★石井紘基代議士殺害事件★
「公安三課と連絡を取りたい」
平成14(2002)10月26日午前6時45分、東京・霞が関の警視庁正面玄関に現れた男は、憔悴しきった様子で、こう願い出た。
男は前日の25日、民主党の衆院議員、石井紘基氏を刺殺した右翼団体「守皇塾」代表、伊藤白水だった。
25日の午前10時35分ごろ、石井氏は東京都世田谷区代沢の自宅前で男に刃物で刺されて死亡した。
男は現場から徒歩で逃走。
警視庁では殺人事件を担当する刑事部捜査一課と公安三課が殺人事件として北沢警察署に捜査本部を設置し、捜査に乗り出していた。
公安は「左翼」だけを目の敵にしているわけではない。
本章で扱う公安三課は民族主義・国家主義の思想を持つ民族派、いわゆる「右翼」の取り締まりを主に担当している。
かつて昭和35(1960)年10月12日には、右翼団体「大日本愛国党」の元党員、山口二矢(おとや)が東京・日比谷公会堂で演説中の日本社会党委員長、浅沼稲次郎を視察し、現行犯逮捕された。
山口は当時17歳で、事件の1ヵ月前に愛国党を離党していた。
公安三課は右翼団体や右翼的な思想を持つ団体の事務所に出入りしたり、監視(視察)したりしながら、「政治テロ」を企てる山口二矢のような人間がいないかどうかの情報を収集し、事件を未然に防いだり、情報に基づき事件の早期解決に役立てている。
平成に入ってからも、4(1992)年3月に栃木県足利市で自民党の故・金丸信元副総裁が講演中、右翼団体構成員に銃撃されたほか、平成6年5月には細川細川 護熙元首相が東京都新宿区の京王プラザホテルのロビーで、自称右翼団体構成員から拳銃で威嚇発砲を受けるなど、右翼が政治家を標的にするテロは少なくない。
石井氏が刺殺された段階で、刺した男が伊藤と判明していたわけではないが、政治家が被害者だった上に、石井氏が右翼関係者とのトラブルを抱えていたとの情報があったため、事件直後から公安三課が捜査一課に合流していたのである。
★注目の論客★
犯行時、伊藤はグレーのジャンパー姿で頭にバンダナを巻いており、無言のまま石井氏に近づいて左胸を刃渡り約30cmの柳刃包丁で刺した。
現場近くに包丁を捨て、そのまま京王井の頭線池ノ上駅方向に逃走していた。
この朝は、公用車の運転手が石井氏を迎えに来ており、自宅から出た直後に襲われたのである。
運転手が「石井さんが刺された」と100番通報した。
石井氏は心肺停止状態で東京都目黒区内の病院に運びこまれ、午後12時5分、失血死した。
左胸には横に約3cmの刺し傷があり、下あごにも約5cmの切り傷があったという。
石井氏の自宅周辺では不審者が度々目撃されていた。
なぜ彼は狙われたのか。
石井氏は東京6区選出で、衆院当選3回。
世田谷区出身で中央大学法学部を卒業後、早稲田大学院を中退し、モスクワ大学大学院を修了した。
東海大学の講師や元参院議長の江田五月氏の秘書などを経て、平成5年の衆院選で日本新党から初出馬し初当選している。
その後は自由連合や新党さきがけなどを経て民主党に参加。
総務政務次官や衆院決算行政監視委員会理事、衆院災害対策特別委員長を歴任した。
民主党屈指の論客として知られ、行政改革や構造改革などをテーマに国会で質問することが多く、政官業の癒着や税金の無駄遣いの追及に力を注いでいた。
また守備範囲は広く、平成12年12月に公開された深作欣二監督の映画「バトル・ロワイアル」が、無人島に拉致された中学生たちが最後の1人になるまで殺し合うという内容だったことから、
「残虐シーンを次々に(子供に)見せていいのか」と衆院文教委員会で自民党の大島理森文部大臣(当時)を追求している。
日本道路公団の改革論議をめぐり、平成14年4月の衆院内閣委員会では、皮肉を込めて「(改革を検討する民営化推進委員会に)道路公団OBを入れる考えはないのか」と質問してもいた。
それだけに事件当初は、石井氏の発言に触発されたり、発言を封じ込めたりしようとした「言論テロ」の疑いも持たれていたのである。
★語られた動機★
出頭時、伊藤白水は事件当時に着ていたジャンパーを既に捨てており、新たに買った黄色いジャンパーに着替えていた。
白髪交じりの頭髪は短く刈られ、犯行時に頭に巻いていた紺色のバンダナは、ズボンのポケットに突っ込まれたままだった。
伊藤は犯行8日前の10月17日に東京都世田谷区のアパートを強制退去させられており、都内の公園や簡易旅館を転々としていた。
犯行当日は石井氏宅の近くまでバイクで乗りつけ、犯行後は池ノ上駅にバイクを置いて東京都八王子市の高尾山に逃走していた。
高尾山に行ったのは「心の整理のため」だったという。
都心に舞い戻ると、再びバイクに乗り、喫茶店やコンビニに立ち寄り、「新聞を買って読んで、『右翼』というのは俺のことだと思い、清算しなければと考えた」
公園で夜明けを迎え、バイクを世田谷区内の駐車場に置いてから、警視庁に向かったのであった。
伊藤は出頭直後、「石井の政治姿勢がおかしくなっている」と主張していたが、次第に「車代や転居費用などの要求を断られたことが動機だった」と語り始めたのである。
「(石井氏との間で)考え方や感情のもつれがあった」とした上で「政治家に対する不信感もある」とも供述したという。
石井氏の事務所関係者の証言から、伊藤が困窮して石井事務所でしばしば金を無心していたことも明らかになった。
伊藤は1980年代初めまでは暴力団組員だったが、昭和60(1985)年に右翼団体に加入している。半年で脱会したものの、同年7月に自ら守皇塾を結成。
本人以外の構成員はいなかったが、自ら「塾長」と名乗っていたのだ。
昭和63年には、登山ナイフを持って東京・代々木の日本共産党本部を訪れ、銃刀法違反容疑で逮捕されたこともあった。
世田谷区のアパート家賃滞納は、3年間で約200万円にのぼっていた。
アパートでは近所の子供の泣き声に「うるさい」と怒鳴り、一晩中中壁をたたくなどトラブルも絶えなかったといい、強制退去は大家から立ち退きを求められて裁判所の強制執行を受けたものだった。
伊藤は平成4(1992)年11月ごろ、石井氏初出馬するとの情報を得た際、「(弁が立つ)有望な政治家で利用価値が高い」と考え、事務所を訪ねて度々接触するようになったのである。
「私みたいな人間には車代を貸すもんだ」などと言い、車代や金銭をせびり、書籍や日本酒を定価より高い値段で繰り返し買い取らせていた。
そのうち、伊藤は自分の政治的な見解が石井氏にとって有益で、申請されていると勝手に思い込むようになる。
時には週に1度のペースで石井氏の地元事務所を訪れ、事務所側に断られると、東京・永田町の議員会館に直接、石井氏を訪ねることもあり、「金に困ると来るという感じだった」(事務所関係者)とされる。
事務所のスタッフは石井氏から「怖いから、お茶を出して帰ってもらえ」などと指示されていたのだ。
こうして面談を断られるようになると、伊藤は憤懣を募らせ、事件を起こす3ヶ月前の平成14年7月には石井氏宅への放火を計画したという。
一時は、石井氏宅付近の駐車場にガソリンを隠していたのである。
同年9月、アパートの退去を余儀なくされると、「引っ越し先を何とかしてもらえないか」と石井氏に転居費用の負担や転居先の世話を要求した。
これを拒否されたため、「議員として育ててやったのに、ぞんざいに扱われた」「恩義を忘れた不遜極まる態度だ」などと一方的に思い込み、金銭的にも利用価値がなくなったと感じて殺害に実行したのである。
犯人自ら「公安3課」を指名した事件だったが、政治テロではなく金銭トラブルをめぐる怨恨とわかり、捜査は終結したのだ。
今後の西村斉さん、荒巻さんには難局が予想されますので、日本国民の皆様のご支援が必要です。
どうかご協力くださいますよう、宜しくお願い申し上げます。
在特会とは一切関係のない口座ですので安心してお振り込みくださいませ。↓
ゆうちょ銀行 店番418
記号14150 番号82207731
店名 四一八(ヨンイチハチ)
口座名 国士を支える会
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