エア科学の論理構造

世の中には疑似科学批判というのがある。それは、ある主張の「肯定」が科学的資格を満たしていると主張するものに対し、それはその基準を満たしていないから科学とは呼べないと批判する。たとえば占星術が科学だといえばそれは科学の基準を満たしていない、というように。トンデモ批判というのはだいたいこれに当たる。

こうした疑似科学批判と並ぶものとして、「エア科学批判」というものを提案してみたい。それは、ある主張に対して科学の立場からなされるある種の「否定」が、じつは科学の基準を満たしていないという批判である。

3.11の震災以前に原発は危ないと私が主張すると、いわゆる科学的立場を自称する人々から(多くの場合匿名で)そういう主張は科学的に誤りであると否定されていた。ようするにトンデモ扱いされていたわけだ。

その否定とは、たとえば放射性物質は5重の壁によって閉じ込められているから外に漏れることはあり得ないという素朴なものから、チェルノブイリと違って日本の軽水炉はそれ自体安全だというもの、リスクシミュレーションによれば原発が大事故を起こすのは数万年に一回だという研究があるとかいう批判である。そういう批判をする人はたいてい、原発のPRセンターで勉強しろとか、この本を読めとか、お前はリスクシミュレーションをしたのかその論文があるなら読ませろとか、原子力の専門家からなる学会の権威を否定するのかとか、無理難題を言ってくる。原子炉の安全性の研究をしていない素人が、どういう根拠で原発は危険だというのか、その根拠を示せないかぎりお前の主張はトンデモである、というのである。

実際に原発が爆発すると、そういう主張はかたちを変えて主張されはじめる。市民が自分たちの住んでいるところを自前のガイガーカウンターで測定すると、その測定方法は学問的基準を満たしていないから無効であるとか、原発の危険性や経済的な非効率性を主張すると、その主張の一部に科学的に誤りがあるからその主張は全体として無効だとか言い始めている。原著論文を引用で示せとか、対立する学説を有効に批判できていないとか、そもそもこの人は専門家でもないのに専門外について発言しているとか、これまた無理難題である。

 

この手の「科学の立場からの否定」は、科学の条件を逸脱する「エア科学」である。エア科学は科学の権威主義である。まずエア科学の判定基準をはっきりさせよう。

第一に、エア科学は、出来事の「可能性」を否定する。そういうこともあるかもしれない、と市民が言う(不安に思う)と、それは科学的にあり得ない、と即座かつ断固として否定する。科学の法則なり理論というのは、定められた条件の下で、有限の実験によって、暫定的に主張されているものに過ぎない。工学や医学の安全基準だって例外ではない。

その限定条件を解除した現実世界において、出来事が生起する可能性を完全に封殺することは、科学にはできないのだ。エア科学は、現実の出来事の可能性に対し、すでに承認され体制化された理論の側から、それと矛盾する個別の経験(の可能性)を攻撃する。本来の科学は可能性を理論によって頭から否定せず、それにさしあたり中立的な立場をとり、一定の実験や測定の枠組みの中でそれが再現できれば、理論(考え方)を修正するよう学会に働きかける。

エア科学は引用に基づく推論(理論)によって現実の因果関係を判断してしまう。よくネットなどで様々な実験結果や調査を引用して、それを推論して一定の結論を提示する文章を見かける。なかにはほんとに説得的な文章もあって感心させられるが、しかしその文章が現実の出来事についての因果関係を結論部で否定しているのを読むと、ちょっと待ってといいたくなる。その理論は、これこれのデータによればこういう結論が導き出せるという推論を展開しているだけで、その推論が依拠している(引用している)もとのデータの信頼性や、それとは異なる調査結果が存在するかどうかについては、何も述べていない。科学的推論はそういうある種の限界をつねに持っているのであって、そういう推論で因果関係そのものに最終的な判断を下すことはできないのである。

理論は現実の因果関係についての、ある種の(説得力が相対的にあるかもしれない)「読み方」を提示しているのである。いかなる説得力のある推論も、それ以外の読み方の可能性を前提にしており、したがって現実そのものを代理する資格を持っていない。そういう理論の仮説的・可能的性格への自覚がない学的主張は、エアの疑いをかけられるべきであろう。様々なデータや推論の可能性があるのに、科学的に安全性が証明されているから事故は起きません(健康に被害はありません)といった主張はエアの典型である。

第二に、エア科学は、部分の否定によって全体を否定する。原子力に批判的な発言をする学者や評論家、市民に対して、その一部に誤り(曖昧さ、論理の不完全)があるからこいつは信用できない、という論理構造をとる。甚だしいのは、放射能というあいまいな言葉を使っているからこいつには科学リテラシーがない、したがってその主張は無効だというものである。とにかく、主張の本筋ではなく、本筋とあまり関係がない細部の業界用語法などに「科学的」にこだわって、人格全体の信用を失墜させようとするわけである。言葉をとがめて人の資格を尋問する、身柄を逮捕する。科学の憲兵化と言ってもいい。本来の科学的な態度は、「主張」のうちの妥当な部分と疑わしい部分を見極めて、部分的・限定的な批判をする。

第三に、エア科学は、専門業界内の基準をそのまま市民に適用して、市民の言説や行動を抑圧する。市民やジャーナリストが自分で測定した数値を公表すると、それは不完全な測定だからデマを流すなという。市民が危険を感じて避難したり、それを勧めるようなことをいうと、それを危険だと証明する根拠がどこにあるのかを科学的に示せと市民に要求する。加えて、危険が科学的に証明されていないのに大騒ぎするなと市民の社会的行動に説教する。要するに市民蔑視、素人蔑視である。科学が市民の行動を科学的見地から一方的に指導できるという構図、つまり社会の学校化に無反省なのがエア科学の特徴である。

科学的な態度とは、つねに複数の可能性を認めつつ、科学の基準から見れば不完全な報告でも、それを頭から否定するのではなく、その報告について実証・反証を試みるものである。たとえば市民の測定で高い数字が出たのならそれを科学業界で正当だと認められる手続きに従って専門家が再測定するべきであろう。市民の測定ではこう出ましたが、私たちの測定ではこうでしたと公表することである。それができないなら、市民の測定を否定せずに、その数値の「可能性」に謙虚であればいい。市民の曖昧な用語法や論理に対しては、専門的な立場ではそのことはこのように表現します、とか、その考え方は科学ではこのように解釈できます、こういう可能性もあります、とか言えばいい。避難を勧める市民には、こういう研究もあればこういう研究もあると、複数の情報(考え方)を科学はわかりやすく提示すればいい。「無知」な市民を蔑視するのがエア科学で、市民の良識の一部として、それに奉仕するのが科学だ。

エア科学という名称は、「エア御用」という卓抜なネーミングから拝借させて頂いた。エア御用とは、経済的な利害関係もないのに、体制の一部である安心感や優位感を消費するために、みずからすすんで社会的に優勢な側に立ち、それを自我のプライドの支えとするありかたらしい。空気(エア)を読んで、強いものの一部となり、弱いもの、不完全なものをいじめて自我を存立させる、というわけだ。エア科学もエア御用も、人そのものではなく、それぞれの振る舞いに適用すべき概念と言える。御用学者がいるわけではなく、学者の御用な振る舞いがあるだけである。私もときにエア学問な振る舞いをしたい誘惑に駆られるし、実際にそういう振る舞いもしたこともあると思う。しかしエアな振る舞いをしていると、確実に科学は、そして学問は市民の信頼を失う。なぜならそれはとても空虚なものであるからだ。