よしこの「めっ!」

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「存在している構造」が、全てに優先する。
無意識にそういうことをしていると、心が荒んで、顔も冷たくなってくる。

これは、福井について、私がふと思ったことだ。

例を挙げて行きまする。
●同級生の女性「子供が出来たら、入るの?」私「え?」同級生の女性「子供が出来たら、入るの?」私「え?ええ??」
「子供が出来たら、旦那さんの家に、入るの?」
本来、入るの、だけでは意味が通じないはず。
ところが、嫁ぎ先の家が、主語として省略されても成り立っている。
これは、嫁ぎ先の家というものが、「存在している構造」を構成しているからではないだろうか。

●同学年の男性「俺の住んでるあたりやと、形だけでも結婚式を挙げていないと一緒に住めんらしい」
ある地域で、結婚前の同棲はよくない、という観念が残っているらしい。
この話を、幼なじみの女友達にした時に言われたこと。
「それはね、そういうものなんやよ。」
それ、という代名詞が強烈な意味を持っている。
それ、とは、まさに「存在している構造」のこと。

●あるお母さん「○○君が、お嫁さんをもらうんだって。」
2001年頃に聞いた言葉だが、この言葉に対して私が違和感を持ったのは、
現代なら、○○君が結婚する、が普通の言い方だと感じるからだ。

●中学生「先生の言っている意味はわかりました」先生「じゃあわかったんやな」
私「いいえ、わかりません」先生「何でわからんのや」
教師の言っている言葉の意味を日本語として理解すること=それに従うべきと理解したこと
になっている。とても奇妙だ。
この教師にとって、自らは「存在する構造」の側、強制的に服従させる力を持つものの側にいる存在なのだろう。

ここまで、
嫁ぎ先の家、自立した個人による結婚という意識が薄く妻をお嫁さんと捉える傾向、義務教育における教師、
これらが「存在する構造」を構成し、
「そういうもの」という代名詞で語られるものがとても強い拘束力を持つことを示した。

次に、選挙についての事例を挙げていこう。

●教員「どこの組織かによって、投票先は変わるわよねえ。教員なら、民主党、とか」
私「え、そういうのあるの?個人で投票先を選んでいる地域があるよ。」
教員「え、そんなところあるの。」
組織票が強い、どころではない。仕事や所属先によって、投票先が決まるという感覚が当たり前に存在している。
「存在する構造」が、個人の投票する権利に優先している状況がある。

●「婦人会なんかがね、おじいちゃんおばあちゃんを家までバスで迎えに来て投票所に連れて行って、投票が終わったら、はい、お疲れ様でした、ってお弁当出したりするのよ」
公職選挙法の公布前の話だと信じたい。
今も、婦人会が集票組織になっている町内はありそうだ。

●「労組なんかやと、会社で候補者の名前を書く練習させられて、家族の分まで投票を約束する誓約書を書かされるんやで」
ここまで来ると気分が悪くなってくる。

個人の考えで投票に行くという感覚が薄く、
誰々が言うから、お世話になってる先生やから、うちはどこどこで働いてるから、で投票先が決まりがちになる。
怖いほどに、「存在する構造」が優先している。
婦人会、商工会議所、原発マネーの恩恵を受ける多くの企業、農協、
これらが保守王国、福井の自民党の集票パワーになっている。
福井県は、民主党が歴史的な大勝を得た前回の衆院選で、鳥取・島根・高知とともに、小選挙区から民主党当選者が一人も出ず、小選挙区で当選したのは全員自民党だった。
民主党の現職の立候補者が都道府県庁所在地
で落選した、唯一の県であった。

「存在する構造」が個々の人間より最優先する、という仮説に至った理由は、これだけではない。
昔はあちこちの田舎で見られたような光景が、なぜここまで根強く残っているのか。
さらに記述していく必要がある。

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