岡山の児島に迨暇堂(たいかどう)という古い建物があります
これは塩田王と呼ばれた野崎子爵の離れのお屋敷です
この迨暇堂に100畳の大広間があります
この広間に敷かれている畳は割鞘のご先祖様が迨暇堂ができた時に
お祝いとしてプレゼントなされた畳です
岡山の民族究家ので角田直一という方がらっしゃいました
角田さんは主人の母方の親戚で、義母とは特に昵懇にしてくださいました
ある時、角田さんからお電話があり
迨暇堂を修復する時に畳をはがすから見においでって
はがしたすべての畳の裏には「備後の国、割鞘」というサイン(?)が
してあるからです
「あなたのご先祖さんが送られた畳だよ」
角田さんは嬉しそうにそう言って写真を撮っておられたそうです
割鞘は広島県がルーツです
岡山には5代前のおじい様が来てからですのでまだ100年程です
5代前のおじいまが細間・・・という女性と恋に落ちました
ところが
細間家と割鞘では「身分が違う」という理由で
周囲からさんざん反対され、結婚が許されなかったのです
そこで、おじい様は細間さんを連れて駆け落ちをなされました
それが主人の5代前のおばあさまです
(ごめんなさい、おばあさまのお名前をド忘れいたしました)
そして来たところが岡山の児島と言うところです
なぜ岡山に来たのか
それは野崎家と備後の割鞘家はとても昵懇にしていたからです
広島の浅野藩において割鞘は塩に関する重職を与えられていて
その関係で備後、備前、ぞして赤穂浪士の赤穂
このラインで繋がっていたそうですよ
ちなみに割鞘の菩提寺には忠臣蔵で有名な大石内蔵助さんの
お母さまもお入りになっています
備後の割鞘、備前の野崎さま、そして赤穂の大石家
不思議なご縁を感じますね
駆け落ちしてきたおじい様は児島の野崎家を頼ります
そして、迨暇堂のお隣に家を建て居を構えます
今は観光客に向けて解放していますが
昔は迨暇堂への出入りはできませんでした
が、割鞘の家族は出入りをしていたそうです
ただ、子供たちが(おそらく義母)が
下駄を履いてお庭を走り回るものですから
野崎家の苔番(庭の苔を管理する係の人)にいつも叱られていたとのこと
そうそう、割鞘の紋は上り藤と書きました
駆け落ちしてきたおじい様はさすがに割鞘の紋どころを付けることを
躊躇われたのだと思います
あるいは、主人のように堅苦しい家が嫌いだったのかも
おじい様は紋をお変えになりました
『五三桐』
太閤さんのご紋で有名ですが、
実はこのご紋は野崎家のご紋なんです
5代前のおじい様のお墓には藤ではなく『五三桐』が付けられています
家を捨てて新しい歴史を作ろうとなさったのかもしれませんね
割鞘家には代々そのような変わり者がいらっしゃいます
主人のひいおじい様は周囲の反対を押し切って農家の娘と結婚されました
割鞘千代さん
そして、主人
私のような学歴も何の取り得もない者と結婚してくれました
私の時もご先祖と同じ状態でした
歴史は繰り返しています
これは塩田王と呼ばれた野崎子爵の離れのお屋敷です
この迨暇堂に100畳の大広間があります
この広間に敷かれている畳は割鞘のご先祖様が迨暇堂ができた時に
お祝いとしてプレゼントなされた畳です
岡山の民族究家ので角田直一という方がらっしゃいました
角田さんは主人の母方の親戚で、義母とは特に昵懇にしてくださいました
ある時、角田さんからお電話があり
迨暇堂を修復する時に畳をはがすから見においでって
はがしたすべての畳の裏には「備後の国、割鞘」というサイン(?)が
してあるからです
「あなたのご先祖さんが送られた畳だよ」
角田さんは嬉しそうにそう言って写真を撮っておられたそうです
割鞘は広島県がルーツです
岡山には5代前のおじい様が来てからですのでまだ100年程です
5代前のおじいまが細間・・・という女性と恋に落ちました
ところが
細間家と割鞘では「身分が違う」という理由で
周囲からさんざん反対され、結婚が許されなかったのです
そこで、おじい様は細間さんを連れて駆け落ちをなされました
それが主人の5代前のおばあさまです
(ごめんなさい、おばあさまのお名前をド忘れいたしました)
そして来たところが岡山の児島と言うところです
なぜ岡山に来たのか
それは野崎家と備後の割鞘家はとても昵懇にしていたからです
広島の浅野藩において割鞘は塩に関する重職を与えられていて
その関係で備後、備前、ぞして赤穂浪士の赤穂
このラインで繋がっていたそうですよ
ちなみに割鞘の菩提寺には忠臣蔵で有名な大石内蔵助さんの
お母さまもお入りになっています
備後の割鞘、備前の野崎さま、そして赤穂の大石家
不思議なご縁を感じますね
駆け落ちしてきたおじい様は児島の野崎家を頼ります
そして、迨暇堂のお隣に家を建て居を構えます
今は観光客に向けて解放していますが
昔は迨暇堂への出入りはできませんでした
が、割鞘の家族は出入りをしていたそうです
ただ、子供たちが(おそらく義母)が
下駄を履いてお庭を走り回るものですから
野崎家の苔番(庭の苔を管理する係の人)にいつも叱られていたとのこと
そうそう、割鞘の紋は上り藤と書きました
駆け落ちしてきたおじい様はさすがに割鞘の紋どころを付けることを
躊躇われたのだと思います
あるいは、主人のように堅苦しい家が嫌いだったのかも
おじい様は紋をお変えになりました
『五三桐』
太閤さんのご紋で有名ですが、
実はこのご紋は野崎家のご紋なんです
5代前のおじい様のお墓には藤ではなく『五三桐』が付けられています
家を捨てて新しい歴史を作ろうとなさったのかもしれませんね
割鞘家には代々そのような変わり者がいらっしゃいます
主人のひいおじい様は周囲の反対を押し切って農家の娘と結婚されました
割鞘千代さん
そして、主人
私のような学歴も何の取り得もない者と結婚してくれました
私の時もご先祖と同じ状態でした
歴史は繰り返しています
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