女子中学生2人が米軍の装甲車にはねられて死亡した事件は2002年6月13日午前10時45分に起きた。京畿道楊州郡の道路で、友人の誕生パーティーに向かう途中のシン・ヒョスンさん、シム・ミソンさん(いずれも当時14)が米軍第2師団キャンプハウスに所属する第44工兵隊の架橋運搬用装甲車にひかれ即死した。
当時、韓国はサッカー・ワールドカップ(W杯)韓日大会の最中。事故当日は対ポーランド戦で1勝目を挙げ、祝賀ムードに包まれていた。W杯関連の記事が洪水のように報じられ、事故は大きく注目されなかった。
しかし、同年11月20日、在韓米軍軍事法廷が、業務上過失致死の罪で起訴された米軍兵士2人のうち、見張り兵のフェルナンド・ニノ兵長に無罪判決を下したことから、世論が沸騰し始めた。2日後には、運転兵のマーク・ウォーカー兵長にも無罪判決が出た。米軍事法廷は、2人の間の通信障害が事故の主因であり、2人の責任を問うことはできないと判断した。その後、インターネット上で批判世論が急速に広まった。米軍当局が2人を直ちに出国させたことも韓国国民を刺激した。それを契機として、女子中学生2人の命を奪った悲劇的な交通事故は、反米運動の導火線となった。
当時、事件に抗議し、死亡した女子中学生を追悼するため、黒いリボンを着用する運動が生徒たちの間に広がった。また、ソウル市内の光化門でろうそくデモが始まった。当時民主党の大統領候補だった盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏は、一連の動きを積極的に活用した。大統領選直前の12月7日、盧武鉉氏は日刊紙の1面にろうそくの写真と共に女子中学生を追悼する内容の広告を掲載した。
大統領選の3日前に当たる12月13日には、ブッシュ米大統領が金大中(キム・デジュン)大統領(いずれも当時)に電話をかけ、女子中学生死亡事件について「深い哀悼の意と遺憾の意を表明する」と述べ、謝罪した。