2011年1月23日 曽我逸郎
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日本の平和教育・平和運動は、かえって戦争の苗床?
…足立力也さんのコスタリカの本を読んで


 軍隊をすてた国、コスタリカの人々の平和の受け止め方、平和への取り組み方は、日本とは随分違うようだ。

 「唯一の日本人コスタリカ関連フリーランス専門家」(ツイッター上の英文プロフィールを和訳)、足立力也さんから著書を頂いた。『丸腰国家−軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略』(扶桑社新書)、『平和をつくる教育―「軍隊をすてた国」コスタリカの子どもたち』 (岩波ブックレット)、『平和ってなんだろう―「軍隊をすてた国」コスタリカから考える』 (岩波ジュニア新書)の3冊である。
 『丸腰国家』は既に興味深く読んでおり、軍事的な側面についての考察の比重が高かった。その後に書かれた『平和をつくる教育』、『平和ってなんだろう』を読んでみると、コスタリカにおける平和をさらに広い視点から捉えておられる。

 コスタリカの5年生の女の子に「平和って何?」と尋ねると、「民主主義、人権、環境」と答えたそうだ。コスタリカの人々にとって、平和は、自由や人権や環境問題などと一体となったテーマなのだ。民主主義・自由が保障され、人権が尊重され、自然環境・暮らしの環境が守られていることが平和なのだという。

 著者の足立力也さんは、「消極的平和」、「積極的平和」という概念を提示している。日本の平和教育は、戦争の恐ろしさ、悲惨さを教えるというものがほとんどだ。(しかも、少なくとも公的な場においては、悲惨な目に遭ったのは主には日本人であり、日本が近隣諸国にもたらした被害が生々しく語られることはほとんどない。)これを消極的平和とすれば、コスタリカの平和は、「自由に意見を述べ合うことは楽しい」、「お金の心配をせずに医療を受けられるのは安心だ」、「豊かな自然があれば気持ちが安らぐ」というように、ポジティブで広い意味を持つという。

 最近の日本を考えてみれば、「隣の国が攻めてくる、軍備を増やしている、怖いぞ、危ないぞ」と言われると、人々はすぐに不安にかられて、抑止力にすがろうとする。沖縄の人達があれだけ苦しめられているのに、米軍を沖縄に留めようとする。「消極的平和」教育が、戦争への恐怖ばかりを植えつけ、逆効果を生んでいるのではないだろうか。被害者意識のみを助長し、かえって抑止力の論理と軍備拡大競争を招来し、戦争の危険を高めているように思える。

 それに対して、コスタリカの場合は、米国の裏庭と呼ばれ、クーデターや紛争の頻発してきた中米の真ん中にあって、内戦への反省から1949年に「恒久的組織としての軍隊はこれを禁止」(コスタリカ共和国憲法12条)した。その後、隣国ニカラグアに逃れた反対派が2度にわたって攻めてきたり、ニカラグア内戦に巻き込まれそうになったこともあった。しかし、住民の決起と、なにより米州機構や近隣諸国に理を訴える懸命の外交展開によって、軍隊をすてたまま独立を守り、逆に今ではそれを国の強みにしている。

 戦争が恐ろしいのは、爆弾やミサイルよりも、戦争によって自由に発言することができなくなり、周囲と同じ行動しか許さない社会に変質することだと思う。それによってますます戦時体制は強化され、戦争はブラックホールのように人々を取り込み、勝つか負けるかするまで災厄は拡大し続ける。一度その方向に走り出したら、途中で止めることは難しい。
 だから、平和を「無戦争状態」として反転的にネガティブに捉えるのではなく、「自由闊達に意見表明することができ、人権が尊重され、豊かで快適な環境が維持されていること」と広くポジティブに捉え、その実現にむけて不断に努力を続けることは正しい。

 足立さんは、「点の平和」と「線の平和」ということも言っておられる。日本の平和概念は「点の平和」で、個人やグループや地域や国に争いのない状況を意味する。コスタリカにおける平和は、「線」というより「ベクトル」と言ったほうが分かりやすいと思うが、民主主義・自由・人権・環境などをさらに充実させていく不断の運動とも言うべきものだ。

 勿論コスタリカとてパラダイスではない。貧困や差別の問題もある。環境破壊もある。麻薬などの犯罪もある。しかし、平和を消極的にではなく、積極的な目標として捉え、その実現を目指そうという意識が広く共有されているから、希望がある。日本のように、平和が特別の記念日や特別の教育プログラムの行事の中だけに閉じ込められるのではなく、生活の様々な場面や制度に、「平和=民主主義、自由、人権、環境」という考え方が浸透している。

 例えば、投票所に行けば、子供たちが待ち構えていて、ひいきの候補者を宣伝しながら、手を引いて案内してくれるそうだ。若者の政治への無関心が問題になる日本で、そんなことがあり得るだろうか。選挙や政治が、誰もが主体的にかかわるお祭りであり、子供たちも楽しんで積極的に民主主義実践の現場に参加している。
 刑務所も日本とはまったく異なる。罰を与える場所ではない。囲いも簡素で、店や公衆電話があり、パートナーと気兼ねなく過ごせる部屋もあるという。犯罪を起こすのは、自分の人権が尊重される経験が乏しかったために、人の人権の大切さの理解が不十分であるからであり、刑務所では、自分と人の人権の大切さを分かってもらうことが重要という考えだ。(私の理解する釈尊の縁起の教えに通底すると思う。)

 軍隊をすてて、半世紀以上努力を重ねてきたコスタリカは、今では平和と人権を武器に、周辺諸国に対して、また国連などの国際舞台で、積極的戦略的に主張し、支持を広げ、地位を高めている。
 これこそが、本来日本が歩むべき道ではなかったのか、と考えさせられた。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。(日本国憲法前文より)

日本国憲法 第二章 戦争の放棄

(戦争の放棄と戦力の否認)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 読み返してみると、コスタリカの明るさ、鷹揚さは、私の文体では、再現できていない。ご自身でご一読頂ければありがたい。3冊とも中川村図書館に置いています。

(2010年12月6日)

2011年2月8日 加筆

 『週刊金曜日』2011年2月4日833号に、伊藤千尋氏がコスタリカに関する記事を書いている。
 足立力也氏も言及していた、7年前、大学生の身で、当時のコスタリカ大統領のイラク戦争支持を憲法違反として訴え勝訴したロベルト・サモラ氏が、弁護士となって来日し、各地で講演した。
 憲法裁判所の判事が政治的に選ばれるようになり、その結果裁判に偏向がみられ、コスタリカの平和憲法への脅威になりつつある、との内容。
 背景として、ふたつの状況がある。ひとつは、ニカラグアとの国境紛争。もうひとつは、麻薬取締りを理由とする米軍の駐留である。
 昨年7月以来12,200人の米兵が駐留しており、これはアフガニスタン派遣部隊の半数にあたるという。さらに、沖合いには軍艦46隻、加えて空母2隻が強襲用ヘリコプター180機を搭載し遊弋している。サモラ弁護士は、米軍駐留は反米色を強めるベネズエラを睨んだ布陣かもしれない、と懸念し、米軍受け入れを平和憲法違反として訴訟している。
 昨年7月27日、「2020核廃絶広島会議」のレセプションで、私は、コスタリカ大使館の方に「米国との関係はどうですか。いろいろむずかしいのではないですか」と尋ねたのだが、「麻薬の対策とか、いろいろあってややこしいのよ」と口ごもっておられた。事情を知らない私にはピンと来なかったが、まさに米軍駐留問題が最もホットな時期での質問だった訳だ。
 当然のことながら、コスタリカも世界政治のパワーゲームの渦中にある。様々な圧力を受けながらも、ぎりぎりのところでは、大原則を曲げず、筋を通して、世界に範を示して頂きたい。
 日本にそれができていない現状において、コスタリカに大いに期待する。

2011年3月7日 加筆

 2月初旬、コスタリカから帰国途上の足立さんにtwitter DMで教えていただいた情報を、遅まきながら掲出します。

 ちょうど昨日コスタリカでロベルトと会って直接話をしたところでした。現在帰国途中、ニューヨークです。米軍は去年7月から12月まで、12000人の兵員でコスタリカに来ていました。 元々今回の「オペレーション」の計画が12月までだったので、また次回、ということになるかと。社会の雰囲気作り…コスタリカ人に軍隊を「慣らす」のが今回作戦の最大の目的のひとつです。

以上