2012-06-15 18:03:30

第5 第1回目喰うき放火計画に対する反論   第6 第2回目喰うき放火計画に対する反論

テーマ:ブログ

第5 第1回目喰うき放火計画に対する反論

このことに関してはあまり内田、片岡から語られていませんが、私の反論は2つ。

1つめに片岡の証言によると、第1回目の放火謀議が溝渕との間でなされたのは「平成22年11月26日午後ころ」とのことです。(片岡第4回公判調書11頁)

平成22年11月26日といえば放火があったとされる平成22年12月2日未明の6日前です。

しかし片岡は逮捕当初の自供書においては、第1回目の放火謀議が溝渕との間でなされたのは「放火の数週間前」と述べています。(片岡第5回公判調書88項)

また内田は第1回目の話し合いが行われたのは12月2日の1週間前から10日前ぐらいと述べています。(内田第2回公判調書30頁)

私の反論2つめは片岡の証言によると、溝渕との間で行われた放火の謀議は合計3回であり、第1回目の参加者は内田、片岡、溝渕の3名、第2回目、第3回目の参加者は内田、片岡、溝渕、に宮本を加えた4名、とのことです。(片岡第4回公判調書12頁)

しかし片岡は逮捕直後の自供書において、初めて放火の謀議がなされた際の謀議参加者が「溝渕、片岡、内田、宮本」の4名である旨を記載しています(片岡第5回公判調書87項、88項)。

 

法廷での発言と捜査段階初期での内容には大きな違いがあることは上記のみではありません。

そして捜査段階の後期になるにつれ供述は変遷していき他の者との証言が一致するような現象が多く見受けらました。

 しかし、そういった部分のほとんどを検察側は彼らに証言をさせなかったたのですが、裁判では上記のように供述の変遷が弁護人によって多数明るみにでました。

第6 第2回目喰うき放火計画に対する反論

一回目の話し合いの次の日かその次の日に第2回目の放火計画が行われたと述べています。(内田第2回公判調書31頁)

 その第2回目の計画で内田、片岡は実行犯は宮本にこの話合いで決まったと述べています。(内田第2回公判調書33頁)(片岡第4回公判調書14頁)

私の反論は2つ。

1つめに、実行犯に指名されたとする宮本は放火のことを12月1日の昼に初めて聞いたかもしれないと述べています。(宮本第3回公判調書67~68頁)

普通に考えて実行犯に指名された人がその話合い自体があったかを覚えていないということがありえるでしょうか・・・

 2つめに、一方で宮本は「喰うきを燃やしてグループホームを建てるみたいな話を放火するということ自体初めて聞いたときにそういう話を聞きました」と述べています。(宮本第5回公判調書62頁) 

 仮に宮本が第2回目放火計画に参加しているとすれば内田、片岡からもこの第2回目の話し合いで保険金の使い道としてグループホームをたてるということを聞いているはずです。

しかし内田はグループホームについて調書でも公判でも第2回目の放火計画に限らず一切述べませんでした。

 片岡にしてもグループホームをやるという話は放火の後にでたと述べています。

(片岡第5回公判調書73項)

コメント

[コメントをする]

コメント投稿

一緒にプレゼントも贈ろう!

Amebaおすすめキーワード