自分は用心深い方だと、いつも友綱マドイは思っていた。そして海外に来て浮かれてはいけないと、いつも寝る前に自分に言い聞かせていた。だからローマに来ても、危ないことには遭わないと思っていた。だがそれは、とんでもない過信で、現実を知らないことでしかなかった。それをマドイは、目が覚めたときに思い知らされた。いくら用心していても、それは日本のレベルでしかなかったのだと。
 マドイは、肌に当たる冷たく、そして固い感触に目をさますことになった。そこで初めて、自分が見も知らぬ、薄暗い部屋にいることに気が付いた。ただ目が覚めたはなは、自分がどこにいるのか、何をしているのかを理解することはできなかった。だが自分が何一つ身につけていないと知ったとき、初めて自分が非日常の世界に連れ込まれたことを理解することができた。そして自分の置かれた状況を理解したとき、マドイは心の底から湧き出る恐怖に襲われた。

 マドイの感じた恐怖、それは自分の存在に対する恐怖だった。自分を知る者のいない異国で、自らのアイデンティティを示す総ての物が奪われている。日本国民であることを示すパスポートや、豪龍寺学園生徒であることを示す生徒手帳。そして友綱マドイを一人の女子学生としていた豪龍寺学園の制服。その総てが奪われた、裸の存在となってしまった。

「私は……」

 自分の存在に対する恐怖の中、マドイは自分の身に何が起きたのかを考えようとした。そうすることが、自分が友綱マドイであることを確認する唯一の方法に思えたのだ。

「私の名前は友綱マドイ……お父さんは友綱オウガ、お母さんはキコ、お兄ちゃんはソウシ。
 私立豪龍寺学園1年E組出席番号は26番。
 夏休みの語学研修でイギリスのケンブリッジに4週間いて、
 帰りは社会見学のため、ローマとバチカンを訪問。
 明々後日には日本に帰るためローマを出発。
 今日はローマについて、市内観光をして夕食にレストランにみんなで行って……
 レストランではパスタとピザをみんなで食べて……
 レストランを出てホテルに帰ろうとしたところで……帰ろうとしたところで」

 そこから先が思い出せない。それから何が起きたのか思い出そうと、マドイは大きく頭を振った。その時髪が顔に掛かったことで、髪留めのバレッタまで無くなっていることに気が付いた。

「なんにも無くなってる……」

 辺りを見回してみても、あるのは冷たい床と壁だけだった。マドイが身につけていた物は、何一つとして見つけることは出来なかった。鏡も無いため、自分の顔を見ることも出来なかった。唯一小さな隙間から差す光だけが、自分を確認する方法だった。

「私、どうなっちゃうんだろう……お父さん、お母さん、お兄ちゃん……」

 身を包む物が何もないと、人はどうしようもない不安に襲われてしまう。しかも異国の地で、何もない暗いところに閉じこめられればその思いは更に酷くなる。ぐすっと鼻を啜ったとき、マドイはドアの外に誰か居るのに気が付いた。だが外から聞こえてくる音に集中してみても、はっきりとした言葉には聞こえなかった。それでも分かったのは、外にいるのが一人ではないことだった。そしてもう一つ、親切で優しい人たちなどでは絶対にないと言うことだった。もしもそんな人たちがいるのなら、自分は裸で冷たい床の上に転がされていることはないはずだ。

「私、攫われちゃったのかなぁ……」

 ヨーロッパで頻繁に誘拐が起きているのは、日本を発つ前に注意を受けていた。その対策として、危険な地域に足を踏み入れないこと、必ず団体で行動するように指導を受けていたのだ。だからマドイも、言われたとおり団体行動をしっかり守っていたつもりだった。だが現実は、そんな対策に意味がないことを示していた。

「なんでこんなことになっちゃったのよぉ……」

 いくら悔やんでも、すでに何もできない自分になっていた。今のマドイにできることは、我が身を襲った理不尽を嘆くことしかなかったのである。蚊の鳴くような小さな声で、マドイは何度も繰り言を言ったのだった。

 マドイの失踪を最初に気づいたのは、ホテルで同室の旭キララという少女だった。引率教師に連れられレストランで食事をし、ホテルの部屋に着いたところで初めてマドイが戻ってこないことに気が付いたのだ。誰かの部屋に遊びに行っているのかとその時は気にしなかったのだが、朝目が覚めてもマドイが帰ってきた様子はなかった。さすがにおかしいと、マドイがいないことを引率の玉造に申し出たのである。
 顔が綺麗でスタイルが良くて、そして実家は日本でも有数の金持ちと言うのがマドイのスペックだった。それを考えれば、少しぐらい鼻が高くなるのも仕方がないと思っていた。それでもマドイの兄、友綱ソウシや教師達に見せる顔とのギャップをキララは好きになれなかった。だから同室にもかかわらず、キララはあまりマドイと話をしていなかった。そしてマドイも、他の部屋に遊びに行くことが多かった。そのせいもあって、教師への通報が遅れることになった。

 マドイがいないと言う生徒の言葉に、引率の教師達は蜂の巣をつついたような騒ぎに襲われた。ただでさえ責任問題となりかねないのに、相手は学園の実力者の娘と来ている。もしもの事があれば、掛かる責任はいかほどのことだろうか。
 そこで教師達は、生徒達全員から聞き取り調査を行った。どこまでマドイが一緒にいたのか、全員の記憶を突き合わせたのである。そこで全員が一致したのは、レストランまではマドイが一緒にいたことだった。だがレストランを出たところで、とたんに全員の記憶が曖昧になってしまった。一緒にレストランを出たという記憶はあっても、どこまで一緒にいたのかがさっぱり分からなくなってしまったのだ。それは取り巻きと言われる少女達も例外ではなく、具体的にどこでと言うのが全く分からなかった。
 次に教師達は、ホテルの中をくまなく探し回った。マドイの写真を使って、従業員達にも聞き取り調査を行った。だがホテルの従業員達の誰一人として、昨夜からマドイを見かけていないことが判明した。

 教師の一人は、警察に届けるべきだと主張した。もはや事態は自分たちの手に余り、警察に委ねる他は無いと言うのである。だが教頭の桃谷は、その主張を直ちに退けた。もしも恐れていたとおりの事態なら、警察への通報は最悪の事態を招き寄せることになる。ヨーロッパで起きている誘拐事件については、出発前に一通りの講義は受けていた。その場において、警察に通報するのは最悪の手段だと教え込まれていた。何しろ警察が事件を解決した例はなく、警察が関わった事例の全てで、被害者が殺害されていたのだ。
 最悪の事態を想定した桃谷は、半日だけ警察への連絡を待つことにした。もしも誘拐されたのなら、間もなく犯人から連絡が来ることになる。そして桃谷の判断は、すぐにフロントからの連絡で正しいことが証明された。マドイが差出人の荷物が届いたと伝えられたのだ。荷物の中身を桃谷が確認し、友綱オウガに連絡を入れたのである。このとき現地は、朝食の時間を過ぎていた。

 最悪の事態となったことで、教師達は生徒達を落ち着かせるという命題に取りかかることになった。全員にヒアリングまでしたのだから、マドイがいなくなったことは隠しようもない。そのため、マドイの不在にはもっともらしい理由が付けられることになった。その理由が「知人宅訪問」と言うのは、騒ぎの大きさに比べて説得力に欠く物と言えただろう。それでも教師達は、建前として通す他は無かったのだ。そして建前を通すためにも、その日のスケジュールは何事もなかったように行う必要があった。そのため責任者の桃谷を残し、他の教師達はその日の予定……バチカン礼拝に生徒達を連れ出した。

 一人残った桃谷は、教頭ではなく友綱関係者としての行動を取った。マドイ救出を総てに優先させ、犯人への対処方法を調査したのである。だがいくら調べたところで、新しい発見などあるはずがない。犯人を刺激せず、相手の要求を受け取り、友綱に伝えると言う役割を果たす他はなかったのである。
 いつ犯人から連絡が入るか分からず、桃谷は部屋を出ることが出来なかった。そのため昼食も、ルームサービスのサンドイッチで済ませることにした。とんでもないことになってしまった、それが桃谷の正直な気持ちだった。これで無事マドイが解放されたとしても、引率責任者としての責任を免れることは出来ないだろう。最低でも辞職しなければ、友綱オウガは自分を許さないだろう。まだ子供二人の手が離れていないことを考えると、自分の人生が終わってしまったのかもしれない。
 それだけでも恐ろしいことなのに、子煩悩の友綱が何をしてくるのか想像が付かないのだ。組織的な誘拐犯の前に、素人の用心など役には立たない。そもそも安全を考えたとき、ローマになど来るべきではなかったのだ。それを考えれば、語学研修を決めた学園、そしてルートを知って参加させた保護者にも責任がある。自分だけが一方的に責められるものではないと桃谷は言いたかった。だが問題は、そんな開き直りが通じる相手では無かったことだ。一人犯人からの連絡を待ちながら、次第に桃谷は追いつめられていった。

 生きた心地のしない時間を過ごした桃谷の元に、一本の電話がフロントから掛かってきた。それは間もなく、生徒達が一日の予定を終えて帰ってくる時間だった。追加の要求かと身構えた桃谷に、フロントからの連絡は予想もしないものだった。よりにもよって、友綱マドイがホテルに帰ってきたというのだ。誘拐されたのが事実である以上、どう考えてもあり得ないことだったのだ。だがあり得ないと悩む前に、桃谷は部屋の鍵を持って部屋から飛び出していた。

 桃谷がフロントにたどり着いたとき、問題の友綱マドイは一人でソファーに座っていた。エレベータの中で冷静に現実を見つめ直した桃谷は、友綱マドイに掛ける言葉を考えた。どういう事情で解放されたのかは分からないが、きっと恐怖に怯えているだろうと考えたのだ。相手が暴君友綱の愛娘なのだから、対応一つとってみても、慎重に構える必要がある。起きてしまったことは、今更悔やんでも仕方がないのだ。後は事態をいかに収めるのか、それが身を守るためには必要だと考えたのだ。
 だが桃谷の配慮も、マドイの前では何の意味も持たなかった。脅えている、うちひしがれていると想像していたのだが、現実は全く正反対だったのだ。なにしろ桃谷の顔を見たマドイは、迷惑を掛けたことを謝るのではなく、いきなり「凄い人に逢ったの!」と捲し立ててきた。彼女が言うには、「もの凄く格好いい人に助けて貰った」と言うのである。それから桃谷が聞かされたのは、白馬の王子が如何に格好良かったかと言うことだけだった。「運命の男の人」とまで言われたときには、マドイに対する殺意がわき起こったほどだった。

 だがせっかく助かったのに、自分で自分の首を絞めることはない。何もなかったことには出来ないが、無事帰ってきた事実に変わりはないのだ。何はなくとも、友綱オウガに知らせておくことにした。その辺りは桃谷も冷静ではなかったのだが、受け取る方はそれに輪を掛けて冷静ではなかった。友綱オウガの興奮は酷く、まともに事態を説明することが出来なかったのだ。瑞光タクマが代わってくれたお陰で、ようやく事情の説明が出来ると言う体たらくである。もっとも日本人の少年に助けられたこと以外で桃谷が聞かされたのは、如何にその少年が格好良かったかと言うことだけだ。タクマが呆れるのも仕方がないと、教育者としての桃谷も認める他はなかったのである。

 タクマと話したことは、桃谷にとっても冷静になると言う意味では意味があることだった。お陰で教師の顔に戻ることが出来た桃谷は、女教師の部屋でマドイを寝かせることにした。このあたり時間の前後はあるが、瑞光に説明したとおりの行動をとることにした。
 今は興奮していて大丈夫に見えるが、冷静になったときに恐怖がぶり返してくることも考えられる。その時に側にいるのは、やはり信頼できる大人でなければならない。とにかく明日には、友綱の腹心がやって来るのだから、それまでは出来る限りのことをしておく必要があったのだ。安心するのは、友綱の腹心に引き渡してからのことなのだと。



***



 何もない部屋、そしてほとんど光の差さない部屋では、時間の経過を正確に知ることは出来なかった。それでも粗末な食事が差し入れられたことで、朝が来たことだけは知ることが出来た。その時現れた男に「トイレ」と言ったら、黙って部屋の奥を指さされた。目をこらしてみると、そこにはオブジェのような洋式の便器が置かれていた。食事の部屋と同じというのは気に入らないが、その場で漏らすのよりはずっとましだろう。これでお風呂以外は、何とかなる目処が付いたことになる。
 ただ部屋に現れた男が、自分をまるで物を見るような目で見たことは恐ろしかった。よほど性的な視線を向けられた方が気が楽だと思えるほどだった。自分を誘拐した男達は、自分のことを「人」だとは全く思っていないことを思い知らされたのだ。

 泣いても仕方がない、何の解決にならないとは分かっていても、マドイは涙が流れ出るのを止めることは出来なかった。閉め切られた部屋にいて出来るのは、与えられた固いパンを食べることか排泄すること。それ以外は寝るのか考えるのかしか出来なかったのだ。さすがにこんな情況で寝ることも出来ず、考えることしかマドイには出来なかった。そして考えれば考えるほど、悲しくなって涙が流れ落ちてしまったのだ。

 2度目の食事が届けられたことで、外は昼になったのだと知ることが出来た。ここまで来ると多少の開き直りが出来て、色々とよけいなことを考えることが出来た。日本を出る前の知識として、ヨーロッパで横行している誘拐のことは知っていた。政治的な物がない純経済行為となった誘拐は、身代金さえ払われれば被害者は無事解放されている。どこまで無事かという正確な情報はないが、誰も自分を犯しに来ないことを考えれば、本当に綺麗な体で返しているのだろう。そうなると、自分は一体幾らと値踏みされているのだろうか。そして父親は、どれだけで自分の身代金を用意できるのかを考えてしまった。
 だがよけいなことを考える物ではない。安くはない身代金が要求された場合、用意するにはそれなりの時間が掛かってしまうことに気づいてしまったのだ。友綱の家は兄が継ぐのは決まっているが、自分だって碇との争いの役に立ちたいとマドイは常々考えていた。だから何も知らないお人形とならないよう、色々なことを勉強していたのだ。お陰で大きなお金を動かすのが簡単ではないことも理解できてしまう。

「こんな所に、しばらく居なくちゃいけないの……」

 そう考えると、せっかく乾いていた涙が復活してしまう。何でこんなことになったのか、自分の何が悪かったのか。幾ら考えても答えの無い考えに、再びマドイははまり込んでいった。

 それが、どれぐらいの時間が経ってからのことかは分からなかった。ただ夕方の食事が出ていないことを考えれば、昼食から数時間後の事なのかも知れない。ぼうっと考えながら涙を流していたマドイは、ドアを叩く金属音で現実に引き戻された。これまでの二度食事が用意されたときには、何の前触れもなく扉が開かれたのだ。だが今度は、ノックだけされて扉は開かない。どうしたらいいのか分からずとまどっていたら、先ほどより強くドアが叩かれた。

「い、イエス……」

 何語で答えればいいのか分からなかったが、少なくとも日本語ではないだろうと考えた。そこで出たのが英語というのはどうかと思うが、だからといってマドイはイタリア語を話せなかった。
 そこでドアが開いたことを考えれば、答えが何語かというのは大きな問題ではなかったようだ。ただドアは開きはしたが、今までと違いとても遠慮がちな開き方だった。さすがにおかしいとマドイが首を傾げたら、開いたドアの隙間から小さな荷物が差し出された。どう見ても食べ物に見えないそれに再び首を傾げていたら、初めてドアの向こうから声が掛けられた。それが日本語だったことにマドイは驚いた。

「とりあえず着替えを持ってきたよ。
 それを着終わったら、声を掛けてくれないかな?」
「着替え……ですか」
「裸じゃ、みんなの所に帰れないだろう?」
「か、帰れるんですかっ! みんなの所に帰れるんですかっ!!」

 帰ると言う言葉に、歓喜からマドイは大きな声を上げた。だがすぐに、相手が誰か分からないと、口元を手で押さえ、ドアから見えないところに体を隠した。

「父が、身代金を払ったんですね……
 取引が終わったから、私は帰して貰えるんですね……
 まさか日本人が誘拐犯にいるとは思っていませんでした」

 帰れるのはうれしいが、そこに日本人がいたとなると悔しくなってしまう。憎しみを込めて言い返したマドイに、扉の向こうから「大いなる勘違いだ」と少し楽しそうな声が聞こえてきた。それがしゃくに障ったマドイは、そうでしょう! ともう一度大声を上げた。

「私、誘拐されたんですよ!
 こちらで誘拐されたら、身代金を払わない限り解放されないって知っています。
 だから帰して貰えるって事は、身代金が支払われたってことじゃないですか!」
「どうして、誰かが助けに来たってことを考えないのかなぁ」
「そんなおとぎ話みたいな話しがあるわけ無いじゃないですか!!」

 そう言ってマドイが食って掛かると、扉の向こうから押し殺したような笑い声が聞こえてきた。それに腹を立てたマドイは、何がおかしいと扉の向こうの相手に噛み付いた。

「いやっ、ずいぶんと元気が出たんだなって思ったんだよ。
 それよりも、早くここを出て送っていきたいんだ。
 まだ外は明るいから、裸で出歩くのは良くないと思うよ。
 せっかく服を取り返してきたんだから、着てくれるとうれしいんだけどな。
 あまり時間を掛けていると、よけいな仕事をしなくちゃいけなくなるんだ。
 それとも、誰かに着せて貰わないと服も着られないのかな?」
「ふ、服ぐらい自分で着れます!!」

 そう言って小走りに荷物を持ってきたマドイは、再び扉から見えないところに身を潜めてその中身を確認した。自分の記憶が正しければ、昨日の夜に着ていた下着他一式に違いない。一度他人に脱がされた物を着直すのは、心理的抵抗があったが、他に着替えなどそこにはない。いつまでも裸でいるわけにはいかないと、我慢してパンツに足を通した。そしてブラをつけ、セーラーの上とスカートを穿けばとりあえずの準備は整うことになる。感心したのは、ちゃんと靴下と靴も用意されていたことだった。驚いたことに、バレッタまで荷物の中に入っていた。

「ふ、服を着たわよ!!」

 脅えていることを悟られないよう、精一杯の虚勢を張ってマドイは扉の向こうの男に声を掛けた。「服を着たから、さっさと解放してホテルに連れて帰れ」と。

「ああ、ここは長居する所じゃないからね」

 その言葉と同時に、扉が大きく開かれた。久しぶりに見る明るい光、そのせいで男の顔は暗がりになってはっきりと見ることは出来なかった。
 開いた扉の所に現れた男は、まっすぐにマドイに近づいてきた。少し細身に見えるが、身長は自分よりはずっと大きい。それだけのことで、マドイの中で恐怖が再び頭をもたげてきた。帰して貰えると分かっていても、体は男を避けるように後ずさりしていた。そんなマドイの恐怖に気づいたのだろう、男はそれ以上近づいてくることはなかった。その代わりに、「帰るよ」と言って背中を向けた。それでようやく、マドイは開かれた世界に進むことが出来た。

 今まで一度も出ることの出来なかった扉、そこを出たところでマドイはまず男の顔を見て驚いた。シルエットでは歳が分からなかったのだが、明るくなったことで顔の表情までしっかりと見ることが出来たのだ。助けに来たと言った男は、自分と同じくらいの年齢の、とても綺麗な顔をした少年だったのだ。しかもその顔には、犯罪とは無縁の柔らなかな笑みがあった。想像とのギャップが酷く、ついマドイは相手の顔をまじまじと見つめてしまっていた。

「僕の顔に何か付いているのかな?」

 見られていることに気づいた少年は、少し笑いながら足下に気をつけてと注意した。なんでと言われた方を見たら、そこで初めて知った顔を見つけることが出来た。二度ほどマドイに食事を持ってきた男が、まるで物のようにそこに転がっていたのだ。

「し、死んでるの?」
「気絶しているだけだよ。
 だから意識を取り戻す前に、ここを出たかったんだ」
「あなた、本当に私を助けに来てくれたの……
 でも、どうして……」

 少年の顔を見ても、どこの誰かは全く分からない。ただ綺麗すぎて怖いと思うほど整った顔に、マドイは全く心当たりがなかったのだ。つまりこの少年は、自分とは全く関係のない世界に生きていると言うことだ。そうなると、自分を助けてくれた理由が全く思い浮かばない。だからマドイは、ファンタジー小説みたいな事を口走ってしまった。

「まさか、本当に正義の味方の組織があるとか……」

 無償の正義を行う組織、そんな物でもない限り、見も知らない自分を助けに来てくれないだろう。そんな思いから出た言葉に、目の前の少年は大笑いをするという行為で否定してくれた。

「な、何で、そんなに笑うのよ」

 自分でも子供っぽいことを言ったのは自覚している。だからそうやって笑われると、とても恥ずかしい気持ちになってしまうのだ。やめてと顔を赤くして文句を言ったマドイに、少年は顔を赤くしながら「面白いことを言うからだよ」返してきた。

「だったら、どうして私を助けてくれたのよ!!
 そんなことをしても、あなたに良い事なんて無いんでしょう!」
「君が誘拐されるのを偶然目撃しちゃったからね。
 だから助けた理由と言えば、それぐらいしか思い当たらないなぁ。
 そうだなぁ、たまには人助けをするのも良いかなってのもあるし。
 同じ日本人だからね、仲間意識がそこにあったと思ってくれればいいよ」
「それだけの理由で、私を助けてくれたの?」
「それが気に入らなかったら、君が可愛かったからでも良いかな。
 とにかく、僕の理由に関係なく、助かったことを喜んでくれればいいよ。
 ああ、それから御礼なんて気にしなくて良いからね。
 そんなことをされたら、逆に僕の方が心苦しくなってしまう」

 ねっと微笑まれ、マドイはつい少年から顔をそらしてしまった。その顔があまりにも綺麗だったと言うのも理由の一つだが、胸がドキドキして息苦しくなってしまったのだ。可愛いと言われたのも効果的な攻撃だった。顔が熱いのは気のせいではない。

「急かして悪いけど、早くここを出た方が良いんだ。
 この辺りは制圧したけど、いつ増援が来るか分からないからね。
 だから無理を言って悪いけど、後を着いてきてくれるかな?」
「つ、着いていけば良いんですね……」

 そうだねと言って少年はマドイに背を向けた。その時マドイは、つい少年の手を掴んでしまった。

「え、ええっっと、これは、その……」

 自分の行動に驚いたマドイだったが、その行為に少年は何も言葉を返さなかった。その代わり握られた手をしっかりと握り返し、マドイを普段の世界へと導いていった。
 手を引かれていく間、マドイは全く不安を感じていなかった。その辺り自分でもどうかと思うのだが、攫われたという恐怖をきれいに忘れてしまっていたのだ。しっかりと握られた手の力強さ、暖かさが、絶対に大丈夫と信じさせてくれていた。早く帰りたい、シャワーを浴びたいと思っていたはずなのに、今はこの時間がずっと続けばいいとさえ思うほどだった。

「ホテルは、アストリアで良かったかな?」
「は、はい、でも、どうしてホテルまで……」

 ストーカーという疑いは全く感じなかった。その代わりマドイは、その少年が本当に正義の味方だと思ってしまった。正義の味方だからこんなに美形だし、正義の味方だから何でも知っているのだと。正義の味方だから、助けて貰った少女が恋をしてもおかしくないのだと。

「オートバイの後ろ、乗ったことはある?」

 こっちへと連れて行かれた先には、赤い大きなオートバイがあった。そこでマドイは、少年のしていた不思議な格好の意味を理解した。体にぴったりとくっついた白いスーツ、それはオートバイに乗るときのライダースーツだったのだと。赤いバイクに白いライダースーツなんて、やっぱり日本人なのねと、色的には多少おかしい気もしないでもないけど、美形が着れば何でも似合うと気にしないことにした。

「ええっと、男の人とおつきあいしたことが無くて……」

 男子とのおつきあいは、オートバイの後ろに乗ることの必須条件ではないはずだ。だがマドイは、それを主張することが一番大切だと思っていた。
 ただマドイが大切だと思っていても、それが相手に特別な意味として通じるかは別である。マドイの答えを受け取った少年は、これをと言って青いヘルメットを渡してきた。自分がかぶらないところを見ると、これは少年が普段使っている物だろう。躊躇わずにヘルメットをかぶったマドイは、汗の他に色々な物の混じった匂いに、これがこの人の匂いなのだと陶酔した。

「しっかりと掴まって、それから僕の動きに合わせて体を傾けてくれればいいよ。
 ゆっくりと走るから、あまり緊張しなくて良いからね」
「しっかりとっ! 掴まればいいんですねっ!!」

 喜んでとばかりに、マドイは横座りをして少年の腰に手を回した。そして同級生達よりは豊かな胸を、しっかりと少年に意識させるようにその背中へと押しつけた。
 きゅるっと言うセルの音に続いて、野太い音がマフラーから響いてきた。オートバイと言っても電動しか知らないマドイにとって、それはとても新鮮な体験だった。そしてゆっくりとと少年は言ったが、矢のような速度だとマドイは感じていた。こんなに早くても全く怖くない、この人といるからだとマドイの中で少年の存在は確実にランクアップしていた。出会ったときの訳の分からない男から、今は理想の男性、物語に出てくる白馬の王子様へのクラスアップである。運命の出会いなのだと、一人勝手にマドイは盛り上がっていた。それが出会ってから10分にも満たない短い時間だと考えれば、マドイは間違いなく少年に一目惚れをしたのだろう。

 ローマの街中を滑るように走ったツーリングは、見慣れたホテルの前で完結を迎えた。「無事到着」とマドイを降ろした少年は、受け取ったヘルメットをそのままかぶった。ほんの少し前まで、自分がかぶっていたヘルメットを少年がかぶったのだ。おかしな匂いが着いていないか、中に唾とか飛んでいないか、これもスキンシップだと思いつつも、別の心配事をマドイは考えていた。

「あのぉ、先生達にも逢っていっていただけ……」

 ませんか? と言う言葉よりも早く、少年の乗ったバイクはタイヤを鳴らして急加速した。目にもとまらないその速さは、確かにそれまでの運転がゆっくりだったのだと思わせる物だった。ただお陰で、マドイは少年を引き留めることに失敗してしまった。少年を引き留め、色々なことをお話しして、また逢う約束をして……それが全部出来なかったことを悔やんだマドイは、すぐにそれ以上の問題があるのに気が付いてしまった。

「……名前、聞いていなかった」

 どこの誰かも分からなければ、二度と逢うことも出来なくなってしまう。素顔を見たのが自分だけでは、頼んで探して貰うわけにもいかないだろう。
 それでもマドイは、再び少年に逢えると信じて疑わなかった。この出会いが運命に導かれた物なら、絶対に再び巡り会い、その時二人は恋に落ちるのだと信じていたのだ。だからその運命をしっかりと捕まえるべく、少年の顔、抱きついたときの感触を忘れないよう、頭の中で何度も反芻したのだった。



 一方の少年は、少女との運命的出会い……と言う物など全く考えてなく、また人として良いことをしたとの満足感も抱いていなかったりした。そのあたり、とても深く、そして情けない事情があったりした。少女を救出するに当たり、ある女性に手伝いを頼んだことがその理由になっていたのだ。

「キャル……いったい何を要求してくるんだろう」

 手伝いを頼んだら、なぜか一人だけドイツから飛んできてくれた。他に誰もいないのかと尋ねてみたら、自分一人で十分だと嘯いてくれたのだ。しかも付け加えるように、本音も口にしてくれた。「取り分を減らすのは気に入らない」そう言われると、いったい何の取り分かを確かめたくなる。だが少年、シンジの質問に、性交報酬だと笑うだけで、具体的に何と答えてくれなかった。だから救出劇の終わった今、シンジはその成功報酬に戦々恐々としていたのである。

「言われたとおりにヴィクトリアのスイーツを確保したけど……」

 こんな格好で、あんな豪華ホテルに行っていいのか。まずシンジは、そのことを問題として考えた。支払いの不安がないことは、その中での救いと言えたのかも知れない。ただ豪華ホテルでのディナーが成功報酬なら、スイーツの予約をする理由が分からなかったのだ。

「このオートバイじゃだめ? って聞いたら、報酬にはならないって言われたからなぁ」

 持って行けないから上げるというのなら、逆に処分費用を寄越せと言われたほどだ。カスタムメイドでかなり高価なバイクなのだが、日本に持ち込むには問題が多すぎた物である。だから処分代わりに報酬として渡そうとしたのだが、一石二鳥とは行かなかったようだ。

「でもなぁ、高級ホテルのスイーツをとって……若い男と女盛りの教官が……」

 シチュエーションを考えると、次第に妄想は膨らんでくる。過去の経歴に不明なところは多々あるし、聞かされた年齢からすると経験……主に対人戦闘……が豊富すぎる理由に不安はあるが、面倒を見てくれたキャロライン教官は、金髪グラマーの“超”をつけていい美人だった。だから女性経験の全くないシンジにしてみれば、色々と妄想するのも仕方がないという物だ。

 だがシンジの妄想に対し、いつもの通り金髪の悪魔が「甘すぎる考えね……」と突っ込みを入れてくれた。その突っ込みに、灰髪の天使は「男の夢という物だよ」とシンジをかばってくれた。しかしそのフォローに対し、「言っている意味が違う」と青髪の天使が勘違いを指摘した。

「つまり、飛んで火に入る夏の虫と言うことかい?」
「間違いなく、舌なめずりをして待っているわよ」
「だとしても、シンジ君の期待と方向性は一致しているのだろう?
 僕には何の問題もないと思うのだけどねぇ」

 頭の中で行われている協議に、シンジは「その通り」と灰髪の天使の肩を持った。やはりこれから楽しい高校生ライフを送るためには、経験豊富なお姉様に色々と教えて貰った方が良いだろう。それが超の付く美人で、しかも金髪グラマーなら願ったり叶ったりと言うのである。
 だがシンジの主張に、金髪の悪魔は「やっぱり甘いわ」とため息を吐いてくれた。そして青髪の天使は、「本人が良いと言うのなら構わない」と突き放してくれた。唯一灰髪の天使だけが、「お墨付きを得たねぇ」と喜んでくれている。何か含む物のあるのは気になるが、これで3対1で決議は通ったことになる。いけいけゴーゴーとシンジの中で妄想は膨らんでいった。

 高級ホテルにオートバイで乗り付けることに、シンジはかなり抵抗を感じていた。だが受け入れる方は、シンジの葛藤などどうでもよかったようだ。別に不思議な顔をすることもなく、あっさりとライダースーツのシンジを受け入れてく多のだ。まあ世の中の有名人やVIPには、様々な趣味を持った人たちがいる。その趣味に付き合うのも彼らの仕事だから、たかがオートバイぐらいは可愛い物だったのである。
 それどころか、オートバイを任された自動車係は、本気で「素晴らしい」と感心してくれた。

「この形を見たことがないんですけど、今年のニューモデルですか?」
「いや、これはフルカスタムモデルだから……
 たぶん、この形で新車が出ることはないと思うよ」
「フルカスタムですか……これ、凄く良いですねぇ……」

 オートバイに趣味があるのか、自動車係は本気で羨ましがっていた。普通に売り出されたとしても、このクラスならかなり高額になってしまう。それをフルカスタムで作り上げたということにも、彼は本気で羨望を感じていたのだった。

「大切にお預かりします!」
「よろしくお願いしますよ。
 それから、これは人に譲ることにしましたから……
 だから受け取りは、別の人……女性が来ますからね」
「手放されるのですか……もう少し早く巡り会えていれば……」

 とても残念ですと笑った男に、そうですねとシンジは愛想笑いを返した。もしも目の前で羨ましがっている男に、手放す理由を教えたらどう思うことだろう。教えられないのは分かっているが、愉快なことになるのは間違いないだろう。
 試乗しても良いですよと言いかけたが、事故られても困るとそれは思いとどまることにした。それに今晩……と言うのは、シンジの勝手な妄想の可能性もある。もしもそんなことになったら、面倒なことにもなりかねないだろう。

 だからシンジは、余計な親切をしないでホテルに入ることにした。ライダースーツ姿を珍しがられなかったところを見ると、有名人というのはよほど変わったことをしているのだろうと思った。

「お待ちしておりました碇様、お連れの方はすでにお見えになっております。
 すぐに係の者が案内させて頂きます」

 こんな若造にも遜った物の言い方をするのだから、仕事って大変だなぁとシンジは感心していた。そして荷物を持つと近寄ってきたベルボーイに、これは良いと言って代わりにチップを手渡すことにした。

「鍵をくれれば、あとは僕一人で行くことにするよ。
 と言う無理を言うから、これは受け取っておいてくれるかな?」

 相場の数倍のチップに、ベルボーイは素直に喜んでいた。ただエレベータでいきなりバイバイはまずいと、エレベータには乗り込んできた。その代わり最上階で降りず、そのままロビーを押して帰ってくれた。

「こうしてみると、仕事って大変なんだなぁ……」

 どうでもいいことに感心しながら、シンジは立派な扉の前にたどり着いた。あとは渡されたICカードキーで扉を開けば終わりだったのだが、キーを取り出したところで扉の方から勝手に開いてくれた。

「シンジ、早かったわね……てっきりあのお嬢さんを頂いてくるのだと思っていたわ」

 自動扉ではないのだから、当然勝手に開いたのは中から開けられたからに他ならない。そしてそこには、シンジが期待したとおり、バスローブ姿のキャロラインが立っていた。

「べ、別にそんなことのために助けた訳じゃないから……」

 と言うか、そんなことを一度も考えてもみなかった。いい訳をしながら、シンジの瞳はバスローブの胸元、わざとらしく開かれた部分を凝視しいてた。その視線に満足したキャロラインは、中に入りなさいとシンジに命令した。

「それで、これからどうするんですか?」
「決まってるでしょう、性交報酬を貰うのよ」
「成功報酬……ですよね? でも、いいんですか?」

 ゴクリとのどを鳴らしたシンジに、だから性交報酬とキャロラインはいやらしく舌で唇を舐めて見せた。

「極上のチェリーボーイの初めてを頂くのよ。
 こんな素晴らしい性交報酬なんてあり得ないわ」
「で、でも、僕も綺麗なお姉さんに色々と教えて貰えるんですから……」
「色々、教えて欲しいの?」

 ふふふと口元を歪めたキャロラインは、ライダースーツのジッパーを胸元から引き下ろした。そして綺麗に鍛えられた胸元に、そっと人差し指を這わせたのだった。ここまで妄想通りになると、シンジとしてはウエルカムである。もうぜんぜんウエルカムなのである。だから「是非とも」とキャロラインの腰に手を回した。

「初めてだから仕方ないけど、そんなにがっつかないで。
 まずお風呂に入るところから、色々と教えて、あ・げ・る」

 くるりとシンジの手から逃げ出したキャロラインは、付いてらっしゃいと人差し指をくいっと曲げた。もちろんシンジに異存などあるはずもなく、脱ぎにくいライダースーツに焦りながら、せっせと裸になってキャロラインの後を追ったのだった。



 翌朝自動車係は、なるほどとオートバイを受け取りに現れた女性に見とれることになった。赤いライダースーツを纏った姿は、何処かのモデルかと聞きたくなるほど整ったスタイルをしていたのだ。特に充実した胸元や腰回りなんかは、ご一緒したいと切望したくなるほどの物だったのだ。貰ったチップは小銭だったが、宝物にしたいと思ったほどだ。

「ありがとう」

 それだけのやりとりを残し、キャロラインは颯爽とホテルを去っていった。
 そしてその頃、ルームサービス係は不思議な注文を受けていた。とにかく何でも良いから、元気が出る食べ物を持ってきて欲しいと言うのである。それを3人前、ドアの前に置いておけと言うのだから、やはり変わっていると言っていいだろう。とりあえず持ってきたら、ベルを鳴らしてくれと言うのである。まあ、人目を忍ぶことも高級ホテルでは珍しくないのだから、ルームサービスも言われたとおりにすればいいのだが。

 そして注文を受けて30分後、ルームサービス係はワゴンに料理を山盛りにして、言われたとおりに部屋の呼び鈴を鳴らした。一度鳴らせばいいという指示だったのだ、その通りに係は自分の持ち場に戻ることにした。ちょうどエレベータの扉が開いたとき、スイートルームの扉が開くのが目に入った。誰か出てくるのかなと見ていたら、ワゴンの足下に手が掛かるのが目に入った。

「……なんで、あんなに低いところを持つのかな?」

 疑問には感じたが、何時までもエレベータを止めておく訳にはいかない。ルームサービス係の男は、まあ良いかとエレベータへと入っていった。

 その頃不思議な注文、不思議な受け取り方をした男……少年、碇シンジはスイートルームの床に這いつくばっていた。その格好に狙撃を避けるとか特別な意味があるわけではなく、ただ単に足腰が立たなくなったという情けない理由がそこにあった。端正な顔も少し頬がこけ、目の下にははっきりと隈が浮かんでいた。そこにきて足腰が立たないというのだから、いったいどこまでシタのかと問いただしたくもなる様子だった。
 様々な疑問の残る行動をとったシンジは、這いつくばったままワゴンをベッドのところまで運んだ。その上を見れば、よくもここまでと言いたくなるほどリネンが荒れている。ゴミ箱にティッシュの山があるのは、愛きょうで片付けることにしようか。

 ベッド脇までワゴンを運んだシンジは、両手に力を入れてベッドの上に這い上がった。極限まで体力を消耗した身には、たかが食事を運ぶという作業もこの上ない重労働だったのだろう。ベッドの上に復帰したシンジは、仰向けになってぜいぜいと大きく息をした。大きく上下する胸板を見ると、床でこすった跡を見つけることができる。そしてそれ以上に目立つのは、体中無数に付けられた小さな痣という奴だった。いったいどうしてこんな痣が付いたのか、それを詮索するのはきっと野暮なことなのだろう。

「つ、疲れた……」

 何とか重労働をこなしたシンジだったが、再び頭の中の天使と悪魔が五月蠅く騒ぎ立てた。

「お、女というのは怖い物だね……」と灰髪の天使が女性への恐怖を口にすれば、赤い髪の悪魔は「相手次第だ」と冷たく突き放した。そして青髪の天使は「軟弱者」となじってくれる。若さと体力で挑んだのだから、動けなくなるのは相手でなければいけないというのだ。そんな突っ込みを入れる青髪の天使に、赤髪の悪魔は「男女は違うのだ」と珍しくシンジをかばってくれた。そして「これで経験したことになるのかしら?」と疑問も呈してくれた。そんな赤髪の悪魔の疑問に、青髪の天使は「素人童貞を脱した事実に変わりない」と言い切ってくれた。

「なんで、わざわざ素人って付けるんだよ……」

 それを「日頃の行いだ」と言い返されれば、余計に不条理を感じてしまう。しかも赤髪の悪魔からは、「シンジの初めては左手でしょ」などと冷たく言われてしまったのだ。どうやら過去の出来事に対し、今でもかなり不満があるらしい。文句を言う本人としては、いかがわしいという気持ちも当然あったのだが、なぜ目の前にあるものに手を出さなかったのか。その方が余計に問題だと考えていたのだ。
 しかも青髪の天使も、「押し倒したくせに」などと昔の事故を持ち出してくれた。

「あの時、僕が遠慮しなければ世界は違ったものになっていたのかな?」

 と言う灰髪の天使の言葉に、自分はいったい何なのか。そんな疑問を感じてしまう、碇シンジ17歳の夏だった。



***



 適当に捨ててきたため、生活に必要な物はほとんど持っていない。極端なことを言えば、着の身着のままの姿で研究所を出てきてしまったのだ。手近にある物と言えば、滅多に使わなかった白のライダースーツに、幾ばくかの着替えの下着程度だった。路上生活者じゃないのだから……彼らだって、自分より沢山持っているだろう……これではこれからの生活に困ってしまう。
 それ以外にも、色々と不足しているのは確かだった。これからお世話になる先には、ちゃんと挨拶と手みやげが必要になる。手みやげについては日本に帰ってから購入する方法もあるのだろうが、それでは適当に済ませた感が強くなってしまう。人との関係は、第一印象が非常に大切なのだ。薄汚い格好をしていたなら、その印象を拭い去るのに長い時間が掛かってしまうだろう。

 キャルと別れて……置いて行かれて……シンジが活動を始めたのは、すでにお昼を過ぎていた。なぜそんな時間になったのかというと、さんざん弄ばれ、搾り取られるだけ搾り取られたという情けない事情がある。朝昼もルームサービスで済ませたシンジは、そこでようやく動けるようになったのだった。

「……僕は、とんでもない間違いを犯したのかも知れない……」

 さんざん忠告を受けたのに、結局このざまなのである。盛大に後悔したシンジだったが、頭の中の天使と悪魔は相手をしてくれなかった。だからシンジは、一人で解決すべき問題に取り組むことにした。その最初は、これからする自分の格好だった。ライダースーツというのは、オートバイがあってこそ意味のある格好なのだ。その小道具が手元にない以上、この格好は間抜けとしか言い様がない。
 それに気づいたシンジは、最初に服装から整えることにした。幸い高級ホテルには、立派なショッピングモールが併設されている。高級ブランドしか無いのは残念だが、緊急避難として利用することにした。とにかく当座の費用に心配はいらない、だったら今は、それを活用すべき時なのだろうと。

 街中に出るのに必要な装備を調えるため、まずシンジはフロントに電話をしてホテル内のブティックの連絡先を聞いた。そしてその中で、ルームサービスをしてくれる店を紹介して貰うことにした。
 どこかで聞いたブランドだなという気はしたが、とりあえずそれは忘れることにした。連絡してからしばらくして、シンジの部屋に気後れするような立派な紳士が現れた。そして、シンジのリクエストに従ってそこら中を採寸して帰っていった。
 一体どんな物が用意されるのか、シンジは期待に胸を膨らませた。そして同時に、僅かな不安を感じていた。もっとも何もないよりはマシと、すぐに考え直すことにした。シンジにその開き直りが出来たとき、用意が出来たとその紳士から連絡が入った。これからスタッフを連れて、すぐに上がって来るというのだ。

「スタッフって……何か大げさだな」

 シンジからすれば、出張販売をお願いした程度の意識しかない。サイズが合うのを適当に持ってきて貰えば、それで事が足りるつもりだったのだ。それを思えば、スタッフが必要というのは理解の範疇から外れていた。だから大げさと考えたのだが、残念なことに話はそれで収まってくれなかった。
 どうぞと扉を開いたら、大きな道具を持った大勢の人たちがそこで待っていたのだ。

「ええっと、一体これは何なのですか?」
「碇様、必要な準備をしたのだとご理解下さい。
 時間的に間に合いませんから、衣装の方はできあいを用意させて頂きました。
 しかしながら、碇様は衣装に合う身だしなみを整えられておりません。
 従いまして、美容スタッフを連れて参上した次第です」
「いやっ、さすがにそれはやりすぎでしょう」
「しかしながら、碇様は私に「任せる」と仰有いました。
 従いまして任された私としては、与えられた条件の中で最善を尽くす義務があるのです!」

 紳士がそう言っている間に、部屋には簡易の美容室が作り上げられていた。これまで適当に鋏で髪を切っていた者として、とても異世界の出来事に違いない。本当なら断るところ……なのだろうが、やはりシンジも年頃の少年と言うことだ。きちんとした美容室が、一体自分をどうコーディネートしてくれるのか。遠慮しながらも、やはり興味があるというのが現実だった。しかも通帳を含め、懐に不安がないというのも利いていた。

「御納得頂けましたか、でしたら早速取りかかることに致しましょう!」

 やれと言う紳士の合図で、シンジはまな板の鯉同然に美容スタッフにおいしく料理されることになった。

 素材が宜しいというお世辞を聞きながら、およそ2時間という至福の時をシンジは過ごすことになった。おざなりで髪を切るのとは違い、しっかりと丁寧にヘアケアをされ、フェイスマッサージまで丹念にしてくれたのだ。おまけと言っては何なのだが、綺麗な女性のボディマッサージまでメニューに入っていた。多少の恥ずかしさはあったが、されてみれば極楽とも言いたくなるほど気持ちがよかった。しかもマッサージをされている時、誰にも見えないようにその女性から小さな紙を渡された。何かと開いてみたら、しっかりと携帯の番号がそこには書かれていた。

「まあ、ほどほどにしておくのなら良いんじゃないの」

 と今まで静かにしていた赤い髪の悪魔が肯定すれば、「それが男の甲斐性」と青髪の天使も背中を押す。「何事も経験は必要だよ」と灰色の髪をした天使まで言うのだから、全会一致で電話することを肯定してくれた。ちょっとぽっちゃり目のその女性は、映画に出てくる「肉感的」なタイプに分類できた。
 最終的に爪まで磨き上げられたシンジは、鏡の前で別人に出会うことになった。笑い話なら、道化師が鏡の前にいることになるのだが、残念……というか、相手は正真正銘のプロが揃っていた。そのプロに磨き上げられたシンジは、「これが僕?」と鏡に映る自分にうっとりとすることになった。値札を見たら卒倒しそうなスーツも、ここまで磨き上げられると無駄遣いという気もしない。

「やはり、私の目に狂いはありませんでしたな。
 私も、近年これほどの紳士をコーディネートすることは出来ませんでした。
 権限があるのなら、お代はいらないと言いたいのが私の気持ちです!」
「いやっ、さすがにそれは言い過ぎでしょう」
「いえいえ、これは非常に正直な気持ちです。
 実は俳優のリチャード・スティローン様のお世話も致しましたが、
 私のスタッフ達は電話番号を渡すような真似は致しませんでした。
 さて一体碇様は、何枚のカードを受け取られたのでしょうかな」
「……ばれているんですか?」
「その辺りは、経験だと思って下さい。
 それから、そのことをとやかく言うつもりはありません。
 勤務時間が終われば、彼女たちも一人の女性に違いないのですからな」

 はっはと笑われると、そうですかとしか答えようがない。恐縮したシンジに、自分も一つお願いがあると紳士は打ち明けた。

「実は私の娘はデザイナーの駆け出しなのですよ。
 もしも宜しければ、娘のデザインした服を着て貰えないでしょうか?」

 宜しければとは言っているが、その目は是非ともお願いすると懇願していた。その色を読み取ったシンジは、急いでいる訳じゃないと諦め、「少しぐらいなら」と答えることにした。それに旅というのは、予期せぬハプニングがあった方が面白いだろ。そしてその紳士は、シンジの答えに大いに喜んでくれた。

「では貴重なお時間を無駄にするわけにはいきませんな。
 早速娘には、素晴らしいモデルが見つかったと連絡することに致しましょう。
 ところで碇様、今夜何かご予定はありますでしょうか?」
「恥ずかしながら、特に予定と言う物がないんです。
 とりあえず、観光をしてから日本に帰ろうと思っていましたからね。
 その観光もローマで終わりですから、あとは帰るだけだと思っていました」
「すでに、フライトの予約はされているのですか?」
「それも、これから確保するところです。
 急いでいるようで急いでいないというところでしょうか」
「そうですか……」

 ふむと考えた紳士は、これから移動できないかとシンジに持ちかけた。娘のモデルになって貰う御礼代わりに、観光のアレンジをすると申し出たのだ。

「是非ともファッションの都、ミラノもご覧になって頂きたい。
 夜のフライトを取れば、それほど遅くならずにミラノに着くことが出来ます」
「ミラノ観光ですか……」

 どうせ急いでいないのだから、それも悪くはないかと考えることにした。袖すり合うも多生の縁、そう考えればここでの出会いも大切にすべきだろう。どうせ行き当たりばったりの旅なのだから、最後にこんなハプニングがあってもいい。犯罪系は経験したから、次はファッション系も悪くはない。

「では早速手配に取りかかることに致しましょうか。
 すぐにミラノに移動して、夕食が遅くなることはご勘弁願います」
「まあ、それなりに面白そうだから協力することにしますよ」

 そうすると、日本に帰る予定が多少ずれることになるだろう。連絡を入れれば構わないかと、シンジは軽く考えることにしたのだった。



***



 予定外のミラノ滞在は、結果的にシンジとって良いことだったのかも知れない。安請け合いでモデルを引き受け、その結果コンテストに引きずり出されたのはマイナスだろう。そしてそこで女装までさせられたのは、いくら高評価を受けたとしても、個人的には大きなマイナスに違いない。
 だがクラウディア・マルコーニと言う女性デザイナーと知り合えたのは大きなプラスだった。特にクラウディアが、栗色の髪をした美人だと言うこと、そしてシンジが初めての相手になったことは、モデルになったことのマイナスを差し引いても、大きなプラスに違いない。そしてそれ以上にシンジにとって良かったのは、クラウディアがデザイナーとして認められるのを手伝えたと言うことだ。女装がばれて失格扱いにはなったが、結果的に彼女に対して高い評価が与えられることになった。しかも念願とも言えるスポンサーも見つかった。

「引き留められないのは分かっている……か」

 1週間以上、結果的には10日ほど帰国予定は延びることになった。その間ずっと一緒にいたクラウディアは、泣きそうな顔で「ありがとう」とシンジに言った。そしてもっと有名になったら、絶対に日本まで逢いに行くと誓いを立ててくれた。それに困った顔をしたシンジに、これは自分だけの誓いなのだとクラウディアは笑って見せた。だからシンジが負担に感じる必要はなく、無視をしても構わないとまで言ってくれた。

「有名になったら、僕なんてその他大勢でしか無いと思うんだけどね……」

 お酒も飲めない……飲ませて貰えないのだから、ファーストクラスは多少席が広い以上の意味を持たなかった。豪華な食事にしても、あくまで飛行機の中というくくりの話だ。それに豪華という意味では、クラウディアとお祝いをしたときの方がよほど豪華だったのだ。ただ他に空いていなかったという理由で、シンジはファーストクラスを利用した。
 そのお陰で広い席、隣と離れているという恩恵を受けることは出来た。日本に帰れば昼だなと、睡眠時間を調整しながら、シンジは話し相手として頭の中にいる天使と悪魔に声を掛けることにした。誰よりもシンジの事情に詳しく、そして誰よりも容赦のない話し相手は、退屈しているときにはとてもありがたい存在だった。だからこうして、ぼんやりしながら話しかけたのだが……

 「鼻の下を伸ばして、一体何を言っているのやら」といきなり醒めた目を、赤い髪の悪魔から向けられた。そして青い髪の天使には「調子に乗るとろくな事はない」と忠告をされた。しかもいつも味方の灰髪の天使には、「薄情者」となじられてしまった。一人の女性の人生に、あそこまで関わってしまったことを灰髪の天使は指摘したのだ。そして総てに初めてを与えたくせに、その責任を取ろうとしていないと。

「カヲル君、君から責任なんて言われるとは思っていなかったよ」

 一緒にいて欲しいと頼まれたら、自分はどんな答えを返したのか。初めて関係した夜から、ずっとシンジはそんなことを考えていた。だが何度も関係したのに、クラウディアの口からそんな言葉は一度も出てこなかった。それを幸いに逃げたのだろうと言われるのは分かるが、シンジとしてはやはり否定したいところだった。自分が協力することでクラウディアが評価され、同時にモデル……男性……としても自分が評価されたのだ。初めてエヴァから離れた世界で評価されたのだから、やはりシンジとしてもうれしかったのだ。だから一緒にいて欲しいと言われたら、間違いなく心が動いていたことだろう。

「そう思うんだったら、自分から言うべきだって……確かに、アスカの言うとおりなんだろうね。
 確かに、僕にとって日本に帰ることに大きな意味はないのは分かっているよ。
 碇の跡を継ぐと言われても、碇そのものへの思いは僕の中にはないからね」

 それでもこうして、自分は日本行きの飛行機に乗っている。今から戻ったとしても、すでに昨日までの関係ではないだろう。それを考え諦めたシンジに、赤い髪をした悪魔は「不幸ね」と同情の言葉をくれた。深くシンジと関われば関わるほど、相手は一歩引いてしまうと言うのだ。そしてそれを、これから何度も繰り返すことになるのだろうと。

「アスカや綾波がいないから?」

 苦笑を浮かべたシンジに、そう思ってくれるならうれしいと青い髪をした天使が頬を染めた。だが赤い髪をした悪魔は、「自分もついて行けないだろう」と難しい顔をした。大好きで大好きで、その気持ちを抑えることが出来ないほど大好きだから、だから一緒にいることが出来ないだろうと。その赤い髪の悪魔の言葉に、二人の天使は大きく頷いた。だから切り離されることのない今の関係は、その思いを叶えるためには必要なことだったのだと。今の関係なら、生涯通して一緒にいられるのだと。

「僕には、君たちが何を言っているのか理解できないよ……」

 シンジの不満に、そのうち理解できると天使と悪魔は答えた。ただ理解できたからと言って、それが幸せなのかは分からないと付け加えてくれた。彼女たちでもついて行けないのなら、一体誰がついて行けるというのか。その限られた人に巡り会えなければ、必ず悲しい思いをすることになるのだと。

「絶対に、すぐには答えのでないこと……なのか。
 だったら、今思い悩むのはやめることにするよ」

 静かに目を閉じたシンジは、低い騒音に身を任せることにした。けして静かと言うことは出来ないが、この低い、そして単調な音の連続は、そのうち自分を睡眠に誘ってくれるだろう。いくら考えても今は答えが出ないというのなら、答えが出せるときにもう一度考え直してみればいいだけだ。それがいつかは分からないが、環境が変われば考え方も変わると、シンジにしては前向きのことを考えることにしたのだった。







続く

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