特別編 わかったような気になる麻原彰晃とオウム真理教の歩み
麻原彰晃とオウム真理教の歩みを振り返ってみようと思って、あちこちから文章をつなげ合わせて作った駄文です。特に新しい事やすぐれた考察が書いてあるわけではありません。わかったような気にはなっても、わかることを保証するものではありません。
麻原彰晃の生い立ちと教団誕生 1984〜1987年
麻原彰晃こと本名松本智津夫は1955年(昭和30年)3月2日、熊本県の畳職人の家に7人兄弟のうちの4男として生まれた。先天性緑内障により左目は視力がなく右目は見えたが視野狭窄の恐れがあったという(もっとも95年の逮捕後も右目は見えていたようだが・・・・・)。小学校入学時は普通学級にいたが、生活に困窮していたため、家族により就学補助金目当てで1年もせずに全寮制の熊本県立盲学校に転校させられた。このことに対して後年何かと「親に捨てられた」と語っている
視力のある智津夫は、健常者の世界からも、視覚障害者の世界からもある意味で孤立していた。『8マン』などが好きで、自ら光源氏の劇の脚本を書いて主演した。夢について、総理大臣になることや、たくさん金を儲けてロボット帝国をつくりたいと言っていた。もともと権力欲が強く、幾度も生徒会会長のようなものに立候補するが、日ごろの振る舞いのためかその度に落選していた。ある時、お菓子で同級生を買収したが、落選したために「教師が自分の悪口を言った」と主張した。智津夫は激しやすく、柔道二段であったため、ジャイアンのように盲学校の生徒達に君臨していた。その一方で、苦手な教師や親代わりである長兄には弱くでていたといわれる。
専攻科では鍼灸の免許を取って卒業、アルバイト先の鍼灸院では腕の良さが評判になったという。しかし鍼灸師では満足できず東大法学部を受験するため上京したが失敗。この間、長兄に雇われていた元従業員が智津夫の前で長兄を侮辱したため、激怒して傷害事件を起こした。また、暴力団のところに出入りしていたという。その後77年、代々木ゼミナールで石井知子と出会って受験から撤退した。付き合って数ヶ月で妊娠・結婚し、知子の親の援助で千葉の船橋に鍼灸院を開く。この後、漢方への興味があったのか鍼灸院をすぐに「亜細亜堂薬局」に替え、81年には「BMA薬局」を経営していた。しかし80年に670万の保険料の不正請求で20万の罰金刑、82年にはニセの漢方薬を売ったとして薬事法違反で逮捕されてしまった。
結婚前あたりからヨーガや宗教に徐々に傾倒していったが、まず中国の運命学を独学で学んだ後、仙道に行き着いた。「クンダリーニの覚醒」をここから取り入れ、さらにヨーガへ傾倒していったが、この過程で自らが「神秘体験」をしたのではないのだろうか。この後高橋信次、中村元や増谷文雄の著作を読み、81年から2年ほど亜含宗に入信している。カルマやハルマゲドン(世界最終戦争)、解脱といった、オウムの基本的な世界観はここで得たのだろう。83年、はじめて麻原彰晃と名乗った。84年、渋谷に教団の前身であるヨーガ道場「オウムの会」を創設した。石井久子、飯田エリ子らはこのころからいた。85年に空中浮揚の写真がオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』にとりあげられてから組織を拡大した。このころ、酒井勝軍の予言書に基づき、超能力と霊性を高めるヒヒイロカネという石を探しに行った。そして「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)を任ずる」との啓示を受け、「シャンバラ王国」を築くことを命じられたという。世紀末にハルマゲドンが起きて、自分達がそれを救う、そのために修行する、といったオウム真理教の方向性は、この時点ですでに明確になっていた。86年4月には「オウム神仙の会」に改称、同年7月に「ヒマラヤで最終解脱をした」と宣言した。翌87年2月にダライ・ラマに謁見、7月に宗教団体「オウム真理教」を設立した。
この年の1月、丹沢集中セミナーにおいて、「これ以上生きていても悪業しか積めない人間を殺して、魂を高い次元に転生させる」というポアが初めて語られた。誰をいつポアするかは最終解脱者しか決められない。
グルのコピー、グルとの合一 1987〜1988年
苦悩や煩悩を修行により解脱(=成就)し、解脱させ、輪廻を超えて絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナに至ることだった.。そのためにはグル(霊的指導者=麻原)の説く真理を実践することが大切だった。麻原は解脱の条件とされているクンダリーンニの覚醒を、弟子に対して自らのシャクティーパットによって安全かつ短期間に行った。信者次第では何時間もシャクティーパットを行ったという。しかし教団創設のころにはストップウォッチを新実智光に持たせたりして、時間制限を設けるようになった。これは麻原が悪いカルマを背負い過ぎたからである。また、ハルマゲドンの到来を予言していたので、全人類を救済するための科学技術と軍資金が必要だった。それを具体化したシャンバラ化計画のもとに、87年ごろ、強引な会社や土地の乗っ取り、全財産を投げ打つお布施や出家、シャクティーパットに替わってイニシエーションがシステム化していった。出家信者(サマナ)は、家族や友人との縁を切って、道場に寝泊りして信者同士で共同生活を送るということである。教団創設初期の時点ではすっかり階級(ステージ)が存在する強固な縦社会になってしまっていた。ヨーガ教室から宗教団体になる過程で離れた信者もいるが、それでも一連の事件に加担した幹部達は離れなかった。全てを捨てた出家、死よりも恐ろしい無間地獄や三悪趣に落ちる恐怖、修行での神秘体験の喜び、麻原に認められることが彼らをとどまらせたのだろう。オウムにおける観念崩し、後のマハームドラーは、煩悩ばかりか人間的な情や善悪の判断も全て捨てなければならず、さらに意思を捨ててグルのコピーになるぐらいの合一が求められており、それこそが真理の実践に他ならなかった。そうしたグルによる試練の中で、ポアも正当化されていった。
幹部達は、揃って「グルには逆らえなかった」と口にする。古参幹部で、後に坂本事件の実行犯で、遺体を埋めた場所の地図を警察に匿名で送って麻原から1000万を脅し取っていた岡崎一明ですら、「なぜグルに反駁しないのか」と聞く弁護人に対してこう答えている。
岡崎:グルが決めたことにどうして反発できますか。私達は出家している。一生、解脱・悟りを目指すため、衆生の魂を救うために出家しているのだから生殺与奪権は全て麻原にある。だから、グルが決めたことに対して反駁できないんです。崇高な知恵に対して、私達がものを言えるわけないじゃないですか
―それなら、あなた達は家族を殺すことを伝えられたとき、どういうふうに考えたのですか?
岡崎:そのときはどうして家族まで、子供までという気持ちはありました。しかし、グルが言うのだからグルの意思を実行するしかない、と思った。そこで躓くのは人間界への執着があるからだ、と
―かわいそうだという気持ちはなかったのですか?
岡崎:あったが、そう思うこと自体、グルの意思を逸脱する。指示を実行しなくてはいけない、と
―かわいそうだとか、楽しいとか、そういう当たり前の感情を生起することは、あなた達にとっては悪なんですか
岡崎:そうですね、悪というより、未熟。克服できていないという意味で未熟だと
―かわいそうだと思ったら未熟だと、あなたたちは恥じるんですか
岡崎:それは言えます
最初のポア 1989年
1988年9月22日、富士山総本部を作り、順調に教団が拡大していた中、修行中に信者が死亡してしまった(真島事件)。蘇生に失敗した麻原は「天界にポアした」と言った。東京都から宗教法人として認可を得たいと思っていたが、この事故がばれたら認可取り消しになるのではないか・・・・・・そんなことを考えたのだろう。警察等に連絡しないことにして岡アらに命じ、ドラム缶に遺体を入れてマイクロ照射機で焼却し、跡形もなく精進湖に捨てた。この事件には、岡アのほか村井秀夫、新実智光、早川紀代秀らがかかわり、焼却に関与していた。
この事件への対応を目の当たりにした田口修二さんは、それから疑問や不満を感じ「脱退したい」と訴え出した。12月中旬ころ、麻原はオウム出版の責任者である岡アに指示し、田口さんをその営業に従事させたが、「在家信徒のままで家に帰って自分なりに修行したい」などと不満を述べるようになったため、岡アは、89年(平成元年)1月上旬ころ、麻原に報告し、麻原の指示でサティアンビル4階に連れていった。
麻原は会議室で田口さんと二人で話をした後、岡アら居合わせた大師に対し「変なことを言う」などと言いその後、独房修行用に改造したコンテナ内に両手両足を縛りつけ、説法が吹き込まれたテープが流れる中で監禁し、翻意させようとした。しかし、田口さんはますます教団からの脱会を主張し、麻原を殺すとまで言うようになった。麻原は憤慨し「真島事件に関与した田口をこのまま教団から脱会させると、田口により真島事件が公表される。そうなれば組織を拡大しようとしている教団が多大な痛手を受けるなどと考え」殺害するしかないと決意した。深夜、麻原はサティアンビル4階の図書室に、岡ア、村井秀夫、早川紀代秀、新実及び大内利裕らを集め、田口さんが教団から脱会することを考え、自分を殺すとも言っていることを説明した上「「まずいとは思わないか。田口は真島のことを知っているからな。このまま、わしを殺すことになったらとしたら、大変なことになる。もう一度、おまえたちが見にいって、わしを殺すという意思が変わらなかったり、オウムから逃げようという考えが変わらないならばポアするしかないな」「ロープで一気に絞めろ。その後はマイクロ照射機で燃やせ」などと言って、翻意しない場合には殺害することなどを命じ、全員これを承諾し、こうして最初のポアが行われ、遺体はやはり跡形もなくなった。
坂本弁護士一家殺害事件 1989年
89年(平成元年)8月、東京都から宗教法人として認証されたが、すんなりといったわけではなかった。何故ならこのころ、すでに出家して戻ってこない未成年も含めた信者の親達が悩みを訴えるようになっていたからだ。この訴えに耳を傾け、協力していたのが坂本堤弁護士であった。10月21日になるとオウム真理教被害者の会が結成され、一方で『サンデー毎日』にも糾弾されるようになる。麻原は信者数十人と編集部に押しかけ、牧太郎編集長に対し、内容が一方的であると抗議したが、逆に編集長から「未成年の者に30万、40万といった布施を求めるやり方はどうなのかな」と質問されると、突然「30万がダメならいくらならいいんだ!」と怒鳴り、その場から立ち去った。その後教団の信者らが、毎日新聞社ビルや牧編集長宅付近へのビラ撒き、街宣車を使って抗議などの嫌がらせをした。10月9日及び16日、麻原は文化放送のラジオ番組に電話で生出演し、サン毎の特集記事に対し反論した。16日の同番組では坂本弁護士も電話で生出演し、未成年者の出家、高額な布施、血のイニシエーションなどについて批判的な意見を述べた。
10月26日、TBSのワイドショーのインタビューに対して麻原は翌年の選挙に出馬することなどを機嫌よく話した。しかし、リポーターの発言からトラブルになり、スタッフが「あした(27日)の番組では被害者の会側のインタビューも放映する」と言った。教団側は被害者側のVTRを見せろと主張し、担当プロデューサーが承諾した。26日夜、そのインタビューをTBS千代田政策部で早川紀代秀・上祐史浩・青山吉伸が見ることになった。インタビューを受けているのは坂本弁護士で、教団の出家制度及び布施制度について批判したほか、血のイニシエーションに対して効果を検査した事実はなく、布施の名目で金を徴収することは詐欺になること、「空中浮揚」に対して麻原に実際に目の前で飛ぶよう要求したところ、それは出来ないと断られたことなどの内容であった。これを見た早川は「教団ばかりか尊師をも誹謗する」と抗議して放映の中止を迫った。担当プロデューサーは、「自らの判断で中止したことにするので、見せたことを公言しないでくれ」と、27日の放映内容を変更する約束をした。
この一件を知った麻原は、坂本弁護士に発言内容を訂正させるよう求めて、先の3人を事務所に派遣したが、坂本弁護士はそれに応じなかった。さらに、坂本弁護士は宗教法人の認可を取り消す訴訟を起こそうとしていた。ここに至って、麻原は「坂本弁護士をこのまま放置すれば将来、教団活動の大きな障害となるから、これ以上悪行を積ませないようにするにはポアするしかない」と村井、早川、新実、岡崎、端本悟、中川智正に殺害を指示したという。
11月2日夜から3日にかけて麻原は、村井、岡ア、早川、新実に加え、新参の医師中川智正と武術に長けた端本悟の6人と共謀の上、坂本堤弁護士1人をなるべくきれいに殺害しようと企てた。当初は89年11月3日夕方、横浜市磯子区のJR洋光台駅から帰宅途中の坂本弁護士を端本が襲って、その後中川が塩化カリウムを注射して殺害という計画だった。しかし洋光台駅に行った6人は、ここではじめて11月3日が祝日であると気がついた。急遽上九の麻原の指示を仰いだ結果、「家族も一緒にやるしかないだろう。人も少なく大きな大人もいないから今の人数で行ける」などと言われ、さらに4日午前3時ごろ、岡崎が寝静まった坂本宅のドアの様子を見たら鍵がかかってなかったので、後者の殺害を決行した。
遺体の処理が終わった後、報告のために戻った端本に対して、麻原は「弁護士は地獄道、子供は餓鬼道、妻は畜生道に堕ちた」と言ったという。つまり、3人は高い次元に転生するどころか三悪趣の世界に堕ちたのである。
衆院選出馬、そして惨敗 1990年
90年2月、麻原は「真理党」を結成して衆議院議員総選挙に出る。政治家になりたいと公言していたという麻原にとって、政界進出はかねてよりの念願であり、公明党を持つ創価学会を意識していたのだろう。また、ロータスビレッジ構想に基づき、自分達で学校や病院を設立したかった事情もあった。「ショーコショーコーショコショコショーコー♪」といった、麻原のお面をかぶって歌や奇抜なダンスのパフォーマンスをし、一方で他の候補者のポスターをはがしたりもしたが、そうした効果もむなしく麻原を含め立候補者全員が落選した。この結果に対する麻原の見解は「国家権力が票をすり換えた」である。4月、ボツリヌス菌を気球に乗せて東京へ撒き、信者を石垣島に避難させる計画を立て失敗している。この時、麻原は集まった幹部達に口外することもノートをとることも禁止して言った。この場にいた廣瀬健一は「選挙はマハーヤーナ(大乗)での救済のテストケースだったが、マハーヤーナではだめだとわかった。これからはヴァジラヤーナ(金剛乗)で行く」と聴いた。それは、自らの予言を大量のポアによって実現する決意だった。5月には熊本県波野村の原野15万平方メートルを購入し、地元住民の反発を招いた。そのことで10月、国土法違反で警察から強制捜査を受け、5人が逮捕された。ほぼ同じ時期に山梨県上九一色村にも進出し、やはり村民と激しく対立していた。長野県松本市にも進出しようとしていた。選挙の落選と、教団の土地購入と施設建設の過程で地元住民に反対され続けたことが、俗世との溝を深め、被害者意識や社会への敵意の拡大につながったと指摘されている。その意味で、90年が教団の方向性を決定付けたと言える。これ以降、教団は社会と対立する姿勢を前面に出し、武装化していく。
武装化とロシア進出 1991〜1993年
91年、上九一色村に、信者収容施設にして生活拠点でかつ、犯罪拠点でもあるサティアンの建設を開始。その傍ら、麻原は積極的にメディアに出た。これは、バッシングを和らげて実態をカモフラージュする意図であった。その一方92年から93年にかけてロシアに進出した。ここで武器を購入したり、武器を持ち帰って独自に開発し、幹部らを戦闘訓練に行かせたり、洗脳に必要なノウハウを得ていた。また、93年オーストラリアに核兵器を作るためにウラン鉱を探しに行ってもいる。ロシアから自動小銃、軍用炸薬、大型軍用ヘリコプターを購入し、またボツリヌス菌などの生物兵器も製造した。これらの密造や生成は実際ほとんどうまくいかなかったが、サリンをはじめとする化学兵器の開発・製造には成功した。そのサリン製造に当たって麻原は「70トン作ろう」と言ったという。実際それだけの量を作ることはできなかったが、もし成功していれば文字通り日本人が全滅するようである。こうした武装化に際してロシア進出は早川、各種兵器開発は村井が最も責任があったとされている。
94年、教団の中では日本に取って代わる国家としての形が出来上がっていった。松本サリン事件の直前、麻原が直接統治していた部班制から、麻原を「神聖法皇」として幹部に決裁を委譲した省庁制に移行した。7月には麻原を申請不可侵なトップにした「真理国」建設後の憲法「真理国基本律」が作られた。修行もこのころになると、それまでの神秘体験を薬物や機械によって体験させるようになった。中でもLSDは「キリストのイニシエーション」として、信者に神秘体験をさせる際に頻繁に使われていた。ちなみにLSDの幻覚作用について、麻原は早川に抱きつきながら「宇宙の果てまで行ってウンコを漏らしたようだ」と感想を漏らしたという。その一方で、薬物や電気ショックは、スパイチェックのナルコ、記憶を消去するニューナルコなども使われた。麻原は、幹部クラスには「マハームドラー」で、そうした非合法活動をさせていく一方、末端の信者にはそれらを「毒ガスにやられた」、「フリーメイソンの仕業だ」などと説法していた。

麻原彰晃(中央)、後ろは早川(左)と新実(右)
松本サリン事件へ 1994年
これらの武装化の成果を試そうとして、93年6月、教団亀戸道場や皇居周辺に炭素菌を撒くが失敗した。しかし11月に土谷正実らがサリンを作ることに成功した。ここから教団に対立する人間のポアを積極的に行うようになる。93年時点では池田大作らがその対象であったが、いずれも失敗した。94年になると、滝本弁護士VX襲撃事件(5月)サリン襲撃事件(9月)、6月には松本サリン事件、江川紹子ホスゲン襲撃事件、水野VX襲撃事件、会社員殺害事件を起こした。信者・元信者に対しても、93年に逆さづり死亡事件、94年落田事件、冨田事件、温熱傷害致死事件、ピアニスト監禁事件を起こし、もはやポアが「常態」と化していた。
当時のポアを象徴する落田事件とは、元信者で薬剤師だった落田耕太郎さんが、教団施設に閉じ込められていた女性を救出しようと、息子の元信者保田英明に話を持ちかけ第6サティアンに侵入したものの、2人とも幹部らに取り押さえられて麻原の前に連れ出され、麻原が保田に絞殺された事件である。この事件の際、麻原は「これからポアを行うがどうだ」と村井や新実は「尊師のおっしゃるとおりです」「ポアしかないですね」などと相づちを打ち、井上嘉浩は「泣いて馬謖を切る」と言って賛意を表し、他の者も同調した。もはや89年頃よりも積極的な同意である。車の運転をした杉本繁郎の証言によると、事情を知った麻原が専用車両に乗り込み、出発した際に「今から処刑を行う」と言ったという。
結局ポアは「善意の転送」ではなく「殺す」としての意味しかなかったのである。
以上を踏まえて松本サリン事件の動機を考えると非常にわかりやすい。サリンの殺傷能力のテスト+教団松本支部の建物の規模を縮小させた地裁松本支部裁判官への報復である
地下鉄サリン事件 1995年
95年、1月に被害者の会の永岡会長をVXガスで襲撃した。2月には、資産を持つ妹を匿ったことで目黒公証役場事務長仮谷清志さんを拉致、妹の居場所を聞き出そうとしたが聞きだせず、薬物の過剰投与により死亡させた。3月18日未明、杉並区阿佐ヶ谷の教団が経営する飲食店で「尊師通達」で正悟師に昇進するメンバーを祝った後、幹部による会合から帰る途中で、麻原専用のロールスロイスのリムジンに麻原以下、サリン製造の最終責任者である村井秀夫、弁護士の青山吉伸、細菌培養の遠藤誠一、三女アーチャリーの婿で94年頃の組織編制に関わったとされる石川公一、若年ながら「修行の天才」として諜報省大臣に上り詰めた井上嘉浩の6人が乗った。その際、公証役場事務長拉致によって警察の強制捜査が入るか麻原は意見を求めた。
青山:いつになったら、四つに組んで戦えるのでしょう?
麻原:今年の11月ごろかなぁ(村井に声をかける)
村井:ええ。ある程度は輪宝(レーザー照射器)ができてますから
麻原:アタッシェはメッシュが悪かったのかなぁ(15日に地下鉄にボツリヌス菌を撒こうとしたが、失敗したことを指している)
麻原:アーナンダ(井上)何かないか。
井上:T(ボツリヌス菌)ではなく妖術(サリン)だったら良かったのでは?
村井:地下鉄にサリンを撒けばいいじゃないですか
麻原:それでパニックになるかも知れんな。アーナンダ、この方法でいけるか?
井上:尊師が言われたようにパニックになるかもしれませんが、今年の1月1日の『読売新聞』にあったように、上九一色村でサリン生成の残留物質が検出されてから、山梨と長野の県警が動いています。サリン原料の薬品の購入ルートは、完全にばれているでしょう。ですからサリンは使わずに、牽制の意味で、硫酸でも撒けばいいんじゃないですか
麻原:サリンじゃないとダメだ。アーナンダ、お前はもう何も言わなくていい。マンジュシュリー(村井)、お前が総指揮でやれ
村井は「はい」と言って実行役に豊田亨、広瀬健一、横山真人、林泰男を選ぶと、麻原はわざわざ林郁夫も加えるように指示したという。
麻原:ジーヴァカ(遠藤)、すぐにサリンを作れるか?
遠藤:条件が整えば、作れるのではないでしょうか
麻原:新進党と創価学会がやったように見せかければいい。それでもサリンを撒いたら、オウムに強制捜査が来るかな?
石川:そりゃ来るでしょう。そのとき私が、否定する内容の演説をするので、足をピストルで撃ってもらうと、世間が同情すると思います
麻原:クーちゃん(オウム信者の陸上自衛隊第一空挺団に所属する自衛官)にやらせることはできるかな?
井上:可能だと思います
麻原:(石川に対して)お前がそこまでやる必要もないだろう
青山:島田(裕巳)さんのところに爆弾を仕掛けたら、世間の同情が買えるのではないですか
井上:だったら青山の総本部にも、爆弾を仕掛けては?
こうして自作自演の形で地下鉄サリン事件は実行された。この会話は井上の証言する「リムジン謀議」と言われるものである。その後、やはり警察の強制捜査が入り、彼らは次々と別件の微罪で逮捕された。地下鉄サリン事件を起こしたことによって、国民全てに教団の全貌が知れ渡ることになり、それまで「信仰の自由」を盾にしてきたオウムに対し、社会による制裁がはじまった。
こうした事態に教団側は上祐・村井を中心に、色々なテレビ番組で「自分達は関与してない」と主張した。上祐はディベートで培った「ああいえば上祐」と揶揄されるほどの回避で、巧みに事件と教団の関与を否定していた。しかし、村井はこうしたことが不得手だったようで、追い詰められると、むしろ教団の関与を認めるようなことをボソッと漏らしてしまっていた。そうした中で、村井が暴力団の男に刺殺される事件が起きた。麻原は極秘会議を開いて、口封じとして、ほとんどの事件に最も関与したであろう村井の刺殺を決定したといわれている。
麻原の逮捕とその後 1995年
この時、自転車窃盗容疑で逮捕された林郁夫の証言から地下鉄サリン事件の全貌がわかり、5月16日には、麻原自身も上九一色村の第二サティアンに960万の札束を抱えて隠れていたところを逮捕された(同日には都庁で小包爆破事件が起きたが)。ようやく松本サリン事件もオウムの犯行であると認められ、9月には坂本弁護士一家3人の遺体が発見された。10月30日には東京地裁により解散命令を受け、96年1月30日宗教法人として解散した。7月には公安調査庁により破壊活動防止法(破防法)の処分請求を行ったが、違憲であるという意見や、化学兵器を作れる幹部が逮捕されて危険度が減ったことが考慮され、要件を満たさないとして97年に公安調査委員会が処分請求を棄却した。教団側は表向きには「麻原の教えは捨てた」と言っていた。
しかし、以前と変わらず麻原が信じられていたり、半分以上の信者がまたオウムに戻ったり、布教活動も同じように行われており、一方で麻原の子供の就学などが問題となっていた。このため99年、観察処分や再発防止処分を行える、無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(オウム新法)が制定された。これに対してオウム側は00年に「アレフ」(アーレフ、Aleph)に改称したが、観察処分は逃れられなかった。それまで広報責任者だった上祐は07年に脱退し「ひかりの輪」を創立した。しかし、相変わらず教団は麻原の説法のビデオを観たりしているようである。
法廷での麻原彰晃 1996年〜
「名前はなんと言いますか」
「麻原彰晃です」
「松本智津夫ではないのですか」
「その名前は捨てました」
「職業はなんですか」
「オウム真理教主宰者です」
1996年4月24日、1審の初公判の時、裁判長に対して麻原はこう答えた。この日は、時折傍聴席の方を見て微笑んでみせる余裕さえあった。ここから延々と起訴状が読み上げられたが、この間、麻原は居眠りをしていたという。これだけならともかく、幾度もの退廷処分、証言を妨害する数限りない不規則発言や罪状認否要求は、法廷の様子がおよそ通常のものではなかったことを伝えている。麻原は証言の際、奇妙なカタカナ英語を交えていた。その英語交じりの主張は、要するに「一連の事件は村井をはじめとする弟子達の暴走であり、自分は悪くない」ということだった。またある時、エネルギーが上昇し、上下にガタガタ震えはじめた麻原は、証言席の井上に対し「私を精神異常だと思うだろうな、すまないが飛んでみせてくれ」と、空中浮揚を指示することもあった。このころは、自分は死刑を回避できると思っていたのかも知れない。しかし、まるで夢から醒めたかのように弟子達が「麻原こそが一連の事件の首謀者である」と揃って証言しはじめ、一方で弁護団にボイコットされたことにより追い詰められて、麻原は次第に何も喋らなくなった。裁判の中、煩悩や輪廻を超えて最終解脱を果たした麻原の胸に去来するものは何だったのだろうか。
2004年2月27日、1審で死刑判決を受けた。拘置所で「何故なんだ!
ちくしょう!」と叫んだという。2006年、最高裁で特別抗告が棄却されて死刑が確定した。
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