「ようやく帰ってくる」それが忍野メメにとって正直な気持ちだった。1週間遅れるという連絡は、結果的に10日というスケジュールの変更を余儀なくされた。1日遅れるたびに、豪龍寺に謝りに行ったのがメメである。そのたびに冷たい視線を向けられるのなら分かるが、同情されるとなるとなんと言えばいいのだろう。全部脳天気な跡取り坊ちゃんが悪い。どんな皮肉をぶつけてやるか、到着ゲートで待っている間、メメはそんなことをずっと考え続けていた。

 2週間前にマドイが利用したのと同じフライトで、シンジは伊丹空港に到着した。フライトの間は、手厚すぎるサービスに閉口していただけに、地上に降りられるというのはありがたいことだった。だから「一緒に写真を撮って良いですか?」と言うキャビンアテンダントのお願いにも快く応じることが出来た。「一般人と写真を撮ってうれしいですか?」と言う疑問は結局口にすることはなかった。

 多少の疲れはあっても、体調が悪いと言うことはなかった。だから検疫をパスし、すぐに入国審査へ通された。さすがに入国審査ではサングラスを外し、直前に入れ替わった女性審査官の長たらしい質問に答えた。他のレーンの進みを考えると、何か自分はまずいことをしたのか。ついそんなことをシンジは考えてしまった。ひょっとしたら、ドイツでさんざん交通法規を無視したこと、イタリアでの“大活躍”がばれているのか。背中に汗を掻きながら、シンジはおとなしく入国審査が終わるのを待っていた。
 結局シンジの入国は、何の問題も言われることなく無事パスすることになった。やけに女性密度が高いなと思いながらバゲージクレームにたどり着いたときには、すでに荷物はレーンを2周していた。ローマにたどり着いたときには、確か小さなズックしか持っていなかったはずだ。だがミラノを出るとき、それは大きなスーツケース二つに化けていた。もっと持って行けと色々な人に言われたのだが、荷物が多すぎると断った結果でもある。その実体は、奇抜すぎて普段には着られないと言う事情からである。

 だがシンジが押さえた荷物は、税関で引っかかることになった。ここでもなぜか女性の税関員に検査を受けたシンジは、スーツケースに詰められた山のような衣装が問題にされたのだ。個人使用でないものに関しては、適切な申告が必要となる。言葉にすれば冷たいが、顔を赤くしながらそれを言ってくれるのだ。怒っているのかなと勘違いしたシンジは、一所懸命「全部プレゼントだ」と言い訳をした。

「ミラノで、みんなが寄ってたかって持って行けって言ってくれたんです。
 不公平になると悪いから、出来るだけ公平になるように詰め込んだんですけど……
 全部僕のサイズなんですけど、それでも個人使用とは認めて貰えないんですか?」
「ですが、高額商品の場合消費税の他に関税も掛かってくるんです……
 およそで良いですから、その、市場価格が分かりませんか?
 その価格の合算で申告して頂ければ通関は終わるんですけど……」

 シンジが言い訳をしたとたん、相手の言葉遣いが変わってしまった。なぜか非常に恐縮し、なおかつおどおどしていると言えばいいのか、少し上目遣いになり、瞳も潤んでいるように見える。

「市場価格って言っても、全部手作りだから市場価格なんて無いと思うし……
 そもそも僕には、彼らの手作りの相場が分からないから……
 たとえば、ピエール・カルバドスの手作りスーツっていくらにすれば良いんですか?
 それとかジュリオ・チェザーレの手作りジャケットとか……
 ええっと、ラウラ・アントレッチェのデザインTシャツも有ったかなぁ……」
「とても失礼なことを伺いますが、それは全部本物なんですか?」
「本人に直接貰ったから、たぶん本物だと思うんですけど……
 ほらミラノで、プリモコレクシオーネが有ったじゃないですか。
 そこでクラウディア・マルコーニって言うデザイナーの手伝いをしたんです。
 そしたら、そこで今言った人たちと知り合いになって……」
「でも、女性用のドレスまで入っていますけど?」
「それは……」

 どう言い訳をするのか、視線を宙にさまよわせたシンジは、恥ずかしそうに「女装させられた」と打ち明けた。だからドレスのサイズも、自分に合わされているのだと。

「……言い訳なら、もう少し気の利いたものをしませんか?」
「作り話で良いなら、もっと気の利いたことを言いますよ。
 でも本当に女装させられたんだから仕方が無いじゃないですか!」
「それを持って帰ってきたというのは、こちらでも女装すると言うことですね?」

 冷たい言い方に聞こえるが、どこかうっとりとしたように見えるのはどうしてだろう。どうしようもない違和感を抱いていても、相手の心が読めるわけではない。実のところ、とても似合いそうと見立てられていたのだが、当然そんなことが分かるはずがない。

「記念品だからと押しつけられたんで、捨てるわけにはいかなかったんです。
 たぶん、クローゼットの奥深くにしまい込まれることになると思います。
 ええ、絶対に人目に付かないようにしまい込みますとも!」

 なぜか力んでしまったシンジに、承知しましたと女性係官は荷物をしまうようにと指示をした。

「それで、申告の方はどうすれば良いんですか?」
「市場価格がないのであれば、原材料費で換算するしか有りませんね。
 そうすると、一品当たりで大した額になるとは思えませんので、
 輸入に関する申告は不要になります」
「納税しなくても良いんですか?」
「正札が無い物では、価格の決めようがないと思いませんか?
 インボイスも無いようですから、個人的な物というのは確かでしょう。
 ですから、これ以上の申告は必要有りませんよ」

 だから大丈夫という係員に、有難うございますとシンジは満面の笑みを返した。その破壊力を間近に食らった“女性”係員は、激しい立ちくらみを感じよろめいた。

「どうかしましたか?」
「い、いえ、別に大したことはありませんから……」

 十分に大したことがありそうなのに、その女性係員はぶんぶんと手を振って大丈夫を繰り返した。かなり頬が上気しているところを見ると、熱が出ているのかも知れない。だがそれ以上話しをすると、後の迷惑になるとシンジは諦めた。

 入国審査、税関で時間が掛かったせいで、最初に飛行機から出たシンジは、ゲートから出るのは同じ便で到着した中では一番最後になっていた。そんな事情も知らないから、忍野メメの苛立ちは最高潮に達していた。なにをすれば、こんなトロい真似が出来るのか。いっそこのまま帰って、すっぽかしてやろうかとも。それが出来たら、どれだけ胸のつかえが下りることだろう。

「ああいやだ、もういやだ、もう金なんか関係ねぇ、ユイちゃんの息子というのも関係ねぇ!!」

 人が出てくるのがとぎれたところで、メメの我慢も限界に達していた。勝手に日程を延ばしたこと、日本に着いているはずなのに、いつまで経っても出てこないこと。一部シンジの責では無いはずだが、積み重なった不満にメメは爆発したのだった。

「だいたい大人を待たせる子供なんざ、ろくな大人に育ちゃしない。
 そんな子供が当主になるなんざ、みすみす家をつぶすような物だろう!!
 他に跡取りがいないのなら、観念して家をつぶすか、どこかから養子を迎えりゃ良いんだよ!
 碇なんてカビが生えてぼろけた家なんか、今更無くなっても誰も悲しみゃしないだろう!!
 あーいやだ、もう嫌だ、俺は帰る、誰がなんと言っても俺は帰るぞ!!
 碇シンジがどうなろうと、もう俺の知ったことかっ!!」

 人通りが少なくなったから良いような物の、メメの癇癪はかなり見苦しい物になっていた。まあそれだけ鬱憤がたまったと言うことなのだが、それを見せつけられるのは結構困ってしまう。しかもその鬱憤の向けられた相手が自分となると、どう声を掛けた物かと考えてしまうのだ。

 メメの待っている出口とは違う所から出たシンジは、待っているだろう人物を捜していた。待ち人の札ぐらい持っているだろうと考えていたのだが、結局迎えに来たメメを見つけることが出来なかったのだ。すでに一度メメの前も通っていたのだが、「どう見ても違うよなぁ」と言う人相に声を掛けるのを躊躇ったのだった。
 一方のメメも、シンジの姿を一度は目撃していた。だがあまりにも持っていた情報と違う容姿に、赤の他人と声さえ掛けなかったのである。山のように抱えたブランド品というのも意外だし、それを持っていたのが嫌になるほどブランドに似合っていたというのが、候補から除外した理由だった。

「あのぉ、忍野メメさんでいいんですよね?」

 そんな除外した相手に声を掛けられたのだから、メメもとっさにはまともな反応を返すことが出来なかった。なんで自分を知っているのか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔……まん丸の目をして声を掛けてきた青年の方をメメは見たのだった。
 反応の悪さに、人違いをしたのだとシンジは判断した。忍野という名字はまともだが、メメというのはさすがにないだろうと思う名前だったのだ。それを関係ない相手に言えば、何だという顔をされても仕方がないだろうと。だから「失礼しました」と謝り、他を探そうとカートに手を掛けた。そこまで時間を掛けて、メメはようやく現実に戻ることが出来た。

「あ、あんたが碇の坊ちゃん?」

 見上げるようにして、メメは声を掛けてきた相手を見直した。背が高いというのはあらかじめ聞いていた。父親がアレなのだから、そうなっても不思議ではないと考えてもいた。そしてユイちゃんの息子なのだから、多少見た目が良くなるのもありだと思っていた。だが目の前にいたのは、「どこかのモデル?」と聞きたくなる優男なのである。パイロットという言葉の響きと、目の前の優男がどうしても結びついてくれなかったのだ。しかもしゃくに障ることに、黒系のジャケットで纏めたファッションは、嫌らしいほどにあっていたのだ。少なくともアロハに短パンの自分とは、別世界に生きる存在だろう。

「すみません、碇の坊ちゃんと言われてもぴんと来ないんです。
 碇ゲンドウ、碇ユイの息子のシンジです。
 ずいぶんとお待たせしたようで、本当に申し訳ありませんでした」

 そうやってイケメンに頭を下げられると、周りからは何かの因縁をつけているように見えてしまう。なにあれ程度なら許せるが、「警察に届けましょう」と聞こえてくれば、笑い話で済ませるわけにはいかない。情けないことに、色男に因縁をつけたちんぴらだと自分でも思えてしまうのだ。

「え、ええっと、碇シンジ坊ちゃんで間違いないと言うことで……
 その、私は、忍野メメと言って、帆掛氏から援助を受けているけちな男です。
 一応お母様のユイさんとは、面識があってですね、だから今回の役目に選ばれたというか……」

 しどろもどろになったメメに、シンジは最初の判断として「場所を変える」ことを提案した。周りのひそひそ声は、シンジの耳にも届いている。このままゲートで話しをしていたら、本当に警官が呼ばれてしまいそうなのだ。

「ところで、これから奈良に行くんですよね?
 交通手段は車ですか、それとも他の方法ですか?」

 普通なら、そして碇の家ほどの資産が有れば、運転手付きのハイヤー程度を用意しても良いだろう。当初メメも、車ぐらい用意するつもりでいたのだ。だが10日待たされて切れたメメは、嫌がらせで公共交通機関を使うつもりでいた。
 だが面と向かって、どうやって移動するかと聞かれると、リムジンバスとは言いにくくなる。モノレールと阪急、JRを乗り継ぐというのはもっと言いにくい事になる。だから答えに詰まったメメに、そう言うことですかとシンジは事情を理解した。

「どうやら、荷物を減らした方が良さそうですね。
 向こうにポーターサービスがありますから、スーツケースは送ってしまいましょう。
 そこで忍野さんにお願いしたいんですが、送り先の住所と連絡先を教えて貰えませんか?
 しばらく入居できないと言うことなら、ホテルを今から予約しますけど?」
「に、入居の方なら、用意が出来ていますですっ」

 これでは本当にちんぴらだ。碇家跡取りを前に緊張する自分に、メメはなってないと自嘲していた。だがいくら気力を振り絞ろうと、シンジの顔を見るとあっという間にしぼんでしまう。「小者で申し訳ありません」と心の中で逆ギレしながら、代わりにカートを押しますと卑屈な態度まで取ってしまった。
 もっとも偉ぶらないと言うか、立場を理解しないのがシンジのシンジたる所以である。年長者にそんな真似をさせるわけにはいかないと、力仕事……と言ってもカート押しなのだが、それは自分ですると言って譲らなかった。

「日本では高校生の小僧ですからね。
 それに碇の跡取りと言われても、僕にはぴんと来ないことなんですよ。
 だから僕は、今まで通り自分のことは自分でしようと思っているんですよ。
 たぶん、跡取りに相応しくないと叱られることになるんでしょうね」

 そう言って微笑まれると、なぜかメメも顔が熱くなってしまう。なんで男相手にと思わないでもなかったが、反則過ぎると心の中で文句を言っていた。なんでこんなイケメンにイケメンを重ねた男が、性格までも良いというのだろう。その気になりさえすれば、周りを自分中心で動かすことが出来るだけの素質を持っている。そのくせ腰が低く、年長者を立ててくれるという気配りが出来る。きっと自分の悪態も聞こえていたはずなのに、何の反発も返してこない。一か八かの賭け、碇家のあてにならない切り札と言われていたが、本人を目の前にしたらそんなことは絶対に言えないだろうとメメは確信した。

「ええっと、ハイヤーサービスの事前予約をされていませんよね?」

 サービスカウンターで、シンジは担当女性の申し訳なさそうな顔に迎えられた。ポーターサービス自体は、特に滞りなく手続きをすることが出来た。そこまでは非常にバカ丁寧な応対を受けたのだが、次に問題となったのはファーストクラス特典のハイヤーサービスだった。迎えがあるのだから、そんなものが必要だとも思っていなかった。それにどこまで頼めばいいのか分からないのだから、もともと頼みようの無かったサービスでもある。だからカウンターの女性に聞かれたときにも、「必要ないと思っていた」とシンジは答えた。

「まあ、バスで難波まで行って、そこから近鉄で移動するから良いんですけどね」
「いえ、ファーストクラスのお客様なら、ハイヤーを利用する正当な権利があります!
 ええ、予約がないのは、きっと何かの手違いに違い有りません。
 もしもハイヤーが用意できなければ、私が自家用車を使ってでもお客様を送り届けます!!」

 そのやりとりを聞いていたメメは、たぶん最後のが本音だろうと呆れていた。一見お客様を第一に考え、熱心に職務を果たそうとしているように聞こえるのだが、結局碇の坊ちゃんを送ることで、自宅までちゃんと確認しようと言う腹に違いない。しかも1時間ちょっとという短くない時間、一緒の空間にいることが出来る。千載一遇のチャンスに、この女性が舞い上がっているのだろうと。
 だがこの女性の努力は、無駄になるだろうとメメは想像が付いていた。この性格の良い坊ちゃんは、人に迷惑を掛けることを極端に嫌がってくれるだろう。仕事を放棄して送ってくれるとなったら、きっと恐縮して断るに違いない。

「一台ぐらい用意できても良いと思ったんですけど……」
「もともと予約していなかったのは僕の落ち度ですからね。
 ですからそこまでして頂いて、本当に感謝しているんですよ。
 次に国際線を利用するときも、絶対にJANAを利用しますからね」
「次は、是非とも各種サービスの事前予約をお願いします。
 この事は、本社のサービス担当にも伝えておきますから!!」

 三拝九拝する係員に礼を言ったシンジは、お金をおろしましょうとメメに持ちかけた。これから日本国内で行動するのなら、現金を持っているのに超したことはない。かなりの部分がカードで補えるとはいえ、とっさの対応には必要だろうと。

「お待たせしたお詫びに、僕がタクシー代を持ちますよ。
 それから、お昼の時間を過ぎていますから、どこかで軽く食べていきませんか?
 ほとんど寝てたから、意外にお腹がすいているんですよ」
「何かを食べるのか……簡単に済ませるなら空港のレストランなんだが……」

 自分ならば、そこらの定食屋で済ませても良いのだろう。だがこの少年と入るのは、それなりにしゃれた場所でなければならないという強迫観念がメメの中でできあがっていた。そうなると問題は、自分と一緒でそんなところに入れるのかと言うことだった。その気になれば、近場で阪急系のホテルがあるのだが、たぶん自分だけ門前払いされそうな気がしてならなかった。だから空港のレストランと言う言葉になったのだが、別に畏まったところでなくて構わないとシンジが助け船を出した。

「何しろずっと向こうにいましたから……
 日本の物なら、どんな物を出されても、今ならごちそうになると思いますよ」
「それはなにですか、庶民の味覚を味わってみたいと言うことですか?」
「別に、向こうではまずい研究所の食堂ばかりでしたから……
 良いものを食べたのは、最後のミラノぐらいかなぁ……
 それまでは、ライダースーツを着ていたから、高級なレストランに入れなかったし。
 あちらで和食って言っても、基本お刺身に焼き魚ですからね。
 こっちで食べていたような、カツとかは食べられなかったし……
 まあカツレツみたいな物はありましたけど、ソースは全く違っていましたからね」

 その言葉に考えたメメは、だったらタクシーを辞めようかとシンジに提案した。

「リムジンで、難波じゃなくて日本橋に行くことにしよう。
 そこならば、日本人のソウルフード、串カツを食べることが出来るぞ。
 どばどばと串に刺したカツにソースをつけて、キャベツと一緒に食べるんだ」
「串カツがソウルフードなんですか?
 14年ほど日本にいたんですけど、一度も食べたことがないんですが……」
「おうさ、二度付け禁止ってのは、日本で共通語となっているんだぞ」
「とても楽しそうに聞こえますが……残念ですけど、あまり遅くなるのは良くないのではありませんか?
 先ほど色々とつぶやいていましたが、それは受け入れてくれる瑞光さんの所も同じだと思います。
 そうなると空弁あたりを買って、タクシーの中で食べるのが一番妥当な気がしますけど……」
「確かに、瑞光の奥さんは角を生やして待っているだろうな……」

 シンジを見る前までは最悪だと思っていたが、今はどうにでもなる問題だとメメは考えていた。それどころか、いきなり引き合わせたらどのような反応を示すのだろうか。それを見るのも面白いと考えていたぐらいだ。

「んじゃまぁ、弁当でも買ってタクシーで乗り付けますか。
 それから坊ちゃん、その後ですぐに碇の本家に行って貰いますよ。
 御当主様は、今か今かと首を長くしてお帰りをお待ちですからね」

 本気でシンジの帰国を待っていたのは、恐らく碇家当主ドッポと帆掛ジュウゾウぐらいの物だろう。瑞光の娘フジノですら、最近見捨てているような空気を漂わせていたのだ。それが本人にあってどう変わるか、それが楽しみで仕方がなかった。

「忍野さん、何かとても楽しそうですね」
「いやぁ、ちょっと面白いことになってきたかなぁと思ったのでね。
 ところで坊ちゃん、生活に必要な物は揃っているのかい?
 ずいぶんと沢山荷物を持っていたようだが、あの中に入っているとか?」
「ああ、あの荷物ですか?
 中身は全部もらい物、まあ外のスーツケースももらい物ですけどね。
 中に入っているのは、普段着には使いにくい服ばかりですよ。
 他に持ってきたのは、すぐに必要そうなお土産ぐらいかなぁ」

 そう言って、シンジは手元に唯一残った小さな紙袋を持ち上げた。その中には、ありきたりすぎるチョコレートとお酒が入っていた。

「結局瑞光さんがどういう人か分からなかったんですよ。
 だからこんなありきたりのお土産になってしまいました……」
「まあ、海外旅行のお土産なんざぁ、お菓子と酒に相場が決まってますよ。
 こういった物は、奇をてらうよりは定番の方が良いんじゃありませんか?」
「そう言って貰うと助かりますよ。
 今までお土産を買って帰った記憶がないので、こうしたときにどうして良いのか分からなくて」

 頭を掻いたシンジに、はてとメメは首を傾げた。碇家次期当主のおぼっちゃまは、確か中学までは日本の学校に通っていたはずなのだ。だったら修学旅行とか遠足とか校外学習とか、お土産を買う機会ならいくらでもあっただろうに。
 そんなメメの疑問に気づいたのか、そんな機会がなかったのだとシンジは恥ずかしそうに答えた。

「中2でネルフに呼ばれるまでは、邪魔にされて暮らしていましたからね。
 修学旅行とかに行った記憶がないんです。
 ネルフにいるときは、そんなことが出来るような環境じゃなかったし……
 だから、ようやく平穏な時間を手に入れた……僕はそう思っているんですよ」
「平穏な環境って……」

 敵のまっただ中に飛び込むことが、果たして平穏な環境なのだろうか。それを思うと、この少年には不幸しか降りかかっていないのではと思えてしまう。目の前で喜々としておにぎりを買ってくれているが……とても似合っていないと付け加えておく……本当に連れて帰って良いのかと思えてしまった。

「まあ色々と有るとは思いますけど、タクシーの中で話しませんか?
 それに編入試験までは時間がありますから、それまでは自宅学習ですから。
 たぶん、話す時間なら沢山とれるんじゃありませんか?」
「確かに、編入試験まで3日有るなぁ……
 ところでその編入試験だが、勉強の方はちゃんと出来ているのか?」
「たぶん、そこそことれるんじゃないかと思いますよ。
 ただ日本史とか国語関係は勉強していないから一夜漬けする必要がありますね。
 荷物を整理したら、早速参考書を買いに行かないといけないなぁ」

 びしっとジャケットを着こなしたイケメンが、参考書というのはどうしてもギャップを感じてしまう。このあたりのギャップが、瑞光のお嬢様にどうマッチしてくれるか。かち合わせたとき何が起こるのか、楽しみが増えたとメメは喜んだ。

 けして快適とは言えないタクシーでの移動だが、シンジのお陰でメメは退屈せずにすんだと言えるだろう。シンジといるだけで、次々と新しい発見をすることが出来る。見た目は遊んでいるように見えるのだが、意外と言ったら失礼かも知れないが、意外にまじめな生活をしてきたことが分かるのだ。それはおにぎり一つ食べるときでも、とても丁寧に包装を剥がし、ゴミをちゃんと纏めてくれるところからも分かる。

「なにか、とても不思議な物を見る目で見ていませんか?」
「まあ、俺にとっては総てが予想外って所かな。
 坊ちゃんがこんなにイケメンだと思っていなかったし、こんな好青年だとも思っていませんでしたよ。
 生意気なところが全くないし、それどころかどうやら自分に自信がないように見える」
「自分に自信、そんなものは全くありませんよ。
 だから譲れないこと以外は、人に迷惑にならないように気をつけていますから」
「譲れないこと……良かったら教えて貰えないかい?」

 シンジが譲れないというのは一体どういう事なのか。興味を持ったメメに、守秘義務って知っています? とシンジは苦笑を浮かべた。

「パイロットをしていた関係で、いくつか守秘義務契約を結ばせられているんですよ。
 だからあまり詳しいことは教えられないんですが、命に関わることだと思って下さい。
 ああその場合、僕のと言うんじゃなくて、他の人たちのってことですから」
「なるほど、男として譲れない一線って奴があったと言うことか」

 うんうんと頷いたメメは、話しを戻すと豪龍寺入学を持ち出した。

「あの学校は、碇を敵としている友綱の影響力のでかい学校だ。
 当然友綱は手ぐすねを引いて待ちかまえているし、色々といじめが用意されているだろう。
 なんでまた、そんなところにむざむざ飛び込んで行こうとしているのかね?」
「そこに入るように手配したのはそちらでしょう?
 まあ、駄目だったら他の学校に編入すれば良いだけですから。
 極端なことを言えば、大検をとって大学に行けばいい。
 こう見えても、研究所では研究者の肩書きも持っていたんですからね。
 それに、いじめだったら別に珍しい事じゃありませんから。
 これでなかなか腕っ節が強いですから、喧嘩だったらたぶん負けませんよ」
「世の中には、力では、逆に力を使うと勝てない相手もいるってことさ。
 まあなかなか不貞不貞しいところもあるから、すぐに根を上げることはないんだろうなぁ」
「死にたくなるような目なら、中学の時に嫌って程味わっていますから。
 それに比べれば、いじめなんて可愛い物だと思いますよ」

 銃を頭に突きつけられることといじめは同列に扱えることだろうか。それを知らないメメは、まあいいかと心配するのはやめにすることにした。そしてその代わり、自分が学園内の情報を集め、陰から援護しようと考えた。もしもシンジが反撃したときには、その証拠を示せば負けることはないだろう。

「ところで坊ちゃん、ミラノでは何をしていたんですか?」
「そう言えば、10日も遅れた理由を説明していませんでしたよね。
 その前はローマにいたんですけど、人に誘われてミラノに移動したんです。
 そこのお嬢さんが駆け出しのデザイナーだから、モデルとして協力して貰えないかって。
 別に急ぐ必要はないと思ったので、人助けと思ってミラノに行ったんです。
 ちょうど着替えが必要だったし、そっちで買えばいいかなって乗りなんですよ」
「急ぐ必要はないって……こちらは、ずいぶんと待たされたんですよ」
「そのことについてはお詫びしますけど、もともと僕の帰国予定って不確かだったじゃありませんか。
 大陸を縦断してから帰るって連絡を入れたけど、いつってのを約束した覚えはありませんよ」
「そりゃ、まあ、確かに約束はしていませんでしたけどね。
 それでも受け入れ側にも、色々準備って奴が必要だったんですよ。
 住むところの準備から、編入試験の手配まで、それがずいぶんと狂ってしまった」
「だから、そのことにはお詫びしますって言ったじゃないですか」
「まあ、お詫びをして貰ったと言うことでこの場は収めることにしますかね。
 ところでモデルをしたと仰有いましたが、誰のモデルをしたんですか?」
「間違いなく名前を言っても分からないと思いますよ。
 クラウディア・マルコーニって言う22歳の新進女性デザイナーです。
 結構固めのデザインをするんですけど、センスはなかなか良いと思います。
 伝統の衣装を、新しい感覚で見直したって、本人は言っていましたけどね。
 とりあえずスポンサーが付いたから、少しは有名になると思いますよ。
 ただ日本にまで知られるようになるのかまでは僕には分かりませんけどね」
「その格好は、そのデザイナーさんのデザインかい?」
「これは、ローマで買った物です。
 クラウディアのお父さんのお店で買ったんです。
 それが縁で、モデルをすることになったんですよ」

 残念ながら、メメはファッションには疎かった。だからアルマーニとかダンヒルとか、シャネルとかグッチとか言われなければ、それが何か理解できなかったのだ。それでも一つだけ分かるのは、シンジの格好が見事にコーディネートされていることだ。お陰で行く先々、シンジが女性陣の注目を集めてくれた。だからとっても、隣にいて肩身が狭かったのである。

「クラウディアさんはとても素敵な人でしたよ。
 他の人も残ったらと勧めてくれたから、日本に帰るのを辞めようかなとも少し考えてしまいました。
 でも本人が引き留めてくれなかったから、こうして日本に帰って来ちゃいましたけどね」
「坊ちゃん、失恋したって事ですか?」
「そんな顔をしていました?
 まあ、年上に憧れる年齢だと思って下さい。
 それが分かっていたから、向こうは真剣にならなかったのかも知れませんね」

 苦笑をしたシンジに、メメは胸元に手を当てほっとするような仕草をした。

「たぶん、その話しを御当主が聞いたら卒倒しますよ……
 こちらとしては、帰ってきてくれて感謝していますよ」
「なにか、色々と大変なことになっているんですね……
 やっぱり学歴なんて考えないで、向こうに残っていた方が良かったかな。
 レーシングチームに紹介してくれるって人もいたんだし……」
「どっちにしても、過ぎてしまったことですな。
 ところで坊ちゃん、レースって言うのはこっちですか?」

 ハンドルを握る真似をしたメメに、こっちだとシンジは手でアクセルをふかす真似をした。

「研究所にいるときには、バイクで峠道を走り倒していましたよ。
 何度かハイパトに追いかけられましたが、全部振り切ったので前科はありません。
 それから事故を一度も起こしたことがないから、結構安全運転をしていたんです。
 フルカスタムの赤いバイクに、赤いレーシングスーツで決めていたんです。
 輸入できないからバイクは向こうに置いてきたんですけど、落ち着いたらこっちでも乗ろうかなって」
「残念ながら、豪龍寺はバイク免許は禁止されているんですよ。
 だから卒業するまで、バイクはお預けって事になりますね」
「バイク、駄目なんですか……」

 あからさまにがっかりするシンジに、メメは思わず吹き出してしまった。こうして話しをしていると、本当に年相応の少年なのだ。しかも話しをすればするほど、色々な姿が見えてくれる。無邪気な自慢話は、子供らしいとも言えるだろう。なるほど面白いと、シンジを見直したほどだった。
 色々と話しをしている家に、タクシーは奈良の街中へと入ってきた。直前から見かけてはいたが、中心部に入ると高い建物がめっきりと少なくなる。そのお陰で、長い歴史を持った木造の巨大建築が目の当たりに出来るようになっていた。石造りの建物しか見たことのないシンジにとって、カルチャーショック物だった。

「凄いですね、木造なのにセカンドインパクトも乗り越えたんだ……」
「まあ人類の知恵って奴だな。
 それでも沢山の瓦は落ちたらしいがね」

 土台が崩れなかったお陰で、今はしっかりと修復されている。凄いなぁと感心したシンジは、「710年でしたっけ」と年号を口にした。

「平城京への遷都のことですかい?
 まあ、その程度は小学生レベルの知識だからなぁ……」
「僕の日本史レベルは、せいぜい中2ですからね。
 これから必死になって勉強しないと、編入試験で零点をとってしまう」
「そのあたりは、瑞光の嬢ちゃんにきいてみると良いですぜ。
 運が良いことに、学年で1、2を争う才媛だそうだ。
 しかも日本美人と来ているから、そのまま入り婿になるのも良いんじゃないですかね?」
「将来の可能性の一つとしてはそれで良いんでしょうね。
 ところで、もうすぐ着くんですよね?」
「ああ、後数分って所かな?
 今日は平日だから、家には瑞光の奥様しかいないでしょう。
 ここでしっかりと味方につけておけば、下宿先で寂しい思いをしなくてもすみますよ」
「第一印象が大切って事ですね!」

 良しと了解と気合いを入れたシンジに、そうそうとメメは口元をにやけさせた。相当なイケメン好きの奥方が、この特上に特上を重ねた少年を見たときどのような反応を示すのか。その暴走ぶりを想像すると、なぜか胸がわくわくしてしまう。後少しで結果が出るとなると、どうしても口元が緩んでしまうのだった。

 それから話の通り数分走ったところで、シンジ達一行は瑞光の家に到着した。木造の白い洋館に、これも珍しいとシンジは大いに喜んだ。

「やっぱり日本って、木の文化なんですね。
 地震がないせいか、あちらは煉瓦を積み重ねた家が多かったですから。
 ひんやりとしているのは良いですけど、結構中が湿っぽかったりするんですよ」

 かび臭いと言うシンジに、こちらも似ているとメメは笑った。そして辺りを見回し、やはり歓迎されていないなと瑞光マミヤの感情を推し量った。ある意味これは、メメにとって好都合、ハプニングが大いに期待できるのである。
 じゃあ行きますかと、シンジを先導したメメは、古めかしい扉に付けられた呼び鈴を押した。さすがに単なるベルではだめなのか、中からはチャイムの電子音が聞こえてきた。そしてしばらくしてから、「勝手に入って」と不機嫌そうな声が遠くから聞こえてきた。

「あまりと言うか、歓迎されていないみたいですね」
「ここの奥さんは、友綱のと言うか、そこの坊ちゃんのファンだからなぁ。
 フジノってお嬢さんがいるんだが、二人をくっつけようと日夜画策しているんです」
「つまり僕は、いろんな意味でお邪魔虫ってことですか」
「そう言うことだと理解していれば話は面白くなりますな」

 言われたとおりに勝手にドアを開けたメメは、玄関に靴を脱ぎ捨ててずかずかと中に入っていった。そしてそれに遅れて靴を脱いだシンジは、メメの靴までしっかりと整理し邪魔にならないように横に置いた。

「だめですよ忍野さん、靴はちゃんと揃えないと見た目が悪いでしょう。
 他のお客さんが来たときに、瑞光さんの評判を落とすことになりますよ」
「い、いやぁ、確かにそうなんでしょうが……」

 同じようなことは、マミヤにも何度も言われていた。だが碇の跡取り、高校生に言われるとさすがに言い返しにくくなる。何でそこまで細かいのかと言いたくもなるが、それを言ったらやぶ蛇になると我慢することにした。

「とりあえず、坊ちゃんのお部屋に案内しますよ」
「その前に、ご挨拶が必要だと思いますよ。
 僕はまだ、この家に受け入れて貰っていませんからね。
 受け入れて貰うための礼儀を欠かすことは、人として問題があると思いますから」
「あちらが、勝手には入れって言ったんですけどねぇ……」

 言っていることはシンジが正しいし、その時どういうことが起こるのか、それを考えたら、今から挨拶をした方が面白いのだろう。しっかりといたずら心を発揮させたメメは、じゃあと言ってシンジをそのまま居間に連れて行くことにした。この時間なら、間違いなくお茶とおせんべいでテレビを見ているのだろうと。しかもノーメークなのが期待できる。

「奥さん、碇の坊ちゃんをお連れしましたよ」

 先に入ると言ってシンジを待たせ、メメはマミヤに声を掛けた。予想通りの格好にしてやったりとにやついたメメに、「後にして」とマミヤは冷たく言い返した。今は大切なティータイムで、テレビもちょうど良いところなのだと。

「別に歓迎するつもりもないから、勝手に部屋に入ってちょうだい」
「坊ちゃんは、まずお礼の挨拶をするのが礼儀だと仰有ってましてね。
 と言うことなので、顔ぐらいは見てやってください」
「じゃあ、邪魔にならない程度にあってあげるわよ」

 お許しが出たことに口元を歪め、入ってくるようにとメメは合図をした。どんなブサが入ってくるのか、面倒くさいわねと顔を向けたマミヤは、シンジを目にした瞬間硬直してしまった。

「今日からお世話になります碇シンジです。
 慣れていないことが多くてご迷惑をお掛けするかも知れません。
 その時は、色々と教えて貰えませんか?」

 笑顔で頭を下げたシンジに、マミヤは慌てて立ち上がり、こちらこそとぎこちなく頭を下げた。マミヤの青くて赤いという不思議な顔色に、笑いをかみ殺したメメは、これから本家に行ってくると声を掛けた。

「ご挨拶だけですが、今からだと夕食には微妙な時間となりますな。
 ご迷惑をお掛けするのも何ですから、我々は外食してくることにしましょう」
「い、いえ、迷惑だなんてとんでもない!!
 今日は坊ちゃんが家族に加わる大切な記念日なんですよ。
 ちゃんとごちそうを用意するから、遅くなっても全員で食べましょう!
 さすがはユイさんのお子様ね、お母様もお綺麗でしたけど……」

 うっとりというか、熱の籠もった目と言うのはどう考えたらいいのだろうか。少し引いてしまったシンジは、今度母のことを教えてくださいとマミヤにお願いした。小さな頃に死別したため、ほとんど記憶が残っていないのだと。

「写真も残っていないので、母の顔もほとんど覚えていなくて……」
「そう言うことだったら、ユイさんの子供の頃からの写真を捜してきますわ。
 それからシンジさん、嫌じゃなかったら私のことをお母さんと呼んでも良いのよ。
 今日からここは、あなたの家だと思ってくださいね」
「迷惑ってことはありませんけど、やっぱり恥ずかしいですね……」

 照れから顔を赤くしたシンジに、マミヤはくらっとよろめいた。少し幼くて格好良くて性格も良さそうとなれば、どうして冷たくすることができるだろうか。しかも相手は、名家の跡取りなのである。瑞光家主婦マミヤは、シンジを前に完全に舞い上がってしまった。

「それからこれは、皆さんへのお土産です。
 向こうで友人に相談したら、これが良いと勧めてくれた物なんですけどね……
 ただチョコレートとお酒ですから、ありきたりと言えばありきたりなんですけど」
「シンジさん、大切なのは物ではなくて心なのよ。
 そうやってあなたが私たちのことを思ってくれていれば、形なんてどうでも良いことなの。
 ありがとう、これは大切に頂かせて貰うわね。
 それから忍野さん、碇の御当主様がお待ちなのでしょう。
 早くシンジさんの顔を見せて、安心させてあげなさいな」
「確かにそうですな。
 では直ちにご本家に坊ちゃんをお連れしますか」
「くれぐれも、粗相の無いようにしてくださいね」

 はいはいと受け流したメメは、最初に部屋へとシンジを連れて行くことにした。自分がどんなところに住むのか、置いていく荷物はなくとも、やはり中身を確認しておく必要があるだろう。

「夕飯が遅くならないよう、できるだけ早く帰ってきますね」
「子供は余計なことを心配しなくて良いのよ。
 でもちゃんと連絡だけは入れてくださいね」

 行ってらっしゃいと手を振ったマミヤは、シンジの姿が階段に消えたところでほっとため息を吐いた。それだけ緊張していたと言うことなのだろうが、感心する変わり身でもあった。だがマミヤにとって、本当の戦いはこれからである。ごちそうを用意すると言ったからには、本当にごちそうを用意しなければいけない。それもマミヤ自身の手作りが必要だし、娘にも何か作らせなければいけないだろう。だがそれ以前に必要なのは、着替えをして化粧をすることだ。素顔をさらすような醜態は、二度とあってはならないことだから。

 何も荷物のない部屋に案内したメメは、そこでようやく笑いの虫を解放することができた。マミヤの反応が期待以上だったのがポイントが高い。さすがイケメンの坊ちゃんだと、その威力を再確認したところもある。もっとも笑いの虫を解放したが、下に聞こえないように抑えめの解放だったのだが。
 そんなメメに、感心しないとシンジは忠告した。そう言う人を小馬鹿にした態度は宜しくない。大人として手本になっていないと文句を言ったのだ。

「しかしですね坊ちゃん、元はと言えばあちらがまいた種なんですよ」
「誰が元かと言ったら、こちらの方じゃないんですか?
 そもそも誰が僕をここに住まわせると決めたんです。
 しかも早く帰って来いの催促もなかったし。
 それを考えれば、トラブルは起こるべくして起こったんですよ。
 いろんなことの段取りが悪すぎます!」
「今思うと、このトラブルも予定されていたんじゃないかと思えるんですがね」
「だったら、予定していたと言う人間に文句を言うことにします。
 後を継がせたいと思っているなら、人をだしにして遊ぶんじゃないと!
 言っちゃあ悪いですけど、僕は碇なんかに頼らなくても生きていけるんですよ。
 仕事だって探そうと思えば探せるし、生活費には全く困っていないんですからね。
 ただ碇の血を継いでいるだけで、家のことを考えるのが当然だなんて思って欲しくないんですよ。
 だいたい碇は、僕が苦しんでいるときに何もしてくれなかった」
「確かに、坊ちゃんなら碇に頼らなくても生きていけるんでしょうなぁ……」

 相当な資産を持っていると聞かされているし、モデルとして注目されたのも聞かされた。そうでなくとも、これだけの資質があるのなら、碇など頼らなくても成功することができるだろう。今になって出てきて、首に鈴を付けようというのだから、本人にしてみれば迷惑な話に違いない。

「そりゃあ、坊ちゃんの仰有るとおりなんですけどねぇ。
 とりあえず、そのあたりは現当主様に掛け合ってくださいませんか」
「まあ、自分のことだから自分でけりを付けなくちゃいけないんでしょうね。
 ただ、年寄りを相手にすると丸め込まれそうな気がして……」
「干渉しないと言っていましたがねぇ、まああり得る話でもありますな」

 いずれにしても、本人と直接話す必要がある。メメの答えに、急ごうかとシンジは出発することを提案した。部屋の中には何もないのだから、何もすることがないというのも正直なところだろう。このままでは、今晩寝る方法を考える必要がある。環境が整うまでホテル住まいをしようか、そう考えても仕方のない状況にあったのである。

 手前までタクシーで移動して、そこから先はいつもの通り歩きとなる。電信柱さえ立っていない田舎道に、「凄いところですね」とシンジは素直に感心した。今時の日本に、こんな田舎があるとは思ってもいなかったのだ。歩く距離の長さを考えたら、次からはオフロードバイクかなと、早速校則破りを考えていたりする。
 そしてシンジの驚きは、碇本家に到着しても変わることはなかった。非常に旧家と言われたから、よほど立派なお屋敷なのかと考えたのだ。だが目の前にあるのは、なりは大きいが、江戸時代の農家と言った建物だった。

「凄いなぁ、文明の香りが全くしない家だよ」

 頭の中では、天使と悪魔達もしきりに感心していた。こんな物は、歴史博物館にでも行かないとお目にかかれない代物なのだ。**村と言われるところでも、管理のために電気が引かれている。それを思うと、正真正銘過去の遺産なのだ。

「窓ガラスも無いんですね……」
「まあ、そんな物を運んできてくれる奇特な人がいなかったんだろうな」

 どういう反応を示すのかと興味を持っていたが、多少反応の方向性がずれていた。なるほど今の子供には、これだけ過去に遡れば、テーマパークの感覚になるのかとメメは考えた。

「どうです、こういったところに住むというのは?」
「短期間なら良いと思いますけど、たぶん退屈になって1日で挫折するでしょうね。
 もっともこの家が、見た目通りの過去の遺物かどうかは分かりませんけどね」
「幽霊とか物の怪なら住み着いていそうだが、科学という物からは取り残されていますな。
 この家の当主ってのは、そういった進歩からは離れたところに生きているんだな」

 だから見たとおりというメメに、それは大きな勘違いとシンジは笑った。

「進歩から離れていたら、もっと凄いことになっていますよ。
 だいたいこの家の形式って、江戸時代中期ぐらいでしょう?
 そこまでは時代と供に生きてきたんですから、そこで止めたことには何か理由があるはずですよ」
「なるほど、確かにそう言う考え方もあるのかも知れないな……」

 新しい視点だと感心したメメは、例えばとそこから先の推測をシンジに聞いた。もしも理由があったのなら、それを守っていくつもりがあるのかと。

「う〜ん、理由によるかなぁ……
 でも正直に言わせて貰えば、そう言うのばかり背負わされてきたから、
 いい加減勘弁して欲しいってのが本音かなぁ。
 だいだい母さんを好きにさせたぐらいだから、家自体に拘りがあるとは思えないし。
 たぶん、他の誰かでも代用がきくことだと思うんですよね。
 友綱さんでしたっけ、碇をぶっつぶしたいのなら、そちらにおっかぶせるのも有りじゃないんですか?」
「確かに、言っていることに矛盾はないわなぁ……」
「と言うことで、ほとんどの用件は済みましたか?」

 どうですと言われたメメは、何を言われているのか理解できなかった。そんなメメに、シンジは笑いながら後ろを指さした。

「……そう言う心臓に悪い現れ方はやめて貰えませんか?」
「だがな、シンジは全く驚いておらなんだぞ。
 つまり、このことに関してはお前の注意力に問題があると言うことになる

 ほほほと笑った小柄な老人は、中で帆掛も待っているとさっさと上がっていった。もちろん、メメが散々弄ばれた廊下を通ってである。そしてシンジの足元を見れば、滑らせてくださいとばかりに絹の靴下があった。

「坊ちゃん、上がる前に一つだけ忠告することにします。
 足下に注意することと、この家をバカにしないことです」
「足下に注意するのは分かりますけど、家をバカにするなって何のことですか?」
「坊ちゃんは、ただその注意を覚えておいて、実践してくれれば良いんですよ」

 おっかなびっくり歩こうとするメメに首を傾げながら、シンジはすたすたと廊下を歩いて行った。色々と忠告されたが、別におかしなことにはなっていない。ただ単なる古い木の廊下、それ以上でも以下でも無かったのである。
 一方メメは、どうしようもない理不尽さを感じていた。自分が来たときには、あれほど精一杯歓迎してくれたのに、坊ちゃんに対してはとても大人しい対応しかしていないのだ。ここらあたりは平等に扱って欲しい、文句を言うと転ばされるので、それを頭の中だけでメメは繰り返したのだった。

 シンジを追い越したメメは、こちらですと襖を開いた。そしてそこに座っている老人二人に、シンジ坊ちゃんですとシンジのことを紹介した。

「たぶん初めましてですね、碇ゲンドウ、碇ユイの息子、シンジです」

 頭を下げたシンジに、ドッポは「祖父のドッポだ!」と正面からシンジを見て名乗った。それに続き、「親戚の帆掛ジュウゾウだ」と名乗った。とりあえずお互いが名乗ったところで、まずドッポがシンジの格好に話を向けた。

「ところでシンジよ、そのちゃらい格好は何なのだ?」
「単なるジャケットとパンツですよ。
 着替えが無かったから、イタリアで着ていたのをそのまま着ているだけです。
 それでこの格好に何か問題が?」
「いや、ただ聞いてみたかっただけだ。
 ただ、思っていたのと若干……いやかなりかな、お前の空気が違っていたのでな」
「どう想像されていたのかは分かりませんが、僕は僕、格好で変わる物じゃありませんよ」
「だがネルフにおるときとは、かなり変わっておるようだが?」
「まあ、色々と説明できないようなことが沢山ありましたからね。
 年齢不相応の経験を積んだとでも思ってください」
「その経験とやらを教えてはくれないのか?」
「教える理由がないですし、ありすぎて教えるのに時間が掛かりすぎますから。
 たぶん、知らない方が良い、知っても意味がないことだと思いますよ」

 素っ気ないシンジの言葉に、そうかとドッポはあっさり引き下がった。それで話が終わりと受け取ったシンジは、逆に聞きたいことがあるとドッポに言った。

「後見人になって貰ったことには感謝します。
 でも今更僕を呼び寄せて、わざわざ問題の起こりそうな学校に入れて、いったい何をさせたいんですか?
 僕に期待することがあるのなら、あらかじめ言っておいてくれませんか?
 できることならできる、できないことならできないと今ここで答えますから」
「さすがは若いだけのことがある、せっかちなことを言ってくれるな」

 ほっほっほと笑ったドッポは、大したことは望んでいないと答えた。

「ちゃんと嫁を貰って、碇の名を残してくれればそれで良い。
 別に相手がどうだとか言うつもりもない」
「では、どうして騒ぎの起こりそうな豪龍寺学園に入学させるのですか?」
「あそこが、友綱の支配下にある学園だからだ。
 おそらくお前は、自由にさせれば友綱とは全く関わりのない世界で生きていくことだろう。
 それでは碇を目の敵にしてきた友綱が可哀相なのでな。
 少しぐらいは、あやつにもいじらせてやろうと親切心を起こしたまでだ」
「そうやって、みんなで僕をいじろうとするんですね……」

 はあっとため息を吐いたシンジは、何時までもお遊びに付き合うつもりはないと言い返した。

「これと言ってやりたいことがある訳じゃありませんけど、
 だからと言って、遊び道具にされるつもりもないんですよ。
 よその人に迷惑を掛けるようなことをしたら、さっさと僕はヨーロッパに渡りますからね」
「迷惑を掛けてはいけないのは、よその人なのか?」
「身内のことですから、多少の迷惑は義務として割り切りますよ。
 ただ介護をして欲しかったら、ここを引き払って町に出てきてください。
 こんな不便なところには、ヘルパーさんも呼べないですからね。
 ぐずぐず言ったら、特養老人ホームに押し込みますよ」
「老人ホームかっ、それはいい!!」

 ほっほではなく、はっはと笑ったドッポは、遠くない未来だなと自分で言った。

「だったら、出来るだけ綺麗な看護師さんのいるところをお願いする。
 お前の言うとおり、こんな所にいると美人と言えば瑞光の娘ぐらいだからな」
「そうやって、僕を煙に巻いたつもりですか?」

 じろりと睨んでみたが、ドッポは特に反応を返さなかった。さしずめぼけ老人を装ったと言うところか、仕方がないとため息を吐いたシンジは、よけいな争いを起こすつもりはないと言い切った。

「こんなコップの中の世界での争いなんて、僕にはどうでも良いことですよ。
 降りかかる火の粉にしたところで、払わなくたって火傷すらしないでしょう」
「ならばお前の考える、火傷をするような火の粉はどんなことかな?」
「僕がパイロットを辞めた理由、それを考えてみて下さい」

 それ以上は内緒と、シンジは話を打ち切った。

「肩でももめと言うんだったら、年寄り孝行ぐらいはしてあげますよ。
 世間を見たいから負ぶってくれと言うのも聞いてあげます。
 多少の我が儘は大目に見てあげますから、くれぐれも他人に迷惑を掛けないように!
 いちいち謝って回るのが、一番情けないことだと理解して下さいよ」
「まだ自分のケツも拭けぬ子供がよう言うわ!」
「歳をとったら、いつか自分のケツも拭けなくなることを覚えておいて下さい。
 子供は成長すれば自分で責任をとれるようになりますが、老人はだんだん何も出来なくなるんですよ。
 特に自分は問題ないと過信している人が、一番手に負えなくなるんですからね」
「確かに、お前の言うことは真理を突いておるな……」
「労って欲しかったら、いい老人になることを心がけて下さい。
 そうしたら、同居ぐらいは考えてあげますよ。
 もちろんその時は、ここを出て貰いますからね」

 それぐらいだと言い切ったシンジに、別にそんなものは望んでいないとドッポは言い返した。

「儂が望んでおるのは、つまらぬ男になってくれるなと言うことだけだ」
「それこそ、身勝手な言い分でしょうね。
 つまらない男かどうかなんて、他人に決めて貰う事じゃない」
「ならばお前は、これからどう生きようと言うのだ?」
「そんなことは、これから考えますよ。
 ようやく面倒な世界から解放されたんです。
 ゆっくりと自分が何をしたいか、残された時間の中で考えますよ」
「それが分かるまで、儂は生きておられるのか?」
「10年……5年かな、それぐらいは頑張って生きてみて下さい。
 そうしたら、きっと面白い……さもなければ、絶望というのを知ることが出来ますよ」
「ほほう、絶望か?」
「未来がどう変わるか、今の僕にも知ることが出来ませんからね」

 シンジの言葉は、メメには理解することが出来なかった。やたら何かを暗喩しているのだが、それが何のことかが皆目見当が付かなかったのだ。だがドッポが応じているところを見ると、二人の間では理解できることらしい。その中で想像が出来ることと言えば、5年程度の時間で何かが変わると言うことだ。それが面白いことなのか、はたまた絶望を導く物か、分かるキーワードと言えばそれくらいのことだった。

「他に何か言っておきたいこと、聞いておきたいことはありますか?
 帰り道を考えたら、あまり遅くなると遭難してしまう」
「まあ、ここで生きていれば、太陽と共に生活することになる。
 だからお前のような若者を、長く止め置くような真似をするつもりはない。
 今日は来て貰って悪かったな、瑞光の娘に宜しくと伝えてくれ」
「伝えてはおきますが、僕は瑞光さんのお嬢さんにまだ会っていないんです」

 じゃあと立ち上がったシンジに、もう一つとドッポは声を掛けた。

「別に一つじゃなくても良いですよ」
「なに、今は一つだけで十分だ。
 なあシンジよ、たまにはこの年寄りに会いに来てはくれないか?」
「たった一人の肉親ですからね、たまで良かったら会いに来ますよ。
 ただし!」
「ただし、よけいなことは言うなか?」
「ちょっとハズレです。
 次に来るときは、乗り物に乗ってきますよと言いたかったんです。
 オフロードバイクを使えば、もっと気軽に来ることが出来ますからね」

 オフロードバイクというシンジに、なるほどとメメは膝を叩いた。確かに車ではたどり着けない場所だが、バイクとなれば事情は変わってくる。良い方法だと納得したメメだったが、すぐに自分がバイクに乗れないことを思い出した。

「別にバイクを使っても問題はないぞ」
「だったら、その時には何かお土産を持ってきますよ。
 欲しい物があったら、あらかじめ言っておいて下さい」
「別に欲しい物など無いのだがな……
 だがせっかくそう言ってくれたのなら、そうさな……」

 うんと考えたドッポは、にやりと少し口元を歪めた。

「嫁を連れてこいとは言わぬが、ガールフレンドの一人ぐらいは連れてきてくれんか。
 黒髪美人はフジノを見ておるから、出来るなら金髪グラマーをお願いする」
「金髪グラマーって……」

 思い当たる相手は何人か居たが、一人も日本にいなければ叶えようがない。難しいことを言うと苦笑しながら、何とかしてみるとシンジは不思議な答えを返した。

「おじいさんが頭の中で思い浮かべた相手、その彼女を連れてくることになるんでしょうね」
「それは結構、それまでは頑張って長生きをすることにしようか」

 ほっほと笑ったドッポは、手間を取らせたなとシンジに礼を言った。

「細かなことは忍野にやらせればいいが、困ったときはジュウゾウを頼るのだぞ。
 ジュウゾウは儂の名代だからな、碇の総てを動かすことが出来る」
「そんなたいそうなことになるとは思いませんよ。
 まあ、覚えてはおきますけどね」

 ではと立ち上がったシンジは、帰りましょうとメメに声を掛けた。

「何時でも良いとは言われてますけど、早く帰った方が瑞光さんに迷惑を掛けないですみます」
「あ、ああ、確かにそろそろ帰った方が良いのだろうな」
「帰りがけに、少しでも生活用品を買っておいた方がよさそうですしね。
 石けん一つ無ければ、お風呂に入ったときにも困ってしまいますから」
「ああ、歯ブラシも必要でしょうな」

 確かにそうだと、メメも先を急ぐことにした。今頃瑞光の奥さんが何をしているのか、きっと娘も学校から帰っていることだろう。年寄りとの会話より、そちらの方がずっと面白いに違いない。それに帰り道では、シンジに色々と聞いてみたいことがあった。特に5年後には起こる絶望とか、心当たりのある金髪グラマーとか、いくつかあった謎の会話の種明かしをして貰わなければと。

 シンジとメメが帰ったのを見計らい、どうでしたとジュウゾウはドッポに尋ねた。ジュウゾウ自身は、二人の会話の意味を掴み損ねていた。だがドッポが楽しそうにしているところを見ると、孫との対面は期待はずれの物ではなかったのだろう。

「どう、どうと聞くか……」

 難しいなと笑うドッポは、考えてから自分でもよく分からぬと答えた。

「ただな、シンジとはよくぞ名付けたと感心しておるのだ。
 まさに神の子、神子に違いない。
 ようやく死ねるかと思っておったのに、まだ5年は生きないといけなくなってしまったわい」
「まだ旅立たれるようなお年ではないでしょう」
「だがな、ようやく跡目を譲ることが出来ると安堵したのだぞ。
 だがな、どうやらシンジは儂にも面白いことを見せてくれるらしい……」
「絶望……と言っていたことですか?」
「セカンドインパクト、サードインパクト……特にサードインパクトの真実を知るシンジだぞ。
 そのシンジが“絶望”と言うのだから、一体何が起きるのだろうな。
 冥土のみやげとしては、いや、その冥土が残されるのかどうか、
 それを含めての絶望がそこにあるのかも知れぬな」
「やはり、私には理解が出来ないようです……」
「心配するな、この儂も正しく理解できているとは思っておらぬ」

 だから神の子なのだと。ドッポは、ユイの選択が結果的に正しかったのだと理解したのだった。



***



 どうして自分の周りの女性は、こうも雨雲を纏ってくれるのか。陰鬱な空気を学校でも味あわされたソウシは、力になることはないかとその内の一人、瑞光フジノに声を掛けた。本当ならもう一人雨雲を背負った女性、可愛い妹の力になるべき所なのだろうが、あちらは問題の所在がはっきりしている上に、自分では手の出しようがないところまで来ている。従って、問題の所在が多少不明確で、まだ解決の見込みのあるフジノに声を掛けたという訳である。

「力になってくれるの……だったらソウシ、私と駆け落ちしてくれる?
 ごめん、単なる気の迷い、速やかに忘れてくれるとうれしいわ」
「なぜいきなり取り消したのかは気になるが……
 家に帰りたい気分ではない、そう解釈すればいいのかな?
 となると、そこから推測できるのは例の跡取りさんのことかな?
 そして更に推測すると、今日瑞光家の敷居をまたぐと言うことかな?」
「家は古い洋館だから、敷居なんて日本風の物はないんだけどね……
 と言う言葉尻を捉えるのはおいておいて、実はソウシの言うとおりなのよ」

 はあっと物憂げなため息を吐いたフジノに、ソウシはここのところ感じていた疑問をぶつけた。

「気が乗らないとは聞いていたが、そこまで忌避しているとは思っていなかったのだが?
 それに本人が現れるのなら、白黒つけるのにちょうど良い機会じゃないか」
「確かに、問題が私だけなら大したことじゃなかったわよ。
 駄目だと思ったら、猿沢の池にでも沈めてやれば良いんだから」
「あそこは浅いから、人を沈めたらすぐにばれると思うのだがな?」

 お約束では大阪あたりの港だと、とりあえずの乗りでソウシは返した。

「別に、沈める場所は本質的な問題ではないわ。
 本質的なのは、私がとどめを刺せばいいと言うことだけ。
 なんだったら、奈良公園の鹿に串刺しさせても良いんだから」
「この季節、角が伸びていないからそれも難しいと思うぞ」
「だったら、PLの花火の的にしてあげようか」
「先日終わったばかりだから、来年まで待つ必要があるね」
「若草山の山火事に巻き込ませるとか?」
「それも半年近く待つ必要があるね……それからアレは山焼きであって山火事じゃない。
 と、フジノの現実逃避に付き合うのはいいのだが、どこに本質的問題があるのかな?」
「本質的な問題……まあ、家庭の事情だと想像して。
 お母様がね、跡取りさんを徹底的に無視する方針をとってくれたの。
 直接的原因は、帰ってくる日程を10日も勝手にずらしたこと。
 そして間接的原因は、忍野メメと言うおじさんが家に居着いたこと。
 全部碇が悪いんだって、無視していびり倒して追い出すつもりになっているのよ。
 さすがに家族として、母親にそんな根性の曲がったことはして欲しくないのよ」
「だったら、早く帰って暴挙を阻止すべきじゃないのかな?」
「今更帰っても手遅れだから、だから現実から目を背けていた……そう言う事よ」

 なるほどと事情を理解したソウシは、だから駆け落ちなのかと否定された考えを思い出した。

「それで、いつまで現実逃避をしているつもりなのかな?
 もう一度言うが、俺で助けになるなら、駆け落ち程度なら付き合っても良いぞ」
「だから駆け落ちというのは、可及的速やかに記憶から消しなさい。
 それにソウシ、あんたとだったら駆け落ちなんかする必要はないもの。
 ソウシの家に押しかけると言ったら、少なくとも家の母親は反対しないわ」
「家の家族も、諸手をあげて賛成するだろうな……
 そう考えると、確かに駆け落ちをする必要など無いな」
「それに、そう言う安易な方法って、私の美学に反するのよ。
 なんかソウシとだと、鉄板過ぎてしゃくに障るというか……
 のび太君としずかちゃんが結婚するぐらい、予定調和にしか思えないのよ」
「別に、予定調和が悪いとは思わないのだけどね。
 もしも早いか遅いかだけの違いだったら、早く決着をつけた方がお互い楽しめるだろう。
 十代から情欲にまみれた暮らしをしてみるのもなかなかおつだとは思わないか?」
「残念ながら、私はそちらの欲求が薄いのよ。
 もしもソウシが、そう言うのを希望するなら、他の女の子を当たってくれるとうれしいわ」
「俺としては、フジノと情欲にまみれたいんだけどな……はひ」

 恐らく裸を想像し、あまつさえそれを弄ぶところを想像していたのだろう。それを察知したフジノは、抜き手も見せずにソウシの口にホチキスとカッターナイフを押し込んだ。

「今、ソウシの中に浮かんだ映像……それを直ちに永久消去しなさい。
 私はそんなに貧乳じゃないし、お馬鹿なこびなど売るつもりもないわ。
 反論など必要ないわ、従うつもりがあるのなら、小さく3回頷きなさい。
 それ以外の行動を取ったなら、何がどうなるかは理解しているわよね?」

 どうと氷の微笑みを向けられ、ソウシは慌てて3回頷いた。

「映像は綺麗に消去した?」
「あ、ああ、どこかのグラビアアイドルと入れ替えた」
「グラビアアイドル……ソウシがいつもおかずにしているあの子?」
「どうして、お前はあたかも見ているかのような言い方をするんだ?
 俺はグラビアアイドルなんかおかずにしたことはないぞ!」
「おかずが必要なことをしているのは否定しないのね。
 駄目よソウシ、妹をそう言う目で見るのは世間では変態と言われる行為なのよ」
「だから、なぜ僕が妹を性的な目で見なくちゃいけないんだ!
 確かに最近綺麗になったし、腰もくびれてきたし、胸も大きくなってきた。
 王子様って色気づいてきたのも間違いない。
 だがなフジノ、俺は妹をおかずにするほど落ちぶれてはいないぞっぞ……」
「私をおかずにしてると言ったら、警告無しにホチキスとカッターが猛威を振るうわよ。
 もしもそれだけでは不足なら、千枚通しと押し切りも活躍してくれるわ。
 三角定規やコンパスなんて、結構デンジャラスだと思わない?」
「その考えを否定するつもりはないが、文房具を武器にするのはどうかと思うぞ。
 文房具というのは、勉学の補助に使う物で、俺を脅すために使用される物じゃない」
「身近な物を武器にするのが、私の流儀なのよ。
 そうすれば、いつでも獲物に事欠くことがないでしょう」

 ねっと微笑まれても、うんと答えて良い物か。それ以上に疑問なのは、どうして自分および自分の家族は、彼女のことを嫁にしようと考えているのか。ひょっとしてデレモードに入ったら可愛くなる……そんな幻想を抱いているのだろうか。
 そこまで考えたところで、まあいいとソウシは話しを思いっきり元に戻すことにした。よけいなことを考えれば、きっと我が身に災いが及ぶことだろう。それに瑞光家の家庭内不和というのも、あまりありがたい事とも思えない。だったらさっさと送り返し、問題の根本を解決させた方がましという物だ。

「身の安全のために現実に話しを戻させて貰おう。
 このままずっと家に帰らないのなら別だが、そのつもりがないのならさっさと家に帰るべきだな。
 帰るのが遅くなればなるほど、事態というのは予想もしない方向へ向かっていくものだ。
 物事をコントロールにおきたいのなら、対策は早めに講じるに限る」
「まあ、確かにソウシの言うとおりなんでしょうね……
 でもね、それが分かっていても気が重いって事は世の中には存在するのよ」
「その結果、更に事態は悪化すると分かっていても……か。
 だったら、俺がフジノの家までついて行ってやろうか?
 そうすれば、フジノが誰の物かがはっきりと……ハヒ」
「どさくさに紛れて、勝手なことを言わないように!」

 今度は口ではなく、鼻の穴に三角定規を突っ込まれてしまった。しかも両側となると、イケメンも台無しである。それでも情けか、突っ込まれたのは60度の角だった。
 まったく、とため息を吐いたフジノは、すぐにソウシを解放した。そして「仕方がない」と嘆いて、鞄を手に取った。

「確かに、この場合問題の先送りは解決からほど遠いところにあるわね。
 一応ソウシと話して気が紛れたから、元気を出して家に帰ることにするわ」
「そうするのが、一番前向きだろうな。
 それで良かったら、明日にでもその結果を聞かせてくれないか?」
「気を紛らわす役には立ってくれたから、それぐらいはしてあげるわ」

 もう一度「はあっ」と息を吐き出したフジノは、本当に気が乗らないと文句を言いながら生徒会室を出て行った。そのけだるそうな、そしてやる気のなさそうな空気は、生徒会長が放って良い物ではないだろう。
 その虚脱した生き物が部屋を出て行ったところで、ソウシはいきなり口と鼻を押さえた。その目に涙が少しにじんでいるところを見ると、やせ我慢をしていたが相当痛かったようだ。まあホチキスは針が出ていなければ安全だが、カッターナイフや三角定規は立派な凶器だろう。「痛いよう」とシクシク泣いたソウシは、つきあい方を真剣に考えなければと、フジノの見た目と行動を天秤にかけ始めたのだった。

 いくら幼なじみで気晴らしをしても、抱えていた問題が解決するはずがないし、誰かが代わりに解決してくれることもない。ソウシの言うとおり、時間をおけば更にややこしくなるのが世の常なのである。

「これも、全部碇シンジが悪い!!」

 ぐだぐだと考えていたが、結局結論はそこに到達するのである。こうなったらさっさと引導を渡してやろうと開き直り、フジノは家路を急いだ。普段より大股で、そして血走った目をしたフジノに、ご近所さん達は声を掛けるのを憚ったのだった。

「ただいまぁ、母さん、いる?」

 大きな声で玄関……ドアを開いたフジノは、真っ先に居間へと向かった。今朝のやる気のなさを考慮すれば、今頃居間でごろごろして、「今日は店屋物」と言うのだろう。だから絶対に家にいる、いやいるだけではなく、寝転がってテレビを見ていると決めつけていた。
 だが帰ってみれば、家には誰も居なかった。今日入居するはずの碇シンジどころか、居間で寝転がっているはずの母親の姿も見つけられなかった。

「母さん、いないのぉ!?」

 大声を出せば出てくるものではないだろうが、フジノは大声で母親を呼んだ。もしかしたら、何かの気まぐれで庭にいるかも知れない。さもなければ二階に上がっていることもあり得る。そう思ってあたりを探したのだが、なぜかマミヤの姿はどこにも見つけられなかった。

「まさかとは思うけど、買い物に出て行ったのかしら?
 どういう風の吹き回しなんだろう……」

 一家の主婦なんだから、買い物に言ってもおかしくないはずだ。そもそも気分を変えるために買い物に行くのも、十分想定される行動なのである。それを娘に不思議がられる母親というのも、どこか哀れ……というか、おかしくないかいと指摘したくなる話だ。
 仕方がないなぁと、母親に代わって居間の住人になっていたら、あまり時間をおかずにマミヤが帰ってきた。それを「お帰り」と出迎えたところで、フジノは我が目を疑うことになった。

「お母さん、今日は同窓会か何かの集まりでもあったの……
 いや違うわね、同窓会でそんな派手な服は着ていかないと思うし……
 なにか化粧がいつもよりも濃いみたいだし……」
「いやぁねぇ、私は普段通りにしているわよぉ」

 おかしな子と笑うマミヤに、熱でもあるのかと、フジノは思わず額に手を当ててしまった。だが手に伝わる感覚は、別に熱っぽいところは無かった。

「あらあら、おかしな事をする子ね。
 それは良いけど、すぐにフジノも着替えて晩ご飯の支度を手伝ってくれる?
 すき焼きにするんだけど、フジノはそうね、お野菜の炊き合わせを作ってくれない。
 にんじんとか海老芋とか椎茸もちゃんと買ってあるからね」

 ふんと鼻歌すら聞こえそうなご機嫌に、フジノはすぐに現実に復帰できなかった。家に帰ったのだから着替えをする。そして晩ご飯の手伝いをするというのは、別に何一つ間違ったことは言っていない。だが今朝の様子を考えれば、どうしても今の情況が納得いかないのだ。しかもエコバッグの中を覗けば、パックじゃない牛肉の塊が目に飛び込んできた。大晦日に食べるときでも、パックの牛肉で済ませるのが彼女の母親なのである。普通の日に、こんな贅沢をするとは絶対に考えられなかった。

「フジノ、のんびりとしていたらシンジ君が帰って来ちゃうわよ。
 碇家次期御当主様に対して、失礼にならないようにちゃんとしてね。
 そうじゃないと母さん、とても恥ずかしい思いをしなくちゃいけなくなるわ」
「お母さん、言うことが前と変わっていない?」
「あら、私はいつもと変わっていないわよ。
 ほらほら、そんなことよりも、早く着替えをしてらっしゃい。
 第一印象って大切な物なのよ、だから綺麗にして手料理で点数を稼ぎなさい。
 お母さん、シンジ君に「お母さん」って呼んで貰いたいわぁ!!」

 ソウシをシンジに置き換えた母親に、そう言うことかと事情の一部を理解できた気になった。遅れてやってきた碇家次期御当主様は、母親好みのイケメンだったのだろう。だからころりと態度が変わったに違いない。家庭内いじめをされるのよりはましだが、情けない反応でもあった。

「やっぱり男の子って肉が好きよねぇ。
 だから今日は良いお肉ですき焼きにすることにしたのよ。
 みんなで鍋をつつき合うのって、やっぱり家族の間では必要でしょう?」
「家族って……忍野さんもいるのよ」

 それで良いのかと言うフジノに、ちゃんと考えてあるとマミヤは小さなパックを手渡した。

「100g80円って……よくこんなに安い牛肉があったわね。
 つまりこの100g80円で120gのお肉が忍野さん用ってこと?」

 全部で100円もしないと、感心したフジノに、仲間はずれにしては悪いとマミヤは嘯いた。

「一応シンジ君の面倒を見てくれるんでしょう?
 だったら、あの人も家族の一人だと諦めましょう」
「諦めるって……」

 それも酷い言い様だと思ったが、今までを考えれば仕方がないと問題にしないことにした。そして胃の痛くなる思いをするより良いかと、言われたとおり着替えに行くことにした。
 牛肉パックを返したフジノに、ちょっととマミヤは母親としての注意を与えた。

「この前買ったワンピースがあったわよね。
 それから靴下も新しいのをおろして、そうね、その前にお風呂に入った方が良いかしら?
 下着も新しいのに替えておけば、いざというとき恥ずかしい目に遭わなくてすむわね」
「これから私は、晩ご飯のお手伝いをするのよね?」
「大丈夫よ、上からエプロンを羽織ればお洋服は汚れないから。
 それから、きわどくならない程度にお化粧もしてらっしゃい」
「もう一度聞くけど、これから私は晩ご飯のお手伝いをするのよね?」
「ねえ、お酒を飲ませて酔い潰すのってどうかしら?
 そのままフジノのベッドに連れて行けば、立派な既成事実ができあがるわね?」
「少なくとも、娘を持つ母親が言っていい事じゃないと思うわよ、それは……」

 ある意味犯罪になると、いい加減にしてとフジノは母親を叱った。

「でもね、シンジ君ってとっても格好良いのよ。
 背も高いし、スタイルも良いし、性格もとっても良いの。
 碇さんのところの事を考えたら、フジノが嫁入りするのが双方の為になると思うの。
 御当主様もご高齢だから、早くひ孫の顔が見たいと思っているでしょうし」
「ごめんお母さん、今日ほど私はお母さんのことが理解できない日は無いわ……」

 もういいと振り払い、フジノは自分の部屋に戻ることにした。とりあえず戻って落ち着いて、それからこれからのことを考えればいい。何をどうしたのかは知らないが、碇家次期御当主様は完全に母親を籠絡したようだ。見事としか言い様はないが、だからといってなれ合うつもりはない。ましてや毒牙に掛かるつもりは毛頭無かった。さらに言えば、自分を安売りするつもりはもっと無かった。

 よそ行きのワンピースに新しい下着と言われたが、当然そんな格好をするはずもない。夏物のセーターに短めのパンツを穿き、長い髪は邪魔にならないようにポニーに纏めた。あくまで家に帰ってきたのだから、肩の凝らない、そして活動的な格好にするべきだ。そして変に意識しないようにして、フジノはキッチンへと降りていった。もちろん母親に小言を言われるのは予定の内だった。だがあからさまにがっかりされると、色々と違うのではないかと聞きたくもなる。どこか人として間違っていないかと、自分の母親ながらに心配になってしまう。

「とにかく、これから一緒に住むことになるのよ。
 変に意識してよそ行きの格好をしたら、後から笑われることになるんだからね」
「でも、男なんて第一印象が総てだと思うわよ。
 折角一番最初に唾をつける権利を貰ったのよ。
 学校に行ったら、誰かに抜け駆けされるかも知れないじゃない」
「友綱の息が掛かった学校で、そんなことが有るはず無いじゃない!」
「だったらフジノ、学校ではあなたがシンジ君を守るのよ。
 友綱と全面戦争になっても、父さんと母さんが頑張るからね」
「母さん、今まではソウシのお嫁さんになれって言っていなかった?」
「でもフジノちゃん、乗り気じゃなかったでしょう。
 だからソウシ君の代わりに、もっと格好良い人が現れたんだからそっちにしたらって言っているのよ。
 お母さん、あんなに礼儀正しくて格好良くて性格がいい男の子は初めて見たわ!
 もう絶対にお買い得なんだから、フジノもその気になってアプローチしないと!!」
「積極的に迫れっの間違いでしょ。
 まったく自分の娘をなんだと思っているのよ……」

 ぷんぷんと怒りながらも、フジノは手際よく野菜の下ごしらえをした。角に切ったにんじんも海老芋も、煮くずれないようにちゃんと面取りをした。

「それは良いけど、お父さんは何時に帰ってくるの?」
「夕食前には帰ってくるって言っていたわよ」
「で、肝心の碇家次期御当主様は?」
「御本家に挨拶をしてくるって言っていたから、あと1、2時間は掛かるかしら。
 それだけしか時間が残っていないんだから、早めに準備を終わらせましょう」
「早めに準備って……そんなに時間が掛かるとは思えないけど……」

 煮物を作ると言っても、白ダシを使えば30分も掛からないだろう。準備だけなら、時間的には十分すぎる余裕がある。

「だってシンジ君は、イタリアから長時間のフライトで帰ってきたのよ。
 たぶん疲れているだろうから、お風呂の準備をした方が良いとは思わない?
 食事の準備をしたら、次はお風呂の掃除をしなくちゃいけないでしょう?
 誰のか分からない毛とかで汚れていたら、フジノちゃんも恥ずかしいんじゃないの?」
「お風呂は、ちゃんと別に有るはずでしょう……」
「だって、あっちはアレの為に有るんだから……
 それに広くて綺麗なお風呂の方が、シンジ君も落ち着くと思うのよ。
 フジノちゃんが良かったら、お背中でも流してあげたら?
 きっとフジノちゃんにして貰ったら、シンジ君も喜ぶと思うわ!」
「お風呂のことは分かったけど、同学年の男の子の背中を流す真似なんかしません!!」

 母親のボケに付き合いながら、フジノは手際よく煮物を作っていった。別々に材料を煮て、煮立ったところで一度冷ます。そうすることで、お出しの味が素材によくしみこんでくれる。

「じゃあ、私はお風呂の掃除をしてくるからね。
 それからくれぐれも言っておくけど、おかしな事をシンジ様の前で言ったら親子の縁を切るわよ!」
「嫁に行く……じゃないのね」

 残念と嘆く母親に、すぐに縁を切ろうかとフジノは悩んだのだった。



 ドッポとの話しには時間は掛からなかったが、いかんせん碇家本宅は不便なところに有りすぎた。しかもシンジには生活用品を揃えると言う事情もあった。タオルや歯ブラシ歯磨き粉、ブラシやシーツ、枕も生活には必要だろう。最悪メメの所から借りるという手もあるが、それでも身の回りの品は買いそろえる必要があった。

「いや、なんだ、一つだけ聞かせてもらって良いかな?」

 一通りの買い物が終わったところで、言いにくそうにメメが切り出した。

「別に聞きたいことがあるのなら遠慮しなくて良いんですよ」

 それでとシンジは、先を促した。

「そのなんだ、俺にはどうしてもそのTシャツを買ったセンスが分からないんだが……
 デパートには、ブランド物のTシャツもあっただろう?
 それなのに、よりにもよって土産物売り場のTシャツを……」
「奈良ってでかでかと書いてあるのが気に入りませんか?」
「気に入る入らないと言うより、まずそのセンスを疑ったというか……
 今自分がしている格好と照らし合わせてくれれば、俺の言いたいことが分かると思うが?」
「でも向こうでは、結構こう言うのが流行っていたんですよ。
 ミラノで会ったデザイナーの人も、部屋着でこう言うのを着こなしていましたし……」
「そりゃあ、あちらが外国だからだろう……」

 ありがち、想像できる状況に頷きながらも、メメは「ここは日本だ」と反論した。

「僕にしてみれば、アルファベットの方がなじみが深いんですよ。
 だからあんなSOBなんて書かれたTシャツを着る方が常識を疑うというか……」
「言いたいことは分かるが、あれに意味など無い、単なる記号だと思ってくれ」
「だったらこれでも、ちょっとポップなイラストだと思えば良いんですよ。
 オリエンタルなのって、結構ファンが多かったんですよ」
「だがな坊ちゃん、ここはそのオリエンタルの本場、日本の古都と来ているんだ。
 なんちゃってオリエンタルは、あちらでしか通用しませんぜ。
 ぼっちゃんがあの英字が書かれたTシャツに違和感を覚えるなら、
 こっちじゃ漢字のTシャツの方に違和感を覚えるんですよ」
「そんなに、僕が着たらおかしいですかぁ……」

 そうかなぁと考えていたら、頭の中では天使と悪魔が盛大に頷いていた。青い髪の天使まで頷くのだから、メメの言っていることの方が正しいのだろう。なかなか良いのになぁとは思いはしたが、全会一致で否定されては諦めざるを得ない。パジャマ代わりに着るのは、スーツケースに詰め込まれたデザインTシャツにすることにした。誰にも見せない……1枚あたりの値段を考えると、それはそれでとてももったいない気がするのだが。
 歩いて行ったため、荷物は二人で持てる範囲となっていた。その中で大物の枕とかシーツとかを買ったために、後は大して物は揃っていなかった。これでスーツケースが届いていなければ、明日から着る物にも困ってしまうだろう。

「まあなんだ、確かにホテル暮らしから始めた方が良かったのかも知れないなぁ」
「僕の場合、普通の引っ越しとは違いますからね……
 小間物を向こうから持ってくるのもバカらしいから、全部こっちで揃えなくちゃいけない……」
「もう少し早く、瑞光の奥様を味方に引き入れておくべきでしたな……
 まあ、学校が始まる……昼間の時間が拘束されるのは先ですから、その間に揃えてやればいいでしょう。
 たぶん、瑞光の奥さんが全面的に協力してくれますよ」
「確かに、少しだけ不便を我慢すれば良いんですよねぇ」

 文明の最先端にいたおかげで、物に対する不便だけは感じてこなかった。それを思うと、たまには不便も良いかとシンジは考えることにした。それにその不便にしても、自分で解消すれば大した問題ではないだろう。

「それより坊ちゃん、長旅で疲れてはいませんか?」
「疲れてる……確かに、そういう感じがあるのかなぁ……
 一応まだ若いし、飛行機の中ではほとんど寝てましたからね。
 だから今は、辛いという感覚はないんですけど……
 ただ日本の方が7時間早いから、明日の朝がきつそうですね」
「ああ、時差ぼけって奴ですか」
「2年間ずっと向こうにいたから、体内時間がヨーロッパになっているんですよ。
 だから僕の体の中では、まだお昼前ってことになっているんです」
「なんか、そう言うのって格好良く聞こえますな」
「こき使われていたことを考えると、少しも格好良くなんて無いんですけどね……
 ある意味強制労働から解放されたってところで」

 苦笑したシンジに、とんでもないとメメは首を振った。

「そう言うところを含めて、格好良いって言うんですよ。
 これが豪龍寺で無ければ、女子生徒が放っておかないでしょうなぁ。
 ヨーロッパからの帰国子女で、背が高くてイケメンと来ているんですからね」
「イケメンって……女顔をしているし、ただ背が高いだけですよ」

 そう言うのは止めて欲しいというシンジに、現実を認めましょうとメメは真顔で忠告した。このあたりの認識がずれているせいで、一緒に歩いていてずいぶんと肩身の狭い思いをしてきたのだ。

「坊ちゃんは格好良いんですよ。
 瑞光の奥さんを見て貰えば分かると思いますが、普通以上にもてる要素を持っているんです。
 偉そうに振る舞えと言う意味ではなく、周りに対する影響を考えて行動してください。
 あまり無防備な真似をすると、勘違いする女性が量産されますよ」
「無防備な真似?」
「親切にするなとは言いませんが、限度を考えてくださいな。
 単なる勘違いなら良いですが、下手したらストーカーを作っちまいますよ。
 坊ちゃんが理由で、女の子同士の争いが起きたらどうします?」

 嫌でしょうと言われれば、嫌だとしか答えようがない。だからと言って、どう振る舞えばいいのかも分からない。もともとそんなことを考えたことがないのだから、イケメンのモデルはコミックスの中にしかない。その中では、イケメンというのはおおよそ鼻持ちならない、自己愛の固まりになっていたりする。少なくとも控えめを信条とするシンジにとって、参考になるとは思えないサンプルだった。

「やっぱり、難しいですね……」
「さすがに、こちらの方面でのアドバイスはできませんな。
 こちとら普通に歩いていると、三下のやくざに見られるぐらいですからね」

 メメの言葉に否定も肯定も返さず、シンジは注意することにしますとだけ答えた。三下のやくざの下りは否定して欲しかったのにと嘆きながら、それぐらいですよねとメメは話を締めくくることにした。目の前には、瑞光家の玄関がある。事前に連絡はしてあるから、トラブルとなることはないだろう。
 呼び鈴を押したメメは、インターフォンに向かって「ただ今帰りました!」と大きな声で帰宅を告げた。

「さて時間からすれば、瑞光のお嬢さんが帰宅されているはずですな。
 相当な美少女ですから、楽しみにしていてください」
「僕としては、面倒なことにならないのを願っていますよ」

 トラブルの種が見えるために、シンジとしては平穏無事に済ませて欲しかった。だがそれは、やはり自分を正しく理解できていないことになるのだろう。

 はあいと若い女性の声が聞こえてきたのだから、たぶん瑞光家の一人娘フジノが迎えに来るのだろう。いよいよですかと口元を歪めたメメは、一歩下がって玄関が開くのを待った。一応鍵は持っているが、両手が塞がっていることを口実に開けて貰うことにした。その方が顔合わせとして、突然感があってより楽しい。
 その意図が分かったシンジは、まったくと小さくため息を吐いた。見た目のことを言ったのはメメのくせに、自分はこうしていたずらに利用しているではないか。

「お帰りなさい、お疲れ様でした……」

 だが二人が予想したのとは、フジノの反応はいささか違っていた。まあ至って普通だったのだが、もう少し何かあってもと思っていたのである。それでも普通が悪いことではない、それを当然として受け止めたシンジは、初めて顔を合わせる礼儀として自己紹介から入った。

「今日からお世話になります碇シンジです。
 分からないところがあると思いますので、色々と教えて下さい」

 そこでにこりと笑えば満点である。当然そうしたシンジだったが、フジノからは特に反応が返ってこなかった。「そうですね」と普通の答えを返したフジノは、荷物を持ちますと“シンジ”に声を掛けた。

「いえ、これぐらいは大丈夫ですよ。
 ただドアを開けられませんから、先に行って開けて頂けるとうれしいんですが?」

 ここでもシンジは笑みは当然に絶やさない。狙ったわけではないが、大したものだとメメは内心感心していた。初めは冷静だと思えたフジノだったが、よくよく観察してみると緊張しているのが分かるのだ。しかもシンジが笑みを浮かべるたびに、その緊張がはっきりと表に現れてきている。無意識のうちに攻撃しているのだから、むしろその攻撃は効果的なのかも知れない。

「え、ええ、そうですね……」

 少し声が裏返りかけたフジノに、間もなく陥落かとメメは想像した。噂に聞く難攻不落のお嬢様が、ほんのわずかの会話で陥落の危機にある。さすがは碇家次期当主……あまり関係はないのだが、大いに感心したのだった。
 シンジ達の前を歩きながら、フジノは少し早口に話しかけてきた。とりあえずの取りかかりは、シンジ達の持っている荷物のことだった。

「ず、ずいぶんと買い物をしてきたんですね」
「ええ、生活をするための準備が全くなかったんです。
 タオルから揃えましたから、こんなに大荷物になってしまったんですよ」
「足りない物があるのなら、言って下さればこちらで用意しますのに」
「でも、自分の生活ですから、初めから甘えるのも良くないと思ったんですよ」
「そ、そう言うことは、あまり気を遣わないで下さい……
 碇の御当主様からも、シンジ様のお世話をするようにと言われていますから……」

 そう言う話しは、顔を見て話した方が良いよ。出来ないだろうなと思いつつ、メメは声に出さずにつぶやいた。なるほどここまでいい男になると、冷静沈着なお嬢様でも平常ではいられないと言うことかと。

「同い年なんですから、シンジ様というのは辞めて貰えませんか?
 それにそんな呼び方をされたら、何か自分がとても横柄な人間になった気がします。
 まあ好きに呼んでくれて良いので、何だったら呼び捨てにしてくれても構いませんよ!」
「そんなっ、呼び捨てだなんてなれなれしいことを……」

 過剰に反応したところを見ると、まんざらその願望がなかったわけではないようだ。もっともいきなり「シンジ」と呼び捨てする程図々しくはないと見える。「碇、さんで良いですか?」と恥ずかしそうに聞いてきた。

「まあ、ここには碇って言うのは僕しかいませんからね。
 だとしたら、僕はええっと、フジノさんでしたっけ?
 フジノさんと呼ぶことにしますよ」
「え、ええと、有難うございます……」

 感謝するところかい? と言うつっこみは我慢し、メメはこの先の成り行きをなま暖かく見守ることにした。すでに二人の勝負は決しているため、この先の興味はいつこの少女が我を忘れるかと言うところにある。たぶん母親も煽るだろうから、今日の夕食時には派手に自爆をしてくれるだろう。
 フジノの反応をおもしろがりながら、一方でシンジの普通の反応にメメは驚いてもいた。客観的に見れば、瑞光フジノはしっかりと美少女なのである。それにスタイルだって、同年代の中では良い方だろう。ちょっと綺麗にメイクをすれば、テレビに出ているタレントとも十分に勝負できる。それだけの少女を前に、年頃の男らしい反応が見られないのだ。

「お風呂っ!」
「お風呂がどうかしましたか?」

 部屋に入ったところで素っ頓狂の声を上げたフジノは、シンジの反応にすぐに慌てて言葉を言い直した。

「お、お風呂の用意が出来ています……
 長旅でお疲れでしょうから、先に入って貰ったらと母が言っていましたので……」
「お嬢さん、わざわざ住民用のお風呂を洗ってくれたんですか?」

 違うことを知ってはいたが、敢えてメメは間借り人としては正当な主張をした。そして「汚れていたから恥ずかしいなぁ」とわざとらしく照れて見せた。

「い、いえ、広い方が良いかと思って家族風呂の方なんです……
 あの、バスタオルとかは用意しますので……それから、汚れ物が有れば洗濯もしますから……」
「マミヤさんは、背中をお流したらと言わなかったかい?」
「そそ、そんなはしたない……」

 あらまあとメメはフジノの反応に目を見張った。まさかこの少女が、真っ赤になって照れるなどと言うシチュエーションがあるとは思っても見なかったのだ。それにはしたないと言いつつ、熱い目でシンジのことを見ているのである。「お願いできますか?」などとこの坊ちゃんが言わないことは分かっていても、言ってくれたら面白いことになるのにとメメは残念がった。
 そしてシンジは、メメが予想したとおり期待とは反対側のことを言ってくれた。

「忍野さん、忍野さんのような大人が僕たち子供をからかっては駄目ですよ。
 僕だって、同学年の女の子に背中を流して貰うなんて……恥ずかしくて耐えられませんからね」

 自重して下さいと言ったシンジは、「お風呂は後にする」とフジノに答えた。

「お心遣いには感謝します。
 でも、まだ荷物の整理とかしないといけませんので。
 スーツケースを開けないと、明日の着替えも有りませんからね。
 それに買ってきた物も整理しないと、今晩寝るところの確保が出来ないんですよ。
 床に転がって寝るのも慣れてはいるんですが、せっかくベッドが有るんですからそこで寝ようかなと」
「そ、そうですか……」
「勝手を言って、逆にご迷惑を掛けることになって申し訳ありません。
 ただ、本当にやらなくちゃいけないことが多くて……」
「でしたら、何かお手伝いできることはありませんか?」
「一応全部自分の物ですからね。
 それに、女の子に下着を見られるのはやっぱり恥ずかしいですから」

 そこで恥ずかしそうににこっと笑うのだから、狙っているだろうとメメは言いたかった。この見目の良いお坊ちゃんは、自分の笑顔がどれだけ女性に効果的に作用するのか。それを理解して使っているのだろうか。わざとだよなと言いたいのだが、そのあたり天然の疑いが捨てきれないのも悩ましいところだった。

「じゃあ坊ちゃん、俺が手伝いましょうかね?」
「女の子だと恥ずかしいですけど、おっさんだとなんか嫌って気がするんですけど?」
「あ〜、ま〜、そう言う答えが帰ってくると覚悟はしていましたがね。
 んじゃ、まあ、適当なところで声を掛けて貰えませんかね。
 間借り人仲間として、共同浴場とか洗濯場とかの説明をしますから。
 あとは、掃除とかの当番の話もしましょうか」
「そうですね、そのあたりから教えて貰わないといけませんね」

 それからとシンジは、何か手伝うことがあるかとフジノに聞いた。

「テーブルを拭くのとか食器を並べるのとか……なにか手伝うことはありますか?
 食後の洗い物とかでも良いんですけどね?」
「そ、そんなこと……き、今日は何もして下さらなくて結構です……」

 今日はどころか、明日からもだろうと。何もしなくて良いと答えたフジノに、メメはなま暖かい視線を向けた。「食器洗いを手伝って下さい」とでも言えば、二人仲良く新婚ごっこになるだろうに。何で言わないかなと思ったが、そんなことを考える自分がおかしいのかとメメは自分を見つめ直してしまった。

「ところでお嬢さん、そろそろ夕食の時間でしょう」
「そ、そうなんですけど、父が帰ってくるのを待った方が良いかと。
 で、でもですね、もしも碇さんがお腹がすいているのなら、母に言って準備しますけど……」
「お腹は空いていますけど、我慢できない程じゃありませんから。
 ですからお父さんが帰ってきてから、みんなで食べるのが僕も良いと思いますよ。
 下で手伝うことがないのなら、僕は荷物の整理をします。
 何もしなくて申し訳ありませんが、お父さんが帰られたら教えて貰えませんか?」
「ち、父が帰ったらすぐにお知らせしますっつ!」

 それでは勢いよく頭を下げたフジノは、そのまま猛烈な勢いで部屋から出て行った。ぴょこぴょこと跳ねたポニーテールが可愛らしかったのだが、本人はそんなことを意識する余裕もなかっただろう。シンジの部屋からでたフジノは、勢いそのまま自分の部屋に逃げ込んだ。そしてベッドに頭からダイブをした。

「な、なに、反則過ぎる……」

 少し熱を冷まさなければ、下に降りていくことも出来ない。だから自分の部屋に逃げ込んだのだが、シンジの笑顔が目に焼き付いて離れてくれない。なんであんなに格好良いのよと文句を言いながら、その顔はしっかりとにやけていた。

「あ、あの人と毎日同じ屋根の下で暮らすのって……」

 朝起きて挨拶して、朝食を一緒に食べて、洗面所で顔を合わせて学校には一緒に行って……何かの間違いで、着替えているところに出くわしたりしたりしたら……学校でどんな噂を……学校……

 そのキーワードで、フジノは重要なことを思い出した。私立豪龍寺学園は、友綱オウガが理事長に納まるガチガチの学校なのである。そこに宿敵碇が入学しようものなら、全力で叩きつぶしに掛かるだろう。現にソウシも、学内への手配が終わったことを口にしていたではないか。それを知って入学させるとは言え、いじめなどという目に遭わせて良いものか。あの笑顔が曇るような真似など、断じて許して良いはずがない。そして叶うなら、自分にだけ笑みを向けて欲しい。

「私の目が黒いうちは、絶対シンジ様に手を出させたりしません!」

 たとえ相手が、ソウシやマドイでも容赦しない。教師相手だろうと、遠慮なんぞするものか。自分の恋路を邪魔をする者は、徹底的に排除してやる。それから……

「それからと言えば、これから夕食をご一緒するのですよね。
 今日はすき焼きですから、私がシンジ様に取り分けて差し上げて……
 お肉はお好きですか、でも野菜も食べないと体に悪いですよって……きゃあっ!」

 新婚さんみたいと一人で盛り上がったフジノだったが、すぐに重要なことに気が付いた。今更見直すまでもなく、自分のしている格好が色気がなさ過ぎるのだ。いや正確には、一部この格好を好む層もいるのだろうが、少なくとも自分が納得いく格好ではなかったのである。

「こ、これでは、私をよく見て貰うには不足です、不足すぎます!」

 いけないと夏物のセーターと短めのパンツを脱いだフジノは、クローゼットの中から何着かワンピースを取りだした。自分としての売りは、シックさを強調する濃い赤のワンピースである。ちょっと丈が長めなのは、家の中なら目立つことはないだろう。あとはスカートの裾から見えるソックスを新しいのに替えれば、準備は万端……と鏡の前で胸元にワンピースを当てたのだが、よくよく見てみたら下着が学校用だった。

「画竜点睛を欠く……ではいけませんね」

 今度は引き出しを開けたフジノは、中からちょっと刺激的なパンツとブラを取り出した。別に勝負下着など用意する歳ではないのだが、買い物に行ったときに「良いな」と思って買っておいたとっておきである。

「まさか、こんなに早くこれを着る時が来るとは……」

 人生は分からない。うんと表情を引き締めたフジノは、躊躇うことなくパンツとブラを外した。そしてまだ真新しいパンツに足を通し、鏡の前で一度ぐるりと回って自分の姿を確認した。

「大丈夫、おかしな所はどこにもないわね……」

 だったらと、真新しいブラをつけて、胸の形を整えた。少しカップがあまり気味な気がするが、それはこの際考えないことにした。そしてもう一度、鏡の前で全身をくまなく確認した。

「よしよし、なかなか良いじゃない!」

 それではと、濃い赤のワンピースを頭からかぶり、何度も鏡の前で自分の姿を確認した。

「髪の毛を整えるのと……ファンデーションと口紅もつけた方が良いわね……」

 そうしたらどうなるのか、それを頭の中でシミュレーションし、くどくならない化粧をすることにした。どっかりとドレッサーの前に座り込み、引き出しから真新しいファンデーションを取り出した。気をつけなければいけないのは、飾り立てすぎないこと。出来るだけさりげなく、そして肌の白さを引き出すように、丁寧にフジノはファンデーションを広げていった。

「こんなものかしら……」

 塗りむらでもあったりしたら、はっきりと興ざめになる。それを念入りに確認してから、次はリップに取りかかる必要がある。こう言うときにはピンクのグロス系かと、これもまた真新しいリップを取り出し、ゆっくりと上唇から塗り広げた。光沢のあるピンクが、唇に濡れたような光沢を与える。これから食事をすることを考えれば、いかにも意味のないリップなのだが、一食抜いても綺麗に見せることの方が重要だ。リップの乗りを確認したところで、フジノは髪の毛のブラッシングに取りかかった。せっかくここまで纏めたのだから、ポニーテールではバランスが悪すぎる。さらさらのストレートヘアーを強調してこそ、この格好に初めて意味が出てくるのだ。
 スムーサーをスプレーし、ヘアアイロンで丹念に癖になった分を伸ばしていく。何度も鏡で確認しながら、フジノは丹念に髪の毛を整えた。ここまで来たら、一点の曇りもあってはならない。壮大な計画の第一歩、そこから失敗するわけにはいかないのだと。

「う〜ん、これで問題ないと思うけど……」

 そして取りかかってから30分ほど過ぎ、フジノの準備は一応の完成を見た。ただ問題は、自分ではまとまったと思う装いが、他人から……本当はシンジなのだが……見ておかしくないのか。それをちゃんと確認する必要があった。だからフジノは、最後の確認を母親に頼むべく、部屋を出てキッチンへと降りていったのだ。ここまでおよそ1時間、それがシンジを玄関に迎えに出てからの経過時間だった。
 ただ単に玄関に迎えに出ただけなのに、帰ってくるのに1時間と言う時間が経過していた。だが母親のマミヤは、それを当然のこととして受け取っていた。だからすっかりと装いの変わった娘に驚くことなく、グッドとばかりに親指を立てて迎えてくれたのだ。

「当然、下着も替えたのよね?」
「前に買っておいた奴にね……」

 それでこそ我が娘と喜んだマミヤは、ぐるりとフジノの周りを回って最後の確認をした。ここまで来て、おかしなタグとか着いていたらぶちこわしである。いきなり訪れた勝負なのだから、いくら確認してもしすぎることはないだろう。

「どう?」
「さすがは我が娘、完璧に決まっていると誉めてあげるわ!」
「良かったぁ……」

 心底ほっとする娘に、言ったとおりだろうとマミヤは確認した。その問いかけに、「言葉は無力だ」とフジノは真剣に言い返した。

「「百聞は一見にしかず」……今日ほど、それを実感した日はなかったわ」
「そうね、格好良いなんて陳腐な言葉じゃ、シンジ君を説明することは出来ないわね」
「私、御当主様に感謝しないといけないわ……」
「そうね、碇家を支えてきて本当に良かったわね」

 うんうんと頷いていたら、玄関からチャイムの音が聞こえてきた。新聞の集金や郵便が来る時間ではないから、一家の主タクマが帰ってきたのだろう。「お父さんを驚かせてあげなさい」と言う母親の薦めに従い、フジノがタクマを迎えに出ることにした。驚かせるのは冗談にしても、この格好に慣れさせておく必要はある。

 瑞光家の主、タクマにとって「帰宅」と言うのは大きなイベントとなっていた。普段なら当たり前のこの行為も、今日という日に限って特別なものとなっていたのだ。法律事務所の仕事を抜けて帰ってきたのは良いが、いざチャイムを鳴らすところで何度も躊躇ってしまったのだ。

(もしも、家の中が修羅場になっていたらどうしよう……)

 いくらなんでも、そんなことになるはずはない。頭の中では思っていても、いざその場になるとどうしても自信がなくなってしまう。だから早めに家に着いたのにもかかわらず、チャイムを押すのに10分という時間が掛かってしまった。よっぽど事務所に戻ろうと思ったが、一家の主が逃げ出しては面目が立たない。ためらい傷ならぬためらいチャイムを何度も繰り返した後、ようやく家族に帰宅を告げることが出来たのだ。南無三……鬼が出るか蛇が出るか。覚悟は決めていても、やはり結果を見るのは恐ろしかった。
 だがチャイムの音から少し遅れ、「は〜い」と言う明るい声が聞こえてきたことで、少しだけ肩の荷が下りた気がしていた。聞こえてきたのは、娘の声に違いない。あれだけ明るい声が出せるのなら、恐れていた惨事は起きていないのだろうと。

(いや、まて、何事もなく取り繕っていることはあり得るな)

 そして死体は今頃和歌山湾に沈められて……そんなバカなと思って首を振ったら、お帰りなさいと玄関のドアが開かれた。そこでタクマは、しっかりと現実を捉えることが出来なかった。

「あ、ああ、ただいま帰った……」

 口ではそう答えながら、頭は全く働いていなかった。いや働いてはいたのだろうが、意味のある働き方をしていないというのが正解なのだろう。

(フジノのやつ、これから外出するのか?)
(しかしこの格好、まさかこれからデートに出かけるとでも言うのか?)
(しかし、フジノはこんな格好をしたことがあったか?)
(なんで化粧までしているんだ……)

 頭の中をぐるぐると、いろんな事が駆け回る。碇家跡取りを見て、ついに友綱に嫁ぐ決意を決めたのだろうか。だからこんなに機嫌が良く、お出かけの格好をしているのだろうか。
 ほとんど思考停止した父親に、「シンジ様が到着されました」とフジノは重要事項を伝えた。その言葉に、「シンジ様」と言う呼び方に、そしてその呼び方に含まれる、どうしようもない女の媚びに気づいたタクマは、次期御当主がかとようやく現実に復帰した。

「はい、今ご自分のお部屋で荷物の片づけをされています。
 お父様が帰られたら、夕食にしようと言う事になっているんですよ。
 シンジ様もお腹が空かれていたんですが、やはり家長の帰りを待つ必要があると仰有って下さいました」
「つまり、俺がみんなを待たせていると言うことか?」
「はい、ですからお父様も急いで頂きたいのですが……
 ですが、そのようなお仕事の格好ではいけませんし、それに少し汗くさいですね。
 お風呂が沸いていますから、一度身を清めてから食卓に来て下さいな。
 それからいつもの寝間着は駄目ですから、よそ行きを用意しておきますからね」

 風呂には入れは理解できても、よそ行きを着ることは理解の範疇から外れていた。はあぁっと聞き返したタクマに、総ては初めが肝心なのだとフジノは注意した。

「ちゃんとお母様も、よそ行きの格好をしているんです。
 高級レストランに行くつもりで、しっかりと身だしなみを整えて下さいね」
「家で食べるのにか?」

 なんでと聞き返したタクマに、娘に恥を掻かせるつもりかとフジノは言い返した。そのつもりがないのなら、さっさと言われたとおりに風呂に入ってくるのだと。
 さすがのタクマも、フジノの剣幕には敵わなかった。仕方がないとおとなしく、フジノの言葉に従うことにした。



 瑞光家家長瑞光タクマの帰宅は、当然のように忍野メメの知るところとなっていた。予想される瑞光家のどたばた具合を考えたメメは、跡取り坊ちゃんにも相応しい準備をさせる必要があると考えた。放っておいても様になるのは確かだろうが、こうしたことは徹底的にやっておいた方が面白い。だからメメは、早めにシンジに準備をさせるべく、ドアをノックしたのだった。

「坊ちゃん、入りますよ」
「あああ、忍野さん、瑞光さんが帰られたんですか?」
「まあ、そう言う所なんですがね。
 どうやらお嬢さんが、お風呂にはいるように勧めたようです。
 ですから、食事まではもう少しだけ時間が掛かるのですが……」
「掛かるのですが……どうかしました?」

 歯に何か挟まったようなメメの言葉に、すぐにシンジは反応し、どういう事かと聞き返した。

「そろそろ着替えをされた方が良いんじゃないかと言いに来たんですよ。
 その格好は、イタリアを出てこの方30時間以上しているんですよね。
 色々とほこりっぽいと思いますから、新しいのに着替えた方が良いんじゃないかとね」
「そう言うのはお風呂に入ってからと思っていたんですが……
 確かに、ずっと着たきりになっていますね。
 確かに忍野さんの言うとおり、新しいのに着替えるのが礼儀なんでしょうね……」

 自分の勧めに納得したシンジに、メメはもう一つと注文を出してきた。

「そのですな、坊ちゃんなら何を着ても似合うのは分かっていますよ。
 それでもですね、ここはTシャツとスゥエットのズボンというのは遠慮して頂きたいんです。
 あまり仰々しい格好をしろとは言いませんが、休日にお出かけする程度に纏めてはいただけませんか?」
「難しいことを……と言いたい所なんですけどね。
 まだ気楽な格好を買っていないんで、逆にそれぐらいしか着替えがないんですよ。
 そうだなぁ、普通のリストランテに行くような格好で良いですか?」
「リストランテ……すみません、どんなところなのか私にゃ分からないんですが……」

 そう言う洋風なことを言ってくれるなと言うメメに、単なるレストランだとシンジは笑った。

「高級店じゃなく、気軽なお店に行くぐらいで良いんですよね?
 一張羅には手をつけてありませんから、そっちを使うって言う手も有るんですが……」
「さすがに、家の中でそれはないと思いますからね。
 気軽なレストラン程度で纏めておいて下さいな」
「そうですか、じゃあ、これぐらいかな……」

 開いたスーツケースの中からストライプのシャツを取りだしたシンジは、着ていたシャツをのボタンを外した。下着を着ないところは、さすがは若者とメメは感心した。そして次にメメは、シンジの鍛えられた体に感心させられた。ダイエットしたボディビルダーではないのだから、筋肉ムキムキということはない。だが引き締まった体は、よけいな脂肪が全く付いていないように見えた。しかも単なるヤセではなく、胸元や二の腕を見ればしっかりと筋肉が付いているのが分かる。腹筋が割れているところを見ると、本当に鍛えられているのだと感心させられたのだ。

「あの、男同士でもじっと見られると恥ずかしいんですが?」

 シンジの言葉に我に返り、メメは「申し訳ない」と頭を掻いた。

「いえね、坊ちゃんの体がずいぶんと鍛えられているなぁと感心したんですよ。
 あちらでは、何かスポーツをされていたんですか?」
「スポーツですか、特にこれというのはやっていないんですけどね。
 まあ、同年代が多くいたから、暇なときには遊びで色々なスポーツはしましたよ。
 サッカーとかラグビーとか、クリケットとか……変わり種としては乗馬やフェンシングもしましたね」
「最初の二つは分かるんですがね、クリケットや乗馬、それにフェンシングですか……」
「場所がヨーロッパですからね。
 アメリカだったら、アメフトや野球、バスケあたりになったんでしょうね。
 ああそれから、兵器に乗っていた関係で軍事教練も受けていますよ。
 模擬戦闘レベルですけど、かなりしごかれたんですよ。
 そんなこんなで、太る暇がなかったというか……周りの目が厳しくて怠けられなかったというか」
「だから、腕っ節が強いという話しに繋がるわけですか。
 さすがにそこいらの高校生じゃ、軍人さんには敵うはずがありませんな」
「スポーツとしての武道なら勝負になると思いますよ。
 僕に教えてくれた人はちょっと極端で、ほとんど反則ばかり教え込んでくれましたから」

 人を殺すことを目的としているのだから、正々堂々と言う考え方など存在していない。しかもシンジに格闘を教え込んだキャルは、ある意味人殺しの専門家だったのだ。だから生き残るためには、確実に相手を仕留めなければいけない。それを前提に、シンジに格闘他を教え込んでいたのだ。メメの手前模擬戦闘と言ったが、実際にはシンジ自身その手を血に染めていたのである。

「だったら坊ちゃん、学校では自分が強いことを誇示しておいた方が良いですよ。
 その方が、よけいなトラブルや暴力沙汰に巻き込まれにくくなる」
「でも忍野さん、力ずくでは却って勝てないって言っていませんでしたっけ?」
「まあ普通の学校では、暴力を振るった方が悪者になりますからな。
 いくら正当防衛でも、それを証言してくれる人がいなければ悪者にされてしまう。
 そうじゃなくても、ちくちくと精神的に追いつめて来るというのは有りますな」
「でも、暴力沙汰を防ぐだけでも意味があると言うことですか……」

 ふうっとため息を吐いたシンジは、わざわざその学校に入る意味が分からなくなったと、車の中での話しを蒸し返した。

「僕自身の迷惑というのもありますけど、いじめをする側も不幸だとは思いませんか?
 せっかくの高校生活、もっと前向きで楽しいことに使いたいと普通は思うでしょう?
 いっそのこと友綱……でしたっけ、そこに僕が乗り込んで話をつけましょうか?」
「まあ、時期尚早と言っておきましょうか。
 それに瑞光のお嬢さん、学園では生徒会長をされていますからね。
 その威光を借りれば、学園内のいざこざを押さえ込むことも出来るでしょう」
「フジノさんに迷惑を掛けるのもあまり気が進まないんですけどね……」
「まあ、生徒のことは生徒同士で解決する……そう考えておいて下さい」
「なんか、学校に行く前から気が重くなるなぁ……
 いっそのこと、編入試験で零点を取ってやりましょうか?」
「たぶん、白紙で出しても合格にしてくれますよ。
 何しろ飛んで火に入る夏の虫、せっかく網に掛かった獲物を逃がすような真似はしないでしょう」

 覚悟して下さいと笑うメメに、ため息を吐きながら来るんじゃなかったとシンジは零した。

「と言っても、今更どうにもならないんでしょうね。
 で、ここまで準備は出来ましたけど、ネクタイしたほうが良いですか?」
「そうですねぇ……」

 目の前の美少年を上から下までじっくりと鑑賞……観察したメメは、絞めない方が良いと助言した。光沢系の黒のジャケットスーツに、同系色のストライプのシャツ。確かにネクタイを締めた方が引き立つのだが、そこまでするとやりすぎに思えてしまった。

「坊ちゃんの場合、少し手を抜いたぐらいでちょうど良いようですな。
 と言うことで、ネクタイは無しと言うことにしましょうか?」
「じゃあ、僕の準備は整いましたが、忍野さんはどうするんですか?
 人にこんな格好をさせておいて、まさか自分はそのままとか言いませんよね?」

 そのつっこみは、メメとして想定外の物だった。今回の件に関して、自分は全くの部外者のつもりでいたのである。だからめかし込むなどと言うのは、全く想定だにしていなかった。だが目の前の美少年は、今更逃げられませんと迫ってくれた。

「僕が強いのを確かめてみますか?」
「そんなことをしたら、せっかくめかし込んだ服がしわになっちまう。
 な、だから坊ちゃん、バカなことを考えるのはやめにしましょうぜ」
「大丈夫ですよ、この程度で着崩れするほど弱くありませんからね。
 なあに、すぐに、着替えた方が良いなぁって気持ちになりますから」

 けして自分は弱くないつもりでいた。見かけからは分かりにくいかも知れないが、修羅場もいくつかくぐってきた誇りもある。だから“たかが”高校生に脅されて、びびるなんて事はない……と、たった今し方まで思っていたのだが……思っていたのだが、それはとんでもない勘違いだと知らされた。修羅場をくぐってきただけに、相手の身のこなしが分かってしまうのだ。

「坊ちゃん、実戦経験は無いって話しでしたよね?」
「研究所に入ってからなら、確かに模擬戦闘だけですけどね。
 でもネルフ時代は、いつも命を賭けていたんですからね。
 死にかけたことなら、そうですね、片手じゃ足りないんじゃありませんか?
 で、おとなしく着替える気になりましたか?」
「あたしゃ、よそ行きの格好なんて持っていないんですけどね……」

 勘弁して下さいと泣きを入れたメメに、だったら一番綺麗な格好に着替えればいいとシンジは指示した。

「よれよれのばかりじゃないんでしょう?
 だったら、それを着てくれば良いんですよ。
 それもやだって言うのなら、僕の荷物から見繕って着せますけど?」
「さ、さすがにそれは、勘弁して下さいな」

 目の前の少年のように、イケメンが着るから似合う服なのだ。それを自分のようないかがわしさ満点の男が着ようものなら、ちんぴらのヤクザ以下になってしまう。瑞光家全員から、軽蔑ではなく、可哀想な物を見る目を向けられることだろう。それ以前に、どう考えても手足の長さが違いすぎる。

「どこかから一張羅を探してくると言うことで勘弁して貰えませんかね」
「まあ、人に不快感を与えない程度、清潔な格好をすればいいと思いますよ。
 たぶん、誰も忍野さんの格好を気にしないと思いますから……」
「それを理解していて、どうして私にまで着替えを要求しますかねぇ……」

 再び泣き言を言ったメメに、最近性格が攻撃的になったとシンジは笑った。だから言われっぱなしで終わらせるつもりはないのだと。

「このあたりは、昔の報告書だけを頼りにすると間違えることになりますよ。
 色々と鍛えられたお陰で、少しだけ積極的にはなれたと思いますからね」
「坊ちゃんとのつきあいでは、気をつけることに致しましょうか」

 くわばらくわばらとつぶやきながら、メメはシンジの部屋を出て行った。自分程度の着替えであれば、さほど時間が掛かることはないだろう。それでも瑞光家家長の準備に遅れるわけにはいかない。何事にも、余裕を持って当たればアクシデントを避けることも出来るという物だ。

 メメが出て行ったところで、シンジの中の天使と悪魔が五月蠅く騒ぎ出した。きゃんきゃんと言う中身を要約すると、「嘘つき!」と言うところになるらしい。特に赤い髪の悪魔に言わせれば、「いつの間に前向きで積極的になったのだ?」らしい。

「だから“少しだけ”って言ったつもりなんだけどね。
 しかしなぁ、気をつけないとこの家も居心地が悪くなりそうだね。
 だから、頂いてしまえ……なんて下品なことを言わないように。
 別に相手に対する拘りはないけど、爺の狙い通りになるのも癪に障るしね」

 シンジの答えに、「爺の狙い?」と天使と悪魔が一斉に首を傾げた。碇ドッポとの話しは、一緒に聞いていたのだからもれなく聞いたはずだ。その話しを聞いた限り、特に明確な狙いがあったようには見えなかった。

「別に、あまり難しい事じゃないよ。
 誰とでも良いから、結婚して碇の名を残せば良いって言っていただろう?
 その“誰”に当たる人のことを言っているんだよ。
 たぶんあのじいさんは、フジノって子を候補の一人と考えているんだよ。
 彼女だったら、碇の事情や背負う物を知っていそうだからね。
 僕があてにならないのなら、嫁をあてにしようって腹なんじゃないかな。
 あとは友綱って人の所に女の子がいたら、たぶんその子も候補だと考えているんだろうね。
 ずっと碇と争ってきたのなら、一番碇を理解しているのもその友綱なんだろう?
 もっとも、出会いのきっかけを作ったと言う意味でしかないのかも知れないけどね。
 たとえそうなったとしても、僕にとってあまり大きな問題じゃないしね」

 結婚相手のことを“大きな問題じゃない”と言い切るシンジに、どうしてと再び天使と悪魔が疑問をぶつけた。これから生涯を供にする相手なのだから、その選択は非常に大きな問題に違いない。だがシンジは、あまり拘る事じゃないと寂しく笑った。

「綾波でもアスカでも無いんだよ。
 二人以外の人に、僕はそれほど価値を見いだすことが出来ないんだ」

 だから拘らないと笑うシンジに、赤い髪の悪魔が雷を落とした。17のガキが、いっぱしに人生を悟ったようなことを言うのではないと。結婚を“夢”と言うのはおかしいが、そこまで恋愛に醒めてくれるなと言いたいのである。そんな考えは、今までで一番後ろ向きの考え方だと糾弾したのだ。

「女の体に興味があって、えっちすることに興味があって……その時には興奮して!」

 熱い思いがあっても良いはずだ。赤い髪の悪魔は、どうしてそんな冷え切ったことを言うのかと繰り返した。それでは一緒にいても、少しも楽しい気持ちになれないだろうと。

「だけど、僕は綾波やアスカを抱きしめた事がないんだ。
 そしてその思いは、一生叶うことがない思いなんだよ。
 だから、みんなのことを忘れて……熱くなることが僕には想像できないんだ」

 ベッドに座っていたシンジは、そう言ってごろりと後ろに倒れた。蛍光灯に照らされた、少しひびの入った白い天井が目に入った。

「知らない天井も、これが何度目だろうね……
 たぶん、すぐにここも僕の居場所では無くなってしまうんだろう」

 そして一生居場所を見つけることが出来ない。漠然とした、そして揺るがない未来として、シンジは居場所のない自分のことを考えていた。

「だから、周りの納得するところで手を打つのも悪い事じゃないと思うんだ」

 とても後ろ向きのことを話したとき、メメが自分を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら瑞光家家長の準備が整い、食事という儀式に立ち向かうときが来たようだ。勢いをつけて起きあがったシンジは、外向きの顔を作って部屋から出て行ったのだった。



 8人用の食卓の一番端に座らされたタクマは、いつもとは違う不自然な席配置に苦笑を浮かべていた。自分の隣に妻が来るのは、夫婦なのだからおかしくないだろう。そして碇家次期御当主様が正面に来るのも、家に迎えたという意味を考えればおかしな事ではないのかも知れない。だがその次期御当主様の隣に、愛娘がめかし込んで座るというのはどう考えればいいのだろう。

(あれは、新婚の頃こいつの実家に行ったときのことだったかな)

 記憶の井戸を掘り起こすと、かつて自分も同じような席に座ったことがあったはずだ。それが新婚時代の事だと思い出し、そこまでするかとタクマは呆れ返った。とても素直な見方をすれば、日本の生活に慣れていない次期御当主様の世話をする。そう言う考え方も出来ないことはない。だが彼が日本を開けていたのは、わずか2年ほどのことなのだ。世話が必要なほどのギャップが有るとは考えられない。
 だが彼の妻も娘も、そうすることが当然のように振る舞ってくれた。しかもよけいなことは言わないようにと、お風呂上がりにしっかりと釘を刺されてしまったのだ。ちなみに“よけいなこと”と言うのは、娘に手を出さないようにと言う否定的なことだけではなく、娘をよろしくというのも“よけい”だと言い切られた。だが情けないのは、「酔い潰すのはあり」と力強く言われたことだろう。家庭内のことに法律云々を持ち出すつもりはないが、法律関係者に未成年の飲酒を唆すのはいかがな物だろう。

 漏れ出るため息を押さえ込んだタクマは、一体何が起きているのだと碇家次期御当主の登場を待った。妻と娘にここまでさせるのだから、相当なイケメンが登場するのだと覚悟を決めていた。
 だがタクマは、すぐに自分の想像力が不足していたことを思い知らされた。階段から足音が聞こえてきたとき、妻と娘が緊張するのは気が付いた。そこまでするかと笑いかけたのだが、続いて現れた少年にその笑いが驚愕に変わってしまったのだ。今まで色々な依頼者に会ってきたし、その中には芸能関係者も数多くいた。だが今まであった誰よりも、今目の前に居る少年は“美しい”のだ。しかも女性的な美しさとは違い、力強さも兼ね備えているのが分かってしまう。細身に感じる体だが、ひ弱さはかけらも感じられなかった。極端な話し、男であるタクマでさえもその少年……碇家次期当主に見とれてしまったほどだった。

「ご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません。
 今日からお世話になります、碇シンジと言います」

 タクマの顔を見たシンジは、当然のように初対面の挨拶をした。だがタクマからの反応がないのに気づき、苦笑と供に「瑞光さん」ともう一度呼びかけた。そこで現実に引き戻されたタクマは、少し慌てて椅子から立ち上がり、「瑞光タクマです」と少し卑屈ともとれる返事をしてしまった。

「繰り返しますが、これからよろしくお願いします」
「こ、こちらこそ、よ、よろしくお願いします。
 き、今日は粗食ですが、シンジ君の帰国を祝ってすき焼きにしましたよ」
「すき焼きですか……初めてですので楽しみですね」

 それでと、シンジは自分の席がどこかを探した。不自然に空いているフジノの横、タクマの前というのはあるが、いきなりそこに座るのは図々しいという物だろう。そうなると、お膳が用意されているのは一番端のお誕生日席、全員から一番遠い場所となる。
 だがそこに座ろうとしたシンジに、「ボケは辞めましょう」とメメが肩を叩いた。

「でも、そっちはビールとコップがおいてありますよ。
 僕は未成年だから、僕の席にお酒が用意してあるとは思えませんからね」
「それでも、そこに座るのが次期御当主様の役目なんですよ。
 改まった席での食事に、お酒というのはどこの世界でもつきものなんですよ」

 ささとシンジを指定席に押し込んだメメは、何事もなかったかのように端っこの席に座った。自分用のコンロが無いところを見ると、今日は同じものを食べさせて貰えるようだ。こんな所にも次期御当主のお零れがあるのかと、メメは心の中で喜んでいた。
 自分の席に座ったシンジは、すぐに隣のフジノの格好に触れた。こうしたところは絶対に忘れるな、天使と悪魔にくどいほど説教されたことである。

「わざわざ着替えたんだね、なかなかよく似合っていると思うよ」
「し、碇さんに合わせた方が良いと思いましたので……」

 いきなり誉められたことで、フジノは完全に舞い上がってしまった。そのせいで、卵を割ろうとして叩きつぶす体たらくだった。

「えっ、あっ、あれっ……」

 つぶれた卵に狼狽したフジノを、すかさずシンジがフォローした。すぐにおしぼりでフジノの手を拭き、つぶれた卵は入れ物ごとマミヤに手渡した。

「すみません、替えをいただけますか?」

 それを受け取ったマミヤは、普段にない素早さでキッチンへと駆け込んだ。ばたんばたんと二度ほど扉の開閉音が聞こえたと思ったら、すぐにマミヤは新しいお椀と卵を持って現れた。それを受け取り、シンジはあっさりと卵を割り、自分のお椀へと入れたのだった。そしてぎこちない動きをしているフジノの代わりに、彼女の卵も割ってあげた。それだけではなく、自分の箸でかき混ぜるというサービスまでしたのだった。

「肉や野菜は、直接溶き卵の中に入れれば良いんですよね?」
「そうよシンジ君、出来たらフジノの分も取ってあげてくれないかしら?」
「ええ、構いませんよ。
 ええっとフジノさん、何か嫌いな物はある?」
「い、いえ、何でも食べられますので……」

 たぶん味など分からないだろうな。緊張の極限状態にあるフジノに、ご愁傷様とメメは同情した。坊ちゃんが着替えた彼女を誉めたことは、男として当然の行為、そして礼儀でもあっただろう。ただ問題は、その破壊力が有りすぎただけのことだった。
 それにしても洗練されている。それはシンジの動きに対するメメの感想だった。たかが卵を割る動作でも、とても綺麗にこなしてくれるのだ。箸の使い方も綺麗だし、動作に雑なところが全く見られない。まともな時のフジノを知っているメメだが、所作の洗練され方ではシンジの方が遙かに上回っていた。物が違いすぎる、嫉妬するより憧れてしまう相手だとメメは分析した。

 碇シンジに関する報告は、ネルフ時代の物を含めて手に入れていた。その報告を信用する限り、人見知りが強く社交的ではないと言うことになっている。だが瑞光家に現れた碇シンジという少年は、とても社交的に楽しい会話をしてくれた。そのお陰か、隣に座った瑞光家の一人娘の緊張も次第にほぐれてきていた。

「オートバイでアルプスを越えるじゃないですか。
 と言っても、別に頂上を越える訳じゃないですよ、
 ぐる〜っと迂回していくんですが、それでも空気が薄くなるんですよ。
 そう言うときは、ヘルメットをとってこんな具合に口をぱくぱくとするんです。
 でもそう言う時って、口だけじゃなくて目まで大きく開いちゃって……」

 そう言って、めいっぱい目を見開いて口をぱくぱくと動かしてくれるのだ。イケメン、美少年のどちらでも構わないが、バカなことをしてもそれが崩れないのは大したものだと思う。

「それで走り出すと、どうしても走り続けてしまうんですよね。
 だから給油するとき以外は止まらないし、その時だってほとんど休息しないで走り出してしまうんです。
 だから夜にホテルに着くと、しっかりとがに股になって歩いちゃうんです。
 そんなことを、イタリアに着くまで繰り返していましたね。
 観光するって言ったけど、結局全部ヘルメット越しに見ていましたよ。
 そうするとどうしても視界が狭くて、アルプスも大したこと無いなぁって思えたりして……」
「イタリアですか、私も昨年ローマに行ったんですよ。
 バチカンとかを見学してきたんです」
「ローマかぁ、ローマはほとんどホテルにいたから観光していないんですよ。
 日本に帰る準備をしなくちゃいけなかったから、着替えとかの手配が多くて」
「でも、その後にミラノに行ったんですよね?」
「着替えの手配をしたとき、ホテルのブティックの人と仲良くなって……
 時間があるのだったら、ちょっと協力して貰いたいことがあるって言われたんですよ。
 協力の代償がミラノ観光へのご招待と言うことなので、せっかくだからと好意に甘えることにしました。
 まあ何事も経験かなと思ったって言うのが大きいですね。
 デザイナーのコンテストみたいな小さなショーにもモデルで出ましたしね。
 そのお陰で、ミラノを中心に活躍するデザイナーの人たちと知り合いになれましたよ。
 だから持って帰ってきた荷物は、その人達からのもらい物ばっかりなんです。
 本当はもっとあったんですけど、さすがに奇抜すぎて辛いのもありましたから」

 シンジのセンスを知るメメは、奇抜という言葉に対してすかさず「たとえば?」と疑問を投げた。

「そうですね、ほとんどシースルーのジャケットパンツとか。
 ポンチョみたいになった服とか……
 一応全部袖を通して確認したんですけど、さすがにこれはないかなって奴が多くて。
 ショーで着るのならいざ知らず、とてもじゃないですけど街中では着られませんね」
「碇さんが名前を挙げた人たちって、日本でもとても有名ですよ。
 すごいんですね、そんな人たちとお知り合いになるだなんて……」
「半分以上は、クラウディア・マルコーニって言うデザイナーのおかげですよ。
 その人の手伝いをするためにミラノに行ったから、色々な人と知り合うことが出来ました」
「坊ちゃん、そのクラウディアという人が、22歳の女性だと説明すべきと思うんですがね」
「まあ、デザイナーの卵ですから、まだ若いってのもおかしくないと思いますよ。
 一応スポンサーが付いたので、僕も責任を果たせたかなぁって思っているんです」
「その人って、綺麗な人なんですか?」
「第一印象は野暮ったかったんですけどね、短期間で見違えるほどあか抜けしましたよ。
 有名になったら、日本に遊びに来るって宣言されました。
 その時は、奈良とか京都とかを案内しないといけないんでしょうね……
 もっとも、その時相手が覚えてくれていたらですけど」

 たぶんそんなことはないだろうと笑うシンジに、十分あり得ることだとフジノは警戒した。野暮ったい女性があか抜けるには、それなりの理由が必要となる。シンジが居る前で変わっていったというのなら、その理由というのも想像が付くという物だ。ただそんなことをバカ正直に言う必要はない、だから「そうですね」と相づちを打ったのだった。

「ところで坊ちゃん、編入試験の対策をお願いしなくて良いんですか?」

 話しが適当に進んだところで、メメはフジノへの援護射撃と言う名のちょっかいを入れた。このあたり、フジノが生徒会長にして、成績優秀者という背景があるからに他ならない。だから「勉強を教えて貰う」と言うのは、立派な口実となってくれるのだ。そしてメメが撒いた餌に、最初にマミヤが食いついた。それが良いと真剣に頷いたマミヤは、「教えて差し上げたら?」とフジノに水を向けた。

「シンジ君、家のフジノはこう見えても豪龍寺で生徒会長をしているんですよ。
 それに成績だって、学年ではいつも1番を争っているぐらいなんです。
 だからフジノなら、きっと編入試験へのお手伝いが出来ると思いますよ」

 ねえと話しを振られたフジノは、顔を赤くして「私で良ければ」とシンジの顔を伺った。居間で勉強しない限り、どちらかの部屋でと言うことになる。準備からすれば、自分の部屋の方が都合が良いだろう。となると、初めて男性を部屋に入れることになるのだ。目的を考えれば、恥ずかしいというのは正常な思考なのだろう。もっとも恥ずかしいという以上に、うれしいと言う方が強かったのだが。

「そうして頂けるのはありがたいのですけど、とりあえず参考書を貸して貰えれば十分ですよ」
「坊ちゃん、そう言う野暮なことはこの際言いっこなしですよ。
 ここはですね、お嬢さんに全面的に教えて貰うというのが正しい答えと言う物です!
 遠慮なんて他人行儀なことは、お互いのためにならないと思って下さいな」

 ねえと話しを振られたマミヤは、その通りと大きく頷いた。

「本当に忍野さんの言う通りよ。
 シンジ君、こう言うときは遠慮しないで家の娘を頼って良いの。
 それが一つ屋根の下にすんでいる家族というものよ」
「でしたら、お言葉に甘えることにします……
 フジノさん、早速今晩からお願いしても良いかな?
 編入試験まで日にちがないから、早めに準備しておく必要があるからね」
「こ、今晩からですかっ!」

 素っ頓狂な声を出したことを恥じたのか、すぐに身を小さくしたフジノは、小さな声で「喜んで」と答えた。そんな娘の姿に複雑な物を感じたタクマは、疲れていないのかとシンジの体を案じた。

「努力することに水を差すつもりはないが、たとえ零点でも豪龍寺には入学できる。
 それは理事長の友綱オウガが言っているから確かだろう。
 その気になったところを悪いのだが、今日は早めに休んだ方が良いんじゃないか?」

 なんて事を言うのだとマミヤは、気の利かない夫に冷たい視線を向けた。もちろん愛娘も、よけいなことを言うなとばかりに目立たないように睨み付けている。その視線にぶるったタクマは、それでも家族のためだと良識のあることを口にした。

「だからといって、零点をとっても良いなどと言うつもりはないよ。
 ただ若いからと言って、無理をしすぎるとろくな事はない」
「有難うございます、でもまだ眠くなりそうにないんですよ。
 だから勉強をすれば、眠くなってくれるかなって思っているんです。
 それに時差ぼけが有りますから、むしろ明日の朝起きられるかどうかが不安があって……」
「別に、無理して早起きしなくても良いんじゃないのか?」
「早く体を慣らしておく必要があると思っているんですよ。
 だから出来るだけ、皆さんと生活時間を合わせた方が良いかなって。
 それに一人だけ生活時間が変わると、色々とご迷惑を掛けると思いますし。
 後は、日中は生活に必要な物を買いに行かないといけませんからね。
 それからしばらくここで生活することになりますから、町の中を見て回ろうかなと」

 それを考えたら、早起きした方が都合が良いのは確かだ。そこで、メメは自分の楽しみと立場向上のため、またまたちょっかいを入れてくれた。

「大物は済んでいますから、明日は結構小物が多くなりますよね。
 だったら奥さんに着いていって貰った方が、色々と便利だと思いますよ。
 町を散策するのだったら、休日にお嬢さんに案内して貰った方が良いんじゃありませんかね。
 ちょうど編入試験の翌日が日曜日だし、どんなもんでしょうね」

 しかも週間天気予報では晴れと出ているから、絶好のデート日和と言っていいだろう。メメの提案に喜んだマミヤは、そうしなさいとフジノに勧めた。

「シンジ君に早くなれて貰うにはそうした方が良いわよ。
 でも女の子と町を歩くのって、逆にシンジ君に迷惑にならないかしら?」

 周りの目とか、自由に歩けないこととか、デートなら気にならないことでも、普通の条件だと結構気になるだろう。否定を前提としたマミヤの言葉に、シンジは期待通りの答えを返すことにした。内心よくもまあ煽ってくれると、メメに対して醒めた物を感じていたのだが。

「僕としては有り難いんですけどね。
 逆に、僕とだとフジノさんに迷惑が掛からないか心配ですよ」

 男と歩いているという意味もあるが、それ以上に大きいのが“碇”と歩いていると言う事実だろう。だが誰も、そんな問題を気にしていないように見えた。そしてフジノも、「迷惑だなんて思っていません……」と恥ずかしそうに答えてくれた。

「娘もそう言っているんだから、シンジ君は心配しなくて良いんですよ。
 一緒に住む家族なんだから、あまり余計な気は遣わないでね」
「そうですか、でしたら今度の日曜日はお願いすることにします」

 ありがとうという感謝の言葉に、フジノは顔を赤くしてどういたしましてと返した。ここまで血が頭に上ると、正常な判断ができるかどうか疑わしい、横で観察しながらメメは腹の中でほくそ笑んでいた。
 これで重要な仕掛けは終わったと、メメはさっさと退散しようと食卓を立った。そんなメメを、まだ良いのではと珍しくマミヤが呼び止めた。

「それに忍野さん、シンジ君のことでは色々と相談しなければいけないことがあると思いますよ。
 順番は逆になりましたけど、夫と酒でも酌み交わしながら、そのあたりのことをお話になっては?」
「確かに、これからのことは決めておく必要がありますな……」

 早速引き離しに掛かったかと、見え見えの誘いにメメは口元を歪めた。そしてこれぐらいの貢献はして良いかと、そうですなと答えて椅子に座り直した。

「と言うことで坊ちゃん、これからは大人の時間と言うことになりますな。
 まだ片付けが終わっていないでしょうから、お部屋に戻られてはどうでしょう」
「そうやって、僕を追い出しますか……
 まあ良いですけどね、あんまり人をおもちゃにしないようにお願いしますよ」
「もちろん、碇家時期御当主の安全を図るため、綿密な打合せをさせて頂きます」

 酒を飲みながらするというのだから、どれだけまじめに受け取ればいいのだろう。だがこの場はそれを問題にするときではないと、シンジは細かなことに拘らないことにした。
 ごちそうさまと立ち上がったシンジは、自分の使った食器を下げようとした。これまでの生活では当たり前のことなのだが、これも当然マミヤのチェックが入った。本心とても行儀が良いと好感度は上がったのだが、この家に居る限り上げ膳据え膳をしてみせる固く誓っていたのである。当然別の意味の据え膳も食べて欲しいと考えていたのだが。

「シンジ君、そう言うことを殿方はしない物なのよ。
 全部フジノにやらせますから、シンジ君は何もしなくて良いの」
「そ、そうです……
 お手伝いは私の仕事なんですから……」

 慌てて立ち上がったフジノは、珍しく悪い手際で空いた食器を片付けていった。それを幸いと、これも躾なのだとマミヤは付け足した。

「家事がちゃんとできないと、嫁に出すとき親として恥ずかしいじゃない」
「でも、野菜の煮物はとてもおいしくできていましたよ。
 凄く久しぶりというか、こういう手料理って食べたことが無くて……」

 叔父夫婦に預けられていたときには、本当に疎まれて生活していた。そしてミサトの家に入ったら、自分で作るかコンビニ弁当、さもなければカップラーメン店屋物しかなかったのである。ヨーロッパに渡っても、結局施設の食堂でしかない。それを思うと、生涯初めて心のこもった手料理を食べたのだ。そう言う意味では、すき焼きというのは失敗だったのだろう。それでもシンジは、家庭料理と言う響きに感動していたりしたのだ。

「そう言えば、小さな頃にユイさんが亡くなられたのよね。
 だったらシンジ君、ここがあなたの家だと思ってくれて良いのよ」

 ユイのことを知っているのだからと、マミヤは優しい笑みを浮かべて見せた。このあたりは、優しい母親を演じているのかも知れない。
 その笑みに演技を感じてはいたが、余計なことは言う物ではないとメメは自重した。折角待遇改善がされようとしているのに、それをわざわざ自分で潰すこともないのだ。更に言うなら、見た目とは違い碇シンジという少年は、酸いも甘いも知っているのだ。マミヤが何を考えているのか、それを知った上で対応しているはずだ。

「でも自分の家だったら、余計に手伝いをしなくちゃいけないと思うんですけど?」
「古い言い方かも知れないけど、男には男の、女には女の仕事があるのよ。
 だからシンジ君には、他のことでお手伝いして貰うわね」
「そう言うことだったら……」

 分かりましたと引き下がったシンジは、お願いするねとフジノに後を任せて二階へと上がっていった。その言葉に思いっきり頷いたフジノは、あたふたと手際悪く片付けをしたのである。

「ところで瑞光の旦那、奥方とお嬢さんの頭を少し冷やした方が良いのではありませんかね」

 シンジが消えたのを見計らい、メメはタクマだけに聞こえるように小声で話しかけた。男同士と言うこともあり、まだ冷静だろうと踏んだからである。そんなメメに、今は無駄だとタクマは諦めたようにつぶやいた。

「と言うか、マミヤやフジノがのぼせ上がるのも仕方がないと思っているんだ。
 こう言っちゃ悪いが、友綱のところのソウシ君とはスペックが違いすぎる。
 男の俺から見ても、ありゃあ反則としか言いようがないんだぞ。
 それになんだ、家事を手伝うなんて優しいことまで言ってくれる。
 それがポーズでないだなんて、いったいどんな教育を受けてきたんだ?
 この俺だって、あんな息子がいたらと考えてしまったぐらいだ」
「その感想はよく分かりますがね、一筋縄でいく相手じゃありませんよ」
「一応データは見ているから、お前さんの言うことも理解できるがな。
 ただそのデータより、実際に本人にあって話をして、その上で感じた物を信じたいと思うよ」
「だったら、お嬢さんを嫁入りさせますか?
 たぶんと言うか、碇の御当主はそれも可能性の一つとして考えていますよ。
 何しろお嬢さんだったら、碇の抱えている物をよくご存じのはずだ。
 坊ちゃんに期待できなくとも、お嬢さんなら碇に必要なことを引き継いでくれる」
「食えない御当主のことだから、きっとそんなことを考えているんだろうな……」

 それならそれで、少しも困らないとタクマは考えていた。もともと碇、友綱両家と関わりが深い家なのだから、どちらかに嫁に出すのは想定の範囲だと思っていた。それが強制ではなく惚れた結果というのなら、諦めが付くという物だ。ただ問題は、こちらがその気でも本人にその気があるのかと言うことだろう。

「ただ次期御当主様の考えは分からないか……」
「とても分かりやすくて、全く分からないお方ですからね。
 いったい何をどうしたら、あんな人間ができあがるのでしょうかね」
「友綱は、とても悪い勝負を挑んだと言うことかな?」
「坊ちゃんを敵に回せる女性なんて、本当にごく少数なんでしょうな」
「男だって、敵に回したいとは考えないだろう……いろんな意味でな」

 全くですと頷き、メメはウィスキーの水割りを口に含んだのだった。さすがにこの時間というか、食後にビールとは行かなかったようだ。



 部屋に戻ったシンジは、五月蠅く騒ぎ立てる天使と悪魔達に、飛躍しすぎと釘を刺した。彼女たちは、フジノが部屋に来たとき、希望通り押し倒してやれと口を揃えていたのだ。そうした方が後々面倒がないし、どうせ先方の両親が公認していると言うのだ。拘りはないんでしょうと、シンジの揚げ足までとってくれた。

「環境が変わって、まだ何も落ち着いてはいないんだよ。
 特に僕の周りは、これから色々なことが起きそうだからね……
 その全部を片付けて、その時に隣にいてくれたのなら……
 もしもそんなことがあったら、その時は僕からお願いをするんだろうね」

 シンジの答えに、「期待薄なのか?」と赤い髪の悪魔が聞いてきた。

「それが全く分からないんだ……ここでのことだけなら、まだ想像することもできるんだけどね。
 ドイツに残してきたことが、これからの世界にどう関わってくるのか?
 アンノウンと呼称される変異体が、これからどんな変化を遂げるのか。
 そしてニーヴァが、何時人類の敵に回ってしまうのか……
 その全部が不透明だから、僕には何も答えようがないんだよ」

 「ならば、自分の時計を早回ししたら?」と、私生活だけでも決着を付けることを青い髪の天使が提案した。そしてその提案に、その方が良いと灰髪の天使と赤い髪の悪魔も同調した。

「僕たちはね、シンジ君にちゃんと人を好きになって貰いたいんだよ。
 ヒトとして恋愛をし、そして子孫を残していって貰いたい。
 それがリリンとして、とても自然なことだと僕たちは思っているんだよ。
 シンジ君が犠牲になることなど望んでいないし、諦めることも願ってはいないんだ」
「適当なところで手を打てと言っている訳じゃないわ。
 ただ初めから期待しないようなことを考えて欲しくないだけよ」
「私たちはただあるだけ。
 碇君に強制することはできない存在。
 でも、それでも幸せになって欲しいと願っているの」
「僕は……」

 天使と悪魔達の言葉に、シンジは言葉に詰まってしまった。一つになってしまったため、お互いの心を隠すことはできない。彼女たちが自分を思う優しい気持ち、それがまっすぐに伝わってくるのだ。それが分かるだけに、悲しくて言葉が出なくなってしまった。
 ぐすっと鼻をすすったところで、ドアをノックする音が聞こえてきた。控えめな叩き方なのと、メメならばまだ飲んだくれているだろうとの考えから、フジノかなとシンジはその主を推測した。「はい」とベッドから立ち上がったとき、シンジの顔には普段通りの柔らかな笑みが浮かんでいた。

「そ、その、お勉強のことなんですけど……」

 編入試験対策ぐらいしか、積極的に部屋に来る理由はない。だからいの一番に勉強を理由にし、フジノはシンジの部屋に来ることにした。そして勉強というのは、ある意味フジノにとって都合の良い口実でもあった。学年トップを争っているという自負もあり、今度こそ良いところを見せられるという思いがあったのだ。何しろ得意なはずの家事では、舞い上がってしまって失敗ばかりしてしまったのだから。

「あ、ああ、ありがとう。
 でも、お風呂とか入った方が良くない?
 たぶん、その方が落ち着いて勉強できると思うんだ」
「でしたら、碇さんから先に入っていただけますか?
 長旅でお疲れでしょうから、ゆっくりとお湯につかったら良いと思いますよ」

 緊張しながら、フジノはにっこりと笑って見せた。折角色々とお話をして、そして心を落ち着けて、何とか立て直してきたのだ。ここで舞い上がっては、夕食の二の舞になってしまう。

「石鹸とかタオルとかは、中にあるのを使ってください。
 バスタオルは、後から持って行きますから……」
「覗かないでくれるよね」
「そ、そんなはしたないことはしません……」

 頭から湯気を出して沈没したフジノに、ごめんと微笑みながらシンジは謝った。こうしてフジノのペースを乱すところは、意識しているのなら相当意地が悪いことになる。

「軽い冗談だから、あまり真に受けないで。
 じゃあお言葉に甘えて先に頂くけど、お風呂を出たらフジノさんに声を掛ければいいかな?」
「は、はい、部屋で用意していますから、よろしくお願いします!」

 分かったと頷いたシンジは、届いていた荷物の中から着替えを取り出そうとした。だが背中に感じたフジノの視線に、申し訳なさそうに「一応恥ずかしい」と文句を言った。

「女の子に、下着とか汚れ物と見られるのはちょっとね……」
「で、でも、お洗濯とか必要ですよね?」
「確か、共用の洗濯機があった気がしたけど?
 別に洗濯ぐらいなら、自分でできると思うけど?」
「母が言ったとおり、洗濯は女の仕事だと思っているんです。
 ですから、ご迷惑でなければ碇さんの洗濯も私がしようと思っているんですけど……」
「迷惑って言うか、恥ずかしいって言うのが一番ぴったりなんだけどね」

 少し顔を赤くしたシンジは、これでも女の子を意識するのだと白状した。

「フジノさんと同い年だろう。
 だから、下着とかの汚れ物を見られるのは恥ずかしいって気持ちがあるんだよ」
「でも、平日の洗濯は母がしますから……」
「確かに、お母さん相手に恥ずかしがっていちゃおかしいか……」

 赤の他人なんだから、そう言う気持ちがあってもおかしくはない。それでも敢えて、お母さんと呼んだシンジに、そうですよとフジノは畳みかけた。どうやら短い夕食の時間で、家族というのが攻略ポイントだと嗅ぎ取ったのだろう。ただ気をつけなければいけないのは、兄姉になってはいけないと言うことだ。

「無理強いをするつもりはありませんけど、打ち解けて頂けたらなと思います」
「そのあたりは、努力しますとしか言いようがないかな……」

 恥ずかしい物は簡単に直らない。当たり前の主張に、そうですねとフジノも微笑んだ。だからこうしていても、結構恥ずかしいのだと白状した。

「と話をしている間に、一応自分の準備はできたよ。
 洗濯物は、お風呂のかごに残しておけばいいのかな?」
「はい、それも今着ている物だけで良いですよ。
 こちらの荷物の方は、私が整理いたしますから……」

 汚れたパンツに比べれば、新しい荷物を気にすることはないだろう。爆弾が入っているのを忘れたシンジは、まあ良いかと開き直ることにした。

「じゃあ、お風呂に入ってくるから」
「はい、階段を下りて手前の扉を開いたところにあります。
 急ぐ必要はありませんから、ゆっくりと疲れをとってきてくださいね」

 行ってらっしゃいと手を振られたシンジは、こう言うのもいいなと感動していたりする。何しろこれまで付き合ってきた女性は、いずれ劣らぬ豪傑揃いと来ている。さもなければ、徹底的に家事能力が壊滅した女性だろうか。そう言う意味で、家庭的な美少女というのは、シンジ内部でのポイントが高かったりした。ただそんなことを考えれば、当然頭の中の悪魔がへそを曲げてくれるのだが……ただへそを曲げているだけなら良いが、青い髪の天使のように、不思議な笑みを浮かべられると不気味としか言いようがない。

 古い建物の割には、綺麗なお風呂だなと言うのが第一印象だった。先に一家の主が入っている割には、あまり汚れていないように見えた。たぶん自分が入るからと、フジノあたりが綺麗にしてくれたのだとシンジは想像した。
 しっかりと垢が溜まっているはずだと、念入りにかけ湯をしてから浴槽につかった。そしてやはり日本は良いなと、改めて実感していたりする。シャワーで済ませてきた生活に比べ、お湯につかるのはやっぱり気持ちが良いと知ったのだ。色々と嫌なことを思い出す場所なのだが、それでも体がほぐれるのを感じていたのである。

「でもなぁ、生活感ありすぎだよなぁ……」

 広めのお風呂で横を見れば、ボディシャンプーとか石鹸とか、シャンプーリンスが勢揃いしている。ホテルとは違い、そのいずれも使用されて少なくなっている。しかも男性用と女性用が置かれているし、壁には何本もタオルが掛けられている。それを見ると、普通の家庭なのだと今更ながらに感じさせられた。それに綺麗と言って、そこかしこが汚れているのは当たり前のことだろう。

「あの子が、僕の荷物を整理してくれているのか……」

 客観的に見て可愛い子だと思う。むしろ美人といった方が適当なのだろうか。そんな女の子が、せっせと自分の荷物を片付けてくれるのだ。それを想像すると、どうもくすぐったい気持ちになってしまうのだ。そしてそのくすぐったさは、何処か心地よさも感じさせてくれる。

「こう言うのって、良いよね……」

 ほうっと息を吐き出したシンジに、赤い髪の悪魔から爆弾発言が行われた。「女物があるのを忘れているでしょう」と。その指摘を受けた途端、シンジの端正な顔から血の気が音を立てて引いていった。

「ま、まずいっ!!」

 さすがにあれを見られるのはまずすぎる。ここに来て、ようやく青い髪の天使が意味ありげに笑った理由に気がついた。「酷いや綾波」と文句を言っても後の祭り。今頃しっかりと開帳されていることだろう。

「お風呂を飛び出したら、余計に恥ずかしいことになるわよ」
「シンジ君、僕はいい口封じの方法を提案できるのだけどね」
「ヤってしまえばいいのよ……いきなり押し倒して」

 口封じの提案も、似たような物だろう。諦めたシンジは、言い訳を用意することにした。一番もっともらしいのは、誰かのいたずら、いつの間にか詰め込まれていたという物だ。その時適当な名前を出せば、嘘としてはもっともらしくなるだろう。

「そうだよ、普通は僕の物だと誰も思わないよな」
「そうだと良いわね」
「今日のところは、それで乗り切れるのかも知れないねぇ」
「他に危ない物が入っていなければ……」

 そう言われると、途端に不安を感じてしまう。大丈夫だよなと荷物の中身を思い出し、やっぱり大丈夫とシンジは自分に言い聞かせた。それでもいっこうに不安が解消されないのは、何処かに見落としがあるのではと言う恐れである。女物のドレスは自分で入れたが、本当に誰かにいたずらを可能性も存在している。

「まっ、いずれにしても手遅れね」
「その時には、是非とも僕が口封じ方法の提案をしよう」
「ヤっちゃえば良いのよ、思いっきり押し倒して。
 そうすれば、全てが丸く収まるわ」

 どこが丸く収まる物か。心の中で文句を言ったシンジは、急いでお風呂から上がることにした。幾ら手遅れでも、傷は浅いうちに塞ぐ必要がある。これがメメあたりの耳に入ろう物なら、何を言われるのか分かったものではない。ただここで重要なのは、慌てているそぶりを見せないことである。とにかくおかしいと思われたが最後、女装趣味の変態の烙印を押されてしまう。

「恨むよクラウディア……」

 遠くミラノに居る女性の顔を思い浮かべれば、右目を押さえて「べぇ」っとばかり舌を出している。絶対嫌がらせだよなと観念して、シンジは火消しに走ることにした。

 シンジにバスタオルを用意したときは、完全に奥様モードのフジノだった。だがいざ荷物を開いたところで、その中身に圧倒されてしまった。何しろ中からは、今まで見たことのない洋服が沢山出てきたのだ。

「凄い、これ全部ブランド物なの……」

 タグが付いていないため、どれが誰のデザインなのかは分からない。中にはサインの入った物もあるが、何が書いてあるのかちんぷんかんぷんだった。それでも分かるのは、そこらのブティックで売っている物とは根本的に違うと言うことだ。これをシンジが着たらと思うと、また胸がドキドキとしてきてしまう。

「……私、我慢できないかも知れないな」

 今日で逢ったばかりなのに、どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。しかも気持ちはどんどん高まってしまう。このままでは、本当にバカなことを口走ってしまいそうだ。

「ま、マドイも、こんな気持ちになったのかしら……」

 妹のような存在は、運命の人に出会ったのだと話してくれた。その時は大げさだと思ったのだが、今こうして見るとその気持ちがよく分かる。相手がどう考えているのかは分からないが、自分にとってシンジというのは運命の人なのだと。そうじゃなければ、こんな切ない気持ちになるはずがない。

「格好良いし、優しいし……これでもの凄く頭が良かったらどうしよう……
 もしもスポーツ万能だったりしたら、本当に完璧超人になっちゃうわね」

 そこに来て家柄も良いというのだから、絵に描いたような完璧な人間になってしまう。まさかねと思いながら、どこまでだったら許せるかなとフジノは想像をたくましくした。

「一人で大陸縦断するんだから、頭が悪いって事はないわよね。
 それにオートバイを乗り回していたって事だから、運動が駄目って事もなさそうだし……
 そうなると、おかしな趣味とか宗教に走っているとか……」

 もう一度まさかと笑ったフジノだったが、最後に引きずり出した衣装に顔を引きつらせた。

「どこをどう見ても、女物よね、これ……」

 立ち上がって丈を見てみると、自分よりも遙かにサイズが大きいのが分かる。スーパーモデルなら、180台の人も居るのだから、大きなサイズの女性用があってもおかしくないだろう。だが問題は、どうしてシンジの荷物に入っているのかと言うことだった。何かの間違いで入ったと言うこともあり得るが、その時フジノは夕食の会話を思い出した。

「全部袖を通して、駄目な物は置いてきたって言ったわよね……」

 そうなると、これもシンジが袖を通したと言う事になる。しかも丈を考えれば、シンジにちょうど良い。そうなると、シンジの趣味は“女装”と言うことになるのだろうか。

「で、でも、ちょっと素敵かも知れない……」

 自分に合わせてみると、かなり大胆なドレスだと言うことは分かる。それを頭の中でシンジに着せて、顔にはしっかりとお化粧をしてみた。するとどうだろう、ウットリとするほど綺麗な女性ができあがるではないか。

「ち、ちょっとどころか、相当凄いかも……
 そ、そうよ、これならありよ、全然ありの趣味だわ!!」

 似合わないブサがするのならいざ知らず、並の女性よりも綺麗な人がするなら許せる……ではなく、全然OK、どんどんやってとフジノは考えた。ただその時には、自分だけに見せて欲しいと贅沢なことを考えた。将来一緒にブティックに行って、同じ格好をするのも素敵かも知れない。

「ありよ、全然ありよ、こんな趣味だったら、全然ありだわ!!」

 そうやって一人盛り上がっているところに、お風呂からシンジが帰ってきた。少し息が切れているのは、湯上がりなのだろうか。黒のデザインTシャツに、ハーフのズボン姿は、とてもよく似合っているとフジノは感心した。こんなさりげない格好でも、やっぱりシンジ様はお似合いなのだわと。
 だがシンジは、そんなフジノの思いは理解できなかった。そしてそれ以上に問題なのは、今フジノが手にしている物だった。スーツケースの一番奥深くにしまい込まれた過去の恥、まさにそれをフジノが手に取っていたのである。

 だがこんな所で慌ててはいけない。少し気持ちを落ち着け、シンジは用意してきた言い訳を口にすることにした。

「ああ、それたぶんクラウディアがいた」「素敵です碇さん!」

 シンジのいたずらという言葉を、感激に震えるフジノの言葉がかき消した。はあっと驚くシンジに、本当に素敵だとフジノは繰り返した。

「碇さんだったら、きっとどんな女の人よりも綺麗だと思います。
 だから女装の趣味を恥じることはないと思いますよ。
 とっても素敵な趣味だと私は思っていますから!!」
「い、いや、フジノさん……」
「だって碇さん、荷物の全部に袖を通したんですよね。
 だったら、この衣装にも袖を通しているってことですよね。
 碇さんがこの衣装を着たら、とっても素敵なんでしょうね……」

 うっとりとするフジノに、これは駄目だとシンジは説明を諦めた。その頭の中では、天使と悪魔達がお腹を抱えて笑い転げている。想像していた最悪よりはましだが、別の意味では悪い方へ向かっているのかも知れない。どうした物かと途方に暮れたシンジに、「二人だけの秘密にしましょう」とフジノが持ちかけた。

「ひ、秘密かい……」
「そうです、二人だけの秘密にするんです!
 私、絶対にこの事を他の人に喋りませんから!!」

 つまりフジノは、シンジの重大な秘密を握ったつもりでいると言うことだ。どうした物かと悩んだシンジに、灰髪の天使は「口封じの方法を提案しようか」と持ちかけてきた。直ちにそれを却下したシンジは、仕方がないとフジノの両肩を掴んだ。もちろんそれは、とても誤解を招きやすい行為である。それは青髪の天使の言葉に従ったわけでもない。そして誤解というのは、往々にして自分の願望を叶える方向にされる物となる。従って誤解の主、フジノは頬を染めてそっと瞳を閉じ、少しだけ顔を上に向けた。両手が胸元で握られているのは、お約束とも言えるポーズだろう。

「ええっと、そう言う事じゃなくて……
 後からだけど、ちゃんと説明したいことがあるんだよ」
「……違うんですか?
 私は、碇さんだったら構いませんよ……」

 構わないではなく、喜んで、是非ともお願いの間違いだろう。頭の中でつっこみを入れる悪魔を黙らせ、話しを聞いて欲しいとシンジは繰り返した。

「ただその前に、お風呂に入って気持ちを落ち着けてきてくれないかな?
 今のままだと、絶対に話しがおかしな方向に向かいそうだから……」
「そ、そうですよね、私も汗を掻いていますから、綺麗にした方が良いですよね」

 それがおかしな方向なのだが、今更それを指摘する気力はシンジになかった。とにかくお風呂に入って落ち着いてきて欲しい。それを繰り返して、シンジはフジノをお風呂に送り出すことに成功した。

「問題の先送り……返す言葉はないけどね。
 だから口封じの方法は却下、押し倒すのも無し!!
 このドレスを着るのも、絶対に無しだからね!!」

 天使と悪魔達のからかいの言葉に、シンジは困ったように否定の言葉を返した。荷物をフジノに任せたこと自体、迂闊と言われても仕方のないことだろう。だがすんでしまったことを悔やんでも仕方がない。今はどうこの危機を乗り切るのか、そのことに集中しなければいけない。正攻法は、事情を話すと言うことなのだが、どこまでばらすのか、そのさじ加減が重要となってくる。

「クラウディアのことをばらす?
 オブラートに包んで説明するのは有りだろうね……」

 相手のことを考えると、ちょっとばかり刺激的な爆弾をぶつけた方が良いだろう。過去のこととすることで、後々尾を引くこともないと考えた。

「甘いって……でも、それぐらいしか方法が無いと思うし」

 お笑いだよねと、シンジはベッドに寝転がり天井を見上げた。一度見上げていたおかげか、見知らぬとまでは言えない天井だった。

「でもさ、何か楽しいって気持ちもしているんだよ。
 シャルの時は、お互い腹の探り合いをしているところがあっただろう。
 クラウディアは、やっぱり年上じゃないか、だから対等ってことはなかったんだよ。
 でも彼女の場合、腹の探り合いをする必要がないだろう。
 だからさ、こんなバカなことでも楽しいって気持ちになれるんだよ。
 だから押し倒すのは無し、口封じの方法も必要はないんだって!
 告白タイム……アスカが言っているのとは違う告白はするだろうね」

 自分は壊れた人間だ。それを告白することはないだろう。付き合って欲しい、一目で好きになりました……なんて事実と相反することも言うつもりもない。ヨーロッパで何があったのか、そしてどうして日本に帰ってきたのか。帰ってくる途中で何が起きたのか。犯罪に関わりそうなところを割愛して、フジノに話すことになるのだろう。人間関係に限るが、これから起こりそうなトラブルを話すのは良いかもしれない。これから一緒に生活していくのなら、多少の秘密は打ち明けた方が良いのだろう。

「どうせ好きになって貰うのなら、僕という人間を知って貰ってから……
 そう思うのは、僕の贅沢なんだろうかなぁ」

 シンジのつぶやきに、すかさず赤い髪の悪魔から突っ込みが入れられた。「相手にだけ要求してはだめ。自分も相手を好きにならないといけない」のだと。

「好きって言うのは、一方通行じゃだめってことか……」

 中々難しいねとシンジが零したとき、入り口のドアが控えめに叩かれた。時間を見れば、まだ20分ほどしか経過していない。ずいぶん早いなと感心したシンジは、どうぞと外にいるフジノに声を掛けた。

「お、お邪魔します……」

 今更それもないと思うのだが、もの凄く緊張してフジノが部屋に入ってきた。その格好を見たシンジは、躊躇うことなく、即座に着替えてくるようにとフジノに命じた。本当にこれから寝るのなら、薄いネグリジェでもおかしくはないだろう。だがこれから話をして、なおかつ勉強までする予定が残っている。たとえ短いガウンを着ていても、とても相応しいとは言えない格好だったのだ。

「で、でも……」
「これから、僕のためにも大切な話をするつもりなんだよ。
 その後には、編入試験の勉強もしないといけないんだ。
 だからそんな刺激的な格好はやめてくれないかな?
 厳し言い方をするけど、もう少し節度のある格好をして欲しいんだ」

 本当に厳しいとの突っ込みが頭の中であったが、シンジはそれを撤回することはなかった。縋るような目をしたフジノに、「だめ」とはっきりと言い切り、着替えてくるようにと再び告げた。そうしなければ、今夜はこれ以上フジノと話しはしない。そこまではっきりと言い切ったのだった。

「分かりました……」

 そう言ってすごすごと引き下がるフジノに、天使と悪魔達はとても同情的だった。それでもシンジは、頑として自分の考えを譲らなかった。

 フジノが普段のパジャマに着替えて現れたのは、それから10分後のことだった。パジャマでも問題があるとは思ったが、お風呂に入った後の日常を考えれば、それも仕方がないとシンジは譲歩した。そして少しうなだれたフジノに、場所を変えることをシンジは提案した。

「お父様、お母様のいるところですか?」
「ちゃんと説明するって言っただろう。
 それに、編入試験の勉強をするのも本当だよ。
 だから迷惑でなければ、フジノさんの部屋が良いと思ったんだ」
「……迷惑だなんて、少しも思っていません」

 自分の部屋というのは、少し前までなら心の躍る話だっただろう。だが誤解を許さないシンジの態度に、そんな良いものでは無いことをフジノも気づいていた。だから積極的と言うより、少し消極的に場所を変えることを承諾した。

 「お邪魔します、だね」とフジノに続いて部屋に入ったシンジは、初めて年頃の女性の部屋を見たという気になった。アスカと比べれば、たかが3年しか違わないはずなのに、部屋の中はずいぶんと女の子らしい作りになっていたのだ。ベッドに掛けられた綺麗なカバーもそうだし、そこに置かれているぬいぐるみは、如何にも女の子らしいアイテムだろう。カーテンの色も綺麗だし、至る所にマスコットが飾られている。厳しい態度をとりながら、シンジは内心ちょっとだけ感動していたりした。

 部屋の中には、小さなテーブルが用意されていた。それを見ると、勉強を教えるつもりはあったようだ。そこに飲み物とお菓子があるのは、女の子らしい気遣いと言っていいのだろう。どうぞとシンジを反対側に座らせたフジノは、ペットボトルのお茶をコップに注ぎ、シンジの前のコースターに置いた。

「それで、大切なお話ってなんでしょうか……」

 自分が望んでいたものでないことが分かるだけに、フジノの言葉には怯えが含まれていた。色々と振り返ってみれば、母娘揃って暴走していたことに気づいてしまう。シンジにその気がなければ、迷惑としか言いようのない、そして無様としか言いようのないことを瑞光の家族がしていたことになる。
 フジノの瞳に浮かんだ怯え、その理由ぐらいシンジも理解できているつもりだった。こういうところは、他人の視線を過剰なまでに意識してきた名残だろう。だからシンジは、フジノの緊張を解くためにも、怒っているようなことはないと最初に言い訳をした。

「逆に、僕がはっきりとしないこと、忍野さんが悪のりしたのも原因だと思っているんだ。
 だから、今日のことについては僕の方から謝らないといけないと思っているよ」
「でも、勝手に舞い上がっていたのは私たちの方ですから……」
「そのことについてはね、別に迷惑だとは思っていないよ。
 たださ、僕たちはお互いのことをほとんど知らないだろう?
 信用してくれていると思えば良いんだろうけど、見た目がほとんどだと思うと喜べないんだ。
 僕は、自分の見た目に自信がある訳じゃないんだ」
「でもっ、やっぱり碇さんは格好良いと思います……」

 うつむき顔を赤くしたフジノに、ありがとうとシンジはお礼を言った。

「お礼って言う訳じゃないけど、フジノさんは綺麗だと思うよ。
 見た目のことを言っておいてなんだけど、結構ラッキーと思っている自分もいるんだよ。
 結局僕も、普通の高校生とあまり考えることは違っていないんだよ。
 ただ余計な苦労とか経験をしてきたおかげで、ちょっとひねくれた物の見方をするようになっているんだ。
 だからそう言ったことで、逆にフジノさんに迷惑を掛けることになるのかも知れないね。
 先に謝っておいても意味がないけど、ごめんねと先に言っておくよ。
 あとは、気づいたときに注意をしてくれると嬉しいな」
「そんなっ、私で良ければ……」

 綺麗と言われたことが聞いたのか、少しフジノの瞳から怯えた色が薄くなっていた。その代わり、顔の赤さは少し増しているようだ。

「フジノさんが、一番近いところにいる女の子だからね。
 忍野さんには、結構センスがおかしいとも言われているから、アドバイスをくれたら嬉しいな」
「碇さんがっ、センスがおかしいって……」

 信じられないと言う目をしたフジノに、今の格好は自分で選んだ物ではないとシンジは打ち明けた。

「言っただろう、全部イタリアで揃えてきたって。
 その時は、向こうのデザイナーとかブティックの人に任せっきりだったんだ。
 だから今の僕の格好は、その人達の見立ててくれたものなんだよ。
 でも日本に来たら、そんな人たちはどこにも居ないだろう?
 だから自分で考えなくちゃいけないんだけど、早速Tシャツでだめ出しを食らったんだよ」
「そんなことがあったんですか……」

 それでと、フジノはシンジが本題を切り出すのを促した。

「そうだね、どこから話すのかを色々と考えたんだ。
 たぶんフジノさんなら、僕がネルフに入るまでのことは知っているよね?」
「ネルフのこと、それから新造人間研究所のことまで報告書は見ています」
「だったら、人の目から僕がどう見えたかは知っていることを前提に話すよ」

 少し考えたシンジは、最初に切り出したのは人間関係だった。

「興味がありそうって言うのもあるけど、結構話しても大丈夫なことが少ないんだ。
 だから人間関係を主に話をするよ。
 僕の周り、特にネルフ時代だけど、とても限られた人たちとしか付き合っていなかったんだよ。
 今でも一番大切に思っている、そしてずっと一緒にいたいと思っていた人もそこにいたんだ。
 でもいくら願っても、その人達と一緒にいることはできなかったんだ……」
「お亡くなりになった……と言うことですよね」

 ネルフの主だった者たちは、いずれも鬼籍に入っている。それを思えば、シンジの言う大切な人もこの世にいないことになる。そしてシンジも、そのことを肯定した。

「一緒にいたときは、それほど仲が良いと言うことはなかったんだ。
 むしろ嫌っていたり、無視をしていたり……僕が殺してしまった人もそこには居るんだ。
 それでも、僕はその人達と一緒にいたかった。
 死んでしまった人なのに、今でもその人達のことを忘れることができないんだよ」
「一緒にパイロットをされていた人のことですね……」
「もう記録にすら残っていない人も居るんだけどね。
 それが誰かを話すことも、今の僕には許されていないんだよ」
「そんな義務を負っているんですか……」

 多少の話は聞かされていても、そこまでの事情はさすがに知らなかった。シンジの言葉に驚いたフジノは、同時にがんじがらめにされた身の上に同情を感じた。

「サードインパクト後は、むしろとても気が楽だったね。
 僕が歳をとったと言うこともあるけど、逃げ出しても困らないことが分かっていたからね。
 そしてその計画通り、円満な退役を実現することができたんだ。
 これで僕は、中学二年の時から始まった……違うかな、生まれたときからの束縛を断ち切ったんだよ。
 それに気づいていたんだろうね、シャルロット・アルテリーベって言う女の子に責められたよ。
 好きだって告白されたけど、二度と会うことはないから受け入れられないって振ってきた。
 それからのことはある程度耳に入っていると思うし、迷惑を掛けたかと思っている。
 研究所を出た僕は、オートバイで南に下って、イタリアまで観光していたんだ。
 ローマではお世話になった女性と逢って、その人に男にして貰ったよ。
 そしてそこで出会った人の伝手でミラノに渡って、モデルのまねごとをしたんだ。
 クラウディア・マルコーニと言うデザイナーの卵と出会って、その人に協力したんだよ。
 フジノさんが見つけたドレスは、その時のコンテストで使った物だよ。
 僕の女装がばれて、失格にはなったんだけどね。
 目立ったおかげか、彼女にはスポンサーが付いて、僕も多くの人と知り合いになることができた。
 クラウディアさんが、僕にとって二人目の女性だったんだ」
「どうして、日本に帰ってきたんですか?」

 向こうで恋人を作ったのなら、帰ってこないと言う選択肢もあったはずだ。むしろ日本で待ち受けている面倒を考えれば、帰ってこない方が楽なのは間違いないだろう。

「どうしてだろうね。
 確かに、帰らなくても良いんじゃないかって気持ちはあったよ。
 別に帰ったからと言って、特別良いことがあるとは思っていなかったからね。
 ミラノの生活で満足しても良いんじゃないかとも本気で考えたんだ」
「帰ってくる理由はなかったと言うことですか?」
「残るのに決定的な物も無かったからだろうね。
 フジノさんの疑問に答えるのなら、一番の原因は僕に拘りがなかったことだよ。
 日本に帰るという拘りもなかったし、イタリアに残るという拘りもなかった。
 引き留められなかったから、そのまま流されて日本に帰ってきたんだ」

 酷いだろうと自嘲するシンジに、そんなことはないとフジノは頭を振った。

「私だって、高校の友達だって、強い拘りを持って生きている訳じゃありません。
 だから碇さんが、自分のことをおかしいと思う必要はないと思います。
 ソウシ……ええっと友綱さんなんですけど、
 ソウシさんにしたところで、家を継ぐことをすり込まれているだけですから」
「ありがとう、優しいんだね……」

 にこっと笑ったシンジは、すぐに表情を引き締め、甘えているわけにも行かないと返した。

「僕の場合は、今までいろんなことに文句を言ってきたんだよ。
 それだからこそ、自由にできる今、何をするのかが求められると思うんだ。
 高校に通うということに逃げているけど、自分がどうしたいと考えなくちゃいけないんだよ。
 例えば何かに拘って、それをやり抜くと言ったようにね。
 だから家を継ぐというのも、良い逃げ道だと思ったんだけどね」
「何か問題があったんですか?」
「名前を残してくれれば良いとしか言われなかったんだ。
 これで友綱だっけ、そこを潰せとか、政治的にも発言力を増せとか、
 そんな期待を言ってくれるのかと待っていたんだけどね……
 家族同士で、腹の探り合いをするとは思わなかったよ」
「腹の探り合い……ですか?」

 よく分からないという顔をしたフジノに、君も関係するよとシンジは笑った。

「どうして僕がこの家に住むことになったのか。
 碇の家のことを考えたら、フジノさんだと都合が良いと思ったんだろうね。
 だから特に期待しないと良いながら、こうやって女の子を紹介してくれたんだよ」
「御当主様がそんなことを……」
「それだけじゃないとは思うけどね。
 そうなったらなったで都合が良いとは思っているよ」

 そう言うことだと笑ったシンジに、よく分かりましたとフジノは答えた。その上で、シンジにとって勘弁して欲しいと話を蒸し返してくれた。

「あの女性用のドレスが碇さんの物というのは分かりました。
 日本に持って帰ってきたというのは、また女装する為と言うことですよね?」
「え、ええっと……別にそんなつもりはないんだけど」

 何でそんな話になるのか。首を傾げたシンジに、だってとフジノは頬を染めて言い返してくれた。

「碇さんが着たら、絶対に素敵だと思いますから。
 それに、そう言う趣味だったらまだ許せるというか、私としては大丈夫ですから」
「さぁ、話は終わったから、編入試験の勉強に移ろうかぁ!!」
「あのドレスを着たところ、私には見せてくれないんですか?」

 見たいなぁと軽口を叩くフジノに、絶対だめとシンジは断言した。そうですかともの凄く残念がったフジノは、二人だけの秘密にしましょうと妥協案を持ち出した。

「もちろん、他の人に教えるつもりはないよ」

 頭の中で笑っている余計な者は気になるが、とりあえず落ち着くところに落ち着いたと、シンジは安堵していた。

「それで、編入試験の方だけど……」
「あまり、ムキになって勉強する必要はないと思いますよ。
 友綱も、碇さんが入学することを前提に根回しをしていますから。
 テストの点数に関わりなく、入学できると思いますよ」
「でもさ、テストができないのも癪に障るだろう?
 どうだって見せつけたいって気持ちもあるんだよ」
「でも、碇さんの実力が分からないし……
 どんな問題が用意されるのかも分からないんですよ?」
「数学とか物理とか、そう言った方面ならだいたい大丈夫だと思うんだけどね。
 一番問題があるのは、日本独特の学科かな?」
「現国、古典、日本史とかですか?」
「地理だって、日本の地理はあまり得意じゃないからね」
「範囲が広すぎますね……」

 ちょっと待ってと、フジノは本棚へと走った。そして何冊かの参考書を見繕い、積み重ねるようにしてシンジの前に置いた。

「数学とか物理化学とか持ってきますか?」
「中身の確認はしておいた方が良いんだろうね……」

 学校という環境が、往々にして不思議な出題をすることがある。それを確認するためには、一度何を勉強しているのか見ておく必要があるだろう。
 もう一度本棚に行ったフジノは、今度は大丈夫と言われた理数系の参考書を持ってきた。さすがに英語は大丈夫というシンジの言葉を信じ、英語の参考書だけは持ってこなかった。

「たぶん、手っ取り早く終わる物から始めた方が良いんだろうね……」

 数学Tの参考書を手に取ったシンジは、読むと言うよりただめくるという早さでページをめくっていった。とても読んでいるとは思えない早さは、本当に大丈夫なのかとフジノが心配するほどだった。中身を確かめるにしても、数学なのだから理解できないだろうと思ったのだ。だがページをめくる手が止まらなければ、話しかけることも出来ない。結局5分もかからずに、シンジは400ページほど有る数学の参考書を“めくり”終えた。

「ええっと、それで中身が理解できたんですか?」

 そんなことはない、あり得ないと思いながら、それでもフジノはどうなのだと確認した。「まさか」と言う答えが返ってくる、きっとそうだと思って聞いたのだが。

「理解できたと言うより、知らないことが書いてないかを確認したんだよ。
 中に書かれていた問題、そしてその答えを導き出す方法……
 それが、予想もしない方法が使われていないか、それを確認したんだ」
「あんな見方で、それが分かるんですか?」
「速読法なら身につけているからね。
 小説を読むときにはしないんだけど、こう言うときには便利だろう?」

 便利というか、そのこつを教えて貰いたいとフジノは切に願った。それが出来るのなら、定期テストの時に苦労することは無いはずなのだ。
 本当ですか? と言う目をしたフジノの前で、シンジは数学Uに取りかかった。こちらの参考書も、ただめくっていくだけの早さで消化されていく。それどころか、ペースが上がったようにも見えてしまう。本当ですか? ともう一度驚いたフジノの目の前で、5分もかからず数学Uの参考書がめくり終えられた。

「とりあえず、数UBまで確認しておけばいいのかな?」
「数Vを私は取っていないので……」
「そこは明日本屋で参考書を買ってくればすむことだよ。
 今日の所は、ここにある参考書を片付けることを優先するよ」

 積み上げられた参考書を、今日だけで片付ける。本気ですか? どういう頭の構造をしているのか、フジノは本気で確かめてみたくなった。これではもの凄く頭が良いというレベルを超えているではないか。ひょっとして天才? と本気でフジノは疑った。
 美少年、イケメンを見る目から、尊敬の眼差しにフジノの目は変わっていた。これが数学だけだとしても、豪龍寺の宝物になるのは間違いない。そんな相手にいじめをするというのなら、全力を挙げて叩きつぶすのが学校の為なのである。次々と参考書を“読破”していったシンジは、数学、物理、科学、生物、地学をわずか30分で終わらせた。続く地理、世界史にしても、20分も掛けずに参考書を片付けてくれた。天才どころか神様かも知れない。とんでもない人と同じ時代に生まれてしまった。益々尊敬の眼差しをシンジへと向けたのである。

「さて、ここからが難物なんだろうね……」

 日本史と書かれた参考書に手をつけたシンジは、少し口元を歪めて少し遅いペースでページをめくった。それでもフジノから見たら、中身を確認しているのかと言いたくなる速度だった。結局遅いと言っても、一冊終わるのに20分も掛からなかった。そして倫理、政治経済と同じペースで参考書を読破してくれた。

「ち、ちょっと飲み物を持ってきますね……」

 邪魔にならないよう、小さな声で断って、フジノは自分の部屋を出ることにした。あまりにも自分の常識から外れているために、見ていて別の意味で息苦しくなってしまったのだった。

「フジノちゃん、どうかしたの?」

 部屋を出て深呼吸をしたとき、フジノは母親に声を掛けられた。たぶん娘がどうしているのか気になって……と好意的に解釈して……様子をうかがいに来てくれたのだろう。少し心配そうな表情がマミヤの顔に浮かんでいた。
 そんな母親に、「しー」っと人差し指で、静かにするようにと合図した。そして下を指さして、一緒に降りようと誘った。その誘いに頷いたマミヤは、言われたとおり黙ってフジノの後ろを着いていった。
 階段下まで降りて、フジノは最初に父親達のことを聞いた。

「お父さん達は?」
「酔いつぶれているわよ。
 それでフジノ、シンジ君とはうまく行ったの?」
「少なくとも、今はそんな雰囲気じゃないわよ。
 それよりも、一体あれは何なの?
 あんな人がいるだなんて、私には信じられないわ!」
「シンジ君がどうかしたの?
 もしかして、おかしな趣味をしていたとか言うの?
 あんなにイケメンなんだから、多少のことには目をつぶっても良いんじゃないのかしら?」

 自分の言葉を曲解したマミヤに、全く意味が違うとフジノは言い返した。

「もう凄すぎるとしか言い様がないのよ。
 どうして私が2年間勉強してきたことを、たった1時間とちょっとで終わらせられるのよ。
 記憶問題ならいざ知らず、どうして数学を読むだけで理解できるのよ」

 常識がおかしくなりそう。本気で頭を抱えたフジノに、どこに問題があるのかとマミヤは指摘した。確かに凄いのだろうが、だからと言って頭を抱えることではないと言うのだ。

「顔が良くてスタイルも良いシンジ君が、実は頭も天才的に良かったと言うだけでしょう?
 フジノが嫁ぐのに、私はどこにも問題があるとは思えないわ。
 それどころか、どんな手を使ってでも既成事実を作ることを考えなくちゃ。
 碇の御当主様に、早くひ孫の顔を見せて差し上げなさい」
「私には、そんな割り切りは出来ないわよ……
 お母さん、碇さんって本当に凄いのよ、私なんかで良いのかと思っちゃうぐらいに……」
「シンジ君が怖くなったの?」
「格好良い、素敵って頭に血を上らせるだけじゃ駄目って気が付いたの。
 ……違うわね、冷静になっちゃったから、凄さに圧倒されちゃったと言う所かしら」
「だったらフジノ、あなたはシンジ君を諦めるの?
 出会ってから、まだ1日も経っていないのよ。
 それで、もうシンジ君を諦めちゃうの?」

 そんな事じゃ駄目。フジノの両肩を掴んだマミヤは、しっかりしなさいと娘を励ました。

「そんな一面だけでシンジ君を判断しちゃ駄目よ。
 いつも一緒にいて、もっとシンジ君のことを見てあげなさい。
 そしてもっとあなたのことをシンジ君に見て貰いなさい!
 それでも駄目というのなら無理は言わないけど、まだ諦めるのは早すぎるわ!」

 いいこととじっと目を見つめられ、フジノは覚悟を決めたのか小さく頷いた。確かにのぼせたのと同じで、圧倒されたことで脅えていた自分に気が付いた。

「それでこそ私の娘よ。
 冷たい物を持って行って、再チャレンジしてきなさい!」
「ゼリーとかのおやつはあったわよね?」
「こう言うときは、果物を剥いてあげた方が良いわ。
 ちょうどおいしそうな梨があるから、それを持って行きなさい!
 いいこと、ちゃんとシンジ君の前で剥くのよ。
 今度は落ち着いて、失敗しないようにしなさいよ」

 来なさいと手招きをして、マミヤはキッチンへとフジノを連れて行った。途中でダイニングを覗いてみたら、確かに男二人が飲んだくれていた。

「本当に碇さんとは、別の世界に住んでいる人たちね……」
「フジノは、シンジ君と同じ世界に住まなくちゃ駄目よ。
 良いこと、お父様は反面教師として利用すること! 分かった?」
「はいお母様、絶対にシンジ様の物になって見せます!」

 言い回しが微妙な気がするが、とりあえずマミヤは拘らないことにした。今必要なのは、フジノをシンジに売り込むことなのである。そのためには、ちょっとお高い梨も、投資としては大したことはない。

「フジノ、頑張りなさい!」
「はい、お母様!!」

 将来のためにと、母娘はがっちりと手を取り合って励まし合った。この時点で全く話題に上らない、友綱ソウシは哀れとしか言い様がないだろう。

 フジノが梨とナイフとお皿を持って上がっていったとき、シンジは再び日本史の参考書をめくっていた。さすがに一度では駄目だったのだと安堵したフジノは、疲れたでしょうと声を掛けて梨を剥くことにした。多少シンジの天才具合が緩和されたことで、心にも余裕が生まれていた。

「梨を持ってきたの、甘くてみずみずしくておいしいのよ」
「ああ、ちょっとのどが渇いたかなと思っていたところだよ。
 そうだね、もう2時間もぶっ通しだから、一度は休憩した方が良いかな?」
「碇さんのペースだったら、慌てなくても編入試験に間に合いますよ」

 梨を一度半分に切って、更にその半分、4分の1に切ったフジノは、そこから皮を剥いていった。さすがに今度は落ち着いているだけのことはあり、手慣れた手つきで綺麗に剥けていたのだが。

「日本史の参考書、読むのは二度目ですよね?」
「ああ、古典の参考書を読んだだろう?
 古典の時代背景と結びつけるため、もう一度中身を確認しているんだよ。
 中国の同じ時代と関連づけると、平安文学の発展の仕方が分かるんだよね」
「歴史との関連づけ……ですか?」
「そう、漢文だと、中国語をそのまま日本に当てはめた形だろう。
 それが平安時代に入って、仮名交じり文となって日本独特の発展を始めたんだ。
 都が京都に遷都されたこと、そこで独自の文化が展開された理由。
 朝鮮半島から大勢の人が渡ってきたんだけど、その人たちとの関連。
 同時期の中国、朝鮮半島の歴史と関連づけることで、その社会背景が分かるかなって。
 そう言う観点で日本史や世界史の参考書を見ると、ずいぶんと省略されていることがあるなって」
「は、はぁっつ……!!」

 確かシンジは、編入試験の勉強をしているはずだ。少なくとも編入試験では、古典文学論が問われることはないはずだ。そこに中国史とか朝鮮半島の歴史とかが絡んでくることも考えられない。

「碇さん、確か編入試験の勉強をしているはずですよね?」
「そのつもりだけど……高校ではそう言うことが問題にならないの?」
「そう言うことは、大学に入ってから研究することですっ!」

 先に進みすぎていると主張したフジノに、丸暗記ですむことを勉強する意味が分からないとシンジは答えた。記憶力だけを問題とするのなら、こんな勉強をしなくてもすむと言うのだ。

「ですから、そう言うのは大学に入ってからするんです。
 高校では、その前段階として基礎知識をつけることから始めるんですよ」

 全く……とため息を吐いたとき、なぜか手が冷たいのに気が付いた。しかもシンジが、自分を見て笑って居るではないか。一体何と考えてみたら、自分が梨を剥いていたのに気が付いた。そして梨を持っていた手を見ると、切り分けた梨が綺麗に握りつぶされているではないか。

「えっ、あっ、あれっ……」

 そこで慌てる物だから、持っていたナイフで指先を切ってしまった。大した深さでもないし、特に痛いと言うほどのことではなかったが、指先では赤く血が盛り上がっていた。だがそこまでは、事件としては大したことはない。絆創膏を貼れば終わってしまうことだった。ただそこで、シンジが余計なことをしなければである。

「大丈夫かい?」

 と心配したシンジが、怪我をしたフジノの手を取ったのだ。それだけでも頭に血が上るところなのに、あまつさえ血の出ている指をくわえてくれたのだ。あまりの出来事に、フジノの頭は瞬時に沸騰し、そのままその場で失神してしまった。

「あれっ、フジノさん……」

 果物ナイフを持っているから、変に卒倒されたら危険この上ない。とっさに体を支えたシンジは、右手から果物ナイフを取り上げた。その時感じた柔らかな感触は、少しシンジをどきっとさせていた。もっとも相手は失神したままだから、さらなる関係には発展しようもなかったのだが。

「ええっと、どうしようか……」

 頭の中では、赤い髪の悪魔がさんざん「ドジ」と笑ってくれている。しかも灰髪の天使は、条件が整ったねなどと意味の分からないことを言う。そして青髪の天使は、「わざとでしょ」と冷たい視線を向けてくれた。その総てを無視したシンジは、仕方がないとフジノを抱き上げ、可愛らしいベッドへと寝かせた。「ご一緒?」と天使と悪魔達は囃し立てたが、それも綺麗にシンジは無視した。

「このままにしておいちゃいけないよなぁ……」

 握りつぶされた梨のかけらと、剥きかけの梨がそこには残されていた。今更自分で剥いて食べるのも、何か違う気がしてならない。仕方がないと苦笑を浮かべたシンジは、キッチンにいるだろうマミヤに一式返却することにした。それにフジノのことにしても、たぶん後始末もお願いする必要があるだろう。怪我をした指にしても、絆創膏ぐらい貼っておいた方が良い。

「でもさぁ、こういうのって新鮮だよね」

 頭の中の天使と悪魔は、そうだねとシンジの言葉に同意してくれた。思いっきり本性を隠していたシャルロットは例外として、これまでシンジの周りには、こういった可愛い女の子がいなかったこともある。我が身を省みても、新鮮という意味を理解できたのだ。
 もっともそれだけで終わっていては、天使と悪魔……特に悪魔の面目が立たない。赤い髪をした悪魔は、返す刀で男の方がなっていないと言ってくれた。

「天然とかヘタレとか言わないで欲しいんだけどな……」

 色々と言ってくれているが、その論旨は「へたれ」ということに尽きるらしい。これだけ明確な好意を示してくれているのに、何一つ答えようとはしていない。しかもやることなすこと中途半端で、演技の一つも出来ないへたれだと言うのである。おかしな勉強方法をするから、相手に構えられてしまうし、考え無しに行動するから失神されたりもするのだと。いちいちが正論で、シンジには反論の言葉が見つからなかった。

「だからと言って、思慮の足りない真似をするわけにはいかないよ。
 そんなことをしたら、この子が可哀想な事になる」

 濡れていたテーブルも拭き、シンジは梨剥きセット一式を持った。後はこれをマミヤに返し、フジノのことをお願いすれば今日は終わりとなる。時差ぼけの関係で睡魔には襲われていないが、今日の所は無理にでも寝てしまった方が良いだろう。

「生活のリズムを作るには、まだ色々としないといけないな……」

 お願いをすれば……お願いをしなくても、色々な物を貸してはくれるだろう。だがそれは、自立という意味では好ましいことではない。足りない物、欲しい物をリストアップしなければと、シンジは明日からの行動をシミュレーションした。

「土曜日には編入試験か……その後に制服を買ったり、教科書を買ったりするのか。
 日曜日は、フジノさんに奈良の街を案内して貰う……まあ、体の良いデートの口実なんだろうね」

 微苦笑を浮かべたシンジは、「お休み」と言ってフジノの部屋を出た。時間を見れば、まだ夜の11時になったところだ。高校生が眠りに就くには、まだ早い時間なのかも知れない。

「酔っぱらいに絡まれないうちに、僕も部屋に戻った方が良いだろうな……」

 部屋に戻って、色々と考えよう。とりあえず考えなければいけないのは、明日一日どう過ごすのか。一日を有効に利用するためには、プランを作っておく必要があるだろう。

「と言っても、僕一人で行動できるかどうかも分からないか」

 なるようになるのかなと考え直したシンジは、とりあえずの課題を片付けるため、マミヤのところに行くことにしたのだった。



***



 ちょっと良いかなと友綱ソウシに声を掛けられたのは、その日の授業が終わった放課後のことだった。そのときのフジノは、特に生徒会の仕事もないからさっさと帰ろうとしていた。それに帰ったら帰ったで、しなければいけないことが山積みになっていた。いの一番にしなければいけないのは、シンジに対して言い訳をすることだろう。昨日の夜失神して以来、何も話せていなかったのだ。だからソウシに呼び止められたのは、色々な意味で迷惑でしかなかった。

「悪いけど、私は忙しいの」
「そんなに時間はとらせないよ。
 ただちょっとだけ確かめておきたいことがあってね」
「本当に時間がないのよ……」
「そこを何とかお願いしたんだけどね」

 結局両手を合わされてしまい、フジノは渋々折れることにした。急ぎ足で生徒会室に行ったフジノは、それでと呼び止められた理由をソウシに質した。

「俺の気のせいだったら謝るのだが、フジノに避けられているような気がするんだ。
 それに碇の次期当主のことを何も教えて貰っていない」
「ソウシの気のせい、教える理由がないから」

 以上と言って立ち上がったフジノに、それはないだろうとソウシは食い下がった。その行動だけをとってみても、気のせいで済ませられない変化があるのだ。

「確か昨日は、結果ぐらい教えてくれると言っていたはずだよ。
 なにかい、フジノは俺との約束を破るつもりなのか?」
「だってソウシは、シンジ様の敵でしょう?
 だったら私が仲良くする理由がないもの。
 学校ぐるみでいじめをしようなんて人と仲良くするほど落ちぶれていないわ」

 辛辣な言い方に目元を引きつらせたソウシは、碇の味方をするのだなと少し低い声で確認した。

「フジノは、中立でいるんじゃなかったのか?」
「生徒会長としては中立よ。
 だからいじめを計画している者、それを実行しようとしている者が許せないだけよ。
 加えて言うのなら、瑞光フジノはシンジ様の為に働くわ。
 シンジ様の為なら、友綱と全面戦争になっても私は一歩も退かない覚悟がある」
「たった一晩でそこまでフジノが変わると言うことは、その碇シンジと寝たのか?」
「そう言う下卑た言い方をするのね。
 ソウシには言ったはずよね、私は碇家時期御当主を見極めるって。
 そして見極めた結果、私はシンジ様に従うことに決めたのよ。
 悪いけどソウシ、あなたじゃ競争相手にもならないわ。
 それから変な想像をしているようだけど、私はまだシンジ様に抱いて貰っていないわよ」

 以上だと言って立ち上がったフジノを、待てとソウシは腕を掴んだ。だがその手に感じた激痛に、すぐにフジノの腕を放してしまった。何事と自分の手を見たら、手の甲に押しピンが突き立てられていた。そんなソウシに絆創膏を差し出し、普通に接しましょうとフジノは冷たく言った。

「私の態度は、友綱の碇に対する態度の裏返しと思ってちょうだい。
 普通の生徒として受け入れるというのだったら、私もソウシを敵視したりしない。
 私は友綱の悪意から、体を張ってシンジ様を守る覚悟を決めたのよ」
「悪意……か、だったら敢えて豪龍寺に入学させる碇の悪意はどうなんだ!
 ここが友綱の息が掛かっているのは、碇だって承知の上だろう。
 そこに跡取りを入学させる悪意に、友綱は答えただけだ!」
「そんなものは大人の問題、シンジ様が望んだことじゃないわ。
 それにねソウシ、シンジ様にとって碇も友綱も、その間にある反目もどうでも良いことなの。
 あなた達のしようとしていることは、振り払う必要もない火の粉だと思っているわよ。
 振り払わなくても、やけどすらしない程度の火の粉だって」
「そこまで友綱が見くびられていると言うことか?」
「マドイが誘拐されたとき、碇に頼ったことを忘れない方が良いわ。
 経済的には碇を圧倒しているのかも知れないけど、それでも役に立たないこともある。
 それからソウシ、あなたはシンジ様と違って何の実績も上げていないの。
 シンジ様と競争すると言ったけど、まずスタートラインに立つ努力をするべきね。
 友綱ソウシではなくて、ただのソウシという立場でね」

 それだけと言って帰ろうとしたフジノを、もう一度「待て」とソウシは引き留めた。ただ先ほどで懲りたのか、腕を捕まえるような真似はしなかった。

「勘違いするな。
 俺は、学校ぐるみのいじめなんて真似を肯定していない。
 むしろ俺をバカにするなと、親父に言っている立場だ。
 俺は親の手など借りなくても、碇シンジなんかに負けはしない!」
「意気込みだけは買ってあげる……意気込みだけはね。
 でも私は、二人のことを知った上で言っているのよ。
 昔からの付き合いのよしみで言うけど、ごめんソウシじゃ勝ち目はないわ。
 私だって、昨日一晩付き合って存在自体反則だと思ったもの。
 下手なことをしたら、友綱の影響を受けていない女子全員の反発を食らうわよ」
「そこでわざわざ女子を上げた理由は、碇シンジの見た目を言っているのか?」
「見た目だけだったら……ソウシでも勝負の仕方はあったでしょうね」
「それが、フジノの見極めた結果だと言うんだな」
「残念ながら、見極めたなんて偉そうなことは言えないわね。
 逢った瞬間頭に血が上って、色々と醜態を晒してしまったもの。
 イタリアでモデルができる容姿と、天才的な頭脳をしているのは分かったわ。
 それからとっても優しいこと、とても洗練されたマナーを身につけていること。
 嫌な言い方をすると、完璧超人を絵に描いたような存在ね。
 たぶん私じゃ、見極めることなんてできないでしょうね」

 桁が違うと言い切るフジノに、そこまでなのかとソウシは聞き返した。

「新しいことをする度に、そこで違った凄さを見せつけられるのよ。
 とてもじゃないけど、私のレベルでは追いつかないわ。
 だからソウシも、一度会ってみることを勧めるわ。
 シンジ様は、別に友綱と争いたいなんて思っていないのよ」
「とりあえず、フジノの家に押しかけることはやめにする。
 そうしなくとも、明後日には編入試験を受けに来るんだろう?」
「10教科を1日で受けさせるんだっけ?」
「難関私立大学の受験問題を揃えたと言っていたな。
 受験生ができないことを前提とした問題を用意したらしい。
 どうせ零点でも編入させるんだから、最初に立場を思い知らそうと言う考えだよ」
「だとしたら、その結果がどう出るか楽しみね。
 ところで、私が呼び止められた用は済んだと考えて良いのかしら?」
「ああ、手間をとらせたな。
 これからは、フジノに声を掛けるのは控えることにしよう」

 敵同士だと笑ったソウシに、それも僅かの時間だとフジノは言い返した。

「敵対することの無意味さ、それをすぐに理解することになるわ」

 そう言ったフジノは、思い出したように一つ付け加えた。

「それからマドイちゃんに言付かってくれる?
 マドイちゃんが言っていた運命の人って話。
 今はとても理解することができるって」
「フジノにとって、碇シンジが運命の人なのか?」
「私にとってはね……
 でもシンジ様にとって、私がそうだと言うつもりはないわ。
 そうなってみたいけど、とても高いハードルがありそうだもの」
「妹にしてみても、相手が見つからないという根本的問題があったな……」

 伝えておくと苦笑したソウシに、さようならとフジノは振り返りもせずに生徒会室を出て行った。いつも以上にあっさりとした態度に、「凄いな」と競争相手の実力をソウシは想像したのだった。



 学校前のバス停からフジノの家の近くまでは、およそ15分の時間が掛かる。普段と同じスピードで走っているのに、遅く思えてしまうのは気が急いているからだろうか。途中の乗降も、自分への嫌がらせに思えるのは被害妄想に違いない。それが分かっていても、バスを止める一つ一つの要素……例えば信号も、今のフジノにとって敵に等しい存在だった。
 そしていつもと同じ、そしてとても長く感じられる15分を過ごし、最寄りのバス停にたどり着いた。そこから家までは、徒歩で5分。その道を、普段とは違う早足でフジノは急いだ。その時目が血走っていたのか、それとも別の理由か分からないが、ご近所さんはしっかりとフジノに注目をしていた。ただ家に帰ることに集中していたフジノは、全く周りの視線に気づいていなかった。

 だが大きな変化は、家にたどり着いたとき知ることができた。5分の距離を2分で歩ききったフジノは、玄関前で息を落ち着けるため大きく深呼吸をした。そしていざ玄関の呼び鈴を押そうとしたとき、家の中が騒がしいのに気がついた。大勢の笑い声が聞こえた気がしたのだ。

「なに、今日は何かあったっけ?」

 ご近所の集まりとか、友達が来るとか聞かされた覚えはない。邪魔をしては悪いかと自分で鍵を開けたフジノは、居間の喧噪を背に自分の部屋へと階段を上がった。途中シンジの部屋をノックしてみたが、中から反応は返ってこなかった。

「まだお出かけかしら?」

 時計を見れば、午後4時を少し過ぎた時間だった。まだまだ外は明るいから、出歩いていてもおかしい時間ではない。シンジがいないことに落胆しながら、フジノは豪龍寺の制服を脱いだ。舞い上がったこととか、勘違いしないようにと釘を刺されたこともあり、比較的、そうあくまで昨夜に比べてと言う意味で、普段着に近い格好へ着替えた。そして動きやすいよう、長い髪を後ろに纏め、おかしなところがないかと鏡で確認した。そして脱いだ制服をラックに掛け、お客様に挨拶するため1階へ降りていこうとした。そうしたら、階段を下りたところでメメと出会った。

「いえ、私はちょっとたばこでも買いに行こうと思いましてね」

 まるで言い訳をするような口調に首を傾げたが、どうせメメのことだとフジノは気にしないことにした。それでも少しだけ気になったのは、メメの口元が少し歪んでいたことだろうか。ただ理由が分からないことを悩んでも仕方がないと、それも気にしないことにした。
 それにしても賑やかだと感心しながら、フジノは居間に通じるドアを開いた。するとどうしたことだろう、まるでフジノを待ち構えていたように、居間の中から大きな歓声が上がったのである。中を見ると、ご近所さんらしき女性達がが10人ほど集まっていた。そしてその輪の中に、男一人、シンジがぽつんと座らされていた。

「あらぁフジノちゃん、帰ってくるのを待っていたのよぉ」

 確かご近所の鈴木さんだったかしら。にこにこと近づいてくるおばさんに、フジノは記憶にある人物と照合してみた。普段と違い、かなり化粧が濃いし、している格好にしても派手になっている。そのせいで中々本人と結びつかなかったのだが、たぶん記憶に間違いはないだろう。そうしてみると、他の女性も全てご近所さんに間違いない。ただいつもより化粧が濃く、格好が派手なだけだった。
 にこにこしながら近づいてきた鈴木さんは、こっちよとフジノの手をとった。そして事情が掴めていないフジノを、シンジの隣に座らせた。その時のシンジの格好は、薄い緑のシャツに、黒のパンツで決めていた。相変わらず素敵だわと見ほれたフジノに、「そうなのね」とばかり奥様方は大きく頷いた。

「あのぉ、何がいったいどうなっているんですか?」

 不安そうに尋ねたフジノに、「お似合いよね」と奥様方は口を揃えた。状況が掴めず驚くフジノに、シンジが耳元で「お茶菓子にされている」と囁いた。同時に「帰ってきてくれて良かった」とも。
 ますます事情が分からず混乱するフジノだったが、シンジにとって彼女の帰宅は利用すべき事態だった。逃げ出すに逃げ出せない状況を、フジノを利用して打開しようというのだ。

「すみません、これからフジノさんに本屋まで付き合って貰いますから」

 そう言って立ち上がったシンジは、さあとフジノに手を差し出した。一緒に行こうという意味なのだが、未だフジノは事情が掴めていなかった。だから手を取れないでいたら、さあとばかりにシンジの方からフジノの手を取った。きゃあきゃあと言う歓声が上がったのだが、シンジはそれを完全に無視していた。

「とにかく調子を合わせて、理由は後から説明するから」

 耳元で小さく囁かれ、フジノも小さく頷いた。いずれにしても、この環境は居づらすぎる。脱出するという考えに、フジノにしても異存があるはずがない。

「参考書を買いに行くのでしたね」
「編入試験、かなり難しそうだと聞いているからね」

 そう言うことだと真顔で言ったシンジは、失礼しますと奥様方に頭を下げた。

「そうよね、邪魔しちゃ悪いわよね?」
「私たちのことは気にしないで良いから、二人で楽しんでらっしゃい」

 掛けられた言葉に、どう見られているのかは理解できた気がした。だが細かなことに拘るより、今はここを脱出するのが先決だ。シンジに背中を押され、失礼しましたとフジノも奥様方に頭を下げた。そして「そそくさ」とご近所さんの輪から脱出したのだった。

「フジノちゃん、もっと可愛らしい格好をすればいいのに」
「良いんじゃないの、より親密な感じがするんだから」
「でもフジノちゃん、女の子らしくなったわね……」

 扉を閉めた途端に聞こえてきた話に、隣でシンジが盛大に苦笑を浮かべていた。とにかく仕切り直しが必要と、フジノは上を指さし二階に行くことを提案した。
 すぐに部屋に行くと、途中でシンジが自分の部屋に入っていった。その時ちらりと見えた中は、昨夜と全く変わっていないように見えた。今日が買い物日と考えると、物が揃っていてもいいはずだった。

「ええっと、シンジ様が部屋に来てくれるのよね……」

 さあ大変と、フジノは慌てて部屋が中におかしく無いかを確認した。鞄はちゃんと置いてあるし、着替えたあとも散乱していない。急いだため少し汗臭いが、これがぐらいなら芳香剤で何とかなるレベルだ。とりあえず消臭スプレーを撒いたところで、シンジがドアをノックした。

「はい」と小声で返事をしたフジノは、どうぞとドアを開いてシンジを招き入れた。部屋の真ん中には、昨日と同じで小さなテーブルが置いてある。そこに座るのかと見ていたフジノに、出かけようとシンジが持ちかけた。

「このまま家に居ると、おかしな想像をされそうだからね」
「でも、外に行っても大差ないと思いますけど……」
「それでも、外に行った方が多少ましだと思うんだ。
 と言うか、少しは気分を変えたいって言うか……」

 そこで「悪夢だ」と頭を抱えられたので、フジノは大人しく従うことにした。色々と死線を越えてきたはずのシンジが、悪夢とまで言うことはいったい何なのだろう。

 もっともシンジとのお出かけは、フジノにとっては願ってもないことだった。さすがに着替えるのはやり過ぎだし、ここで待たせるのも申し訳ない。だから小さなバッグに財布と携帯電話を入れて、行きましょうとシンジに声を掛けた。

「協力に感謝するよ……」
「いえ、私もお出かけできて嬉しいですから!」

 だから早く出ましょうと、フジノは逆に催促した。

「それで碇さんは、荷物はないんですか?」
「まあ男だからねぇ、カードがあれば大抵の支払いはできるし」
「そう言えば、沢山お持ちなんですよね」

 シンジの資産から30億ほど用立てたというのは、父親から聞かされていた。それもあってのフジノの言葉に、多分そうなのだろうとシンジは苦笑した。そして「細かい話は後」と、居づらい家を脱出することにした。とにかく空気を替えないと、酷い疲労から解放されそうにない。
 ただシンジにとって誤算なのは、外に出てもさほど状況が変わらなかったことだろう。フジノと一緒にいるせいか、どうしても周りの視線を感じてしまう。どうしてですかと嘆いたシンジは、落ち着くところに逃げ込むことにした。

「それで、こう言うところですか……」

 お茶を飲むと言うことに異論はないが、ホテルのラウンジというのは予想していなかった。そもそも高校生が入るとしたら、ファーストフードと相場が決まっていた。さもなければ、少しおごってスタバぐらいだろう。

「これで駄目なら、どこかの個室に逃げ込まなくちゃいけなくなるからね」

 それぐらいでないと、人目に付かないところはない。その程度の意味なのだが、それも良いですねと言うフジノの言葉に、自分の言った意味を考えてしまった。そしてそれが、とんでもない誤解を招くことに気づき、慌てて言葉の意味を訂正した。

「え、その、言っている意味が違う、たぶん違うと思うから」
「私は、碇さんとだったらどこでも良いですよ」

 そう言って頬を染めながら微笑まないで欲しい。なぜか追いつめられた気持ちになったシンジに、何があったんですかとフジノは解放してくれた。風向きが変わったことに安堵したシンジは、マミヤと一緒に買い物に出たことが発端なのだと話し始めた。

「色々な物を揃えないといけないだろう。
 だからマミヤさんに、そう言ったお店に連れて行って貰おうと思ったんだけど……
 お店に着く前に色々なところに引っかかって、結局お店にも行かず家に引き返すことになったんだ。
 その結果があれで、お昼前からさっきまでずっとあの状態が続いたんだよ」
「お昼前からですか……」

 時計を見れば5時近くなってる。行動開始の時間を考えれば、5時間以上苦行を強いられたのか。さすがに可哀想だと、フジノも同情することになった。

「そうお昼前から……怒るわけにもいかないから、何を言われてもにこにこと……
 今までいろんな経験をしてきたけど、こんなに苦しい目にあった記憶がないよ。
 だからあの場から助け出してくれたフジノさんには感謝しているんだ」

 ほうっと大きく息を吐き出し、目の前のコーヒーをずずっと啜ってくれた。マナーの良いシンジにしては雑な行動に、よほど堪えたのだとその精神状態を想像した。

「本当に大変だったんですね。
 それで、どんなことを言われたんですか?」
「本当に色々、しかもほとんど意味のないことばっかり。
 もてるのかとか、ガールフレンドがいるのかとか……
 日本に帰ってきたばかりの人間に、ガールフレンドの話をしても仕方がないと思わない?
 しかもいないって答えたら、思いっきり喜ばれるし……
 少なくとも、誰一人としてガールフレンド候補になりそうな歳の人がいないんだよ。
 僕では、全く付いていけない考え方をしているようなんだ……
 だから余計に疲れたんだけど……
 買い物が全く出来なかったから、今日一日無駄にした気がしてならないし……」
「確か、編入試験は明後日でしたね……
 碇さんなら大丈夫というか、結果は問題にされていませんし」

 零点でも編入できるとソウシの口からも出ていたように、編入試験の点数は問題となっていないのは承知の事実だった。
 そのことを口にしたフジノに、だから余計に嫌なのだとシンジは言った。どうあっても入学させるつもりがあるのなら、編入試験そのものをする必要がない。バカ難しい問題を出し、期待通り零点を取ったとしても、試験問題の異常性が分かれば試験自体の意味はない。歓迎されていないことは、試験前から十分に承知していたことだ。勉強自体を否定するつもりはなくても、意味のない試験時間が無駄だとシンジは言い切ったのだ。

「だから腹いせに、良い点を取ってやろうかなと思っているんだ。
 参考書を見た限り、古典現国系がやっかいだと思ったぐらいだからね。
 たぶん今出題されて一番困るのは、漢字の書き取りだと僕は思うよ」
「漢検の問題集でも買ってきますか?」
「難問を出すんだったら、大学入試問題って所だろう。
 だったら、そっちの心配はあまりしていないんだ。
 だから編入試験も、それなりの点は取れるんじゃないかな。
 ただそれなりじゃ困るから、一応対策しようって思っているんだよ」

 ところでと、何気ない顔でシンジは物騒なことを口にした。

「このあたりって、治安は大丈夫なの?」
「友綱が仕切っているから、おかしな暴力事件は起きていませんよ。
 それに日本は、女性が一人歩きしても強姦や誘拐されることは……
 まあ滅多にありませんから」

 それで何か? と。少なくとも、安全と言われるホテルの中で聞かれることではない。フジノの疑問に、監視されているようだとシンジが答えた。

「目つきの良くないのが、ロビーのいたる所にいるんだよ。
 僕の勘違いじゃなければ、どうやら監視されているようだよ」
「そうだとしたら、友綱の配下って事になるけど……」

 外からヤクザ物が入っているとは考えにくい。そんなことがあるようなら、父親から何等かの注意が有るはずなのだ。それがないと言うことは、友綱が動いていると言うことになるのだが。

「でもおかしいわね、学園以外では動かないって聞かされていたけど?」
「何か予定を変えるようなことがあったのかなぁ……」
「碇さん、何かしました?」
「今日何があったのか、さっき話した通りなんだけどね……
 会った人は、ほとんど居間でお菓子を食べていたよ」

 周りに喧嘩を売るようなことはあり得ない。シンジの答えに、フジノは余計に首を傾げた。友綱オウガが、学園に止めると言ったのは確かなのだ。その言葉がある限り、彼の配下が勝手に動くとは考えにくい。だがシンジに言われてロビーを見てみると、確かに下っ端然とした場所に似合わない男達を見つけることが出来た。
 仕方がないとため息を吐いたシンジは、帰ろうかと言ってレシートを取り上げた。このまま買い物に行こうかと思ったのだが、それではフジノを危険に晒すことになる。もしも相手の狙いが自分なら、ここでフジノと別れることもありだと考えていた。

「相手が友綱なら、フジノさんが危ない目に遭うことはないはずだよね。
 だとしたら、先に帰っていてくれるかな?」
「碇さんを見捨てて逃げるような真似が出来ると思います?
 ご心配して頂くのはありがたいですけど、私には私なりの覚悟はあるんですよ。
 それにこう見えても、結構強いって自信があるんです。
 そこいらのちんぴらなら、4、5人程度でしたら撃退して見せます!」
「女の子にね、そう言う危ない真似をさせるつもりはないんだ。
 それにフジノさんが怪我でもしたら、お父さんとお母さんに合わせる顔がないよ」
「これは、私が自分で決めたことです。
 ですから、結果についても碇さんが気に病む事じゃありません」

 絶対に譲らないというフジノの剣幕に、仕方がないともう一度シンジはため息を吐いた。自分と離れないというのなら、危険な目に遭わないよう配慮する必要がある。幸いホテルから自宅までは、大通りを通って帰ることが出来る。人目を利用すれば、襲撃を避けることも出来るだろう。

「回り道になるけど、大通りを通って帰ろうか」
「一人で帰れって言いませんよね?」
「言っても、聞いてくれないだろう?」

 はいとはっきり言い切られ、だからだとシンジはフジノを連れてレジへと向かった。

「ええっと、割り勘ですよね?」
「ここは奢るよ、その代わり勉強を教えて貰うからね」
「でも、碇さんに教える必要なんて無いと思いますけど……」
「質問ぐらいさせてくれても良いだろ?」

 それで十分と、シンジはレジにカードを渡した。その時店員が驚いたのだが、フジノにはその理由が分からなかった。

「なにか、お店の人が驚いていたように見えたんですけど?」
「たぶん、初めて見るカードだったからじゃないかな?」

 その程度と誤魔化して、シンジはフジノを連れてホテルを出た。もちろん誰かにつけられていないか、それを確認しながらである。

「尾行は3人、ホテルいた4人は着いてきていないね。
 ただこの先、どこかで待ち伏せされている可能性はあるね」
「よく、そんなことが分かりますね……」

 フジノは、自分はただの女子高生ではないと思っていた。役に立つようにと、色々な古武術を習っていたのもその理由だった。だがシンジに言われた尾行の存在には気づいていなかった。正確に言えば、いるだろうとは思っていたが、その姿を確認することが出来なかったのだ。だから純粋に、凄いと感心したのだ。

「一応軍に準ずる組織にいたからね……
 生き延びるのに必要な訓練を嫌って程されたから……」
「その訓練では、こう言うときどうすればいいって教えられたんですか?」
「そうだなぁ、まず第一に考えるのは、どうしたら安全な場所に逃げられるかと言うことだね。
 敵の力が分からない以上、戦闘に持ち込むのはリスクが大きすぎるからね。
 そして逃げられないと判断したときには、自分が有利となる場所に敵を誘い込むこと。
 もちろん、その時罠に嵌らないよう、慎重に場所を選ぶ必要があるんだ」
「それで、今日はどうするんですか?」
「安全な場所に逃げることにするよ……」
「何か、疑問でも?」
「相手が殺気立っている理由かな?
 マミヤさんと外出したときは、本当にただ見ているだけだったからね。
 しかも、もっと一般人に見える人を使っていたよ」

 急ぎ足にならないよう、大通りを並んで歩いていたシンジは、「一応考えているようだ」と感心したようにつぶやいた。何がと先を見ると、作業員が歩道に工事中の看板を立てようとしていた。しかも回り道として示されているのは、「いかにも」と言いたくなるような細い路地だった。

「本気で仕掛けようとしているんですか?」
「さあ、単なる警告かも知れないけどね。
 この街にいる限り、お前は監視されているんだって。
 そして僕をどうするかは、総て友綱の胸先三寸だとね」
「それで、どうするんですか?」
「別に何も。
 これが警告というのなら、おとなしく受け取ってあげようかなって。
 大がかりなことをしているけど、まだ直接攻撃する時じゃないと思うからね」

 そう言うことと笑ってフジノを安心させたシンジは、気にせず行こうと先を急ぐことにした。もちろんフジノに話したことは、半分正しく半分嘘だと言うことは分かっていた。ただの警告の割には、相手が殺気立ちすぎているのだ。だからいざというときには、手加減をするつもりはない。その心の準備だけは済ませておいた。
 交通誘導員に頭を下げられ、シンジ達は回り道とされている細い路地へと誘導された。それを見送った誘導員は、当然のように工事中の看板を裏返した。そして手にしたトランシーバーで、目標が予定通り路地に入ったことを連絡した。

 路地に入ったところで、「暗くて良いね」とシンジは笑って見せた。

「私は、危ないと思うんですけど……」
「こう薄暗いと、人目を避けるには良いと思わないか?
 可愛い女の子を連れ込んでいたずらするのに、とっても都合が良いと思うんだ」
「い、碇さんっ、ほ、本当ですかっ!」

 思わず裏返った声を上げたフジノに、ライトなジョークとシンジは笑った。

「フジノさんが緊張しているみたいだから、ちょっと場を和まそうと思ってね」
「そ、そう言うことを言うと、益々緊張しちゃうじゃないですか!
 い、いたずらって、つい期待しちゃったんですよ!」
「期待されたらいたずらじゃなくなるだろう?」

 しないよと即答したシンジに、それもちょっととフジノは文句を言った。昨日から、どうも自分はシンジに遊ばれている気がしてならないと。原因の大半は自分にあるとしても、もう少し気を遣って貰いたい。

「入学前だけど、これでも一応高校生だからね。
 だから普段の行動は清く正しく美しくだよ。
 不純異性行為なんてもってのほかだと僕は思っているよ」
「イタリアでは、さんざん遊んできたくせに……ですか?」
「それはそれ、これはこれってやつかな。
 イタリアにいるときは、僕は高校生じゃなかったからね」

 中卒職無しニートだと。意味のない喩えをするシンジに、冗談ばかりとフジノは笑った。

「冗談って言うけどさ、中卒ってのは……そう言えば、卒業証書を貰っていないな。
 ねえフジノさん、世の中には中学中退って学歴もあるのかなぁ……」
「出席日数さえ足りていれば、自動的に最終所属中学で卒業できますよ」
「出席日数か……ネルフのが公休扱いになれば足りているはずだと思うけど……
 何しろしょっちゅう入院していたし、仕方がないとは言え行方不明扱いもされたし……」

 大いに疑問だと悩むシンジに、たぶん大丈夫だろうとフジノは保証した。

「ほらあのインパクトのどさくさで、いろんなことがうやむやになりましたから。
 それに碇さんはドイツに渡っているから、渡っているから……」

 ううむと悩むフジノに、どうかしたのかと逆にシンジが心配した。

「いえ、最終所属が海外に移っていないかなって。
 そうなると、中学卒業が本当に怪しいような気がするんです……」
「勘弁して欲しいな、今更中学からやり直す気なんてしないよ。
 高校にはいるのだって、学歴を整えることだけを目的にしたんだから……」
「だとしたら、中学を卒業しないといけませんね。
 高校と違って、義務教育ですから飛び級とか大検のような逃げ道はありませんから」

 今更中坊ですかとからかうフジノに、それは勘弁とシンジは肩を落とした。

「そんな話しになったら、僕は日本を出てよその国で大学に行くよ」
「私としては、そんなことになったら困りますね。
 と言うことで、一応お知らせしておきますと、碇さんは中学卒業の資格があります。
 どうも御当主様が細工をなされたようですよ」
「それが本当なら、爺様に優しくした方が良いのかなぁ……
 でもなぁ、金髪のガールフレンドを連れて来いなんて言う人だし」
「御当主様が、そんなことを仰有ったんですか!
 やだなぁ、黒髪を気に入っているのに、金色に染めるだなんて……
 なにかとってもバカっぽく思えません?」
「いや、言ってる意味が違うから……」

 金髪の他に、グラマーという指定もあったのだが、それは敢えて口にしなかった。ただそれを除いても、色々とつっこみどころのあるフジノの言葉だった。黒髪を金色に染める、それをバカっぽいと言うのだ。そうしている知り合いがいたことを思い出し、さすがに可愛そうかなと思ってしまった。

 仕掛け満点と思われた裏道も、馬鹿話をしていればあっという間に終わってしまう。明るい大通りに帰り着いたところで、何もありませんでしたねとフジノは言った。

「どうやら、考え過ぎだったかな?」
「碇さんはとっても目立ちますから、それを勘違いしてしまったんですよ。
 たぶん碇さん、男の方にもとてももてるんじゃありません?
 女装してもとても綺麗だったって言うことですから……」
「その話だけは、外で、いや、家でもしないで欲しいんだけど……」

 ごめんなさいと謝るシンジに、許してあげませんとフジノは言い返した。

「だって、これぐらいしか私が優位に立てる話しがありませんから。
 だから大切に利用して、碇さんをつなぎ止めることにします!」

 人差し指で銃を作り、フジノはシンジを狙って「ばん」と口で言った。狙いが心臓と言うのは、「ハートを撃ち抜く」と言う意味なのだろう。可愛いなと感心したシンジは、わざとらしく反対の胸を押さえて苦しんだ。

「碇さん、それって反対ですけど?」
「まだフジノさんに心を奪われるわけにはいかないからね」
「私の心を奪っておいてですか?」
「返すことは吝かではないんだけどね……」
「却下、ずっと持っていて下さい!
 碇さんのハートは、そのうち撃ち抜いて見せますから!」

 可愛らしく笑ったフジノに、それも良いかなと少しだけ考えてしまったシンジだった。

「色々とあったけど、今日は帰ることにしようか?」
「そうですね、あまり夕食まで時間がないようですから……」

 遅くなること自体、誰にも反対されることはないだろう。それどころか、母親あたりは外泊しても良いと言ってくれるに違いない。それは分かっていても、今それを口にするのが悪のりであるのはフジノも分かっていた。だから素直に、家に帰ることに同意した。さすがにおばさま方は帰っただろうから、ここから先は家族の時間となる。昨夜色々と失敗しているだけに、今晩は捲土重来を期して家庭的なところを見せつける必要があるのだ。そのあたりは、恋する乙女の決意。二度と失敗する物かと、フジノは密かに闘志を燃やしていたのだった。

 「あとから呼びに行きます」と言うフジノの言葉に甘えたシンジは、結局何も揃わなかった自分の部屋に帰ることにした。部屋に戻って、特に何かをすると言うことはない。復習するにしても、昨夜の参考書程度ではその必要性もなかった。だからシンジは、静かに気配を探り、メメが帰ってくるのを待つことにした。家に先回りされていないのは、玄関に靴がないので確認していた。
 そして待つこと1時間、そろそろ夕食かと言う時間にメメは帰ってきた。それを玄関で捕まえたシンジは、色々と聞きたいことがあると自分の部屋に連れ込んだ。

「聞きたいことと言われてもですね……」

 教えられるようなものは無いと笑うメメに、締め上げても良いんですよとシンジは口元を歪めた。

「僕の獲物を横取りしてくれた御礼をしましょうか?」
「獲物を横取りって……お嬢さんとのデートを邪魔しちゃ悪いじゃありませんか。
 わたしゃ、フジノ嬢ちゃんの応援団になることに決めたんですよ」
「どういう風の吹き回しだか……」

 それでと、シンジは話題を引き戻すことにした。

「で、周到の準備をしていたのは誰なんですか?」
「まあ、言わずと知れた友綱なんですがね。
 どうやらちょいとばかし、予想とは違う原因があったようですよ」
「予想とは違う原因?」

 自分が狙われることは、碇と友綱の確執以外があり得ない。だいたいそれ以外に、自分は友綱との関わりは全くないのだ。そこに予想と違う原因と言われても、そんなものを考えることが無理な相談だった。

「色恋のもつれって奴でしょうかね。
 嬢ちゃんが学校で友綱の坊ちゃんとぶつかったらしいんですよ。
 それに腹を立てた友綱の長女が、警告のつもりで人を出したという案配です」
「それにしても、僕が狙われる理由にはならないと思うんですけど?」
「そう言う冗談を真顔で言うのは辞めましょうや。
 色恋のもつれって言ったでしょう?
 嬢ちゃんの心が坊ちゃんに移ったから、こんな事になっちまったんですよ」
「……そう言う責任を持ってこられるのも迷惑……と言うと怒られるか」
「まあ、あんな別嬪の嬢ちゃんに惚れられたんですから、男冥利に尽きるって所……」
「どうかしましたか?」

 言葉を止めたメメに、何か問題でもとシンジは聞き返した。

「いえね、普通なら男冥利に尽きるって断言するんですが。
 坊ちゃんだったら、女に困ることはないと思えましてね。
 そうすると、特に男冥利って話しもないのかなぁと……」
「人に好きになって貰えるのは嬉しいことですよ。
 それにメメさんが言うとおり、フジノさんは美人だと思います」
「でしたら、どうです今晩あたり。
 良い雰囲気を作って、そのまま最後までってのは。
 瑞光の奥方も、絶対反対なんてしませんよ。
 お昼だって、まるで婿さんを紹介するようにしていたでしょう」
「そう言えば、忍野さんは僕を見捨ててくれましたね」

 冷たい空気を纏ったシンジに、力及ばずとメメは顔を引きつらせた。

「奥さんには、私の胃袋を押さえられていますからね。
 せっかく待遇が改善されたのに、元に戻すような真似はしませんよ」
「だからといって、僕を売らないで欲しいんですけどね」

 まあいいと諦めたシンジは、しばらく外での対処は任せると言った。

「もしも手に負えないようなら僕に任せて下さい。
 それまでは、僕も手の内を隠すことにしますよ」
「一つだけ疑問があるとすれば……坊ちゃんがそこまで強いかと言うことですな。
 今日のことを感づいたぐらいですから、場数は踏んでいるのは理解しますが」
「プロ相手なら偉そうなことは言いませんけど、あの程度の素人なら敵じゃありませんよ。
 それでも問題があるとすれば、ここが日本って事でしょうか。
 銃とかナイフとか持ってきていないから、素手でやんなきゃいけなくなる」
「また、物騒なことを仰有ってますね」
「物騒な世界に身を置いていたんですよ。
 そのあたりのことは、機会があったら教えてあげます」
「機会がない方が嬢ちゃんの為になりそうですな……
 と言うことで、ご指示はしっかりと承りました。
 ちんぴらがちょっかい掛けてこないよう、情報だけはしっかりと押さえておきます。
 これで宜しいですかね?」
「お引き留めして悪かったですね。
 一応の事情も分かりましたし、ご配慮に感謝しておきます」

 シンジが納得したこともあり、それではとメメはシンジの部屋を出て行った。その後ろ姿を見送ったシンジは、食えない男だと頭の中の住人に声を掛けた。

「そうね、強そうには見えないんだけどね」
「最低6人は相手にしているわ」
「それなりに修羅場はくぐっていると言うことかい?」

 天使と悪魔達の論評に、そうだろうねとシンジも同意した。碇本家に行って分かったのだが、単なる古い家柄だけではない。そこで雇われているのだから、見た目に誤魔化されてはいけないのだろう。

「見た目って言えば、碇君もそう」
「見た目と違って、へたれだもんね」

 青髪の天使と赤髪の悪魔の言葉に、そう来るかとシンジは口元を引きつらせた。へたれて無いと強くは言えないが、物事を慎重に運んでいる結果だと言いたかった。

「手も、出せないくせに?」
「据え膳喰うのも男の甲斐性と聞いたのだがね」

 そっちに持って行くな! シンジは天使と悪魔達との会話を無理矢理遮断することにした。どうも最近、からかわれることが多くなっている。それだけ平和と言う意味なのだろうが、やり返せないのがとても辛い。

「イタリアの時ほど開放的になれるはずがないじゃないか……」

 都合が悪くなれば、イタリアなら逃げ出すことが出来た。それにあの時は、周りの空気が浮ついていたこともある。その影響があったからこそ、悪のりとも思える行動を取ることが出来た。だが日本に“帰ってきた”のだから、簡単に逃げ出すことはできないのだ。



***



 世の中は不条理で回っているのではないか。友綱マドイは、自分のおかれた情況をそう嘆いていた。運命の出逢いをした王子様は見つからないし、姉と慕っていた人には裏切られてしまった。しかも警告をしようと人を出したら、訳の分からない男に邪魔をされてしまった。そのことを兄に見つかり、余計なことをするなと説教までされたのも最悪だ。ここまで踏んだり蹴ったりとなると、巡り合わせが悪いとしか言い様がない。

「総ては、碇シンジがいけないのよっ!」

 なぜか最新の写真がないため、中学時代のシンジが壁に貼り付けられている。その頼りなさそうな顔が、益々マドイの神経を逆撫でしてくれた。

「そりゃあ、多少見た目が良いことは認めるけど……」

 後輩にいたら、可愛いとぐらいは思えたかも知れない。だがそれも、碇に関係なければである。怨敵碇と思えば、かわいさ余って憎さ百倍とでも言えばいいのか。可愛い顔も、逆に腹立たしくも感じてしまう。そんな男に、大切なお姉様が取られてしまったのだ。

「不条理です……」

 ごろりとベッドへ横になれば、天井には記憶で書かれたオートバイの絵がある。王子様を忘れないためなのだが、絵心の限界で王子様まで描くことは出来なかった。新しい情報が入ってこないので、カタログ漁りも止まっていた。海外渡航者の顔など、目を閉じても浮かぶぐらいに見飽きていた。
 それでも諦めないと、マドイは強く心に決めていた。この気持ちがある限り、必ず王子様に巡り会える。その時のために、自分を磨かなくてはいけないのだと。

「汗を流せば、嫌なことも忘れられるかしら……」

 スパッツにトレーナー、そんな格好には当然意味があった。ベッドからむくりと起きあがったマドイは、部屋の片隅におかれたバイシクルマシンへと向かった。綺麗なスタイルを作るためには、日々の運動が欠かせない。そのためにと言って、父親にねだって買って貰ったエクササイズマシーンの一つだった。

「私は、諦めない……だから努力を続けるのよ」

 髪をとめていた赤いバレッタを外し、長い髪を後ろでポニーに縛った。鞄からiPodを取り出し、ストラップで首からぶら下げた。カナル型のイヤホンを耳に入れ、ライトポップを流せば準備は完了だ。マシンに示された今日の予定をクリアすれば、運動とカロリーの消費もノルマを果たすことが出来る。トレーニングを続けたお陰で、ウエストのくびれもはっきりとしてきた。自分でも女らしいスタイルに変わってきていると思うのだが、残念なことはそれを見せる相手が見つかっていないことだった。
 裏切りを許すことはできないが、それでも女としてフジノの変心を考えた。自分が敬愛した女性は、見た目だけで騙されるような人ではない。たった一日の出来事でそこまで変わるというのは、自分と同じ思いをしたとも考えられるのだ。

「お姉様が裏切るだなんて……碇シンジがお姉様の運命の人だったのかしら……」

 兄と並べてみれば、とってもお似合いだと思っていた。だから取られるという気持ちは、早々に振り切ることにした。付いたり離れたり、それを何度も繰り返しながら、少しずつ近づいてきたと思っていたのに。それが碇シンジという存在のせいで、決定的に離れてしまったのだ。総てが碇シンジのせい……とすればすっきりとするのだが、そんなに簡単な物ではないとマドイも気づいていた。お姉様は、兄にはない何かを碇シンジという男に見つけたのだろう。だから兄ではなく、碇シンジに惹かれてしまったのだ。運命の人……を思うマドイからすれば、大いにあり得る変心だったのだ。縁という言葉が良く聞かされるが、結果を見れば兄とお姉様の間に縁がなかったのだろう。

「私の縁は繋がっているのかしら……」

 とても頼りない赤い糸に、マドイは可愛らしい顔を曇らせた。たぐり寄せようと努力をしても、全く手応えが見つからない。蜘蛛の糸より細いこの糸は、本当に王子様まで繋がってくれているのだろうか。

「これが終わったらお勉強をして……碇シンジのことは……お兄様に任せることにしましょう」

 いない物と思えば腹も立ってこない。お姉様を取られて、これで兄も本気になってくれるだろう。だったら自分の出番は当分やってくることはないはずだ。
 額に浮かんだ汗をタオルでぬぐい、マドイはひたすら自転車をこぎ続けたのだった。



 マドイが自分を磨いていたとき、ソウシは父親と供に部下からの報告を受けていた。余計なことをとマドイを叱りはしたが、碇シンジがどう対処するのかは興味を持っていたのだ。そして最新のデータが手に入ったことは、フライングではあったが妹の功績とも言えただろう。

「結局、訳の分からぬ男に邪魔をされることになったが……
 そのあたりは、腐っても碇と言うことか」

 オウガにしても、忍野メメの介入は想定外のことだった。忘れていた自分への腹立ちはあるが、違う意味での収穫はあったと考えていた。忍野メメの化けの皮が剥がれたことは、碇の隠し球を減らす意味では有り難いことでもあった。
 だが一番の問題は、瑞光フジノと歩く碇家次期当主だった。今まで集めてきた資料のほとんどが、役に立たないと知らされてしまったのだ。

「いい男だ、しかも相当に切れるな……」

 念を入れて隠し撮りしたはずなのに、目線が全てカメラに向けられていた。かなり遠くからの写真でもそうなのだから、恐れ入るとしか言いようがない。それもあって、街頭に設置された防犯ビデオの映像も取り寄せたほどだ。そこに映し出された行動からも、隙が見られないのが分かってしまう。しかも防犯ビデオも、いちいちシンジのチェックを受けていた。

「いい男って言うのは認めるよ。
 癪に障ることだけど、俺では見た目で太刀打ちできないだろうな……」

 本当に癪に障ることは、碇シンジと一緒にいるフジノの表情だった。あんなに生き生きとした、そして色っぽい表情をソウシは見たことがなかったのだ。そんな表情をフジノにさせたことこそ、ソウシにとって一番腹立たしかった。ただそれは、男の嫉妬だと口には出せなかった。

「ならばソウシ、お前はどう碇と対決する?」
「学園で、正々堂々どちらが優れているのかを見せつける他は無いと思っている。
 姑息な真似をしたら、逆に俺の立場をおとしめることになる……と思う」
「だがソウシ、正々堂々勝負しました、でも負けましたが許されると思うのか?
 これまで潰すに潰しきれなかった碇が、ようやく屋台骨が揺らいでくれたのだ。
 この好機を逃せば、因縁をまた引きずることになるのだぞ。
 綺麗汚いではなく、勝つことが全てに優先することを忘れるな。
 勝ってしまいさえすれば、手段などどうどでもなる物だと言うことだ」
「つまり親父は、碇の次期当主は俺では敵わない相手と見たんだな」

 自分を睨み付ける息子に、オウガは同じように厳しい視線を向けた。そしてゆっくりと頷き、「勝てない」とはっきり言い切った。

「碇の次期当主は、いるだけで周りの人間を惹き付ける。
 それがどれほど恐ろしいことか、お前も瑞光の娘で思い知ったはずだ。
 あの娘は、見た目で惑わされるような尻軽ではない。
 碇の次期当主に対しても、否定から入っていたのではないのか?
 それが一晩でひっくり返ったのだ。
 それだけでも十分に恐ろしいことだと俺は思うぞ」
「確かに、フジノの奴が手のひらを返すとは思っても居なかったが……」
「お前の気持ちとしては、正々堂々と雌雄を決したいと言うのだろう。
 男として、お前の気持ちはよく分かるつもりだ。
 だが友綱の家を守る者として、時にはプライドを捨てることも必要なのだ」
「だったら、何時判断しても同じだろう。
 俺が直接対決をして、それでもだめだというのなら親父に任せることにする。
 それを許さないというのなら、俺は友綱の家を出る覚悟がある!」

 自分としては、まだ何も戦っていない。ソウシには、その思いが強かった。戦いもしないうちに白旗を揚げるのでは、幾ら家のためと言われても受け入れるわけにはいかない。ここで捨てたプライドは、二度と拾い上げることはできないと思っていた。
 だがプライドに拘るソウシに、オウガは別の考え方をした。

「俺は勝負をしたという実績を作りたくないのだ。
 この世界に長くいるおかげで、見ただけで相手の力はおおよそ分かる。
 その俺のカンが、この男は危険だと告げているのだ」
「だから尻尾を巻いて、負けを認め裏で潰そうって言うのか?」
「居なくなってしまえば、勝負云々も関係ないからな」

 「だから」とソウシが反論しようとしたとき、男が一人「電話です」と入ってきた。後にしろと言いたかったオウガだったが、雷火から緊急の連絡と知らされ電話を取ることにした。

「うむ……どういうことだ?
 あ、ああ、前川がそう言っているのか?
 明日か、今から出れば、余裕を持って間に合うが……」

 父親の話を聞きながら、ソウシはその用件を想像した。父を呼びつけられる前川と言えば、おそらく国交省の大臣のことだろう。それが選挙も何もないこの時期、なぜ父を呼びつけようとするのか。しかも今日の明日と言うのは、今までにない急ぎようなのである。金の話なら雷火で済むのだから、何か捜査の手でも入るとでも言うのだろうか。断片的に聞こえる話では、それ以上推測することもできなかった。

「すぐに、第二に行くことになった。
 先ほどの話は、俺が帰るまで棚上げにする。
 碇の次期当主には、予定通り編入試験を受けさせる。
 それ以外は、全て現状維持、棚上げと言うことだ」

 実質的に父親の譲歩と言うことになる。それを理解したソウシは、何かあったのかと急な呼び出しの理由を尋ねた。この時間に呼び出しを食らうというのは、よほどの緊急事態で無ければおかしい。
 だがオウガからは、「わからん」と言う答えしか返ってこなかった。隠していないのは、困惑した表情を見れば理解できた。切れ者の雷火が事情を伝えきれなかったと言うことは、それだけ機密性の高い事態と考えることもできる。

「土曜には帰ってきて、俺も面接に立ち会うことになる。
 細かな話は、それからすることになるだろうな」
「もしかして、マドイが誘拐されたことに関係するんじゃないのか?」
「可能性が皆無とは言わないが、すでに日本政府には伝わっている話だ。
 それが今更蒸し返されるとは考えにくい」

 とにかく出ると、オウガは足早に部屋から出て行った。その慌ただしさに少し驚いたソウシは、自分なりに強敵への対処を考えることにした。今のままら、顔を合わすのは入学してからとなるだろう。そこまで対処を遅らせるのか、それが悩みどころだった。

「親父は待てと言ったが……」

 それでは自分の気が済まない。ソウシはすぐにでも、直接対決する方法を考えることとした。

「気は進まないが、フジノを利用するか……」

 それが一番確実な方法だとソウシは考えたのだった。



 二日目の夜に失敗しなかったこともあり、翌日のフジノは至ってご機嫌が良かった。しかも携帯を買ったシンジの初メールまで飛び込んできたのだ。電話番号も一緒に付いていたから、益々シンジに近づけた気持ちがしていた。
 そんなご機嫌のフジノの所に、友綱ソウシが妹を連れて現れた。それは今日も早く帰れると、フジノが鞄を持ったときのことだった。

「あらっ、これからは声を掛けるのを控えるんじゃなかったかしら?」
「一度会ってみるのを勧めると言ったのはフジノだろう。
 だからその言葉に甘えてみようと思ったんだよ。
 それからもう一つ、碇家次期御当主様には謝罪しておくことがあるからな」
「そうっ、つまりこれから会わせて欲しいってこと?」
「フジノの家に行けば、会うことが出来るんだろう?」
「家でぇ……」

 どうしようかと考えたところ、迷惑は掛けないとソウシは先回りをした。この先どうなるかは分からないが、今日は挨拶をするだけにしておくと言うのだ。隣でマドイがふくれているのは気になるが、幼なじみが嘘を付くとも思えず、仕方がないとフジノは折れることにした。確かに言われるとおり、一度会ってみたらと勧めたのは自分だったのだ。

「とりあえず、シンジ様に良いか聞いてみるわ。
 駄目だと言われたらおとなしく諦めてね」
「言っただろう、フジノに迷惑を掛ける真似はしないと」
「だったら良いけど……」

 初電だと少し緊張したフジノは、早速登録したばかりの電話番号を呼び出した。こうして電話越しで初めて話すだけに、ちょっとフジノも緊張していたりする。
 電話の向こうの呼び出し音が、一度、二度と鳴り響いた。その音がするたび、フジノの心臓は早鐘のように鼓動を打った。そして三回目が鳴ろうと言うとき、「はい、碇です」と綺麗な声が聞こえてきた。

「もしもしフジノです。
 すみません、早速電話をしてしまいました……
 それでですね、これから少しお時間をいただけないでしょうか。
 その、嫌なら嫌と言って下さって良いんですけど……
 あの、友綱ソウシ……ええ、あの友綱です。
 その友綱ソウシと、妹のマドイちゃんが碇さんにお会いしたいと……
 えっ、構わない、どこに行けばいいのかって?
 ち、ちょっと待って下さい!」

 電話を手で押さえたフジノに、どこでもいいとソウシはすぐさま答えた。その隣では、なぜかマドイが驚いた目でフジノを見ていた。その理由に心当たりのないフジノは、気にせずソウシの答えをシンジへと伝えた。

「特に場所の指定はないそうです。
 はい、碇さんが決めても問題ないと思います……
 フジタホテルですか……そこから先は、メールをいただけるんですね?
 はい、有難うございます。
 ソウシにはそう伝えますから……」

 有難うございますと電話を切ったフジノに、「いつ行けばいいのか」とソウシはすかさず聞いた。

「すぐに準備をするから、いつでも良いとは思うけど……
 細かなことは、シンジ様がメールを送ってくれるから……」
「俺たちにはシンジ様で、本人には碇さんなのか?」
「シンジ様と呼んだら嫌がられたから……
 自分が横柄な人間になった気がして嫌だからって……」

 そう答えたフジノは、すぐに自分が余計なことを答えていたことに気が付いた。その気恥ずかしさを誤魔化すように、さっさと出ましょうと提案した。

「とりあえずフジタホテルに行けばいいのか?」
「たぶん、ラウンジでお茶でもしながらだと思うわよ」

 前日のコースは奈良ホテルだったが、こちらも伝統のある一流ホテルなのである。高校生、特に制服を着た高校生には似合わないのは確かだろう。だがソウシは、これでも地元の名士友綱の跡取り息子なのである。たかが高級ホテルで身構えることはなかった。そしてその事情は、妹のマドイも同じだった。逆に自分たちを呼びつけるなら、それぐらいに事をしても当然だと思っていたぐらいだ。
 もっともそれからの行動を見れば、やはり高校生と言っていいのだろう。ホテルまで自家用車やタクシーで乗り付けるのではなく、路線バスを乗り継いでたどり着いたのだ。お陰で連絡をしてから結構な時間が経ってしまった。

「それで、どこに行けば良いんだ?」
「フロントに伝言を入れたって書いてあるけど……」

 バスの中で受け取ったメールには、ただそれだけしか書いていなかった。そうなると、指定されたとおりフロントに質問するしかないのだが。高校の制服を着たままフロントに声を掛けるのは、それはそれで結構勇気のいることでもあったのだ。

「瑞光様と友綱様ですね。
 確かに碇様より承っております。
 すぐに係の者に案内させますのでお待ち下さい」
「ラウンジじゃないんですか?」
「静かにお話しが出来る方がよいと伺いましたので、個室を用意させて頂きました」
「一応、分かっていると言っていいんじゃないのか?」

 人目の多いラウンジでは、なかなかしにくい話しもある。いくら穏便な話ししかしないと言っても、話しの流れでどう転ぶかも分からないだろう。ソウシの言葉に、その通りとマドイは頷いた。どうやら冷静なソウシと比べ、マドイの方は闘志満々のようだ。本当に大丈夫かと思いながら、フジノを先頭に案内されるまま歩いていった。

 部屋をノックしたときに、中から聞こえた声に「あれっ」とマドイは違和感を覚えた。何かその声に、聞き覚えがあるような気がしたのだ。だがいくら思い出しそうとしても、自分は碇シンジと初対面のはずだ。きっと気のせいと考え直し、兄に続いてマドイは部屋へと入ろうとした。だがいざ中に入ろうとしたところで、兄が急に立ち止まってくれた。

「お兄様、どうかなさったんですか?」
「あっ、いや、何でもない……」

 それで正気を取り戻したのか、招かれるままソウシは中へと入っていった。これでようやくご対面と、マドイは気合いを入れて部屋へと入ったのだが……睨み付けてやろうと思った碇シンジの顔が、なぜかぼやけて見えなくなってしまった。

「ま、マドイ……どうして泣いているんだ」
「え、わ、私……」

 ぬぐってもぬぐっても、止めどなく涙があふれ出てきた。それだけではない、爆発しそうなほど心臓が早鐘を打ってくれた。兄やフジノが心配そうに見てくれているのだが、マドイの視線はまっすぐ困ったような顔をするシンジへと向けられていた。

 困ったようなと言ったが、本当にシンジはマドイを見て困っていたのだ。何しろローマでのことは、誰にも話すつもりの無かったことだ。誘拐犯から女の子を救い出したのは、必ずしも美談とばかりは言っていられない。そこにたどり着くまで、結構きわどい行為もしているし、一歩間違えば何人か相手を殺していただろう。日本に帰ればうやむやに出来ると思っていたのだが、救い出した少女がいてはそれも水の泡である。
 だがここまで来たら、開き直るしか他はないだろう。すぐに諦めたシンジは、「元気そうだね」とマドイに声を掛けた。

「碇さん、マドイをご存じなんですか?」
「ちょっと、ローマでね……」

 マドイとローマ、そこから結びつくのは一つしかない。誘拐犯から救ってくれた日本人の青年、とても綺麗な顔をした白馬の王子様、その王子様は赤い色のオートバイに乗っていたという。その一つ一つが、フジノの頭の中で一つに結びついた。シンジがローマにいたことは聞かされていたし、そこまでオートバイで移動していたことも聞かされていた。帆掛の提供したデータに該当者がいなかったのも、それがシンジだと考えれば当たり前のことなのだ。

「ずっとお会いしたかったんです……でも名前も教えて貰わなかったし……」

 そこから先は言葉にならず、マドイはただ泣きじゃくるだけだった。頭の中で騒ぎ立てる声に従ったシンジは、ゆっくりとマドイに近づきその頭を胸元に抱き寄せた。それが嬉しいのか、マドイはシンジの胸で今まで以上の激しさで泣きじゃくったのだった。

 その姿を見せられれば、いや、それ以前に勝負にならないとソウシは思い知らされていた。部屋に入って顔を合わせた瞬間、碇シンジという存在に圧倒された自分に気が付いたのだ。こんな相手なら、見た目だけでもフジノが墜ちても当然だと思えてしまった。今なら父親の言った言葉の意味も理解できた。

「フジノさん、悪いけど……ええっと、マドイさんだったかな。
 彼女の面倒を見てくれないかな?」
「え、ええっ、そうですね……」

 シンジに言われ、フジノはすぐにマドイを連れ出そうとした。だがしっかりとシンジにしがみつき、マドイは離れようとはしなかった。そんなマドイの頭を撫で、化粧室に行ってきた方が良いとシンジは声を掛けた。

「今度は一人でしろとは言わないよ。
 フジノさんが手伝ってくれるから、一緒に行ってくるといい。
 その間、僕は君のお兄さんと話しをしているよ」

 ゆっくりとマドイから離れたシンジは、後を頼むとフジノに任せた。自分の胸元もぐっしょりと汚れていたのだが、そのことは気に掛けていないようだった。
 二人が出て行ったのを見送ったシンジは、座ろうかとソウシに声を掛けた。その声に自分を取り戻したソウシは、ああと言って用意された席に腰を下ろした。そこでようやく自分が何を最初に言うべきか思い出し、「感謝する」とシンジに頭を下げた。だがシンジから返ってきたのは、かなり期待とは違う答えだった。

「出来れば、そのことには触れないで貰いたいんだ。
 たぶん僕のしたことは、イタリア警察の顔を潰しただけじゃなく、
 いくつか法律に触れているはずだからね。
 あまり人前で大きな声で威張れるような話しじゃないんだよ」
「だがマドイのことは、イタリア警察では解決できなかった。
 身代金を支払うしか、マドイを無事救い出す方法はなかったんだ。
 それをお前……あなたは無事マドイを救い出してくれた」
「別に、お前でも構わないよ。
 それから、君の妹さんを救ったのも、どちらかと言えば僕の自己満足の結果なんだからね。
 だからそのことで感謝して貰わなくても構わないんだ」
「それでも、友綱はあなたに感謝している……
 身代金を揃えるまで、短くない時間が掛かるはずだった。
 いくら身の安全を図れたとしても、マドイにどれだけ心の傷が残ったことか……」

 テーブルに頭をこすりつけんばかりにするソウシに、それは辞めて欲しいとシンジは繰り返した。

「君の妹さんが誘拐されるのを目撃してしまった。
 そのくせ何もしないと言うのは、僕自身の正義が許してくれなかっただけなんだ。
 だから連れて行かれる先を探り、準備を整えて逆に襲撃してやった。
 僕のしたことは、たったそれだけのことなんだよ。
 それに僕一人の手柄ではなく、他にも手伝ってくれた人がいたからね」
「それでもあなたが妹の恩人と言うことには代わりはない」

 頭を上げないソウシに、これは駄目だとシンジはため息を吐いた。このままではまともな話にはならないし、そんな関係を自分自身望んではいない。だからシンジは、少し大きな声で「友綱ソウシ」と呼び捨てにした。

「君は、宿敵の前で米つきバッタのように這い蹲るのか。
 君の代で、碇との因縁に決着をつけるのではなかったのか!
 それは碇に対し、敵いませんと尻尾を巻くことなのか。
 顔を上げろ、そして僕の顔を睨み付けて見せろ!!
 それとも、僕を前にして「敵いません」と白旗を揚げるつもりなのか」

 どうしたと叱咤され、ソウシはようやく顔を上げてシンジを見た。だがその瞳に、燃えるような闘志は見られなかった。そこにあったのは、敗北者の瞳。それを認めたシンジは、「恥を知れ!」ともう一度叱りつけた。

「碇の宿敵、友綱の次期当主は戦う前から負けを認める臆病者なのか。
 お前から比べれば、僕は何の後ろ盾もない弱者なんだぞ。
 その僕を目の前にして、何を脅えた目をしているんだ!!」

 頭の中では、天使と悪魔達が「よく言うわ」と腹を抱えて笑っている。自分でもキャラクターではないと思いながら、シンジは友綱ソウシを叱咤した。だがいくら言っても、思うような効果が出てくれなかった。これ以上は実力行使かと考えたとき、やめてくれと先にソウシから言われてしまった。

「そうやって励まされると、余計に俺が惨めになる。
 今すぐというのは無理だが、必ず気力を取り戻すから待って欲しい」
「いつまでも待つほど、僕も暇じゃないんだけどね……」
「これでも一応プライドはあるんだ。
 だが今は、色々な物が一緒になってそれどころじゃなくなっている……」

 最初に圧倒されただけではなく、妹の命まで助けられている。一度に襲ってきた出来事の前に、闘志を掻き立てるのはさすがに難しいだろう。本当に叩き潰すつもりなら、時間など与える必要はない。だがそれは、シンジの望むものではなかったのだった。

「仕方がないな……今日は妹さんを連れて帰るかい?」
「俺としたら、そうした方が良いんだが……
 たぶん、妹が許してくれないだろうな……
 何しろ恋いこがれた白馬の王子様に巡り会えたんだからな……」
「その、白馬の王子様というのは辞めてくれないかな。
 提灯ブルマを穿いた間抜けってイメージしかないんだよ」
「それが、妹の中のあんたなんだ……」

 我慢してくれという言葉は、少しましな響きを持っていた。まあいいかと諦めたシンジは、それでどうするとソウシに持ちかけた。あの様子だと、戻ってくるまでまだ時間が掛かりそうなのだ。それまでの間、男二人で時間を潰さなければいけない。

「僕たちの間で、共通となる話題がないだろう。
 だから二人でいても、たぶん話しが続かないと思うんだけど?」
「確かに、共通となる話題は……フジノぐらいか。
 敢えて聞かせてもらうが、フジノとはどういう関係なんだ?」
「いきなり核心を突いてきたね……
 そうだね、同じ家に住む兄姉みたいなものかな」
「兄姉……それだけなのか?
 フジノはそうは思っていないだろう?」
「どうと聞かれたから、正直に答えたまでのことだよ。
 確かに彼女は綺麗だからね、ラッキーという気持ちはあったよ。
 だけどさ、同じ家に住むって事は色々と問題も多いって事だよ。
 まず最初の問題は、僕は瑞光家に婿入りした訳じゃない。
 高校に通うための住まいとして、瑞光家に間借りしている身分なんだ。
 ガールフレンドや恋人が欲しいって気持ちはあるけど、彼女がそうだとはまだ思えないんだ」
「フジノでは不足だというのか?」

 そう言って迫っては見たが、いくらフジノでも釣り合わないとソウシは思っていた。会ってみれば、本人が「桁が違う」と言った意味を今理解することが出来た。そうなると、自分の妹ならどうかと思えてしまう。フジノが駄目なら、自分の妹も駄目だと言うことにならないかと。

「別に不足とかそう言う事じゃないと思っているよ。
 ただ、今はそう言う気持ちになっていないと言うだけのことだよ。
 それは、僕自身が落ち着いていないと言うことが大きいんだろうね。
 何しろ僕は、日本に帰ってきてまだ3日しか経っていないんだ。
 結構臆病でね、環境の変化にもついて行けていないんだよ」
「俺には、とてもそうとは見えないんだがな」
「虚勢を張っているだけだよ。
 これで結構、友綱君だっけ、君が来るからってびびっていたんだからね。
 いきなり殴りかかられたら困るなぁとかね……
 負けるつもりはないけど、やり過ぎたら問題かなとかね」
「まあ、俺には誘拐犯を制圧するようなことはできないからな……」

 腕っ節でも勝てないというのは、実績を見れば明らかなのだろう。それを認めたソウシは、その誘拐犯だと共通の話に戻すことにした。

「あまり触れないで欲しいとお願いしたつもりなんだけど?」

 それでも聞くのかというシンジに、それぐらいしか共通の話題が無いとソウシは言い返した。とにかく女性陣が帰ってくるまで、お互い時間を繋ぐ必要がある。黙ってお見合いをするつもりはないのだから、共通の話題を捜す必要があるのだろうと。
 そのソウシの意見に、だったらとシンジは豪龍寺のことを持ち出した。学園に通う先輩として、後輩に色々と指導することがあるだろうというのだ。

「指導することか……」
「いじめてやるから、首を洗って待ってろでも構わないけど?」

 まじめな顔で言うシンジに、それを言ってくれるなとソウシは懇願した。会ってみて、それがどれだけ無謀なことなのか。フジノにも言われたが、ほとんどの女子の反発を食らうことになる。それだけでも問題なのに、自分の妹まで敵に回ることになるだろう。碇を追い詰める為の方策が、逆に自分の首を絞めることになってしまう。さすがにそんな愚かな真似をすることはできないというものだ。しかも目の前のシンジに対し、友綱は100億を超える借りがあるのだ。

「そんなことをしたら、まず最初に妹が敵に回ってしまう。
 それにお前には、多大なる借りがあるからな……
 普通に大人しく、学園生活を迎えて貰うことになる……と言いたいところだが」
「なんだ、やっぱり何かするつもりなんだ」

 口元を歪めたシンジに、自分としては何もするつもりはないとソウシは言い返した。

「そのあたりは、自分自身を自覚して欲しいと言うことだな。
 お前みたいなのが編入してきたら、しばらくは女子が放してはくれないだろう。
 当然フジノとの関係は詮索されるだろうし、うちのマドイだって黙ってはいない。
 エヴァンゲリオンのパイロットと言うことが知られれば、男子も黙ってはいないだろうな。
 イタリアでの活躍が知られれば、そのことについても色々と聞かれることになるだろう」

 それを考えたら、いじめなど計画する必要はない。なるほど面白いと納得したソウシは、口止めも意味がないと先手を打った。

「イタリアのことは、どうあってもばれるのが運命だと思ってくれ。
 マドイが恩人を捜しているのは学園内で知らない者は居ない状況なんだ。
 そのマドイがお前につきまとえば、理由など説明しなくても分かってしまうだろうな。
 たぶんマドイも、正直にお前に助けられたことを説明するだろう。
 そうすることで、他の女子に対して優先権を主張できるからな」
「優先権って……」
「言っただろう、お前は妹の白馬の王子様なんだって。
 フジノなんて可愛いと思えるほど、妹の奴はお前に言い寄るぞ。
 だいたい日本に帰ってきてから、妹がどれだけ努力したのか知っているか?」
「知っているかって聞かれても、当然知らないとしか答えようがないけど?」

 そりゃそうだと頷いたソウシは、マドイがした努力を数え上げた。

「お前、全く名乗らなかっただろう?
 だからお前が誰かを調べるために、海外渡航している日本人のリストを手に入れたんだ。
 何千人と居たんだが、その一人一人を妹が自分でチェックしたんだぞ。
 しかもバイクに乗っていたと言うことで、カタログを集めて同じ物が無いかを捜したんだ。
 しかも何時再会しても良いように、フィットネスまで始めたんだぞ!
 それだけの執念を、妹の奴は「白馬の王子様」に向けたんだ」
「あー、その、なんと言えばいいのか……
 あの時名前を名乗っておけば、そんな苦労をさせなくても済んだのかな?
 それに僕の乗っていたバイクは、特注だから幾ら捜しても同じ型はどこにもないからねぇ」

 ご苦労様と言うより、その執念に対して恐れ入ってしまった。さすがにそれだけ執着されると、どうしても怖いという思いが先に立ってしまう。

「でもさ、そんな思いを向けられるのははっきり言って怖いんだけど?」
「諦めるんだな、お前はそれだけのことを妹にしたんだ。
 フジノも譲るとは思えないから、女の戦いが起こることになる。
 一応言っておくが、俺は妹の味方だからな。
 妹が勝てば、当然フジノがあぶれることになるんでな」
「碇と友綱の確執はどうなっているんだ?」
「そんなもの、今更妹が気にすると思うか?
 それに妹が碇の嫁になれば、内部から碇を支配することができる。
 それはそれで、友綱の目的にも合致してくれるだろう。
 それに過去を振り返れば、友綱と碇の間で何度も婚姻は行われている。
 それに倣うだけだから、別に問題になることはないだろう」
「そんなことを言われて、僕が逃げないとでも思っているのかぁ」
「逃げられると思うのなら、逃げてみることだな。
 今度ははっきりと正体が分かったんだから、地の果てまで追いかけていくだろう」

 にやりと笑った友綱に、元気が出たようだとシンジは少し安堵をしていた。頭の中では「お人好し」と騒いでいるのだが、それで良いだろうと言い返していた。研究所にいたときに比べれば、可愛いとしか言いようのない人間関係なのだ。高校生活のスパイスとして、楽しめばいいと割り切ることにした。頭の中では、「鬼畜」コールが木霊していたのだが。

 その頃化粧室では、フジノがつききりでマドイの面倒を見ていた。さすがに泣き止んで、今はケアセットでおめかしをしているところだ。当たり前の出来事なのだが、むしろ状況は面倒になっていたのかも知れない。何しろ目の前に並べられた物量が、あまりにも非常識な量となっていたのだ。どうしてそんなに持ち歩いているのかという疑問と、学校をなんだと思っているという生徒会長としての憤り、それを同時に感じていたのだった。
 しかも客観的に大差の無い変化を、どちらが良いのかをしつこく聞いてきてくれる。最初はまじめに答えていたが、何度も繰り返されると付き合いきれないというのが正直な気持ちだ。

「一応聞いておくけど、シンジ様は碇家の跡取りなのよ。
 友綱の家からすれば、宿敵になるはずよね?」

 その相手に抱きついて泣いただけではなく、今はこうして精一杯のおめかしをしている。女として気持ちは分かるが、友綱の娘としてそれはないのでは? と言いたくなるのも仕方がない。
 だがマドイには、フジノの疑問はどうでも良いことのようだった。なんですか? とだけ答えて、一所懸命鏡に向かって髪型を変えて……本当にちょっとした跳ね方を変えていた。

「あのね、今マドイがおめかしをして見せようとしている相手、碇家次期当主なのよ!」
「お姉様、これならシンジ様が可愛いと仰有ってくれるでしょうか!?」

 やっぱり聞こえていないと、フジノは大きくため息を吐いた。

「悪いけど、マドイが拘るほど変わっていないわよ。
 ええ、今のマドイはとっても可愛く見えるわよ!
 それで、私の疑問に対する答えはどうなっているのかしら?」
「ちょっと待ってて下さい、今はそれどころではありませんから!」

 ドライヤーがあれば、間違いなくブローをしているだろう。それほど念入りに、マドイは髪を整えた。それでもようやく髪型が決まったのか、次は服装チェックに入っていた。呆れるフジノの前で制服を一度脱ぎ、マドイは鞄からなにやら袋を取り出した。それが新しい下着だと分かったフジノは、そこまで用意するのかと呆れていた。そして呆れたフジノの前でパンツを脱いだマドイは、客観的に見て大胆な下着に着替えてくれた。

「それで、上は替えないの?」
「さすがにブラは持ち歩けませんので。
 ですから、普段から高級なブラをつけるようにしているんです!」

 こういった質問にはまともに答えるのか。都合の良い耳をしていると感心したフジノは、もう一度根本的な問題を蒸し返した。

「相手が碇家次期当主と理解しているのよね?」
「お姉様、どうです、綺麗に見えますか?」

 やはり都合の悪いことは聞こえないようだ。下着姿のマドイは、どうでしょうとフジノの前でくるりと回って見せた。そこそこスタイルの良かったマドイなのだが、ここしばらく行った努力のお陰で、女性らしいくびれがはっきりとしてきた。そのことに驚きはしたが、極めて平静に「良いんじゃないの」とフジノは答えた。

「そうですか、お姉様がそう仰有るのなら大丈夫ですね!」

 そこで嬉しそうにするものだから、フジノも強いことが言えなくなってしまう。フジノの目から見ても、今のマドイはとても愛らしい。恋が叶ったばかりの乙女、そんな雰囲気を振りまいてくれるのだ。
 フジノの言葉に安心したマドイは、次にセーラースタイルの制服に取りかかることにした。まあ一度脱いだ物を着直すだけなのだが、ただ着直すだけでは能がないという物だ。

 最初にスカートに手をつけたマドイは、腰の所で2回ほど巻き上げるようにして折りたたんだ。そうすることで、スカート丈がぐっと短くなってくれる。もともと膝上5センチぐらいのスカートが、そうすることで膝上20センチ以上のミニスカートとなる。

「マドイ、さすがにそれは厳しくない?
 気をつけないと、パンツが見えちゃうわよ」
「大丈夫です、兄に見せるようなことはしませんから。
 それからシンジ様には……総てをお見せすることになると思いますので……」

 だからパンツぐらいで恥ずかしくはないと言うのだろう。鏡の前で何度もチェックし、更にスカート丈を短くしてくれた。

「恥じらいって知ってる?」
「見えそうなのを恥ずかしそうに隠す恥じらい、それが男の人を魅了するんですよね?」
「いやっ、確かにそれも恥じらいだけど、私が求めている意味とは違うから……」

 と言ってみても、聞いてくれないのは織り込み済みとなっている。次はどうするのかと見守っていると、意外にも上着はきっちりと整えてくれた。まあおへそが見えるのは、セーラータイプの構造上仕方のない事と言える。

「上は、もっと着崩すかと思っていたわ」
「そんなことをしたら、はしたないと思いませんか?
 恥じらう乙女というのが、今回のチャームポイントなんですよ。
 スカート丈を積極的にアピールするため、上着は逆に固く着ることが重要なんです」
「でも、それを見せる相手が碇の次期当主って事を忘れないでね」
「どうですお姉様、清楚さの中にも少しどきっとするところがあると思いません?」

 やっぱり肝心なところは避けられている。何度目かのため息を吐いたフジノは、とても良く似合って可愛らしいとマドイを誉めた。確かに今のマドイなら、たいていの男の子の目を引くことが出来るだろう。ただ別室で待っている相手に、常識が通用するかははなはだ疑わしい。

「良かったぁ、後はコロンをスプレーして終わりです。
 ところでお姉様、お姉様はそんな格好で宜しいのですか?
 これだけお待たせしたのに、何のおめかしもしないのは恥ずかしいことだと思いますよ」
「私は、毎晩家で顔を合わすから良いの。
 それに、夜は仲良く私のお部屋で勉強しているのよ」

 自分の方が年上なのだから、フジノの言葉は大人げないと言えただろう。だがフジノにしても、いい加減付き合いきれなくなっていたのだ。だから言葉遣いもぞんざいになるし、張り合うようなことも口にしてしまう。

「シンジ様にご迷惑をおかけしていませんよね?
 お姉様の都合を一方的に押しつけるのは良くないと思いますよ」
「日本に慣れていないと言うから、お手伝いをしてあげているのよ。
 迷惑ではなくて、お願いしてきたのはシンジ様の方なのよ」
「お部屋をお貸ししているだけなのだから、節度のある行動をお願いしますね。
 それからお姉様、お姉様のお家には空き部屋がまだありましたよね?」
「そりゃあ、まだあるけど……」

 その答えに、良かったとマドイは大げさに喜んだ。

「でしたら、シンジ様のお世話は私がすることにしますわ。
 本当でしたら、同じお部屋が良いのですが、やはり初めは節度が必要と思いますので。
 ゆくゆくお父様にお願いをして、こぢんまりとしたマンションを買って貰います」
「シンジ様は、そのお父様が敵視している碇の跡継ぎなのよ」
「お姉様、先ほどからどうでも良いことを繰り返されていませんか?
 もともと友綱と碇は、同じ血を引き継いでいるんですよ。
 過去何度も婚姻を繰り返していますし、それはこれからも同じです。
 私がシンジ様に嫁ぐことは、ご先祖様も認めて下さることなんですよ」
「あなた達の言う、友綱と碇の因縁って……」

 その程度なの? とフジノは激しく落胆して見せた。これまでソウシやマドイが見せてきた態度からは、不倶戴天の敵、どちらかが滅びるまで殺し合うような激しさを口にしてくれたのだ。それをあっさり手のひらを返されたのでは、そうですかと認めるのもバカらしくなる。

「自分を高みに持ち上げるためには、競い合う相手が必要なんですよ。
 友綱と碇は、ずっと競い合って互いを磨き合ってきたんです。
 決着をつけるのが目的なら、もっと昔に決着が付いていますよ。
 碇の勢いが衰えていたから心配したのですけど、逆に大きく差をつけられてしまいましたね。
 お姉様も、負けないようにお兄様を叱咤してあげて下さいね」
「なんで、私の相手がソウシになるのよ……」
「シンジ様には私が嫁ぎますから、あぶれ物同士慰め合うのが宜しいのかと」

 分かりやすいでしょうと微笑むマドイに、「そうね」とフジノがドスの利いた声で返した。目の前で舞い上がりまくった少女は、どうも自分中心にしか考えられなくなっているようだ。ここは誰が支配者なのか、しっかりと教え込まないといけないだろう。
 だがフジノが行動に出るより早く、マドイは自分の準備を終わらせていた。そして声を掛けるのよりも早く、フジノをおいて化粧室を出て行ってくれた。

「すっごい自己中……」

 さもなければ、脇目もふらずと言う所か。あっけにとられたフジノは、すぐに「いけない」と後を追いかけたのだった。



***



 日本国政府で、一番大きな予算を動かす省庁、それは国土交通省に他ならない。それもあって、友綱オウガは歴代大臣とのコネクションを大切にしてきた。そこから派生して、経済関係の省庁を押さえているのが、友綱の力と言うことになる。
 力の源泉とも言える大臣からの呼び出しだから、オウガも優先せざるを得なかった。だが不思議なのは、なぜこのように急な会見が用意されたのかと言うことだ。雷火からは、火急の問題は報告されていない。政治的に見ても、今は非常に落ち着いていると言っていいだろう。唯一有るとすれば、娘が誘拐された事件の顛末ぐらいか。それにしたところで、解決した問題で緊急に呼び出されるとは考えにくいことだった。

 雷火を伴い、指定のホテルを訪れたオウガは、会議室に現れた面々に驚かされることになった。国交相の前川は当然として、総理の鷹山、そして党幹事長の大沢、外務相の丘珠、他には文科相やらの国務大臣が揃っていたのだ。言ってみれば、政府与党の重鎮が勢揃いしていたのである。

「これは、皆さんおそろいで……」

 様子を探ろうとしたオウガに、私がと鷹山が口火を切った。それはオウガも想像していない、外交に関わる重大事だった。

「噂ぐらいで……というか、口伝でしか伝えられていない国家がヨーロッパに有るのを知っているかな。
 国家の樹立以来、表の世界に出ようとしなかった王国、そこから正式に国交樹立を持ちかけられた。
 国の大きさは大阪府程度しかないが、その影響力は米国を凌ぐと言われている。
 持っている資産の巨大さも恐ろしいが、真の価値はその人脈、保有する人材にあると言われている。
 その国を敵に回すと言うことは、全世界を敵に回すのに等しいと言われている。
 ある意味バチカンを敵に回すのよりも、酷い結末が待ちかまえていると言っていいだろう」

 それほどの国が存在するのかと言う疑問はある。だがもしもその国が存在したとしても、なぜ自分が呼び出され、話しを聞かされるのかが更に疑問となる。日本国内で動いている友綱に、外交の話しをしても意味がない。国家としての重大事に違いなくとも、友綱が緊急で呼び出される理由に欠けていた。しかも外交関係樹立という国家間の問題に、一民間企業の友綱が関わる理由が薄かった。
 そんな疑問を持つオウガ構わず、鷹山はヨーロッパに存在するという国の説明を続けた。

「ああ、その国の名前だが、アルテリーベ王国と呼ばれている。
 現国王は、2年前に王位に就いたルドルフ25世だ。
 歳は25ぐらいだと聞いている」
「それで総理、この私が呼ばれた理由を教えて貰えないか。
 今の説明では、この私が呼ばれる理由が一切思い当たらない。
 このような場に呼ばれた事は光栄だが、私は私で、管理する高校でしなければいけないことがある。
 碇との因縁故、一族にとって重大な意味を持つ仕事なのだ」
「その碇が関わるから、わざわざ君に来て貰った。
 そして君が理事長をしている豪龍寺学園、その学園にも関わることなのだよ」
「学園に?」

 新たに外交を結ぶことと、学園運営が関わってくるとは思えない。思わず首を傾げたオウガに、非常に重要なことだと鷹山は身を乗り出した。

「アルテリーベとの国交樹立は、あちらから持ちかけられた物ではある。
 だが我が国にとって、その意味は非常に大きな意味を持っている。
 人脈の面で結びつきの強い欧米各国には、なぜ日本にと言う不満が出ている。
 それほどアルテリーベとの強い結びつきは、政治的に大きな意味を持つと言うことだ。
 そのアルテリーベから、国交樹立にあたり王族を日本に送り込むと言ってきた。
 まだ十七歳の少女と言うことだが、前国王の娘ともなれば非常に大きな意味を持つことになるだろう。
 その少女の不興を買うことになれば、日本の経済……政治も破壊されかねないのだよ。
 意味が大きいと言うことを理解して貰えただろうか?」

 あまりにも荒唐無稽な話しのため、担がれているのではと言う気もしないではなかった。だがそうしたところで、彼らに何ら利益があるとは思えない。そうなると、鷹山総理の口から出たことは、総て真実と言うことになってくる。ただ問題は、今の話のどこに自分が関わってくるのかと言うことだ。国交を樹立する相手から、王族が送り込まれてくる。親善を謀るためと考えれば、別に不思議なことではないだろう。短い滞在期間中、日本を案内し、良い印象を持って帰って貰えばそれですむことだ。その中では、古都観光でも組み込んでやればいい。拡大解釈をして、その観光ぐらいしか関わるところが思い浮かばない。

「つまり、その少女が奈良を訪問する。
 だから私に、準備をしろと仰有るのですな」

 それぐらいなら、急いで呼び出された意味も理解できる。相手がどういう行動を取るのか分からないが、それほど重要な相手なら、警備も含め万全でなければいけないだろう。日本の失敗を願うライバルが多いというのなら、妨害工作も行われることとなるのだろう。
 オウガの答えに、「勘違いをするな」と鷹山はすぐさま返した。

「勘違い……ですか?」
「ああ、その少女……シャルロット・アルテリーベは物見遊山で日本来るわけではない。
 日本で配偶者を捜すべく、名門校に入学すると言ってきているのだ。
 不思議なことだが、それがアルテリーベの流儀と言うことらしい」
「そうだとしても、日本に名門校がいくつあるのかご存じか?
 男女共学という条件を付けても、それこそ両手で足りないほどだ。
 しかもそれほどの重要な意味を持つのなら、売り込んでくる奴は大勢いることだろう」

 そこまで言ったオウガは、相手の顔にぴんと来る物があった。

「まさか、それが碇に関わることというのか?」
「そう言うことだ、相手は碇シンジが入学する高校を指定してきたのだよ。
 従って配偶者を捜すのではなく、配偶者を捕まえに来たというのが正解だろう。
 聞いたところ、碇シンジは君の所に入学する予定と言うじゃないか。
 だから遠路、わざわざご足労を願ったと言うことだ」
「そ、それで私に何をしろと仰有るのか?」
「なに、ただ確認が必要だったと言うことだ。
 もちろん我々は、碇と友綱の確執は承知している。
 その友綱が支配する学園に、碇が入学しようとしている。
 碇ドッポの差し金というのは分かるが、一体何を意図した物かが私達には分からない。
 そして碇を受け入れた君たちが、碇シンジに何をしようとしているのか。
 問題が起きる前に、釘を刺しておくという意味もあるのだよ。
 アルテリーベとの国交樹立は、我が国にとって千載一遇のチャンスなのだよ。
 たかが君たちの確執程度で、国家全体の不利益なことをするわけにはいかないのだ」

 分かるかと全員に迫られれば、オウガも言い返すことは出来ない。友綱、そして自分にとっての重大事でも、国家を考えれば些末な事情に違いないだろう。それを考えれば、政府が自分に釘を刺すのは当然とも言えることなのだ。
 だがそれでも分からないのは、なぜ碇シンジなのかと言うことだ。確かに物が違うというのは分かるが、世界的な価値がそこまであるとは思えない。今まで表に出なかった王国が、日本と国交樹立するために表に出てくるという。穿った見方をすれば、シャルロットという王族を送り込むため、表に出てくるとも考えられるのだ。

「なぜ、アルテリーベは碇シンジに拘るのですかな?」
「そんなこと、我々に分かるはずがないだろう。
 ただあちらは、国交樹立の条件としてシャルロットという少女の受け入れを求めてきた。
 そして少女を受け入れるためには、碇シンジと同じ学校に通わせる必要がある。
 我々に分かっているのは、そこまでと言うことだ。
 その中で、唯一想像できることがあるとしたら……」
「有るとしたら?」

 ごくりと唾を飲み込んだオウガに、「エヴァンゲリオン」と鷹山は禁断の兵器の名を持ちだした。

「碇シンジにエヴァンゲリオンを与えれば、神にも悪魔にもなりうると言うことか。
 ただ今の世界には、もはやエヴァンゲリオンは存在していない。
 Neo Evangerionは旧来のそれとはかなり違った物となっている。
 しかも碇シンジは、そのパイロットとして不適との判定が下されている。
 しかしアルテリーベが拘る理由としては、それぐらいしかないのも事実だろう」
「だとしたら、非常に危険なことになるのではありませんか?」
「言っただろう、もはやこの世界にエヴァンゲリオンは存在していないと。
 従って、碇シンジはもはや危険な存在ではないのだ。
 もちろん分析は急がせているが、今のところ事情は分かっていない。
 しかも危険だからと断ることは、日本にとって失う物が多すぎるのだ」

 非常に重要な政治判断を行った結果、日本はアルテリーベの申し出を受けるという決断を行ったのだと。受け入れたリスクは、広く人類で負うものであるが、受け入れたメリットは日本国が享受する物だった。その面でも、申し出を受け入れるべきと判断されたのである。

「私を呼び出した理由は、碇に手を出すなと釘を刺すためと言うことか?」
「友綱の存在が消え失せる覚悟があるのなら、それ以上我々は何も言わないだろうな。
 国益を考えたなら、どちらを優先するかなど論じるまでもないだろう。
 それに友綱君、君にとっても悪い話しばかりではないと思うのだがね。
 豪龍寺学園を舞台に、君は陰で世界を牛耳る国家との繋がりを持つことが出来る。
 その価値を理解できないほど、碇との争いに目がくらんでいるとは思っていないのだが?」

 どうかと聞かれれば、否定を返すことは出来ない。だが碇との戦いを、どうでも良いと答えることも出来ないのだ。だから黙ったオウガに、今はそれで良いと鷹山は答えた。

「それでこの事だが、事が事だけに慎重に運ぶ必要がある。
 従って、今しばらく内密にして欲しい。
 発表自体はアルテリーベで、共同記者会見の形で行われることとなるだろう。
 その時日本でどのようなブームが起こるのか、考えてみただけでも興奮するとは思わないかね」

 計算尽くの鷹山の言葉に、そう言うことかとオウガも事情を理解できた気がした。政権を獲得して以来、鷹山の支持率は下がる一方だった。経済的に施策を打ち出せず、外交でも失点が続いている。アルテリーベとの国交樹立は、この時期願ってもない支持率回復の特効薬となる。そのキーパーソンとなる碇シンジは、内閣を挙げて守るべき存在となっていたのだ。
 いくらオウガでも、国を相手に喧嘩をすることは出来ない。だからいくら気に入らなくとも、碇シンジへの攻撃は控えざるを得ないだろう。それに鷹山に言われるまでもなく、アルテリーベの王族を学園に迎え入れるのは、友綱にとっても大きなメリットとなる。いくら碇が気に入らなくとも、我慢する以上の見返りがあると言っていいだろう。

「それが、私の呼び出された総てと考えて宜しいのか?」
「ああ、これが総てに違いない。
 我が国として、今はこれ以上優先すべき事はないと考えているよ」

 嫌な顔だなと、打算を顔に出した鷹山を見たオウガは思った。それが政治家だと言えば今更なのだが、己の立場を守るためなら、どんなことをするのも彼らなのである。それだけを取ってみれば潔いとも言えるのだが、巻き込まれる方としてみれば良い迷惑としか言い様がない。しかも本当に国家の利益となるのか、それすら彼らの判断は疑わしい。
 だがオウガは、それ以上その場に留まることを良しとしなかった。お互い利用し合ってきた間で、それ以上の繋がりなど無いと思っていたのだ。国を憂う気持ちはあっても、それをこの場で語るほど青くもないと思っていたこともある。それよりも、今は奈良に帰り、新たな方策を考える必要があったのだ。

 前川国交相からは、当然のように夜のお誘いが行われた。だがオウガは、明日の準備を理由に早々に第二を去ることにした。このまま残れば、政治資金を無心されることは分かっていた。
 慌てて帰ったお陰で、オウガが地元奈良に着いたには午後7時前だった。気の重くなる話しを聞かされただけに、家に帰ることはオウガの気持ちを楽にさせる意味を持っていた。それに碇に対する対応を、ソウシ達に指示を出す必要もある。編入試験を前日に控え、どたばたとも言える方針転換を伝えなければいけない。

 事務所から離れた自宅に付いたオウガは、玄関で妻キコの出迎えを受けた。「お疲れ様です」と頭を下げた妻に、オウガはまずソウシとマドイの居場所を尋ねた。時間からすれば帰っていて当たり前なのだが、週末でもあり、今日に限ってと言うこともあり得る。その時には、電話で呼び戻す必要もあるだろ。
 オウガの問いに、キコは「二人とも帰っていますよ」とおっとりと答えた。そうかというオウガに、それからとキコは来客があるのを伝えた。

「来客? 俺にか?」
「マドイちゃんが無理矢理招待したみたいですよ。
 ですから私、マミヤさんに謝りの電話を入れてしまいましたぁ」
「瑞光の娘が来ていると言うことか……」

 前日のいざこざを考えれば、瑞光フジノが来るとは考えていなかった。ただ関係者が集まることは、これからの話しをするのにむしろ都合が良い。だが「分かった」と家に入ろうとしたオウガに、もう一人男の方がとキコは付け加えた。

「男?」

 玄関前で立ち止まったオウガは、聞いていないなとキコに聞き返した。

「瑞光の娘と、誰が一緒に来たというのだ?」
「それがですね、もの凄く格好の良い男の方ですよ。
 もうマドイちゃんが舞い上がっちゃって、ぴったりくっついて離れないんです」
「で、その相手は誰なんだ?」
「男の方のお名前ですか……確か、そうそう、碇シンジさんって仰有いましたね。
 友綱の宿敵碇の跡取りと同じ名前だなんて、世の中には偶然という物があるんですね」

 全く危機感を感じさせない妻の言葉に、オウガはがっくりと両肩を落とした。物事に動じないというか、のんびりしたというか、どこか方向性のずれた妻の感覚は、癒しという面では大きく役立ってくれていた。だが今日に限って言えば、オウガを逆に疲れさせることになった。よりにもよって、碇の次期当主を家に招き入れている。しかも娘がくっついて離れないとなると、一体何が起きればこんな事になるのか。事情を聞きたいと思ったオウガだが、にこにこと笑う妻にそれを諦めることにした。

「碇シンジが来ているのだな?」
「もの凄く格好いい男の子ですよね。
 家のマドイちゃんやフジノちゃんが夢中になるのもよく分かるわぁ。
 それにとっても礼儀正しいし、私もすっかり気に入っちゃいました」
「そうか、碇の跡継ぎが来ているんだな……」

 自分の本拠地に、こうも早く乗り込んでくるとは考えていなかった。どうした物かと考えたが、良い考えなど出るはずもない。もはや友綱は、碇シンジに手を出すことも出来なくなっていた。

 玄関の引き戸を開けると、舎中の男が一人立っていた。その男に頷いたオウガは、第一印象が肝心と、気張って廊下を歩いていった。手を出すことが出来なくとも、精神的に優位に立つ必要がある。そのためには、意味のないこけおどしもしておく必要がある。
 ずんずんと廊下を突き進んだオウガは、応接のドアを無造作に開いた。ここが友綱家で有る以上、家長であるオウガがノックなどと気を遣う必要はない。それもまた演出と、粗野を装って中に入ったオウガは、立ち上がった子供達をじろりと睥睨した。

「よくも、碇が家の敷居をまたぐことが出来たな!」

 一瞬気圧されたが、それをそぶりにも出さず、オウガはシンジを睨み付けた。そして関西一円に睨みを利かす強面を生かし、恫喝の言葉を言い放った。それに反発しようとしたマドイは、目で黙らせたが、残念ながらシンジとフジノはそんな物を屁とも思っていなかった。いきなりそれかとフジノは反発し、シンジは涼しい顔でオウガの恫喝を聞き流した。そして言い返そうとするフジノを押さえ、「自分としては来るつもりはなかった」と答えた。

「マドイさんがどうしてもと言うから、仕方なく来たんですけどね。
 一家の主が歓迎していないというのなら、僕はおとなしく帰ることにしますよ。
 ただし、この仕打ちに対する報復はしっかりとさせて頂きますけどね」
「ほう、まだ尻の青い小僧が偉そうなことを言ってくれる」

 牙のような犬歯をむき出しにして、オウガはにいと笑って見せた。ここまでの演技は迫力満点、一点の曇りのない物だとオウガは自賛していた。だがオウガの迫力も、肝心のシンジには通用していなかった。なんでかなぁと頭を掻いて、時代錯誤が甚だしいとシンジは言い返した。

「どうも碇の爺様と言い、友綱のおっさんと言い……
 相手が子供と、軽く見てくれるのかなぁ。
 まあ売り言葉に買い言葉なんだろうけど、言葉の一つ一つが軽いんだよね。
 しかも自分の言葉が、身内にどんなダメージを与えるのかを考えていない」

 ねえと話しを向けられたフジノは、全くだと大きく頷いて見せた。

「もっとも、私にとっては悪い話しじゃないんですけどね。
 どうでしょうシンジ様、編入先を豪龍寺以外にするというのは。
 県立でしたら、こんな面倒なことを考える必要はありませんよ。
 それにバイク通学……は出来なくても、免許を取れる学校もありますから。
 もちろん、私も一緒に編入させて頂きますけどね」
「まあ、爺様には言い訳をしておけばいいのかなぁ。
 と言うことでソウシ君、マドイさん、同じ学校に通うのは再考する事になりそうだよ」
「し、シンジ様、そんなことになったら、私も豪龍寺を出て付いていきます!」

 青ざめた顔をしたマドイに、「俺も協力する」とソウシは続いた。そしてオウガは「敵を目の前に逃げるのか!」と挑発してきた。

「逃げる!?
 なかなか楽しい発想ですよね。
 僕が豪龍寺に行かないだけで、崩壊しそうな家族のくせにねぇ。
 まあ帰れと言うんだから、今日の所はおとなしく帰りますか。
 さて帰ったら、忍野さんに別の高校を探して貰わないと……」
「そう言う話しでしたら、父の顔が効く高校が他にもありますから」

 そうしましょうと立ち上がったフジノを、「お姉様!」とマドイが呼び止めた。だがそれ以上に声が大きかったのは、誰有ろうオウガがシンジを呼び止める声だった。

「ま、待て……今更入学しないというのは無しにしてくれ。
 客人に対する無礼は、この通り詫びることにする!」

 すまんと頭を下げたオウガに、シンジは冷ややかな目を、そしてそれ以外の三人は驚きの視線を向けた。まさか唯我独尊を地でいく友綱オウガが、こんなにあっさりと折れるとは誰も思っていなかったのだ。

「何があったのかは知りませんけど、それを言葉が軽いって言うんですよ。
 考え無しに恫喝なんかするから、逆に謝らなければいけなくなってしまう」

 シンジはそう言うと、フジノに座るように目で合図した。それに頷いたフジノは、「あまりにも予想通りの対応だった」と種をばらした。

「シンジ様の正体については、マドイちゃんから説明して貰った方が良いわね」
「正体……何のことを言っている?
 碇家次期当主、碇シンジではないというのか?」
「あまり気が乗りませんけど、今ので合っていますよ。
 フジノさんが言いたかったのは、別の意味での正体って事なんですけどね。
 でも、僕としてはあまり言いふらして欲しい事じゃないんだけど……」

 バラスの?と聞いたシンジに、女性陣二人は大きく頷き返した。そして私がと父親に向き合ったマドイは、「私の恩人です!」とシンジを紹介した。

「ローマで誘拐された私を、シンジ様が助けて下さいました。
 お父様、友綱は、そして私は、シンジ様に大きな恩を受けているんですよ。
 そのシンジ様に、先ほどの態度はあり得ないと私は思うわ!」
「ローマで、マドイ、それは本当なのかっ!」
「こんな事で嘘を付いても意味が無いわよ。
 まさかこんな身近に、王子様がいるだなんて私だって思ってなかったんだから」
「マドイを救ったのは、碇家次期当主と言うのか……」

 顔から血の気が引いたオウガに、どうしたのだろうと子供達は訝った。確かに衝撃の事実に違いないが、そこまで驚愕する事とも思えない。「親父」とソウシが声を掛けても、オウガはまともに反応しなかった。

「俺は……友綱は、戦う前から碇に負けていたと言うことか」
「何にショックを受けているのか知りませんけどね。
 こういう事は、勝った負けたと言うことには関係有りませんよ。
 まあソウシ君もようやく理解してくれましたけど、僕はそんな勝負をするつもりはない」
「そちらになくとも、俺は碇を潰すつもりで頑張ってきたのだ!!」
「だったら、これからも頑張っていけばいいじゃないですか。
 やれやれ、強面をしているくせに、結構ひ弱な性格をしているんですね」

 仕方がないとため息を吐いたシンジは、「やはり帰る」と二人に告げた。シンジの言葉に、当然のようにマドイが反対した。折角家にまで連れ込んだのだから、ここで点数を稼いでおく必要がある。

「で、でも、せっかく母が夕食を用意しているんですよ。
 それにマミヤおばさまには、夕食は要らないと連絡がしてあります。
 今から帰られても、夕食の用意はないと思います……」
「だったら、フジノさんと二人で食事でもして帰るよ。
 マミヤさんだったら、絶対に駄目とは言わないと思うからね」
「そのまま泊まってきても良いって言うでしょうね」

 シンジの尻馬に乗ったフジノの言葉に、絶対に駄目とマドイは大声を上げた。

「外でお食事をされるのなら、私もお供致します。
 今日の無礼のお詫びと言うことで、私がお二人を招待致します!」
「君は、ちゃんとお父さんと話しをした方が良いんだけどね」
「話しでしたら、兄一人いれば十分です!
 二人きりの兄妹なんですから、これくらいの役に立った貰わないと困るんです!」

 そう言うかと男二人は顔を少し引きつらせ、フジノは「邪魔をするんじゃない」とマドイを睨み付けた。そのフジノの視線を跳ね返し、絶対に引かないとマドイは食い下がった。

「こればっかりは、たとえお姉様相手でも譲るわけには行きません!」
「私も、絶対にマドイに譲ることはないからね」

 火花を散らす女の戦いを見せられ、何とかしろとソウシはシンジをじっと見た。本音としては「妹をよろしく」と言いたいが、今はこの膠着した情況を打開するのを優先する必要がある。ソウシの視線に負けたシンジは、仕方がないと深ぁいため息を吐き、「家に帰ろう」と仲裁案を持ち出した。

「食べないって連絡を入れたのが遅いから、たぶん材料なら家にあると思うんだ。
 僕がマミヤさんに頭を下げるから、夕食は家に帰ってから取ることにしよう」
「母に頭を下げなくても、私が心を込めた手作りの夕食をごちそうしますよ」
「だったら、私が行ってごちそうします!」

 煽るなとフジノに文句を言いたかったが、それを我慢し「今日は駄目」とシンジはマドイに言った。

「それに、マドイちゃんが心配するようなことは起きないよ。
 だから、今日はおとなしく家にいてくれるかな?」
「本当に、何も起きないんですよね?」

 シンジへの確認の癖に、マドイの視線はフジノへと向けられていた。絶対に油断しないという意志を込めた視線に、さすがにフジノが折れた。

「今日の所は約束するわ」
「でしたら、私も今日の所は大人しくしていますから……
 次は、絶対に夕食も食べていってくださいね!」
「ちゃんとお父さんに了解を取ってくれたらね。
 碇となれ合う事は、友綱にとっては問題の多い事だと僕は思うよ」

 それを考えたら、けじめだけはしっかりしておく必要がある。一応オウガに理解を示したシンジは、「お邪魔しました」と頭を下げた。

「明日の編入試験で、何をしてくれるのか楽しみにしていますよ」
「今更試験が必要とは思わないが、期待に応えられる物を用意してやろう」

 負けずに言い返したオウガに、「楽しみにしています」とシンジは返した。和気藹々も悪くはないが、やはり緊張感があった方が面白い。少なくとも、これからの学生生活は退屈しなくても済みそうだ。

 見送りは要りませんと言ったシンジだったが、当然のことながらマドイは言う事を聞かなかった。それどころか、玄関まではまとわりつき、「また来てくださいね」と思いっきり媚びを売った。そしてさもそれが当然の事のように、日曜日の約束を取り付けようとした。編入試験が土曜日一日で終わるのだから、日曜日はずっと暇なはずだというのである。

「日曜日は、私が奈良の町を案内する予定になっているの」
「でしたら、私もお供いたしますわ。
 デートじゃないんですから、大勢の方が楽しいですよね?」
「ってことは、俺も付き合わなくちゃいけないのか?」

 自分を見る妹の視線に、そう来るかとソウシはがっくりと肩を落とした。嫌な相手で無い事は理解できたが、一緒に歩くとなると別の問題が生まれてくる。絶対に隣に立ちたくない、今日一日でソウシはしっかりと思い知らされたのだ。

「もちろんですお兄様。
 そうしないと、男女の割合がおかしくなってしまいますからね!」

 特にフジノとの仲が進展するのを警戒しているのだろう。絶対に譲らないという剣幕で、マドイはシンジに迫ってきた。まあシンジにしてみれば、デートにするつもりなど元々無かったのだ。だから二人が四人になっても、何の問題もなかったのである。

「ああ、別に僕は構わないよ」
「でしたら、シンジ様を私が迎えに行きます。
 9時ぐらいにお伺いしても宜しいでしょうか?」
「9時だね、楽しみに待っているよ」

 そう言って微笑む物だから、マドイの顔はしっかりと赤くなっていたりした。それを複雑な目で見たフジノは、帰りましょうとシンジの手を引っ張った。

「シンジ様、日曜日は楽しみにしています!」

 それ以上引き留める手立てもなく、仕方なくマドイは日曜の約束だけ繰り返した。「きっとですよ!」と閉じた扉に声を掛けるほどの力の入れようだった。
 しばらくじっと扉を見ていたマドイだったが、ようやく諦めたのか居間に戻る事にした。居間に戻ったら戻ったで、余計な事をしてくれた父親を締め上げる必要がある。ここで帰ってこなければ、今日はシンジと楽しく夕食を食べられたはずだったのだ。同居していないのだから、ただでさえ瑞光フジノとの競争は不利なのだ。そこに来て父親が足を引っ張ろう物なら、思いを叶える事もできなくなってしまう。

「お父様には、しっかりと釘を刺しておかないと……」

 残された時間はとても短い。それに短期で勝利を掴まなければ、新たな邪魔者が生まれる可能性もある。本能的に危険を察知したマドイは、最初の問題、父親を締め上げるため居間に戻っていったのだった。



 奈良の市内は、景観を考慮して街灯の数が制限されていた。それもあって、友綱からの帰り道は、結構暗がりが多くなっていたりした。結果的に、中々女性の一人歩きは危ないという環境ができていた。そしてそれを口実に、フジノはぴったりとシンジにくっつく事にした。幸いシンジからも嫌がられなかったので、それならと左腕を抱え込むようにしてみせた。制服というのはこの場合マイナスなのだが、それでも女性を強調しておく事に超した事はない。それなりの柔らかさが、シンジの二の腕にも伝わっているはずだ。
 そしてフジノは、今日一日に起きたどたばたをシンジに謝った。とにかく話が、予想外の方向に飛びすぎたのだ。日本に来て3日の出来事と考えると、あまりにも目まぐるし過ぎたのだ。

「碇さん、今日はご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「迷惑……別に、迷惑を掛けられたつもりもないけど?」

 はてと首を傾げたシンジに、友綱の家族の事だとフジノは自分の考える迷惑の中身を説明した。友綱オウガはもちろん、マドイの事も迷惑だったろうと言うのだ。と言うか、迷惑だと言って欲しかった。
 だがシンジは、特に意に介した様子は見せなかった。さすがにマドイの事は驚いたが、同じ学校に通うのだからいつかはばれる事だと諦めていた。そして友綱の支配する学校への入学を希望したのは、誰でもない碇自身なのである。友綱オウガにしてみれば、結構神経を逆撫でされる事に違いなかった。それを理解しているから、オウガの態度に対して腹を立てる事もなかったのだ。もちろん、ポーズだけはしておいたのだが。

 ただシンジにとっての問題は、入学しないと言ったときのオウガの反応だった。あの慌てようを見ると、何か大きな裏があるとしか思えない。そうなると、その首謀者がいったい誰なのか。それが自分に対してどんな影響を及ぼす事になるのか、それを考え、対策を練らなければならなくなってしまうのだ。しかも頭の中では、しきりに赤い髪の悪魔が警戒警報を発してくれている。それは今まで自分をからかってきたときとは違い、本当に危険が迫っている印でもあったのだ。

(オウガ氏も、自由にできない事情ができてしまった……
 たぶんその一つが、今僕たちを監視している人たちに関わっているんだろうね)

 シンジにも友綱の配下とは、比べものにならない気配を感じる事ができる。その感覚が正しければ、相手は訓練されたプロに違いない。もしも襲撃されることにでもなれば、自分ではひとたまりもないと思えてしまう。

(ましな選択は、先手を打つ事だけど……
 隣にフジノさんがいる状況では、それもままならないか)

 ならばフジノ一人で帰らせるという方法もあるのだが、それならそれで説明が難しくなる。それに一人にしたフジノが安全という保証もないし、フジノと離れたところで敵も用心してくるだろう。その時点で、すでに先手を打つ事ができなくなってしまう。
 手詰まりだなと、シンジは思わずため息を吐いてしまった。その迂闊な行動に、当然のようにフジノが食いついてきた。

「やっぱり、ご迷惑をお掛けしてしまったんですよね?」

 ああ失敗。さすがに本当の事を言うわけにも行かず、シンジはとりあえずの理由を作ってその場を取り繕う事にした。

「ああ、さすがにまだこちらの時間になれていないからね。
 時差ぼけって言えばいいのかな、だからちょっと疲れちゃったんだよ」

 大したことじゃないと笑ったシンジに、そうですかとフジノは少し不満そうな顔をした。もっとも暗くて顔がよく見えないので、シンジは声色からそれを感じ取った。

「どうかしたの?」
「いえ、ちょっとだけ期待を裏切られたかなぁと。
 こんな暗がりで、女の子と二人でいるから緊張してくれたとか……」
「あ、ああっ、そう言えばそう言うシチュエーションだったねぇ」

 あっけらかんと答えるシンジに、フジノの落胆は更に大きくなった。

「はぁ、やっぱり女として意識して貰えていないんですね……
 そりゃあ、碇さんの知っている方と比べたら、子供には違いありませんから……」
「今は、特定の一人とお付き合いをしたいと思っていないからね。
 それにフジノさん相手に、無責任な事をするわけにはいかないんだよ」

 だから意識をしないようにしている。そう言って笑ったシンジに、「落ち込むなぁ」とフジノは大げさに嘆いて見せた。

「これでも17、もう結婚できる年齢なんですよぉ」
「僕も17、まだ結婚できない年齢なんだよ」

 広い通りに出たおかげで、先ほどに比べて周りが明るくなった。それに比例して人が増えた事もあり、ぴりぴりするような気配も感じられなくなっていた。

(今日のところは、見逃してくれたのかな?)

 フジノと会話をしながら、シンジはあたりに気を配った。意味も無く近づいてくる者は居ないか、遠くからこちらを伺っている者は居ないか。気をつけて周りを見てみたが、特に異常を感じる事はできなかった。

「ねえ碇さん、話を聞いています?」
「えっと、その、なんだっけ?
 ちょっとぼうっとしていたかも知れない……」
「そうやって、肝心なところをごまかすんですね」

 あからさまにがっかりしたフジノに、それでとシンジは聞き返した。だがフジノにしてみれば、結構恥ずかしい事を口にしたという自覚がある。それを繰り返して言うのは、初めに言うのよりも勇気が必要となってくるのだ。もちろん改まって聞かれて、繰り返すほどの勇気があるはずもない。だからフジノは、「もう良いです!」とふくれて見せた。しかも胸元にシンジの腕を抱いたままなのだから、すねた真似というのが真相だろう。
 そんなフジノを可愛いと思いながら、一方でシンジは厄介な事になってきたと考えていた。友綱の監視なら可愛いが、相手がプロとなると事情は全く変わってくる。なぜ今になって自分が狙われる事になるのか。それが分からなければ、対策の打ちようも無いという物だ。

(だからと言って、あの人に頼るというのも……)

 搾り取られる……何がと言うのは憚られるが、その恐怖がシンジにはしっかりと残っていた。次に頼ったら、いったい何を要求される事か。それを思うと、迂闊に相談するわけにも行かない。ならばどうして問題を解決するか、情報を集めようにもそのあてが全くないというのが実態だった。

(友綱のおっさんが何かを知っていそうだけど……)

 締め上げてみたら、素直にげろしてくれるだろうか。どうやら自分が入学しないと困るようだから、それを種に強請ってみようか。顔に似合わぬ悪辣な事を考えたシンジに、頭の中の天使達から碇ドッポの名が出された。あの食えない年寄りなら、何かを掴んでいるのかも知れない。それも良いかと考えたとき、「やっぱり話を聞いていないんですね」とフジノに二の腕をつねられた。

「そう言うのって、結構傷つくんですよ」

 分かってます? と腕を抱えられたまま覗き込まれたシンジは、ちょっとしたいたずらとフジノのおでこにキスをした。
 全くの不意打ちに、抱えていたシンジの手を放し、フジノは盛大に狼狽えた。多少明るくなった光でみると、顔も真っ赤になっているようだ。もの凄い反応だなと笑おうとしたシンジだったが、再び感じた気配にそうも言っていられなくなってしまった。

「別口も居る?」

 自分はいったい何なのだとおもってしまう。何しろエヴァのパイロットとしては、不要と判定された身である。そんな自分を付け狙ったところで、いったい何の利益があるというのだろう。それに恨みを買ったとしても、組織レベルだと想像も付かない。ゼーレが消滅した事は、シンジ自身がちゃんと理解していた事だった。

「別口って、いったい何なんですか?」
「いやぁ、何か覗かれているみたいだから……
 マドイちゃんにおかしな話が伝わると、後々厄介そうだからねぇ……」
「まったく、碇と友綱の確執って何だったんでしょうね!」

 そのことについては、フジノも色々と言いたいことがあるようだ。全くですとふくれてみせて、早く帰りましょうとシンジを急かした。外にいれば、色々と人の目もある。家にさえ帰ってしまえば、夜はまだまだ長いのだと。約束などと言う物は、破るためにあるものだとフジノは確信していた。



 二転三転する指示というのは、受け取る側にしてみれば迷惑としか言いようがないものだ。ただそれを主張するのが自分の首を絞めることに繋がるとなると、表だって不満を口にすることはできない。豪龍寺学園教師達にしてみれば、友綱と碇の確執は分かるが、それならそれで一貫した態度をで臨んで欲しいと思っていた。
 そしてその思いは、教頭の桃谷にとって更に大きなものになっていた。それは事前に知らされた、誘拐事件解決の真相、彼の首を繋げてくれた理由が現れたとなれば当然だろう。この状況において編入試験の意味があるのか、大いなる茶番劇に頭痛を感じていたのである。

 ただ教師達の葛藤も、シンジが豪龍寺に現れるまでのことだった。付き添ってきたのは、相変わらず胡散臭い中年男だし、生徒会長瑞光フジノがいたのも、下宿人の世話と考えれば不思議ではないのだろう。だがそのフジノを牽制するように、友綱マドイがいるのはどう考えればいいのか。友綱と碇の確執はどうなったのだと、フジノと同じ不条理さをそこに感じたのである。ただその程度は、本人のインパクトに比べれば大したことは無かったと言えるだろう。

「あなたたち……」

 編入試験は遊びではない。担当を仰せつかった天王寺マナミは、瑞光フジノ、友綱マドイに注意しようとした。だがその二人に挟まれたシンジに気づき、声が出なくなってしまった。齢50を超えた堅物教師が、17歳の少年に圧倒されてしまったのだ。

「おはようございます。
 今日はよろしくお願いします」
「えっ、そ、お、おはようございます。
 こ、ここから先は、本人以外は立ち入り禁止です。
 ひ、控え室を用意しますから、付き添いの方はそちらでお待ちください」

 シンジの挨拶で現実に引き戻された天王寺は、教師として必要な指示を出すことに成功した。ただ控え室とは言ったが、初めの予定ではそんな物は用意していなかった。忍野一人だったら、有無を言わさずに追い返していただろう。だが生徒会長と理事長の娘が加わるとなると、いかに古参教師でも対応を考えなければいけなくなる。しかもシンジにじっと見られると、冷たい対応などできなくなってしまうのだ。

「終わったら一人で帰れるから、二人とも先に帰ってくれていいよ」

 と言うか、待ってくれなくてもいい。ここまで来る間に疲れさせられたシンジは、その思いを込めて二人に言った。だがその二人からは当然のように「待っている」という答えが返ってきた。そして張り合うようにその理由を言ってくれるのだから、余計にシンジを疲れさせてくれた。

「忍野さん、何かいいことでもありました?
 僕には、とっても嬉しそうに見えるんですけど?」
「いやぁ、微笑ましい物を見せて貰ったなぁと思いましてね」

 ぼりぼりと頭を掻いたメメは、わざとらしく「微笑ましい」を強調してくれた。そして「必要な準備をする」と言って、3人を置いて帰ろうとしたのだ。

「お嬢さん達が付き添ってくれるのなら、私は別の仕事をさせて貰いますよ。
 いや、なに、こういう時には、気を利かせるのが大人の態度でしょう」
「……逃げるんですね?」
「余計なことには首を突っ込まないようにしているんですよ。
 先生をお待たせしているようですから、私はこれで失礼させて貰います」

 じゃあと少し卑屈な態度をして、メメはその場を去っていった。未だに少女二人が両側から離れてくれないのだから、シンジは孤立無援と言うことになる。勘弁してよと言いたいところだが、全ては自分がまいた種なのだ……たぶんそうなのだろうと折り合いを付け、よろしくお願いしますと天王寺に頭を下げた。

「こ、こちらこそよろしくお願いします」

 少し慌て気味に、そして顔を赤くして頭を下げた天王寺に、「こいつも落ちた」と赤い髪をした悪魔がぼそりと呟いた。「見境無いねぇ〜」と言う灰色の髪をした天使の言葉には、濡れ衣だとシンジは主張したかった。自分は普通にしているだけだから、少なくとも見境無いとは言われたくない。しかも相手は、どう見ても母親としか思えない年齢の女性なのだ。
 もっともシンジの心の中のことなど、天王寺に分かるはずがない。フジノとマドイには、控え室で待っているようにと厳しく命じ、シンジには猫なで声で付いてきてくださいとお願いした。その気持ち悪さに、敵視される方がマシと言うことを、ここに来てシンジは確認させられたのだ。

 編入試験用に用意された面談室に連れて行かれる途中、シンジは天王寺に試験の方法を確認した。その心は、長い時間茶番に付き合っていられないという本心がある。こんな茶番で、一日を無駄にしたくないと思っていた。

「は、はい、国数英理社の5教科9科目を受けて頂きます。
 その後には、面接を受けて貰うことになっています……」
「ほぼ、一日がかりと考えていいんですね?」
「普通なら、二日分の試験なんですけど……」

 とても申し訳なさそうにする天王寺に、お願いしてもいいかとシンジは持ちかけた。

「私には権限が無いので、教頭に伝えるだけになりますが……それでもよろしいでしょうか?」
「ええ、そうしてくだされば結構ですよ。
 それでお願いしたいことなんですが、
 一つの科目が終わったら、すぐに次の科目を持ってきて貰えませんか?
 そうした方が、皆さんの拘束時間が短くなると思いますから」
「ええっと……」

 試験時間を短縮するというつもりでシンジは言ったのだが、残念ながら天王寺はその意味を理解することはできなかった。それも仕方のないことで、9科目を一日で終わらせるため、通常の試験時間よりも1科目あたりの時間を短縮していたのだ。しかも試験問題は減らしてないので、時間が余ると言うことはあり得ないと思っていた。「終わったら」と言うのは、逆に試験時間が長くなると普通ならば考えてしまうことだろう。

「申し訳ありませんが、問題量は時間内に終わる分量じゃないんです。
 それに難易度も、有名大学の難問に手を加えてさらに難易度を上げていますから……
 だから制限時間の方が先に来てしまうと思いますが……」
「制限時間で打ち切って貰うのはいっこうに構いませんよ。
 ただ、それより早く終わったら、すぐに次の試験に移りたいなと思っただけです。
 その方が、待っている二人も大人しくしていると思いますからね。
 それで、この話は教頭先生に伝えて貰えますか?」

 そうやってまじめに聞かれると、だめと言うわけにも行かなくなる。「分かりました」と答えた天王寺は、だめとは言われないだろうと朝からの桃谷を思い出していた。教師達には、編入試験を行う必要がないという気持ちが広がっていたのだ。

「最初は数学から始めますので、準備をして待っていて貰えますか?
 今の話は、教頭先生に伝えてきます」

 とても丁寧にお辞儀をした天王寺は、乱暴にならないようにゆっくりと面談室の扉を閉じた。そこでようやく重圧から解放されたのか、とてもとても深いため息を吐いたのだった。

「何よ……あんな子がどうしてうちに入学を希望するの!?」

 世界が違いすぎると、気持ちを落ち着けるように天王寺は深呼吸した。そうしないと、まともに話もできそうになかった。

「でも、先生って言われたら……耐えられないかも知れないわ」

 心臓麻痺でぽっくり逝くような歳ではないが、失神ぐらいすることはあるだろう。追っかけしている韓流スターなど、あの生徒の前では石ころ同然に思えてしまった。これから先、本当に教師として接することができるのか。その自信がどうしても持てなかった。

「桃谷先生には、ちゃんと伝えないと……」

 たぶん頭にも自信があるのだろうな。その自信を自分たちはへし折ることになる。そう思った天王寺は、自分たちの出題を後悔したのだった。

 だが天王寺の後悔も、第一科目の数学Tが終わるまでのことだった。何しろ50分の時間を取っていたテストが、僅か10分で終わってしまったのだ。たとえ事前に問題が漏れていたとしても、10分という時間で解答を仕上げるのはあり得なかった。何しろ嫌がらせが目的なので、しっかりと記述式の問題を用意していたのだ。
 それ以上の問題は、10分で完璧な解答に仕上がっていたことだ。答案を受け取った今宮は、その見事さに自分の目を疑ったほどだった。模範解答として用意した自分の答えが、恥ずかしくて出せなくなってしまったと言えば、その程度も想像できるだろう。この際書かれている字が綺麗だったのは、おまけとしか言いようがなかった。

「それで……今宮先生。
 次のテストをお願いしてもいいですか?」
「あ、ああっ、ちょっと待ってくれ……たぶん野田先生の準備ができていない。
 い、今から呼んでくるから、そのまま次の準備をしててくれないか?」

 こんな物を見せられたら、とても冷静ではいられない。動転しまくった今宮は、待っていろと言い残して面談室を出て行った。その姿が部屋から消えたとき、シンジの頭の中で赤い髪をした悪魔が「やり過ぎ」と苦笑混じりに言ってきた。

「一応けんかを売られた身だろう?
 だから倍返しをしてあげたつもりだけど?」

 たいしたことじゃないと苦笑したシンジに、それでもやり過ぎだと赤い髪の悪魔は言い返した。

「そんなことをすると、学園がますます居づらくなるわよ」
「あの二人がいる以上、たいした差は無いと思う」
「開き直って、ハーレムを作るのをお勧めするよ。
 そう言う目で見れば、なかなか可愛い二人だと思うよ」
「僕としては、そのいずれも勘弁して欲しいんだけどね……
 まあ珍獣扱いも、初めのうちだけだと……だといいなぁ」

 何をしても泥沼にはまっていく気がしてならない。友綱ソウシに言われたように、静かな学園生活というのは期待薄なのだろうか。

「敵視される方が楽だなんて、思いもしなかったよ」

 はあっっと深すぎるため息を吐いたところで、野田がテスト問題を持って現れた。緊張して見えるのは、シンジを見たせいか、はたまた今宮の忠告のせいだろうか。いずれにしても、すでに教師との力関係はシンジの方に倒れていた。

「難波先生も控えているから、次からは待たせないと思う……」

 しっかりと緊張する野田に、確かにやり過ぎたかと、赤い髪をした悪魔の言葉を認めたのだった。ただシンジにしてみれば、まだまだ手加減をしまくった結果なのだ。



 フジノとマドイの二人は、言われたとおりに「控え室」へ入っていた。もともとの予定がないこともあり、控え室自体は急ごしらえされた物だった。ただマドイが理事長の娘と言うこともあり、来賓応接が控え室に当てられていた。ふかふかのソファーにスカートを気にしながら座った二人は、事務員の出したお茶を飲んでいた。

「ここで待つしかないってことね?」
「……そうなんですけど、お姉様と二人きりというのは」

 そう言ってマドイは、少し離れた面談室の方へと視線を向けた。折角朝からシンジ様に逢ったのに、学校に来るまでの短い時間しか一緒にいられなかった。そしてこれから編入試験の終わるまでの長い時間、おもしろみも何もない応接室で、恋敵のフジノと一緒にいなくてはいけない。自分では綺麗になったと思っていても、まだまだフジノには負けていると知らされるのは苦痛だった。
 そんなマドイに向かって、「あらっ」とフジノは少し楽しそうに驚いて見せた。

「マドイ、わたしのこと嫌いになったの?」
「……別に、そう言うことではないのですが」

 なぜ楽しそうにしているのか分からないマドイは、更なる居心地の悪さを感じていた。だが思ったことを口にできるはずもなく、そのまま黙ってしまったのだった。
 一方フジノにしてみれば、楽しそうにしているのにはそれなりの理由があった。何しろ前夜は、シンジに色々と教えて貰っている。それだけでマドイに対するアドバンテージとも言えるのだが、それ以上に教師達の反応に興味があったのだ。まず最初に堅物の天王寺が犠牲になったが、この後どれだけの教師が犠牲になることか。いけ好かない桃谷がどう反応するのか、それを考えると楽しくて仕方がなかったのだ。ただ、敢えて教える必要もないと、フジノは自分一人だけの楽しみとしていたのである。

 フジノに対する複雑な思いと、シンジに逢えない寂しさ、その二つに押しつぶされそうなマドイは、とても複雑というか、はっきり言って楽しそうには見えない表情を浮かべていた。その一方で、これから起きる事を想像したフジノは、はっきり言って楽しそうな顔をしていた。テストが始まってしばらくは、その不思議な状態が続くことになった。
 だがフジノへの複雑な思いを封印したマドイは、お姉様がなぜ楽しそうなのかを追求することにした。何かいいことがあるのなら、共有した方が賢いと考えたのだ。

「お姉様、どうしてそんなに楽しそうな顔をしているんですか?
 面接が終わるまでだと、シンジ様に会えるのは夕方になってしまうんですよ」

 離れていて寂しいと嘆くマドイに、フジノは思わせぶりな笑みを返した。それが気になったマドイは、もう一度どうしたのかと聞き返した。

「お姉様、何か隠されていませんか?」
「そりゃあ、マドイは私のライバルだもの」

 にっこり笑って返されれば、それ以上マドイも追求ができなくなる。確かにフジノの言うとおり、シンジのことに関して自分は彼女を目の敵にしている。ライバルには教えられないと言われれば、教えて欲しいとは言いにくくなってしまう。それに、一応ライバルとして認められているのはうれしかったし……
 ただフジノも、この程度のことは教えても構わないと思っていた。何しろ自分には、シンジのとっておきの秘密、女装ということを知っているのだ。これだけは、高校生活の中では絶対に知ることのできない秘密だろう。それに比べれば、天才的に頭がいいと言うことは、このテストだけでもばれてしまうことなのだ。だからフジノは、小さく吹き出しながら「教えても構わない」と救いの手を差し伸べた。

「教えてくださるんですか?」
「たいしたことじゃないし、すぐに分かることだからよ。
 いいことマドイ、今頃先生達は大慌てをしている頃よ。
 たぶんシンジ様の編入試験は、午前中には終わってしまうでしょうね」
「午前中にはって……お姉様、さすがに冗談が過ぎますわ。
 お父様が難問を出せと指示しましたから、東大生でも今日中に終わるとは思えません!」
「比較の相手はたかが東大生なんでしょう?」

 にやりと笑ったフジノに、「たかがですか」とマドイは驚いた。マドイが例に出した大学は、平均偏差値でいけば日本で一番難しいのである。その大学を「たかが」と言う感覚が信じられなかったのだ。だがシンジのすごさを目の当たりにしているフジノにすれば、自分でも合格圏内に入れる大学は「たかが」なのである。
 自信満々に言うフジノに、それぐらい凄いのだとマドイは認めることにした。ここまでフジノが言う以上、きっと本当なのだと思えるのだ。

「たぶん、その結果はもうすぐ分かるわよ。
 マドイちゃんのお父様も、すぐに面接準備に入ることになるわね」
「お父様が、ですか……でしたら」

 教師に対して話を聞くことはできなくても、自分の父親なら問いただすことができる。だったらと携帯を取り出して、メモリーから父親の携帯番号を呼び出した。あの父親相手に電話を躊躇わないのは、さすがは娘というところだろう。そして呼び出し音が5回、普段よりも長い時間が掛かってオウガが電話に出た。

「どうしたマドイ、何かあったのか?
 急いでいるので、小遣いの話なら後にしてくれ」
「小遣いをせびるつもりはありません!
 ところでお父様が急いでいるのは、シンジ様の面接のことですよね?」
「……なんで分かった」

 ぎょっとした様子のオウガに、マドイはフジノの言葉が正しかったのを理解した。それなら父親への用件は済んだことになる。説明もしないで電話を切ったマドイは、目を輝かせて「凄いんですね」とフジノの顔を見た。だがフジノは、それでは不足だと言い返した。

「凄いなんて陳腐な言葉では表せないわ。
 シンジ様が編入試験の勉強をするのを見て、私は自分の正気を疑ったもの。
 数Tの参考書なんて、10分で読み終わっちゃったのよ!」
「……読み終わった……のですか?」

 それが試験準備と言われると、マドイにはどう答えていいのか分からなかった。それでも分かるのは、自分の想像を超えたところにシンジがいると言うことである。ローマで助けてくれたこともそうだが、自分と同じ世界に住んでいるとは信じられない存在だった。

「そう読み終わったの。
 もともとシンジ様は、高校の勉強などする必要がないのよ。
 私たちが学ぶようなことは、とっくの昔に通り過ぎているわ。
 だから読んで確認すれば、それで編入試験の準備は終わってしまうのよ。
 凄いとか天才とか、今の私には陳腐な表現しかすることができないわ」
「お姉様は、それを目の当たりにされたと言うことですか?」
「シンジ様が見えられた当日の夜のことよ。
 あまりのすごさに、頭に上った血も一気に引いてしまったわよ。
 マドイちゃん、私はソウシに碇家の次期当主を見極めるって言ったの。
 そして次期当主にふさわしくなければ、この私が引導を渡すって言ったのよ。
 今になって思い出すと、恥ずかしくて死にたくなるようなことを言っていたと思っているわ。
 遙か高見にいるシンジ様を、この私が見極めるだなんて偉そうなことを言ったのよ」

 ふっと口元を歪めたフジノは、少し表情を曇らせた。そんなフジノに、どうかしたのかとマドイは聞き返した。

「忘れようとしていた現実を思い出しちゃったのよ」
「忘れようとしていたこと……ですか?」

 何がと言う顔をしたマドイに、「今のあなたと同じ」とフジノは答えた。

「シンジ様が凄すぎて、私なんかでいいのかって思ってしまった事よ。
 お母様に、そんな事じゃだめって言われたんだけどね」
「それは、私も……正直に言うとそう言うところがあります……」

 夢に出てくる王子様から、シンジは現実に手の届く存在になったはずだ。だが冷静になってみると、かえって遠く離れてしまった気がしてくる。ただ単に見た目が綺麗と言うことなら、慣れてしまえば問題にならなかっただろう。だが犯罪組織から自分を助けてくれたこととか、難問中の難問を集めた試験問題を、非常識な時間で終わらせようとする飛び抜けた頭脳とか、世界が違うとしか言いようのない事が突きつけられれば、フジノの言うことも理解できてしまうのだ。
 現実を突きつけられると、さすがにマドイもシンジに対する恐れが生まれてしまう。そんなマドイに、「それが陥ったこと」とフジノは少しだけ微笑んで見せた。

「恋ってさ、冷静になっちゃいけないと思うのよ。
 だから私は、自分を振り返るのをやめることにしたの。
 それが3日間一緒に過ごしてきて私の到達した結論!」
「冷静になってはいけない……」

 フジノの言葉をかみしめたマドイは、もう一度「冷静になってはいけない」と呟いた。

「そう、そしてもう一つ。
 シンジ様のすごさを素直に喜ぶことにしたのよ。
 自分の好きな人が凄いののどこが悪いのって!
 まあ、このあたりはお母様の受け売りなんだけどね」
「つまり、そうしないとやっていけないってことですね?」

 ゴクリと緊張からつばを飲み込んだマドイに、うまくいったと内心フジノはほくそ笑んでいた。口にしたことに嘘は何一つ含まれていないし、自分でもそう思っていることを口にしている。だがこの場で畳みかけたことで、積極的な妹を牽制することができるだろう。長い時間通用する手ではないが、とりあえずおとなしくさせればいいと考えていたのだ。

 教科替えの時間を含め、シンジは編入試験を11時前に終わらせた。9時から試験を始めたのだから、9科目を2時間弱で終わらせたことになる。中身が大学受験レベルと考えると、これは驚くべきことなのだろう。しかもその結果は、高2への編入の必要性を疑わせる物だった。急遽開かれた判定会議で、出題した教師達は最初にそのことを問題とした。名門校と言われる豪龍寺でも、他の生徒とはレベルが違いすぎる。つまり、碇シンジに適した教育を行うことができないのだ。そもそも彼に教えられるような教師は存在していない。
 そしてもう一つ、教師達はシンジを入学させたときの影響を問題とした。すでに採点された分には、申し分のない解答がされていたのだ。それを考えれば、残りの解答が正解なのも疑いようがないだろう。そんな生徒を教えるとなると、教師達の受ける重圧は並ではない。それは結果的に生徒の教師に対する信頼性を揺るがせ、モラルの低下を招き寄せることになる。凄い生徒だと、単純に喜んでいるわけにはいかなかった。

 テストの結果だけを見れば、問題なく合格となるところである。だが教師達は、二つの理由でシンジを合格させることに躊躇いを感じていた。だが学園の事情として、碇シンジを入学させないわけにはいかない。それは理事長の強い意向と言う物もあるが、不合格にする理由が立たないという物もあった。

「はっきり申し上げるなら、碇シンジに日本の高校教育は不要です。
 我が校の授業でも、彼にとって退屈きわまりない物になるのは間違い有りません。
 そして彼を入学させることで、他の生徒達が混乱することになります。
 レベルの違いすぎる生徒を入学させることは、我が校にとってマイナスとなるのです」

 桃谷に上申された友綱オウガは、そうかと頭を抱えることになった。理事長という立場で学校教育に関わる以上、学園そのものを壊されることを認めるわけにはいかない。だが入学を希望する生徒に対し、優秀すぎて受け入れられないなどと答えられるはずもない。そしてもう一つ、政治的な意味合いを無視することもできなかった。碇シンジを目当てに入学してくる相手を考えると、逃げるわけにはいかない事情というやつがあったのだ。

「相手が入学を希望しているのだ。
 うちの水準に達しているのなら、それを断ることはできないだろう!」

 それがオウガの下した結論だった。編入試験を希望したのはシンジの方なのだから、答えとしては筋の通った物だろう。もちろん筋が通っているからと言って、受け入れられるかというのは別の問題となる。ただ桃谷にしても、不合格にはできないことは分かっていたことだった。
 何か言いたげ、そのくせ何も言えなくなった桃谷に、オウガは碇シンジの面接を自分が行うと宣言した。相手の正体がはっきりしているのだから、今更面接など必要ないはずなのだ。それでもオウガには、聞いておきたいことと頼んでおきたいことがあった。そのためには、自分だけで面接を行う必要があったというわけである。

「理事長が面接されるのは分かりました。
 それで面接ですが、午後から行いますか?」

 桃谷に言われて時計を見れば、お昼までは30分近く残っていた。込み入った話をするには短いが、敢えて午後に回す必要性も薄かった。それにオウガ自身、気分的に早く終わらせたいという気持ちが強かった。

「いや、これからすぐに行うことにしよう。
 なに、それほど時間が掛かることはあるまい。
 それから桃谷、碇シンジの入学手続きを進めておけ。
 授業料免除をありがたがるとは思えないが、少しでも借りを返しておく必要があるだろう。
 来週から登校させるのに必要な物を、至急手配しておくのだぞ」
「そのあたりは、事前に準備はできていますが……」

 もともと零点でも入学させる予定でいたのだ。だから入学に必要な準備は、あらかじめ進められていた事情がある。その説明に頷いたオウガは、「それでいい」と初めて桃谷を褒めた。

「ならば、瑞光の娘に必要な説明をするのと、入学に関する書類を届けておけ。
 俺は、これから碇シンジの面接を行う」

 碇シンジの入学に関して、いくつか確認と解決しておくことがある。そのためには、いくつか打ち合わせをしておく必要があった。諸般の事情を考えれば、もはや碇シンジは対立する相手ではない。対等な相手として話し合いをするため、友綱オウガは面談室へと歩いて行ったのだった。

 友綱オウガにしては珍しく、面談室に入る前にしっかりとノックをした。それだけ碇シンジを対等だと意識していたことが理由となっていた。そしてノックに少し遅れ、中から「はい」と言う返事が返ってきた。その言葉に少し緊張し、オウガはシンジの待つ面談室へと入っていった。時計は11時半、編入試験を始めてわずか2時間半後のことだった。
 オウガの顔を見たシンジは、席から立ち上がり「お願いします」と言って深く一礼した。このあたりは面接のセオリーなのだが、なぜかオウガには嫌みに感じられてしまった。この編入試験が出来レースのことは、当のシンジも知っていることなのである。それを考えると、こうして普通の面接をするのはお互い嫌みったらしいことに違いない。そんな腹芸は嫌いだと、オウガは単刀直入、面接ではなく学園入学に関して必要な打ち合わせをすることにした。

「碇家次期当主の実力のほどは嫌と言うほど見せて貰った。
 ただ、そのおかげというか、そちらを受け入れるのに際して問題が生じてしまった」

 ふっと小さく息を吐き出したオウガは、「何か分かるか?」と最初の質問をシンジにした。

「試験実施方法に文句をつけたことですか?」

 敢えて外した答えを口にしたシンジに、「手の内を隠すのはやめよう」とオウガは持ちかけた。

「限度を超えて優秀すぎる生徒は、教師にとって驚異と言うことだ。
 編入試験の解答を見て、高校に通う必要など無いと主張する教師達がいたのだ」
「と言っても、僕の最終学歴は中学卒業ですからね。
 日本で生きていくためには、学歴をちゃんとつけておいた方がいい。
 高校に通う意味なんて、その程度……ああ、後は同年代の友人を作るという目的もありましたね。
 学業以外の人間形成に必要、どちらかと言えば入学はその目的だと思ってください。
 それで、僕の入学は不許可になるのですか?」
「完璧に編入試験をこなした生徒を、不合格にできるはずが無かろう。
 それにおまえの……碇家次期当主の入学は、豪龍寺にとって必要なこととなっている」
「別におまえでも構いませんよ。
 それで、僕の入学が必須になった事情、それを教えてもらえるんですよね?」

 手の内を隠さないと言った以上、オウガ側の事情を教えてもらう必要がある。シンジの主張に、そのつもりだとオウガは返した。

「碇シンジに聞いておきたい、おまえはアルテリーベ王国を知っているか?」
「アルテリーベ王国?
 国連加盟国にも地図にも載っていない国ですね。
 残念ながら、ヨーロッパにいましたがそんな国は知りませんよ」
「そうか、ならばシャルロット・アルテリーベはどうだ?」
「シャルロット……そう言うことですか……」

 ふっと小さく息を吐き出したシンジは、「よく知っている」と答えた。

「どこでどうしてというのは答えられませんが、1年とちょっとの付き合いがありますよ。
 それでそのシャルロットが、今回の件とどういう関わりがあるのですか?」
「俺も話を聞かされた立場だから、正確なことは分かっていない。
 それでもアルテリーベ王国に着いて調べては見た。
 だがいくら調べても、噂以上の物は何も出てこなかった。
 所在自体、ドイツの西とかフランス南部とか、オーストリア北部とか……諸説がいろいろと伝わっている。
 そして中世より、世界の暗部に関わってきたと噂されているのだ。
 政治の表舞台に出ない代わりに、人脈と資金、そして人材で裏から世界を支配していると言われている。
 その黒幕国家とも言えるアルテリーベが、日本に国交樹立を持ちかけてきた。
 1千年にも及ぶ神秘のベールを日本のためにはがすと言ってきたのだ。
 支持率低下に悩む現内閣は、一も二もなくその誘いに飛びついたと言うことだ」
「それだけなら、豪龍寺が絡むと言うことにならない。
 だからシャルロットが登場すると言うことですか。
 ところで、彼女はどんな身分だと教えられましたか?」
「1年以上一緒にいて、相手の身分を教えて貰わなかったのか?」

 少し驚いた顔をしたオウガに、聞きもしなかったとシンジは答えた。

「たぶん聞いたとしても、まともには答えてくれなかったでしょうけどね。
 それで、シャルロットはアルテリーベの王女と言うことですか?」
「王族だとは説明を受けている。
 それでアルテリーベからは、国交樹立に当たりシャルロットと言う少女を日本に送り込むと言ってきた。
 その理由は、日本で配偶者を捜すことを目的としていると言うことだそうだ。
 今更隠しても仕方がないが、碇家次期当主の入学する高校を指定してきたそうだ」
「……男子校に行ったらどうするつもりだったんでしょうね」

 そんなことをしたら、いったい何が起きるのだろうか。少し興味はあったが、周りに迷惑を掛ける物ではないと考え直した。

「豪龍寺というか、あなたにとってシャルロットが豪龍寺に入学する必要がある。
 メリット、デメリット双方の理由がそこにはあると言うことですね。
 大げさというか、迷惑な話というか……おそらくあの爺さんは事情を知っていたんでしょうね」
「碇ドッポならばあり得る話だろう。
 現に、某国としか分からなかったが、碇の家にコンタクトがあったことは分かっていた」
「食えない年寄りだとは思っていたけど……他人に迷惑を掛けたら縁を切ると言っておいたのに……」

 もう一度ため息を吐いたシンジは、「掻き回されますよ」とオウガに忠告をした。

「間違っても、彼女にお淑やかと言うことを期待しちゃいけない。
 見た目は確かに可愛らしいけど、ただ猫を被っているだけですからね」
「猫を被っているのは、おまえも同じじゃないのか?」
「信じてもらえないかもしれませんけど、僕は平穏無事な生活を願っているんですよ。
 ちゃんと高校を卒業して、大学に入ってガールフレンドを作って……
 きな臭いこととはおさらばしたかったんです。
 瑞光さんの所に下宿させたことや、豪龍寺に入学させることが仕掛けかと思ったんだけど……
 あの爺さん、思った以上に狸だったと言うことか」
「ああ、そのようだな」

 碇ドッポが食えないという合意に達したところで、「それで」とシンジはオウガに先を促した。日本とアルテリーベが国交を樹立する。その条件の一つとして、シャルロットが豪龍寺に入学してくる。そのために自分が必要だと言うことは理解することができた。おかげで身の回りがきな臭い理由が分かったのだから、情報としては有益な物と言えただろう。だがそれは、あくまでアルテリーベに関してのことである。自分が何の問題もなく豪龍寺に入学できるとは、さすがにシンジも考えていなかった。

「それでと言われても、言いたいことは山のようにある。
 その前に、うちに入学して貰うにあたり、何か条件はあるか?」
「僕の立場は、入学させて貰うだと思うんですけど?」
「こちらとしては、入学して貰わないと困ると言ったはずだ。
 とりあえず利息が代わりに入学金、授業料は免除と言うことにした。
 多少の特例なら認めるのはやぶさかではないが……うちの娘と同棲するか?」
「碇って……不倶戴天の敵のはずですよね」

 父親にまで言われると、どうしても疑問に感じられて仕方がない。本気で言っているのかと聞き直したシンジに、オウガはにこりともしないで「冗談だ」と答えた。

「マドイには、さんざん昨晩言われたがな。
 それがソウシのためにもなるから、積極的に応援しろと言うことらしい。
 だがアルテリーベの王族が来る以上、最初から敵対するようなことをできるはずがないだろう。
 だからマドイには、自分で努力しろと言ってある。
 それで、俺に何か要求とかはないのか?
 オートバイの使用許可とかでも構わないのだぞ。
 うちは免許取得も不可だから、今のままだと免許を返上することになる」
「ああ、それいいですね。
 本家が辺鄙なところにあるから、オフロードバイクを使おうと思っていましたから。
 理事長からお墨付きを貰ったのなら、安心してバイクに乗ることができますね」
「ただし、通学に使用するのは認めないがな」

 すかさず釘を刺したオウガに、それぐらいは心得ていると答えた。それができれば楽になるのは確かだが、自分一人バイク通学するのをフジノが見逃してくれるとは思えない。そこから導き出される結論は、バイク通学はさらなるトラブルを引き起こす原因になると言う事だ。

「他に無いのか?」
「バイクも認めて貰いましたからね……
 他の特例は思いつかないし……それに、不自由も楽しみにしていますからね。
 だから、特に要求という物はありませんし……
 逆に聞いておきますけど、僕に対して要求はありませんか?」
「これと言って……いや、そう言えば一つあったな。
 なに、娘を貰ってくれとか言う物じゃない。
 入学してからだが、授業が円滑に行えるよう協力して貰いたい」
「別に、邪魔するつもりはありませんが?」
「教師をやり込めないように、そのことを言っている。
 生徒達が教師を軽んじることがないよう、立ててやってくれればいい」

 編入試験でしたようなことをされると、生徒達に教師の能力を疑問に持たれることになる。シンジが突き抜けているだけなのだが、教師の萎縮と生徒の疑問は、確実に授業を荒れさせることになる。さすがに正当な申し入れと言うこともあり、シンジも受け入れることに異論はなかった。

「僕としては普通にするしかない……ってことでいいですか?」
「そちらの“普通”のセンスに期待するしかないな。
 まあ瑞光の娘がいるから、あまり心配することはないのだろうが……
 とりあえずこれで面接は終わる事にする。
 今日から豪龍寺の生徒と言うことになるから、校則厳守を心がけることだ」
「真面目に高校生活を送りますよ」

 苦笑を返したシンジに、それでいいのだとオウガは口元を歪めたのだった。碇との雌雄を決するつもりだったが、いらぬ邪魔者が入ってこようとしている。ならば今は、両家が結束して困難を乗り切る必要があるのだと割り切ることにした。過去を顧みても、幾多の困難を同じようにして乗り越えてきたはずだ。歴史を繰り返すことになるのも自分の努めと、オウガは納得したのだった。

「それで、今日はどうするつもりだ?
 これで編入試験の全てが終わったから、ここで帰っても構わない。
 教科書の手配はこちらで済ませるから、準備が必要なのは制服ぐらいだろう。
 クラスは、瑞光の娘と同じにしておけばいいのかな?」
「別にフジノさんと同じでなければいけないことはないけど……
 確かにその方が不自由はないと思いますが、周りに迷惑を掛けそうな気が……」

 必然的にオウガの娘も出入りすることになる。それを考えると、他の生徒達に迷惑を掛けることもなりかねない。だとしたら他のクラスと言うことも考えられるが、それにも問題が多いとオウガは答えた。

「そうなると、休み時間ごとにうちの娘と瑞光の娘が入り浸ることになるだろう。
 アルテリーベ王族の件もあるから、纏めておいた方が他のクラスへの影響が少なくなる」
「ああ、まあ、その点はご迷惑をお掛けすることになりますね……」
「そちらがうちに入学を希望したことが最大の迷惑だ!」

 すかさず言い返したオウガに、シンジは苦笑と共に「碇として謝罪する」と頭を下げた。日本に帰ってきてからのごたごたを考えたら、ヨーロッパに残るのも一つの手だと思えたのだ。だが帰ってきてしまった以上、そして奈良の地に住まうことを決めてしまった以上、後の祭りと言えることだった。
 それを思っての謝罪だったのだが、頭を下げたシンジに、今度はオウガの方から「ありがとう」と頭を下げてきた。碇との因縁を常々聞かされた身からすると、青天の霹靂の出来事だと言えるだろう。はっきり驚いた顔をしたシンジに、「色々と世話になった事だ」とオウガは事情を口にした。

「マドイのことは、金の問題だけではないと思っている。
 一日も経たずに助けて貰ったこと、そしてお前に助けて貰ったことで、
 なによりマドイの心を守ることができた。
 金なら稼げばそれだけだが、傷ついた心はそう言うわけにはいかない。
 だからこのことに関しては、俺は素直に礼を言うことができる」
「僕としては、あまり引きずって欲しくないことなんですけどね。
 同じことを日本でしたら、きっと指名手配されているでしょうね。
 証拠は残していないから良いようなもののイタリアだって……」

 よくよく考えたら、一番大きな証拠が残っていた事に気がついた。もしもマドイのことがローマ市警に知られていたら、まず間違いなくマークされていただろう。だが被害届も出されていないのだから、マドイのことはローマ市警には知られていない。だが誘拐犯となると、いささか事情が違ってくる。何しろ誰を攫ったのかは分かっているのだから、そこから正義の味方を捜そうとするのも当然のことだったのだ。つまり、マドイ経由で敵が自分のところにたどり着く可能性が高いことになる。だが今更口止めをしたところで、すでに手遅れなのは間違いない。現に昨夜、プロの監視を受けているのを確認したところだ。
 仕方がないとため息を吐いたシンジは、「今気がついた」とオウガにマドイの身辺のことを持ち出した。

「このあたりは、友綱の息が掛かった人達で固めているんですよね?
 だったら入ってきた外国人に注意して貰えませんか。
 誘拐組織が壊滅していませんから、報復行動に出る可能性があります」
「報復と言っても……ああ、確かにその可能性はあるな。
 分かった、マドイやソウシには護衛を付けることにする。
 娘の身辺を嗅ぎ回っている奴がいないか、それも調べることにしよう。
 それでそちらはどうする?
 必要ならば、うちの者に周りを固めさせるが?」

 誘拐犯一味は、友綱にとって明確な敵なのだ。その組織を叩くためなら、相手が碇でも保護する事への躊躇いはない。それが命の恩人ともなれば、保護するのが恩返しの一つになってくる。
 オウガの申し出に、シンジはどうしたものかと少しだけ考えた。四六時中気を張っていては、日本に帰ってきた意味がない。だからと言って、友綱の組織にそこまで期待できるのかも疑問があった。昨夜監視を受けたようなプロが相手では、友綱では返り討ちに遭う可能性が高いのだ。犠牲を減らすという意味では、あまり張り切らせてはいけないのだろう。

「僕自身への護衛は必要ありません。
 ただ瑞光さんの身辺には注意を払ってあげてください。
 僕の方は、まあ、自前でどうにかできないか考えることにしますよ。
 あとは、そうだなぁ、公安から情報を貰ってくれませんか?」
「テロリストの類の入国情報だな?」

 正しい確認に、ちゃんと考えているのだとシンジは感心した。

「簡単に網に掛かるとは思えませんが、やっておいて損はないでしょう」
「それは引き受けたが、本当にそちらを保護しなくてもいいのか?」
「たぶんプロが来るでしょうから、あまり頑張りすぎないで欲しいんです。
 こちらもプロを雇うことを考えていますから、荒事はそちらに任せようと思います」
「つまり、そう言う伝手を持っていると言うことか」

 たかが高校生が、プロのテロリストとの伝手を持っているという。さすがは碇と言いたいところだが、それは違うことをオウガも知っていた。もともと碇も武闘組織を持っていたが、かなり前に縁が切れているのをオウガも知っていたのだ。だからこそ、今の衰退があったと言うことだろう。つまりプロへの伝手は、碇シンジ個人の物と言うことになる。
 それを考えると、今更ながらに無謀な戦いだと言うことを思い知らされてしまう。温室で経営学・帝王学を学んだ程度では、目の前に宿敵に敵うはずなど無かったのだ。そしてシンジは、伝手の話を肯定した。

「そのあたりは、付き合ってきたのが真っ当な人ばかりではなかったと思ってください。
 シャルロットが来たら来たで、また話がおかしくなりそうな気もしますけどね」

 黒幕一味の少女が姿を現すとなると、色々と闇の世界が動き出すことになるだろう。そうなるといくらシンジでも、完全に手に余ってしまう。その時の責任は、シャルロットにとって貰う。勝手を押しつけた方に責任を投げ返すのは、正しい判断だとシンジは思うことにした。

「頑張って目立たないように処理をしますよ。
 それからできたらで構いませんから、そちらの情報も僕の耳に入れてください」
「つまり、そちらの情報も流してくれると考えていいのだな?」
「プロに依頼しますから、流せないこともあるのを承知してくださいね。
 それ以外だったら、こちらの情報も流しますから。
 そう言うことで、この場はよろしいですか?」
「ああ、手間を取らせたな……」

 時計を確認すると、12時30分を示していた。昼の時間にもつれ込んだが、まだ一日を有効に活用できる時間だろう。この後時間が必要なのも、明後日から必要となる制服ぐらいの物だ。その制服にしたところで、男子は簡単にできている。寸法をとるだけなら、30分もあれば終わってしまうだろう。

「必要な事は瑞光の娘に説明してある。
 午後はマドイの相手でもしてやってくれ」
「はあ、マドイちゃんの相手ですか……」

 昨夜のことや、今朝のどたばたを考えると、どう答えていいのか悩ましくなってしまう。それを察したオウガは、面倒を掛けるとシンジに謝った。

「いや、謝られるような事じゃないんですけどね……
 もう少し落ち着いた関係になれればって期待しているんですが……」

 時間と共に落ち着くことは期待できるのだが、すぐに次の台風が待ち構えているのだ。それを思うと、当分女性関係で落ち着くことはできないのだろう。どうしてこういう目に遭うことになるのか、誰が悪いとも言えないだけに、シンジは途方に暮れることになったのだが……

「全部、あんたが優柔不断なのが悪いのよ」

 赤い髪をした悪魔の決めつけに、そう言うことかと心の中でシンジは落胆した。本当なら色々と否定したいのだが、時間と共に身動きがとれなくなっているのだから、周りばかりに責任を押しつけられないだろう。せめて「運が悪い」程度にして欲しいと、悪魔に向かって意味のない交渉をシンジはしたのだった。







続く

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