経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」


 既にオープンさせた4店舗から更に出店していくには、人の育成まで任せるべきだとは感じていた。ただ、自ら育てた幹部たちが、同じように本気で若手従業員にぶつかっていないように思えた。深夜のミーティングで「なんでできんのじゃ!」と幹部たちに涙ながらに訴える回数が増えていき、1年間で焼肉店を含めて2軒の出店しか進まなかった。
 つぶれた飲食店の後に出店して、什器や備品をそのまま使って初期経費を抑えているので収益化は早く、毎日の売上で現金が入るので資金は回っていた。しかし、100人を超える従業員たちのもめごとやその家族の相談ごと、交通事故を起こしたり、退職を言い出す生え抜きの幹部…。それら全てに一人で対応し、疲れ切っているはずなのに眠れない日々が続く。満を持してオープンさせた新規店で久々に調理場に入ると包丁が思うように使えなくて、「俺はもう直接指導できんのや…。人を育てられん…」と愕然とした。
 そして、32歳のある夜、突然声が出なくなって深夜に病院へ駆け込んだ。診断結果は重度のうつ病。それでも休むことなく通常業務に戻ったが、「もう人に任せていくしかない」と腹を括って、幹部たちに店の設計や仕入れ、採用などの会社全体の業務を引き継ぎ始めた。特に、「もやしを育てたらアカン、社会を生き抜いていける人間を作っていくんや!」「マニュアルを作ったら予想外のことに対応できんようになる」と熱心に語り続けた。
 経営者というもののプレッシャーの重さを初めて理解した幹部たち。やがて、体当たりで若手従業員を指導するだけでなく、自主的に「ももじろう」での働き方を社員に伝えるミーティングも始めた。翌年には本社ビルを購入し、店舗は8店にまでなっていた。


社員旅行先の福井にて
社員旅行先の福井にて。激務をこなす従業員の慰労のために、その家族にも参加してもらう。

 2001年、狂牛病の影響で焼肉店の来客が半減しても、「お客さんを信じていつも通り頑張ろうや」とだけ励ました。すると、幹部たちが次々と対策を実行に移して、以前から築き上げていた客との信頼関係をもとに3ヵ月後には通常売上に戻っていた。焼肉をあきらめて居酒屋に改装した競合店の経営者に、「従業員が違いますわ!」と胸を張って答えた。
  2002年には、それまでの徹底的にディープな接客を少し控える方針で、150席を有する大型店「ぷち・ももじろう」を開店させた。「この店が成功したら人も育ちやすくなって、一気にチェーン化ができる!」。調理のシステム化は図っても、接客はマニュアル化せず、「ももじろう」の接客の原点だけを忘れずに運営をしていくと売上は自然と伸びていった。
  やがて、幹部が育てた若手従業員たちにも店長を任せてみた。その彼らがときにはビンタをしながらも、一人ひとりのスタッフに熱く語っている。「俺が直接指導していない連中が、俺とまったく同じ姿勢で働いている…」。その光景を見るたびに感動で胸が熱くなった。
  2003年以降は毎年4〜5店舗の出店を続けた。SARS騒動から来る緊張でうつ病が再発しても、今度は安心して幹部たちに仕事を任せてすぐに病状は回復した。経営が思わしくない飲食店の情報がどんどん集まり、それを幹部たちと視察して出店を決めれば、あとはわずかな指示だけで開店準備が整い、すぐに繁盛店になる体制が既に完成していた。
  「本社から30分以内で駆けつけられる場所にしか出店しない」。そんな信念を貫いて、ついに2005年には店舗数が20を超えて京都No.1になった。将来を期待していたある社員の希望で大阪にも進出。「経営者を育ててきたはずや」と自信をもって全てを任せると、知名度もないのにたった3ヵ月で黒字化させてくれ、いよいよ目標は関西制覇に広がった。
 父の愛情に恵まれず育ち、無我夢中で働いて手に入れた大金と自由。それを投げ捨ててでも生きる目的を見失った若者たちに真剣に向き合い、彼らが心寄せる場を提供してきた。今も膨大な仕事を次々とこなす一方で、従業員やその家族の記念日を祝い、夜になると各店の従業員たちを引き連れて朝方まで話を聞き、ときにはぶっ飛ばす。40歳になったら会社は任せて、ハワイで楽しく居酒屋をやりながら孤児院経営などができればと思っている。


(記載内容は2006年6月時点における情報です)