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   スポーツライター伊藤龍治のウェブサイトへようこそ

  近 況 報 告

   トップページを更新しました。 2012年6月16日。

    6月15日。苫小牧市消防職員協議会で講演しました。
    講演タイトルは、「スポーツに学ぶチームワークの金メダル」。
    消防職員の講演を聞く態度は、背筋が伸び、目が輝き、圧倒されそうでした。
    講演をしていて、よし勝負だと思える講演会はなかなかあるものではありませ
    ん。聴く側の真剣さがそういう良い緊張感を生むのです。
    当然ながら、苫小牧消防職員の全員が来たわけではありません。
    全230名中、50名が参加しました。日を変えて、第2班・第3班を実施する
    なら、喜んで伺います。
    最後に「がんばってください」といったのは、がんばれるみなさんだからです。
    ありがとうございました。

    釧路の親友、早稲田大学教育学部教育学科体育学専修の同期生、
    釧路市議会議員、元釧路市議会第31代議長、元釧路バスケットボール協会
    会長、釧路水産加工組合副会長、宮下健吉氏 3月13日死去。
    弔辞とともに、下記に紹介した「小塚崇彦スタイル」を配布しました。


    これは、病と闘う親友への応援歌です。そして親友を励ましてくれた小塚崇彦
    選手への感謝の応援歌です。

    「小塚崇彦スタイル」  (大修館書店 体育科教育巻末エッセイ)

    「いやあ、礼儀正しいし、好青年そのものだわ」。釧路の宮下が言った。
    昨年、釧路で全日本学生氷上選手権があり、フィギュアの世界選手権銀メダ
   リスト、小塚崇彦(中京大)が参加した。
    私と宮下、そして小塚崇彦の父、嗣彦は早稲田大学教育学部教育学科体育
   学専修の同期で体専二期生なのだ。
    嗣彦が息子に釧路に行ったら宮下を訪ねろと言ったのだ。喜んだ宮下は奥さ
   んに手製の横断幕を作らせ、水産関係の仲間たちを動員して応援団を結成した。
    夜は炉端で魚づくし。仲間が仲間を呼んでの激励会となった。そして会う人、
   会う人がみな崇彦の人間性に触れ、みなが冒頭の言葉になった。

    夏の終りになって、宮下が突然札幌にやってきた。胃がんで札幌医大に入院
   したという。8月ぐらいから食事が取れなくなったと言う。札幌医大と私の家は車
   で10分、世間話をするために通うようになった。病状は尋ねない。宮下が話を
   するなら聞く。宮下が治療方針書を見せてよこしたから、実状は理解した。
    11年11月、札幌でNHK杯フィギュアが行われた。体専二期会の米井幹事長
   が嗣彦に宮下の事を話したという。私からは嗣彦には連絡はしなかった。
    いくら父の友人であろうと、一宿一飯の恩義があろうと、世界で闘う競技者は
   競技と自分の体調管理だけに集中すべきだし、俗世間のことにかまける必要は
   ない。周囲の人たちも、あれこれ要求をすべきではないとも考えているからだ。
    コーチとして五輪や世界選手権を闘い、一流選手を見てきた経験から私はそう
   思っている。時に一流選手は並外れた集中力ゆえに、行動や言動がわがままや
   非常識と取られることがある。しかし、競技の場では、品行方正な優秀選手より、
   破天荒で常識はずれの問題児の方が、ルール違反さえなければ上位に昇りつめ
   ることも多い。
    崇彦は、ものに取り憑かれたように氷上を舞う高橋大輔選手や、若くして妖艶さ
   をも感じさせる羽生結弦選手と闘わねばならない。目指すスタイルが違うのであれ
   ば、世界ランク1位で正確無比と定評のあるパトリック・チャンを相手にせねばなら
   ないのだ。

    体専二期会の米井が、宮下入院の話を嗣彦にしたのには理由があった。
    米井自身が一年前に胃がん手術を経験していた。そして宮下は胃がんの宣告を
   受けた時、米井にだけ電話をして助言を求めていたのだ。だからそれは経験者ゆ
   えの思いやりだった。また米井は嗣彦への連絡の中に、私の携帯番号を書き入れ
   たと言った。嗣彦は大学の授業の関係で札幌には来られない。だから私はNHK杯
   の間中、いつでも動けるように待機した。
   
    崇彦は、最終日のエキシビションのあと、ホテルでのさよならパーティの前に宮下
   の病室に来てくれたという。
    「同室の患者さんや、看護士さんたちにもキチンと挨拶して、、、小塚家の教育だ
   な」と、宮下が言った。
    「わざわざ、寄ってくれた。うれしかった。龍治がいれば良かったのにと思った。
   手術に向ってパワーをもらった」と、宮下は米井にメールを送った。

    宮下はいま、ICUで昏睡状態ながら闘っている。
    宮下に手術に向うパワーを与え、生還への希望を与えたものは、フィギュア王国
   名古屋をつくりあげた満州フィギュアチャンピオンの祖父と、五輪代表全日本チャン
   ピオンの父に続く、若きフィギュアスケーター「小塚崇彦スタイル」そのものだった。
                                                   (終)

   
    中学校ボランティア講演行脚、始まりました。
    11月24日、空知管内、新十津川中学校で講演しました。
    「チームワーク・助け合うことの原点」を、語りました。
    人の話を聞く態度の見事さ、新十津川中学校生徒は素晴らしい!
    私のブログにコメントが入り、「話を聞き、感動して心が震えました」と、感想を
    いただきました。
    中学生の言葉が64歳の初老の男の心を震えさせることもあるのです。
    これが、「チームワーク」   

   中学校対象の「無料講演会」のお知らせ。
     「スポーツから人生を考える」をテーマに、私の人生の目標である、中学校
    講演行脚の旅に出ようと思います。
     講演は無料です。  
     交通費、宿泊費が発生する場合は、実費をご負担ください。
     開催条件は、中学校生徒・PTA保護者・教師が一同に参加する形が希望
     です。
     講演時間は原則として60分。他に質疑応答の時間があること。
     講演後、感想文をいただけること。(PTA保護者・教師の方々からも希望)
     お問い合わせ、打ち合わせは下記のメールアドレスにお願いします。
     地方の場合は、市町村中学校合同での開催などもご検討ください。
     ryui1103@river.ocn.ne.jp
 
     未曾有の大震災、津波、原発事故のあと、自分に出来ることはなにか?を
    考えてきました。日本は価値の変革が否応なく必要になります。
     新しい日本を創り出す原動力は、現在の中学生だと確信しています。
     自らの失敗のスポーツ人生と、超一流のスポーツ人との交流から得たものを
    伝えます。信条は「焦ることはない。ゆっくりで良いんだよ」です。
     過去の中学校講演で中学生に確実に届いた言葉がこれだったのです。
     お申し込みをお待ちします。   スポーツ書き手語り手 伊藤龍治。

 
   体育科教育(大修館書店) 6月号エッセー「がんばれは誰のために」
 
    北海道は移民の国だ。
    代表格は空知管内新十津川町だ。札幌から車で1時間半、人口7300人の農
   林畜畜産業の町だ。
    新十津川の町章は、町の誕生から121年の今も、母村である奈良県十津川村
   の村村章と同じだ
    
    奈良県十津川村を大水害が襲ったのは1889年(明治22年)8月。2403戸の
   うち610戸が倒壊、168人が死亡。一帯は壊滅状態で、北海道開拓を進めてい
   た明治政府が移住を提案し、600戸、2489人が北海道へ出発。このとき、政府
   は 渡航費用や移住後2年間の生活費を保証した。
    神戸港から小樽港を経て、開拓地へ到着するまで10ヶ月間、移住者たちは道
   中、さまざまな人から食事や宿泊の世話を受けたという。
     村固有の絆の強さも開拓の原動力となった。「移民誓約書」を交わしたが、そ
   の 内容は一、5千坪開墾するまでは他の業務をしない。ニ、節約に努めるという
   ものだった。
    新十津川町には講演で行ったことがあるが、現在でも小学5年生〜中学1年生
   が母村の十津川村との相互交流を続けている。

     東日本大震災の直後、まっ先に頭に浮かんだのは「移民国北海道」だ。新十津
   川町だけでなく、極言すれば北海道内全市町村がルーツとしての母村を持っている
     らだ。しかも東北は一番近い近隣の国、いわば親戚のようなものだ。だから私は 
    「受け入れ宣言北海道」を提唱したい。
     「大丈夫だよ、見捨てないないよ、うちにおいで」。こういう土地と人があるかない
    かで、天と地ほどの違いが出る。少なくとも明治政府には、あったのだ。
     4月18日時点で道内避難の被災者は988人。受け入れ側は、「手ぶらでかま
    わないよ」と、声をかけている。

     世界中から応援の声がかけられ、支援の手が差し伸べられている。アメリカは、
    「私たちはトモダチ」と言ってくれている。日本国内では、「がんばって」「しっかり
     ね」 と被災者たちに声をかけているが、少し不思議に思う。
     今、これ以上がんばれない者に、がんばれと言うのは残酷だ。被災者に比べれ
   ば レベルが違いすぎて恥ずかしいが、社会人1年目に左足首粉砕開放骨折をして
    札幌冬季五輪出場が夢と消え、2ヶ月間ベット上にいたときに言われた「がんばれ
   」は励ましには聞こえず、心に突き刺さる剣先だった。
     極限の不幸の中で、配給の列を乱さず、暴動、略奪を起こさない被災者を見て
   世界が驚嘆した。逆に被災地以外では買占めが起こり、日本を代表する世界的科
  学技術研究学園都市ですら、原発避難者に対し移住にあたって放射能検査を教要
   したという。
     だから「がんばれ」は、被災者に対して言う言葉ではない。被災者以外の国民が
    自分自身に言うべき言葉なのだ。
     大地震・大津波・に加えて原発事故となれば、支援は長期化するぞ、覚悟はでき
   ているか?節電・節約など当たり前、生き方すら変える必要があるんだぞ、そこに
   向ってがんばれよ、しっかりしろよ、ということなのだと思う。

     福島で作っていた電力は、東北を照らすものではなく首都圏のものだ。だから今
    は救助・救難のときであり、野球のときではないと行動した日本プロ野球選手会の
   行動は世論そのものだった。
     「東京ドームに停電などはない」「開幕日までお上が決めるのか」と発言された
   方々への評価は、あのときの笑い話として後世に記憶されるだろう。 (終



   体育科教育 (大修館書店発行) 2011年2月号
     「妻が支えた音楽葬」

    2010年11月9日。
    携帯が鳴った。車を停めた。
    札幌から車で45分、岩見沢市、石田スポーツの社長からだった。
    「伊藤さん、うちの女房が私の葬式は伊藤さんと相談してと、、、何か心当たり
   はないですか?」
    いつもジョークで始まる明るい性格、北海道大学ゴルフ部OBの社長の声が震え
   ていた。私は悪いジョークだなあと心の奥では苦々しく思いながら、「社長、何の話
   ?奥様がどうしたって?」と声を荒げた。
    札幌市内の病院、卵巣がん、危篤、の声が涙声で聞こえてきた。その瞬間、
   すべてを理解した。
    
    2009年8月22日。
    私は岩見沢市民大学の講師に招かれていた。
    演題は「スポーツに学ぶ心の交流」。

    私の妻の死は2008年4月27日。乳がんで闘病8年半の末の死だった。
    これを機に、北海道新聞に12年半連載したスポーツコラム「いい汗いい話」を
   終了した。下書きの段階で原稿を見てもらう編集者を失ったからだ。
    しばらくして、石田スポーツから玄関を通過するのに四苦八苦するほどの生花が
   届いた。だから1年以上経ってはいたが、市民大学の前に、その時のお礼に小さな
   花束を持って石田スポーツを訪問した。
    「あらあ、思いもかけないときにいただくお花って、本当にうれしい」
    奥様の喜びようは、贈った私が照れるほどだった。その後は、奥様の質問攻めが
   始まった。私の妻の闘病、治療法の数々、末期、死、葬儀。
    私は何もかもを、お話した。そしてこうも言った。
    「エンディングノートというのがあって、、、言わば私製の遺言状のようなもので、
   そこに妻の希望を聞いては書き入れたのです。無宗教で、通夜、告別式はいらない
   。家族葬でいいと、、、。
    戦い抜いた自分の最期は自分で演出できるのです。人生の最後は自分の意思で
   デザインしても良いのです。それが妻と私の共通認識でした」

    社長に案内されて、奥様の病室に入った。奥様は眼を見開き、声にならない声を
   あげて私を見て、必死にうなずくのだ。
    私は何も知らなかったとはいえ、奥様に「死の講義」をしてしまったのだ。社長が
   言う。「けい子は音楽葬で送ってくれと、、、。お骨は散骨、喉仏の骨だけは実家の
   祖母の墓にと、、、」
    8月22日は奥様の手術の2週間前だったとも知った。
    奥様と妻とは奇しくも同い年。
    この一年、妻を話し相手にしていたとでもいうのか。

    奥様は11月16日に旅立った。
    白菊もあったが、圧倒的に色彩豊かな洋花に囲まれた祭壇と弦楽四重奏による
   音楽葬だった。
    石田スポーツとは40年に及ぶおつきあいだ。先代の社長に可愛がられた。
   とは言え、何故に音楽葬なのか、すべてを伝えるのが私の役目だった。私は開式の
   ご挨拶として前代未聞のスポーツライターによる音楽葬のプロデュースの真意を
   語った。それは「死の講義」をした者としての務めだった。そして、次のように強調
   した。
    「社長も私も伴侶の健康管理には失敗しました。しかし、失敗から学んだものを
   伝えるのは、教育的行動だと思うのです」
    「検診行っとけよ」では、検診率は上がらない。一回目の検診は夫が妻に寄り添い
   「同行道案内」することが必要なのだ。その逆も真なりだ。早期発見ならば、がんは
   恐ろしいものではない。
    「勉強しとけよ」では教師ではなく、「練習しとけよ」ではコーチではない。
   「検診行っとけよ」では夫ではない。
    「奇跡だね、おかんが奥様にも、おとんにも寄り添っているよ」。
    息子からのメールに支えられ、音楽葬を終えた。     
 
    
    石田けい子様 11月16日 59歳にてご逝去。

    私にとって初めてのご葬儀をプロデュースしたことの報告です。
    開式のご挨拶を書かせていただきます。

     開式にあたり、ご挨拶を申し上げます。
     私はスポーツジャーナリスト伊藤龍治と申します。
     石田スポーツ様とのお付き合いは、ミズノスポーツ時代の20年、ミズノを
    卒業してからの20年、あわせて40年になります。
     きっかけは、国内最大規模とうたわれた石田スポーツ様のスキー品大
    展示即売会への参加でございました。この展示会で先代石田豊社長のご
    指導をいただき、大展示即売会最終日の打ち上げ会の進行司会を仰せ
    つかるようになりました。

     数年前、岩見沢市で行われた北海道高等学校PTA連合会で講演をさせて
    いただいた時、先代の奥様である綾子様が岩見沢名物の天狗まんじゅうを
    ご持参くだされ、面会にきて下さいました。当時、私は北海道新聞夕刊へ連載
    しておりましたスポーツコラム「いい汗いい話」に、天狗まんじゅうは絶品だと
    書いたことを綾子奥様が覚えていてくださったのです。

     昨年、8月22日。
     私は、岩見沢市からお招きにあずかり、岩見沢市民大学の講師として参り
    ました。
     私は2008年4月に闘病8年6ヶ月の末、妻を乳がんで亡くしましたが、その
    折り石田スポーツ様から部屋には入りきれない程のお花をいただきました。
     ですから、そのお礼にと思い講演前に小さな花束を持ってお店を訪問いたし
    ました。
     社長は出張中で、けい子奥様がおられ、第一声が「あ〜思いもかけないとき
    にいただけるお花ってこんなに嬉しいのね〜」と喜んで下さいましたが、その
    後の会話は私の妻の事ばかりでした。
     私は聞かれるままに、エンディングノートというものがあり、自分の葬儀の希
    望やお墓や埋葬のことなどを妻の希望を聞いて記入したことなどをお伝えし、
    人生の最後は自分でデザインしたり、演出していいのだと思うことなどをお伝え
    させていただいたのです。

     2010年11月9日。石田豊明社長から電話がありました。
     「うちのけい子が、私のお葬式は伊藤さんとも相談してと言っています」という
    のです。私は激しく混乱し、「社長、今どこにいるの?」というのが精一杯でした。
     JR病院に駆けつけてみると、社長は涙ながらに「音楽葬にして欲しいな」、と
    けい子は言っていました。伊藤さんは奥様を亡くされて、いろいろ経験されている
    から、相談してと言っておりましたというのです。
     病室でけい子奥様にお目にかかりました。
     私の目を見て、しきりに何かを訴えかけるようにうなずくのです。
     考えてみれば、昨年の8月22日は、手術を受ける1ヶ月前のことでした。

     石田豊明社長も私も、伴侶の健康管理には失敗しました。
     ですが、失敗を公表すれば、教育者になれると信じるものです。
     そして何より石田スポーツ様には、財産があります。それは人類の希望の光
    ともいうべきものです。石田スポーツ株式会社会長の綾子奥様は現在87歳。
    会長は79歳で乳がんの手術をなさいました。術後、懸命にリハビリを続けられ
    たお姿を多くの社員の方が記憶されておられます。胸にメスを入れると、手が
    上がらなくなるのです。
     がんは、早期発見で転移がなければ十分に戦えるのです。それを、綾子奥様が
    証明してくださっているのです。

     岩見沢はスポーツの町であり、同時に音楽の町でもあります。
     野外音楽堂でのイベントには全国から人が集まり、北海道教育大岩見沢校
    には、音楽を志す若人が全国からやって参ります。
     音楽に包まれ、一輪の花に思いを込めて、旅立ちをお見送りいただければ、
    それは故人にとって自らが望んだ最高の喜びとなるものと思い、弦楽四重奏に
    よるこの音楽葬をプロデュースさせていただきました。

     皆様のお力を、皆様の思いをぜひお寄せくださいませ。

     石田スポーツ株式会社・石田商事株式会社・株式会社デューク 取締役
      石田けい子様  59歳で永眠。
      18日御通夜・19日告別式とも音楽葬で執り行いました。
    


    
 
 ご意見、ご感想、講演会のご相談などは、お気軽にメールしてください。
 ryui1103@river.ocn.ne.jp
  お 知 ら せ

2月12日から、道新ブログ「伊藤龍治のもっといい汗いい話」を、スタートしました。http://blog.hokkaido-np.co.jp/sports-ryuji/
どうせならば、満62歳の誕生日からと考えました。
12年半続いた「いい汗いい話」終了後、10ヶ月経過して復帰します。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
   

 
   
出口沖彦君のこと (2000年11月16日)「 2000年11月11日に亡くなった10名の日本人スキーヤーの冥福を祈って」はコラム・エッセー保存版でご覧いただけます。
                                    
(財)北海道体育協会指定指導者研修会基調講演(2005年12月11日)はコラム・エッセー保存版でご覧いただけます。

  INFORMATION

大修館書店発行の「体育科教育」に隔月で巻末コラムを執筆しています。  大修館書店注文センター TEL 03−3934−5131

 私の講演の主なタイトルです。
  1.スポーツに学ぶ勝利の方程式
  2.スポーツに学ぶチームワークの金メダル
  3.スポーツに学ぶ経営学の金メダル
  4.スポーツに学ぶ教育学の金メダル
  5.スポーツで考える地域の活性化、町おこし
  6.元気が出る組織活性化、5か条の鉄則
  7.勝敗に不思議なし、勝敗の分岐点とはなにか
  8.夢につながるコーチング、ほめ方の極意とは
  9.ルールは変えられる、スポーツエンタテイメントのすすめ
 10.未来につながるスポーツ4つの「F」の頭文字
 11.負けからはじまるスポーツ人生、痛みの果てに見えてきたもの   等

フェアプレーとチームワーク、負けに学ぶ哲学をユーモアとウイットで語っています。
ご参考まで。 ryui1103@river.ocn.ne.jp