少年誘拐殺人ホルマリン漬事件
【事件概要】
1957年4月2日、東京・中野区の中学1年の少年(12歳)が銭湯に行ったまま行方がわからなくなり、2日後に身代金を要求する脅迫状が届けられた。
4月9日、少年と銭湯で知り合った男(当時26歳)が殺害し、バラバラにしていたことが発覚した。
林邦太郎
【「殺されるかもしれない」】
子どもを戻してもらいたかったら、午後4時までに東上線鶴ヶ島駅へ15万持って来い
※消印は落合長崎局
|
1957年4月4日午後、東京・中野区に住む主婦のもとに一通の手紙が届いた。2日夜、区立中学1年生の息子A君(12歳)が「風呂に行く」と出たまま帰っていなかった。
主婦がすぐに警察に届けなかったのには訳があった。すでに離婚していたとは言え、A君の父親が当時有名だったプロレスラーであり、「アメリカでプロレスを学ぶ」と言って行方不明となっていたからである。まもなく失踪届が出され、失踪宣告の期限が過ぎたため自動的に離婚が成立した。そんなことがあり、主婦は警察沙汰になればスキャンダルになるということを恐れていたのである。
主婦は夫が出て行った後、板橋で旅館を経営していたが失敗しており、家を売却して3月下旬に中野に引っ越してきたばかりだった。
脅迫状を見た母親はすぐに野方警察署に届け、犯人の指示通りに埼玉県の鶴ヶ島駅まで出向くことにした。もちろん近辺に刑事が張り込んでいたのだが、犯人は現れなかった。2通目の脅迫状も届くことはなく、捜査は行き詰まりを見せた。
A君と銭湯で一緒になった同級生は事件の数日前に、彼が30歳くらいの丸顔の男に背中を流してもらっていたのを目撃していた。A君は後で同級生に「さっき僕の背中を流してくれたあの人に、僕は殺されるかもしれない」と笑いながら話していたこという。
この直後にA君の行方がわからなくなっただけにきわめて重大な証言であったが、男の特定はできなかった。
【発覚】
4月9日、中野署に南多摩郡(現・多摩市)の都立桜ヶ丘保養院の精神科医から電話が入った。中野区に住む患者の自宅に、バラバラの少年の遺体があったという言うのである。
中野区桜山町(現・東中野3丁目付近)に住む日本棋院七段名人の長男・林邦太郎(当時26歳)は精神を病み、桜ヶ丘保養院に5年入院していたが、自宅で療養していた。
ところが4月4日ごろから再び精神状態が不安定となり、6日から再入院した。診断の最中、林は異常な言動を繰り返したため、不審に思った医師はこの日林宅を訪問。家族とともに林の四畳半の部屋に入ると、室内に血痕が散らばっていた。
畳をあげて床下を調べてみると、大型の金魚蜂と熱帯魚用の水槽が2つずつあり、金魚蜂には頭部と両足、水槽には胴体と両腕が収められていた。さらに蓋をパテで密封し、ホルマリン漬にしてあった。医師はこれを見て警察に通報したのだった。
警察が林宅に急行したところ、バラバラ死体はもちろん本物で、A君のものであることわかり、林は逮捕された。
【理想の少年】
林は明治大学商学部を卒業し、しばらく中野区立図書館でカード整理のアルバイトをしていた。働きぶりは真面目だが、通りすがりの男の子らをいきなり抱きしめたり、家に連れ込んで暴行を加え、泣く様子を眺めて楽しむなど、近所の人からは変質者と思われていた。
猫に対しても同様の愛情を持っており、多いときで20匹、事件直前は12匹の猫を飼っていた。だがその12匹を皆殺しにし、バラバラにして、半分ほどは食べてしまった。
そして刃物類にも興味を持っており、小刀、短刀、包丁、剃刀などを収集していたりもした。
4月1日、林はノートの最初のページに次のようなことを書いた。
ついに捜し求めていた理想の少年を見つけた。住所・氏名を聞いた。必ず連れ出そう。必ず。
|
同級生に「殺されるかもしれない」と言ったことからA君は銭湯で会った林に脅威を感じていた。だがなぜか男と「明日会おう」という約束を交わしてしまい、彼の家までついていってしまった。
少年を家に連れ込むと、林は両親に「銭湯に行け」と家から追い出した。A君の服を脱がせて裸にしようとしたが、嫌がったため、殴った。A君は鼻血を出して倒れたが、起き出したところを玄関に叩きつけて殺害した。
遺体は2日がかりでバラバラにした。この頃のことをノートには次のように書いていた。
4月3日、ちょっとイタズラしたくなった昼過ぎ、こどもが欲しければ15万持って鶴ヶ島駅へ来いと書いたはがきをポストに入れた。それから渋谷に行き熱帯魚を撃っている店でガラス容器を4つ買った。今夜も徹夜で死体の処理をしたが、父や母は気づかなかった。
|
そしてA君の様子について書いた大学ノートの最後のページにはこう記されていた。
金魚蜂に入ったあの子は、見ても見ても飽きるということがない。ホルマリン漬けになったあの子は生きているときより、いっそうかわいい。親父たちがいるから、もったいないけど昼間は床下に隠す。でも隠す前には必ずサヨナラを言うんだ。でも、別れの旅に、つらい・・・
|
林は精神鑑定を受けたが、「責任能力は認められる」とされ、58年7月16日に懲役10年の判決を受けた。その2年後に週刊誌に「模範囚として過ごしている」と消息が報じられたという。
リンク
≪参考文献≫
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 勝利出版 「犯罪学入門 ちょっと怠屈している人のために」 野坂昭如監修
新人物往来社 「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」 新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」 青弓社 「殺人評論」 下川耿史
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
|