─それで三代目を継がれたのは。
昭和36年、長男でしたしこれは「天命」だと思って。しかし当時は得意先がほとんどなし。トラックに海苔を満載して二泊三日、関東一円を廻って販路開拓を一からやりました。当時はスーパーが出来始めた頃で、暮は大晦日の夜遅くまで店頭で必死に売りましたね。そうやって少しずつ認められて、卸売りのルートが確立していきました。
─神田のお店の方はいかがでした。
もちろん地元の昔からのお客様も大事。九州有明産の一番摘みの本当に美味しい海苔を厳しく選んで仕入れてます。これはクチコミですね。作家の川口松太郎さんは「うちのじゃなきゃ駄目」と。そういうファンはけっこういらっしゃいますね。そのファンと母はお店で仲良く接しておりました、引退した今でも母を慕って遠方から声が掛かるほどです。煎茶も各地のいいものだけを置くようになりました。
─コンビニのおにぎりが大きな転機になったとか。
今でも鮮明に覚えています。昭和63年、ある包装メーカーの方との出会いです。閃くものがあった。これはいけると。失敗の量も半端じゃなかったけど意に介さない。大手コンビニがまず商談に乗ってくれた。現在の包装方式です。一日十数万食の海苔の消費量は相当なもの。今や問屋ルートの柱になっています。
─最後にこれからのことを少し。
私の息子が専務で四代目。水戸にある工場をまかせてある。食品の安全ということを当たり前のこととして受け止めています。この商売では大切なこと。それと中国や韓国産を扱って、全世界に海苔を売るのが夢。次代のためのルートづくりを、いまやっているところです。 |