それは、それまで電話などで頻繁に話をするようになっていた日隅さんが、ある日、ふと漏らした言葉がずっと胸に引っかかっていたからだ。
「上杉さん、私は、私がこの世に生きていたという証拠がひとつだけでもほしいんですよ。肉親も弟だけですし、元新聞記者だけど、新聞は私のことは絶対に書かないでしょう。でも、何か、存在したんだという証拠を残したいんです」
当時、それは東電会見に通うことであった。だが、私はもっと具体的な形で「日隅一雄」というジャーナリストがこの世に存在したということを残したかった。そこで、改めて二人だけで会ったとき、日隅さんにこう「お願い」したのだ。
「日隅さん、日隅さんにお世話になっている自由報道協会ですが、おかげさまで来月に1周年を迎えます。そこでアワードを行う予定なんですが、そのことでお願いがあります。その大賞に、日隅さんのお名前を冠としてつけさせてもらえませんでしょうか?」
日隅さんはしばらく黙っていた。本当に不思議な沈黙だった。そして、俯いたままこう聞き返してきた。
「無名の、まったく無名の私なんかでいいんですか?」
私は頷き、そしてさらにもう一つのお願いをした。
「ありがとうございます。受けてくれるんですね。もう、取り消せませんよ。ということで、来月末に受賞式がありますから、そのプレゼンテーターとして出席ください。代理出席は認めませんからね。絶対に出席してくださいよ」
1月、自由報道協会賞の準備で徹夜続きの事務局に一本の電話が鳴った。外国人女性が英語で話す電話は奇妙なものだった。
「ポストに封筒を入れました。すぐ見てください」