけた状態で、ジンを引き留めようとしていた。
「体ばかり大きくなって……まだ子供なんだな」
「ジン兄、行かないで……」
「ああ、どこにも行かないよ」
行かないでを繰り返されると、たとえ風呂にでも行きにくくなる。仕方がないと諦めたジンは、ワイシャツとズボンを脱いでアキの横に腰を下ろした。
「どこにも行かないから、大人しく寝るんだぞ」
「うん、ジン兄と一緒なら……」
嬉しそうに横になり、アキはジンにしがみついてきた。その柔らかさに女性を感じはしたが、体から発散される酒臭さがすべてを台無しにしていた。寝言で「ジン兄」と可愛らしいことを言ってくれるが、その気になれるかというのは全く別物だった。
「こんなことなら、俺が酔いつぶれても同じだったな。
いや、余計なことを悩まず済むだけ酔いつぶれた方が良かったか」
だがいくら嘆いても、今更手遅れというものだった。仕方がないともう一度諦め、ジンはアキの体を抱き寄せた。すべては明日、もしかしたら深夜かも知れないが、起きたときに先延ばしをすることにした。
日が上がって時間が経つにもかかわらず、誰も起こしに来ないのはきっとこの状況を予想してのことだろう。襖の隙間から差し込む朝日に、ジンはそんなことをぼんやりと考えていた。まだあまり実感はないが、自分のしたことには後悔は無い、無いと思いたかった。
いささか左側が重たいとか、左腕がしびれているとか、相変わらず酒臭いと感じながら、ジンは檜で作られた天井を見上げていた。比較的新しい本家といえども、すでに立てられてから10年以上が経過している。初めは真新しかった檜の天井も、今はしっかり古びた色に変色していた。
「どんな新しいものも、いつかは古くなってしまう……か」
建物の古さと一族の古さには関係はないはずだった。だがこの手入れの行き居届いていない天井が、今の神凪を象徴している気がしてしまった。新しければいいとは言わないが、時代が動いている中、古いままでは結局取り残されてしまうことだろう。すべてを新しくする必要はなくても、変わっていく努力が必要なのだとジンはぼんやりと考えていた。
「俺がアキを妻にし、テツマの後見人になる。
神凪が変わるには、それ以外の方法はないのか」
だがその前には、碇との対決が控えている。そこで勝利したとき、武闘派は更に勢いづくのではないだろうか。そして負けてしまったとき、神凪自体が吹き飛びかねない。ジンの考える変革は、よほどの幸運が重ならない限りあり得ないのだと分かってしまう。
それでも方法はあるはずだ。それを考えようと集中しようとしたとき、ジンの左腕のところでアキがもぞりと動いた。いい加減目が覚めようとしているのだろうか、一人の時間が終わりに近づいたのを感じ、ジンは左腕に力を入れアキを抱き寄せた。左の肋骨に、アキの柔らかな膨らみが押しつぶされるのが分かった。
「ジン兄、起きているのか?」
「ああ、だからもう少しお前を感じさせてくれ」
「良いとも、私のすべてはジン兄のものだからな!」
アキは左腕をジンに回し、ぎゅっと力を込めて抱きついてきた。いささか暑くて苦しいのだが、敢えてそのことは口にしなかった。
「アキは、俺の妻となり俺に従うのか?」
「何を今更、そのつもりだから抱いて貰ったんだ。
アキは、生涯ジン兄の妻として仕えることを誓うぞ」
「俺が、神凪を変えようとしてもか?」
「野心もないつまらぬ男に私が惚れると思っているのか?
ジン兄に逆らう者は、この私が斬り殺してやる。
それが私の答えだが、ジン兄はそれでも不満か?」
「ああ、不満だ。
ジン兄ではなく、ジンと呼べ」
「ジン……ジン、そうだなジンで良いんだな」
少し嬉しそうにして、アキは左腕に力を込めた。
「ジンのためなら、相手がテツマでも父様でも切り捨ててやる」
「俺は、テツマと力を合わせて神凪を変えようと思っているんだぞ。
それから、お前に親殺しをさせるわけにはいかないだろう」
「だけど父様の目が黒いうちは、ジンの自由にはできないぞ」
「だとしても、お前が後当主を殺せば波風が立ちすぎる。
大丈夫だ、外堀をうまく埋めてやれば、テツマに代替わりをさせることができる」
「だったらジン、何をすればいいのか私に命令してくれ」
そう言ってのし掛かってきたアキは、下の方で感じる堅さと熱さに、いきなり顔を赤くした。完全に酔いが覚めていた訳ではないが、昨夜のことは鮮明に覚えているようだ。下半身に感じた熱さに、それを思い出してしまったのだろう。
「じ、ジン、まだ、したいのか?」
「ん?」
「じ、ジンがしたいというのなら、わ、私はいつでも構わないのだぞ」
薄暗がりだったが、アキが顔を赤くしているのに気がついた。そして下腹部をこすりつけるような動きに、そう言うことかとジンはアキの変化の意味を知った。男を受け入れる喜びを知ったことで、我慢できなくなってしまったのだろう。
「そうだな、今度はアキが上になってくれるか?」
「私が上になるのか?
どうすればいいのか教えてくれるか?」
自分の目を見て真剣に聞いてくるアキを、可愛いなとジンは感じていた。昨日とのギャップは大きすぎるが、それを思い出さなければ本当に可愛い女なのだ。
「体を起こし、俺にまたがるようにしてお前の中に入れれば良いんだ」
「体を起こして、ジンの物を私の中に入れれば良いんだな」
言われたとおりにしようと、アキは両手を突っ張って起きようとした。体が離れたことで、たわわな胸がジンの目の前に晒された。そこに少し痣のように見えるのは、昨夜自分が付けた痕だろうか。ジンは両手を伸ばし、たわわな胸を鷲づかみにした。
「あああっ、ジン……」
それだけで力が抜けたアキだったが、ジンの両腕に支えられて何とか言われたとおりに体を動かした。そして右手でジンの物を、自分の中へと導いた。
「わ、私はジン兄の物だ」
「そうだアキ、お前のすべては俺の物だ」
毒を食らわば皿まで。ジンはアキを抱くことで、自分の物へと塗り替えていくことを選択した。
ジンとアキが目交っている時、すでに神凪は動き始めていた。まず初めに彼らがしたのは、碇家次期当主の動きを確認することだった。本当に紀伊田辺まで来るのか、そして本当に来るとしたら、いつ現れるのか。それが分からなければ、対処のしようもないという物だ。そしてもう一つ、相手がどんな準備をしてくるのかと言うことだ。
「碇の本家、それから友綱に動きはないんだな?」
陣頭指揮をするテツマは、重要な事だと配下の男に報告を求めた。碇と友綱は動かない。その前提が狂うと、すべての準備が無駄になってしまう。
「碇については、完全に掴み切れては居ませんが……
ただ帆掛は、普段と変わらぬ行動をしています。
友綱の方にも、動きは見られません。
こちらを攻めるのなら、事前に人を動かす必要があります」
「それがないと言うことは、今日ではないと言うことなのか?」
「その可能性が高いと……すみません、新しい報告が入ってきました。
碇シンジが、いま瑞光の家を出たという報告が来ました。
歩いてJR奈良駅の方に向かっていると言うことです」
「奈良駅へ向かったんだな。
それで碇シンジは一人なのか?
どんな荷物を持っているのか分かるか?」
「少しお待ちを!
監視映像が送られてきています」
男はテレビに映像を映せと部下に命令した。「ただちに」と返事が上がり、テツマの前の40インチモニタにいささか不鮮明な画像が浮かび上がった。確かにそこに映っているのは、間違いなく碇シンジ自身だった。だがそこに映る姿に、テツマは自分の目を疑った。そこに映った碇シンジは、まるで近所に買い物に行くような軽装だったのだ。
「忍野メメはどうしてる!」
「昨夜戻ったのを確認しています。
それから外出した様子はありません」
「じゃあ瑞光フジノはどうした!」
「瑞光フジノも、自宅から出た様子はありません」
「あの格好じゃ、武器を隠し持つことはできないんだぞ」
テツマが叫んだのも無理はなかった。碇シンジも、紀伊田辺に乗り込んでくれば、穏便に事が運ばないのは理解しているはずなのだ。ならば荒事への備えを行っていてしかるべきなのである。だが映像から観察した限り、武器の類は見あたらなかったのだ。持っていたとしても、財布とペンぐらいだろう。小さなナイフぐらいは隠せるのかも知れないが、それではいかにも準備不足だった。
しかもしている格好は、ブランドのシャツとパンツに革の靴だった。大立ち回りをするには、いくら何でもそぐわない格好だった。
「誰かと合流しないか確認しろ!
それから忍野メメと瑞光フジノ、それに友綱のマークも忘れるな!
小さな見落としが、命取りになりかねないからな!」
「忍野メメが瑞光家を出たという報告が上がってきました!」
メメが外出したという続報に、テツマはほっとため息を吐いた。これで碇シンジの行動は、自分の常識の範囲に入ってきてくれる。そうなれば、対策もぐっと立てやすくなってくれる。
「それで、忍野メメはどこへ向かっているんだ?」
「近鉄奈良駅の方だと報告を受けています」
「天王寺で合流するつもりか?」
紀伊田辺までの最短ルートは、天王寺まで戻ってからJRの特急に乗り換える事である。それを考えたテツマに、部下の男も「おそらく」とその考えを肯定した。
「ですが、忍野メメも普段着だという報告があります。
奴らは、どこで武器を手に入れるつもりなんでしょう?」
「駅のコインロッカーと言うのは考えられないか?」
「誰かがコインロッカーに入れていれば……としか言えません。
この数日、二人ともコインロッカーに近づいた形跡はありません」
「いいから、監視を続けろ!」
ここで苛ついて冷静さを失えば、それだけ相手につけ込む隙を与えることになる。相手にしても、こちらが監視しているのに気がついているはずだ。ならば、裏を掻くための行動をしていてもおかしくないはずだ。
だが次に上がってきた報告に、テツマは更に分からなくなってしまった。碇シンジが大阪方面に乗ったのは予定通りだが、忍野メメは駅では無く、途中のパチンコ屋に入ってしまったのだ。
「こちらをまこうとしているんじゃないのか?」
「いえ、姿はしっかりと確認しています。
1円パチンコで1000円分玉を購入しています」
「忍野メメはおとりと言うことか……」
と言っても、瑞光や友綱に動きは見えていない。すでに碇シンジが天王寺に向かっていることを考えれば、今からでは途中で合流するのは不可能だろう。
「となると、正体が分かっていない護衛だけと言うことか」
「ですが、大勢移動してくればこちらの目に付くことになります。
ここ数日紀伊田辺入りをした者を追いかけていますが、ほとんど金曜中に大阪方面に帰っています。
碇の手の者が残っていたとしても、片手にたる程度ではないでしょうか?」
「碇シンジが、現状を把握できていないとは思えないんだが……」
もしも穏便に済むと考えているのなら、危機感が足りないとしか言いようがない。本気でそんなことを考えているとしたら、自分達は相手を見誤っていたことになる。だがテツマは、これまでの観察で、碇シンジがそんな間抜けではないことを知っていた。ならばよほど自分に自信があるのか、さもなければ思いも寄らない作戦があることになる。
「このままだと、どれぐらいでこちらに着く?」
「天王寺から特急に乗れば、11時過ぎにはこちらに到着します」
「11時過ぎか……」
時計を見れば、もうすぐ9時になろうとしていた。
「姉さんとジン兄さんは起きてきたのか?」
「少しお待ちを……今、ご一緒に入浴されていると言うことです」
「時間の余裕はまだあるか……」
少し目を閉じたテツマは、想定できる事態を頭の中でいくつもあげた。双方穏便に済ませるつもりが無いのなら、必ずどこかで衝突が起きることとなる。もしも相手が少数精鋭で来るのなら、どこを攻めるのが一番効果的なのだろうか。そしてどんな方法で攻めてくるのか。
「本家周辺のビルは固めてあるな?」
「近場のビルは、すべて人を張り込ませてあります。
それから本家周りには、100名ほど人を配置しています。
本家の中にも、50名ほど腕利きを配しています」
「駅には?」
「10名ほど向かわせました。
いずれも腕っ節には自信のある奴らです」
報告が正しければ、備えの方は万全と言うことになる。間違いなく、神凪は圧倒的な数で迎え撃つことができるはずだ。だがそれが分かっていても、テツマは不安がどうしても晴れてくれなかった。
「俺は、臆病風に吹かれているのか……」
さもなければ、因縁の戦いの前に慎重になりすぎているのかも知れない。いかんと頭を振ったテツマは、ひとまず居間に戻ることにした。ジンとアキが揃って風呂に入っているのなら、その次には朝食を食べに居間に来るはずなのだ。そこでジンに、色々と相談してみれば良いだけのことだ。
「新しい動きがあったら、すぐに俺に知らせるように!」
「もうすぐ、碇シンジが天王寺に着く頃ですが?」
「そこで特急に乗り換えるだけだろう?
そのとき誰かと合流するようだったら、すぐ俺に連絡しろ。
俺は居間で、姉さんやジン兄と話をしている」
「承知しました。
何か変化があれば、すぐにお伝えします」
自分に向かって頭を下げる男を残し、テツマは居間へと歩いて行った。計画通りと思えば思うほど、胸の内の不安は大きくなってくれる。今や不安と言うより、確信と言った方が正しいのかも知れない。絶対何か仕込んでいる。それが自分達には分かっていないだけなのだと。
「碇シンジは、恐ろしく頭が切れる……
だから俺たちには思いも寄らない手段を執ってくる可能性がある。
そう考えさせることも、作戦の一つなのかも知れないが……」
そうやって悩むことが、すでに碇シンジの術中に嵌っていることではないか。敵のホームに乗り込むのだから、万全の体制と物量を投入する必要がある。その常識は、古今変わっていないはずだと思っていた。だからこそ、徒手空拳で乗り込んでくる相手に、余計な不安を感じてしまうのだろう。
自分を分析したテツマは、浮かんだ考えを打ち消すように何度も頭を振った。すでに賽が投げられている以上、小さな逡巡が命取りになりかねない。圧倒的な戦力があるのなら、相手に合わせるのではなく、飲み込んでしまうことを考えるべきなのだ。
風呂から上がり、ジンは居間で遅い朝食をアキととることにした。そこで不満があったのは、アキが選んだ格好だろうか。ジントしてはいい加減落ち着けと言いたい様な、動きやすい、ある意味露出の多い格好だったのである。まあ前日第二で見た格好なのだから、きっとそれが普段着なのだろう。妻とするのなら、そのあたりの常識から教えていかなければと、真剣にジンが考えたほどだった。
それでも昨日と違うのは、ジンに対する態度だろうか。今まであった上から目線が消え、すっかり従順な物に変わっていた。
前日の宴会と打って変わって、朝食に用意されたお膳は極めて質素な物だった。一汁一菜、そのおかずにしたところで、近くの海でとれたあじの干物だった。前日のらんちき騒ぎを考えれば、その方が胃の負担が軽いのかも知れないが、かなり物足りないとジンは考えていた。かと言って、米の飯だけで腹を膨らまそうなどとは考えていなかった。
「アキ、お前はこれで物足りるのか?」
「足りないのなら、お代わりをすれば済むだけだろう?」
何かおかしいかという顔をしたアキに、ジンははっきりおかしいと言い返した。
「世の中、バランスというのがあるんだ。
だから俺は、これから駅前の喫茶に行ってモーニングを食ってくる。
どうするアキ、お前も着いてくるか?」
「ジン、そういうときは「一緒に行くぞ」と言ってくれ。
ただ、私はコーヒーというのを飲んだことがないのだ。
コーヒーとは、とても苦い飲み物なのだろう?」
「まあ喫茶店には、それなりに苦くない飲み物もあるさ。
それからアキ、俺と一緒に歩くときは、もう少し可愛い格好をしろ」
「可愛い格好と言われても、これ以外は着物しか持っていないぞ」
予想されたというか、あり得る答えにジンは少し目がくらんだ気がしていた。だったら買ってやれば良いと、前向きに考えることにした。それぐらいの金には不自由していないし、本家の長女なのだから着飾る権利を持っているはずだ。それに嫁に出すつもりなら、飾り付けぐらいしろと言いたかった。
「じゃあ、今日はそれで我慢しておくがな。
それから俺が買ってやるから、次からはそんな格好をするなよ」
「分かった、これからはジンが買ってくれる物以外は着ないようにする!」
嬉しそうな顔をされると、ジンとしても悪い気持ちのしないものだ。一晩での落差が大きすぎるのは気になるが、良い方に変わったのだから良しと考えることにした。
「じゃあ、さっさと出かけることにするか」
「そうだな、私はいつでも準備はできているぞ」
嬉しそうに立ち上がったアキは、どうぞとばかりにジンに手を差し出した。捕まって欲しい欲しいという意思表示をしたアキに、ジンも素直に手を差し出した。
ゆっくりと立ち上がったジンは、ポケットの中身を確認した。いくら神凪の地元でも、金を持たずに出かけるわけにはいかない。ましてや本家のツケなど、死んでもごめん被りたいと思っていたのだ。
「じゃあ行くか」
「そうだな、ジン」
いざ二人仲良く出かけようとしたところ、タイミングよくテツマが現れた。その時テツマが意外そうな顔をしたので、まずそれをジンは突っ込むことにした。
「なんだ、もともとお前がけしかけたことだろう?」
「確かに、それは認めますが……
と、それはまた別の話として、ジン兄さんに相談があるんです。
ところで、何処かに行くつもりだったんですか?」
「ああ、食い足りないというのもあるが、気分を変えたくなったんでな。
駅前の喫茶店にでも行って、コーヒーとトーストでも食ってこようと考えたんだが?
それで、俺に相談するようなことがあるのか?」
「言ってくれれば、それぐらい用意させたのに。
それで、相談なんですけど……」
「気分を変えたいって言っただろう?
で、その相談は後回しにできないのか?」
微妙に食い違った会話に、いけないとテツマは頭を振った。自分が相談しようとしていることは、小腹を満たすことととは比べようもない重要な事のはずだった。しかも一緒に行くという姉は、今回のことでは自分を補佐してくれる手はずになっていたはずだ。
「碇家次期当主に関することです。
姉さんは、俺の補佐をすることになっていたはずです!」
「相談って言われてもなぁ、暴力沙汰で俺にできることは何もないぞ」
「そんな単純な話だったら、ジン兄さんに相談なんかしません!」
「だったら、場所を変えるって言うのはどうだ?
こんな辛気くさいところにいると、良い考えも浮かないというものだ。
気分転換と言うのは、積極的に行ってこそ意味がある。
しかめっ面をして考えるってのは、だいたいが失敗のパターンなんだな」
「場所を変えるって……」
ジンの言葉に、テツマははあっと大きなため息を吐いた。
「神凪の運命が掛かっているんですよ」
「今から対処なんて変えようがないだろう?
そんな泥縄をするのが、まず大きな間違いだって言うんだ。
そして知恵が必要だったら、知恵を出せる環境を作ることが必要だ。
精神論を持ち出すと、どんな事業でも失敗するんだな、これが。
それから、こんな所で押し問答をしていてると、余計に時間が無くなるんじゃないのか?」
「駅前の喫茶って言いましたよね?」
そう言ってテツマは、最初に腕時計で残された時間を確認した。そしてポケットを探り、携帯電話を持ってきていることを確認した。
「じゃあ急ぎますから、さっさと行きましょう。
車を出しますから、玄関で待っていてください」
「たかが10分の道のりだろう?
そんな物は話しながら歩いて行けばいいじゃないか」
「その時間も惜しいから言っているんです!」
まったくと腹を立てて出て行ったテツマを見送り、ジンはアキに向かって小さく肩をすくめて見せた。そこで少し意外だったのは、アキがテツマの味方をしなかったことだ。だがそれもどうでも良いと、大人しく玄関に向かうことにした。
「あいつもそうだが、落としどころをどこに持っていこうとしているんだろうな?」
「碇を叩き潰せば終わるのではないのか?」
「世の中、そんなに簡単なものじゃないんだよ。
碇シンジを殺すことはできるのかも知れないが、後始末はそんなに簡単な事じゃない。
一つ間違えたら、日本政府を相手にすることになるのかも知れないんだぞ。
もしも友綱がうまく立ち回れば、神凪を潰すことも難しくなくなる。
実際碇シンジと敵対しても、神凪にとっても良いことは無いんだな」
「だけど、碇は神凪にとって滅ぼすべき相手のはずだ。
私は、そう教えられて育ってきたんだ」
「似たようなことは、俺も吹き込まれてきたなぁ……」
だが現実を見つめてみると、何故という部分はとても希薄な物となっていた。過去碇に切り捨てられたと言われているが、どこまで本当かも疑わしいと思えてしまう。それにしても、100年近く昔のことを持ち出しては欲しくなかった。おかげで神凪が発展したと言われても、ジンの目から見れば十分に停滞していたのだ。金を稼ぐことにしても、本家ではなく末席の自分達が、第二で頑張っているからに他ならない。
「それでアキ、お前は碇シンジを殺すつもりか?」
「ジン兄がそうしろと言うのならな。
それから私は、姉としてテツマを守るつもりだ。
頼りないところはあるが、あいつは次の当主となる男だからな」
「確かに、テツマを守ってやらないといけないんだがな……」
アキに向かって、テツマと一緒に神凪を変えると言い切った手前がある。それを反故にするのは、人として問題があるだろう。
そう考えると、外に行くのも面倒になってしまった。だが空気を変えたいというのも、本心から出た物だった。だからジンは、アキを伴い玄関口へと急いだのだった。
観光拠点になっていることもあり、駅前には色々な商業施設が調っていた。もちろん中央に比べれば、貧弱としか言いようが無いのは確かだが、それでもないのよりは遙かにマシなレベルで揃っていた。その一つ、比較的広めの喫茶店の奥にテツマ達は陣取ることにした。
「あっ、俺はモーニングのAセットね。
飲み物はホットコーヒー」
「私は、Cセットで飲み物はオレンジジュースがいいな」
もともと食べるつもりで来た二人は、さっさと自分の分を注文してくれた。ただテツマの目的は、喫茶店で腹を膨らませることではない。それもあって、少し苛ついた調子で「ブレンド」とだけ注文した。ちなみに神凪は、田辺市の中では有名人である。その次期当主のご機嫌が麗しくないことで、注文に来たウエイトレスはしっかりとびびっていたりした。
「それで、俺に相談したいことは何だ?」
「予定通り、碇シンジがここに乗り込んできます。
天王寺で黒潮に乗ったのを確認していますから、紀伊田辺に11時20分に到着します」
「いやっ、お前も言った通り予定通りの行動だろう?
それだけだったら、相談される理由が分からないじゃないか。
なにか、配置した人員に何か問題でも生じたのか?」
予定通りに運んでいるのなら、相談されることはないというのがジンの考えだった。
「碇シンジが、ほとんど手ぶらで、しかも一人でやってくるんです。
友綱も含め、誰かが着いてきている様子も見られません」
「正体不明の護衛はいるだろう?」
「それにしても、ごく少人数であるのは間違い有りません。
少なくとも、万全の体制を敷いて待ち構えている神凪に比べて貧弱すぎます」
更に言葉を続けようとしたテツマを、ちょっと待てとジンは手で遮った。何かを話そうというのではなく、ウエイトレスが注文の品を運んでくるのが見えたのだ。いくら地元とは言え、物騒な話を他人に聞かせる物ではない。そしてその間で、テツマの話を自分なりに分析しようと考えた。
そしてウエイトレスが3人分の注文を置いていったところで、ジンは「怖いのか」とありきたりの質問をすることにした。
「これまで見せつけられた実力を考えると、怖いに決まっているでしょう。
絶対に何の策もなく、乗り込んでくる相手じゃありませんよ」
「確かに、無策で乗り込んでくるとは考えられないな。
それでテツマは、碇シンジが何をしようとしていると考えているんだ?」
「それが分からないから、ジン兄さんに相談しているんです」
テツマの答えに、ジンはふっと息を吐いた。肩をすくめているところを見ると、呆れているのかも知れない。そして実際の所、ジンはテツマの質問に呆れていた。
「なんで、そう言うことを俺に聞くんだ?
俺は、今まで投資のことしかやってきていないんだぞ。
そんな俺に、戦争のやり方を聞かれても答えようがないだろう」
まったくともう一度ため息を吐いたジンは、恐れすぎだとはっきりと言い切った。
「神凪は、何もしないで碇家次期当主を見逃すことができるのか?」
「……いえ、絶対にできないと思います」
「だったら、分からないことをいくら考えても無駄なんじゃないのか?
それだったら、碇シンジの護衛を捜した方がよほど前向きだろうに。
碇シンジ本人以外の戦力は、おそらくすでに潜入しているんじゃないのか?
それを押さえれば、相手は丸腰になってくれる」
「そちらの手配は進めています。
ただ、今のところ見つかったという報告は受けていませんが……
だから余計に不気味だと思えてしまうんです」
「こういう時は、じじい達の脳天気さが羨ましくはなるな……」
何も考えずに、碇を叩きつぶす好機と喜んでくれている。テツマが総指揮を執るのも、必要な実績を積ませるためなのだ。相手の戦力が乏しければ、確実に実績を積むことができる。そんな皮算用があることは想像に難くなかった。
「とにかく、何を考えるにしても情報が乏しすぎるだろう。
こんなところで俺相手に相談しているより、情報を見直した方が良いんじゃないのか?
碇シンジは、あと……あと30分で到着するんだろう」
時計を見たら、すでに10時50分になろうとしていた。列車に遅れがなければ、碇シンジの乗った黒潮は、あと30分後に到着することになる。
「まずお前は本家に戻れ。
総大将が、ふらふらと出歩いていてはまずいだろう。
駅の方にも人は出しているんだろうが、俺とアキも駅での対応を考えてみる」
「確かに、戻らないと……」
「そう言うことだ。
それからテツマ、総大将が不安そうな顔をしてはいけないぞ。
そんなことをすると、部下にもお前の不安が伝染してしまう」
「……気をつけます」
「と言うことで、お前は先に本家に帰れ。
さっきの話の通り、俺とアキは時間までここに居ることにする」
頑張れよと一言掛けて、ジンはテツマに帰るように繰り返した。いかに車で5分とはいえ、いつまでも総大将が持ち場を離れていてはいけない。それを思い出したテツマは、大人しくジンの言葉に従うことにした。結局ジンと話をしても、胸に巣くった黒いものは晴れてくれなかった。それでもテツマは、総大将の顔を作って喫茶店から出て行ったのだった。
「まずいな」そう最初に口を開いたのは、意外なことにアキの方からだった。それまでジンとアキの二人は、テツマの憂鬱さが移ったように、二人して黙り込んでしまっていた。そしてジンも、アキの言葉に大きく頷き、「ああ」と同意の言葉を返したのだった。
「テツマの奴、会ったこともない相手に飲まれている。
これでは、戦う前から負けているではないか。
ジン、碇シンジと言うのは、そんなに凄い男なのか?」
「確か、お前の所には俺以上に詳しい報告が上がっていると思うんだがな……」
情報の集積点となるのが、神凪の本家なのである。その本家の長女ならば、ほとんどすべての情報を見ることができるはずだ。その神凪家長女が、情報の絞られた自分に質問をしてくる。そのことに不条理を感じたとして、いったい誰が責めることができるだろうか。だがアキは、そんなことは関係ないと言い切ってくれた。
「男として、どう考えるのかを教えてくれればいい。
テツマがあそこまで恐れるような相手なのか?」
「実績だけで行けば、テツマとは天と地ほどの開きがある。
そして通り抜けてきた経験も、天と地ほどの差があると言って良いな。
一人の男として比べたとき、テツマに勝てる要素は一つもないと言い切れる」
「だが、テツマには神凪が着いている。
そして戦いの地は、この神凪の本拠地なのだぞ」
たとえ劣っていることを自覚していても、テツマには力強い味方がいるとアキは言い切った。
「問題は、その神凪の力が言うほど有るのかと言うことだな。
アキ、お前は人を切ったことがあるか?」
「ない! だが、ジンやテツマのためなら人を切る覚悟はあるぞ!」
はっきりと意志を示したアキに、ジンは小さく頷いた。
「碇シンジは、間違いなく人を殺したことがある……
それも、一人や二人ではないはずだ。
覚悟と実績、この場合どちらが強いのだろうな」
「碇シンジは、人を殺したことがあるというのか……」
どんな場合であっても、人を殺すというのは尋常な精神で行える物ではない。そしてまともな人間であるほど、殺した事への罪悪感に苛まれる物だ。一点の曇りも見られぬ碇シンジが、内面にそんな物を抱えているとしたら、いったいその心の闇はどれほど深いのだろうか。さすがのアキも、背筋に冷たい物が走ったほどだ。
「それからこれはテツマには言わなかったことだが……
碇シンジに付いている護衛も、間違いなく人を何人も殺しているだろう。
神凪など比べものにならないほどのプロだというのは間違いない。
そんな腕利きを、碇シンジはどうやって雇ったんだ?
アキ、お前はその報告を見たことはあるか?」
「いや、正体不明の護衛を雇ったとしか報告はない。
相手が何人なのか、そしてどんな相手なのか、全く報告が上がっていないぞ」
「つまり、相手の力は神凪の情報収集能力より上と言うことだ。
そんな相手と正面からぶつかって勝てると思うか?」
「勝つ見込みがあるから、単身乗り込んでくると言うことか?」
うんと腕を組んだアキは、大きな声で「決めた」と言った。
「何を決めたのか知らんが、他人の目があるところで大きな声を出すな」
ジンの言うとおり、少し広めの店内に居た客が、何事かとジン達の方へ顔を向けていた。だがそれを気にすることなく、アキは自分の決意をジンに告げた。
「テツマではだめというのなら、私が切り捨ててやると言うことだ。
今から点睛を取りに戻れば、駅を出たところで碇シンジを切り捨てることができる」
「そう言う早まったことを考えるな。
それに俺を、いきなり一人者にするんじゃない。
手練れという意味なら、すでに駅前に配備されているんだろう?」
「確かに、駅前には柳生達が張り込むことになっている。
あいつらの実力が確かなのは、この私が保証するぞ」
椅子に深く座り、アキはうんうんと頷いた。
「だったら、最初はそいつらに任せることだ。
相手を恐れすぎてはいけないが、かと言って舐めてかかって良いことは一つもない。
柳生達が碇シンジの相手をするのなら、お前はその戦いで相手の力を計りとれ」
「そうやって、碇シンジを丸裸にするのだな!?」
もう一度うんうんと頷いたアキに、一度帰ることをジンは提案した。適当に腹はふくれたから、喫茶店にいる必要はない。早まるなとは言ったが、やはり準備は必要なのである。もしも碇シンジと対峙することになったら、手ぶらというわけにはいかないだろう。
「点睛はギターケースに入れておけばいいのか?」
「そうだな、あまり目立たないようにした方が良い」
アキの言葉を肯定し、ジンはレシートを持って立ち上がった。
跡取りに対処を任せたことも含め、神凪当主ゼンザブロウは不機嫌な時間を過ごしていた。だがいくらゼンザブロウが不機嫌さを露わにしても、妻のアサヒは全く動じたそぶりを見せなかった。
二人が居たのは、神凪本家に作られた離れの茶室だった。小さな潜り戸だけが入り口の、4畳半ほどの広さに、真ん中には小さな炉が切られた、質素にまとめられた建物だった。そこで神凪アサヒは、柿色の留め袖を着て夫である神凪ゼンザブロウに向き合っていた。
「あなた、お茶でも飲んで落ち着いたらいかがですか?」
黄瀬戸の茶碗にお茶をたて、アサヒはそっと難しい顔をした夫へと差し出した。だがその茶に手を伸ばそうとしない夫に、「あなた」とアサヒは鋭い声で呼びかけた。
「そんなに、アキをジンさんに嫁入りさせるのがおいやでしたか?」
「そんなことは言っておらん。
アキがそう望んでおったのは知っておるし、それが一族のためになるのも分かっておる。
だが、なぜこのような重要なときに浮ついたことをしようというのだ?
アキの嫁入り話は、碇の問題が片付いてからで良かっただろう!」
「それは、何度も説明したはずですよ。
まだ、この時期アキが嫁ぐ意味を理解していないのですか?」
ふうっと息を吐き出したアサヒは、鋭い視線を夫へと向けた。
「あなたも、ジンさんに見限られたら神凪が立ちゆかないのは理解しているはずです。
だからジンさんには、神凪に縛り付ける太い鎖が必要なのですよ。
アキ以外に、ジンさんを神凪に縛り付ける太い鎖は存在しない。
だからこそ、碇と争う前にアキを押しつけたのですよ」
「だから、なぜ碇と争う前なのだと言っている!」
「冷静に考えれば、ジンさんがどちらの味方をするのかはっきりしているからです。
もう一つ言うなら、ここで碇に負けても、ジンさんが味方で居る限り神凪はつぶれません」
「神凪は負けん!
もしもジンが裏切るというのなら、始末してしまえば良いだけのことだ!」
声を荒げたゼンザブロウに、アサヒは冷たい声で「黙りなさい」と命令した。
「ジンさんを始末したら、誰があの人の代わりを務めるのです?
今の神凪があるのも、ジンさんが豊富な資金を還元してくれるからです。
ジンさんの仕事がどれだけ難しいことか、まだあなたは理解できていないのですか?」
「だからと言って、代わりが居ないこともないだろう。
そ、そうだな、キジュウロウの所のショウマはどうだ?
あいつは、一族の中でも頭の良さはぴかいちだぞ」
「5年で神凪コーポレーションを潰すつもりならそれでも良いですよ。
お金を稼ぐことにどんな才覚が必要なのか、あなたは全く分かっていないのですね?」
冷たく言い切られて、ゼンザブロウは言葉に詰まってしまった。そんなゼンザブロウに、もう一つとアサヒは追い打ちを掛けた。
「あなたの言う神凪の勝利とはなんですか?
碇家次期当主、碇シンジを痛めつけることですか?
本気で、碇シンジを屈服させることができると考えているのですか?」
「できない理由はない!
しかも相手は、一人でのこのこと神凪に乗り込んでくるのだぞ!
だったら徹底的に痛めつけて、命乞いをさせてやればいいだろう!」
「本当にそんなことができると考えているのなら、おめでたい頭をしているとしか言いようがないわ。
自分の息子を悪く言いたくはないけど、テツマとは格が違いすぎるのよ。
友綱オウガが碇シンジに屈服した理由、それを考えれば神凪には勝ち目がないわ。
恐ろしく頭が切れ、そして人を惹き付ける強烈なカリスマを持っている。
暴力沙汰にしても、よほど私たちより修羅場をくぐってきているわよ。
たった二人で、誘拐犯の組織を叩きつぶした実績も持っているのを見れば分かるでしょう?」
「だが、そのときの協力者は日本には居ないだろう!」
「その代わり、腕利きを雇ったのは確認できているでしょう?
相手は、神凪の監視をくぐり抜ける能力を持っているのよ。
どれほど恐ろしい相手か、それぐらいは想像が付くのではなくて?」
「だったら!」
冷静に事実を積み上げる妻に、ゼンザブロウは切れたように大きな声を上げた。
「なぜ、お前はテツマに負け戦をさせる。
どうして、神凪を負ける戦いに向かわせた!!」
「なぜ? それはあなたが一番理解されているのではなくて?
今の神凪が、乗り込んできた碇と戦わないで我慢できるの?
もしもそんな決定をしたら、世間知らずのバカ達が先走った真似をするのではなくて?
そんなことになったら、神凪は内部から崩壊することになるのでしょうね」
アサヒの言う「世間知らずのバカ」は、必ずしも威勢の良い親戚だけを言っているのではなかった。それを理解したゼンザブロウは、顔を赤くして妻の顔を睨み付けた。だがアサヒは、夫の視線に全く動じることはなかった。それどころか、薄く口元に笑みを浮かべ、蔑んだような視線を夫へと向けた。
「世間知らずには、一度世間という物を見せてあげる必要があるわ。
そうすることで、神凪はより強い一族に生まれ変わることになるのよ。
ジンさんがテツマを支えてくれれば、たとえ負けても神凪は滅びることはないのよ。
それどころか、溜まった垢を落とせるから、ずっと身軽になるでしょうね」
「お前は、一族の者を切り捨てるというのか……」
「切り捨てられるかどうかを決めるのは、むしろ本人だと思うわよ。
碇シンジがどのような存在なのか、それが理解できなければ神凪にいる意味はないわ。
時代に取り残されたら、神凪は滅びの路を歩むことになるのでしょうね」
「お前は、神凪が再び碇に従うことになると言っているのだな?」
「碇が神凪を必要としてくれればね。
必要とされなかったとき、それが本当に神凪が滅びるときでしょうね。
たぶんジンさんも、神凪に対して未練は持っていないでしょう」
力で負け、資金も絶たれたなら、神凪は存在してはいけなくなる。はっきりと言い切ったアサヒに、ゼンザブロウは言い返すことができなかった。これまで夫婦をしてきて、アサヒの言うことはいつも正しかったのだ。頭を使うことが苦手と言うこともあり、細かなことはすべてアサヒに任せていると言う事情もそこにはあった。
「だが碇に負けたらテツマはどうなる……」
「どう負けるのか……それによるのでしょうね。
常に勝ち続けることなんて、たぶん誰にもできないことだと思うわよ。
だから負けたときにどう振る舞うのか、どう収拾させるのか、
上に立つ者には、負け戦の戦い方も求められるのよ。
そのためにも、ジンさんにいて貰っていると言うことを理解してないの?」
アサヒの冷たい視線に、とうとうゼンザブロウは屈服してしまった。もともと外向きの顔とは違い、妻に対して頭が上がらない夫という裏の顔がそこにはあった。
「一つ教えて欲しいのだが、どうしてそこまで碇家次期当主を買っているのだ?」
「そうね……あなたが一番気に入らない答えだと思うけど、第一に見た目ね」
「見た目だというのか!?」
気に入らない以上に、驚きが先行してしまった。目を丸くして驚いたゼンザブロウに、「見た目」ともう一度アサヒは繰り返した。
「少しぐらいの美形だったら、そんなことは言わないわよ。
でも、あそこまで常軌を逸すると、恐怖さえ抱いてしまうのよ。
しかも頭脳にしても、豪龍寺の教師達を屈服させたのでしょう?
そして着いてくる肩書きは、世界を救ったパイロットよ。
これまで隠れて存在していたアルテリーベが、わざわざ姿を現して王族を送り込んでくるのよ。
そんな完璧超人相手に、神凪程度で勝負になると思っているの?
そう言う意味では、友綱は運がよかったわね。
イタリアのことで、軍門に下る口実が手に入ったんだもの」
「そんな相手に、正面からぶつかって良いのか?」
国際問題を恐れたゼンザブロウに、「今頃言う?」とアサヒはとんでもなく冷たい視線を向けた。
「歓迎しましょうって言ったら、あなたたちは受け入れることができた?
一戦も交えないで、碇を受け入れることができるの?」
できないでしょうと確認するアサヒに、ゼンザブロウははっきりと頷いた。神凪という一族の総体、それを代表するのが当主の役割である。その当主を持ってしても、空気という不確かな物に逆らうことは難しい。そしてそれを曲げるには、内部で非常に大きな抗争が起きることになる。従って、できないというゼンザブロウの答えは、極めて正しい認識でもあったのだ。
「内部で争いが起きたら、本当に神凪はばらばらになってしまうわね。
そうなったとき、あなたやテツマに神凪をまとめ上げる力はないわ。
だから碇の次期当主に、一度壊して貰った方が都合が良いのよ。
しかも相手が少人数なら、碇シンジの力を認めさせることができるじゃない」
「それが、お前の考えた筋書きなのか?」
「そうね、神凪が発展するために考えたシナリオよ。
優れた指導者を得ることで、神凪の力が正しく使えるようになるわ。
もっとも、碇シンジが私程度のシナリオ通りに動いてくれるのかは分からないけどね。
だから、何を見せてくれるのかが楽しみと言えば楽しみなのよ。
アキがもう少し若ければ、碇シンジの所に押しかけさせたのに……」
そうすれば、双方手打ちの口実も立っただろう。碇に着くことを前提に、アサヒは色々と口にしたのだった。
続く