よしこの「めっ!」

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福島第一原発事故で、原発タブーが吹き飛んだ。
少なくとも、「全国」で吹き飛び、ネット上では完全に吹き飛んだ。

隠したくても現実に起こっているので全ては隠蔽できず、大手マスコミが次々と、原発事故を報道し、
メルトダウン・炉心溶融などタブーとされてきた言葉が紙面に踊り、
今やマイクロシーベルト、ミリシーベルト、の単位がニュースに出てこない日はない。

だが、原発タブーが未だに吹き飛んではいない場所がある。
私の知る範囲では福島と、福井だ。


本当にすっきりさっぱり吹き飛んでいれば、
福島でマスクをせずに日々の活動や除染作業が行われることは無かった。
県外へ避難しようとする人が悪く言われ、こっそり夜逃げするように出るようなことも無かった。
政府が県民を避難させず除染を続け、安全だという誤った情報を繰り返し流す。

それでも、ネットや本、県外の知人の声、タブーが消えた場所から正確な情報が入らないはずはない。
正しい情報を得て避難する人は後を絶たず、避難したくても出来ない人々が大勢いる。

私がここで取り上げたいのは、避難しようとする人が疎外されること。
「安全だから避難しなくてもいいのに」ではなく、「あなただけ避難するのはずるい」という疎外。
暗黙の了解で避難した方が良いとわかっているのに、自らその行為を疎外し、避難出来なくしている、
このことにとても恐怖を覚える。


福井はというと、福一事故に対する反応は、まず「福井県じゃなくて良かった」だった。
県内の原発で同様の事故があれば、ただでは済まないとわかっているのだ。
福井県内では、原発立地県として、長年に渡る情報統制が続いているのに、
県民は、本当はやばいと自覚することが出来ている。

福井にも昔から原発に反対してきた人、3.11以降脱原発に立ち上がった素晴らしい勇気ある人達がいる。
なのに、未だに原発タブーが完全に吹き飛ぶことは無い、という奇妙な状態が続いている。
それでも、原発について口に出来ない雰囲気が依然として残っている。
本当に安全だと信じているなら、原発銀座であることを誇りにして、堂々と身内でも外でも口に出来るはずなのに、とてもおかしい。


福井と福島に共通するのは、
人々は危険だと気付いているが、その一方で誰も危険だと公に口に出来ない、という奇妙で恐ろしい状況。
火事の危険を察知したら、戦争が来るとわかっていたら、堂々と危険だと叫んで逃げるのに。
逃げられるのに、逃げられなくしている、何かがある。

同調圧力だ、田舎だから、原発立地県は情報統制されてきたから、と言うことは簡単だが、
私はそこに、原発誘致が決まった時から始まる、「存在する構造」があるのではないか、と考えている。
それは、まだわからないもの、語り得ぬもの、であり、
「存在する構造」というネーイングはあくまで探求が進むうちに変わりうるものだ。

「存在する」は、確かに福井と福島に共通して、存在し、作動しているから。
「構造」は、他のどの危険とも異なる対応を、生命の危機への反応よりも優先してとる、という明らかに動物的ではない、人間の理性が行うレベルの判断をさせているから。「あえて黙る」作用を起こすもの。
そしてこの「存在する構造」は、共に原発立地県である福井県と福島県にあり、しかも、原発以前には有り得なかった。

福島の人々が生命と健康の危機に晒され、避難を進めるべき今、あえて私がこんな思考をしてブログを書いているのは、
万が一、福井県で原発事故が起きたら、今の福島と同じ状況になることが予想されるからだ。
今、福島の事故を見てやっと多くの人々が原発の危険性を認識し、日本の全ての原発が停止するに至り、
世論に反した再稼働への圧力とせめぎ合う中で、
本当は原発なんか無い方がいいと思っている県民が、再稼働を手伝ってしまうという現象が起きるのを、ものすごく危惧している。


リアルに原発がそこにあって、いざとなったらやばいという現実的な危機感があって、それでも逃げない。
無意識に、又は意識的に、逃げない。
本人にもどうして反射的にそうした反応をするのか、理由を挙げてみることは出来るけれど、
実はその根源が何だったか、当たり前過ぎて、よく判らなくなっているのではないだろうか。
そんな気がしている。

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