自分一人を守るのであれば、おそらく人の手を借りる必要はないだろう。だが日本に帰って、表向きだけでも普通の生活を送るためには、必要に応じて身の回りを固める必要があった。なにしろ誰のせいなのか分からないが、いろいろと身辺がきな臭くなってきていたのだ。このまま放置したら、必ず誰かがやけどをすることになるだろう。それを防ぐためには、いくつか手を打っておく必要があった。
小さな混乱に目をつぶれば、シンジは無事豪龍寺学園に入学した。そして次の段階として、体制の構築に取りかかることにした。
「それが、わざわざお越しになった理由ですか?」
奈良市街から少し南に降りたところに、帆掛ジュウゾウの自宅はあった。メメを通して連絡を入れたシンジは、日曜のデートを早めに切り上げてジュウゾウの家を訪問した。通された客間の上座に正座したシンジは、まっすぐにジュウゾウを見て「碇の家に関する力」の情報を出せと迫ったのである。使える力、過去使えた力、それを理解し、危機に対する対策をとる必要があったのだ。足りない力に関しては、自力で補うことを考えていた。
普段のことはメメに頼れと言ってあったが、さすがにこの件はメメには荷が重かった。そしてシンジの詰問を受けたジュウゾウにしても、一筋縄ではいかない問題だった。従ってジュウゾウは難しい顔をしたのだが、その光景を端から見ると、まるで孫の前で怒っている祖父のようだった。
「その顔を見る限り、無いって事ではありませんね。
ただ利用する、その組織との関係がやっかいなことになっていると言うことかな?」
自分の心を読んだようなシンジの言葉に、ジュウゾウは唇を真一文字に固く結んだまま小さく頷いた。
「関わらない方がいいというのであれば、僕の伝手を頼ってみますよ。
この時期、自分からやっかいごとを増やすこともないでしょうからね」
「シンジ様が仰有るとおり、やっかいな相手には違いないのだが……
ただその力を取り戻すことは、碇の家にとって大きな意味を持つことになるでしょう。
おそらく奴らは、シンジ様のことも把握しているに違いないのです。
それを思うと、最悪の場合奴らからちょっかいを掛けられることもあり得るでしょう」
ジュウゾウの言葉が正しければ、混乱の要素は他にもあると言うことだ。相手の素性は分からないが、こちらが落ち着くのを待ってはくれないだろう。ふっと小さくため息を吐いたシンジは、やってられないと頭の後ろを手で掻いた。
「結局、碇の家は僕の足を引っ張ることばかりしてくれるんですね……」
そう言って嘆いたシンジは、真面目な顔で「確認したいことがある」とジュウゾウに切り出した。だがシンジの口から問いが出る前に、ジュウゾウから「聞かれても分からない」と答えが返ってきた。
「僕はまだ質問を口にしていませんよ」
苦笑を浮かべたシンジに、ジュウゾウの答えは間違いなく核心を突いた物だった。
「ドッポ様が裏で糸を引いていないか、おそらくその辺りではないのですか?
残念ながら、儂にもドッポ様のお考えは想像が付かないのだ。
ただシンジ様が想像したことは大いにあり得ると考えています。
碇の家の再興を考えたとき、必ず神凪との関係が問題となってくるのだ。
糸を引いている事はなくとも、衝突が起きることを必然と考えている可能性はある。
先々代の時と聞いているが、奴らとの間には小さくないもめ事があったらしい」
「まあ、これまでのことを考えれば予想できる質問でしたね。
ただ話からすると、その神凪って碇の実働部隊ですよね……
実働部隊ともめ事を起こして離反させるだなんて……」
常識的に行けば、それで手足をもがれたことになる。その状態から立て直すのは、どう考えても一筋縄では行かないだろう。もう一度ため息を吐いたシンジは、仕方がないと諦め立ち上がった。
「一応の事情は分かりました。
僕は僕の方で、体制の強化をすることにします。
ところで一つ教えて欲しいのですけど、その神凪って一族……どこに行けば会えるんですか?」
「ここをずっと南に下った、もともと熊野のあたり……と聞いている。
残念ながら、儂も詳しいことは知らないのだ。
奴らと手を切ったころ、儂もまだ子供だったのでな」
申し訳ないと頭を下げたジュウゾウに、「それはやめましょう」とシンジは口元を歪めた。何しろ相手は、自分の祖父と言って通用する年配なのだ。その相手に頭を下げられるのは、立場上当然と言われても馴染めないのだ。偉そうに見下してくれた方が、よほど心が落ち着くという物だ。
そういうのはやめて欲しいと懇願する一方で、シンジは「神凪」の更なる情報を求めた。情報が無いというのは認めるにしても、あまりにも情報が無さ過ぎると考えたのだ。
「詳細な情報は無くても、いくつか確認したいことがあるんですよ。
まずその神凪ですけど、碇の配下としてどのような役割を担っていたんですか?
今は、どういった人たちが、どう生きているのか?
同じ日本の国内なんですから、情報がまったく無いということはありえないと思いますよ」
シンジにしてはもっともな、そして比較的易しい質問だったのだろう。だがそれを受け取ったジュウゾウは、ウムとばかりに考え込んでしまった。それを見たシンジは、少し呆れ気味に天を仰いだ。
「今まで仰々しく言ってくれましたけど、碇ってその実たいしたことが無いんですね」
「そう言われると、返す言葉が見つからない。
ただ一つ言い訳をさせてもらえば、神凪と言うのは碇の目であり耳であったのだ。
それを失ったことで、碇の持つ情報収集能力は壊滅してしまった」
「で、荒事対応が友綱の役目ですか……で、碇の役割はなんだったんですか?」
情報を収集を神凪が行い、力による制圧を友綱が行う。日本に帰って分析をした結果、友綱は財力も身につけているようだ。それを考えると、財が碇の力とも思えない。そんな疑問に対して、ジュウゾウから返ってきたのは、分かりやすく、且つあいまいな意味を持つものだった。
「配下の者を束ねる資質……としか答えようがない。
どんな力も、正しい方向性を持って振るわれなければ役には立たぬ。
その方向性を決めるのが、碇の役目だと……昔聞かされたことがある」
「今風に言えば、リーダーの資質と言うことですか。
これはまた、とても曖昧で難しいことを言っていますね」
明確な物が無い以上、会ってみるほかに方法が無いと言うことになる。ただ会ったとして、いったい何を話せばいいのか。「労多くして功少なし」と言うことになりはしないのか。下手をしたら、功どころか余計な荷物を背負いかねない。
「初めから無いと思った方が気が楽かも知れないな……」
「だが、情報と言うことであれば、いずれ必要になるのではないのか?
ならば一から作るより、あるものを利用する方が良いのではないのか」
これからのことを考えれば、ジュウゾウの提案は現実的な物かも知れない。確かにあるものを利用する方が、新たに構築するより効率的なのだろう。ただそこには、重要な前提が必要となってくる。
「神凪が使えるという前提でしょう?
わざわざ熊野くんだりまで出かけていって、無駄足でしたじゃ悲しいじゃないですか。
だいたい僕は、碇の持っていた組織には興味がないんですよ。
爺にしたところで、結婚して家を残せとしか言っていませんからね。
それなのに、どうしてこんな面倒なことになるのかなぁ……」
「それを儂に問われても、分からんとしか答えようがない。
それでも一つ言えるとしたら、シンジ様の存在の大きさが理由と言うことだろうか。
新たな枠組みができるまでには、その大きさに応じた混乱が起きることとなる。
その意味では、友綱との確執など可愛らしい物だったのだろうな」
もっともらしく聞こえるジュウゾウの言葉は、間接的に「どこに行っても同じ」と言っていた。新たな地で碇シンジという存在を誇示したら、日本以上の問題が起きると言う脅しにもなっていた。
「つまり、諦めろ、現状を受け入れろと言いたいんですね……
まったく、いつになったら放っておいてくれるようになるんですかね」
少し肩を落としたシンジは、「帰る」と言ってジュウゾウに背を向けた。
「フジノさんのお母さんが、入学祝いをしてくれることになっているんです。
あまり気が乗らないんだけど、一緒に暮らしている以上断るわけにもいかないんですよ」
「そう言えば、豪龍寺に入学が決まったのでしたな。
それでオウガと話をしていかがでしたか?」
「とりあえず、協力関係は結んできましたよ。
マドイちゃんを貰って欲しいらしいんですけど、それを言うのは我慢しているようですね」
フジノ経由で、イタリアのことはジュウゾウにも伝わっていた。それもあって、ジュウゾウはシンジのことを大いに見直していたのだ。だから「自前」で組織を作ると言う話も、大まじめに受け取ったのである。見た目、実力、そしてくぐってきた修羅場の数、いずれをとっても碇家当主として申し分ないと認めたのだ。だからこそ、かつての碇を取り戻して欲しいと考えてもいた。
「フジノのお嬢は迫っては来ませんか?」
「薬が効いているから今の内は大丈夫……だと思いますよ。
ただシャルロットが来たら何が起こるのか……それを考えると憂鬱になるんですよ。
ああ、これは余計なことを言いましたね。
とにかく神凪の件は分かりました。
準備が調い次第、熊野まで足を伸ばすことにします」
その準備にしたところで、考えてみれば時間が掛かることだらけだった。EUでとった国際免許の書き換えから、足となるバイクの確保。整備の事を考えると、ショップも選ぶ必要がある。ただこのあたりは、バイク通になったマドイに聞いてみるのも良いかもしれない。
さらには、自前の備えもする必要がある。そのためには、気が進まないがキャルに連絡を入れて伝手を紹介して貰う必要がある。同時にイタリアでちょっかいをかけてやれば、日本に来る余裕もなくなるだろう。考えてみれば、やることが山積しているのだ。よほど大人しくパイロットをしていた方が、ずっとまともな生活を送れただろう。
「今更言っても愚痴にしかならないんですけど、退役しない方が楽でしたね。
ああこれも余計なことでしたね、覚えておかなくても良いですよ」
必要な情報を貰ったし、あまり遅くなるのもよろしくない。何しろ明日からは、学生の本分である学校に通うことになる。お祝いしようと待ち構えているマミヤのことを考えると、そろそろ暇をする頃合いだろう。一応相手は年上と言うことで、シンジはジュウゾウに向かって深くお辞儀をした。
足を手に入れる前のため、ジュウゾウの家からは公共交通機関を使用する必要があった。そのためには、まず表通りに出なければならない。車一台通るのがやっとという細い道を早足で歩きながら、シンジは絶えずあたりに向かって注意を払っていた。
「姿は見えないけど、誰もいないという訳じゃない……か。
殺気を感じないところを見ると、本当に観察しているだけってことかな?」
話を聞く度に、自分につきまとう組織が増えてくるのはどうしてだろう。ジュウゾウの話に嘘がなければ、自分は神凪にとって観察対象となっているはずだ。イタリアの誘拐組織や、アルテリーベがらみまで含めれば、少なくとも3つの組織から観察されていることになる。協定を結んだ友綱にしても、お節介を焼かないという保証はどこにも無い。
しかもシンジにとって厄介なのは、組織とは関係ない人からも視線を向けられることだ。おかげで、どこに行っても視線を感じてしまった。
「やれやれ、これじゃプライバシーもあった物じゃないな。
移動手段を考えないと、振り切ることもできないじゃないか」
公共交通機関を使う限り、それがたとえタクシーであっても追っ手をまくことはできないだろう。まあ住んでいるところがばれている以上、完璧に尾行をまくのは不可能なのだが。
「見られているだけなら害はないから、割り切るほかは無いんだろうね」
心の中に住む天使と悪魔に声を掛ければ、にやにやしながら同意してくれる。彼らの反応をみる限り、まだ危険度は高くないのだろう。
「これからキャルに連絡を取って、その道のプロを紹介して貰わないといけないし。
現地で赤い霧にちょっかいを掛ける必要もあるし。
やることが沢山残っているなぁ」
それに加えて、学生の本分でもトラブルが起こるのが目に見えている。
「既成事実を作ってしまえばいい……
綾波、それは問題を更に複雑にすることになるよ。
だからアスカ、ハーレムはもっと無しだからね。
確かに拘りは無いと言ったけど、これでも倫理観は欠落していないつもりなんだ。
だからと言って、男って事は絶対にないからね!!」
どうせアドバイスをするのなら、意味のあるものをして欲しい。それを願うのは贅沢なのだろうか。たぶん贅沢なのだと、シンジは自分を慰めることにした。
夜になっても眠くならないと言うことで、今回時差というのは役に立ってくれた。瑞光マミヤが張り切った入学祝いを無事乗り切り、そして翌日の準備を終えてフジノを部屋に帰したシンジは、苦手な相手に電話を掛けることにした。もっとも電話の向こう側にいるのだから、身の危険に関しては安心できたのだが。
ベッドに寝転がり、シンジは天井を見上げた。これで5日目と言うこともあり、すでに見知らぬ天井ではなくなっていた。そして耳を澄ますと、エアコンのモーター音が小さく響いていた。
「キャルに、イタリアでのちょっかいと、使えそうな人を紹介して貰う、か……」
なぜかキャルを頼ろうとしたのは、ローマでの手際が大きな理由となっていた。対人戦闘を仕込まれたときからおかしいと思っていたが、あまりにも誘拐犯制圧の手際が良すぎたのだ。もしかしたら足を引っ張っていないか、シンジが心配するほどの手際だったのだ。だからこそ、まっとうな世界で生きてきていないと目星を付けたのである。
時計を見れば、午前0時になっていた。ドイツとの時差は7時間だから、あちらは午後5時と言うことになる。日曜の夕方と考えれば、とても微妙な時間帯でもあった。少し緊張しながらボタンを押したシンジは、目を閉じて呼び出し音を聞いていた。一つ、二つ、そして三つ目の呼び出し音の途中で、キャルとの電話が繋がった。だが呼びかけようとシンジが一呼吸置いたとき、いきなり向こうからドイツ語でまくし立てられた。かなり汚い言葉が混じっていたのだが、要約すると「薄情者」と言うことらしい。シンジは、言葉の暴力というか、洪水が収まるのを大人しく待つことにした。
そして待つこと5分、ようやく言葉の暴力が収束した。それを見計らったシンジは、「久しぶり」とちゃんと聞いているだろうキャルに声を掛けた。
「そうね、そろそろ日本で落ち着いたって所かしら?」
「まだ5日しか経っていないからね。
だから身の回りは、まだばたばたしているよ。
それから、明日からハイスクールに通えることになったよ。
とりあえず、滑り出しは順調って所かな?」
「その順調に滑り出したシンジが、あたしになんの用なのかしら?
寂しくなって声を聞きたくなったって事じゃないんでしょう?」
電話の向こう側で、キャルが口元を歪めているのが見えた気がした。お世辞が通じる相手とは思えないが、一応社交辞令ぐらいは必要なのだろう。
「声を聞いて懐かしいって気持ちはあるよ。
こっちでも色々とあったんだけど、そのことでちょっと手を借りたくなったんだ」
「さすがに、日本までは行けないわよ!
鋭意退職できないか根回しを続けているんだけどね。
今のところは、せいぜい地続きの所にしてくれないかしら」
少し酔っているのか、キャルの言葉遣いは普段より乱暴だった。ただ饒舌さについては、普段とはあまり変わりはないようだ。
「それで、あたしの手が借りたくなった理由から話してみなさい」
「そうだね、キャルにはローマで手を借りただろう?
実はあれからどういう訳か、助けた女の子と同じ高校に通うことになったんだよ」
「運命の再会ってやつぅ?
良かったじゃない、日本でも女に困らないわねぇ」
程度の低いからかいの言葉に、シンジははっきりとため息を吐いた。
「逆に、色々と困ったことになっているよ。
それでお願いというのは、そっちで赤い霧にちょっかいを掛けてくれないかな」
「潰しておかなくても良いのかしら?
この前のでガタが来たみたいだから、今なら割と簡単に潰せるけど?」
「そこまでは期待していないって言うか、まあそのあたりは任せることにするけどね。
とにかく、日本から目を逸らしておきたいんだ。
それで、報酬の方はどうしたらいいのかな?」
地球の反対側と言うぐらいに離れているので、報酬ひとつとっても簡単なことではない。だからシンジも報酬を持ち出したのだが、キャルはと言えば「心配いらない」と笑い飛ばしてくれた。
「この前のアフターサービスでタダにしといてあげるわ。
あまりいい子にしていると、どうも肩がこって仕方がないのよ。
シンジみたいに、あたしの訓練に付いてこられる子もいないしねぇ。
だからたまに暴れないと、腕が鈍るしストレスがたまりまくるしね」
「ひ、ひょっとして、僕だけがキャルの訓練を受けたのかな?」
全員が受けていると思ったからこそ、むちゃくちゃな訓練にも文句を言わずに従ったのだ。だが今の話を聞いていると、どうも犠牲者は自分だけのようだ。おかげで大いなる不条理を感じることになったのだが、キャルからは「役に立ったでしょう」と言い切られてしまった。
「あたしの目から見ても、けっこう筋が良いと思っているわよ。
あたしとの差は、そうね、くぐった修羅場と覚悟の違いって所かしら?
それで、日本の方は問題はないの?
知り合いに良いのが居るから、紹介してあげようか?」
「キャルの知り合いって……」
受けた訓練を考えると、おそらく知り合いも同類なのだろう。きっと頼りになるのだろうが、近くにいたら振り回されること間違いない。
言葉を濁したシンジに、「ご明察」とキャルは笑った。
「サシでやったら、あたしでも必ず勝てるって自信はないわ。
一応この業界では、あたしの先輩に当たる子なのよ。
その子との関係は、同じ男を取り合ったライバルって奴かしら。
結局、泥棒猫に男はかっさわられてしまったんで振られ仲間が続いているわ」
「つまり、その人も女性って事か……」
「良いんじゃない、見た目は結構いけているから。
たまに電話で話をするんだけど、ここんところ男日照りが続いているみたいだしね」
「日本では、品行方正に生きていこうとしているんだよ」
はあっとため息を吐いたシンジに、「嘘ばっか」とキャルは笑い飛ばした。
「でどうする、エレンって言うんだけど紹介が必要?」
「とりあえず、紹介をお願いするよ。
なんか身の回りがきな臭くなりそうな様子だしね。
ただ、条件が折り合わなければキャンセルするよ」
「……そりゃそうだぁ」
「今、凄く微妙な間があったけど?」
その間に不吉な物を感じたシンジに、キャルは何でもないと笑い飛ばした。
「いやぁ、とてもまっとうな答えが返ってきたから驚いただけよ。
赤い霧については、こっちで定期的にちょっかいを掛けておくわ。
暇つぶしになるから、潰すのは控えておくわよ。
エレンには、シンジの番号を教えておくからね!
すぐに、向こうから連絡が入ると思うわよ」
んじゃと、軽いのりで電話が切られた。キャルの態度にどうしようもない不安に囚われたのだが、今更手遅れだとシンジは覚悟を決めることにした。少なくとも、今のままでは乗り切ることができないのは明らかだった。ならば次善のところで手を打つしかなかった。
「相談する前より胸騒ぎが酷くなるのはどう考えたら良いんだろう」
一人嘆いていると、赤い髪をした悪魔が「自業自得」と口を挟んできた。そして銀髪の天使は、「尻軽」となじってくれる。そして灰髪の天使は、「ハーレムへの道が開けているね」ととんでも無いことを言ってくれた。少なくとも、どれ一つとして当てはまらないとシンジは強く主張したかった。
「本当に尻軽だったら、手当たり次第に手を出しているよ。
それから、ハーレムだなんて……ちょっと、いや、絶対に考えていないからね」
「シンジ君、僕たちにそんな嘘が通じると思っているのかい?」
頭の中では、天使と悪魔が顔を揃えてにやついていてくれる。まあ考えたことが素通しなのだから、灰髪の天使の言うことは間違っていない。だからシンジも、「誰だって持つ男の夢なんだよ!」と開き直った。そんなシンジに、赤い髪の悪魔は「不潔」と冷たいまなざしを向け、銀髪の天使は「スケベ」となじってきた。ただ灰髪の天使だけは、わが意を得たりとばかりに頷いていた。
「どうだろう、今から彼女の部屋に夜這いを掛けるというのは。
きっと彼女も、喜んで受け入れてくれるよ」
「夢を見るのと、実践するのは全く別の話だからね」
絶対にそんな真似はしない。にやつく天使と悪魔に、シンジは力強く断言したのだった。
瑞光フジノにとって、月曜というのは戦いの日を意味していた。友綱マドイは諦めるにしても、これ以上他の虫をシンジに近づけるわけにはいかないのだ。そのためにも、相手には認められていない所有権を、これ以上ないほど主張しておかなければいけない。
「ええっと、周りを見てもそんなにくっついている人はいないんだけど?」
「いいえ、これが日本でも普通のことなんです!」
その第一は、通学に使うバスから始まっていた。シンジに対しては、自慢の笑みを向けるのだが、近づいてくる女性に対しては鋭いまなざしで牽制をし続けたのだ。そして絶対に他人が割り込んでこられないよう、常に話を切らないように心がけた。もちろん、シンジになんと言われようと、ぴったりとくっつくことをやめなかった。そのおかげというか、誰一人として近づいてくる者はいなかった。その代わり、自分への熱い視線と、フジノに対する敵意のまなざしだけははっきりと感じることができた。
そしてフジノの警戒は、バスを降りてからも変わらなかった。しかも高校前のバス停では、マドイまで待ち構えてくれていた。つまりここから先は、二人の女性に護送されるというわけである。
「人ごとながら、同情してやるよ」
「僕としては、勘弁して欲しいとしか言えないよ」
おまけとして付いてきた友綱ソウシに、シンジは助けてと言ったのである。だが返ってきたのは、単なる「同情」程度だった。それでは役に立たないと、シンジはがっくりと肩を落とした。
さらに悪いことは、瑞光フジノは生徒会会長だし、友綱マドイは理事長の娘と言うことだった。特に何かとお騒がせのマドイがへばりついていることで、余計に周りの視線を集めてしまったのだ。そのおかげで、敵意と憧れの二種類の視線を、ほぼ全校生徒から浴びせられてしまった。つまり望まれないかたちで、碇シンジのお披露目がされたと言うことである。そしてシンジは、そのまま二人に職員室にまで護送されたのである。
次の問題は、職員室も救いの場とならなかったことだ。さすがにフジノとマドイの二人は教室に行ったのだが、シンジが現れたことで職員室の空気が一変したのだ。はっきりとした緊張に加え、シンジに対する恐怖まで感じられた。そんな空気の中では、シンジもリラックスできるはずがない。さすがに女性教諭も、素敵とのぼせ上がっているわけにはいかないと言うことだ。唯一変化が少ないのは、男性の体育教師ぐらいだろう。
「い、碇君、担任の西九条です。
こ、これから、色々とお願いします」
その中でも、一番可哀相なのは担任の西九条だろう。どちらが目上なのか分からない態度で、シンジに向かって「よろしくお願いします」と頭を下げたのだ。かなり顔色が悪いところを見ると、かなりシンジに対してびびっているのに違いない。まあ理事長の友綱オウガとタメを張れ、しかも用意したこれでもかという難問も簡単に解いた相手なのだ。素行の有無を問わず、一番生徒として持ちたくない相手なのは間違いない。
だがシンジにしてみれば、西九条の態度は勘弁して欲しいものだった。だからと言って、ため息など吐くと問題は更に複雑になってしまう。漏れ出るため息を押さえ込んだシンジは、「よろしくご指導願います」と頭を下げた。転校してきた生徒としては当然の言葉だったが、残念ながら受け取る教師達はそれを当然とは受け取らなかった。学科については言うに及ばず、生活指導については理事長から釘を刺されているのだ。すでにシンジは、学校的に不可侵の存在とされていたのだ。
「あ、ああ、少し早いですが、クラスで紹介させていただけないでしょうか?」
生徒に対して敬語はないだろう。それを主張したいところだが、今は意味がないと諦めることにした。もしもそれを主張したなら、きっと西九条を追い詰めることになるだろう。だからシンジは、相手の言葉遣いを無視して「お願いします」と頭を下げたのだった。
職員室からシンジのクラス、2年A組に歩いて行く間、通りがかったクラスは一つの例外もなく廊下側に人が鈴なりになっていた。もちろん男子と言う訳は無く、すべてが女子生徒ばかりだった。ただフジノとマドイのガードは外れているにも関わらず、誰一人として廊下には出てこなかった。窓側に鈴なりになっていることから分かるように、彼女たちが大人しく、礼儀正しいというわけではない。始業前とは言え、廊下に出る度胸がなかったのである。
一方衆人環視の中を歩いているシンジは、特に他のクラスに興味を示すことはなかった。実のところ、愛想の一つでも振りまこうと思ったのだが、事前に赤い髪の悪魔から止められていたのだ。
「そんな真似をしたら、混乱に拍車が掛かるわよ」
と。そして灰髪の天使からは、「品定めはしておいてあげよう」などと余計なことを言われてしまった。結局前夜の「ハーレム」をまだ引きずっていると言うことだ。
なんて長い道のりだろうと嘆きながら歩いたシンジは、ようやく2年A組にたどり着くことができた。だがこれで安心と行かないのは、初めから覚悟していたことだった。緊張する西九条も問題だが、途中で向けられた以上の視線を向けられることが確実なのだ。よほど質問攻めをされた方がやりやすいと、シンジは心の中で思っていたのである。
「で、では碇君、い、一緒に入って来て頂けないでしょうか?」
相も変わらぬ西九条の態度を諦め、シンジは「分かりました」と簡潔に答えた。それに頷いた西九条は、ごくりと唾を飲み込み教室の扉を開いた。そして右手と右足を一緒に出しながら、その中に入っていったのである。これでは誰が転校生なのか分かったものではない。
「では朝礼を始める前に、転校生の紹介をする。
すでに知っている人も居ると思いますが、碇シンジ君です。
では碇君、自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか?」
そこは「してください」と言う指示で無ければいけないはずだ。そうしないと、オウガの行っていた教師を立てるという話もおかしくなってしまうだろう。だがそれをここで口にするのは、更に問題を複雑にしてしまう可能性が高い。だからシンジは、「分かりました」と西九条より低い場所で自己紹介を始めた。もっとも背が高いため、頭の位置はさほど変わらなかった。
「初めまして、碇シンジです。
最近まで外国にいたので、もしかしたらおかしなことをするかも知れません。
その時は、色々と教えてください。
今日からクラスの仲間になりますので、よろしくお願いします」
振りまく愛想と笑顔を控え目にして、シンジは手際よく挨拶の言葉を口にした。その間クラスを観察すると、少なくとも好意的に受け入れてくれそうなのが分かった。とりあえずは一安心という所なのだが、当然のように「甘いわね」と言う赤髪の悪魔のコメントが入った。
「では座席は、窓際の一番後ろに座っていただきます。
それから瑞光さん、君はその隣に移ってください」
これはいったいどう言う配慮なのだろうか。そしていったい誰に向けた配慮なのだろうか。瑞光フジノを隣に座らせると西九条が口にしたことで、女子生徒から失望のため息が漏れていたのだ。シンジにしてみれば、他の生徒との壁を作ることにも繋がる措置である。すなわち、隔離政策と言っていい対応でもあったのだ。つまり教師達は、シンジに掛かる面倒の全てを、フジノに押しつけようと判断したという事だ。
「それから友綱君、君は碇君の前に移ってください」
これで休み時間に友綱マドイが加われば、鉄壁の防御壁が完成することになる。そうやって壁を作るのかと、教師達の対応にシンジは呆れていた。裏を返せば、それだけ扱いに苦慮した結果と言う事になる。
とは言え、ここで文句を言うと更に問題は複雑になる。大人しく西九条の指示に従い、シンジは指定された一番後ろの席に着いた。その横には、嬉しそうな顔をしたフジノが座り、前には諦めたような顔をしたソウシが移動してきた。よろしくと挨拶をしたシンジに、「教師をびびらせすぎたな」とソウシが小さな声で囁いた。
「そっちが、あんな試験問題を作らせるからいけないんだろう」
同じく小さな声で言い返したシンジに、ソウシはそれを認めた上で「自業自得」を持ち出した。
「それで親父からの伝言だが、授業中は外でも眺めていてくれと言う事だ。
どうもまじめに授業を受けられると、教師達が重圧に耐えられなくなるらしい。
適当にあてるから、その時だけ授業に参加してくれれば良いと言う話だ。
間違っても、積極的に授業に関わってくれるなということだ」
「その上、こうやって隔離されるのか……」
何のために高校に入学したのか。大いに疑問を感じる措置でもあった。だが今はそれを言っても仕方が無いと、シンジは西九条の連絡を聞こうと前を見た。授業ではないのだから、これぐらいは良いだろうと考えたのだ。だがそんなシンジの思いとは逆に、西九条はシンジ達の方に一度も視線を向けなかった。そしてその不自然すぎる態度のまま、一限目の授業が休みになった事を全員に告げた。
「一限目は自習としますので、極力騒ぎは起こさないようにしてください」
「極力騒ぎを起こさないように」と言うのは、どう言った指示と考えれば良いのだろうか。明らかに自習を否定する伝達に、シンジはどう言うことかと首を傾げた。
「朝、天満先生の顔を見た気がしたのだけど……逃げたみたいですね」
フジノがぼそりと呟いたことが、ほとんど真実を言い当てていた。ただ逃げたのは、シンジを前に授業をすることではなかった。どうせ授業にならないという、予想された混乱から逃げ出したのだった。そして一限目の自習を伝えた西九条も、お役ご免とばかりにそそくさと教室を出て行った。
これで恐れられていた混乱の始まりと考えられたのだが、あにはからんや、不思議な緊張を孕んだまま教室内は静かなままだった。
「やはり、興味よりも遠慮が勝ったようだな」
「さすがに、度胸がなかったんじゃないの?」
小声で話すフジノとソウシに、シンジは自分の存在を見つめ直すことになった。多少異端であることは認めざるを得ないが、ここまで来ると別の意味でのいじめでもある。勘弁してよと、切に主張したくなった。
だが嘆いていても何も始まらない。とりあえず学校生活をする上で必要な情報を、ソウシに教えてくれとお願いした。
「友綱君、あとで学園内を案内してくれるかな。
購買とか食堂とか、どこにあるのか知っておきたいんだよ」
「それは構わないんだが……そんなもの俺に頼む必要があるのか?
言われなくても、フジノとマドイが連れ回ってくれると思うぞ。
優先権を主張するには、それが一番効果的だからな」
「優先権の主張って……」
何だかなぁと、シンジは遠い目をして天井を見上げた。そしてフジノは、言い方が悪いとソウシに食って掛かった。
「碇君が学園で安心して生活できるようにするのは、大家としての努めです。
更に言えば、生徒会長として困っている生徒を見捨てるわけにはいきません!!」
「じゃあ、困ってなければフジノは案内しないんだな?」
揚げ足をちゃんととったソウシに、すでに困った状態になっているとフジノは言い返した。
「1学年下の女子生徒が、五月蠅くつきまとっているでしょう。
だから碇さんに迷惑が掛からないよう、私が一緒について行くのよ」
「ほほう、1学年下の女子生徒ねぇ」
「誰とは言わないけど、下宿にまで押しかけてきているのよ」
困ったわと嘯くフジノに、ソウシも大変だなと他人事の顔をした。一見かみ合っているような会話なのだが、その実二人の間では綱引きが行われている。それが分かるだけに、シンジも口出しすることができなかった。しかもクラス内で高まるストレスが分かるだけに、シンジとしても気が気ではなかったのだ。
「ところでフジノ、今日は生徒会の定例会議があったな」
「それなんだけどね、特別な議題がないからスキップしようかと思っているのよ。
悪いけどソウシ、他の役員に今日は無しって伝えておいてくれるかしら?」
「特別な議題が無いって、おい。
週の初めは、一週間の活動方針を確認するのが定例だろう」
「だって、確認だけでしょう?
前々から、無駄な会議だと思っていたのよね」
しれっと答えるフジノに、ソウシは「おい」と思わず突っ込みの言葉を入れた。その無駄な会議で、今まで一番積極的に発言していたのが、誰でも無い生徒会長のフジノだったのだ。ソウシの突っ込みに、フジノは反射的に攻撃を行おうとした。だが何故かソウシの手に自分の手を重ねることになり、驚きのあまり固まってしまった。
「なんだフジノ、急に俺の手を握って?
はっきり言って、握る相手が違っているんじゃないのか?」
「べ、別に、ただ、シャーペンがどこに行ったのかなぁって……」
フジノの答えに、ソウシの顔は盛大に引きつることになった。その言葉が正しければ、自分はシャーペンによる串刺しの刑に処せられていたことになる。それぐらい容赦の無い相手だし、今までにしくじったことのない相手でもあった。
そして何が起きたのかという答えは、後ろに座っているシンジから貰うことができた。狐につままれた顔をしたフジノに、はいと言ってシャープペンシルを渡してきたのだ。
「フジノさん、冗談でもシャーペンを突き刺すものじゃないよ。
それから、僕のために生徒会の仕事を疎かにして欲しくないなぁ。
案内なら、クラスの誰かにお願いをしてみるからね。
それが駄目でも、一人でぶらぶらすればことが足りるからね」
「マドイじゃなくてか?」
「僕は、騒がしいのは好きじゃないんだけどね。
でも、他人との間に壁を作るのはもっと好きじゃないんだよ」
いつの間にペンを取り上げられたのか、フジノは全く理解できなかった。だがそれ以上に問題なのは、自分達が迷惑だと言い切られたことだ。そのことに驚いたフジノだったが、ソウシはソウシで別のことに驚いていた。それは手に入れた観察記録の内、他人との関係の項目も役に立たないと言うことだった。
「せっかく先生が、騒ぎは駄目だと言ってくれたんだろう。
だったら、騒がない範囲で自由にすれば良いんじゃないのかな?」
「それは、そうなんですけど……」
ソウシに対して強く出られても、さすがにシンジ相手では勝手が違ってくる。しかも「自習時間」と言う建前は、それまでしていたことを考えると持ち出すことはできなくなっていた。フジノを黙らせたシンジは、「そう言う事で」と笑って席を立ち上がった。そして何事かと見守られながら、再び教壇へと上がっていった。
「せっかく先生が気を利かせてくれましたので、もう少し自己紹介を続けたいと思います」
教壇に手を突き、シンジはクラス全員の顔を眺めていった。
「それから勝手なお願いですけど、みんなの名前も教えて貰えませんか?
記憶力には自信があるので、一度教えて貰えば次からは悩むことはないと思いますから」
ではと咳払いをして、シンジはよく通る声で「碇シンジです」と改めて名前を口にした。
「一部の人は知っていると思いますが、友綱君の所とは勢力争いをしている碇です。
色々な人の思惑が重なり合って、豪龍寺に入学することになりました。
喋って良い範囲でお話をすると、昔エヴァンゲリオンなんてもののパイロットをやっていました。
外国と言いいましたが、ドイツにはその関係でしばらく行っていたんです。
それもお役ご免になったので、晴れて日本に戻って高校生をすることになりました。
結構虐げられた生活を送ってきたので、彼女居ない歴17年と3ヶ月に突入しています。
外国にいた関係で語学は大丈夫だと思いますが、その分日本語が苦手になっています。
時々おかしなことを言うかも知れませんが、そのときは遠慮無く指摘してください。
これと言って得意なスポーツは特にありませんが、はっきり言って水泳は苦手です」
と言うことでと、言葉を切ると、生徒の中から「質問をして良いのか」という声が上がった。
「こうやって壇上に上がったんですから、質問を受け付けますよ。
ただし守秘義務に掛かることは、迷惑が掛かるからお答えできませんけどね」
それでと答えると、男女何人か手を挙げた。
「名前が分からないので、ええっとそこのイケメン」
そう来るかと、シンジに指名された男子生徒は最初に顔を引きつらせた。だが手を挙げたのは自分なので、聞きたかった質問を口にした。
「ええっと、生徒会長とはどういう関係ですか!」
「いきなり核心を突いてくれたけど、その前に名前を教えてくれないかな?」
にこりと笑ったシンジに、男子生徒はいけないと頭を掻いた。
「大川エイシだけど、それで質問の答えは?」
「じゃあ大川君で良いかな。
生徒会長というと、瑞光フジノさんのことだと理解して答えます。
僕の身よりは祖父しか残っていないんだけど、その祖父と瑞光さんが知り合いなんだよ。
だから日本に帰ってくるに当たって、瑞光さんが面倒を見てくれることになったんだ。
従って、日本風に言うと大家と店子ってところだろうね」
「それだけなんですかぁ!」
「ええっと、君は?」
元気よくやじった女子に、笑みを浮かべながらシンジは名前を聞いた。
「寝屋川ユリって言います!」
「じゃあ寝屋川さん、さっきの質問の答えなんだけどね。
僕は日本に帰ってきて6日目なんだ。
そしてそれ以前には、瑞光さんのことは全く知らなかったんだよ。
親同士が決めた許嫁とか、そんな漫画のようなことは一切無いからね」
「桂川って言います。
じゃあ友綱マドイさんとはどんな関係なんですか?
確か碇と友綱って、仲が悪いって聞いていたんですけど?」
少しぽっちゃり体型の女子が、想定された次の質問をぶつけてきた。ある意味シンジとしては待っていた質問、それを利用してローマのことに先手を打つことにした。
「日本に帰ってくる途中でローマに寄ったんだけど、
そのとき縁があって彼女をホテルまで送ったんだよ。
言っておくけど、僕はスーパーマンでも何でもないからね。
パイロットなんてやっていたけど、あれは兵器に乗れるってだけだからね。
だから誘拐犯の制圧なんてことには関わっていないんだ。
僕がしたのは、頼まれて彼女をホテルに送るところだけなんだよ」
「じゃあ、誰が彼女を助けたんですか?」
「そう言う質問は、僕の身が危なくなるんだけどね。
残念ながら相手の名前を聞いていないんだけど、僕が会ったのは金髪の綺麗な女性だったよ。
たまたま日本人を助けたから、命が惜しければその子を送っていけと命令されたんだ。
下手に関わり合いになると後が危ないから、名前も告げずにホテルから消えたんだけどね」
わざとらしく肩をすくめたシンジは、思いっきり思惑が外れたと嘆いて見せた。
「まさかね、自分が入学する高校に通っているとは思わなかったよ。
しかも、思いっきり敵視されているとは考えてもいなかったね」
「彼女、白馬の王子様に出会ったって言っていたんですよ」
「それって、提灯ブルマを穿いた間抜けのイメージが強いんだけどねぇ」
そう言って嘆いたシンジに、思わず桂川は吹き出してしまった。そしてそれにつられるように、クラスのあちこちから忍び笑いが起きていた。
「ちなみに、白馬じゃなくて赤いオートバイに乗っていたんだ。
フルカスタムの1400ccのドカティだったんだけどね。
エンジンまでいじってあったから、日本に輸入できない代物だったんだ。
だから向こうの知人に譲り渡して返ってきたんだよ」
「加茂川だけど、なんでパイロットをやめたんですか」
「残念ながら、それには答えられないんだよ。
一応守秘義務って奴があって、研究所のことは話せないんだ」
ごめんと手を合わされては、それ以上追求もできなくなってしまう。大人しく引き下がった加茂川に代わって、別の男子生徒が手を挙げた。
「酒匂ケンゴだ。
豪龍寺で、クラブ活動をする予定はあるのか?」
「酒匂君は、何か入っているのかな?
がっちりとした体をしているから、何か武道をやっているとか?」
「俺か、俺は空手部だ。
それで碇は、何かやるつもりはあるのか?」
「格闘系はちょっとね、だから文化部で探してみようと思うんだけどね」
「パイロットなのにか?」
「パイロットをしていたからだよ。
訓練とか体を痛めつけるのとかは、もうこりごりなんだよ。
何人か仕返しをしたい奴はいるんだけど、退役すると接点が無くなるからね」
わざと腰の入っていないパンチを放ったシンジは、残念だともう一度繰り返した。
「揖斐ナガラです。
彼女いない歴17年って言いましたけど、本当に誰とも付き合っていないんですか?」
「17年と3ヶ月ね、そこの所は重要だから間違えないように。
こんなことで嘘を吐いても、何も良いことはないと思うんだよ。
ちなみに14歳でパイロットになるまでは、小柄で陰気で、まったくもてなかったね。
パイロットになった後は、それはもう酷い環境に置かれたからねぇ。
死にかけたことは何度もあるけど、ガールフレンドだけは最後までできなかったよ。
ドイツにいたときは、それはもう肩身がとても狭かったし、
あっちじゃ日本人がもてるってことは全くなかったからね。
だから日本に帰ってきて、ちょっとは期待をしているんだ」
「じゃあ、どういう子が好みなんですか?
やっぱり、瑞光さんが彼女候補なんですか?」
「そりゃあ、フジノさんは美人だからね。
一つ屋根の下に住む事になったときには、それなりに下心も持ったよ。
でもさぁ、しっかりと両親に監視された状況なんだよ。
なかなか妄想を現実にするわけにはいかない状況なんだよ。
ようやく自由になって、これから遊べるという所なんだ。
はっきり言うけど、相手を決めることなんか今は考えていないんだよ。
まずは、みんなで楽しくわいわいとしたいって言うのが正直な気持ちなんだ。
それからどういう子が好みかってことなんだけど……
そうだなぁ、やっぱり優しい子が良いかなぁ。
何しろパイロット時代は、近くにいた子がみんな怖かったからね。
後はやっぱり可愛い子が良いかな。
一つ断っておくけど、可愛いって言うのは見た目だけのことを言っているんじゃないよ。
仕草とか性格とか、ええっと見た目を否定するつもりはないけど、そう言った可愛い子が良いかなって」
優しい子と言ったとき、フジノの目尻がぴくりと動くのにシンジは気づいていた。だがそれを無視して、シンジは「他に?」と話題を変えていった。
「利根だけど、なんで西九条がびびっていたんだ?」
「それは、僕が一番教えて貰いたいね。
まあ、ローマの出来事とか、僕が碇って言うのが聞いているんじゃないのかな?
だけどさ、こんないい男を怖がるなんて酷いと思わないか?」
そこできざったらしく手で前髪を触れ、どうだろうとシンジは聞き返した。このあたり、漫画ならば背景に薔薇の花が咲き誇るところだろう。シンジとしては冗談でしたポーズなのだが、残念なことに似合いすぎるという問題があった。そのせいで、多くの女子生徒が見とれてしまっていた。それは質問をした利根にも影響し、男のくせに顔を赤くしていた。ちなみに頭の中では、赤い髪をした悪魔がふくれていた。青い髪をした天使にしても、何処か不機嫌そうな顔をしている。唯一機嫌がよかったのは、灰髪の天使ぐらいだろう。それにしても、「やっぱり男が良いよね」と言う不思議な言葉を口走ってくれていたのだが。
そのことごとくを無視したシンジは、他にと言ってクラスを見渡した。これからのことを考えたら、この機会に吐き出させた方が身の為なのだ。そして同時に、クラスに溶け込む良い機会でもあった。一石二鳥を目論んだシンジは、言葉巧みにクラスメートから意見を引き出していったのだった。
碇シンジが来て以来、喜怒哀楽の変化が大きくなっている。それが生徒会長瑞光フジノに対する、副会長友綱ソウシの分析だった。それ以前は、少なくとも学園内では典型的な優等生だったのだ。もちろんすましているだけではなく、適度に愛想を振りまくことも忘れていなかった。そのおかげで、男子生徒から絶大なる人気を獲得し、生徒会長まで務めているのである。
だがシンジが来て以来、優等生というのが仮面だったというのが分かってしまった。そしてその仮面の下から現れたのは、とても可愛らしい年相応の少女の素顔だった。長い間幼なじみとして付き合ってきたソウシだったが、それは初めて見るフジノの素顔だったのだ。以前より魅力的になったのは嬉しいのだが、他の男が理由なだけに素直には喜べなかった。
その表情が豊かになった生徒会長は、定例会の間ずっとふくれっ面を通していた。それこそ驚くべき変化なのだが、地雷を踏まないようにと役員達はそのことをスルーした。ごく一部には、「可愛い」とときめいている男子役員も居たのだが。
定例会の終わりを宣言したフジノの所に、ちょっと良いかとソウシが近づいてきた。
「さて、久しぶりに情報交換と行きたいんだが?」
「交換するような情報はないと思うんだけど?」
「じゃあ意見交換と言い換えようか。
フジノも、色々と考えるところがあるんじゃないのかな?」
どうだと聞かれれば、違うとは答えにくかった。渋々ソウシに頷いたフジノは、それでと話の続きを促した。その反応を待ち構えていたように、ソウシは「碇シンジだが」と先に帰った話題の主を取り上げた。
「どうやら、色々と隠し事をしてくれているようだな。
見事に、うちのマドイも振り切って何処かに消えてくれたよ」
「ソウシの所で、監視しているんじゃないの?」
「監視じゃなくて、護衛と言って欲しいな。
親父が言うには、ローマでの恩返しと言うことらしい。
と言う話は置いておくとして、その護衛も振り切られたという報告が上がってきた。
すなわち、碇シンジは俺たちの知らないところで何かをしていると言うことだ」
「別に、あってもおかしなことじゃないと思うけど?
それでソウシは、シンジ様がそう言う行動をとることを問題にしているの?」
「やれやれ、本人が居ないところでは“シンジ様”か」
ふっと小さくため息を吐いたソウシは、まあいいと話題をシンジ自身のことへと向けた。
「人の性格って奴が、あれほど綺麗に変わるものかと思ったんだよ。
手に入る碇シンジの人物像からは、とても今の姿を想像することができないんだ。
人の心を掴む巧みな会話や、他人の中に物怖じしないで入っていく性格。
そのあたりが、過去の観察記録と全く異なっているんだ」
「私に聞かれても、何も分からないわよ……」
戸惑いを含んだ表情に、同じ感覚を共有しているとソウシは理解した。そして同時に、フジノが冷静になってきていることも理解した。
「顔もスタイルも頭も、たぶん運動神経も良いんだろうな。
そんな完璧超人と言うのと、性格と言うのは別の話だと思っているんだ。
まあ頭の方にしても、中学時代は標準的な学力だと報告されているんだがな。
本当に同じ人間なのかと疑いたくなるほど、中学時代と違っているんだ」
「でも、御当主様を含めてシンジ様本人だと認めているわよ。
シンジ様本人だから、ドイツに連れて行かれたわけだし……」
本人かどうかの疑いは、時折フジノも感じていたことだった。だが様々な公的機関が、碇シンジ本人であることを認めてくれているの事実だった。だからこそ、二人は余計に疑問を感じることになった。
「ただ遺伝という意味では、中学時代の方がむしろ不思議な気がするわ。
直接の面識はないけど、ユイ様はとても美しくて、賢い人だと聞かされているわ。
それに碇ゲンドウという人物にしても、国際機関の長にまで成り上がった男でしょう。
京大に入っていたんだから、頭が悪いってことはないと思うのよ。
それにユイ様は、とても社交的な方だと聞いているし……」
「うちの親父にとっても、ユイさんは特別な人だったらしいからな……
確かに、そのユイさんの血を引いているのなら、中学時代がおかしいというのも理解できるな。
もしも環境に理由を求めたとしても、ドイツに渡っても余り良い環境ではなかったはずだよな?」
「さすがに、そのあたりの情報は入ってこないわね……」
「人の成長が不連続に行われるとしても、いくら何でも不連続すぎるってものだな」
「それには同感。
持っている知識の量が半端じゃないもの」
頷いたフジノに、そうだろうとソウシは口元を緩めた。
「それでフジノ、そのシンジ様と何か進展はあったのか?」
「なに、偵察のつもり?」
途端に表情を険しくしたフジノに、やだなぁとソウシは作り笑いを浮かべた。
「確かに、俺はマドイを応援はしているがな。
ただこっちは、純粋に興味本位という所があるな。
全校男子憧れの的、生徒会長瑞光フジノが家族ぐるみで誘惑しているんだ。
それがどう言うところに落ち着くのか、興味を持って当然だと思うんだがな」
「すっごい嫌みな言い方ね。
今はシンジ様が居ないから、誰もソウシのことを庇ってくれないわよ」
チキチキとカッターナイフの刃を出したフジノに、ソウシは思わず一歩後ろに下がっていた。
「つまり、碇シンジはフジノよりもずっと強いと言うことだな。
そうじゃなきゃ、とっさにシャーペンを取り上げることなんてできないだろう?」
「確かに、気がついたら取り上げられていたわね……」
チキチキと今度は刃を戻したフジノは、ほおづえを突いて大きくため息を吐いた。
「シンジ様と居ると、本当にいろいろ自信を無くすことが多いわ。
お風呂の後に部屋に行っても、絶対に危ない雰囲気にならないんだもの。
ソウシみたいに、胸とか足とかに視線を感じがことが一度もないのよ」
「……俺みたいにってのは余分だと思うんだがな」
「でも、事実でしょう?
それともソウシ、あなたは私の体に興味がないの?」
そう言って、フジノは制服の胸元を指で引っ張った。上から覗けば、ちょうどその中が見える程度の広げ方である。からかわれていると分かっていても、つい胸がどきりとしたソウシだった。
「お、俺は、健全な男だからな」
「シンジ様だって、健全な男のはずよ」
さすがにフジノも、シンジの女性経験のことはばらさなかった。その分説得力に欠けることになるのだが、別にソウシも拘っては来なかった。
「だとしたら、フジノの魅力が通用していないことになる。
フジノでもだめなら、マドイもかなり厳しい戦いになるって事だな」
「マドイちゃん、ずいぶん綺麗になったと思うんだけど……」
「そう言う意味なら、フジノも綺麗になったと評判だぞ」
ソウシの言葉が正しければ、それでも揃って討ち死にしていることになる。改めて現実を突きつけられ、フジノははあっとため息を吐いた。
「一週間やそこらで打ち解けられるとは思っていないけど……
シンジ様は、本当によそ行きの顔しか見せてくれていないわ。
やっぱり、私程度じゃシンジ様の気を引くことなんてできないのかしら?」
「フジノは碇シンジに一目惚れをしたが、碇シンジはそうじゃなかったと言うことだ。
だからと言って、嫌われている訳じゃないんだろう?
だったら、そのあたりはフジノの言ったとおりなんじゃないのかな。
まだ1週間にも満たない関係だと割り切ることだ」
意外にも慰められたことに、フジノは軽く目を見張って驚いた。
「まさか、ソウシに慰められることになるとはね」
「フジノとの付き合いは長いからな。
自分のためにはならないが、だからと言って見捨てるわけにもいかないだろう?」
そう言ってウインクをしたソウシに、似合わないからやめておけとフジノは笑った。
「でも、少し気持ちが楽になったわ。
今日は大人しく返って、母さんの手伝いでもするわ」
「俺は、帰ったらマドイのご機嫌取りだな。
まったく、碇シンジが来てからと言うもの、完全に振り回されているな」
そう言って苦笑を浮かべたソウシに、つられたようにフジノもまた苦笑を浮かべた。振り回されているという言葉に、心当たりがありすぎたのだ。
「たぶん、あいつの存在が大きすぎるせいだろうな。
だから落ち着き方が決まるまで、周りにいる者が振り回されることになる」
「存在が大きいか……たぶん、とびっきり大きいんでしょうね」
何度目かのため息を吐いて、フジノは思い切ったように鞄を持って席から立ち上がった。
「それでも努力を続けてみますか」
「諦めるんだったら、早いうちに頼むな」
「まだ、諦めないわよ。
だってシンジ様は、同じ屋根の下にいてくれるんだから。
それに最終兵器も使っていないし」
「最終兵器?」
「世の中には、酔い潰して既成事実を作るって方法もあるのよ。
さすがにやんないと思うけどね」
それぐらいは冷静だと笑い、フジノは生徒会室を出ようと歩き出した。だがドアを開けようとしたところで立ち止まり、ソウシの方へ振り返った。
「男の人って、酔いつぶれていても役に立つものなの?」
「そう言うことは、飲酒可能年齢の大人に聞いてくれ。
それからフジノ、その手のことはネットの方が詳しいぞ。
俺は公明正大、まっとうに生きている男子高校生なんだからな」
「ふ〜ん、じゃあ今度ソウシがどんなシチュでおかずを使っているか教えて貰うわ」
「ああっって、そんなものを教えるかぁ!」
「嘘よ、じゃあバイバイ!」
軽口を叩いて出て行ったフジノを見送ったソウシは、自分も帰るかと立ち上がった。実はソウシも、フジノの隠していることがあった。そしてそれは、自分の妹に対しても隠していたものだった。
「碇シンジがフジノ達に手を出さないのは、王族が入学してくるからなのか?」
この話には、日本政府も動いていると聞かされていた。それを考えると、誤情報と言うことはないのだろう。政府直々に準備を要請されたと言うことは、それだけ政治的にも重要な意味を持っていることになる。
「まだまだ荒れると言うことか」
そのとき自分はどう立ち回るのか。その行動の一つ一つが、自分の価値を決めることになるとソウシは考えたのだった。
ソウシに行方をくらませたと言われたシンジは、その頃軽自動車の後部座席に転がされていた。車の振動に合わせるように体は揺れるが、それ以外の動きは一切見られなかった。くつろぐにしては窮屈なことを考えると、それはシンジの意志ではないのだろう。軽自動車は、どこにでもある白のバンタイプで、ドアには壮美株式会社と社名まで入っていた。
運転席には、若い男女が座っていた。運転しているのは男の方で、ネクタイを締めたワイシャツの上に、グレーの作業着を羽織っていた。そして隣に座っている女性は、濃いピンクの紐のないタンクトップに、白のキュロット、そして同じく白のローファーを履いていた。二人の間には会話はなく、ただ黙って前を見つめていた。そして男の運転する車は、まっすぐ東を目指して走っていた。
事の発端は、シンジの携帯に授業中に着信があったところまで遡る。スーパーサイレントにしていたため、帰り際に気づいたシンジは、留守電から女性の声で「ドライ」と言うキーワードだけを聞かされた。
「つまり、間違い電話ではないと言うことか」
この携帯番号を知っているのは、フジノ以外には碇家に関係する2人とキャルの4人だけだった。間違い電話の可能性が否定されたとなると、相手はキャルの繋がりと言うことになる。やけに連絡が早いなと思いはしたが、相手もプロだと考え直すことにした。
そしてシンジは、キャルの紹介と確信して残された電話番号にかけ直すことにした。
「はい吾妻です!」
コール二つで出た相手は、残されたメッセージと同一人物とは思えない調子で電話に出てくれた。意外な調子に驚きはしたが、努めて冷静に「電話を貰った碇です」と答えた。
「電話をした……ああそうそう、碇さん保険に興味はありませんかぁ。
声を聞いたところお若いようですけど、保険って言うのは若いうちに入っておいた方がお得なんですよ。
スポーツ保険とか、学資保険とか、後は傷害保険というのもありますよ。
どうでしょう、一度どこかでお会いしてお話をしたいんですけど!!」
「え、ええっと、保険の勧誘ですかぁ。
いったい、どこで僕の携帯番号を調べたんですか……」
はあっとわざとらしくため息を吐いたシンジは、「間に合っています」とはっきりと言い切った。だがそれぐらいのことで、保険勧誘員が引いてくれるはずがない。めげることなく、新たな商品の紹介をしてくれた。
「だったらとっておきの保険を紹介しますよ。
VIP専用に、誘拐保険というのもあるんですよ。
ほら、海外では誘拐事件が多発しているじゃないですか。
少し前にも、イタリアで日本人資産家のお嬢さんが誘拐されたそうですしね。
身代金も跳ね上がっていますから、間違いなく保険が必要になると思いますよ。
それに保険に入っておけば、アフターサービスも満点ですから」
早口でまくし立ててきた相手に、シンジは折れて「分かりました」と答えた。
「それで、どこに行けばいいんですか?」
「油阪に三友生命の支店があるのよ。
その近くの喫茶店というのはどうかしら?
ホテル日航のラウンジでも良いんだけどね。
あそこだったらJRの奈良駅すぐだから分かりやすいと思うわよ」
「そこだったら……1時間後で良いですか?」
「もうぜんぜん構わないわよ。
じゃあ、先に行って待っているわね。
あ、そうそう、私吾妻って言います。
ラウンジに来たら、美人の吾妻さんで捜してね」
「よろしくぅ〜」と軽すぎるのりで電話を切った相手に、シンジは小さくため息を吐いた。だがすぐに表情を引き締め、すぐに指定された場所に向かうことにした。当然相手が、ただの保険勧誘などとは思っていない。残されていたメッセージもそうなのだが、イタリアでの誘拐を口にしたこともその理由となっていた。そのためには、いくつか着いている尾行を振り切る必要がある。1時間後という時間を指定したのも、その準備を含めてのことだった。
バスと徒歩とタクシーを駆使したシンジは、最後にJRを使って目的地へと向かうことにした。少しトリッキーな事をしたおかげで、少なくともあからさまな尾行は撒くことに成功した。後は自分の能力を超えた尾行対策だが、はっきり言ってこちらは諦める他は無かった。
JR奈良駅で降りたシンジは、身軽になるためコインロッカーを利用することにした。そこに油断がなかったかと言われると否定は難しいが、開いているロッカーを見つけたところでシンジの意識は途絶えたのである。天使や悪魔からも警告はなく、全くの不意打ちをされたのだった。
五月蠅く自分を呼ぶ声に、シンジはようやく意識を取り戻すことができた。ただそこで動き出さなかったのは、まだ体のコントロールが戻っていなかったのが理由だった。
「事情を説明したら、体はシンジに返すからね」
そう言って、赤い髪の悪魔はここまでの事情を説明した。その説明によると、今自分は車で運ばれている途中と言う事だ。その目的地については、掠った者が口にしていないので不明と言うことである。そしてシンジを掠ったのは、男女の二人組と言う事だった。
「相手の意図は不明、だからしばらくは気絶した振りをしていて。
それで勝てるとは思えないけど、相手を油断させておく必要があるわ」
そこまで説明して、赤い髪の悪魔は体をシンジへと返した。すると説明された通り、割と大きな振動が伝わってきた。固いシートに大きなエンジン音から、旧型の軽自動車かとシンジは当たりをつけた。ここまでの経緯を考えると、相手は自分を呼び出した女性だろう。そうでもなければ、これほど的確に待ち伏せをすることはできないはずだ。
(少なくとも、何らかの意図を持ってこんな真似をしたはずなんだが……)
だがその意図を探ろうにも、前の席からは会話の一つも聞こえてこなかった。ただ分かるのは、かなり郊外に出たと言うことだろう。道の荒れが収まり、信号で止まる感覚も延びてきた。そしてその一方で、エンジン音がかなり大きく聞こえていた。
しばらくして左折してからは、逆に道路が荒れてきた。そして最後には、舗装されていない道路へと入っていった。いよいよ目的地への到着かと、シンジは仕掛けるタイミングを待つことにした。だが相手の方が上手で、車が止まったところで、「気絶した振りをしても無駄だ」と男の方から声を掛けられた。
「気絶した奴は、そんなに体に力が入っていないだろう」
カマを掛けられたのではないことを示され、シンジは静かに目を開いて起き上がった。そこで初めて分かったのは、自分に話しかけた相手は、まだ若い男性だった。その中で不思議と言えば、その男のしている格好だろう。スーツの上に作業着というのは、どう言ったセンスなのかと悩んだのである。しかも隣に座っている女性は、町中で普通に見かける、ちょっとおしゃれをした程度の格好なのだ。取り合わせとしては、不自然きわまりないものだった。
「そんな不思議そうな目で俺のことを見るな。
一応名乗っておくが、俺の名前は吾妻レイジ、壮美株式会社に勤めるサラリーマンだ。
と言うことで、これが俺の名刺だ」
何かの罠かと思ったが、主導権が相手にあるのは間違いない。だからシンジは、差し出された名刺を大人しく受け取った。そしてそれを待っていたように、隣に座っている女も振り返り、笑顔と一緒に名刺を差し出してきた。
「三友生命で外交員をしてます、吾妻エレンです」
その名刺を受け取ったところで、今度は女性の方に上から下まで舐めるように品定めをされてしまった。その態度に男が咳払いをして、外に出ようと声を掛けてきた。
「キャルの紹介だ、危害を加えるような真似はしない」
「そのくせ、ここまでは拉致してくれましたね」
相手の矛盾を突いたシンジに、レイジと名乗る男は、「必要な措置を執ったまでだ」と言い返してきた。
「あんな方法じゃ、尾行をまききれないからな。
だから、こちらで処理をすることにした。
キャルの奴、こう言うときにどうすればいいのか教えてなかったのか?」
「え、ええっと、趣味でいたぶられた気はしていますけど……」
少なくとも関係者であるのは確かだし、相手の腕が確かなのもよく理解はできた。だが何を意図してここまで連れてこられたのか、それが全く分かっていなかった。しかも外を見れば、どこにでも見かけることのできる廃工場があるだけだった。ある意味、以下にも胡散臭い場所だったのだ。
「とにかく、話は外に出てからにする。
それからエレン、あまり物欲しそうな顔をするんじゃない。
個人的な楽しみは、ちゃんと契約を済ませてからにしてくれ」
「もうすぐ、二人目が生まれるから大変みたいねぇ」
「ほっとけ!」
男はそう吐き捨てると、ドアを開いて外に出て行った。そしてそれから少し遅れて、女もドアを開けて外へと出て行った。そうなると、残っていても何もすることはない。「気をつけて」と言う天使と悪魔の声に頷きながら、シンジもドアを開けて明るい世界へと出て行くことにした。
「それで、こんな所に連れてきてどうするつもりなんです?」
「なに、契約を確実に行うための舞台装置だ」
逃げようのない場所に連れてきて、そこで契約を迫ると言う事だろう。相手の実力から見て、今のシンジに勝ち目がないのは明白だった。
「それで、先ほどの誘拐保険の件はどうなりました?
契約の前に、そちらの話が聞きたくなったんですけど?」
拉致されてお金の話をされるのだから、これも一種の誘拐に違いない。それを持ち出したシンジに、エレンはにっこりと笑って「特別契約を用意しましたよ」と言ってくれた。つまり、今からする契約の中に、それも含まれていると言うことだ。
諦めたシンジは、どうすればいいのかと男の方に聞いた。
「そうだな、まず工場の中を見て貰おうか」
「工場の中をですか?」
後ろから撃たれることはないと踏んで、シンジは言われた通りに廃工場の扉を引っ張った。さび付いて重くなった扉は、きしみながらゆっくりと開いていった。そしてシンジは、相手が見せたい物の中身を知った。そこには猿ぐつわをされた男が5人、両手両足を縛られて転がされていた。
「実力を示すために、お前を張っていた奴を捕まえておいた。
他にも大勢いたが、雑魚は放置しておいたからな」
中に外国人が混じっているところを見ると、男の言う通りなのだろう。気をつけなければいけないのは、中に友綱の関係者が混じっていないかと言う事だった。
「あなたたちの実力はよく分かりました。
それで、この人達をどうするつもりですか?」
「どうするのかは、契約次第と言う事だな。
契約がまとまらなければ、逆にこいつらの所に売り込みに行くことにする。
契約がまとまれば、指示通りに始末することになるだろう」
つまり契約がまとまらなければ、新しい敵を作ってしまうと言うことに繋がる。はあっとため息を吐いたシンジは、「契約条件は?」と男に尋ねることにした。
「それは、あちらで話をしよう」
男が指さした先では、もう一人の女性がテーブルを広げていた。それはキャンプ場でよく見かけられる、ピクニック用の簡易テーブルだった。そののどかな景色と、これから行う契約のギャップは、シンジをして目眩を感じさせる物だった。しかも女性の方は、広げたテーブルの上にお茶のカップを並べていた。
「悪いな、外交のおばちゃんが長かったんだ」
「そう、なんですか?」
真剣な様子を見ると、こちらをからかっていると言うことは無いようだ。「動揺するな」と心の中で何度も繰り返し、シンジは交渉のテーブルに着くことにした。
「それで、条件を提示して貰えるんですよね?」
「そうだな……」
小さく頷いた男は、自分からと言って条件を切り出した。
「月額60万に、夏冬のボーナスをそれぞれ2.5ヶ月分。
できれば、定期昇給も考えてくれないか。
あと交通費等の経費は、逐次精算してくれ。
それから、残業と夜間作業については割り増しで払って欲しい。
加えて、もっともらしい会社名を用意してくれないか。
それから、福利厚生に着いてだが、社宅に類する物も用意して欲しい」
「は、はあぁぁぁっ!」
提示された条件は、あまりにも場違いすぎる物だった。金額の少なさもそうなのだが、それ以上に福利厚生とか言う感覚が信じられなかった。だがそれを持ちだした男の方は、至ってまじめな提示だったようだ。
「笑うな、これでも所帯持ちは色々とあるんだ。
家内には足を洗ったことにしてあるから、体裁を整える必要があるんだよ。
それで、この条件を飲んでくれるのか?」
「碇の関連企業に籍を置く形でよければ……」
拉致した数と手際を考えれば、破格を通り越した条件に違いない。逆に、それで良いのかと聞き返したくなる条件だった。
「それで、詳細はこちらからお知らせすればいいですか?」
「それで頼む、と言うことで契約成立と考えて良いのか?」
「こんな条件だと、少し罪悪感がありますけどね……」
よろしくお願いしますというシンジの答えに、男の肩から力が抜けた様な気がした。
「どうかしましたか?」
「いや……いえ、こちらのことです」
急に言葉が改まった相手に、もう一度シンジはどうかしたのかと聞き直してしまった。
「言葉遣いまで変わった気がするんですけど?」
「いえ、あなたは雇用主ですから。
必要な態度をとっているだけです」
よほど厳しい職場にいたのかと、それまでの男の環境へとシンジは思いをはせた。だがそれも僅かな時間で、女の方が私の条件と言って話を切り出してきた。
「基本的にはレイジと同じで良いわ。
ただ住むところは、あなたとできるだけ近いところの方が良いわね。
その方が、身辺を守るのにも都合が良いと思うから」
「繰り返しますけど、本当にそれで良いんですか?」
キャルが保証するぐらいだから、腕前が確かなのは間違いない。その凄腕を雇うにしては、条件があまりにも破格すぎるのだ。この程度では、友綱の雇う下っ端と大差がなく、安すぎると不安になってしまうほどだ。
「だって、外交のお姉さんって大変な割に実入りが悪いのよ。
それに、セクハラなんて日常茶飯事だしね。
こっちの特殊技能と言っても、日本にいると仕事なんて入ってこないのよ。
良いところに勤めようにも、学歴が壁になっているしね」
だからだと言われても、はいそうですかと納得できる物ではない。むしろ煙に巻かれた気がしてならないのは、シンジの気のせいではないだろう。
「そのあたりの事情は、私も同じ所があります。
家内と子供二人を養って行くには、安定した収入が必要となります」
「レイジも言っているように、余り金額は気にしなくても良いわ。
もちろん、能力給で昇級してくれるのは歓迎するわよ」
で? と聞かれれば、「よろしくお願いします」としか答えようがない。その答えを受け取った女も、シンジに対する態度を改めた。
「確保した男達は、雇用主を確認してから処分することにします。
友綱関係者は、生かして帰せばよろしいですね?」
「基本的にはそうだけど……」
うんと考えたシンジは、生かして帰す条件を追加した。
「日本政府関係者と、神凪関係者も生かして帰してくれないかな。
まあ口を割ったら、もれなく帰してあげても良いんだけどね」
関係者ならば、単なる不幸な行き違いで済ませることができるし、本当に危ない相手なら、口を割った時点でこの世界で生きていけないことになる。シンジの意図を理解した男は、「なかなか悪ですね」と賞賛の言葉を贈ってくれた。
「そんな、人が死ぬのに関わりたくないだけですよ」
「じゃあ、それが方針だと肝に銘じて行動することにします」
深々とお辞儀をした男に、それは止めてとシンジは懇願した。
「お願いですから、普通に話をして貰えませんか。
どうも、そう言う態度にトラウマができかけているんですよ。
連れてこられる時の態度の方が、むしろ安心できるというか」
「それが命令なら、使い分けることにしよう」
「じゃあ、命令と言うことにしてください」
ほっとため息を吐いたシンジは、これで良いのかと二人に確認した。
「いきなり消えましたから、下手をすると騒ぎになっていますからね」
「契約書はないが、これで契約成立と思ってくれていい。
もちろん、契約を破ったときにはそれ相応の覚悟をして貰うことになるがな」
「この程度の費用をけちるつもりはありませんよ。
それで、今日のは契約前の仕事ですよね。
支度金とかで清算して良いですか?」
「そうしてくれると助かる」
これで必要な契約行為は終了したことになる。それでとシンジに見られた男は、苦笑混じりに軽自動車の方を指さした。
「エレンが送っていくそうだ。
俺は、迎えが来るまでここの後片付けをしておく」
「じゃあ、支度金はエレンさんにお渡しします」
それではと頭を下げたシンジを、男は苦笑混じりに見送ることになった。送っていくとは言ったが、まっすぐ送り返すとは毛ほども思っていなかったのだ。早く迎えに来てくれればいいなぁ、そんな気持ちで走り出す車を見送ったのである。
連れてこられるときとは違い、今度は助手席にと座らされた。そして来るときとは違い、女の方は積極的にシンジへと話しかけてきた。少なくともその態度は、凄腕の殺し屋とは絶対に結びつかない物だった。
「ドライから聞いていると思うけど、レイジと私は血のつながりがないの。
まあ見た目でもそれぐらいのことは分かると思うから、余計な説明なんだけどね。
ドライと私でレイジを取り合っていたのよ。
でも、高校の時の友達に横から掠われてしまったの。
だからドライは日本を離れたし、私は偽りの兄妹という関係を続ける事になったのよ。
色々と事情があって高校しか出られなかったから、お互い職探しに苦労をしたのよね。
だからドライの話は、こちらにとっては願ってもない話だったのよ。
だって碇って言えば、結構有名な存在なのよ。
そこに雇用して貰えるんだったら、きっとレイジの所も生活が楽になると思うのよ。
ミオ、奥さんの名前なんだけどね、そっちの実家への顔も立つんじゃないかしら?
ちなみにミオの実家というか、父親は広域暴力団の親分をしているわ」
「広域暴力団……ですか?」
「そう、だから余計に碇の名前は通っているようよ。
これをきっかけに、あちらからお近づきになりたいって言ってくる可能性もあるわ」
「なんか、話がおかしな方向に飛び火しそうな気が……」
どうしてこうなると、心の中でシンジは巡り合わせを呪っていた。だが天使と悪魔達は、その愚痴には耳を貸さず、「よかったねぇ」と不思議な笑みを浮かべてくれた。もちろんシンジが、その理由を理解できるはずがない。「なんで」と聞き返してみても、にやにや笑われるだけだった。
「ところでドライって、どんな仕事をしているの?」
「そのあたりは、守秘義務が……って、大したことじゃないか。
僕がドイツに居るとき、国連関連の研究所に所属していたんですよ。
その時の所長秘書官と言うのが、キャルの正式な肩書きでした」
「正式? と言うことは、他にもあるの?」
「サードチルドレン訓練担当とか言うのを本人は公言していました。
おかげで、色々と理不尽な訓練をさせられましたよ」
それを思い出すと、どうしてもため息が出てしまう。はあっとため息を吐いたシンジに、エレンは「災難ね」と同情をしてくれた。
「ドライは、才能だけでやっているから、チームプレイができないのよ。
そんな彼女に教えられたら、細かな指導はなかったんじゃないの?」
「確かに、何でできないんだって叱られましたね。
そのくせ、細かな説明は全てすっ飛ばしてくれたし……」
なるほどと理解はできたが、だからと言って納得できる物ではなかった。新たな理不尽さを感じたシンジに、「大したものね」とエレンが褒めてきた。
「大したもの?」
「彼女の訓練に着いてこられたんでしょう。
電話でも、あなたのことを褒めていたわよ。
それに今日のことでも、単なるお坊ちゃんじゃないこともよく分かったわ」
「でも、あなたたちには歯が立ちませんよ」
「それは、くぐり抜けてきた経験の差だと思って。
後から、あなたにもどんな経験をしてきたのか教えてあげるわ」
ふふふと意味ありげに笑ったエレンに、用心しながら「そうですか」とシンジは答えた。どう考えても、まともな経験であるはずがないのだ。
「でも、そう考えるとドライが一番うまく立ち回ったってことね。
なのに、なんで研究所をやめたがっているのかしら?
つい最近まで、羨ましいかって自慢していたくせにね。
昨日話したときには、しきりにやめたがっていたわよ。
あなたが居なくなって退屈しているのか、それともあなたのことが忘れられないのか」
もう一度意味深な笑みを浮かべたエレンに、シンジは背中に冷たい物が団体で走り抜けていった。事ここに至って、自分が蜘蛛の糸に掛かった虫だと言う事に気がついたのだ。おかげで、天使と悪魔達が不思議な笑みを浮かべていた理由にも気がついた。
「大丈夫よ、命までは取られないから」と赤い髪をした悪魔が笑えば、「溜まっていたんでしょう」と青い髪をした天使が軽蔑した眼差しを向けてきた。そして灰髪の天使も、「適度な発散が必要だよ」と、意味のないアドバイスを送ってくれた。当たり前だが、誰もシンジの置かれた状況に同情的ではなかった。
「ねえ、品行方正な高校生をしているのって疲れない?」
「品行方正にしているのより、周りの反応の方が疲れるんですけどね」
「そりゃあ、こんな美形が現れたら、周りも冷静じゃいられないでしょうね」
「美形って言われてもなぁ……」
そう言われたときに、ろくなことがあった試しがないのだ。だから嫌だとため息を吐いたシンジに、「贅沢よ」とエレンは少し口元を歪めた。
「そうじゃなきゃ、格安で私たちを雇うことなんてできなかったんだからね」
「やっぱり、格安なんですよね」
それだけは、さすがにシンジも認めざるを得なかった。
「だから、少し回収させて貰うわね」
「回収ですか?
追加料金を払うのも吝かではないですよ。
それに、支度金をまだお支払いしていないし」
「違うわ、そうね、お互いの信頼関係を深めると言い換えましょうか」
はっきりと口元を歪め、エレンはハンドルを左に切って細い道へと入っていった。その曲がり角には、しっかりと「ホテル 妖精のささやき」と書かれていた。
「え、ええっと……」
「キャルが、とても素敵だったって言っていたわよ。
それにまじめな高校生も疲れるでしょう?
だから、たまには発散した方が良いわよ。
学校の子と違って、引きずらないから大丈夫よ。
それに、今更逃げられるとは思っていないでしょう」
か細い体をしているが、キャルからお墨付きが出るほどの実力者なのだ。しかもこうして話をしている間も、隙という物を全く見つけられなかった。つまり、どう抵抗しようと結果は見えていると言うことだった。
「そ、その、帰りが遅くなるって連絡をさせて貰えますか?」
「そうね、余り遅くならないようにしないとね。
それに、レイジも遅くなると、ミオに怒られるから」
目立たない入口から中に入り、外から見えにくい駐車場に軽自動車が止まった。無理矢理連れてこられたが、シンジにとって新しい経験には違いなかった。
「大丈夫、ドライより満足させてあげるからね」
「お、お手柔らかにお願いします」
足腰が立たなくなった記憶があるだけに、それ以上というのはむしろ恐怖だった。だからと言って、逃げられない状況に変化はない。可愛らしく左腕を抱えるエレンを連れて、シンジは未知なる世界へと踏み出していったのだった。
たっぷりとホテルで時間を使った後、臭い消しと称して焼き肉屋へと連れ込まれた。臭い消しだったら、煙が充満する大衆的なところを想像するところだが、何故かとても高級なお店に連れ込まれてしまった。そのおかげで、余り臭い消しになっていないのでは疑問に感じたほどだ。もっとも消耗した体力回復に、焼肉をたらふく食べるというのは望むところだった。霜降りの高級肉から脂たっぷりホルモン系まで食べ尽くし、満腹の内に店を出ることになった。
そこでエレンがでれているように見えるのは、それまでの時間が理由となっているのだろう。そしてシンジのエレンに対する対応も、ずっと砕けた物に変わっていた。
「ドライが、日本に来たがる理由がよく分かったわ」
「キャル、本当に日本に来るつもりなのかなぁ」
そんなことになったら、更に自分の周りは騒がしいことになる。それが想像できるだけに、シンジも素直に喜ぶことができなかった。だがそんなシンジに、「女の執念を甘く見ない方が良い」とエレンは笑った。
「でも、あの子も自分の立場は理解しているわ。
だから多少我が儘を言っても、無理を言うことは無いと思うわ。
もしも無理を言うようなら、私が懲らしめてあげる」
先ほどは腕を組んでいたのだが、今度はシンジに肩を抱かれていた。幸せそうに密着したエレンは、「守ってあげる」と甘えた声を出してきた。可愛いというのは年上に向けての感想ではないはずだが、それでも可愛いと思えてしまうから不思議だ。それに絞り尽くされたキャルとは違い、男としてはとても奮起させてくれた。そのあたりうまいと言えばそれだけなのだが、それでも騙してくれるだけ嬉しいと感じていたのだ。
「そろそろ迎えに行かないと、レイジの家で家庭不和がおきそうね」
「支度金は、それで足りるのかなぁ」
カードで引き出せるだけ引き出したこともあり、封筒の厚みはちょっとした物になっていた。それでもシンジの資産から見れば、利息にもならない金額だった。だがエレンは、これでも多すぎると言ってくれた。
「こんなお金をミオに見せたら、かえって心配されることになるわね」
「だからと言って、ピンハネしないでくださいね」
「ばれたら、私だって危ないことになるわ。
だから、そんなことは絶対にしないわよ」
つまり実力的には、レイジが1番で2番がエレンだと推測できる。そうなんですかと納得したシンジに、だからピンハネはしないとエレンは保証した。
「それに、こんなにいい目にあったんだもの。
こればかりは、お金には換えられないわ」
しかもこんなに可愛いことを言ってくれるのだ。ついシンジも、相手の正体を忘れて目尻が下がってしまうと言う物だ。もちろん頭の中では、天使と悪魔達が「鬼畜」と騒ぎ立ててくれる。だが気分が良いと、それも聞き流せてしまうから不思議な物だ。
「とりあえず、最寄りの近鉄の駅まで送っていくわね。
そうしないと、私の面が割れてしまうから。
いつまでもと言うのは無理でも、しばらくは目立たない方が良いでしょ?」
「確かに、手の内はできるだけかくしておいた方がいいですね」
名残惜しくはあったが、シンジは大人しく助手席へと乗り込んだ。このあたりは若いと言えるのだが、完全に年上の女性に弄ばれているのだろう。それを悪魔と天使達が指摘するのだが、「良いじゃないか」とシンジは聞き流していた。
「こう言うのって、風俗嬢に注ぎ込むおっさんと同じね」
「ボディガード兼愛人だと考えるのなら、コスト的にはお得なんじゃないのかな?」
「そんな生やさしい相手なら良いわね」
どうせ痛い目を見るのは本人だと、悪魔と天使達は意見の一致を見ることになった。もっともそれが命に関わってはいけないと、フォローの仕方だけは考えることにした。女性関係に限られるのなら、大いに痛い目に遭えと言うのも一致した答えだった。
その結果、悪魔と天使達の生暖かい応援を受けながら、シンジは駅までの道を揺られていったのだった。
もっとも、これで一日が終わるほどシンジは自由に生きていなかった。まあ当たり前なのだが、帰ったところで瑞光家、主にフジノとマミヤによって、入念なチェックを受けることになったのである。日本に帰ってきてから間がないこともあり、いきなり電話で夕食がいらないと連絡を受けるとは考えていなかったのだ。それでも幸運だったのは、女性がらみを疑われなかったことだろう。そのあたりは、友綱の監視網も振り切られたという情報が役立っていた。
「焼き肉……ですか?」
「色々と打ち合わせをしていたら、時間が遅くなりそうだったからね。
だから、スタミナを付けようって焼き肉屋に行くことになったんだよ」
「打ち合わせですか……」
「何って聞くのは無しだよ。
一応碇次期当主として、色々と手を打たなくてはいけないからね。
そのためには、色々な人と会うのも必要なんだよ」
「はあ、碇家次期当主としてですか?」
フジノにしてみれば、自分は碇家関係者だと思っていた。だから自分の知らない動きをするシンジに、落胆などを感じていたりした。あてにされていないと感じるのは、やはり瑞光フジノとしては辛いものがあったのだ。
だがシンジが話さないと言った以上、問い詰める資格はフジノにはなかった。それに仕事に繋がる話なら、別に心配する必要もないと考えたのである。
「焼き肉臭いですから、早くお風呂に入ってください。
ワイシャツは洗濯するから良いですけど、ズボンも消臭スプレーを掛けておきますからね。
お風呂の所に掛けておいてください!」
「面倒を掛けて悪かったね」
「全くです、次からは臭いが付いても良い服で行ってください。
焼き肉の臭いを漂わせていたら、女の子達ががっかりしますよ」
まったくと呟きながら、フジノは準備をしにお風呂に歩いて行った。その後ろ姿を見送りながら、所帯じみてきたかなとシンジは苦笑を浮かべた。
「差し詰め、浮気帰りの亭主って所かしら?」
すかさず突っ込みの言葉を入れた赤い髪の悪魔に、シンジは目元をを引きつらせた。言われてみれば、最後の会話には思い当たるところが多すぎたのだ。女性が絡んでいないかと疑われる所など、まさしく浮気を疑われている亭主殿だろう。
「そう言うときには、良いご機嫌取りの方法があるのだけどね」
にやにやと笑う灰髪の天使の言葉を無視し、シンジは自分の部屋に戻るため階段を上がっていった。ちなみに青髪の天使は、なぜか始終機嫌が良かった。それはそれで、怖いというか気持ち悪かった。
シンジが階段を上がったところで、洗面器とタオルを持ったメメと行き会った。ちなみにメメの場合、家族用のお風呂には入れてもらえない。使えるのは、屋敷の外れにある小さくて古いお風呂場だった。
「おや坊ちゃん、何か良いことがありましたか?」
「別に、良いことなんて特にないけど?」
はてと首を傾げたシンジに、いえねとメメが意味深な笑みを浮かべた。
「やけにすっきりとした顔をしていますからね。
よほど良いことがあったのか、さもなければ良いことをしてきたのかと思ったんですよ。
まあ男として、坊ちゃんの置かれた立場は良く理解できますからねぇ。
なにしろ、手を出すのに相当勇気のいる美少女と毎日寝起きを一緒にしているんです。
そりゃあもう、欲求不満がたまるのも仕方がないでしょうな」
「悪いけど、フジノさんをそう言う目で見ていないんだけど?」
あからさまなからかいというのが分かっているから、シンジは素っ気なく言い返した。だがそれはそれで、メメの不興を買ったようだ。
「坊ちゃん、それはフジノの嬢ちゃんが可哀相というものですよ。
あたしの目から見たら、あの嬢ちゃんは相当な上物なんですよ。
少しぐらいはそう言う目で見てあげないと、嬢ちゃんにもストレスが溜まっちまいますよ。
適当にガス抜きをしてあげないと、嬢ちゃんの方から夜這いをしかねませんよ」
シシと笑ったメメは、それでとシンジの答えを待っていた。
「それでと言われても、特にお話をするようなことはありませんよ」
「それを信じられるような、素直な性格はしていませんからね。
それに坊ちゃんが人を雇うのなら、教えておいて貰わないとトラブルの種になります。
何しろ今日は、怖いお人がうろついていたから家に籠もって大人しくしていたんですよ」
メメはもう一度、それでとシンジの答えを待った。
「その怖い人が、どうして僕の関係者だと思ったんですか?」
「そりゃあ、坊ちゃんを見張っていた奴らを潰していましたからね。
そしてもう一つ、あたしを見逃してくれたと言うのもありますね。
帆掛の旦那には、自前で体制を整えると仰有ったそうじゃないですか。
そこから推測すると、坊ちゃんが呼び寄せた奴じゃないかと思ったんですよ。
どうです、なかなか的を射た推測だとは思いませんか?」
自慢げに胸を反らすメメに、やはり食えない男だとシンジは見直した。あまりジュウゾウには評価されていないようだが、色々と隠し持っているのが想像できるのだ。
「ご名答です。
ドイツにいる知り合いの伝手で、凄腕を二人ほど雇いました。
ちょっと変わった条件を付けられたので、あとで帆掛さんに相談に行く予定です」
「変わった条件ですか?」
「まるで、社員を雇用するような条件でしたよ。
月給とかボーナスとか、福利厚生も用意しろと言っていましたね。
それだけ小市民的な要求をしてくるのに、僕じゃ歯が立たない実力を持っていました」
「確かに、変わったお人達なんでしょうなぁ……
しかしあんなおっかない人たちを知っているなんて、坊ちゃんの知り合いもただ者じゃありませんな」
「確かに、正体不明と言えば正体不明な女性ですね」
キャルのことを思い出すと、苦笑ばかりが浮かんでしまう。その表情に気づいたメメが、さらなる突っ込みを入れようとしたとき、「お風呂の準備ができました」と言うフジノの声が聞こえてきた。
「おっと、邪魔をすると嬢ちゃんに叱られてしまう。
じゃあ、あたしはこれから狭くて暗いお風呂に入ることにしますよ」
若干の嫌みを口にしたメメは、お先にと言って階段を下りていった。その姿を見送ったシンジに、「食えない男ね」と赤い髪の悪魔が囁いた。それに頷いたシンジに、「面白いことになってきた」と赤い髪の悪魔は口元を歪めて見せた。
「おかげで、神凪に乗り込む目処も付いてくれたよ。
これで神凪が使えれば、シャルが来ても対処できそうだね」
戦力としてはまだ不足だが、一人で戦うよりは遙かにましな状況となってくれた。国を動かしてまで日本に何をしに来るのか。それを含めて、退屈しなくても済みそうなのだ。
「で、シャルロットが来たら約束通り頂いてしまうのかい?」
灰髪の天使の突っ込みに、シンジは再び目元を引きつらせた。
「一緒にいる未来があったら素敵とか言っていた」
「「どこかで巡り会えたなら、それがきっと運命なんだろうね」とか言っていたわね。
良かったじゃない、運命の出会いをすることができるわよ」
「きっと彼女は、シンジ君の言葉をたてに迫ってくるのだろうね」
良かったねと声を揃えられると、嫌がらせをされているとしか思えなかった。だがシンジが文句を言おうとしたとき、もう一度フジノの「お風呂です」と言う声が聞こえてきた。あまり待たせると、また余計な心配を掛けてしまう。仕方がないと、悪魔と天使達への追求を諦め、お風呂の準備をしに部屋に戻ることにしたのだった。
お風呂の中で頭を冷やした結果、シンジはフジノを味方に引き込んだほうが得策だという結論に達した。もちろんエレンのことは内緒にし、ジュウゾウから聞かされた話を絡め、体制を整える必要性を説明することにしたのだ。その方が、これから行動するとき、余計な言い訳をしなくて済むのだろうと。
落ち着いた頃を見計らって、シンジはフジノの部屋をノックした。「シンジだけど」と声を掛けたら、途端に中が騒がしくなった。何をしているのか想像が付くだけに、ちょっと微笑ましい気持ちになっていたりした。そして騒ぎが収まり一呼吸置いてから、どうぞと言ってドアが開いた。そこにあったのは、いつもの通り片付いた女の子の部屋だった。芳香剤の香りが強いのは、きっと慌てて撒きすぎたのだろう。
「ええっと、こんな時間にどうしたんですか?」
時計を見れば、すでに11時を回っていた。寝ている時間ではないが、かといって女の子の部屋に尋ねてくる時間でもない。授業のことも、今日一日で困らないことが証明されている。付け加えるなら、クラスメートも味方に引き込んでいる。つまり学校のことで、今更フジノに頼らなければいけないことは無いと言うことだ。
そんなフジノの疑問に、説明したいことがあるとシンジは切り出した。
「その前に、中に入っていいかな?」
「あっ、そうですね、何か飲み物を持ってきますので中で待っていてください」
シンジの横をすり抜け、フジノはぱたぱたと階段を下りていった。多少慌てているのは、まだ精神的動揺が収まっていないのだろう。それを微笑ましく見送ったシンジは、言われた通りに部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の前に座った。
「欲情してる?」と赤い髪の悪魔が、シンジをからかうような言葉を吐き、「もう少し誠実に付き合うべきよ」と青い髪の天使が忠告してきた。「シンジ君は、臆病なんだよね」と灰髪の天使は肩を持ってきた。いつもと違う対応に訝ったシンジに、悪魔と天使達は「彼女の味方」と声を揃えてくれた。どうやら、一緒に暮らしている内に、情が移ったと言うことらしい。
「一緒に住んでいることが、かえって難しいことにしていると思うよ。
かと言って、一緒に住んでいなければこんな関係にはならなかっただろうね」
だから余計に難しい。シンジが答えた時、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。それに気付いたシンジは、この話はお終いと天使達との会話を打ち切った。
「コーラを持ってきましたけど、麦茶の方が良かったですか?」
「ありがとう、ちょうどすっきりとした物が飲みたかった所なんだ」
多少わざとらしいと思いはしたが、シンジはコーラに喜ぶ真似をした。ただそれは、フジノにとってあまり意味のあることではなかったようで、そうですかと普通にコーラをグラスに注いだ。
「それで、私に説明したいことって何でしょうか?」
「今まで、フジノさんに説明してきていなかったことだよ。
少しは帆掛さんに話してはあるんだけど、それよりも詳しい話をするんだ」
「帆掛様にはお話ししていることですね……」
少し緊張したフジノは、それを隠すようにコップを取り上げた。
「色々と、僕の周りがきな臭くなってきていると思っているんだ。
先日も、友綱以外にも僕を見張っている人達がいるのを確認している」
「先日、マドイの所から帰るときに言っていたことですね」
そうだと頷いたシンジは、その中身について説明することにした。
「色々と情報を集めて、いくつかはその姿が想像できるまでになったんだ。
そしてここからの話は、今までフジノさんに話していないことだったんだよ」
「それを、私に教えてくれるんですか?」
「フジノさんに迷惑を掛けないためにも、教えておいた方が良いと思ったんだよ。
身近なところで言うと、未だに友綱が僕に見張りを付けている。
まあ休戦状態にあるとは言え、宿敵碇だから仕方が無いんだろうね。
だからこっちは、当分問題は無いと思っているよ」
友綱が護衛という名の見張りを付けているのは、ソウシにバラされたばかりのことだった。だからフジノは、言葉を挟まずシンジの説明を聞くことにした。
「それから、碇関係者は友綱だけじゃなかったと言うことだよ。
これは帆掛さんに教えて貰ったんだけど、情報担当だった神凪一族がいるんだってね。
今は関係を断っているらしいけど、数は少なくても僕のことをマークしている人がいるはずだ」
「神凪って……名前だけは聞いたことがありますね」
なるほどと頷いたフジノに、本題はここからとシンジはコーラで喉をしめらせた。
「今の二つが、碇に関係する人達についてだよ。
そしてこれから話すのは、僕自身に関わってくることなんだ。
そして話としては、こちらの方が厄介なんだよ」
「碇さん自身に関わる事ですね?」
「そう、僕自身に関わる問題なんだ……って言っておきながら、最初はちょっと微妙なんだけどね」
そう言ってシンジが持ち出したのは、マドイがイタリアで誘拐されたことだった。
「あれで、赤い霧が結構な痛手を被ったのは知っているよね。
そうなると、奴らの組織は報復行動をとることが予想できるんだ。
奴らにとっての手がかりは、最後に誘拐したマドイちゃんだろう?
そうなると、そこに手がかりがないのか探りを入れることになる」
「だから、碇さんは先手を打って、イタリアのことを話したんですね?」
「そう言う事。
あそこで先手を打って話しておけば、僕は単なる目撃者になるからね。
そうすることで、誘拐組織のマークが緩くなることを期待しているんだよ。
もちろん、こちらからも攻撃することを考えているけどね。
それは、次の話と合わせてすることにするよ」
シンジの説明は、フジノに明確な危険を実感させる物だった。確かに相手には、こちらを恨むだけの理由が存在しているのだ。特に壊滅的な打撃を加えられたとなれば、立て直しのために報復は必要となるのだろう。これまで集めた資金を考えると、簡単には引き下がってくれるとは思えない。
「それで、このことは友綱には?」
「オウガのおっさんには話してあるよ。
だから、あちらは独自に護衛とかを強化すると言っていたね。
後は日本政府と協力して、テロリストの入国情報を集めることになっているよ。
マドイちゃんは、唯一の証人であるのは間違いないからね。
だから敵も、彼女のことを追いかけてくるのも当然なんだよ。
それもあって、敵の目を僕に向ける情報を流したんだよ」
「碇さんの方が、より正義の味方を知っていることにしたってことですか?」
今日の話は、すでに全校生徒の知るところになっている。それを考えると、シンジのことが知られるのも時間の問題だろう。それは、マドイよりもシンジの方が、目撃者として有効だと示すことにも繋がっている。
「そしても一つ、こっちもなかなか厄介な話なんだ。
こっちの方は、たぶんフジノさんも知っている名前だと思うんだけどね。
アルテリーベ王国、碇にコンタクトがあったってオウガのおっさんに聞いたよ」
知っているよねとじっと見られたフジノは、予想外の問いかけにはっきりと動揺を現した。それでもすぐには答えを返さず、努めて何もないように振る舞おうとしていた。だがまっすぐシンジに見つめられ、すぐに観念することになった。
「帆掛様に、コンタクトがあったことは教えて頂いています。
ですが、そこから先の話は私は聞かされていません」
「そのアルテリーベが、日本と国交を結ぶという話があるんだ。
そしてアルテリーベから、王族を一人日本に送り込んでくる。
その受け入れ先として、僕の通っている高校を指定してきたらしい」
「だから友綱さんは、碇さんが入学しないと困ると言う話になったんですね」
日本政府まで巻き込んだ話になっていれば、友綱オウガが逆らいようがなかったのだ。先日晩のことを理解したフジノに、どこまで知っているんだいとシンジはフジノを追求した。
「ヨーロッパにいた僕でも、アルテリーベなんて国は知らなかった。
だけどフジノさんは、オウガのおっさんが困ることが当然だと受け止めていた。
つまりフジノさんは、アルテリーベがどう言う国かを知っていると言うことに繋がるんだ。
そしてもう一つ、アルテリーベから来る王族が女性だと言う事も知っていたね」
その問いかけに、フジノは裏切っていると言われた気がしていた。シンジに対して、知っていることを教えていないのは確かだった。だがそれはシンジのためを思ってのことだと主張したかった。だがこうして指摘されてしまうと、言い逃れもままならなくなってしまう。
「そのアルテリーベから王族が来るのが、僕が狙われるもう一つの理由だよ。
どうやら、日本が強い結びつきを作ることに反発しているところが多いようだからね。
そこにとっては、日本が失態を犯してくれた方が都合が良いんだよ。
だから僕の周りを探り、色々と仕掛けをしようとしている」
「そう言った勢力があることは承知しています……」
「今のフジノさんの反応をみると、まだまだ他にも仕掛けがされていそうだね。
やれやれ、食えないと思っていたけど、本当に食えないじいさんってことか。
身内が一番たちが悪いって、いったいどうしたら良いんだろうね」
ふっとため息を吐いたシンジは、「ここからが本題」とフジノの顔を見た。色々と秘密を暴かれたせいか、フジノははっきりと顔色を悪くしていた。
「まあ嘆いても始まらないから、話を先に進めることにするからね。
全く組織を持っていない僕だから、色々と伝手を利用することにしたよ。
まず赤い霧の方だけど、イタリア側でちょっかいを掛けて貰うことにした。
前に手伝って貰った人に、時々赤い霧を叩いて貰うことをお願いしたんだ。
二つ返事で承諾してくれたから、目くらましにはなってくれるんじゃないのかな」
「確かに、本国で攻撃されたら目くらましにはなるんでしょうね……」
「あれだけの資金があれば、必ず政治家と繋がっているんだろうね。
だから余り無理はしないようにと釘は刺しておいたよ。
それから日本のことだけど、その人の伝手を頼ることにしたよ。
今日遅くなったのは、その人達と話をするためだったんだ。
まだ若い、フリーのテロリストの男女だよ。
間違いなく、多くの実戦をくぐり抜けているよ」
「危険ではないでしょうか?」
フリーのテロリストともなると、信頼性に欠けるところが多々生じてくる。手元に戦力がないとは言え、そんな不確かな物に手を出して良いのか。それをフジノは問題とした。
「危険と言えばとても危険なことは間違いないだろうね。
でも、今のまま放置しても、間違いなく僕の手に余ることが出てくるんだ。
だから僕なりに、打てる手を打っておかなくちゃいけないんだよ。
それとも、僕の知らないところで、他の手が打たれているというのかな?」
「それは、私は聞かされていません……本当です、私は何も教えられていないんです!」
このままでは、シンジを探るために送り込まれたスパイになってしまう。必死に言いつのるフジノに、シンジは優しい表情で、「分かっているよ」と答えた。
「あのじいさんのことを考えると、そこまでフジノさんが知っているとは思えないんだ。
たぶん、ここまで僕がたどり着くのも想定していることだと思うよ。
金髪のガールフレンドを連れてこいと言うのは、やっぱりこのことだったんだね」
やれやれと頭を掻いたシンジは、話はこれまでと言って立ち上がった。
「話したいことはだいたいこれぐらいかな。
もしも質問があるんだったら、これからでも聞いてあげるけどね」
「でしたら、神凪はどうするおつもりなんですか?」
「神凪ね……見ているだけだったら、無視しても良いかと思っていたんだけどね。
週末にでも、一度熊野の方にまで乗り込んでみようかと思っているんだ。
そこで食いついてくれば、対決することになるだろうね。
そこで何もしてこなければ、互いの距離を保ったままになるんだろうね。
僕から彼らに対して、何かをしようなんて考えていないよ」
「神凪が、大人しくしているでしょうか?」
「僕以外の誰かがちょっかいを掛けていれば、何かをしてくる可能性もあるね。
その時は、あの爺の息の根を止めに行くかも知れないね。
うん、止めておいた方がみんなのためになるかも知れないなぁ……」
色々と考えてみると、碇ドッポが諸悪の根源に思えてくるから不思議だ。この先の平穏を考えたとき、本気で始末を考えた方が良いのかも知れない。
「シンジ様、さすがにおじいさまを手に掛けるというのは……」
「でもねフジノさん、僕だけじゃなくフジノさんにも関わる問題だと思うんだ。
絶対にあの爺は、他にも仕掛けをしているはずだからね。
そう考えると、神凪にもちょっかいが出されている気がしてならなくなってきた……
ああっ、頭痛っ!」
ますます余計なことに巻き込まれそうな事態に、シンジは本気で頭痛を感じ始めていた。そしてドッポと同様に厄介なのは、アルテリーベが何を考えているのかと言う事だった。送り込まれてくる王族がシャルロットなら、その目的は自分を捕まえることになるのは間違いない。研究所での行動を見ると、そう考えるのが一番すっきりとする理由だったのだ。だとしたら、どう言う理由で自分を取り込もうとしているのか。それを考えると、更に頭痛が酷くなってしまう。
「やっぱり、こっちに帰ってきたのは失敗だったか……」
「でも、悔やんでみてもすでに手遅れだと思いますよ。
どうです、その中で一番まともな方法を選択するというのは?
私は、碇さんだったら、今からでも構いませんから……」
「さて、話も終わったから部屋に戻ることにしよう!」
「碇さんの部屋でと言うことですね?」
せっかく触れないようにしたのに、フジノは逃がすものかと食いついてきた。だからと肩を落としたシンジは、悪のりするのはよくないとフジノを諫めた。
「それは、絶対に話を複雑にする事に繋がるからね。
将来を否定するつもりはないけど、軽薄な行動をとるわけにはいかないんだよ」
「でも、私は真剣に考えた結果なんですよぉ」
「出会って6日目の相手に何を言っているやら……」
「日数なんて関係有りません!」
「僕には、大いに関係するんだよ」
全くと鼻息を一つ吐いたシンジは、悪のりしすぎともう一度フジノを諫めた。シンジの携帯電話が鳴ったのは、ちょうどその時のことだった。渡りに船というか、救いの神というのか、電話だと言ってシンジはフジノの部屋を出ることに成功した。ただ部屋に戻りながら、いったい誰だろうと考えていた。シンジの電話番号を知る者は、増えたと言ってもほとんどいない。
「……キャルか」
慌てて携帯を出してみると、表示はキャロラインと出ていた。となると、電話の中身は決まってくる。今日の話が伝わっているのは疑いようもなく、当然キャルからはそのことをからかわれることだろう。それを思うと、さすがにため息が漏れ出てしまう。しかも仕事を頼んでいる以上、でないという選択肢は許されていなかった。電話の表示を見ながら、なんて一日が長いのかと、シンジは退役したことを真剣に後悔したのだった。
続く