非科学的な非科学狩り(パート2)

この問題にはかなり色々な反響が寄せられた。批判(まあ罵倒のようなものも含めて)があるが、どれも、統計的な証明(としての科学的な証明)は個別事例(この状況にある私)を絶対的に拘束しないという本論の趣旨に向けられたものではなかった。とすると、批判は主に二つの観点からなされることになろう。

それは本論でも取り上げたが、手段の有効性の比較の問題である。ほかにとりうる有効な手段が予測できるのに、それが採用されないまま、科学的証明のない療法に没頭するのは不適切というものだ。これはすでに本文中でも認めているように、私も同意する。そしてその有効性の評価をする有効な手段が科学であるというのにも同意する。

しかし問題は、そういう有効だと思われる手段が尽くされてもなお効果が見られないときに代替的手段がとられる場合、それは妥当かというものだ。もしくはそうした有効な手段と平行して代替的手段を採用するのは妥当かというものである。ここでその代替手段の個人的採用を否定(もしくは禁止)する科学的根拠は存在しない、というのが私の趣旨である。なぜならある療法が今ここにいる私に効果なしという証明はなされていないからである。(ちなみにある種の医師は代替的療法をかならずしも全否定しない。私の耳鼻科の医師も色々やってみて下さいと言っていたし・・)

もう一つのあり得る批判は、その代替手段の危険性についてである。これについては、現状に様々な問題が生じていることは承知している。しかしそれは、科学的証明のある薬物についても同様である(というかこちらの方が作用が強い場合が多いのでより厳しく問われるべきである)。どのような療法においても、その実行に伴う危険性について十分に気をつけるのは当たり前のことである。危険性には無論、経済的・社会的リスクも含まれる。

科学的に効果が証明された薬物ですら、だれにでも万能の効果を上げるとは限らない。いわんや代替的手段にはそうした万能性はない。そうした万能性の主張を代替的手段がなすならば、それには批判が必要であろう。

このように考えてくると、経済的・身体的リスクに配慮し、医学的なものを含む他の有効な手段を実行しつつ(ないしはその後に)、個人的な効果を期待して、代替的療法を採用することについては、否定の余地はないように思われる。それでもなお、効果の科学的証明がないからという理由で、そうした代替療法の採用を否定するならば、それは科学の限界を超えた主張となってしまう。そういう意味でそれは非科学的なのである。

代替療法にかんする情報をツイッターでやりとりすることもまた、そうした条件の下では十分にありうることである。誰にでも絶対的に効きます、という主張は先述の通りおかしいけれど、私にはこれが効いた、という情報は貴重なものである。試してみる価値があるからだ。

ここまで書いて、しかし考えるに、問題は科学的証明という関心の世界(科学的世界)と、自分が抱える病さえ何とか治ればいいという生活者の関心の世界(生活世界)とは異なる、ということが最も大切なことなのだと思い至る。生活者が、代替的療法を「一つの手段」として適宜利用し、結果的に状況がよくなったからと言って、それは科学を、そして科学を信頼する人々を否定するものではないのである。