なぜ「あしたテストが
あったんだ!」
と言えるのか?
「た」という助動詞は、ふつう過去を表すものと考えられている。しかし、だいぶ前から予告されていたテストを忘れて寝床に入った生徒が突然「あしたテストがあったんだ!」と起きあがることもありうる。あるいは、教師がクラス全員に課題を出して、「できた者から帰ってよろしい」といったとする。この時点では誰もまだできてはいない。いずれも未来なのに、なぜ「た」が使えるのだろうか? 一見むずかしそうだが、「た」を過去と考えるという前提が間違っていると考えれば簡単である。そのような前提を取り払った上で、さまざまな「た」の用例を集め、そのどれにもあてはまる点をさがせば、それが「た」の意味ということになる。
辞書などでは、「た」の意味は、大きく五つに分けられている。「この町も昔はにぎやかだった」の場合は過去、「いま電車が到着した」は完了、「濡れた(=濡れている)タオル」は存続、「あなたは伊藤さんでしたね」は確認、「さあ、早く買った、買った」は命令である。このうち、もっとも分かりにくいのが過去と完了の区別であり、英語の学習で過去形と完了形の区別に悩んだ記憶は私にもある。しかし、完了とは、「ある時点である用言によって表されることが終わっているかどうかということ」だ、と考えたとき、目からうろこが落ちた。「ある時点」というのは、過去の場合も、現在の場合も、未来の場合もある。「昨日、お客さんが見えたとき、食事の準備は終わっていた」というのは過去完了、「ぼくはもう飯を食った」というのは現在完了、「娘が結婚するころ、私は老人になってしまう」というのは未来完了である。同じ「た」であっても、「きのう、彼女と食事をした」というときは過去、「お母さん、おなかがすいた」というときは完了である。過去の場合は、「そう、よかったね」と過去のこととして応じるが、完了の場合は、「じゃあ、何かつくってあげようか」と今、あるいはこれから何をするかという話になるのだから明らかに違う。むかし、英語の参考書に、「現在完了形はyesterdayのような過去を示す言葉と一緒には使えない」という注釈があって、それを丸暗記していた記憶があるが、現在完了が今のことを問題にしているということを理解したなら、おのずとおかしいと感じるはずで、わざわざこんな注釈を覚える必要はなかったのである。
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私の命よ絶えてしまうのなら絶えてしまえ。もし生き長らえ、恋心をこらえる気持ちが弱りでもしたら……。「絶えなば絶えね」の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形、「ね」は命令形である。百人一首の画像は、「式子内親王」「右近」とも、崇石さんの「歌仙絵 百人一首」のフリー素材。 |
過去も完了も「た」で示されるところをみると、日本語というのはなんと未分化で未発達な言語だと思われるかも知れない。ところが、昔の日本語では、過去を示す助動詞は「き」と「けり」、完了を示す助動詞は「つ」「ぬ」「たり」「り」と。明確に区別されていたのである。伊藤左千夫の「野菊の墓」は、「野菊のごとき君なりき」という題で繰り返し映画化されたが、「君」と呼ばれた女性をすっかり過去の人とみなして「野菊のような君だった」といっているのである。「き」は連体形の「し」でよく使われる「うさぎ追いしかの山」とか「ありし日の〜さん」という用法を考えると、「回想」の助動詞と呼んだほうがふさわしい。「けり」との対比の上では「目睹回想」の助動詞と言われ、自らの体験をありありと思い浮かべるときに用いる言葉だとされる。これに対して「けり」は、自分の経験ではない「伝聞回想」の助動詞であり、「竹取の翁といふものありけり」(竹取物語)や「いとやむごとなききはにはあらぬがすぐれて時めきたまふありけり」(源氏物語)のように物語によく用いられる。つまり昔話でおなじみの「〜だったとさ」という感じに近い。しかし、つぎの小野小町の歌の場合はどうであろうか? 「花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに」。色あせてしまったのは作者自身の容色であるのに、なぜ「伝聞回想」の助動詞なのだろうか? これは「気づき」を示すものとして説明されている。小町はある日、自分の容色の衰えにはっと気づいたのであり、このような場合には「けり」がふさわしい。そういえば百人一首でも分かるように、和歌には「けり」という言葉が盛んに出てくる。歌というものが自分の気持ちを表すものであることを考えれば、「伝聞」というのは変であろう。そのため、歌に出てくる「けり」は、過去ないし回想の助動詞とはみなされず、「詠嘆」の助動詞と考えなければならない。「しのぶれど色にいでにけり我が恋は」という歌の場合、自分の恋心が様子に出たそうだなどと他人事のように言っているのではなく、そのことを自ら認識して、もう隠せないのだなあとため息をついているのである。その意味で詠嘆の助動詞としての「けり」も、「気づき」という内容を含んでいる。「あしたテストがあったんだ!」というのも、「けり」で示されるべき内容だと言えるだろう。
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忘れられる自分の身のことはあれこれ考えない。(将来を)誓った人(冷たくなった相手)の命が(神罰にあって)なくなるので)惜しいものだなあ…怖い歌である。「誓ひてし」の「て」は完了の助動詞「つ」の連用形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形である。「て」に「もう誓ったではないか」という思いが篭っているのだが、現代語にはうまく訳しにくい。 |
ところで、物事が完了することを「けりがつく」という。古文がよく「けり」で終わることからきた表現であるが、なぜ「けり」が完了の表現のように思われているのであろうか? これは、おそらく、おおくが「にけり」という形で用いられたことから来ているように思う。この場合、完了の意味は「けり」ではなく、その前にある完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」がになっているのである。完了の助動詞「ぬ」は「風とともに去りぬ」「夏は来(き)ぬ」「風立ちぬ」などでおなじみだが、古文を習いはじめの生徒はよく打消の「ぬ」と間違える。しかし、古文では打消で言いきる場合は「ぬ」ではなく「ず」を用いるし、接続する動詞の活用形も違うので区別がつく。完了の「ぬ」は、「な、に、ぬ、ぬる、ぬれ、ね」と活用する。「玉の緒よ絶えなば絶えね」、これは「玉の緒(自分の命)よ、絶えてしまうなら絶えてしまえ」といっているのである。英語を古文で訳すなら、過去完了は「にき」または「にけり」、現在完了は「ぬ」、未来完了は「なむ」で訳せばだいたいいける。「つ」は完了を示すという点で「ぬ」と同じだが、「ぬ」が主に自動詞に用いられるのに対し、主に他動詞に用いられる。「日が暮れた」は「日暮れぬ」だが、「日を暮らした」は「日を暮らしつ」という。他動詞には意志的な動作を示す語が多いので、「にけり」というより「つ」の連用形「て」をつけて「てけり」といったほうが「〜してやった」という強い感じが出る。軍記物語である平家物語ではこれをさらに強めた「てんげり」という形が愛用されている。
完了の助動詞にはほかに「たり」もある。しかし、その本来の意味は完了ではなく存続である。「たり」は「てあり」が短縮されたものと考えられる。そう考えれば、「てあり」が本来、「〜している」という意味であることがすぐ分かる。「わらべは見たり、のなかの薔薇」の「見たり」も、「見ちゃった」と解するより「見ている」と解したほうが臨場感が出る。ところが、「〜している」を意味する「たり」は、瞬間的な動作を示す動詞についたときには、その動作の結果が今も残っているという意味に変わっていく。「あいつ、もう来ているか?」というような表現を考えれば、存続が完了の意味に変わっていく道筋が分かるであろう。そして、この「たり」の連体形「たる」こそ、今日「き」も「けり」も「つ」も「ぬ」も駆逐してさまざまな意味を示す「た」の先祖なのである。すでに平家物語に「橋を引いたぞ」という表現が出てくる。本来の古文では「橋を引きたるぞ」というべきところであるが、「引き」の音便化とともに、「る」の脱落が起こっている。なお、「り」は、「読めり」のように用いられるが、これは「読みあり」の短縮してできたものであり、「て」の有無だけが「たり」との違いであるから、用法は「たり」とよく似ている。しかし、「り」には四段活用動詞にしかつかないという制限があったため、やがて消滅していった。
昔の日本語にあった多様な助動詞がすべて「た」に一本化したことを日本語の衰退ないし堕落ととらえる人もいるかも知れない。しかし、言語というものは音韻にせよ文法にせよ、時代とともに複雑になるのではなく、単純になるのが普通である。そのことを考えるなら複雑な言語が高級な言語という考えはあやしくなってくる。考えてみたら、「た」のつく表現が過去なのか完了なのかで迷うことというのはあまりない。それは、「た」のつく用言(動詞、形容詞、形容動詞)の性質によって意味がおのずから決まることが多いからであろう。まず、「だった」「かった」は過去だと考えていい。「あの人はいい人(名詞)だっ(助動詞)た」「この町も昔はにぎやかだっ(形容動詞)た」「俺も昔は若かっ(形容詞)た」、これらは、「た」に先立つ部分がいずれも性質ないし状態を示すためにおのずから「過去」の意味になる。これに対し、「電線が切れた」「日が暮れた」のように、瞬間的な動作、変化を示す動詞についたときには完了の意味になる。こうして、言葉の上で過去と完了の区別が明瞭でない現代日本人も無意識にはちゃんとその区別をしているのである。しかし、無意識であるからこそ、英作文などの機会に、それをはっきりした形に示すことが難しくなるのである。
最後に最初の問にもどるが、「た」のさまざまな用法に共通する意味とは何であろうか? それは、「た」に先立つ用言などによって示されることが確かであるとして話し手がとらえているという点にあるのではないかと思われる。「あなたは伊藤さんでしたね?」、これは別に伊藤さんの結婚前の旧姓を聞いているのではない。「伊藤さんですね?」よりも確かなこととしてとらえていることを示しているのであり、相手のことをまったく知らないわけではないということを伝えるという意味で、むだな表現ではない。
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