この世界に人の作る物で確かな物、揺るぎない物など存在するのだろうか。その問いかけに対しての答えは、“否”でしかないだろう。どんなに強固に見える物でも、思いがけないところから綻びが見え、そしてあっけないほど簡単に崩壊してしまう。永遠など無いというのが、自然界を含めた摂理として信じられていたのだ。
 そして自然界の摂理は、兵器開発の分野でも例外ではなかった。初めは基礎データで予告されていたのだが、演習でそれが現実のものとして実証されたのである。

「奇跡のチルドレンも、ただの人だったと言うことか」

 機能を停止した巨大ヒトガタ兵器の映像を背に、長身の男は静かに、そして諦観したように事実を口にした。自然の摂理に従えば、奇跡のチルドレンもいつかは奇跡のベールを剥がされる時が来る。それは彼らの進めてきた技術開発が実を結んだという意味にも通じるが、単純にそれを認める気持ちにはなれない事情がそこにあった。だからこそ、技術陣の勝利に対して、驚くほど冷静にその事実を受け止めることになった。
 そんな男、新造人間研究所長、ウィルヘルム・カーライルに向かって、傍らにいた若い女性、おそらく彼の秘書なのだろう、彼女ははっきりと失望を顔に出し、期待する事実とは異なることを口にした。

「ニーヴァの汎用性の高さが証明された……とするところなのでしょうね」

 本来なら、汎用性の高さは誇って然るべき事だった。だが所長補佐官キャロライン・ワイズメンにとって、それは一つの時代の終焉ではなく、先行きの見えない泥沼への侵入を意味していたようだ。だからこそ、喜びも悔しさも押し隠した顔でウィルヘルムの横に立っていたのだ。
 そんなキャロラインの言葉に、あろうことか所長であるウィルヘルムが疑問を呈した。

「そうであれば、何も問題がないとしたいところなのだがな」

 そう口にしたウィルヘルムだったが、すぐに「忘れてくれ」と自分の言葉を取り消した。だが忘れろと言う上司の言葉を受けて、キャロラインはこの結果が導き出す“事実”を客観的に口にした。

「上層部はこの結果に従い、次の行動をとることでしょう。
 少なくとも、アンノウン対策はニーヴァの配備で事足りることが証明されたことになります。
 事実これまでの実績で、ニーヴァによる迎撃で問題は発生していません。
 彼の能力に頼るのよりも、確実な迎撃が遂行されていると評価されています」
「“事実”の前に、感情・心象は説得力を持たないと言うことだな。
 発せられた警告には、それを裏付ける科学的根拠が存在していない。
 具体的検証に入る理由が何もない……と言うのが一番の問題だろう」

 初めて表情を現したウィルヘルムに同調し、キャロラインは苦笑を浮かべることでその言葉を認めた。ただ彼らにしても、警告に対する裏付けを持っている訳ではない。警告を発した者に対する漠然とした信頼感が、無視をしてはいけないと考える唯一の理由だったのである。そしてその警告の中身もまた、無視をするには重大すぎる内容を含んでいた。もしもそこで示されたことが事実ならば、人類は自分の手で滅亡への道を切り開いていることになる。
 だが彼らの思いとは別に、発せられた警告への周りの解釈は異なっていた。自分を無用の物とする開発に対して、横槍を入れて保身を謀った……その意見が大勢を占めていたのである。その評価自体、彼を知らない者の発想だとウィルヘルムは考えていた。

「キャル、君は彼が保身を目的とすると考えるかね?」

 その意見を口にしたウィルヘルムに、キャロラインははっきりと口元を歪めて首を振った。

「保身……碇シンジを知る者ならば、一番相応しくない理由と思うでしょうね。
 彼は日常的に、退役を仄めかしています。
 だからこそ、性能が上がらないのだとも考えられますが……」
「一方で、居場所を失うことを恐れていると言う分析もあるのだよ。
 退役を仄めかすのは、自らの立場を補強するためのもの。
 本当は退役するつもりなど無いのだと言われているよ。
 そして今は、その分析の方が受け入れられている」
「しかし彼には、新しい居場所が用意されているのではありませんか?」
「君の耳にも届いていたのかね?」

 渋い顔をしたウィルヘルムに、それぐらいはとキャロラインは苦笑を返した。

「シンジが退役申請を出していることも知っています。
 すでに彼は、ここを居場所とは考えていません。
 そして彼には、新しい居場所が用意されている。
 その上、碇シンジを追い出すことが勝利だと考えている者が大勢います」
「ブラックボックスの解明がなされていないというのに、結果に目がくらんでいると言うことだな。
 確かにキャル、君の言うとおりの風潮がここにあるのは確かに違いない。
 もはや碇シンジの力が不要だと宣言することは、政治的に非常に大きな意味を持つからな。
 そしてこの模擬戦は、その主張を証明することになってしまった」
「これで、彼からの退役申請は受理されることになるのですね?」
「両手では足りない者達が、彼を一刻でも早く追い出したいと考えているからな。
 かつて無い迅速さで、申請は受理されることになるのだろう」
「アンノウンへの目途が付いた今となっては、別の力学が働くと言うことですか」

 小さくため息を吐いたキャロラインは、本人にどう知らされているのかを問題とした。

「それで、このことをシンジに?」
「すぐに伝えることになるだろうな。
 そもそもこの演習以前に、すでに結論は出ていたんだ。
 承認作業は、すぐにでも行われることだろう」
「まるで、一刻も早く追い出したい感じですね?」
「言っただろう、彼を追い出したいと考える者がごまんといるんだよ。
 そして彼らの政治力は、非常に大きな物があるんだ。
 それが現実という奴なんだよ」

 ただそれをいくら主張しても、彼は一介の研究所長にしかすぎない。高度に政治的な話は、全て彼を飛び越し「委員会」と呼ばれる国連の常設委に付託されていたのだ。だから本件に関して彼にできるのは、意見具申という形でしかない。それにしたところで、立場上客観的事実に基づかない物をすることはできない。碇シンジからの問題提起にしても、懸念材料として記載することはできなかったのだ。
 「それが現実だ」と繰り返したウィルヘルムに、キャロラインも否定の言葉を口にしなかった。



 研究所内の空気は、あからさますぎて今更言うまでもないことだろう。いくらトップが自分を擁護していても、全体の空気は確実に排除に動いている。それに絶対的指標としてのシンクロ率は、すでに大勢のパイロットに追い抜かれていた。この時点で、経験以外に自分の価値は無いことになる。だから「お役ご免」が現実のものになったと碇シンジは喜んでいたのである。
 そこに来て、今日行われた模擬戦での敗北である。負けた相手のレベルを考えれば、用済みの烙印を押されることは間違いないだろう。これで提出していた「退役」申請が受理されるのは間違いない。生活に多少の制限が付くことはあっても、今更自分の口から漏れる情報に大した意味はない。それを考えれば、制限にしたところでせいぜい守秘義務程度だろう。監視にコストを掛けるのも、無駄なことだと判断されるだろう。ようやく、中学2年から続いた因縁から解放されることになる。

 基本的には清々したと言いたい気分なのだが、必ずしもそうとばかりは言えない事情が碇シンジにもあった。その第一が、彼が発した警告にあるのは間違いない。ニーヴァと呼ばれる新型機体の危険性、そしてアンノウンの襲撃に関する可能性、およびアンノウンの学習効果による凶暴化である。このまま際限なく続けていけば、最悪の場合、待ち受けているのは人類の滅亡と言うことになる。それが解決されなければ、手に入れた自由も先行きの短い物になってしまうのだ。
 そしてもう一つの事情は、研究所で構築された人間関係に関わっていた。ほぼ全員から敵視されていたと言ったが、それも大人の事情でしかなかったのだ。研究所の空気につられるように敵視してきたパイロットもいたのだが、多くのパイロット達とは比較的良好な関係にいたのだ。中には良好を超え、親密な関係を迫ってきたパイロットもいた。ここを去ると言うことは、その人間関係も切り捨てるという事になってくる。

「シャル、君が悪い訳じゃないんだよ……」

 そして人間関係と言う奴が、いきなりシンジに突きつけられることになったのだ。晴れがましい気持ちで部屋に帰ってきたシンジだったが、予想された訪問者にその気持ちもぶちこわされたのである。

「だ、だからね、そんなに泣かれるような事じゃないから……」

 いい気分をぶちこわされたという以上に、シンジは自分の胸元を掴んで泣きじゃくる少女、シャルロット・アルテリーベへの対応に途方に暮れてしまった。個人的に仲良くしてきたという事情はあるが、そこまでされるとは考えてもいなかったのだ。彼女との模擬戦に負けたのは確かだが、それにしたところで初めから見えていた結果でもある。模擬戦敗北、退役届け受理の流れは、シャルロットと戦う前からできていたことだったのだ。
 だがそんな大人の事情とは関係がないとばかり、少女は思いっきり胸の中で泣きじゃくってくれる。ただ泣いているだけでは、何が理由かを知ることはできない。その状況の中シンジに言えることは、シャルロットは悪くないという事だけだったのだ。それで泣き止んでくれるはずもなく、結局綺麗に手入れされた金色の髪の毛を見続けることになってしまった。もう一つ見える物を付け加えるなら、少し空いた服から覗く、少女の背中とブラのホックだろうか。

「だからシャル、君のせいじゃないんだからね……」

 ここで強く抱きしめるとか、顔を上げさせてキスをするとかすれば、事情はまた変わったのだろう。だがこれまでの関係や、これからの関係を考えたとき、そう言った行為は問題を複雑にする方向に働いてくれる。退役という行動は、これまでの人間関係を清算することを意味している。
 それもあって何もできないシンジだったが、頭の中では、一人の悪魔と二人の天使がうるさく喚いていた。それもまた、シンジの頭を悩ませることになっていたのだ。しかもどういう訳か、天使と悪魔が同じ結論を提示してくれた。これが自分の分身でないだけに、話は更にやっかいなことになっていた。

 「やっちゃいなさい」と赤い髪をした悪魔が囁けば、
 「どうして何もしないの?」と青い髪をした天使が疑問を呈する。
 「するのが男の甲斐性という物だよ」と灰色の髪をした天使も同調してくれた。

 どうやら天使と悪魔、彼らは一致団結してこの少女を押し倒せと言っているようだ。これまでの関係を考えれば、確かに選択肢の一つであるのは間違いないだろう。ただこういうなし崩しというか、どさくさ紛れは良くないとシンジは思っていた。しかもこれからのことを考えれば、間違いなくヤリ逃げになってしまうのだ。それではあまりにも無責任だと、天使と悪魔の踏んだアクセルを、必死にブレーキを掛けて抵抗したのだった。だがそんなシンジの努力を、意味のないことだと天使と悪魔はなじってくれた。

 「すぐに責任を感じるのはシンジの悪い所よ」と赤い髪の悪魔は作戦を変え、
 「ヤらないでする後悔より、ヤってする後悔の方が前向きよ」と青い髪をした天使も同調し、
 「その場限りの関係、すてきだとは思わないかい?」と灰色の髪をした天使はあおり立てた。

 それでもシンジの“理性”は、彼らとの闘争に勝利を収めることができた。ゴーゴーとあおり立てる天使と悪魔を払いのけたシンジは、少女の肩に手を置き、乱暴にならないように気をつけてゆっくりとその体を引き離した。胸元が湿っぽいのは涙か鼻水か……そんな間抜けなことを考えながら、シンジは少女の顔を見た。そしてお約束だなと、妙な感心をしてしまった。
 両肩を捕まれた少女は、期待を込め胸元で両手を握りしめ、そして瞳を閉じて唇を突き出していた。まあ何を期待してのことかは今更議論の余地もないだろう。

 鼻の頭が赤くなっているのは、それだけ色素が薄いせいだろうか。さすがの美少女も、鼻を赤くしていては台無しという物だ。本当なら“ぐっと”くるシチュエーションなのだろうが、お陰で笑いが先に来てくれた。そのお笑いを懸命に押し殺し、シンジは少女の期待とは異なる場所、少し開いた額に唇を当てたのだ。おかげで頭の中では、天使と悪魔が「チキン!」と大合唱をしてくれた。それでもシンジにしてみれば、ずいぶんと冒険したつもりになっていた。

「僕が新搭乗システム「ティーゲル」を拒否したときには見えていた結末なんだ。
 そして僕は、今でもその選択を後悔はしていないんだよ」
「でもシンジ、私が勝たなければっつ!!!」

 どうしても自分のせいにしないと我慢できないのだろう、少女……シャルロットは大声を上げた。「唇を塞いで黙らせろ!」と言う頭の中の大合唱を無視し、少し腰を落として「聞いて欲しい」とシンジは落ち着いた声で語りかけた。

「シャルとの演習は、結論を確認する以上の意味を持っていなかったんだよ。
 ネオ・エヴァンゲリオンプロジェクトに、僕の居場所は元々無かったんだ。
 それでもおとなしく言うことを聞いていれば良かったのだろうけどね、
 よけいなことを言う僕の存在は、彼らにとって目の上のたんこぶだったんだよ。
 だから機会があれば、すぐにでも追い出したいと虎視眈々と狙っていたってことさ。
 シャルが演習相手に選ばれたのは、一番引導を渡すのに適切だと思われたんだろうね。
 シャルは、僕と仲が良いように見えていたからじゃないかな」
「仲が良いようにじゃなくて、私達は恋人のはずよ!!
 仲が良いように見えていたって、そんな酷い言い方をしなくても!」
「でも僕たちは、普通の恋人達のような関係じゃなかったはずだよ。
 二人で恋を語ったこともなかったはずだ」

 現実をはっきり口にしたシンジに、それでもとシャルロットは食い下がった。

「私は、はっきりと好きって告白したはずよ!
 そりゃあ、シンジからは気持ちを教えて貰ったことはないけれど……
 でも、シンジは私を拒絶せず、部屋にも入れてくれているわよ!!
 今だって、こうして二人きりで逢ってくれているじゃない!!」
「それが、僕たちが恋人だという証にはならないだろう?」
「だったらシンジは、私のことが嫌いなのっ!」

 違う意味で涙を流したシャルロットに、そんなことはないとシンジは頭を振った。

「シャルのことは大好きだよ。
 でも、それを恋愛に結びつけて欲しくないだけだよ。
 一緒にいれば楽しいしって気持ちはあるんだよ」
「どうして、恋愛に結びつけてはいけないの!!
 1年以上こうして一緒にいたんだから、もっと先に進んでも良いじゃない!」
「でも僕は日本に帰ることになるんだ。
 そしてシャルは、このままドイツに残ることになる。
 僕がニーヴァ(neeva)に関わることはないから、二度と会うことはないだろうね。
 僕の出した退役申請は驚くべき早さで処理されて受理されることになるだろう。
 僕が申請を出したんだから、彼らにとっては渡りに船って所だろうね」
「なんで、どうしてそんな申請なんか出したのよっ!!」

 シンジの言葉は、当然シャルロットの納得いく物ではなかった。

「ここが、僕の居場所じゃないと知っているからだよ。
 シャルと遊ぶのは楽しかったけどね、ニーヴァに乗るのは好きじゃないんだ」

 そう言うことだと、シンジは押さえていたシャルロットの肩を放した。

「シャル、君はもう僕の所に来ない方が良い。
 君だったら、きっとみんなに大切にしてもらえるよ。
 そのためにも厄介者の僕と関わらない方が良いんだ」
「私は、そんなことに価値を求めていないわ!
 私だって、別にニーヴァに乗ることに価値なんて求めていない。
 シンジがここから居なくなるのなら、私もここに留まる必要なんて無いわ!!」
「でも、シャルは僕ほど簡単に退役することは出来ないよ。
 「ティーゲル」式搭乗は、まだ機密扱いだからね」

 退役できたとしても、行動にはかなりの制限が伴うことになってくる。そしてその制限には、移動に関する物も含まれることになる。それを考えれば、シンジの言うとおり、ここでの別れが今生の別れにもなるだろう。それを主張するシンジに、シャルロットは少しきつい眼差しを向けた。

「シンジは、日本に帰ってどうしようというの!?」
「僕かい、とりあえずハイスクールに通うことにするよ。
 そこでゆっくりと、この先の人生どうするのかを考えるんだろうね」
「ヨーロッパに来ることはないの?」
「理由と目的があれば来ることになるだろうね。
 それが大学に入るときなのか、社会に出てからなのかは分からないけどね。
 何年も先の、あるのかどうか分からない将来のことさ」
「シンジは、私との未来を考えたことはないの!!」
「シャルとの未来?
 ごめん、そんな先のことは考えたことはなかったよ。
 それに、今は考えるだけ無駄なことだと思うよ。
 ここで僕たちはさようならをして、二度と逢うことはないんだよ」

 それでもと、シンジは薄く微笑んで見せた。

「どこかで巡り会えたなら、それがきっと運命なんだろうね。
 もしもそんな奇跡があったら、シャルへの答えを出すことが出来るのかも知れないよ」
「一緒にいる未来があれば……シンジは私に恋をしてくれるの?」
「恋をするのって、頭で考えて出来ることかな?
 でも、そんな偶然があったら素敵だなとは思うよ」
「分かったわ……」

 シンジの言葉に、意外にもシャルロットは聞き分けてくれた。そして今の言葉を忘れないで下さいと残して、シンジの部屋を出て行った。どこにも濁りのない金色の髪をなびかせたシャルロットは、まるで妖精のように可愛らしかった。もっとも、見た目通りの少女でないことは、誰よりもシンジが一番理解していたことだ。
 その後ろ姿を見送ったシンジは、ほっと小さく安堵の息を漏らした。それを見計らっていたように、赤い髪をした悪魔が「甘いわね」と囁いてきた。

「甘いかなぁ……別にシャルの演技に騙されたつもりはないけど?
 彼女が何等かの意図を持って僕に近づいてきたこと。
 普段は猫をかぶっているけど、本当はとっても強いことも知っているよ。
 残念ながら、その正体までは掴めていないけどね」

 それほど極楽とんぼじゃないと笑ったシンジに、青い髪をした天使は「そのことじゃない」と赤い髪の悪魔に加勢した。そして灰色の髪をした天使は、「シンジクンも分かっているよ」と肩を持ってくれた。

「シャルが僕を追って日本に来るってことかな?
 もしもそんなことになったら、僕の疑問に対する答えが出ることになるね。
 ただ可能性の一つではあるけど、あまり思い悩むことじゃないと思っているよ。
 パイロットの肩書きが外れたら、僕は何の取り柄もない子供だからね。
 なるようにしかならない……ってのが、一番正しいのかなぁ。
 だいたいその他大勢のパイロット以下の能力しかないんだから、
 今更僕をどうこうしようだなんて奇特な人はいないんじゃないのかな?」

 それも一つの現実なのだと。シンジはそう答えると、狭いベッドの上に横たわった。

「明日になれば、きっと僕の退役届けが受理されたと言う連絡が入るよ。
 そうしたら、明後日にもここを引き払うことになるんだろうね?」

 解放されると喜んだシンジに、喜ぶことじゃないと赤い髪をした悪魔が叱りつけた。

「僕は、必要な警告は発したんだよ。
 でも誰も僕の警告に耳を傾けてはくれなかったんだ。
 だったらこの先起こることは、僕の責任じゃないと思うんだよ。
 それに、どこかの天才がニーヴァの欠点を克服してくれるかも知れないじゃないか。
 僕はあれ以来、物事を悲観的に捉えることはやめることにしたんだよ。
 もしも事件が起きて、僕が巻き込まれることになったら……」

 「なったら?」と天使と悪魔の声が頭の中で重なった。たぶん彼らは、シンジの答えに興味があったのだろう。だから答えを急かすように、彼らはもう一度「なったら?」と繰り返した。

「その時はその時だね。
 今考えても仕方がないから、その時の僕に任せることにするよ」

 そう言って微笑んだのだが、その答えは彼ら、特に赤い髪をした悪魔には不評だったようだ。悪魔に相応しい口汚い言葉を尽くし、危機感のなさをなじってくれたのだ。
 なじられることは慣れているのだが、相手が頭の中というのはつくづく宜しくない。耳を塞ごうにも布団を頭からかぶっても、少しもボリュームが下がってくれない。そうなると、その騒音に負けない音楽を頭の中に浮かべる必要があるのだが……そのせいか、やけにヘビメタに詳しくなってしまった。

 いつものように騒音対策をしようとしたシンジだったが、驚いたことに騒音の方が先にシンジを解放してくれた。そしてその騒音の代わりに、青い髪をした天使が「不誠実」とシンジをなじってくれた。そして灰色の髪をした天使もまた「今のはいただけない」と同調してきた。3人がかりで言われれば、シンジも素直にならざるを得ない。右腕で蛍光灯の光を遮るようにしたシンジは、「分かっているんだ」と3人に答えた。

「アスカが、僕のことを心配してくれているのはね……
 でも、どうにもならないことはやっぱりあるんだよ」

 失われてしまった少女の名を口にして、シンジは寂しく笑って見せたのだった。



 シンジが予想したとおり、そしてウィルヘルムが嘆いたとおり、シンジの退役届けはその日の内に受理されることになった。その通達を受け取ったウィルヘルムは、困ったものだと大きくため息を吐いた。分かり切った結論とはいえ、こうも簡単に恩人とも言える少年を追い出して良いものか。やっかい払いとはっきり分かるだけに、やりきれない気持ちがしてしまうのだ。
 もっともそれが、自分だけの感傷であるのは理解していた。そもそも当の本人は、こうなることを最初から見越していたのだ。事実彼は、ニーヴァ……Neo Evangerion……に乗ることに価値を認めていなかった。否、強制されていなければ乗ることもなかっただろう。追い出されることは、むしろ望んでいたことだったのだ。

「キャル、シンジをここに呼び出してくれないか」
「予想通りとは言え、昨日の今日ですか……」
「ああ、一晩にして我々は二人のパイロットを失うことになったんだ」
「二人の?」

 予想外の言葉に驚くキャロラインに、ウィルヘルムはもう一枚の通達書を手渡した。そこに書かれた名前に、キャルは目を剥いて驚いた。まさかシャルロット・アルテリーベの名を見るとは思ってもいなかったのだ。

「な、なんでシャルロットの退役って話しになっているんですか?
 た、たとえシンジのことに責任を感じたとしても、それが理由で退役できるはずがありません!
 それに、いつの間に彼女は退役届けを出したって言うんですか!?」

 あり得ない事態に、ただキャロラインは大声を上げるだけだった。だがウィルヘルムにしたところで、彼女への答えを持っている訳ではない。デスクに両手を突き、小さなため息を返したのだった。

「残念ながら、私には君の疑問に答える言葉がないんだよ。
 本件に対して問い合わせをしてみたのだが、申請に対して適切に処理された結果と返された。
 だったらなぜ退役願いを出した物同士戦わせるのかとも聞いてみたよ。
 だが人事と実験は別だと答えられてしまった。
 そう答えられては、私にはそれ以上詮索することは出来ないんだ。
 唯一出来るとしたら、本人に理由を尋ねることぐらいだろうが……」

 ふっとため息を吐いたウィルヘルムは、それが不可能になったと打ち明けた。

「不可能……なぜです、本人にこれから通達するのではありませんか?
 そこで理由を問いただせば答えなら得られるはずです!」

 常識を口にしたキャロラインに、それが不可能なのだとウィルヘルムは返した。

「肝心の彼女は、すでに昨夜のうちにここを出ているんだ。
 それ自体、正規の手続きに従った夜間外出なのだが……
 荷物の一切合切がパッキングされていたというおまけ付きだ」
「シャルロット・アルテリーベ……何者なのです?」

 こんなことが起きれば、キャロラインの疑問は当然の物だろう。だがウィルヘルムは、その疑問への答えも持ち合わせていなかった。

「分からん……
 ただ者ではないのは確かだろう。
 シンジの退役を狙ったように退役してきたのだ。
 いや退役を予測したような行動をとっていると言っていいのかも知れない。
 彼女の背後には、上を動かすだけの力があると考えるべきだろうな?」
「まさか、ゼーレの残党と言うことはありませんか?」

 一番危惧される可能性を挙げたキャロラインに、分からんとウィルヘルムは答えた。もちろんその答えは、キャロラインの不興を買うことになった。

「そんな目で見るな、私にも本当に分からないのだよ。
 確かにゼーレの残党に関わりがあるのなら、シンジに近づく理由になるのかもしれない。
 だが今更シンジに近づいて、一体何をしようと言うのだ?
 人類補完計画を頓挫させられた恨みでも晴らすのか?
 そんなことをして、わざわざ自分たちの存在を白日の下に晒すのか?
 もしもゼーレの残党が存在したとしても、私はそんな愚かな存在だとは思えない。
 そしてシャルロットを見ていれば、そんなことを目的にしていたとは思えない。
 彼女の行動は、シンジを取り込もうとしているように見えたのだ」
「ならば碇シンジを依り代に何かをしようとしているのでは……」
「今のシンジが、簡単に利用できると思っているのかね?」

 ウィルヘルムの質問に、キャロラインははっきりと頭を振って否定した。

「仰有るとおり、今のシンジを利用するのは難しいでしょう。
 時々私は、彼が17歳の少年であるのを忘れてしまうときがあります……」
「それが私生活のことではないことを願うよ……と、シンジを呼んでくれないか?」

 キャロラインの視線が厳しくなったのに気づき、慌ててウィルヘルムは話を元に引き戻した。彼が今しなければいけないのは、シャルロットの背後関係を探ることではない。それ以上に、キャロラインの性的嗜好をあげつらうことではないはずだ。
 せっかく話を変えたウィルヘルムだったが、残念ながらキャロラインは彼を逃してくれなかった。とても危険な眼差しを向けたキャロラインは、自分も退職できるかと持ちかけたのだ。

「パイロットに比べれば、君の退職は難しいことではないが……
 私としては、有能な補佐官を失いたくないのだがね」
「ヴィルが私の私生活を口にするからいけないんです」
「そのことに謝罪するのは吝かではないよ。
 そろそろ馬鹿話はやめにして、シンジを呼び出してくれないか?
 たぶん荷物を整理して、この知らせを待ちわびているだろうからな」
「それで、私の退職願いの件はどうなりますか?」
「とりあえずは却下と言うことになるな」

 それだけだと言い放ったウィルヘルムに、キャロラインは初めてため息をついて見せた。

「まあ、予想通りというところですか……
 ですがシンジをこのまま一人で放り出して良いのですか?
 不要と判断されましたが、最後のオリジナルチルドレンには違い有りません。
 軍事的に利用できなくても、政治的に利用しようと考える者が出てこないとも限りません。
 彼の身辺に対する、必要な警護を配するべきだと思うのですが……」
「残念ながら、それは我々の職務の範疇ではないのだよ。
 そう言った話は、もっと上の人間が頭を悩ますことになるのだろうな」

 ウィルヘルムの置かれた立場は、あくまでネオ・エヴァンゲリオンプロジェクトに関わることだけだった。シンジの身柄保護に関しては、一切の権限と力を持っていなかったのである。

「その意味では、日本に帰るというのは都合が良いのかも知れない。
 ある意味スパイ天国ではあるが、異邦人が目立ちやすい場所でもある。
 それに彼の身元引受人も、そのあたりのことは考えてくれているだろうからな」
「しかし、帆掛……とは何者なのですか?
 シンジのファミリーネームは碇のはずです。
 六分儀ならば碇ゲンドウ氏の絡みで理解できるのですが?」
「それもまた不明……と言うことだ。
 ただ日本政府が保証している以上、身元は確かと言う他はない」
「詮索するだけ無駄……と言うことですね」

 ふっと息を吐き出したキャロラインは、何かが起きているのだとつぶやいた。

「シャルのこともそうですけど、ここまで来ると何かの意思が働いているとしか思えません」
「キャル、君の言いたいことは私にも理解できる。
 だが理解できたからと言って、何かの手が打てるのかというと話が別だ。
 正直に言えば、我々の手に余るというのが現実なのだよ。
 単に護衛を付けるだけなら、話は簡単なんだがな」

 求められるのが政治的動きだと分かるために、彼らでは力不足その物でしかなかったのだ。非常に大きなうねりが、彼らが保護していた少年に襲いかかろうとしている。それが過去の亡霊に関わることなのか、それとも全く別の要素が関係しているのか。それすら彼らにはうかがい知ることのできない、闇に包まれた世界の出来事だったのだ。



 通達を受け取たときのシンジは、あまりにも普段と変わらない様子だった。一応希望しての退役なのだから、少しはうれしそうな顔をしても罰は当たらないだろう。さもなければ、2年間を過ごした場所を去ることに、何等かの寂寥の思いを馳せてくれても良い。だが目の前のシンジからは、目立った感情という物を見つけることが出来なかった。だからウィルヘルムは、珍しくシンジの前でため息など吐いてしまった。

「なにか?」
「いや、退役することに対してもう少し何かあっても良いと思ったんだよ」
「うれしいとか寂しいとか悔しいとかですか?」
「まあ、その手のことを期待したのは確かだがな」

 それでと答えを促したウィルヘルムに、特に何も感じていないとシンジは答えた。

「それでも強いて感情を表すなら、うれしいって所でしょうか。
 でも日本に帰ったら帰ったで、色々と待ち受けていそうですからね。
 それを思うと、うれしいとばかりも言っていられないんですよ」
「だったら、無理に除隊する必要はなかったのではないのかね?」
「ここは、居心地が良くないですからね。
 まあ半分以上僕に責任があるんですけど、目の敵にされましたから。
 そんなところにいられるほど、僕の神経は太くないですよ」
「確かに、君にとって居心地の良い場所ではないのだろうな……」

 シンジの言葉を認め、ウィルヘルムは小さくため息を吐いた。そして必要な手続きと言って、何枚かの書類を取り出した。

「ここを去るに当たって、いくつかの書類にサインをして貰う必要があるんだ。
 最初が、秘密保持契約……まあ、守秘義務の確認という奴だ。
 外で言いふらすとは思えないが、破った場合には様々な罰則が用意されている」
「まあ、それぐらいは覚悟していますよ」

 ウィルヘルムから書類を受け取ったシンジは、すぐに空欄に署名を書き入れた。中身を確かめたように見えなかったこともあり、逆にウィルヘルムが心配したほどだった。

「おいおい、一応中身ぐらいは確認したらどうだ?」
「サインしないと退役させてくれないんでしょう?
 だったら、確認してもあまり意味がないと思いませんか?
 それに中身だったら、ざっと眺めて理解しましたから」
「理解した、あれで?」
「別に、難しいことは書いてありませんからね……で、次は?」

 こともなげに言うシンジに、ウィルヘルムは内心大いに驚いていた。サインさせる前に自分でも中身を確かめたのだが、ややこしい言い回しに閉口したほどなのだ。
 だがシンジが気にしていない以上、拘っているわけにも行かない。急かされたウィルヘルムは、次の書類を取り出した。

「借用物の返却確認書だ。
 欲しい物があったら、実費で購入することも出来るが……」
「ご想像通り、ここの物で欲しい物はありませんよ」

 荷物のチェックが必要なこともあり、さすがに持って帰る必要があった。書類を横に区別したシンジに、ウィルヘルムは次の書類を差し出した。

「そして次が、退職金と年金の申請書だ。
 在籍期間は短いが、一応退職金と年金は出ることになっている。
 振込先を指定して、サインをして提出してくれたまえ。
 それなりの金額が出るようだから、貰っておいて損はないだろう」
「確かに、貰っておいて損はないでしょうね……」

 確認してみたら、確かに結構な金額が記載されていた。在籍期間を考えたら、破格と言っても差し支えないだろう。

「そして次が、功労金の振り込み先指定書だ。
 まあ手切れ金と言った方が正しいのかも知れないが……」
「手切れ金に違いないでしょうね。
 だったら潔く受け取れば、後腐れ無いってことですね」

 しかも手切れ金と言うだけはあり、こちらはかなりの金額となっていた。もともと期待していなかったこともあり、シンジは素直に喜んでいた。そんなシンジに、ウィルヘルムは吐き掛けたため息を飲み込んだ。そして意外にまじめな顔で、これからの進路をシンジに尋ねた。

「退役申請を出した以上、これから先のあてはあると思っているのだが?」
「あて、ですか?
 とりあえず日本に帰って高校生をしようと思っているんですけど?
 エヴァに関わってからこの方、普通の生活を送ったことがないんですよ。
 だから生まれた国に帰って、同年代の仲間とバカをしようかなと思っているんです」
「君ならば、今更ハイスクールに行くこともないだろう」

 2年間預かったお陰で、シンジの優秀さは承知していた。日本の教育水準は分からないが、ドイツならば十分に大学卒業のレベルを超えていたのだ。だからハイスクールという言葉に疑問を感じたのだが、問題はそこにはないのだとシンジは釈明した。

「今のままだと日本では中卒扱いですからね。
 将来何をするにしても、学歴をつけておくに越したことはないんです。
 そう言う所長だって、パリ大出身なんでしょう?」

 自分の学歴を引き合いに出されれば、それ以上ウィルヘルムは何も言うことは出来ない。そうかと引き下がり、この後の予定をシンジに尋ねた。

「日本に帰るまで、ここの施設を継続して使用することも出来るが?」

 そうするかと言うウィルヘルムに、遠慮するとシンジは笑った。

「僕はもう立派な部外者ですからね。
 とりあえずのお金には困りませんから、観光してから帰ることにしますよ。
 足の方は、とりあえずバイクを持っていますからね」
「そう言う楽しみは、若さの特権なのだろうな……
 なにか、こんな言い方をすると自分が年寄りになった気がするよ……」

 悪いと謝ったウィルヘルムに、別に構いませんとシンジは笑った。

「窮屈な世界に生きてきましたから、ちょっと無茶をしてみようと思っただけです。
 日本に戻ったら、たぶんまじめな学生に後戻りすると思いますよ」
「まじめな学生、後戻り?」

 はてとしっかりと首を傾げたウィルヘルムに、シンジは初めて口元を引きつらせた。自分としてはおかしなことを言ったつもりもなく、確認されるようなことではないと思っていた。だが大まじめに聞き返されると、どこかに誤解があるとしか思えない。だからシンジは、それはないだろうと抗弁した。

「少なくとも、僕はまじめにパイロットをしてきましたよ。
 必要なこと、感じたことを包み隠さず報告したつもりでもいます。
 しごきっぽい訓練も、ちゃんとさぼらず取り組んだはずです。
 異性関係にしても、清潔なおつきあいを心がけてきたつもりですよ」

 疑問に思われることはないと主張するシンジに、そうだったかっとウィルヘルムは頭を掻いた。そして考え直してみると、確かにシンジの主張が正しいことに思い当たった。唯一オートバイを除けば、基地内では模範的な優等生だった。ただ“必要な”と言う報告が、色々なところで軋轢を生んだだけだった。

「記憶を掘り起こしてみると、確かに君はまじめにパイロットをしていたな。
 周りの態度のせいで、どうもおかしな印象を持っていたようだ」
「仰有ることは理解できているつもりです……」

 ふっと小さく吐き出したシンジは、良かったですねと皮肉を言った。

「僕がいなくなることで、研究所内での摩擦が無くなりますね。
 所長もよけいな調整に気を遣わなくても済むんじゃありませんか?」
「それでも、元気の良すぎる奴らを相手にすることには変わりがない。
 しかも君を追い出したことで、彼らは益々調子に乗ることだろう」
「残念ながら、僕はそこまで責任を持てませんよ」

 それではと頭を下げたシンジに、聞いても良いかとウィルヘルムは声を掛けた。その珍しい物言いに、シンジは口元を歪め「どうしたんですか?」と尋ね返した。

「なに、プライベートに関わることへの質問だからな。
 退役した君には、答える義務が無いんだよ」
「それでどんなことなんですか?」
「君の身元引受人となる帆掛氏のことだ。
 一体どんな関係なのかと思っただけだよ」
「ああ、そのことですか」

 頷いたシンジは、「自分もよく分からない」と答えを返した。

「そんな不思議そうな目で見ないで下さい。
 受け取った手紙によると、母方の親戚らしですよ。
 祖父の依頼を受けたと書かれていたんですが、なんで今更出てくるんでしょうね?
 いずれにしても、会ったことのない人ばかりですから親戚と言われてもぴんと来ませんよ。
 身元引受人になってくれるって言うんだから、一応感謝はしていますけどね」
「危険なことはないのだろうな?」
「碇の家系を調べたら、一応親戚に帆掛と言うのがあるのは調べが付きました。
 だから、祖父の依頼というのは嘘ではないと思いますよ。
 ただそこから先、僕に何を期待しているのかは分かりませんけど……
 まっ、ここでそれなりに鍛えて貰いましたし、一人で生きていくだけのお金もありますから。
 いざとなったら、どこかに逃げ出すことにしますよ」

 だから心配していないと笑うシンジに、「そうか」としかウィルヘルムは返せなかった。この辺り昔のシンジを知る人間なら、その変化に大いに驚くところだろう。だが書類の上でしか昔を知らないため、そう言う物だとウィルヘルムはとうの昔に割り切っていた。

「日本に帰ってからの事情も一応理解できたよ。
 引き留めたりして悪かったね」
「別に、先を急いでいる訳じゃありませんから。
 それにこれで二度と会うこともないと思いますから、これぐらいは別に良いでしょう」
「二度と会うことはない……か。
 確かに、君がニーヴァに関わらない限りそうなのだろうな」
「僕が関わらないじゃなくて、僕を関わらせようとは思わない……そう言う人が大勢いますよ。
 だから所長とも、これでお別れと言うことです」

 そうだなと口元を歪め、ウィルヘルムは右手を差し出した。これで刺激的だった2年間の生活に、一応のピリオドが打たれることになる。その後を考えると気が重いところもあるが、それはこの少年のせいではないのだろう。
 差し出された右手を握りしめたシンジは、「お元気で」と笑みをウィルヘルムに返した。その素直な笑みに、なるほど人気が出るはずだとウィルヘルムは感心した。だからよけいに反発を買うことになったのだろうと。



 シンジを追い出すことは、研究者とそれに従うパイロット達にとって勝利に違いなかった。それもあって、シンジが退役することは本人よりも先に、彼らには伝わっていた。自分たちの勝利に快哉を叫ぶ者がいた一方で、一部のパイロット達はシンジとの別れを惜しんでいた。競争相手と言う立場を離れれば、シンジというのはつきあいの良い、そして面倒見の良い先輩だったのだ。それもあって、シンジが部屋を出たとたん、10名ほどのパイロット達に取り囲まれることになった。
 10名というのは、なかなか危険な人数と言えるだろう。だがシンジは、少しも緊張を見せず、「見送りありがとう」と笑って見せた。この辺り、相手に殺気だったところが無いのが分かっていたからでもある。

 そしてシンジの感謝を受けたパイロット達、彼らを代表してシンジより少し背の低い少年が前に進み出た。ただその少年にしても平均以上に背が高いのだが、それよりもシンジの方が高かったと言うだけである。
 パイロット達を代表したリチャード・エルリマートは、右手を差し出してシンジに握手を求めた。

「一応二年間一緒に頑張ってきた仲間の出発だ。
 見送りに来るのが礼儀ってものだろう?」
「僕は、二年間目の敵にされていたような気がするんだが……気のせいかな?」
「ああ、間違いなくそれは気のせいだな。
 俺たちは、お前を目標に訓練に励んできたんだ。
 多少きついところがあったのは、それが理由だと思ってくれ」
「僕は、目標にされるほどのパイロットじゃなかったよ」

 「ありがとう」と手を握ったシンジに、リチャードは「別の方面でなら目の敵にしたさ」と口元を歪めた。

「別の方面?」
「ああ、これでお前はシャルロット争奪戦の当事者だったからな。
 頭一つ抜け出していたから、邪魔としか言い様がなかったんだぞ。
 だがこれで、お前は完全に脱落したことになる。
 なあに、彼女のことなら心配しなくても良いぞ。
 この俺が、シャルロットを守ってやるからな」
「ああ、そう言うことか……」

 上辺しか見ていないんだなと、シャルロットの猫かぶりの巧妙さに感心したシンジは、「だったら任せる」と肩をすくめて見せた。本当にリチャードに引き受けることの出来る相手か、出来たらいいなあ程度の思いの言葉だった。

「僕は、日本でガールフレンドを見つけることにするよ。
 おしとやかで家庭的な子を探すから、その時は悔しがるなよ」
「それはそれで、羨ましい気もするが……」

 おかしな先入観からか、欧米では日本女子に対する人気が高くなっている。昔ならば大和撫子……辺りなのだろうが、今はアニメが理由になっているらしいのだ。いずれにしても、リチャードは本気で羨ましがっているようだ。シンジにしてみれば、シャルロット命はどうなったのだと言うところだろう。吹き出し笑いをしたシンジに、リチャードは気まずげに咳払いをして誤魔化した。

「まあ、ここのことを心配する必要はない!
 俺たちチームが、世界の平和を守ってやるからな!」
「だったら僕は枕を高くして眠ることが出来そうだね」

 後は頼むと、今度はシンジが握手を求めた。そして見送りに来た一人一人と握手しながら、彼らに励ましの言葉を掛けていったのである。その中で二人ほど混じっていた女子パイロットは、シンジの手を握りながら嗚咽を漏らしていた。ここで泣かれる心当たりがないシンジは、きっと別れという雰囲気に酔っているのだろうと考えることにした。

「じゃあ、これでお別れだね。
 居なくなる前に先輩らしいことを一つするとしたら……
 そうだな、危ないと思ったときに逃げることは恥ずかしいことじゃない。
 その判断が、君たちパイロットに求められることだと言い残すことかな?」
「なに、蛮勇と勇気の違いぐらいは理解しているさ」

 リチャードの答えに、そうだねとシンジは小さく笑って見せた。本当の意味は違うのだが、それを彼らに言うことは適当ではないのだろう。

「だったら、これはよけいな忠告だったかな?」
「まあ、改めて思い出させてくれたという意味では価値があったことにしておこう」
「たぶん、上からは睨まれる話しなんだろうけどね」

 じゃあと言って、シンジは全員に手を振った。その内心を覗けば、かなりの心苦しさを感じていたりする。勝ち誇って「ざまあみろ」と言ってくれたなら、未来に訪れるかも知れない事件に気を病まなくてもすんだのだ。仲間として見送られると、どうしても見捨てた気持ちになってしまう。
 だが今更後悔しても、もはやシンジに出来ることは何もない。少しだけ楽観的な考えをするなら、すでに必要な忠告は行ったと言うことだ。うまく行けば、ティーゲル式の欠陥も誰かが解決してくれるかも知れない。それぐらいの技術は集積されているはずだ、そう思いたかった。そしてアンノウンの変化についても、出たとこ勝負なのはこれからも変わることはないのだ。そう心に折り合いをつけたシンジは、彼らと別れて書類作成のため自室に戻った。一応借用物は返しておかなければいけないのだ。

 30分で整理を終わらせたシンジは、その足で通用ゲートへ向かった。ゲートまでの道すがらは、パイロット達と別れたときのような心苦しさを感じることはなかった。わざわざ勝ち誇りに来てくれたのか、ティーゲル式の推進者まで現れてくれたのだ。こちらの方は、期待通りの態度をしてくれたから、「良かったですね」と皮肉を言うことも出来た。おかしななことに、彼らの見送りの方が心穏やかに受け取ることができたのである。

 おかげで気分が楽になったシンジは、通用ゲートで顔なじみの整備士に声を掛けた。よろず研究所で使用している機材の整備を引き受けているこの男は、シンジにとって良きパートナーとなっていた。何しろ彼が命を預ける愛車……兵器ではなく趣味の世界で使っているオートバイの整備を、嫌な顔どころか喜んで引き受けてくれていた。研究所にいる間、唯一品行方正でない行いへの共犯者でもあったのだ。

「ワッツさん、僕のドカ、出しておいてくれましたか?」

 シンジの顔を見つけた男は、にやりと親指を立てて見せた。そして自分の後ろにあるシートをかぶった物体を指さし、整備なら万全だと胸を張った。

「こいつを整備するのもこれで最後だからな、腕によりを掛けて万全の状態に仕上げたさ。
 ガソリンも満タンにしておいたから、気兼ねなく飛ばすこともできる。
 ただフルスロットでかっ飛ぼう物なら、100kmも行かないうちにガス欠になっちまうだろうな」
「100kmって……近くの街までたどり着けないなぁ……
 まあおとなしくツーリングするつもりですから、そんなことにはならないと思いますけど」

 にこにこと笑ったシンジは、ワッツの後ろに回り愛車を包んでいたシートに手を掛けた。そしていささか乱暴に、塩ビで出来たシートを引きはがした。ふわりと引きはがされたシートの中からは、深紅にカラーリングされた大型バイクが現れた。レーサーよりは鈍重だが、ツーリングタイプよりは身軽なそれは、大きな力を身のうちに秘めていた。まあ外観を見ても、いかにも速そうなバイクだった。

「だったら、挑戦されても受けるなよ」
「今日はスーツの色を変えていきますから、別人だと見逃してくれるんじゃないですか?
 それに、ゆっくりと街中をツーリングするつもりですから、挑んでくる物好きもいないと思いますよ」
「だと良いんだがな。
 お前さんに勝って名を挙げようって奴はごまんといるんだ。
 勝負しないならしないで、逃げたって吹聴されることになるぞ」
「ワッツさん、挑戦を受けるなって忠告してくれたんじゃないんですか?」

 どう聞いても、勝負をあおっているようにしか聞こえない。言っていることが微妙に違うと肩を落としたシンジに、それはそれとワッツは笑い飛ばした。

「大人として必要な助言は与えたさ。
 だが同じバイク乗りとしては、お前さん最後の走りを見たいんだよ」
「そんな大した走りをしているつもりはないんですけどね……
 ほら、僕の場合は怖い物知らずでただ突っ込んでいくだけですから」

 だからたまたまと笑うシンジに、何がたまたまだと逆にワッツが言い返した。

「プロをぶち抜く奴が、ただ単なる怖い物知らずってはずがないだろう。
 それにこいつに変えてから、一度もこけていないじゃないか。
 おまえは、そんだけたいした腕をしているんだよ。
 なあシンジ、お前はレースの道に行った方が良いんじゃないのか?
 なんだったら、知り合いのチームを紹介してやるぞ。
 お前だったら、すぐに富も名誉も手に入れることが出来るんじゃないのか」
「だから、僕の場合はバイクの性能と運のお陰で速いだけですよ。
 イコールコンディションで戦ったら、すぐに馬脚を現すことになりますから」

 勘弁してと両手をあわせたシンジは、持っていた荷物からライダースーツを引っ張り出した。普段は赤と紫を基調にしたスーツを好んでいたシンジだったが、今日は言葉の通りがらりと変わったカラーを選んでいた。白を基調にしていることもあり、確かに格好だけを見れば別人に見えることだろう。

「なんだ、ジャパニーズの特攻服か?」
「なんで、僕がそんな者を着なくちゃいけないんですか?
 それ以前に、特攻なんて言われても意味が分かりませんよ」

 全くと不満を言いながら、シンジはガレージの隅でレーシングスーツに着替えた。正確な年齢は知らないが、ワッツはせいぜい50過ぎのはずだ。だとしたら、第二次大戦を経験していないはずなのである。一体どこで「特攻服」などという知識を仕入れてきたのだろうか。解けない疑問を感じてはいたが、今更大した問題ではないと思い直した。
 着替えた服をデイバッグに詰め込み、シンジは最後になる愛車のハンドルを握った。集中力を鍛えるのに役に立つと勧められて始めたバイクも、そのうち趣味で乗るようになっていた。その愛車も、ワッツを初めとした整備員達が改造しまくったお陰で、日本に持って帰れない代物になってしまった。別に機密が詰め込まれているわけではないが、法律という奴が許してくれないはずだ。

 スタータースイッチを押すと、少し甲高いセル音に続き、野太いエキゾーストがマフラーから響いてきた。その濁りのない音に頬を緩めたシンジは、「さよなら」とワッツに別れを告げフルフェースのヘルメットをかぶった。これも普段の赤とは違い、今日は濃いブルーを選んでいた。

「おおっ、事故るんじゃないぞ!」
「安全第一、ゆっくり楽しくツーリングしますよ!」

 親指を立てて合図したシンジは、言葉の通りそろそろと愛車を発進させた。そしてすぐに加速し、法定速度より少し速い巡航速度へと移行した。

「本当に綺麗な乗り方をしやがるな……」

 後ろ姿が見えなくなるまで見送ったワッツは、これで退屈になると小さく鼻を鳴らしたのだった。



 通用ゲートを出ておよそ5km走ると、研究所最後のゲートを通ることになる。ドイツの南部、山岳地を利用した広大な空きエリアに作られた基地は、近隣の街から遠く離れていた。このゲートを出ておよそ150km走らないと、隣町に着かないと言うのがそれを現している。
 すでに連絡が通っていることもあり、すんなりとシンジの退出は認められた。ただ認められたのは手続きの問題だけで、ここでもシンジは警備員に呼び止められることになった。

 50過ぎのはげ上がった頭をした警備員は、「寂しくなる」とシンジに言った。そして詰め所からパイプ椅子を持ち出すと、よっこらしょとシンジの隣に置いた。その様子を見る限り、すぐには解放してくれないようだ。シンジにしてみれば面倒でもあるし、仕事は良いのかと突っ込みたくもあった。だがはげ上がった頭をした男、ハルトマンはどっかりと椅子に腰を掛け、折れ曲がったタバコに火をつけた。ジボっと言うライターの音が、のどかな山間に響いてくれた。
 大切そうにタバコに火をつけたハルトマンは、まずは一服と大きく吸い込んだ。急に酸素を与えられ、タバコの火は赤々と輝きを増した。だがそれもわずかな煌めきで、ハルトマンが吸い口から口を離すまでの出来事だった。肺深くまで煙を吸い込んだハルトマンは、ゆっくりと味わうように煙を吐き出した。それを3度ゆっくりと繰り返してから、ようやく本題を切り出した。

「おいシンジ、本当におまえはヤパンに帰るのか?」

 ここに来るまでに、何度同じことを聞かれただろうか。お陰で答えをすらすらと返せるようになってしまった。シンジはわざとらしく肩をすくめると、これまでと全く変わらない答えを返したのだった。

「もうここでは用済みになりましたからね。
 だから行く当てのない僕は、生まれ故郷に帰ることにしたんですよ」
「そうか、お前がいなくなると無茶する奴がいなくなって寂しいんだがなぁ」

 寂しいというのは正当な言葉なのだろうが、その前に付いてきた「無茶」という言葉が気に掛かった。その言われ方に顔を少し引きつらせたシンジは、それはないだろうと文句を言った。

「僕は、言われるような無茶をした覚えはありませんよ!」
「そうは言うが、俺は何度も警察に門前払いを食らわしたんだぞ。
 そいつらは決まって、「赤いバイクが逃げ込んだはずだ!」と言ってくれる。
 これまでに、俺が何度白を切ったのか教えて欲しいのか?」
「え、えーと、たまにはそう言うこともあったかなぁ……」

 事実を突きつけられれば、さすがに否定することはできないだろう。もっとも本人は逃げ込んだという意識はない。ただ普段通りに走って、飽きたから帰ってきたに過ぎなかった。ただ後ろの方がうるさいということだけは知っていた。
 そうだっけ? と頭を掻いたシンジに、警備員は「しょっちゅうだ!」と笑いながら胸元を指で突いた。

「ちなみにお前は、ここを出たとたんハイパト達の出迎えを受けることになる。
 まあスピード違反は現行犯以外捕まえられないから、遵法運転すれば掴まることはないがな」
「なんで警察の出迎えを受けなくちゃいけないんですか……」

 指名手配犯ですかと肩を落としたシンジに、似たような物だとハルトマンは笑った。

「それだけあいつらに悔しい思いをさせたと言うことだ。
 これであいつらの悔しがる顔が見られないと思うととても残念な気がするよ。
 中央から精鋭を呼び寄せても駄目だったとさんざん零されたからな」
「信じてもらえないかも知れませんけど、飛ばすのはあまり趣味じゃないんですけどね……
 でもそこかしこで突っかかられるから、成り行き上受けざるを得なくなったというか……」
「最初に突っかかられるような真似をしたのが誰かというのが問題なんだよ」
「それも、僕からじゃない……って言っても信じてもらえませんよね」
「そんな目立つ格好をして、目立つバイクに乗っているから悪いんだよ。
 しかもちょっかいをかけた奴らを纏めてぶち抜くからよけいに質が悪いんだ」

 そう言って笑ったハルトマンは、本当に寂しくなると嘆いて見せた。

「シンジ、お前、ドイツに残らないか?
 そうすれば、警察に追いかけられても俺が匿ってやるぞ」
「警察に追いかけられるって……どうしてそんなことのためにドイツに残るんだよ。
 そもそもハルトマンの楽しみのために残る真似はしませんよ」
「そうだな、シャルロットの嬢ちゃんに言い寄られても落ちなかったんだからな……
 おっさんが誘ったところで、理由になるとは思えないなぁ」

 そう言って笑ったワッツは、何かを思い出したように「そうそう」と手を叩いた。

「そのシャルロット嬢ちゃんだが、昨晩でかいバスが迎えに来ていたぞ。
 シンジ、お前どこに行ったのか聞いていないか?」
「聞いていないかって……別に、僕はシャルの保護者じゃないんだけどなぁ……」

 それでもまじめに考えたシンジだったが、やはり思い当たることはなかった。

「外出する前に会ったけど、シャルは別に何も言っていなかったよ」
「そうか、だったらすぐに帰ってくるのかな?
 あの嬢ちゃんまでいなくなると、この研究所は本当につまらない所になっちまう」
「だから、僕たちはハルトマンの楽しみのためにここにいたわけじゃないんだからね」

 シンジの抗議に、それぐらいのことは分かっているとハルトマンは笑った。

「そうは言うが、こちとらしがない門番なんだ。
 お前達がいざこざを持ち込まない限り、毎日が退屈極まりないと来ている。
 だいたいこんなに田舎にあったら、守衛なんて奴が必要だとは思えない。
 それにそのつもりで来られたら、この程度の装備じゃ守りきることも出来ないんだぞ。
 検問や守衛と言っているが、こんな物は飾りに過ぎないんだよ。
 だから退屈な毎日を過ごすためにも、お前のような問題を持ち込む奴はありがたかったんだ」
「だからっ!」

 そう言って抗議しようとしたシンジだったが、いくら言っても無駄だと諦め肩を落とした。そして暇のつぶし方を考えた方が良いとまじめに忠告した。

「そのシャルにしても、いつまでもここにいる保証はないからね。
 だからハルトマンも、僕たちに関係のない暇つぶしを考えた方が良いよ」
「なんだシンジ、ようやく年貢を納める覚悟が付いたのか?
 この俺の保証じゃ意味がないかも知れないが、あの子は賢くて良い子だぞ。
 だから俺は、お前が良い覚悟をしたと誉めてやることにする!!」
「……なんで、そんな話しになるんだよ」

 明らかに曲解していることに文句を言ったが、ハルトマンはそれはそれと笑い飛ばしてくれた。

「なに、お前も十七になったんだなぁと思ったんだ。
 いいか、これからの人生いい女は捕まえられるときに捕まえておくもんだ。
 シャルロット嬢ちゃんのような上玉は、そうそう巡り会えるもんじゃないだろう!
 こう言ったことは、早い遅いってのは関係ないんだよ。
 こんな俺だってな、今のかみさんと知り合ったのはハイスクールの頃なんだぞ」
「だから、僕たちはそんな関係じゃなかったんだってば」

 話しが飛躍しすぎていると嘆いたシンジに、外野はそう言うことで盛り上がる物だとハルトマンは言い返した。そしてそう噂されるだけ、シンジ達が目立っていたのだと言ってくれた。

「どうも他の奴らは小粒でなぁ。
 余裕がないって言うか、お子様って言うか……」
「僕だって、まだ17の子供ですよ。
 だから国に帰って、ちゃんとハイスクールに通うんだから」
「なんか、お前がハイスクールに通うってのが信じられないんだよなぁ……」

 しみじみと言われると、自分が老けたように思えるから不思議だ。「だから」と文句を言おうとしたシンジに、すぐに「悪い悪い」とハルトマンは謝った。

「お前がいなくなると聞いて、つい寂しくなっちまってなぁ。
 ついついよけいな愚痴を聞かせてしまったんだよ。
 せっかく籠の中から飛び出せるってのに、引き留めちまって悪かったな」
「別に、先を急いでいる訳じゃないから構わないけどね……」
「だからといって、こんな所で無駄な時間を使うこともないだろう。
 ちょうどお迎えが来たところだから、俺はこれぐらいで我慢しておくよ。
 じゃあなシンジ、ヤパンに帰っても元気でな」

 本当に別れを惜しんでくれているのが分かるだけに、ちょっとシンジも胸にじんと来ていたりする。ただ残念なのは、それだけで済ませられない不穏当な言葉が含まれていたことだった。「お迎え」と言われても、そんなものに心当たりがなかったのだ。

「なんだよ、そのお迎えって……」
「言っただろう、ハイパト連中が待ちかまえているって。
 もう良いぞって連絡がたった今入ったんだよ。
 これから街に出るまでの道に、一個中隊が配備されたってことだよ」
「……僕を売ったのか?」
「引き留めておいてくれと頼まれたんだよ。
 まあシンジ、あいつ等だって寂しいって気持ちがあるんだ。
 それにあいつ等も、善良な市民を守る義務があるんだ。
 お前が無事にここを出られるよう、しっかりと伴走してくれるんだよ」
「警察が伴走するって……」

 その光景を想像すると、どう考えても良い物ではない。街に出るまでの間、目立ってしまうことこの上ないだろう。

「勘弁して欲しいんだけどね……」
「お前をつけ狙っている奴が大勢いるってことだ。
 よけいなバトルが起こらないように、用心する必要があるんだよ」

 そう言うことだとハルトマンは、ゲートの向こうに続く道を指さした。そこには彼の言葉の通り、沢山のオートバイが並んでいた。ざっと見て20は下らないだろうか、この先にも配置されているとなれば、他の業務は良いのかと聞いてみたくもなる。

「すごいなシンジ、まるでどこかの大統領が来たときのようだ」
「僕は、なんの肩書きもない一高校生なんだけどなぁ……」

 勘弁して欲しいと泣き言を言っても、集まった警官達は解散してくれるはずがない。それどころか、早く来いとアクセルを煽ってくれる始末だ。この様子だと、先導から伴走までと至れり尽くせりの対応をしてくれるだろう。

「アウフ・ヴィーダゼン!
 シンジ、また逢えると良いなぁ!」
「ばいばいハルトマン、たぶんそんなことはないと思っているよ」

 行かないわけには行かないよなぁ……シンジはバイクが急に重くなったような気がしていた。もちろん気のせいに違いないのだが、そう感じたとしても仕方のない程仰々しい集団が待ちかまえていたのである。

「さて……行くか」

 深すぎるため息を一つ吐き、シンジはそろりと愛車を発進させたのだった。







続く

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