紀伊半島の中央部から少し西、平城京から少し南に下ったところに一軒の屋敷が建っていた。その屋敷は、こぢんまりとした山間の平地で少し年代物の白い土壁で囲まれていた。そして屋敷の周りには、青々とした田んぼが広がり、その中を舗装されていない草の生えた田舎道が延びていた。他にあるのは手入れされた山林だけ、絵に描いたような田舎の一軒家と言えるだろう。
 その屋敷に続く田舎道……むしろ畦道というのが適当なのだろうか、その畦道を統一感のない二人の男が早足に歩いていた。その内の一人は、年の頃なら60過ぎと言うところか。白髪の交じった髪を短めに切りそろえ、くそ暑い日差しの下をきっちりと黒のスーツを着込んでいた。顔に大粒の汗が浮かんでいるのは、今更言うまでもないことだろう。それほど暑ければ、普通ならば上着を脱いでいてもおかしくない。だがその男は、まるで苦行に耐えているような顔をしてひたすら先を急いでいた。
 そしてもう一人の男は、アロハに短パン、そしてサンダルという全くお気楽な格好をしていた。脱色して茶色くなった髪を見れば、山の中でなければサーファー?と言いたくなる格好でもある。山羊髭を生やした顔を見れば、まさしく中年サーファーと言ったところだろうか。そちらの方は、ラフすぎる格好のお陰か、あまり暑さに堪えていないように見えていた。

「いやぁ、御当主様の文明嫌いも相当な物だなぁ。
 車が通れるぐらいに道を広げてくれれば、こんな暑い思いをしなくても済むのに」

 もう少しで目的地という所で、中年サーファーが暑いと文句を言った。その文句に顔をしかめた老年の男は、「よけい暑くなるから黙っていろ!」と言って睨み付けた。だが男は、関係ないとばかりに軽口を飛ばした。その矛先は、古すぎる考えをした御当主へと向けられた物だった。

「本気で坊ちゃんを呼び寄せたいのなら、住環境を考えなくちゃいけないでしょう。
 今の若い子達には、こんな田舎暮らしは耐えられませんよ。
 何しろここは、携帯電話の電波も届かない僻地と来ている。
 電気ガス水道も来ていないんだから、文明とはほど遠いとしか言い様がない。
 科学の最先端にいた坊ちゃんが、好きこのんで田舎に籠もるはずがないと言う物です。
 そんなことだからユイちゃんも、京都の大学に逃げたんですよ」
「ドッポ様の前で、ユイ様のことを口にするな!
 お前は、与えられた役目を忠実に果たせばいいのだ!!」

 暑いせいで、よけいに不機嫌になってしまうのだろう。老年の男は、汗を拭き吹き忌々しげに怒鳴りつけた。ユイのこと以外口にしなかったのは、それがよほど重大なことなのか、それ以外は男も納得しているのかのどちらかだろう。

「メメ、お前はこの私に飼われているのを忘れるでないぞ」
「そりゃあもう、帆掛のとっつぁんには借金の肩代わりもして貰っていますからね。
 この忍野メメ、受けたご恩を返すのに骨身を惜しむつもりはありませんよ。
 だからこそ、老人に間違った夢を見させないように気遣っているんです。
 いいですか、今の高校生は携帯、ネット、ゲームのない所で生きていけませんよ。
 それ以上に、ここには可愛らしい女の子が一人もいないと来ている。
 年頃の男の子が、そんなところに喜んでくると思いますか?
 とっつぁんも、それぐらいのことは承知しているんでしょう?」

 どうですかと言われれば、老年の男も黙る他はない。学校に通うために寮や下宿、さもなければマンションでも借りることになるのだろう。そんなことになったら、この前時代の田舎家に帰ってくるとは思えないのだ。それぐらいのことは、老年の男……帆掛ジュウゾウも十分理解していた。

「だからと言って、ドッポ様の言葉に逆らうわけには行かぬのだ。
 碇家に従う帆掛は、まず碇家御当主のお考えが最初に来ることになる。
 そうでなければ、シンジ様を呼び戻すことに意味が無くなってしまう」
「たぶん、ご本人は放っておいて欲しいと思っていますよ。
 と言うか、こんな話を大まじめにしたら切れられるんじゃありませんかね?
 何しろシンジ坊ちゃんは、お父上のことでたいそう苦労されている。
 そこに老人の言うことを聞けだなんて、今時の高校生じゃなくても受け入れてくれないでしょう。
 私が坊ちゃんの立場なら、どんな手段を使ってでも自由になろうとするでしょうね」
「だが碇家を再興させるためには、シンジ様の存在が必要なのだ。
 さもなければ、碇の全てが友綱の物になってしまう……」

 それだけは避けなければいけない。苦虫を噛み潰したような顔をしたジュウゾウは、お役目が重大なのだと吐き出した。そんなジュウゾウに、メメは小さくため息をついた。

「世の中には、どんなに頑張ってもできないことってのがあるんですよ。
 そして今回の話は、まさしくそのできないことでしょうが。
 坊ちゃんに碇家次期当主を望むのなら、やりたいようにさせる他は無いと思いますがね……」
「やりたいようにして貰っても構わないが、目的を外れて貰っては困るのだ。
 シンジ様には、碇の当主として我らに号令を掛けて頂かないといけない。
 まずはそのための器量を示し、友綱に傾いた流れを引き寄せなければならないのだ」
「そんなものを、坊ちゃんに求めますかねぇ……」

 バリバリと頭を掻いたメメは、育ちが違うのだと強調した。

「友綱氏のソウシ君とは育ちが違っているんですよ。
 彼は小さな頃から、友綱の家を継ぐことを仕込まれてきました。
 しかし坊ちゃんは、そんなこととはほど遠い世界に生きているんですよ。
 さんざん苦労して、ようやく今の所にたどり着いたってところでしょう。
 そんな坊ちゃんに、碇の家とか持ち出しても着いてきてはくれませんよ。
 それに坊ちゃん、お金なら一生不自由しないぐらい持っているらしいですからね。
 それに女だって、とっつあんもよく知っているでしょう?」

 呼び寄せるに辺り、シンジの人となりは十分に調査されていた。その結果があるからこそ、碇ドッポはシンジを呼び寄せることに執着したのである。それは、アルテリーベからのコンタクトによって、更に強固な物になったのである。
 渋い顔をしたジュウゾウに、碇の家は負担になるだろうとメメはたたみかけた。その負担を強いるにも、碇の家とシンジの関係は薄すぎた。それ以上の問題は、本当にシンジが助けを求めているとき、碇の家は何の援助も与えてこなかったことだ。見捨てておいて、必要となったら義務だけを課してくる。そんな相手のことをいったい誰が考えるのか、メメにしては珍しい正論を吐きまくった。

「だからと言って、このまま碇家を滅ぼすわけにはいかぬ。
 それにシンジ様のことを、友綱が見逃すことはないだろう。
 奴らが碇の力まで手に入れたら、シンジ様を守る者は誰も居なくなってしまう」
「そんなもの、日本を出て行けば済むことでしょうが。
 友綱と碇の力にしても、日本にいるからこそ振るわれる物なんですよ。
 それこそアルテリーベに助けを求めれば、逆に友綱を叩き潰すことも出来る」

 メメの言葉に、ジュウゾウの顔は益々渋い物になっていた。それを確認し、メメは少しだけ口元を歪めて見せた。言っていることがいくら正しくても、言い過ぎるとしっぺ返しを受けることになる。そろそろ引き時だと判断したのだった。

「とにかく、坊ちゃんを連れてくるところまでは面倒を見ますよ。
 それに豪龍寺学園への入学手続き、それも進めておきます。
 住むところについては、本人の希望を聞いてから決めましょうや。
 未亡人の経営するアパートか、それとも美人姉妹の住む下宿が良いのか。
 まあ坊ちゃんなら、女に困ることはないでしょうなぁ。
 いやはや、本当に羨ましいことだっ!」
「それでシンジ様はいつ日本に帰ってくるのだ?」
「近々とは聞いていますが、具体的にいつというのは分かりません。
 一応到着前には、連絡をもらえることにはなっていますがね。
 今分かっているのは、オートバイで気ままに南下していることぐらいです。
 たぶんローマ辺りから、日本に帰ってくることになるのでしょうね。
 なんか、そう言うのって格好良くありませんか?」

 できすぎと笑うメメに、だからだとジュウゾウは言い切った。

「それだけ器が大きいからこそ、碇の家を任すことが出来ると言う物だ」
「まあと言うかたぶんというか、大物なんでしょうねぇ……
 そう思うと、顔を見るのは正直楽しみなんですがね」
「だったら、お役目を滞りなく勤め上げることだ。
 そうすれば、十分な報酬を支払ってやろう」
「ありがたいことです……と言いたいところですが、これも恩返しの内ですよ。
 まあもらえる物はありがたくもらっておきますが、必要以上の心遣いはいりません」

 メメの言葉に、ジュウゾウは少し目を見張った。この得体の知れない男から、こんな殊勝な話を聞けるとは思っていなかったのだ。もっともそれを信じるほど、ジュウゾウは素直な性格をしていなかった。そして口にしたメメは、ジュウゾウ以上に性格がひねくれていたのだ。

「何を考えておるのか知らんが、金で我慢しておくことだな。
 さもないと、明日のお天道様を拝めなくなることもあり得るぞ」
「あのヤの字達をけしかけないで下さいよ。
 わたしゃ、善良でひ弱な一市民なんですからねぇ」

 くわばらくわばらと大仰に言うメメに、ジュウゾウはけっと唾を吐く真似をした。命を助けたし、金で飼っているのも間違いないだろう。だがジュウゾウにも、メメの正体は掴み切れていなかったのだ。この飄々として正体を掴ませない男が、一体心の中で何を考えているのだろうか。一番使えるから使っているだけで、いつか切り捨てることがあるとジュウゾウも考えていた。

「お前のどこが善良でひ弱な市民な物か!」
「やだなぁ、見た目で人を判断しちゃいけませんよ。
 っと言っている間に、ご本家に到着しましたよ。
 それでさっさと御当主様に挨拶をして、必要な指示を頂くことにしましょうか」

 わざと「たのもぉ〜」と場違いな声を上げ、メメは木で出来た扉を押し開いた。そして綺麗に掃きならされた庭へと進んでいった。あまりにも無遠慮なところは、この男の本領なのだろう。一瞬気勢をそがれたジュウゾウは、慌ててその後を小走りに追いかけていったのだった。

 外観以上に中は田舎家……というか、質素を絵に描いたような家だった。21世紀に生きる子供達なら、きっと博物館の展示物と間違えてくれるだろう。それほど文明という物から隔離されていたのが碇の家だったのだ。何しろ外から見たとおり、家には電気が引かれておらず、当然ガス水道などというインフラも整っていない。燃料は近くの山でとれた薪だし、水は井戸やわき水を利用していた。蛍光灯など無い天井は、長年燻られたお陰で艶やかに黒くなっていた。江戸時代当たりの農家を想像すれば、ほとんど外れてはいないという代物だった。極めつけは、ガラスすらない建具だろう。
 庭をずかずかと歩いたメメは、木造の扉に手を掛け、少し踏ん張るようにして引いた。長年の風雨にさらされ油の抜けた扉は、少しきしみながらゆっくりと開いた。ひんやりと湿った、そしてどこか黴くさい空気に顔をしかめたメメは、「上がりますよ」と声を掛けて中へと侵入した。赤土を押し固めたたたきの上には、誰の履物も置かれていない。静まりかえった様子に、誰も居ないのかとメメは中を覗き込んだ。

「はて、私達が来ることは連絡してあったのですよね?」
「連絡? そんなものは、ドッポ様には必要のないことだ。
 だが、確かに、誰も居ないようだな……
 畑に人影が無かったところを見ると、山にでも出かけられておるのかな?」

 少し遅れて家に入ったジュウゾウも、メメに倣って中を覗き込んだ。「良く来たな」と背中から声を掛けられたのは、まさにその時だった。ジュウゾウは慣れているのか何も反応を返さなかったが、それに引き替えメメは本気で驚いていた。彼にしてみれば、周りに誰も居ないことは確認していたのだ。まさか自分が、人が近づいてくるのに気付かないとは考えていなかった。

「これこれ、人をお化けのように見るものではないぞ。
 遠いところご苦労だったな、何ももてなしは出来ないがさっさと上がってくれ」

 振り返った先に立っていた、70程に見える小柄な男は、からからと下駄の音を響かせて二人の前に回った。そしてさっさと下駄を脱ぎ捨て、家の中へと入っていってくれた。

「下駄の音なんて聞こえなかったんですけどね……」
「考えるな、と言うか考えるだけ無駄だ。
 ここに来たら、総てはあるがままに受け止めることだな」
「……どうやら、そうした方が良さそうですねぇ」

 ふっと肩をすくめたメメは、ドッポに言われたとおりさっさと家の中へ上がっていった。もちろんサンダルは脱いで、裸足でである。それなのに、磨き上げられた木の床に、思わず足を滑らせていた。

「……未熟だな」

 遅れて上がってきたジュウゾウに支えられたから良かったような物の、そうでなければ派手にひっくり返っていたことだろう。ジュウゾウに感謝したメメだったが、一つだけ分からないのがなぜジュウゾウが無事かと言うことだった。自分にしたところで、けして不用心に上がり込んだわけではない。むしろ何があるかと用心していたほどなのだ。それなのに自分は磨き上げられた床に足を取られ、靴下を穿いているジュウゾウはしっかりと立っている。この違いは何かと、じっくりと究明したい気持ちになっていたのだ。
 だがジュウゾウは、メメが足を取られたことにそれ以上関心を寄せなかった。そして「着いてこい」とばかりに、先を歩き出した。

「まったく、だから田舎は嫌いだ……のわっ!」

 先ほどより慎重に足を出したメメだったが、それでも磨き上げられた床に足を取られてしまった。しかも今度は支えてくれるジュウゾウはいない、お陰で見事に背中を床に打ち付けることになった。

「この家には、怪異でも取り憑いているのか?」

 しこたま背中を打ったメメは、しばらく立ち上がることが出来なかった。それに立ち上がったとしても、すぐにすっ転ぶことは間違いないだろう。だったら少し冷静になって、自分が転んだからくりを探った方が賢いだろう。すすけた天井を見上げながら、摩擦係数が限りなく0に近いと思われる床を、メメはゆっくりと手で撫でてみた。

「こうしてみると、何の変哲もない木の床なんだが……
 益々怪異の仕業としか思えなくなってくる……」
 さして言えば、妖怪「小股掬い」か?」

 自嘲気味に口元を歪めたメメは、半ば自棄に起きあがった。そして歩き出す前に足場を確かめ、慎重に一歩足を進めようとしたのだが……

「やはり、怪異の仕業としか言い様がない」

 多少足を取られたぐらいでは転ばないよう、しっかりと気をつけていたつもりだった。だが前に出した足が滑ったと思った瞬間、軸足も見事に接地を失ってくれた。お陰で本日二度目、通算でも二度目となる受け身をとることになった。
 床に大の字になったメメは、これからどうした物かと途方に暮れてしまった。自分を見捨ててくれたのか、ジュウゾウが戻ってくる気配は感じられない。そうなると、自力で解決するほかはこの先に進む方法はない。

「歩けないなら、這ってでも進むしかないか……」

 よっと天地を逆にし腹這いになったメメは、両手で体を支え床を進もうとしたのだが……だがその試みも、やはり手が滑ってうまく行かなかった。ここまで来るといい加減にしろと起こりたくもなる。冗談で怪異と口にはしたが、ここまで来れば自然現象で説明が付く物ではない。

「このボロ家め、人間様をなめてくれるなよ!」

 もう一度両手で踏ん張ろうとしたのだが、今度はまともに手を突くことも出来なかった。ビタンといささか痛そうな音を立て、メメは顔を床に打ち付けた。背後で「くすくす」と女性の笑い声が聞こえたのは、ちょうどその時のことだった。

「やあ、誰か居るのなら助けてもらえませんかね。
 どうやら私は、このボロ家のご機嫌を損ねてしまったようです」
「あまりボロ家ボロ家と仰有るから、家の神様がすねてしまったのでしょうね」

 ふっと影が差した方向を見ると、なぜか着物を着た女性が立っていた。見上げにくい情況のためはっきりと確認は出来ないが、雰囲気は年の頃なら二十歳過ぎと言うところだろうか。はっきり言って、この家に不釣り合いな綺麗な格好をした……顔の方は陰になっているため分からないが……女性だった。

「しかしわたしゃ根が正直でね、お世辞を言うのはどうも苦手なんですよ」
「それでもお世辞の一つでも仰有った方が良くありませんか?
 そうしないと、一生そこにはいつくばる目に遭いますよ」
「仕方がない……少しだけ信条を曲げることにしましょうか。
 おい、見るからに齢を経て、経年劣化を起こしているお屋敷さん。
 申し訳ないが、いたずらはそこまでにしてもらえないだろうか?
 私は、この家の主碇ドッポ氏に呼ばれているのだがね」

 これならどうだと両手で踏ん張ろうとしたのだが、やはり曲がったご機嫌は直ってくれないようだ。踏ん張ろうとした両手は、手を突いた瞬間両側にするりと滑ってくれた。

「お嬢さん、やっぱり私は嫌われているようですねぇ」
「忍野様、お世辞を言うのならちゃんと世辞になっていないといけませんよ。
 ですがこのままだと、どれだけ経っても埒が明きそうにありませんね。
 私が手をお貸ししますから、まずは起きあがってみませんか?」

 頭の上から聞こえてきた声が、今はとても低いところから聞こえてきた。お陰でメメからも、その女性の顔をはっきりと見ることが出来た。そして同時に、自分が立てない以上の不条理をその相手に感じてしまった。

「何か、私の顔に付いていますか?」
「いやっ、予想以上に美人だったというか、若かったというか……」

 二十代半ばと想像していたのだが、そこにいたのはまだ十代、高校生ぐらいに見える女性だった。そんな女性が、どうしてこんな田舎家にいるのか。そしてこんな環境に馴染んでいるのか、じっくりとその辺りを聞いてみたいと思ったほどだ。

「私、ふけ声なんですよ。
 だから電話で話すと、奥様とか言われてしまうんですよ」
「いや、声のせいというか、その落ち着いた言葉遣いのせいというか……」

 言葉を探したメメだったが、喫緊の課題から逸れていることに気が付いた。まず自分がしなくてはいけないのは、にっちもさっちもいかなくなった情況の打破である。そのためには、名前の知らないこの少女の力を借りる必要がある。

「そんなことより、お嬢さんが手を貸してくれるのかい?」
「たぶん、そうするのが一番簡単な方法だと思いますから」

 どうぞと差し出された手を、メメは無造作に右手で掴もうとした。だがメメが少女の手を掴むのよりも早く、ごつい男の手が手首を捕まえた。そして「遊んでいるな」と文句を言い、ぐいとメメの体を引き上げた。
 助かったことはうれしいが、目の前にあるジュウゾウの顔に、メメはどうしようもない失望を感じていた。どうせ助けて貰うなら、やはり見目麗しい女性の方がありがたいのだ。ジュウゾウが来なければ、どう見ても十代の女性と手を取り合って廊下の上で組んずほぐれつ……という情況になっていたかも知れない。まあそんなことはないと分かっていても、やはり妄想すらさせて貰えない現実はやりきれないのだ。

「フジノ、お前もこんな所で遊んでいるのではない。
 主様がお待ちしているぞ」
「申し訳ありません帆掛さま。
 忍野様がとても楽しそうに床と戯れていましたから……」

 ぺこりとジュウゾウに向かって頭を下げ、フジノと呼ばれた女性は廊下を先に進んでいった。あっけにとられてその後ろ姿を見送ったメメに、さっさと着いてこいとジュウゾウは背を向けた。

「いや、私としては着いていくつもりだったんですけどね……」

 別に楽しそうにしていたわけではないのだがなぁと。そんな言い訳も、聞いてくれる相手がいなければ役に立たない。それどころか目の前のおっさんは、軽蔑した目で自分のことを見てくれる。

「未熟だから、神様につけ込まれたのだ。
 とにかくドッポ様がお待ちだ、さっさと着いてこい!」
「だから、私は着いていくつもり……おやっ?」

 滑って動けないと言おうとしたのだが、今度はまともに足が進んでくれた。床との摩擦係数はとても高く、まるで吸い付くような感触を足の裏に伝えていた。

「どうかしたのか?」
「いえ、別に何でもありませんよ……」

 ちゃんと歩けるのだから、確かに何でもないのだろう。だがそれまでの苦労を考えると、ここが尋常な世界でないのは間違いない。単なる権力者のなれの果て、その考えを改めなければとメメは考えたのだった。

 磨き上げられた廊下を進んだところで、「ここだ」とジュウゾウは一枚の襖の前で立ち止まった。そして水墨画調の絵が書かれた襖を手で開き、少し腰を落とし気味にしてジュウゾウは部屋の中へと入った。その格好を不思議に感じたが、真似をした方が無難とメメも腰を落とし気味にして後に続いた。そのお陰か、部屋にはいるのに何も起きなかった。ただ中にいた年寄りと少女からは、思いっきり笑われてしまったのだが。どうやら自分のとった行動は、かなり見当はずれの物のようだった。

「そんなに腰を低くして……
 忍野とやら、お前も腰を悪くしているのか?」
「いえ、別にそんなことは全くないんですけどね……
 ただちょっと、打撲が少しあるかなあって所ですかね」

 ジュウゾウのしたことに意味がないと理解したメメは、仕方がないと開き直ることにした。話を思いっきり飛ばし、核心へと触れることにしたのだ。

「とりあえず、私が呼ばれた用事を果たすことにしますよ。
 シンジ坊ちゃんですが、無事新造人間研究所を出られました。
 今はオートバイに乗って、ヨーロッパを南下されています。
 少し観光をされてから、こちらに戻られると言う話しです。
 日本に向かわれる前に、連絡を貰うことになっていますよ」
「いつ頃になると言う連絡はなかったのか?」
「1ヶ月も掛からないと言うぐらいで……たぶん1、2週間だろうと」
「そうか……」

 その時メメの目には、ドッポが少しうれしそうな顔をしたように見えた。ただ喜んでいると言っても、その理由までは分からない。普通の祖父ならば、孫が元気にしていて、もうすぐ帰ってくることを喜ぶのだろう。だが目の前の老人が、そんなことを素直に喜ぶとはとても思えない。だったら何を理由に喜んでいるのか、残念ながら心当たりが多すぎて絞り込むことは出来なかった。
 だがドッポは、メメの疑問などどうでも良いことのようだった。「そう言うことだ」とフジノの方を見て、学園はどうなっていると情況を聞いた。メメの目には、フジノと言う少女もうれしそうに見えた。

「今のところ、何も変わったところはありません。
 忍野様のお陰か、シンジ様の正体はばれていないように思われます。
 編入試験で普通に点をとっていただければ、編入が許可されることでしょう」
「友綱はどうしている?」
「何も動きは見えてきていません。
 ソウシ様には特に目立った動きは見られません。
 それにマドイ様は語学研修で外遊されているので、連絡が疎になっているかと。
 本家の方も、何事もないように落ち着いています。
 碇の直系が入学するとなれば、これほど平穏であるとは思えません」
「そうか……」

 うんと小さく頷き、ドッポは静かに目を閉じた。その様子を見る限り、ここまでは思惑通りに進んでいるのだろう。思わせぶりなドッポの態度に、メメはそう考えることにした。そう考えるのが、一番平和なことなのだと。
 たぶん何か指示があるだろうと期待したメメだったが、ドッポは目を閉じたまま動こうとはしなかった。ぽっくりと逝ったとは思えないが、こちらを忘れられても困ってしまう。しばらくはじっと待っていたメメだったが、いい加減しびれが切れて「あのぉ」と声を掛けた。だがメメの声に、ドッポどころかジュウゾウやフジノも答えてくれなかった。自分の声が聞こえないはずがないと、メメはもう一度「あのぉ!」と声のトーンを一つあげて呼びかけた。
 さすがに今度ばかりはドッポの耳にもメメの言葉は届いたようだ。小さく息を吐き出しながら目を開けたドッポは、「何も縛らぬ」と答えにならない答えを口にした。しかもその答えは、メメに向けられた物ではなかった。お陰でちんぷんかんぷん、さっぱり意味が通ってくれなかった。

「すみません、理解できるように仰有って下さいませんか?」

 「縛らない」というだけで、意味を理解しろと言うのが無理な相談だった。当然他の二人もそうだろうと思ったのだが、あにはからんや二人は大いに驚いた顔をしていた。と言うことは、自分以外のここにいる者達は、「何も縛らぬ」などと言う抽象的な表現を理解していると言うことだ。

「真にあい済みませんが、どうやら私だけ意味が理解できていないのですが。
 それで縛らないというのは、坊ちゃんのことを対象にしているのでしょうか?」
「他に、判断が必要な相手がいるのかな?」

 そう返されれば、いないというのが一番正しいだろう。だがそうなると、この老人は跡を取る孫を呼び寄せて、指示を出すつもりはないという考えらしい。碇にゆかりの深そうな二人が驚くのも無理もないだろう。まだまだ縁の薄い自分でも、何のために働いているのか疑問に感じてしまうのだ。だったら何のために呼び寄せるのか、その辺りの考えを聞かせてもらいたいところだ。

「だったらなぜ坊ちゃんを呼び寄せられたのですか?」
「わざわざ呼び寄せたのに、家に縛らぬ理由を知りたいと言うことか?」

 ふぉほっほっほとドッポは、楽しそうに高らかな笑い声を上げた。

「友綱の手の中で、シンジがどのように振る舞い、どう生きていくのか。
 奴らの手に収まる器なのか、はたまた泉のようにあふれ出てくるのか。
 総ての手はずが整ったなら、後はよけいな手出しは無用という物だ。
 放っておいても、豪龍寺では様々な事件が起こることだろう。
 その事件を乗り越え、相応しき嫁を見つけてくれれば碇の家は引き継がれることになる。
 シンジに跡を継がせるのなら、その先のやり方はシンジに任せるのが一番良いことなのだよ。
 その準備が整ったからこそ、儂は「縛らぬ」ことを決めたのだ」
「そう言うことですか……」

 ふっと息を吐き出したメメは、それでと話の先を促した。碇家御当主の跡継ぎに対する考えを聞くことは出来た。ならばここに集まった男3人と女1人。この先どのような役割を果たしていくというのか。

「なるほどお前達の役割か、確かに正しく伝えておく必要があるな。
 ならばジュウゾウ、お前は今まで通りシンジの後見人でいろ。
 援助が必要なときは、お前の判断で必要な援助を与えてくれ。
 そしてメメ、お前はジュウゾウの代理人として直接シンジと向き合ってくれ。
 すでに世代は違うが、儂らよりはお前の方がまだ歳が近い。
 聞き役として、シンジの側にいるだけで良い。
 まだ、そう言う大人が周りに必要な歳なのだ。
 そしてフジノ、お前はシンジの身の回りの世話をしろ。
 だが必要以上にシンジを構うな、甘やかせるな」
「で、坊ちゃんはどこに住まわせるのですか?」

 自分が身近にいる理由、そしてこの少女がシンジを世話できる環境。それを整えなければ、今の話に意味が無くなる。

「あの辺りには、学生向けの下宿が数多くあるのだよ。
 ちなみにお前も、そこに住むことになるのだがな」
「えっ、私もですかっ!?」

 学生向けと言われたばかりなのに、30過ぎのおっさんに向かってそこに住めと言う。その矛盾に驚いたメメに、歓迎しますよとフジノが微笑んだ。

「歓迎しますって、お嬢さんもそこに住んでいるのかい?」
「住んでいる……というか、そこが私の実家になりますから。
 かなりの年代物になりますが、近所で有名な洋館に住んでいるんです。
 親子3人ですから、部屋が余って仕方がないんですよ」
「その空いている部屋に住めと……?」

 この地で年代物というと、本当にしゃれにならないぐらいの物となる。なるほどこの少女がこの田舎家になじめるはずだ、説明のないところでメメは自説に納得していたのである。
 ただ問題は、これまでメメは街中に住んでいたことだ。その時に色々と問題は起こしたが、田舎での、特に古い家屋での生活になれていないことだった。もしも紹介された……というか、住まされることになる家が、この田舎家に勝るとも劣らなかったらどうしよう。ついそんな不安に襲われてしまうのである。

「忍野様、外観は趣深くなっていますが、中はしっかりと改装されていますよ。
 ちゃんと電気ガス水道も通っていますし、トイレも水洗になっています。
 だいたい私のような女子高生が、前時代的な家に住んでいられるとお思いですか?」

 フジノの言葉に、考えが顔に出ていたのかとメメは右手で頬を押さえた。だがすぐにフジノの言葉に、つっこみどころを見つけてしまった。「私のような女子高生……」女子高生だったのかという驚きもあるが、この年に似合わぬ落ち着きをもった、そしてどちらかと言えばこの家に馴染んでいる少女が、前時代的な家に住んでいられるかと言い切ってくれる。思わず「似合っているよ」と言い返したくなるほどの言葉だったのだ。

「ちゃんとエアコンも入っていますし、トイレは洗浄式になっています。
 お風呂にはちゃんとシャワーもあるし、部屋にはちゃんと鍵が掛かるようになっています」
「まあ、年頃のお嬢さんの部屋に鍵がないのは不用心だな。
 特に思春期真っ盛りの男の子が同居するとなるとなぁ」

 鍵がなければ、間違いが起きて下さいと言っているような物だ。もっとも碇家とこのフジノという少女の家の関係を考えたら、間違いが起きるのは歓迎されているのかも知れない。そう考えると、部屋に着いている鍵というのは自分対策なのかも知れない。
 まあそんなことは良いと頭を切り換えたメメは、事情は了解したとフジノに答えた。そしていつから住めばいいのかと、これからの予定を尋ねた。

「部屋の準備ならすでに出来ています。
 忍野様のお部屋は、角の一番日当たりと風通しの悪いお部屋です。
 ですからお部屋は清潔に使って下さいね」
「……なんで、一番悪い部屋に入れてくれますかねぇ」
「当然シンジ様や私と一番遠いところにあるからです。
 やはり私も年頃ですから、シンジ様ならいざ知らず、忍野様とはちょっと……
 面白いお方だとは思いますが、理想からは遠く離れていますから」

 ぼろくそに言われているのだが、なぜかメメは腹が立ってこなかった。と言うか、釣り合いという意味を考えれば、そう言われても仕方がないと自己分析していたのだ。何しろ相手は、まだ10代の女子高生なのだ。着物に隠れてスタイルまでは分からないが、見た目でいけばかなりの上物であるのが分かるのだ。たぶん学校では、かなり人気のある方だと推測できる。そんな女子高生が、何がうれしくて胡散臭いおっさんの近くに住みたいと考えるだろうか。我が身に置き換えて想像すれば、自ずと出てくる答えだったのだ。もっとも当たり前だと考えれば考えるほど、悲しい気持ちにもなってくれるのだが。

「ところで忍野様、お仕事は何をされているのですか?」

 にっこりと微笑まれると、どうしても答えにくくなってしまう。その笑みが可愛らしければ可愛らしいほど、「何でも屋」と言う「プータロー」を言い換えた職業など口に出来なくなってしまうのだ。人生経験だけなら人一倍にあると思っているが、それを口に出しても理解されることはないだろう。それに今回は、その「何でも屋」と言う肩書きを生かした仕事でもある。だからメメは、少し言葉を変えて説明することにした。

「ヨロズ人様の困ったこと、至らないことへのお助けをすること。
 まあ便利屋でもアドバイザーでもコンサルタントでも好きな呼び方をして下さい」
「つまりプータローと言うことですね。
 人の生き方をとやかく言うつもりはありませんが、お願いですから食費ぐらいは入れて下さいね。
 それ以外の部分については、ドッポ様の手前、勤労奉仕で我慢することに致しますから……
 さもないと、お食事もお出ししませんよ」
「いやっ、さすがに最近そこまでは困っていないんですけど……」

 そこまで言われると、何か人としてとても困った存在に自分が思えてしまう。だが冷静になって考えると、フジノの言っていることはあまり外れていない。それでも否定だけはしておく必要はあった。

「ですが、定職についておられないようですから……」
「一応今回のことも、仕事の内なんですよ。
 ですから帆掛氏から、それなりの報酬は頂いています」
「そうですか!」

 良かったと真剣に喜ぶフジノに、一体自分はどう見られているのか。ついその辺りを問いただしてみたくなる。その誘惑に駆られはしたが、藪をつつくことはないとメメは思いとどまった。これまでの会話で、かなりのダメージを受けたのは確かなのだ。そこに来てとどめを刺されたら、しかも自分から呼び込んだのでは哀れとしか言い様がない。

「ところで忍野様、お酒は嗜まれますか?」
「はあ、一応酒タバコは嗜まれますが……」

 それが何かと、自分の答えに手を叩いて喜ぶフジノに思わずメメは聞き返した。

「いえ、父が飲み仲間を捜していたのを思い出したんです。
 飲み代を出せとは言いませんので、たまには父に付き合ってあげて下さいね」
「まあ、それぐらいは問題ないと思いますが……」

 そんなに喜ばれることかと、少女の反応がいまいち解せないメメだった。だが他の二人は、なにやら自分たちをのけ者にして相談しているようだ。それを考えると、ここでの自分の役目は終わったのだろう。まあいいかと開き直ったメメは、これからおじゃまして良いかとフジノに聞いた。とりあえず一つぐらい、これからのことに目処をつけておくという考えからである。

「そうですね、シンジ様がおいでになる前に準備を整えておく必要がありますね」
「一応前から住んでいた住人って立場を作っておく必要があるからなぁ」
「でしたら、これから案内することに致します」

 笑いながらフジノは、そうそうと手を叩いた。

「早速ですが、勤労奉仕をして頂くことにします。
 そうですね、シンジ様がお出でになるまでに部屋を綺麗にしておきましょうか。
 大家として、新しい店子さんを大切にしないといけませんからね!」
「……私も、一応新しい店子、なんですがねぇ」

 なのにいきなり勤労奉仕とはどういうことか。もしかしたら自分は数の内に入っていないのか、この仕事やめて良いのか、メメは自分たちを無視する老人達に聞いてみたかった。



***



 奈良の中心街……と言っても、お寺以外に目立った建物がなければ、どこが中心というのは分かりにくい。従って歴史的景観物を基準に説明すると、猿沢池の前をJR奈良駅方面に少し歩いたところ、老舗のホテルから少し離れたところに友綱の本宅は位置していた。条例で高い建物が建てられないため、実力者という割にはこぢんまりとした、それでも世間標準では十分に豪邸と呼ばれる居を構えていた。そこで友綱の現当主、友綱オウガは一人の客を迎えていた。瑞光タクマ、年の頃なら50少し前、がっしりとした体格の壮士という空気を持った男だった。
 一方タクマを迎えるオウガも、負けず劣らずがっしりとした体つきをしていた。半袖から伸びる二の腕は血管が浮き上がり、太い筋肉が盛り上がっていた。厚手のシャツからも分かる厚い胸板は、どちらかと言えば暴力の匂いを漂わせてもいた。この張りのある体は、見た目の若さからもオウガの年齢を分かりにくくしていた。

 タクマを迎えたオウガは、小賢しいとその動きを嘲った。がたいが立派なくせに、やっていることがせせこましい。それは友綱と碇、両者に対して均等な距離を置く態度を揶揄していた。

「戦国の真田のようと言えば聞こえは良いが、所詮は我が身可愛さの小心者のすることだ。
 それでその小心者が、この俺の所に何をしにやってきたのだ?」

 胸元の大きく開いた黒いシャツに、同じく黒いゆったりとしたズボンを穿いたオウガは、立派な革製のソファーにふんぞり返った。そして陰のように隣に従っている男に、「おいっ」と小さく声を掛けた。呼ばれた男は懐から葉巻を一本とりだし、それをすかさずオウガに差し出した。

「どうせお前のことだ、碇のじじいのことを注進にでも来たのだろう。
 娘を差し出しながら、この俺にせっせとごまをするとは見上げた根性だな」
「別に、娘を差し出しているつもりはありませんよ。
 それから私は、注進に来たわけで出もありません。
 一応お耳に入れておいた方がよいかと、まあ多少の親切心からお邪魔しただけです」

 嘲るような目を跳ね返し、タクマは面白いことになりそうだと碇ドッポの動きを教えた。

「ユイちゃんの息子、確かシンジクンと言ったかな。
 どうやら彼を呼び戻すことにしたようですよ」
「ほほう、ユイちゃんの息子をか……」

 ユイという名前に眉を動かしたオウガは、それでとタクマに先を促した。今更死に損ないのドッポなどどうでも良いが、碇ユイの息子が関わってくるとなると話が変わってくる。ドッポにとってとっておきなのかも知れないが、とても微妙な問題を孕む、そして本当にとっておきになるのかどうか分からないのが碇ユイの息子、碇シンジという存在なのである。碇家と争い続けてきたのだから、当然オウガもその動静には注意を払ってきていたのだ。その結果、関わらない方が良いという結論に達していた。能力的な問題とは別に、政治的な意味合いが大きいことがその理由となっていた。そして戻ってきたところで、体制に影響はないとの評価もしていたのだ。
 ただドッポがぼけていない限り、何等かの意図を持って孫を呼び戻したのだろう。肩書きだけは立派な物を持っているのだから、それをどう利用しようとしているのか。手札としてどう生かすつもりなのか、その辺りを聞いているのかとオウガは問うた。

「フジノの受けた指示は二つ、坊ちゃんを豪龍寺に入学させること。
 そして家に居候させることです」

 にやりと笑ったタクマに、「はぁっ」とオウガは間抜けな顔をして聞き直した。けして言葉が聞き取りにくかったわけでも、タクマの話が分かりにくかったわけでもない。豪龍寺に入学させるというドッポの考えが信じられなかったのだ。何しろ豪龍寺は、友綱の支配下にある学校なのだ。

「あの死に損ない、何を血迷ったことをするんだぁ?
 豪龍寺に碇家の跡取りを入学させるぅ?
 なんだぁ、つぶして下さいと友綱に差し出すつもりなのか?
 あのじじい、本当に耄碌しちまったんじゃないのか?」
「つぶすのでなければ、友綱に差し出したという考えも出来ますな。
 もっとも碇の古狸が、そんな殊勝な考えを持っているとは思えませんな。
 跡取りを切望する気持ちが目を曇らせたのか、はたまた期待するだけの物を持っているのか?
 ヨーロッパの某国からコンタクトがあったと言う噂もありますな」
「その某国って奴だが……某国だけじゃ分からないんだがな。
 いったいどこのことを言っているのか分かるか?」

 ヨーロッパには、それこそ何十という国が存在している。ただ某国と言われても、それがどこだか分かるはずがない。そしてその事情はタクマも同じだった。さあと肩をすくめて、情報が少なすぎると打ち明けた。

「ただ、帆掛にコンタクトがあったのは確かのようです。
 ただ何を目的にしてコンタクトしてきたのか……まあ坊ちゃんが目当てなのは確かなのでしょうが」

 タクマの説明に、ふむとオウガは腕を組んだ。一口吸っただけの葉巻は、灰皿の上でゆっくりと紫煙を上げている。それを忘れたように、オウガはどうすべきか熟考した。そんなオウガに、黙ってタクマは次の展開を待った。肩書きだけはと言ったが、「使徒戦の英雄」と言うのは、生半可な肩書きではない。しかもそのただ一人の生き残りとなれば、肩書きだけでも相当な価値を持つ。ヨーロッパの某国とやらも、それに興味を示した可能性もあるのだ。
 確かに碇シンジは、碇家最後の持ち札であり、切り札でもあったのだ。それを敵のまっただ中、豪龍寺に入学させる意味、恐らくオウガは友綱に対する挑戦と受け取るだろう。

 オウガの持つ権力を行使すれば、たとえ使徒戦の英雄と言えど踏みつぶすのは難しくないだろう。だがただ一人入学した少年を、「友綱の全力でつぶすつもりか?」と挑発しているとも考えられる。裏を返せば、「友綱の跡取りはその程度」と言われているのである。親の力を借りなければ競争も出来ない、その程度の小者なのかと挑発しているのだ。それを理解したからこそ、どうすべきかオウガが考えているのだろう。

「お前の娘が受けた指示は二つ……と言ったな?」
「正確には、一つと言った方が良いんでしょうな。
 豪龍寺に入学させるのは、帆掛が直接動いていますからな。
 家の娘には、生活の世話をしろ、ただし甘やかすなと言う物ですからね」
「学校でのことは指示されていないと言うことだな?」
「手伝えとは言われていませんね」
「そうか……」

 うんと一度頷いたオウガは、「決めた」と短く言い放った。

「うちのソウシ、マドイに挑むというのなら受けてやろうじゃないか。
 入学させないというのも選択肢だったが、それはやめることにする。
 たとえ編入試験が零点でもうちに入れてやろうじゃないか!
 その代わり、試験の方は超難問を用意してやる」
「そうすれば、学園における自分の立場を理解することが出来ると?」
「敵地に乗り込むと言うことがどういうことか、初めに分からせてやった方が良いだろうに」
「ですが、その程度で怯むような少年でしょうかね?」
「お前の娘も、学園内では味方をすることは出来まい。
 孤立無援の生活にどこまで耐えられるのか、それを見届けるのも面白いだろう?」
「そう言う大人げのないことをしますか?」

 苦笑したタクマに、売られた喧嘩だとオウガは笑い飛ばした。

「それに、友好的に受け入れましたではドッポの奴も期待はずれだろう。
 せいぜい楽しい学園生活になるよう、協力してやっても良いという物だ。
 ただし教師に不正をさせるような真似はさせない、あくまで生徒間の問題に止めるつもりだ」
「子供のことに親が口出しをするわけにはいきませんからな……」

 面白そうに笑うタクマに、そう言うことだとオウガはにいと歯をむき出した。

「不動にはそう指示を出しておく。
 ソウシとマドイにも教えておくことにしよう……
 ところでお前の娘は、どういう立場で振る舞うつもりだ?」
「まあうちの居候ですから、その程度の面倒は見ることになるでしょうな。
 一応我が身が可愛いですから、必要以上に庇うことはないと思いますが?」
「お前の所も、さっさと碇なんか見切りをつければいいのになぁ。
 そうすればお前の所の娘、ソウシの嫁にしてやっても良いんだぞ」
「ソウシ坊ちゃんは確かにエリートだし、見た目も相当良い……
 しかも友綱の跡取りと言う肩書きもある……親としては願ったり叶ったりなんですがねぇ。
 特に家内は、ソウシ君とくっつけたがっていますよ。
 まあフジノにはフジノの考えもあるんでしょうがね」
「まあ人の縁って奴は理屈では説明が付かないのは確かだわなぁ」

 まあいいと納得したオウガは、もう一度「おい」と小さな声で合図した。その合図に答えるように、側に立っていた男はすかさず懐からライターを取り出した。結局最初に火をつけたものは、放っておいたため火が消えていた。

「ふうっ、やはりハバナはうまいな。
 それで瑞光、今日は家で飲んでいくか?」

 まだ明るいうちと言うか、昼日中から酒を飲む話しも無いだろう。何しろまだ土曜の昼下がりなのである。もっとも誘いを受けた方も、昼酒に対して疑問を感じているわけではなかった。ただ心情的に、あまり家を空けたくないと考えていた。

「そうしたいのは山々なんですが、今日はお暇することにしますよ。
 娘が夕食を作ってくると言うのも理由ですが、新しい居候を監視しなくちゃいけませんからね。
 30過ぎの男の前に、家内と娘だけ残しておく訳にはいかないんですよ」
「何でそんな男を居候に……ドッポの指示か?」
「まあ、そう言うことです。
 忍野メメとか言う、得体の知れない何でも屋らしいですよ。
 どうやら帆掛が拾った男のようなんですけどねぇ……
 シンジ坊ちゃんの話し相手、保護者代わりらしいんですが……」
「碇の姿を見せないようにと言う配慮か……」

 まあ良いかと、オウガはメメのことは忘れることにした。これからの舞台は、しばらく豪龍寺学園内に留まることになる。正体不明というのは注意を要するが、学外から出来ることはたかが知れている。
 立ち上がるきっかけとして、外からの電話というのはできすぎだろうか。オウガが葉巻を大きく吸い込んだところで、部屋の入り口に置かれた電話が小さく自己主張した。それをきっかけに、タクマは暇すると立ち上がった。

「では私は、これでご無礼させて貰うことにしましょう」
「ああ、だが次に来るときは、ゆっくり飲めるようにしてくることだな。
 春鹿の蔵元が、口切りの良いのを持ってきたからな」
「そう言う話しを聞くと帰りにくくなるじゃないですか……」

 タクマが日本酒を好物にしているのは承知していることだった。そして娘を大切にしているのも同じくである。だから絶対に帰りたいと言うところに、敢えておいしそうな餌を差し出したのだ。まあ軽いいたずら、子供じみた嫌がらせとも言えるだろう。真剣に悔しがるタクマに、だったら持って帰るかとオウガは水を向けた。今年の仕込みは、かなり上質な物になっている。自分の手柄ではないのだが、自慢したいという気持ちがオウガにもあったのだろう。

「そうして頂けるととてもありがたいのですが……」
「なに、これぐらい大したことはないな。
 おいっ、瑞光に土産を持たせて……なんだ、何かあったのか?

 支度をしろと声を掛けようとしたとき、側近の一人が電話の子機を持ってオウガの元に駆け寄ってきた。そして耳元で何かを報告して、その子機を渡した。タクマは、電話を受け取るときにオウガの顔色が変わったのを見逃さなかった。
 こう言うときに、普段から声の大きな男は隠し事をすることが出来ない。オウガの尋常ならざる様子に席を立ったタクマだったが、「マドイ」「大丈夫か」「要求は」と言うキーワードが耳に入ってきた。それらのキーワードに加え、オウガの娘が語学研修でヨーロッパに行っていることをつなぎ合わせれば、自ずと一つの結論に達することになる。治安という意味では、欧州の先進国でも日本ほど安全ではない。

(友綱の娘が、誘拐にあったと言うことか……
 これでしばらく、友綱も碇どころではなくなるだろう)

 タクマの記憶が確かならば、友綱マドイは語学研修も終わり、ローマの遺跡を見学している頃のはずだ。セカンドインパクトの被害から、イタリア南部はかなり治安が悪化していたはずだ。最近かなり回復したと言え、まだ誘拐は日常的に起きていたのだ。ただ日本人観光客、特に学生が被害にあったという報告はない。だから学園も、史跡巡りと言うことでローマをコースに入れたのだろう。今回その考えが徒になったと言うことだ。

(日本人が狙われなかったのは、狙うだけの資産家が来ていなかっただけだろう。
 だとしたら、友綱の娘が狙われたのは偶然ではないと言うことだ。
 そうなると、誘拐犯の組織がどの程度か、そして何をしてくるのかも想像が付く)

 最初は誘拐したことを示すために、裸に剥かれた写真と身につけていた物が送りつけられる。その後身代金交渉が捗らないと、身体の一部、指とか耳とかが切り取られて送りつけられることになる。たいていの誘拐は、この時点で誘拐犯の要求が一方的に通り、莫大な身代金が支払われることになる。その実績があるから、誘拐にあった側は最初の警告時点で相手の要求を丸飲みしていた。しかも身代金の受け渡しが行われるまで、被害者は警察に届けることはなかったのである。

(マドイ嬢ちゃんのことでは、友綱も強面でいられないだろう。
 身代金を調達するまでの間、いやしばらくは他のことは手に着かないことになるな)

 だがタクマが部屋を出ようとしたとき、その行く手をオウガの側近が遮った。どうやら友綱の娘が誘拐に遭ったことは秘密にしておきたいらしい。少なくとも碇に知られるわけにはいかないのだろう。だから解決までは、自分をここに足止めしようと言うのだろう。

「しばらくは返してもらえないと言うことかな?」
「ご自宅には、こちらで昼間から酔いつぶれていることにさせて頂きます」
「やれやれ、自分で連絡をすることもNGなのか」

 仕方がないと諦めたタクマは、携帯を渡してソファーに戻った。そして何か飲むものを持ってこいと立っている男の一人に命令した。

「そっちの事情で足止めをするんだ。
 それぐらいのことをしても罰は当たらないだろう!
 だったら家への説明通り、今から俺は酔いつぶれさせてもらう!」

 30男がオオカミに変わりませんように。娘の身持ちの堅さと戦闘力に、タクマは期待するしかなくなったのである。それを思えば、やけ酒を飲むのも自然なことかも知れない。毛ほども信用されていないところが、瑞光家に身を寄せたメメの不幸なのだろう。

「分かった、新しい動きがあったらすぐに連絡をしろ!」

 電話を切ったオウガは、すぐに自分の携帯を取り出した。そして側にタクマが居ることも気にせず、必要な手配をするため取引先の銀行の支店長へと電話を掛けた。相手の要求が身代金である以上、それを速やかに用意する必要がある。さもないと、つけなくてもいい傷を大切な娘に付けてしまう。

「ああ友綱だ、休みの日にすまんが緊急事態が起きた。
 娘のマドイが、ローマで誘拐された。
 誘拐犯から娘の写真とパスポート、生徒手帳が送られてきた。
 ああ身代金は、相場から行けば1千万ユーロぐらいだろう。
 身代金さえ払えば、娘は無事に帰ってくるんだ。
 大使館や警察に知らせる必要がどこにある!
 マスコミにかぎつけられたら、娘が傷物にされてしまうぞ!
 それに警察に届けたら、娘がどうなるのかを考えたのか?
 犯され切り刻まれ殺された被害者がいたのを忘れたのか!
 たかが10億ちょっとでけりが付くのなら安いものだ!」

 今更隠す必要がないと思ったのか、それともそんなことにも気が回らないのか、オウガの声は次第に大きくなっていった。もちろんタクマの耳に、会話の総てが届いている。

(いくら友綱でも、たかがと言える金額じゃないと思うんだがねぇ……)

 いくら莫大な資産を持っていても、動かせる現金は意外に少ない。しかもこのように緊急に動かすとなると、友綱でもかなり無理をしなくてはいけなくなる。それもあって、相手の支店長は警察とか大使館を口にしたのだろう。なにしろいくら重要な取引先からの頼みでも、理由もなく大きな金額を海外に送金することは出来ない。誘拐、身代金というのは正当な理由になるのだが、それを持ち出すなとオウガが言っているのだ。

「現金がないというのなら、株を担保に融資してくれればいいだろう。
 休日だから処理が出来ない、何のためにお前の所に管理を任せていると思っているんだ!!
 だからこんなことを公にするわけにはいかないと言っているだろう!!」

 オウガとしては、総てを秘密裏に処理をしたいのだろう。だが支店長にしてみれば、身分は企業コンプライアンスで雁字搦めにされているのだ。イレギュラーな処理をするには、相応の理由が必要になってくる。それをとばしてしまえば、今度は自分の首が危うくなってしまうのだ。

「月曜日まで待てだと!
 娘の命が掛かっているんだぞっ!
 とにかく明日の朝までに何とかしろ!!」

 電話を叩ききったオウガは、ソファーに座ったまま頭を抱えた。普段の人を人と思わない態度を見ているだけに、こんな姿を見られれば同情もしてしまう。こんなに子煩悩だったのかと、新たな一面を見せられた気もしていた。
 だがオウガがどんな人間かは、この際大きな問題ではないだろう。どんないきさつがあろうと、まず優先すべきは彼の娘の安全である。緊急に資金が必要なら、あるところに頼るしかないのである。それをタクマは口にしようとしたのだが、それよりも早く電話の子機がうるさくなり始めた。表示されているナンバーからすると、ローマに行っている学園関係者らしい。

「誘拐犯から連絡が入った?
 何だって、1億ユーロだとぉ!!」

 日本円にして100億以上の金である。公表されている友綱の個人資産に対しても、10%を超える莫大な金額だった。それを現金で用意しろと言うのは、はっきり言って数日では不可能としか言い様がなかった。そして同様に、それだけの資金を秘密裏に用意するのも無理な相談だった。

「そんな金が、すぐに用意できるはずがないだろう!!
 そうだ、支払いを引き延ばせ……いや、そうなるとそれまで娘が帰ってこないか」

 友綱として、完全に手詰まりになったことになる。資産の一部を処分すれば、100億なら用意することは出来るだろう。だがそのためには、けして短くない時間が必要になる。支払いの意志さえ見せれば、そして一部でも手付けを渡せば、娘の安全は確保されることだろう。だが支払いが終わるまで帰ってこないとなると、ことを内密にしておくことも出来なくなる。それ以上に、感情的に大切な娘を誘拐犯の元に置いておきたく無い。

「とにかく、犯人に対して要求は飲むと伝えろ!
 値切りはしないが、用意するための時間を寄越せと伝えるんだ。
 いくらなんでも、1億ユーロは今日明日に用意できる金額ではない!!
 それからいいか、絶対に大使館に知られるんじゃないぞ!
 そんなことになったら、娘の命の保証が無くなる!!」

 電話を切ったオウガは、先ほどよりも深くうなだれ頭を抱えた。さすがに犯人からの要求は、予想を遙かに超えていたのだ。進退窮まるとは、まさにこの事を言うのだろう。それでもオウガは、わずかな可能性を探るためもう一度携帯を取り出した。

「そうだ、友綱だ……犯人から正式な要求が出た。
 1億ユーロ、現金で用意しろと言うことだ。
 うちの資産を処分して、どれぐらいで用意することが出来る?
 マスコミに漏れることは、この際目をつぶっても構わん!」

 どうだと力無く問いただしたオウガだったが、返ってきた答えに言葉を詰まらせた。

「2、急いで2週間だと!」

 大量の資金を送金すると、国税からのチェックも入ってくる。資金の調達、そして国への届け出、それを済ませるのだから2週間というのは破格に頑張った方だろう。だが一刻を争っているときに、2週間という時間はあまりにも長すぎた。だがこれ以上はどう頑張っても無理と言われたのだろう、それ以上オウガは短くしろと言うことはなかった。その代わり、驚くほど弱々しい声で「よろしく頼む」と言って電話を切った。そんなオウガに、出過ぎた真似は理解していると言って、タクマは「碇に話しを通そうか?」と持ちかけた。

「こういうことなら、碇ドッポも確執を持ち出さないでしょう」
「碇の死に損ないを頼れと言うのか?」

 むっとしたオウガに、メンツに拘っている場合ではないだろうとタクマは指摘した。まず優先するのは、娘マドイの安全。その次に友綱のメンツだろうというのだ。

「だが今の碇に、そんな金が用意できるのか?」
「全部は無理でも、それでもかなりの助けになるのではありませんかね?
 友綱から話しはしにくいでしょうから、私が間に立つことは吝かではありませんよ」

 どうしますと聞かれたオウガは、少し考えさせてくれと再び頭を抱えた。タクマに言われたとおり、ここはメンツを気にするところではない。愛娘を救い出すことが出来るのなら、碇相手でも頭ぐらい下げるぐらいの覚悟はある。だがこれまで碇をつぶすことに人生を賭けてきたオウガにとって、ドッポに借りを作るのは自分の人生を否定することにも通じていた。だから頭で頼るべきだと分かっていても、感情がそれを許してくれなかったのだ。
 だがいくら感情が反対しても、他に方法は思いつかない。目を真っ赤に充血させたオウガは、「頼む」と小さな声でタクマに言った。

「では電話をお返し願いたいのですが?」
「おいっ」

 すぐに返せと、オウガは直立不動の男達に声を掛けた。その声にすぐさま一人の男が反応し、これにと丁寧に携帯電話をタクマに差し出した。それを受け取ったタクマは、メモリーから自宅を呼び出し娘に連絡を入れた。碇へつなぐためには、娘を通す必要があった。

「緊急事態が起きた、すぐに帆掛氏から電話を貰えるようにしてもらえないか?
 事情は、帆掛氏に話すことにする。
 とにかく急いでいると、すぐに連絡を取ってくれ!」

 碇本家には、通常の連絡手段が確保されていない。従って連絡を取るためには、まず帆掛に連絡を取ることが必要になってくる。携帯を切ったタクマは、手元にあった水を一息に飲み干した。少し生ぬるくなっているが、飲まないよりはましという物だ。結局問題が起きたのは友綱でも、タクマ自身も極度の緊張状態に晒されていたのだ。
 帆掛からの電話は、予想よりも早い5分後のことだった。そして電話では話が出来ないと、タクマは帆掛ジュウゾウに友綱本宅に来てくれるようにと懇願した。罠でも何でもなく、両家の確執以上の問題が起きたからと。そのために、碇本家と連絡を取る必要があるのだと伝えた。

「帆綱氏は1時間で来ると行っています。
 細かな事情の説明は私がしますから、あなたは大人しくしていてください」

 最終的には、オウガが話をする必要がある。だがその前に、事情を正確に、そしておかしな意思を交えず説明する必要があった。いくら娘のためとは言え、そこまでオウガに期待するのは酷なことだろう。だからタクマが、代行することにした。タクマにしてみれば、友綱と碇の関係などどうでも良い。だが攫われた少女の命は助ける必要があると考えていた。

「それで、帆掛氏が到着するまで、詳しい事情を聞かせては貰えませんか?
 お嬢さん、マドイさんはいつ、どこで誘拐されたのですか?」

 どこでと言うのはあまり重要ではないが、いつというのは緊急度を測る大きな意味を持ってくる。現地時間が昼ということを考えれば、今朝方のことかさもなければ昨夜のことだろうとタクマは踏んでいた。

「マドイがいないのが分かったのは、昨夜食事から帰ってからと言うことだ。
 レストランから帰ったところで、マドイの姿が見えないことに他の生徒が気がついたそうだ。
 生徒達をホテルに残し、引率の教師達が周囲を捜索したと言うことだが……」
「今朝になって、誘拐犯から連絡があったと言うことですか……」
「そうだ、マドイの写真とパスポート、生徒手帳が送りつけられた。
 生徒達にはマドイから連絡があり、知人のところに行っていると説明はされているが……」
「教師達が慌てていては、あまり意味のある口実には思えませんな……」

 頷いたタクマは、身代金の期限について言及した。これもまた、対応を考える上で非常に重要な情報となる。
「休み明け早々と言う指定だ。
 詳細については、別途犯人側から連絡があると言うことだ……」
「つまり、期限については交渉の余地があると言うことですか……」
「娘を、マドイを一刻でも早く救い出さ無ければならない!!」

 声を荒げたオウガに、それぐらいは理解しているとタクマは答えた。

「それでも、犯人側との交渉が必要かと思います。
 幾らなら何時、その情報を渡すことで信用を得るのと同時に、
 身代金の減額交渉をしていくのが良いでしょうな。
 本来払う必要のない金なんですから、一円でも少ない方が良いのは間違いない」
「だがっ!」

 値切るという言葉に反応したオウガに、分かっているとタクマは手で制止した。

「一番優先すべきことは、お嬢さんの安全です。
 そのためにも、幾らなら何時という情報を出すことが重要なんですよ。
 奴らにしても、誘拐の届など出されない方が好ましいんです。
 そして時間が掛かれば掛かるほど、奴らのリスクも高まってきます。
 だから秘密裏に動く必要を説明し、その上での支払期限を伝えればいい。
 数億程度の見せ金は必要でしょうから、その手配もしなければいけませんね。
 それから現地での対応に不安がありますから、交渉に長けた人間を送り込む必要があるでしょう」
「ならば俺が行って指揮を執る!!」
「それをだめだと言うつもりはありませんが、冷静な人間を側に置く必要があります。
 お宅の雷火を連れて行くのが良いでしょうね」
「雷火か……おいっ」

 タクマの言葉に、オウガはすぐさま側近に目配せをした。第二に行っている筆頭を、すぐさま呼び寄せようというのだろう。指示を受けた男は、すぐにと行って部屋を出て行った。そしてその男と入れ替わるように、来客だと別の男が部屋に入ってきた。

「そうか帆掛が来たか、おい、丁重にこの部屋にお連れしろ。
 少しでも粗相があったら、その首をねじ切ると全員に伝えろ!」

 いいなと念を押され、男は小走りに部屋を出て行った。代理人ではあるが、碇家の者が客として友綱の本宅に足を踏み入れる。動転していてオウガは気づいていないが、これは後々大きな意味を持つことになる。不謹慎だとは分かっていても、おもしろいことになったとタクマは考えていた。
 男が出て行ってから間もなく、一人の頭を白くした60過ぎの男が部屋に通された。その時タクマが驚いたのは、隣に娘のフジノがいたことだった。どうしてという驚きが先には立ったが、今はそれを問うときではないと考え直し、帆掛ジュウゾウに足労を願ったことへの謝辞を述べた。

「それはいい、急ぎの事態が起きたのだろう。
 すぐに事情を説明し、何をして欲しいのかを教えてくれ」

 多少の緊張が見て取れるのは、ここが宿敵の本拠に他ならないからだろう。それでも堂々とした様は、さすがは碇家の代理人を務めるだけのことはある。その居住まいに感心したタクマは、前置きを省略してオウガの娘、友綱マドイがイタリアで誘拐されたことを打ち明けた。

「犯行時間は日本時間の今朝方、現地の昨夜と言うことになります。
 先ほど犯人から連絡があり、身代金として1億ユーロが要求されました。
 また犯行の証拠として、マドイさんのパスポート、生徒手帳が送られてきたそうです」
「マドイのお嬢は無事と言うことか?」
「犯行は赤い霧と確定していますから、身代金さえ払えば無事解放されるはずです」

 タクマの説明に、ジュウゾウは全ての事情を理解することができた。そうかと頷き、「可能な限りのことはする」とオウガに伝えた。そして携帯を取り出し、いきなり金融大臣へと連絡を入れた。

「休みの所、突然の電話をお詫びする。
 重大な問題が起きたので、ちょっとばかし支援をお願いしたいのだが?
 ああ、ちょっと手続の簡略化と促進の指示を出してくれればいい。
 週明け早々にも、イタリアに1億ユーロほど送金することになるからな。
 外為で余計なチェックが入らないよう、担当部署に通達を出してくれ。
 送金者は友綱だ……そうだ、中々複雑な事情というのがそこにあるんだ。
 だからいつもの通り、余計な詮索をするなよ。
 献金の件は承知している。
 いつもの通り口座を分けて振り込んでやる」

 電話を切った帆掛は、監督官庁の方は話を通したと伝えた。トップさえ押さえれば、官僚組織を動かすのは難しいことではない。

「肝心の身代金の方だが、そちらの準備はどうなっている?」
「取引銀行に指示を出したところだ。
 1億ユーロ、耳を揃えるには最短で2週間程度必要との答えを貰っている」
「2週間か……中々長いな……」

 フムと悩んだ帆掛は、仕方がないともう一度携帯電話を取りだして何カ所かに連絡をした。

「シンジ坊ちゃんの個人口座には、30億ぐらいの残高がある。
 そちらなら流動性が高いから、すぐにでも用立てすることができるだろう。
 それから碇の持ち金でも、20億ぐらいならすぐに用意できるだろう。
 半分は何とかしてやる、それで凌ぐ方法をすぐに考えろ!」
「すまん、感謝する!!」
「なに、碇と友綱の因縁は深いが、それをここで持ち出すつもりはない。
 それによそ者に邪魔をされることは、お互い望んではいないだろう。
 だから今回の件は、後で返してくれればそれでチャラだ。
 今までの関係を変える必要は全くないと思ってくれ。
 瑞光がいるのだから、シンジ坊ちゃんのことは伝わっているのだろう。
 碇家は、シンジ坊ちゃんを頭に、これまでの劣勢を逆転するからな」
「そんなものは、うちのソウシが叩き潰してくれる!!
 それ以前に、無事豪龍寺でやっていけると思うなよ!!」

 それまで萎れていたオウガだったが、ジュウゾウの挑発にようやく本来の調子を取り戻したようだ。そこには資金の目途が立ったという安堵もあったのかも知れない、「首を洗って待っていろ」と毒づいたオウガは、「それでも感謝する」と頭を下げた。

「確かにお前の言うとおり、俺たちの争いに他人が関わって良いものじゃない。
 それでもすぐに駆けつけてくれた碇に対して俺は礼を言う。
 そのことを、あのくたばりぞこないに伝えておいてくれ」
「くたばりぞこないか、しっかりと伝えておくことにしようか……失礼」

 その時、可愛らしい着信音がジュウゾウの携帯から聞こえてきた。昔放映された名作と言われるアニメの主題歌なのだが、如何にもごつい年寄りの携帯には不似合いとしか言いようのない音楽である。そして緊張した場をぶちこわすような、のどかなメロディーでもあったのだ。
 それを気にすることなく携帯をとったジュウゾウは、短い伝言に「そうか」とだけ答えた。

「碇の手持ち20億は、月曜昼には用立てすることができる。
 坊ちゃんの方だが、本人が捕まらないので、最後のところで今は止まっている。
 これも確認次第、すぐに引き出すことができるだろう」
「……早いな」
「碇の家は、現金主義だからな。
 資産を分散していないだけ、こういう時には即応性があるんだよ。
 もっとも総資産では、今は友綱に敵わないだろうがな」

 にこりともせず言い切ったジュウゾウに、一つだけ教えてくれとオウガは懇願した。碇の家に現金があるのは理解できたが、その跡取りの個人資産の額が気になったのだ。30億という額は、一高校生が持つにはあまりにも非常識な金額である。

「ああ、これは坊ちゃんが文字通り命を掛けてきた代償だ。
 あの男の残した物も少しはあるが、いずれにしても坊ちゃんの物であるのは間違いない」
「命を掛けてきた代償か……本当にそれを借りても良いのか?」

 碇家の切り札かつ、最後の札であるのはオウガも承知していた。そしてシンジ本人が、これまで碇家に関わってこなかったことも承知していたのだ。本当に命を掛けてきた代償というのなら、こんなに簡単に取り上げて良いものだろうか。いくら後から返すと言っても、はいそうですかと簡単に受け入れられる物ではないだろう。
 オウガの懸念に、それは碇家内部の問題だとジュウゾウは切って捨てた。もしもがたがた言うようなら、自分も碇家を見捨てるとまで言い切った。

「ところで、友綱は客であっても碇家の者には茶の一杯も出さないのか?」

 とてもそれどころではなかったのだが、それを知っていてジュウゾウはちくりと皮肉を言った。それを鼻先で笑ったオウガは、煮えたぎったお茶を出してやると言い返した。

「本当なら、碇では食えないような豪華料理を食わせてやるのだがな。
 それはマドイが無事解放されるまでとっておくことにする」
「煮えたぎった茶か、だったら甘すぎるお菓子でも供に付けてくれ。
 茶は、眠れなくなるような渋い奴を頼むぞ」
「スッポンドリンクでも持ってきてやろうか」
「友綱、ここには瑞光のお嬢もいるのだぞ。
 下ネタは女子高生に軽蔑される、それを弁えておくことだな」

 にやりと笑ったジュウゾウは、娘に嫌われるぞとオウガを脅したのだった。

 次の動きは、オウガの片腕、雷火が到着したことだった。ジュウゾウが着いてから6時間後の午後10時、移動した距離を考えれば驚くほどの速さだった。

「ミノル、明日俺と一緒にイタリアに行くぞ。
 必要な手配を、今すぐに終わらせろ!」
「明日……明日ですか!!
 ところでオウガ様、パスポートはお持ちでしたか?」
「そんなものはない!!
 だから手配をしろと言っているんだっ!」

 そんな無茶なと言いたいところだが、受け取った雷火は切れ者である。だから手配の代わりに、自分だけで行くとオウガに申し出た。

「手配できないことはありませんが、それでは出発が遅くなってしまいます。
 私が現地で指揮を執りますから、オウガ様には日本で連絡を待って頂けないでしょうか」
「お前がか……」

 雷火の手腕は、当然オウガは信頼していた。雷火が大丈夫と言うのなら、間違いないことは頭では理解していたのだ。それでもオウガの性格は、大人しく待っているというのを受け入れてくれない。焦る親の気持ちを考えれば理解できないこともないが、今は自重して欲しいところだろう。
 それを理解したタクマは、敢えて本筋と外れた代案を提示した。手配のできないオウガの代わりに、自分が雷火に同行するというのだ。感情的に何の解決にはなっていないのだが、オウガの頭を冷やす効果はあったようだ。ぎろりとタクマを睨み付け、オウガは「意味がないだろう」と口元を歪めた。

「ミノルの実力は確かだ。
 だからお前のような手伝いは必要ない……と言うことだ」

 そしてふうっとため息を吐き出し、すぐに手配しろと雷火に命じた。雷火が頼りになると口にした以上、自分が行くことにこだわれなくなってしまった。

「現地の指揮はお前が執れ、俺はここで連絡を待っている。
 必要な措置があれば、俺に遠慮することなく手配しろ」
「承知いたしました。
 ここからなら伊丹が近いですから、すぐにフライトを手配しましょう。
 現地に着いたら、すぐに連絡をいたします」

 委細承知と頭を下げた雷火は、手配に掛かるとオウガの元を出ることを申し出た。フライトの手配、必要な荷物の準備、朝一のフライトに乗るためには、大阪に移動していた方が都合が良い。

「ああ、任せたぞ!」

 はいと力強い返事を返し、雷火は部屋を出て行った。これで日本で打てる必要な手段は全て講じたことになる。後は現地からの連絡を待てばいいだけだ。その連絡にしても、細かなことは全て雷火に入るようにしていた。

「……そう言えば飯を食っていなかったな、ついでに少し呑むか?」
「この緊急時に……と言ってやるところだが、お前なら何の問題もないだろう」

 金の件にけりを付けたのだから、ジュウゾウがここまで残っている義理はないはずだった。だが気になったせいで、帰るに帰れなくなっていたのも事実だった。ただ同行してきたフジノには、女子高生が何時までも外にいてはいけないと家に帰らせることにした。よほど聞き分けが良いのか、フジノはおとなしくジュウゾウの指示に従った。
 オウガの提案に同意したジュウゾウは、「飲み過ぎないようにしよう」と一応のブレーキを掛けた。

「馴れ合いは良くないが、たまには敵同士酒を酌み交わすのも悪くはないだろうな」
「敵と言うには、今の碇はずいぶんと没落していると思うがな」

 ブランデーを用意しながら憎まれ口を叩いたオウガに、だったら頼るなとジュウゾウは言い返した。そしてオウガの手からグラスを引ったくると、くいっと一息で中身を開けた。

「碇の田舎者は、ブランデーの飲み方も知らないのか?」

 手で暖めながら、オウガはジュウゾウの飲み方を笑った。これで少しでも蒸せていたら、大笑いをしていたところだろう。

「うちは、日本酒と言うことになっているんだ」

 すかさず言い返したジュウゾウは、オウガの真似をしてグラスを手で温めた。その様子に口元を歪めたオウガは、一つ教えろといきなり切り出した。

「なんだ、改まって」
「いや、お前のところの跡取り様のことだ。
 うちのソウシを知っているんだから、少しぐらいはバラしてくれても良いだろう。
 本気で碇の跡を任せられるような人材なのか?」

 当然オウガも、碇シンジのことは調べていた。だが調べてみると、思ったよりも情報が少ないことに驚かされたのだ。そして同時に、その評判が芳しくないのにも驚かされた。それは使徒戦最後の生き残りに向けられる物としては、いささか予想外と言っていいだろう。ネルフ時代の報告と合わせ、本当に良いのかと聞いてみたくもなったのだ。

「良いのかと言われても俺には分からん。
 豪龍寺入れてお前のところの跡取りと競わせると決めたのは御当主だ。
 だったら仕える者として、それに従うまでのことだ」

 詳しくは知らないと言い切ったジュウゾウは、返す刀で「男子は三日で変われる」と答えた。

「まあ、こちらとしてはなめてかかってくれた方が嬉しいのだがな」
「獅子はな、ネズミを仕留めるのにも全力で当たるのが習わしだ。
 小物か大物にかかわらず、碇の跡取りは葬ってみせるさ。
 もっとも子供の争いに、大人が口を出す真似はしない。
 あくまで学園内の出来事に収まるように指示は出すがな」
「いじめでもするのかな?」

 とてもありがちな指摘に、だったらどうするとオウガは言い返した。

「豪龍寺入れるのだから、それぐらいは承知の上だと思っているのだが?
 まさか瑞光の娘にかばわせるようなことは考えていないだろうな。
 そんな真似をしたら、はっきり言って興ざめになるからな」
「ずいぶんと勝手な物言いだな。
 だがフジノには、手を出すなと命じてある。
 頼られたら助力らしきものはするが、甘やかせるなと言われている」
「ずいぶんと跡取りに期待をしているのだな」
「あれだけ波瀾万丈の時間を過ごしているのだ。
 それぐらいの期待をされてもおかしくはないだろう」

 ふんと鼻で笑ったジュウゾウは、暖めていたブランデーを口に含んだ。確かにオウガの言うとおり、そのままの無よりこちらの方が香りが立っておいしかった。

「ところで、この場にそちらの跡取り殿がいないのはどうしてなのかな?」
「ソウシか、ああ、連絡するのを忘れていただけだ。
 それに高校生のあいつに、問題を解決する能力はない。
 対策の決まった今の状況ならば、飯の後にでも知らせればいいだろう。
 そちらの跡取り殿にしたところで、このことに関わっているわけではないのだからな。
 それに老い先短いそちらの御当主とは違い、こちらにはまだまだ時間の余裕がある」

 同情すると口先で言ったオウガに、それはそれだとジュウゾウは言い返した。

「立場と自覚は、人を成長させるのに重要な役目を果たす。
 きっと碇家当主という立場は、シンジ坊ちゃんを成長させるのに役だってくれる……
 と、まあ信じているのだがな」

 その当たりは分からないと、もう一度ジュウゾウは吐き出した。ジュウゾウにしたところで、シンジの能力には大いに疑問を持っていた口なのだ。しかもその父親には、散々苦汁を飲まされている。信頼したくても、どうしても感情的に反発してしまうものがあったのだ。
 だったらうちに来るかと、寝返ることを持ちかけようとしたとき。家の電話が自己主張を再開した。表示された番号はイタリアのホテルを示していた。急に素面に戻り、オウガは電話の子機を持ち上げた。犯人から新たな指示があったのだと全員が想像した。

「ああ俺だ、少し落ち着け、犯人から何か連絡があったのか?
 だから分かるように言え、マドイがどうかしたのか?」

 電話を片手に大声を上げているところを見ると、何か予想もしない大きな動きがあったのだろう。静かに酒を飲んでいたジュウゾウとタクマは、何事かと耳をそばだてオウガの言葉に注意を傾けた。

「マドイが帰ってきた、マドイは無事なのか!
 犯人がマドイを解放したのか?
 違う、違うとはどういうことだ、分かるように説明しろ!?」

 解放されたというキーワードは、その場の緊張を和らげる大きな効果を発した。それは電話をしているオウガも同じで、緊張から興奮に言葉が変わっていたのだ。だがすぐに、オウガの言葉に困惑が混じってきた。

「高校生ぐらいの日本人に助けられたぁ?
 マドイがそう答えているのか?
 それでマドイを助けた日本人はどうしている?
 ちゃんと引き留めたのか?
 顔を見ていないとはどういうことだ!!
 ああ、もう、お前では埒があかん。
 マドイはどうした! 電話に出られないのか!!」

 まくし立てるオウガに、ジュウゾウとタクマはため息を吐いた。そして自分がと、タクマが立ち上がり、オウガの肩を叩いたのだ。

「そんなに興奮してまくし立てたら、向こうも説明ができないでしょう」
「しかしだ、これが落ち着いていられるかっ!
 マドイが無事に帰ってきたんだぞ!」
「落ち着くのが無理なら、私が代わりに電話で聞きますよ。
 そちらは、雷火氏へ連絡して指示を変更して貰えませんか?
 イタリアに行く必要はありますが、マドイ嬢の身辺保護に目的は変わりましたからね」
「あ、ああ、確かにそうだな……」

 救出されたからと言って、これで全てが丸く収まるわけではない。犯行グループが更なる行動に出ないか、その対策も必要になってくる。そのために腹心を送り込むというのは、確かに適切な対処に違いない。興奮した頭でも、それぐらいのことは理解することができた。だからオウガは、任せると電話をタクマに手渡すことにした。

「ああ、電話を変わった。
 詳しい状況と、何らかのアクションが必要かを教えてくれ。
 それからこちらからの連絡だが、友綱の者が明日のフライトでそちらに出向く。
 到着までに時間が掛かるから、その間の警備も考えて欲しい。
 それで、状況はどうなっているんだい」

 話し相手が変わったことで、電話の向こうも落ち着いたのだろう。特に口を挟まず、タクマは時折うんうんと相づちを打った。それをしばらく続けたところで、それで全てかと相手に確認した。

「マドイさんに、外傷とかは認められないのだな。
 それで本人は落ち着いているのかい?
 いやっ、舞い上がっているというのはどういう意味なのかな」

 怯えているとか落ち着いているとかなら分かるが、舞い上がっているというのは理解に苦しんでしまう。端で聞いていたジュウゾウも、どういうことだと首を傾げていた。

「理由は助けてくれた相手にあるぅ?
 王子様に巡り会ったと舞い上がっているんだって?」

 下手をしたら、命に関わる状況におかれていたはずだ。言い方は悪いが、それが色ぼけに変わってしまったというのだ。精神的再建を図る上で必要だと言われればそうなのだが、どうしても釈然としない物を感じてしまう。だがそれはそれと割り切って、その「王子様」なる青年へとタクマは話を変えた。

「マドイさんは、相手の名前を聞いていないのか?
 それどころじゃなかった……なら、なにか本人を特定できる物はないのか?
 ない、マドイさんが相手の顔を覚えているだけか……」

 これでは礼をするにも、しようがないという物だ。仕方がないとため息を吐いたタクマは、事情は理解したと電話を切ることにした。詳しい現地の状況は、オウガの腹心が到着すればもう少しはっきりとするだろう。本来一刻でも早く帰国させるべきなのだが、病院での診察とかを考えると、雷火の到着を待った方が賢いだろう。
 タクマが電話を切ったとき、ちょうどオウガの方も電話を終えていた。それを見たタクマは、オウガの顔を見て事情を説明すると声を掛けた。そこにジュウゾウが、自分がいても良いのかと疑問を呈した。

「どうします?」
「手を借り、そしてここまで付き合って貰ったんだ。
 そんな相手を追い返すほど、俺は恩知らずではないぞ」

 オウガの答えに、ならばとタクマは聞かされた報告を話し出した。

「マドイさんは、夕食前にひょっこりとホテルに帰ってきたそうだ。
 白馬の王子様にホテルまで送ってもらったようだが、引率の教師達は誰もその顔を見ていない。
 分かっているのは、相手が日本人の男で、マドイさんと似た年頃と言うこと。
 白馬の王子様補正が入っているのか、もの凄い美形だったらしい。
 おかげでマドイさんが、理想の人だと舞い上がっているそうだ。
 救出に関する詳しいことは、これから本人が落ち着いたら聞いてみるとのことだ。
 ただこればかりは、本当に聞き出して良いのかは専門家の判断を待つと言うことだ。
 あと白馬の王子様は、赤い大型バイクに乗っていたそうだ」
「それで、マドイはどうしている?」
「ちょうど寝かしつけたところらしい。
 明日は、病院に連れて行って診察を受ける予定だ。
 うまくすれば、午後にも雷火氏が合流できるだろう」

 それで安心できるというタクマに、それでとオウガは先を促した。愛娘が無事帰ってきて、今は眠りに就いたことは理解できた。だが本当にこれで終わったのか、そこに不安が残っていた。せっかくの人質を奪われた犯人グループが、さらなる犯行に及ばないとも限らないのだ。
 だがそのオウガの懸念に対し、その可能性は低いとタクマは説明した。一度誘拐されたことで、マドイの警備は厳重になっている。警察に届けられていなくとも、ホテル経由でガードがつけられているというのだ。リスクはゼロとは言えないが、再度挑んで来るには時間が掛かるだろうというのだ。

「そのための雷火氏ではないのですか?」
「確かにそうだが、だがやはり分からないのはどうして娘が助かったんだ……
 警察にも届けていないのに、どうして娘が攫われたと分かったのだ……
 なぜその男は、わざわざ娘を助けたのか……」

 考えてみれば分からないことばかりなのである。そして分からないことが残っているというのは、気持ち悪い以上分に不気味としか言い様がない。オウガにしても、答えのないことは分かっている。それでも「なぜだ」と言う疑問を繰り返す他はなかった。

「鍵を握るのが、日本人の少年と言うことになるのですが……
 今ローマにいる日本人となると、かなり数が限られることになるでしょう。
 外務省に手を回し、パスポート写真を手に入れればあるいはマドイさんが見つけてくれるかと……」

 手がかりがマドイ以外にいなければ、それぐらいしか探し出す方法はない。愛娘の命の恩人ならば、絶対に探し出さなければならない。それを決意したオウガは、頼み事が出来るかとジュウゾウに水を向けた。

「外務大臣に話をつけて欲しいと?」
「そちらも興味があるかと思ったんだがな?」

 違うかと聞かれれば、苦笑を返す他はない。誘拐犯が本当に赤い霧ならば、誘拐された少女を無傷で取り返すのは不可能に等しい。それを成し遂げたのが日本人の少年というのなら、確かにどんな男かジュウゾウにも興味があった。だから口元に苦笑を浮かべたまま、確かにその通りだとジュウゾウは興味を認めた。

「十代半ばから二十代半ばまでの渡航中の男の写真を手に入れれば良いんだな?」
「膨大な数があるのは分かっている。
 もしかしたら、日本人ではないのかもしれん。
 だが可能性があるのなら、手を打つことは悪くはないだろう」
「確かに、相手が名乗らなかったのはそのつもりがなかったと言うことだろう。
 手がかりが少ないのなら、その手がかりからたぐり寄せる他はないな。
 それで友綱、その少年が見つかったらどうするつもりだ?」
「決まっているだろう、向こうが良ければ娘の婿になって貰う。
 赤い霧から娘を救い出せるほどの男だ、ソウシと二人で友綱を発展させてくれるだろう!」

 そうなれば本当に碇は終わりだ。口元を歪めたオウガに、そう言うことを言うのかとジュウゾウは文句を言った。何しろその少年の捜索に、碇の力を借りようと言うのだ。力を借りておいて、碇にとどめを刺すと平気で言ってくれる。ジュウゾウにしても、よくもまあと呆れるオウガの物言いだった。手伝うのをやめようかとも考えたが、きっとドッポならおもしろがるだろうとジュウゾウは考え直した。

「まあ、その時はその時だなぁ。
 数日もあればデータを入手することが出来るだろうて」

 それまで待っていろと、ジュウゾウは顔写真の入手を約束したのだった。



***



 絶対に大丈夫と分かっていても、言葉だけではどうにもならないことがある。誘拐にあった娘が帰国するのだから、その思いが強まるのはなおさらのことだろう。本人の顔を見るまで安心できないと、友綱オウガはとる物もとりあえず大阪国際空港へと現れた。その日にはいくつか約束が入っていたが、優先順位に関係なく全てをキャンセルしたのだ。
 セカンドインパクトの影響で、海面水位は大幅に上昇していた。そのあおりを食う形で、新しい方は二つとも海面下に沈んでしまっていた。それもあって、関西地区の国際空港は内陸部の古い空港が利用されていた。

「雷火が付いているんだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 まるで動物園の熊のようだと、友綱ソウシは落ち着かない父親に苦笑を浮かべた。妹が誘拐されたと教えられたときには、どうして自分に知らされなかったのかと腹を立てたのだが、仕方のない情勢と開き直り、元のクールな表情を取り戻したのである。碇に借りを作ったというのは気に入らなくても、それが最善だったと冷静に見つめれば分かってしまう。
 ある意味「鬱陶しい」と息子に言われたオウガは、子供を心配してどこが悪いと開き直った。どんなに大丈夫と分かっていても、顔を見るまで安心できないのは仕方がないと言い切ってくれた。

「だいたい、可愛い妹が酷い目にあったのだぞ。
 兄たるお前が心配しないで、いったい誰がするというのだ!」
「しかし、教えて貰ったのは全部解決してからのことなんだけどね?
 家族として心配すべきと言うのなら、何が無くとも連絡があって然るべきだろう?」

 最初におかしなことをしたのはそちらと、ソウシは涼しい顔をして言い返した。

「それからいい訳をすると、俺だってマドイのことは心配しているんだ。
 ただ幾ら焦ってみてもどうにもならないから、こうしてどっしりと構えることにしたんだ。
 だいたい親父みたいな厳ついのがうろうろしたら、周りの迷惑になるとは思わないのか?」
「事情が事情だ、仕方がないと許されるべきだ!」
「そう言うのを、迷惑を掛ける側が言っちゃいけないよ。
 とまあ言っているうちに、飛行機は着陸したようだね」

 これからゲートに出て検疫、入国審査、荷物の受け取り税関検査と待ち構えている。他の到着がないことを考えれば、出てくるまでに30分ほど見込めば足りるだろう。

「それで、雷火はなんて言ってきたんだい?」
「ああ、精神的な影響はほとんど無いという話だ。
 気がついたら暗がりに転がされていて、犯人ともほとんど接触はなかった。
 暗闇への恐怖という物はあるが、あまり実感がなかったというのも事実だろう。
 なにより奇跡的に短い時間で救出されたのが一番大きいようだ」

 本当は、助けてくれた相手への気持ちが一番大きいのだが、さすがにその分析は誰もしていなかった。ただ一人雷火だけは事情を理解していたが、さすがに報告するのが憚られたという事情もある。

「マドイを助けてくれた人には幾ら感謝しても足りないってことか……」

 家族を迅速に救出し、しかも1億ユーロと言う身代金も払わずに済んだのだ。それを考えれば、その少年は友綱にとって恩人としか言いようがない。

「それで、恩人の情報は何か分かったのかな?
 かなり目立つ格好をしていたのだから、目撃証言があっても良さそうな物だけどね」
「あまり雷火が動けなかったというのもあるが……そちらの情報はほとんど無いというのが実態だ。
 その代わりと言っては何だが、誘拐犯の方は少しだけ情報が入ってきた。
 今度の誘拐自体は立件できないが、過去の殺人に対する容疑でローマ市警に拘束されたそうだ。
 善良な市民という奴の通報で押し込んだら、10人ほどマドイの閉じ込められたビルで見つかったらしい。
 しかも全員、気を失ってその場に倒れていたという嘘のような話がある」
「それを、その正義の味方君がやったというのか?」
「もしくはそのグループということが考えられる。
 雷火の掴んだ情報では、10人以上のグループではないかと言うことだ。
 それぐらいの戦力を投入しないと、あそこまで見事に制圧できないだろうというものだ」
「そうなると、どうしてそんなグループがマドイのために動いたのかと言うことになるな。
 しかも明らかに日本人がいるとなると、いったいどんなグループなのかと疑問になる」

 謎ばかり深まると腕を組んだソウシに、確かにその通りだとオウガも認めた。ただその中に一つだけ光明があるとすれば、捜索の手段が残されていたことだろう。

「碇の手の者が、顔写真付きリストを提供してくれる。
 相手が日本人なら、時間が掛かるが見つけることはできるはずだ」
「碇が情報を隠す可能性があるように思えるんだけど?」
「何を隠せばいいのか分からなければ、隠しようがないというものだろう」

 相手の素性が分からなければ、隠しようがないとオウガは言ったのだ。それは疑いようのない事実、もしも隠せるのなら、碇はその正体を知っていることに繋がってくる。

「帆掛も寝耳に水のようだったからな。
 この件に碇が絡んでいることは考えられないだろう」
「なるほど、まだ正義の味方君への糸は繋がっていると考えて良さそうだね。
 マドイは賢いし、それだけ思い入れがあるのなら、顔を見間違えることもないだろうね」

 楽しみだと笑うソウシに、全くだとオウガも同調した。新たな情報を得れば得るほど、相手に対する興味が増してくるのだ。豪龍寺に入学してくる碇の跡取りより、その正義の味方の方がよほど大きな意味があると思えてしまう。マドイの様子も合わせ、冗談ではなく婿に迎えたいと考えたほどだ。そのためにも、よそに見つかる前に唾をつけておく必要がある。

「碇の跡取りのことと言い、どうやら面白いことになってきそうだな」
「そうだね、その碇シンジって言ったかな、つまらない人物じゃないと願いたいよ」

 叩き潰すにしても、叩き潰し甲斐の無い相手では困る。ソウシの言葉に、それもそうだとオウガは笑った。相手がこけるのではなく、強大な相手をこの手で叩き潰す。それをしなくては、いつか自分たちも落ちぶれて言ってしまう。友綱の家族は、そう頑なに信じていたのだった。
 親子の会話をしたおかげで、あまり周りに迷惑を掛けずに娘の到着を待つことができた。到着ゲートが開き、すでに何人かの女子生徒達が大きな荷物を持って現れていた。

 それから待つこと5分、スライド式の自動ドアを開けて一人の少女の姿が現れた。黒い髪を緑色のバレッタで纏め、少し気の強そうな顔をした少女は、扉を出たところで立ち止まって辺りを見回した。そしてすぐに目指す者を見つけ……相手は目立つことこの上ない二人連れだったのだが……嬉しそうに駆け寄ってきた。そしてその少女から少し遅れ、カートに荷物を山積みにした男が現れた。

「お父様、お兄様、ご心配をお掛けしました!」
「お帰りマドイ、なぁに、お前が悪い訳じゃない。
 それにこうして無事帰ってきてくれたんだ、父さんにはそれ以上何も言うことはないぞ」

 よしよしと娘を抱き寄せたオウガは、後ろに控えている雷火に荷物を運ぶようにと命じた。人目の多い空港で何時までも時間を使っている物ではない。車に戻れば、奈良までの時間でいくらでも話をすることができる。
 直ちにと消えた雷火を見送り、オウガは「疲れていないか?」と娘に尋ねた。もう一つ、お腹は空いていないのかと。

「疲れてるって言えば疲れているけど……でも、お父様、お兄様には沢山お話を聞いて貰いたくて。
 お腹の方は、飛行機の中で沢山ご飯が出たからそんなに空いていないわ。
 でももうすぐお昼だから、お父様、お兄様は遠慮しなくても良いのよ。
 私は飲み物でも飲んでいるから……」
「だったら、寿司でも食いに行くか。
 それだったら、食べたいものだけつまめば済むだろう!」

 そうしようと自己完結をしたオウガは、こっちだとマドイを手招きした。すでに車寄せには、白いリムジンが回されている。それに乗り込んでしまえば、友綱の空間になってくれるのだから。



 友綱が愛娘の迎えに行っているころ、瑞光の家では大掃除が行われていたりした。主な働き手は、一家の主婦、瑞光マミヤとその娘フジノである。その目的は、碇家次期当主を迎えるにあたり、失礼の無いようボロ家を磨き上げること。望まない居住者といえど、一家の主婦として見苦しいところを見せるわけにはいかないのだ。
 そして一家の主瑞光タクマと居候忍野メメは、庭の草むしりを仰せつかっていた。何でという男達の苦情に、今までサボっていたツケだとマミヤは言い返した。散々庭を綺麗にしろと言っていたのに、今日の今日まで先延ばしにしたのはいったい誰なのか。サボっていたため、結局くそ暑い昼の日中に炎天下の草むしりになったのだろうと。今週中には碇家次期当主様が伊丹に着くのだから、もう待ったなしになってしまったのだ。

 草むしりをする男性陣からは、いっそのこと除草剤を使ってはと言う提案がなされた。だが即効性に薄く、明日には間に合わないと言うことで直ちにマミヤは却下した。そして明るいうちに終わらなければ、ビールを飲ませないと脅迫をした。その脅迫に負け、タクマとメメは白いシャツにステテコ、麦わら帽子の姿で出陣することになったのある。腰に蚊取り線香が下げられているのは、野良作業のお約束でもある。
 何で俺がと言うメメも文句は、「何でも屋ですよね?」と言うフジノの笑みに屈服することになった。にこにこと笑っているように見えるのだが、気のせいか後ろに般若を背負っている気がしてしまう。逆らったらろくな事はないとの恐怖に、炎天下の方が安全だとメメは観念したのである。

 築百年を超えた瑞光家は、当時としては当たり前の洋館だったのだろう。だが今では、周りの家は、すっかり鉄筋コンクリートの箱になっていた。そのお陰で木で出来た白い洋館は、市の文化財にするとの話が出るほど、古さを周りにアピールすることになった。もっとも文化財という話は、有名な建築家が立てたのではないということで、50年ほど先延ばしにされた。つまり古さしか取り柄がない建物だと言うことだ。

 日頃の掃除が行き届いているのと、前々からの準備が行われていたお陰で、女性陣の仕事は実はあまり残っていなかった。だからマミヤは、とりあえずワックスの重ね塗りをすることにした。そして娘には、二階の窓掃除を申しつけたのである。

 床にワックスオイルを撒いて、それを木綿で出来たモップで塗り広げていく。それを2、3度繰り返せばワックスがけはひとまず完了だ。ぱたぱたとスリッパの音を響かせながら、マミヤは洋館の廊下を駆け抜けた。モップという近代兵器のお陰で、腰への負担は大幅に軽減されている。そして滑りの良いワックスオイルは、塗り広げるという作業の効率を大幅に向上させてくれていた。そのお陰で、わずか30分という短さで、マミヤは屋敷中の廊下にワックスオイルを塗り広げる事を達成した。

「これで、もう一度モップがけをすればワックスは終わりね……」

 トレーナーの袖で額の汗をぬぐったマミヤは、愛娘の首尾を確認することにした。日頃の仕込みのおかげで、家事全般に精通した娘に育っている。いつ嫁に出しても恥ずかしくないと言うのが、マミヤの誇りとなっていた。当然マミヤには、嫁に出す先の希望も持っていた。
 油に滑って転ばないよう二階に上がったマミヤは、掃除したての窓枠をすいっと人差し指でなぞった。その姑のような真似はすぐにフジノの知るところとなった。と言うか、わざとらしく目の前でなぞってくれたのだ。当然のように、フジノは姑が板に付いた真似はやめて欲しいと抗議をした。手抜きをしたつもりはないが、そんなお約束の真似をされると気になって仕方がないのだと。しかもしっかりとわざとらしい。

「そんなことを言うけどフジノ、ソウシ君とこのキコさんはお掃除好きよ。
 ソウシ君とこに嫁がせて、キコさんにしつけが出来ていないって言われるのは嫌だもの」
「どうして、さも当然のようにソウシさんのお嫁さんになることになってるの?」
「あら、迷惑だった?
 でもフジノ、ソウシ君のことは憎からず思っているんでしょう?
 向こうもフジノに気があるようだから、相思相愛なんじゃないの?
 それに友綱の跡取りだし、見た目も良いし、中身も良いじゃない。
 絶対にお買い得だと私は思うけどなぁ」
「資産家の跡取り息子とか、イケメンとかが結婚相手の基準になる訳じゃないわよ」
「じゃあフジノは、ソウシ君のことが気に入らないの?」
「別に、気に入らないって言っているつもりはないけど……」

 友綱の跡取りと言う事を除外しても、ソウシと言う存在は豪龍寺では目立つ存在だった。文武の両立を旨とする豪龍寺なのだが、ソウシはその理念を体現したような生徒だったのだ。成績は常に学年トップクラスを維持し、スポーツだって万能と言って差し支えないだろう。背も高くイケメンと来れば、多少の性格が悪くても人気が出るのが自然というものだ。そしてその性格にしたところで、生徒会副会長をするだけの人望を集めていた。つまり学園内において、完全無欠を絵に描いた存在だったのだ。
 ちなみに生徒会会長は、瑞光フジノが務めていた。このあたり、生徒の男女比率が男性に傾いていたことが影響している。ちなみに両家の親同士に親交があることから、二人の将来は決まっているとまで噂されていた。

「だったら、泥棒猫に攫われないように唾をつけておいた方が良いわよ。
 それにフジノ、マドイちゃんとも仲が良いんでしょう。
 小姑まで味方につけているんだから、友綱家に安心して入れるじゃないの」
「高2の女子高生に、そんな先の話しをしてどうするの……」

 はあっとため息を窓ガラスに吹き付けたフジノは、乾いた布で曇ったところを拭きあげた。

「ソウシさんを旦那様にすることなんて、今まで考えたこともないわ。
 まだ高校生活も1年以上残っているし、その後には大学に行くつもりでいるんだもの。
 大学卒業後に結婚するとしたら、まだ5年以上も時間があるのよ」
「別に学生結婚したって構わないわよ。
 お互い子供を喰わせるだけの資産は持っているし、先延ばしにしても良いことはないでしょう?」
「なんで、そんなにソウシさんと結婚させたがるの?」
「なんでって……ソウシ君、お母さん好みの美形なのよね。
 それにね、お母さん男の子が欲しかったのよ。
 だから義理でも良いから、絶対に息子にしたいのよ。
 彼にお母さんって呼んで貰ったら、私、失神しちゃうかも知れないわ!」
「そう言う自分の願望を、自分の娘に押しつけないでよ」
「こんなもの、自分の娘以外に押しつけられないじゃない。
 せっかく生徒会でも仲良くしているんだから、この際さっさと既成事実を作ってね」
「普通の親は、娘にそんなことを強要しないわよ」
「それは、普通をどこに求めるかの違いよ」
「だから……私は、まだそんなことを考えていないの!」

 さっさと残りの仕事を片付けてと、フジノは手が止まっていると母親を突き放した。だがこの程度突き放されたぐらいで、母親はへこたれることなどあり得ない。それどころか、どうして伊丹にいかなかったのかと、搦め手から攻めてくれた。

「マドイちゃん、フジノのことお姉さんって慕ってくれているんでしょう。
 そのマドイちゃんがイタリアで怖い目に遭ってきたって話じゃない。
 だったらあなたが空港まで行って、大丈夫って励ましてあげないといけないわ。
 そうやって日々の積み重ねが、先方の心象を良くしていくのよ」
「キコおばさんが迎えに行かないのに、どうして私が行くことになるの?」
「そうねキコさんと家で一緒に待っているって言うのもポイントが高いわね。
 どうフジノ、今から友綱さんの所に行って、お手伝いをしてくるのは?
 残りの掃除ぐらいなら、私がやっておいてあげるからね」
「何が「ね」よ。
 娘の人生を勝手に決めないで欲しいわ!」
「でも、絶対に悪い話しじゃないと思うんだけどなぁ……
 だって碇さんに関わるのより、絶対に友綱さんの所の方が将来性があるもの。
 それに碇さんに関わると、あんなのが送り込まれてくるんでしょう……」

 あんなのというのは、忍野メメの事を言っているのに違いない。確かに「あんなの」と言いたくなるほど、メメは胡散臭い見た目をしていた。しかも普段何をしているのか分からないという胡散臭さまで重畳されている。ソウシと比較すれば、確かに勝負になどならないだろう。

「帆掛さんにお世話になっているから、今更断れないのは分かっているけど……
 実はお母さん、今回の話ってあまり気が進まないのよ」
「シンジ様を預かることが?」
「だって、あまり良い評判を聞かないんでしょう。
 お母さんはユイ様だからいいけど、父親がアレだと思うと……ちょっとね」
「私が指示されたのは、日常生活のお世話だけよ。
 単なる下宿人として扱えばいいって言われているから……
 だからあまり心配しなくても良いんじゃないのかなぁ……」
「でもフジノって、私に似て美人だから……
 隙を狙われて無理矢理ってことになりでもしたら……
 私、友綱さんに顔向けできないわ!」
「なにをバカな想像しているのよ!!」

 母親の相手をしながら、フジノは自分の仕事を次々に終わらせていった。そして最後の一箇所を掃除し終わったところで、シャワーを浴びるとさっさと降りていってしまった。

「フジノちゃん、冷たいのね……」

 自分は娘の幸せを願っているのだ。そう強く主張したマミヤだったが、肝心の娘は聞く耳を持っていないようだった。その後ろ姿を恨めしそうに見たマミヤは、どこで教育を間違えたのかと、可愛かった頃へと記憶を逆行させたのだった。



 奈良の自宅までは、高速を使ってもおよそ1時間半という時間がかかる。その少し長いドライブの間、ずっとマドイは語学研修のことを喋り続けた。ただ一番長い時間を過ごしたイギリスでの話は、最初の5分程度という短さだった。そして残りの1時間以上、マドイはひたすらローマでの出来事を喋り続けた。

「もう、本当にもの凄く格好のいい人だったの。
 すらっと背が高くて、顔もアイドルの浦沢なんかよりもずっと素敵だし。
 しかもとっても優しくて、私のことを可愛いって言ってくれたのよ。
 それにとっても格好の良いオートバイに乗っていたし、
 オートバイの運転もとってもうまいのよ。
 初めて後ろに乗っけて貰ったんだけど、ぜんぜん怖くなかったもの!」

 微妙に表現は変わっていたが、話の基幹部分は毎度同じだった。如何に助けてくれた人が格好良いか、そしてそれが如何に運命的な出会いなのか。記憶の限りを尽くし、マドイはその説明を繰り返したのである。ただ肝心の情報が欠けていたため、オウガはその点を問題とした。

「そこまでして、どうして相手の名前を聞かなかったんだ?」
「だって、お別れしてから聞いていないことに気がついたんだもの。
 あとは、あんまり格好良かったから、ちょっと舞い上がっていたからかな」

 ちょっとやそっとではなかったのだが、本人申告なのだから大幅割引となっていた。それをおもしろがったソウシは、自分と比べてどうだったと妹に聞いてみた。

「お兄様と比べて……う〜ん、正直な妹として答えにくいことを聞いてくれるわね。
 背の高さは……お兄様の方が低いし……スタイルは、足の長さも負けているわ。
 顔は……ほら、それぞれ個性ってことでぇ……
 たぶん例外中の例外と比べているから、あまり気にしない方が良いと思うの」
「兄妹補正と王子様補正のどちらが凄いのだろうねぇ……」

 素直に論評を受け止めると、ソウシは完璧に負けていると言うことになる。自分のことを世界一のイケメンとか言うつもりはないが、はっきり負けていると言われるのは癪に障ることこの上ない。更に癪に障るのは、直接会って確認することができないことだろうか。中身で勝とうにも、相手が誰か分からなければ勝負のしようもない。
 本当に凄いのよと興奮するマドイに、その男のことだとオウガは真剣な顔をした。

「マドイ、その男の顔をちゃんと覚えているな?」
「もちろん、絶対に忘れるわけが無いじゃない!!
 それに繋いでくれた手の温かさも覚えているし、
 オートバイに乗せて貰ったとき感じた、背中の感触も覚えているわ。
 とっても引き締まった腹筋だって覚えているわよ!」
「引き締まった腹筋……なんでそんなものが分かるのだ?」

 少し顔を引きつらせたオウガに、考え過ぎとマドイは笑った。

「後ろに乗せて貰ったとき、落ちないように抱きついたからよ。
 すっごく引き締まった体をしていて、とっても素敵だった……
 ホテルに帰るより、そのままデートがしたかったぐらい」
「その男は、お前に何もしなかったのだな?」
「何もしてくれなかったわよ。
 助けてくれたのに、お礼もいらないって最初に言われたし……
 誘拐犯グループの逮捕って、イタリアを出る前に凄いニュースになっていたわ。
 そんな凄いことをしたのに、そのことを全く鼻に掛けないし……
 ホテルで私を降ろしたら、さっさと帰っちゃったし」

 その時のことを思い出すと、どうしてもため息が出てしまう。あそこでちゃんと相手の名前を聞いておけば、居場所を探す大きな手がかりになったのにと。あんなに舞い上がっていなければ、もう一度逢う約束だって出来たのかも知れない。それを思い出すと、後悔ばかり感じてしまうのだ。

「それでお父様、その人のことを探すことは出来ないのかしら?
 綺麗な日本語を喋っていたから、二世とかじゃないと思うわ。
 それに私には、同じ日本人だって言ってくれたから……」
「この時期出国している年齢の該当する男子のリスト……その入手の算段は立っている。
 その顔写真を手がかりに、恩人を捜すことになるだろうな。
 年齢制限を付けても、かなりの数に上るのは確かだろう。
 だから本当に見つかるかどうかは難しいところはある……」
「話しを聞いていて、別のルートがあるのではと思いついたよ。
 その彼が乗っていたオートバイ、それが手がかりになるのかも知れないんだ。
 こっちもカタログで見て、該当車種を探すことになる。
 それが珍しい物だったら、そこからたどり着くことが出来るかも知れないからね。
 あとは、今回の事件でイタリア警察が功績者を捜しているのだろう。
 たぶんマスコミも追いかけているはずだから、その方面からも手がかりが見つかるかも知れない」
「それって、見つかる可能性が高くなるってこと?」

 うれしそうな顔をしたマドイに、「少しね」とソウシは苦笑を返した。語学研修に行く前は、ブラコンと言われるほど兄べったりの妹だったのだ。それが兄のことより、別の男を優先して考えるように代わっている。妹の成長を喜ぶより、男として嫉妬を感じてしまうのだ。

「彼を知っているのは、マドイしかいないんだからね。
 だから色々な手がかりを探してきても、最後はマドイが確認する必要があるんだ。
 オートバイを手がかりにするにしても、マドイがオートバイの区別が付かなければいけない。
 ただ単に赤い大きなオートバイじゃあ、何も分かっていないのと同じなんだよ」
「座ったときのおしりの感覚ならよく分かるんだけどなぁ……」

 赤い大きなオートバイのレベルを超えていないのは、マドイ自身が一番分かっていることだった。だからカタログを見せられても、区別をつける自信がなかったのだ。だが自分の将来に大きく関わること、たぶん学校の授業よりも大切なことになると、マドイはオートバイだろうと何だろうと詳しくなる覚悟を決めたのである。

「それしか手がかりがないのなら、何だって覚えてみせるわ!
 少しでも手がかりが残っているうちは、ぜったに諦めたりはしないから!」
「じゃあ知り合いにバイク通がいるから、該当しそうな奴をピックアップして貰おう。
 ヨーロッパで流通している大型バイクで、カラーリングまで分かればかなり絞り込めると思うんだ」
「でしたらお兄様、早速手配をお願いします!
 顔写真リストが来る前に、一度確認しておきたいと思うから!」
「やれやれ、恋する乙女は本当に一途なんだねぇ……」

 そこまで真剣になられると、揶揄しても面白くなくなってくる。小さくため息を吐いたソウシは、出来る限りのことはすると妹に約束した。嫉妬という感情を除けば、相手に対する興味を否定することは出来ない。自分も興味があるのだと、自分を納得させることにしたのだ。



 幾ら口止めをしても、誘拐の事実を隠し通すことなど出来るはずがない。そして幾ら相手が学園の実力者の娘だとしても、好奇の目で見ることを防ぐことは出来ないはずだった。だが肝心の被害者は、周りの目など全く気にする様子を見せなかった。そしてその代わり、授業をそっちのけでカタログ漁りに没頭していた。そのせいもあって、誘拐の被害者、友綱マドイは別の意味で生徒達の注目を集めることになった。

「それでソウシ、マドイちゃんはどうしたの?」

 そしてマドイの不思議な行動は、フジノの耳にも届いていた。この辺りは、教師達の泣き言が彼女に届いた事も理由になっている。学園に絶大なる影響を持つオウガの娘だけに、教師達も下手に注意することが出来なかったのだ。従って、教師達は生徒会長であるフジノを頼ったのである。そこには、友綱の跡取り息子と懇意だという事情もものを言っていた。だからフジノは、生徒会室で向かいに座っているソウシに、マドイがしている奇行の意味を尋ねることにした。
 そしてフジノの疑問に、ソウシは大きく肩をすくめ、「一生の問題に取り組んでいる」と嘘くさい答えを返した。

「オートバイのカタログ漁りが、一生の問題?
 そのあたり、分かるように説明してくれない?
 理事長の娘だからって、いえ、理事長の娘だからこそ行動に注意が必要なのよ」
「もちろん、妹の行動には重大な理由が存在しているよ。
 そう言えば、フジノは妹が誘拐されたことはリアルタイムで知っていたね。
 それがどんな解決をしたのか、どこまで知っているのかな?」
「解決の仕方って……白馬の王子様云々って奴のこと?」

 帆掛ジュウゾウからの情報もあったが、この辺りのことはマドイ自身が言いふらしてもいたのだ。だからフジノも、なぜか情報通になっていたりする。
 そしてフジノの言葉に、その王子様のことだとソウシは笑った。

「現代版の王子様は、白馬ではなく赤いオートバイに乗っていたんだよ。
 相手の名前、身元の一切合切が不明だからね。
 今はその手がかりを一所懸命たぐり寄せている所なんだよ。
 そう言えば、帆掛のじいさまも捜索に協力してくれているようだね。
 明日には該当しそうな日本人出国者のリストが届くことになっているよ」
「個人情報保護って、一体どうなっているのかしら」

 はあっと大きくため息を吐いたフジノは、そこまで本気なのかと友綱の考えを質した。この際友綱に協力する碇の考え方は棚の奥にしまい込むことにした。

「明後日には、碇家の跡取りが日本に着くのよ。
 そして週末に編入試験を受ける事になっているわ。
 そしたら来週の早いうちにも、豪龍寺に大きな騒動が起こることになるわ。
 そんな重大な時期に、人捜しなんてのんびりとしたことをしていて良いの?
 いくら衰退していると言っても、碇をそこまでなめるのはどうかと思うわよ」
「別に、碇の跡取りをなめているつもりはないよ。
 ただ碇の跡取りに向かい合うのは、俺であり会長であるフジノの役目だろう。
 だから妹には、一生の問題に取り組んで貰っているんだよ。
 それから妹だって、碇の跡取りのことは気をつけているよ。
 今は優先順位が低いから、自分のことを優先しているんだよ。
 それで会長、会長は碇の跡取りの肩を持つのかな?」
「会長という立場では中立でいるつもりよ。
 それから大家という立場では、立場に応じた責任を果たすつもりでいる。
 生徒間でもめ事が起きたときには、学園規則に従って仲裁を行うことにするわ」
「すでに、色々と指示が出ていることは耳に届いているんだろう?」
「ええ、嫌と言うほど私の所には聞こえてきているわ。
 私が邪魔をしないよう、監視がつけられていることも知っているわよ」

 冷たい目で見られたソウシは、多少意味が違っていると言い訳をした。

「俺が会長と一緒にいるのは、副会長だから当然の事だと思うがね。
 碇の跡取りが瑞光家に住むことになると、遊びに行きにくくなるだろう。
 だからせめて学校だけはと思って、こうして一緒にいる時間を増やしているんだけどね。
 会長……フジノは、それが迷惑だというのかな?」
「べ、別に、迷惑だとまでは言っていないけど……」

 でもと。

「私は、自分の役目を心得ているわ。
 だからソウシと馴れ合いをするつもりはない。
 それから碇の跡取りだからと言って、盲従するつもりも全くないわ。
 跡を継ぐのに相応しくない男だったら、御当主には悪いけど私が引導を渡すわよ。
 それが、結果的に碇の家の為にもなると思っているから」
「断絶することが、碇の為だというのかい?」
「汚点を晒すよりは、綺麗に終わった方がましでしょう。
 ユイ様があの男と結婚したことで、碇の家にけちが付いたわ。
 これで跡取りがどうしようもない男だったら、誰も碇を支えようなどと思わないでしょうね。
 だからそうなったら、私がとどめを刺してあげるって言っているのよ。
 ソウシ、その時にはあなたの手をわざわざ借りることもないと思うわ」
「つまりフジノ、君がつぶさないときには碇の跡取りは、跡取りに相応しい人物だと言うことになるね。
 その時には、その跡取りは俺の恋敵になるかも知れないと言うことかな?」
「その可能性は十分にあるわね。
 家に住まわせるのだから、シンジ様の方が有理かも知れないわね。
 いくら私でも、男の人が本気になったら逃げることは出来ないもの」
「つまり、俺は本気だと言うことをフジノに示していなかったと言うことか。
 やれやれ、力ずくというのは俺の信条ではないのだがなぁ」

 立ち上がったソウシは、フジノの机に右手をついた。そして左手で抱きかかえるようにして、キスをしようと顔を近づけた。だがほんの少し顔が近づいたところで、フジノに冷たい視線と脅しの言葉を浴びせられた。

「生徒会長として、不純異性行為を見逃すとでも思っているのかしら?
 私と戦争がしたいのなら、そう言ってくれれば全力でつぶしてあげるわよ」

 そしてフジノは、脅しの言葉だけでなく、実際の行動に移していた。ソウシが気づいたときには、ホッチキスが彼の口を捉えていたのだ。フジノがちょっと右手に力を入れれば、ソウシの口はホッチキスの針に縫い止められることとなるだろう。

「ゆっくりと私から離れなさい。
 それ以外の行為を取ったときには、無条件に宣戦布告と見なしてあげるから」

 フジノの行動を追いかけられなかった時点で、二人の力関係は明白になっている。ソウシは、言われたとおり机から手を放し、ゆっくりとフジノから離れたのだった。

「男の人が本気になったら、逃げられないのではなかったのかな?」
「ホチキス程度で止まるのは、本気って言わないわよ」

 分かったかしらと、フジノは持っていたホチキスをソウシに渡した。紙を閉じる部分は、しっかりと唾液でぬれていた。

「放っておくとさびるから、拭くなり捨てるなりしてくれないかしら?」
「学校の備品を粗末に扱うのはどうかと思うよ。
 更に言うなら、文房具は武器じゃないと思うのだがね」
「身の回りにある物を最大限に利用する。
 騒ぎを大きくしないためには、必要な措置だと思っているわ。
 それとも、私が本気になっても良かったのかしら?」

 ふっと口元を歪めたフジノに、そればかりは勘弁とソウシは謝った。これまでのつきあいで、フジノの実力は嫌と言うほど理解している。言うとおり本気になられたら、ホチキスよりも酷いことになるのは間違いないだろう。それにホチキス以外にも、武器になりそうな文房具は沢山ある。

「碇家の跡取りのことも、ちゃんと気に掛けておくことにするよ。
 俺としては、本当は正面から争ってみたかったんだけどね。
 どうやら手段を選んでいる余裕はないと言うことが分かったよ」
「応援するつもりはないけど、私は生徒会長としての役目を果たすわよ」

 それは結果的に碇家跡取りを応援することになるのではないか。ただその疑問は、今日は聞かないことにしておくことにソウシはした。正義の味方の話しをする一方で、自分たちがするのは学園ぐるみのいじめなのだ。下手なことを口にすれば、間違いなくフジノはその矛盾を指摘してくれるだろう。誰かに肩入れすると言うより、原理原則を口にするのがフジノという女性なのだ。その辺りの冷静さは、逆に女性としての魅力をスポイルしているのかもしれない。だがそれを差し引いても、フジノがとても魅力的なのは言うまでもなかった。

「俺は、碇の跡取りよりフジノを敵に回さない算段をした方が良さそうだな。
 いっそのこと、冷静なフジノ様が友綱と碇の両家を絞めた方が良いんじゃないのか?」
「冷静って嫌な言い方をしないで。
 冷静であろうとはしているけど、それほど老成しているつもりはないんだから。
 私だって、背負っている物を全部かなぐり捨てて感情的に動いてみたいって憧れはあるんだから」
「ただ、そうする相手に巡り会っていないと言うことか?」
「そんな物に巡り会える人って、本当に幸運、さもなければ不幸な人だと思うわよ。
 だから私も、憧れてはいても、現実が見えてしまっているというのが今の姿。
 いつ、現実的な答えを選択するか、その時を一所懸命先延ばししているだけ。
 その時になってソウシに別の女性がいたら、今度は私が焦ることになるのかも知れないわね」

 ずっと先のことだから、今はまだ分からない。フジノの答えに、努力が足りていないのだなとソウシは頭を掻いた。そして頭を掻きながら、もう少し悪い言い方があることに気が付いた。

「もしかしたら、俺はキープされていると考えればいいのか?」
「そっちより、腐れ縁って言い方の方が正しいのかも知れないわよ。
 どちらにしても、消極的な関係にあるのは確かだと思うわよ。
 はあぁっつ、シンジ様が王子様だったらどんなに良いかと思うんだけどね……」
「現実ってのは、とっても残酷なことだと俺は常々感じているよ」
「それはあなたにとって、それとも私にとって?」
「特定の個人を言ったつもりはないな。
 だから俺でもあり、フジノのことでもあると考えてくれ」
「そう言う不幸って、ソウシが引き受けてくれるとうれしいんだけどなぁ」

 そんなに都合良く行かないのは、フジノ自信も理解していたことだった。だから目の前の男との未来も、消極的に覚悟していたのだった。



***



 受け入れる方としては、予定を勝手に変えて欲しくはない。帰国が一週間遅れると連絡を受けたとき、メメは突然必要になった調整ごとに目眩を感じてしまった。まず碇本家に、跡取りの帰国が一週間遅れることを知らせなければいけない。そして跡取りを受け入れる瑞光家にも、スケジュールの遅延を伝える必要がある。まあここまでは、ある意味身内のことだから問題はないだろう。受け入れ側の瑞光が、多少心象を悪くすることがあるのかも知れない。それもまたさほど大きな問題ではないと開き直ることにした。何しろ瑞光は、父親は友綱に繋がっているし、母親は自分を含め碇の係累を迷惑がっている。そして娘は何を考えているのか分からないのだ。その環境の中で、多少の変化があっても大したことではないと思えたのだ。
 だがこれが、学校側となると問題は変わってくる。零点でも受け入れて貰えるとの情報はあるが、それがいつご破算になるのか分かった事じゃない。しかも帰国スケジュールに合わせて、編入試験が行われることになっている。そのスケジュールを変更するのだから、間違いなく嫌みを言われることになるだろう。だがそれを含め、メメが請け負った仕事なのも確かだった。だからメメは、気軽に日程をずらす跡取り様にしっかりと呪いの言葉をぶつけることにした。そして重くなる足を引きずり、メメは日程の再調整に動いたのだった。

 メメが恨み言を念仏のように唱えている頃、友綱家の長女マドイは完全にてんぱっていた。兄の伝手で集めたオートバイのカタログは、紙の時代なら「すり切れる」と言う表現が当てはまるほど、見落としがないかと何度も確認した。そして碇から提供された4千人のデータも、見方を変えて何度も見直してみた。それだけの努力をしたにも関わらず、何の手がかりも得ることが出来なかったのだ。それまで期待が大きかった反動で、マドイの落ち込みはとても激しかった。

「その顔を見ると、何も進展がなかったようね……」

 食堂で顔を合わせたとき、フジノは何も言わずに逃げようかと思ったほどだった。だがすがるような目を向けられ、それが手遅れだと悟ったのである。まあ兄の方にはいろいろあるが、マドイは慕ってくれる可愛い妹に違いない。その妹が落ち込んでいるのだから、逃げるというのは無いだろうと考え直した結果だった。
 フジノの言葉に、「そうなんです」とマドイは食いついてきた。すでにマドイの行動は、学園中の噂になっている。遠くイタリアの地で巡り会った王子様、その王子様を捜すという行為は、とてもロマンティックな話しとして受け止められていた。しかも普段のマドイからは信じられないほどの必死さで資料を見る物だから、周りもそっとしておくとか応援しようと言う気持ちになっていたのだ。だが周りの温かい目も、最初の一週間が限度だった。いくら理想の人でも、見つからなければどうしようもない。そして悪あがきするように何度も資料に目を通すマドイに、次第に回りも醒めた視線を向けるようになっていたのだ。学年別美少女ランクの1学年上位にランクされるマドイだが、女の情念、執念深さを見せつけられたせいか、男性陣の人気は著しく低下していたのである。

 もっとも人生を賭けているマドイにしてみれば、男性陣の評価などどうでも良いことだった。彼女にとっての重大事は、白馬ならぬ赤いオートバイの王子様を見つけることだけなのだ。そのためならば、どれだけ陰口を叩かれても気になどならなかった。どうせ陰口を叩いているのは、畑の野菜でしかないのだから。さもなければ、奈良公園の鹿と言ったところだろうか。

「すっかりと、内外のオートバイ通になってしまいました。
 レースをするため、ワークスと呼ばれるメーカー系と。
 プライベートのレーシングチームがあることも知りました。
 そして彼らが、どんな車体を使用しているのか迄詳しくなりました。
 今では、オートバイのエンジン音だけで、どこのメーカーのどんな型式か。
 そしてどんな改造が施されているのか迄分かるようになってしまいました……」
「それでも、王子様の乗っていたバイクが分からないの?」
「調べた範囲で、どのオートバイの形とも違っているんです。
 乗っていたときの音も、どれとも違っていましたから……。
 20年前のバイクにまで調査を広げたのですから、売っているバイクなら絶対に見つかるはずなのに……」
「それって、日本国内限定じゃないのよね?」
「当然です、あのお方にお会いしたのはイタリアのローマなんですよ。
 どちらかと言えば、日本国内のことはどうでも良いと優先順位を下げていたぐらいです!
 それでも、全然見つけることが出来なくて……
 何台か近い形は見つけたのですけど、同じ形をしたものはどこにもありませんでした……」

 そこまで言っているのだから、本当に調べ尽くしたのだろうと想像できる。そしてそこまでして見つからないとなると、話があまりにも出来すぎているような気がしてくる。これではまるでどこかの地下組織が、特別仕立てのオートバイを作ったように思えてしまう。

「そんなおとぎ話みたいなことは……と否定するところですけど、その線からも調べているんですよ。
 ただ地下組織というものではなくて、特注モデルの方なんですけど。
 さすがに口が堅いというか、ありすぎて追いかけるのに時間が掛かっているんです」
「オートバイの線が難しいとなると、顔写真の方はどうなの?」
「最低十回、多い人は100回ぐらい確認しています。
 少しでも似ている人は、その時期どこにいたのか迄追跡調査しました。
 でも、全然適合する情報がありませんでした。
 オートバイに乗っていたのですから、国際免許の方も調べてみたんですけど……
 現地で免許を取っていたら、それも照会が難しいですし」
「本当に、出来るだけのことはしているのね……」
「だって、私の人生が掛かっていますもの……
 だからいつお逢いしても良いように、綺麗でいるように心がけているんですよ。
 せっかく見つけても、振り向いて貰えなくては意味がないと思って……」

 はあっと物憂げなため息を吐いたマドイは、「綺麗でいる」と自分で言うとおり、美少女ぶりに磨きが掛かっていた。だが周りを全く見ず、ただ一人だけ探し求めて目を血走らせているため、周りの評価は逆に落ちる結果となっただけだ。

「運命の人……その時には私、そう思ったんですよ。
 だから絶対に再び巡り会うことが出来る……
 そう信じて疑っていないのに……」

 ここまで努力しても、何も手がかりが見つからないのだ。時間的には短くても、ほとんど手を尽くしたと言っても差し支えないだろう。本当にそんな少年が存在するのか、そして本当に日本人だったのか、それすら疑わしく思えてしまう。

「それでマドイ、その人のことは諦めるの?」
「諦める、どうしてですか?
 見つからないことと、逢えないことは全く別のことだと思っていますから。
 偶然とはいえ、私のピンチに駆けつけてくれた人なんですよ。
 だったら絶対に、絶対に、絶対に、いつか巡り会えると思っていますから。
 だから絶対に、諦めるなんて考えられません!」
「そこまで思えるなんて……凄いわね。
 ある意味、羨ましいかも知れないわね」
「私だって、こんな激しい恋をするだなんて思ってもいませんでしたから……
 ほんのわずか、1時間にも満たない時間しか逢っていない人なんです。
 でもその1時間にも満たない時間は、私の中では宝物になっているんですよ」

 そう言って頬を染めるマドイを、本当に綺麗だなとフジノは思ってしまった。もともと十分な美少女だったし、自分を磨いているとさっきも言っていた。だが今綺麗なのは、本当に恋をしているからだろうとフジノは思った。
 だがそうなると、疑問は全く手がかりが見つからないことだ。ある意味今回の捜索には、友綱だけではなく碇も絡んでいるのである。その両者の網に掛からない日本人、そして世界のどこにも存在しないオートバイ、ここまで謎が深まると、本当に何かあるのではと思えてしまう。

「そう言えばフジノお姉様、何かご機嫌が優れないように見えるんですけど?」

 ぽっと頬を染めていたマドイは、そう言えばと話しをフジノに向けた。自分のことを心配してくれるのはうれしいが、敬愛するお姉様も表情が優れないのだ。もしかしたら自分が迷惑を掛けているのでは、マドイはそれを心配した。
 ある意味、マドイのことは生徒会長としての懸案事項にはなっていた。だからフジノの表情を曇らせる一要因なのは間違いないだろう。だが今フジノは、マドイなど問題にならないものを抱えていた。

「ちょっとね、これからの立ち振る舞いをどうすべきか悩んでいたのよ」
「それは、お兄様に関係することですか?」
「関係ないとは……碇のことだから無いとは言えないわね」
「今度来るという、碇の跡取りのことですか……
 確か碇シンジと言いましたか、その跡取りは日本に帰ってきたんですか?」
「それが帰ってこないから、問題になっているのよ……
 家に住み着いている忍野って人も、帰ってくる日程がずれたって頭を抱えていたわ」
「なにか、遅くなる理由があったと言うことでしょう?」
「もう少し観光をしてから帰る……そんな連絡で納得できると思う?」
「日本に帰ることに、臆したのではないのですか?」

 その指摘は可能性として大いにあり得ることだった。それが友綱相手かどうかは分からないが、古くさい家を継がされるのは腰が引けるのも仕方がないと言えるだろう。だがそれが理由となると、本当に支えて良いのか疑問になってしまう。本当に引導を渡した方が良いのではないか、真剣にフジノは考えていたのだった。

「今は、イタリアのミラノにいるみたいよ。
 向こうで知り合った人に誘われたから、滞在を延ばしたと連絡が入っているわ。
 まったく、責任感に欠けるというか……」
「ミラノってイタリアの北部ですよね。
 よかった、碇の者と鉢合わせにならなくてっ!」

 心底ほっとした顔をするマドイに、気持ちは分かるとフジノは返した。

「だんだん私も、後悔してきた自分に気が付いているのよ。
 碇の御当主に頼まれはしたけど、ここまで来たらもう良いかって気がしてきて……
 だってソウシやマドイちゃんは、こうしてずっと学校で一緒にいるじゃない。
 それなのに、それと敵対する碇の跡取りを立てるだなんて……」
「でしたらお姉様、綺麗さっぱり碇と手を切れば良いんですよ。
 もしもお姉様が本気でそう思われているのなら、お父様に私からお願いしてみます。
 きっとお兄様との縁談も、トントン拍子に運ぶのではありませんか?」
「いやっ、さすがにそれは気が早いからね!」

 そう否定はしてみたが、その方向に向かっていることをフジノも良く理解していたのだった。







続く

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